最果ての空を見る

夢月七海

最果ての空を見る


「トードリィの魔法で、一番度肝を抜かされたのは、彼女の卒業研究結果ね」


 私の向かいに座るシィエーウさんが、グラスを片手にとろんとした目で語り掛ける。さっきまで船をこいで眠りかけていたのに、急にシャキリと座り直していた。

 私も、母の名前が出てきたので、姿勢を正す。母一人、娘一人でこの家で十五年も暮らしてきたけれど、私は母が若い頃のことを殆ど知らない。慣れないお酒でぼうっとしていた頭を振って、一生懸命耳を澄ました。


「あの子が、とんでもない天才だってことは、リゴもよく知っているでしょ?」

「ええ、もちろんです」


 困ったような笑みと共にシィエーウさんが言ってきた。私も、「地元の魔法学校始まって以来の神童」ともてはやされた母に関して、色々と言われた身なので、心に苦い思いが過る。

 シィエーウさんは、母と同じ学年だが、飛び級したので、母よりも年下だ。そんな彼女は今現在、魔法道具開発者として活躍中で、書いたものが動く魔法のインクを発明し、名誉開発者に選ばれるほどの天才だった。


 そんなシィエーウさんが、「初めての挫折」と語った母との出会いとライバル心の芽生え、一方的に競ったが惨敗し、相手は本当の天才だと認めるまでを、お酒を飲み始めの頃に聞いていた。私は、母は本当にすごかったんだなと誇らしく思うと同時に、影のような後ろ暗さが濃ゆくなっていくのを感じていた。

 学生生活最後の年、妊娠した母は、卒業後に決まっていた世界一の魔法研究所の就職を蹴って、地方にあるこの町に戻り、私を生んだ。周囲の期待と裏腹に、母ほどの才能を持っていなかった私の劣等感は、何とか城下町の魔法学校に合格し、母の本音を聞くことで少しずつ溶解し始めていた。


 その矢先に、母が殺された。今でも、その一報を聞いた瞬間の、足元が崩れて落ちていくような絶望感を思い出せる。犯人は捕まり、極刑を受けたが、母は帰って来ないのだという悲しみと苦しみは、五年経っても残っている。

 それからずっと、私は将来を悩み続けていた。学校に入ったばかりの頃は、母がなれなかった魔法の研究者に、と思っていたけれど、それを見届けてくれる母がいない現在、その夢を叶えても、と考えてしまう。


 ……急にシィエーウさんが黙り込んでしまったので、様々な思いが胸を去来した。ふと、周囲を見回す。五年ぶりに帰ってきたこの家は、一見綺麗だけど、棚に埃がうっすら積もっている。

 別の家に住んでいる祖父母が、母のいないこの家を定期的に掃除しているのだが、手が足りていないようだった。今夜、ここに祖父母はいない。元々不仲だった私と祖父母だが、母の死をきっかけに、その亀裂は決定的となってしまった。


「——そうそう、風船だったのよ、あれは」

「え、風船?」


 急に、シィエーウさんが誰かに相槌するように言い出したので、思わず聞き返した。自分の太腿を見るように俯いていたシィエーウさんは、顔を上げて私を見ると、優しくにっこりと笑う。


「トードリィの卒業研究。赤い風船に、びっしりと魔法陣が書いてあるのよね」

「その風船の役割は何なのですか?」


 想像はできるけれど、全貌が全く見えてこない母の卒業研究のことを尋ねると、シィエーウさんはその気持ちもよく分かると言いたそうに何度も頷いた。

 そして彼女は、「これをこの星だとするとね」と言って、左手で拳を作り、そのてっぺんから右手の人差し指を接触させてから、上へ離した。


「こう、風船を空に放つと、箒とか空中汽車とか、そういうのも飛んでいない空域まで浮かんでいくの」

「ええ」

「その後は、風船が星の上を飛び続けるのよね。最果てを目指して」

「最果てを……」

「でも、丸い星に最果てなんてないじゃない。だから、地平線や水平線に向けて飛び続けるけれど、また新しい果てが見えたら、そこへ向かうって、ずっとずっと、永遠に飛び続けるのよね」


