第21階層。

上階での依頼の連鎖はどうにか断ち切れ、俺達は暫く平穏な日々を取り戻すことが出来た。

20…何日か。何でも屋は、何でもやるから忙しい。だからその間はずっと洗濯、お使い、力仕事、隠れんぼ、クルッケル…長閑な下層階の為の様々な仕事に従事した。

そう。疲れが取れればまた直ぐに、欲求が衝動になって湧き上がって来る。人間とは酷く我儘で愚かなんだ。

上に行きたい。

あれからずっと思ってる。第20階層以上へ行ってみたい。

チェスタやビスカでさえその活気に当てられるような…きっと、今まで見たこの町のどの階層よりも熱の溢れる領域。

もう何十日も過ごして来て一つの手掛かりも掴めないこの辺りの階層より余程、きっと何かは転がってる可能性が有るんじゃないかって思ってる。

脱出の手掛かりと、俺が何者なのかを思い出せるような切っ掛けが。

でも俺の所為で上階の依頼に時間と気苦労を取られ、その癖プリマの為とは言え俺の我儘を聞いて早上がりをさせてくれたチェスタは、もう暫くは俺に暇を与える気は無いだろう。

だからもう少しの間は我慢するか…若しくは、口実でも出来れば良いんだけど。

下の階の奴らの為に、上に行かなきゃならないような口実が、何か…。


『悪ぃなぁあまた手伝って貰っちゃってぇえ!』

家と家の隙間を通って、広大な青空へ。喧しい声が、今日も元気に抜けて行く。

『…別に。それが仕事だから。』

手の無い腕で箱を抱えることはとても難しい。でも棒を肩に担ぐことなら、片手が有れば出来るんだ。こんな運び方が在るなんて、知らなかった。

今日は第1階層の坂の脇に在る大きな牧場で、マミム小屋の大掃除の手伝いをする予定だった。でも今朝になってカストルがいきなり仕事を依頼して来て、俺だけこっちに来ることになった。

第1階層の釣り屋、ライズからの急ぎの仕事。母なる海から釣り上げた命…この見たことの無い新種の魚達を、是非上の階層まで伝え繋げて欲しい…とか何とか。

要するに、ライズが捕まえた種魚を上層階の養殖屋に分けてやるんだ。上の階層には海が無いから、食べられる魚は全て養殖された物。この島は人が住み始めてから百何十年も経つ癖に、未だにちょくちょく新種の魚が発見される。ライズは下層階の奴らの為の食材用の魚だけではなく、新種を見付けた時は育てる為の魚も捕まえて上層階の人々に海の恵みを届けようとしてやってる。

肩に担いだ棒の両端に甕を吊るすと、天秤みたいで平衡を保ち易い。生きた魚をそっと運ぶには、確かにこの方法が最善な気がする。

『こんなに手伝って貰っちゃあ、お前が運び屋になったみたいだなぁあ!…いや、俺が何でも屋になったのか?ははははぁあ!』

『何だよそれ…。』

こいつは相も変わらず喧しくて一方的だ。人って、共に過ごしてそいつのことを知る程、印象が変わる…若しくは第一印象が間違いだったと気付くことが有るのに、こいつは全く変わらない。初めの衝撃のまま。煩い。勝手。それだけなんだ。

『はは……お前が来てから、なんだか楽しーなぁあ。』

嗚呼……手前勝手だ。

お前の平和を、俺に押し付けて来るなよ…。

『そんな訳無いだろ…。』

カストルは機嫌良くふざけたステップを踏みながら歩くけど、腰をくねらせて上半身は常に安定してる。やっぱりこいつはどんなに馬鹿だとしても、運搬の玄人だ。

俺は素人だから下手なことはしない。慎重に、でも確実に歩を進めながら。

甕の中では偶に魚がちゃぷっと跳ねて、虚を突かれることが有る。

ライズは自分だって被害者の癖に、ミズルと同じことをしては居ないか?只泳いでただけの魚を釣り上げて、海と言う故郷から離れた、空の近くで暮らさせるなんて…魚達は、自らの力で大海に戻ることは叶わないだろう。

魚の境遇に自分を重ねてしまったら、憂鬱になるだけだ。この魚が上層階で繁殖したら人々の腹を満たし、ライズの思惑通り人間の役に立つことになるのだろう。ミズルは呪いの力で人々を攫って、何が目的なんだ?