 シィエーウさんが風船に見立てた右人差し指は、左手のこぶしの周りをぐるぐるぐるぐる回り続ける。理屈は分かるけれど、疑問は大量にあるので、私は「あの」と訊いてみた。


「それは、風を受けて動くのですか? 風船の中の空気が抜けてきたらどうするんですか?」

「うーん。そこもちゃんと説明していたけれど、ちょっと覚えていないわ。魔法陣を解き明かせば、分かるはずよ。あ、でも確か、」


 首を捻っていたシィエーウさんが、急にぱっちりと目を見開いた。


「その風船の魔法陣の中に、見える風景を飛ばせるものがあって、それを覗ける専用の眼鏡があったわ」

「ええー、すごく手が込んでいますね」


 流石母だなぁと感心する私の前で、シィエーウさんはパンと手を叩いた。


「そうよ、その眼鏡、この家にまだあるんじゃない?」

「え、学校にあるんじゃないのですか?」

「卒業式の後、希望すれば研究も返ってくるのよね。トードリィは自分の研究に固執するタイプじゃなかったけれど、苦労したからか、珍しく返してもらっていたわ」

「だとしたら、母の部屋にあると思いますよ」

「じゃあ、探してみましょうよ。せっかくの機会だから」


 自分の思いつきにときめいたのか、鼻息まで荒くして、シィエーウさんが立ち上がった。そのまま、「トードリィの部屋、こっちよね」と言いながら、ふらふらとお歩き出す。私も慌てて、彼女に続き、母の部屋に入った。

 母の部屋は、この家で一番手つかずの場所だった。埃と黴の臭さが鼻を打つので、真っ先にシィエーウさんが窓を開けた。私は、壁の魔法陣に触れて、灯りをつける。部屋が一瞬、真っ白に輝いた。


「この灯りも、トードリィのお手製のものじゃない? 普通のよりも明るいわ」

「その通りです」

「やっぱり。これを商品化したら、かなり儲けるのに」

「でも、母は商売っ気の無い人でしたから」

「そうよねぇ」


 シィエーウさんと苦笑し合いながら、母の部屋を見回す。窓に面した机以外の壁は、天井に届くほどの本棚が置かれて、その中身も本や紙類や箱類でぎっしりと埋まっている。

 でも、見出し付きで整理されていたので、目的の物は探しやすかった。学生時代と書かれたシールのある棚を調べると、「これこれ」とシィエーウさんが嬉しそうに片手で持てるほどの長方形の箱を取り出した。


 彼女が蓋を開けると、縁なしの丸眼鏡が収まっていた。レンズは透明ではなく、薄墨色だ。よく見ると、細々とした文字が書き込まれていて、一瞬ぞっとした。


「さ、リゴ、かけてみて」

「え、でも、」

「ほら、遠慮しないで。私は前に見たから」


 にこにこ笑って、シィエーウさんが眼鏡を半ば押し付けてくるので、仕方なく受け取った。でも、すぐにはかけられない。

 もしも、風船が割れたりしていたら。そんな最悪の状況を想像していしまう。しかし、目の前のシィエーウさんがそんなことを微塵も疑っていない様子で、このままだと、母にも失礼だと覚悟を決め、眼鏡をかけた。


 あっと、息を呑んだ。見えていた。私にも、最果ての空が。

 ふわふわと揺れる視界の先では、青い海と水色の空が交わる線が、半円を描いている。頭を上へずらすと、薄かった水色が、少しずつ青さを深めていた。足元の海と、色合いは殆ど変わらない。そして、右手側に目を向けると、真っ白な光の塊となった太陽が、これでもかと輝いていた。


「どう? すごいでしょ?」


 すごい、と言ってしまってもいいのだろうか。もっとふさわしい感動を表す言葉がある気がするのに、シィエーウさんの一言に、頷くことしかできなかった。

 そして、直後に思ったことは、残っている、ということだった。母はいない。でも彼女が生きていた証は、こうして、ずっと残っている。


「私、この魔法を再現したいです」


 自分の決意を呟くと、自然と視界が滲んだ。それでも、眼鏡の中の眩い青色は、目を刺してくる。

 シィエーウさんが、「いいわね」と笑う声だけが、聞こえた。




















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