ほら、魚と被害者は同じでは無い。ミズルに目的なんか無い。只の理不尽なんだから。理不尽は打破されるべきだ。だから俺は諦めない!

運搬に適した広くて上り易い階段を探しながら第11階層まで来るのも、もう慣れたもんだ。第11階層には海や大地で獲れた新鮮な食材も運ばれては来るが、中低層階の台所を担う第12階層に賄うにはそれだけでは到底心許無いので、養殖屋や畑も点在してる。

『カストルぅー、おっせぇーよぉー。』

11階層中程に在る養殖屋にて待ち構えてたのは、わざとらしく腰に手を当て爪先をパタパタと鳴らしながら黒髪を靡かせる男。

トロイメラ…あの、大運搬の日以来だ。相変わらず鋭い目付きで、なのに気怠気で、締まりの無い喋り方。

『すまないすまないぃい!手が足りなかったもんだからぁあ、急いで何でも屋に依頼しに行ったんだよぉおおっ!ルクスが来てくれたからぁ、助かったんだぁあ!』

『……ルクスぅ。』

トロイメラが、ギラッとこちらを見遣る。何を思うのかは推し量れないが、余り良い気分がしないのは何故か。

こいつが俺みたいな被害者のことを御伽話のような、見せ物を眺めるような目で見てるって思えるからなのかも知れない。

『ルクスが運んでくれた分は此処で引き渡して、こっちの魚は31階層のミグマリオの養殖屋まで…頼むぞぉっ、トロイメラぁああっ!』

『いや…俺はこの後まだ仕事があるんだよぉー。だから第18階層でポルクスに引き継ぐ…ったく!お前ぇーが18階層まで一気に持ってけば良ぃーだろぉーポルクスがうるせぇーんだよぉー!』

『俺もこの後は帰りがけに酒を預かって、第2階層のキンに届けてやらなきゃなんないんだよぉお!ポルクスには、よろしく言っといてくれぇ。』

『…ちっ!めんどくせぇー…!』

第18階層か……ハルルはどうしてるんだろうか?あの後も幾つもの死体が鳥に啄まれ…ミズルの元へ、帰って来たんだろうか?

ミルハンデルにもゴードルンにも会ってない。プリマと酒場で大きな魚をつついたあの日から、第12階層以上へは足を踏み入れることが出来てない。

『よっし…というわけでぇ、俺は酒屋に寄らなくちゃならないからぁ、ルクスは先に何でも屋に戻ってくれても良いぞぉお!手伝ってくれてさんきゅうううっ!』

『…じゃあ、そうする。』

マミム小屋の掃除はまだ終わらないだろうか?何せ大掃除なんだから、全部のマミムを退かして普段はやらない隅まで掃いて大童に違いない。

『ルクスぅー。』

トロイメラが徐に呼び止める。片手を腰に当て身を屈めるような様ですら勿体振って見えるのは、恐らくこいつならではだ。

『何だよ…?』

こいつが俺に、何の用だ?外の世界の話にしか興味の無いこいつが、何の記憶も持って来られなかった重症者の俺に。

『……なんか、思い出せたぁ?』

『は…?』

……こいつ…そんなに、外の話が好きなのか?

『否……話せるようなことは、何も…。』

俺は何も悪くない筈なのに、何処と無く不快だし、後ろめたかった。だから顔は俯けて、身体は元来た道を振り向いてもう帰りたがってる。

『そぅかぁー…じゃあな。』

…不愉快だ。俺の、きっと掛け替えの無い記憶は、生気の無い町で暮らすお前の為の退屈凌ぎなんかじゃ決して無い筈だ。

でも俺はこいつのことを嫌いになることが出来ない。この町で暮らす限り。こいつが運び屋として各階層をうろうろする限り。俺が何でも屋を続けてカストルに助っ人を頼まれる限り。俺が、こいつが、この町で生きる限り。つまり…俺が外の世界へ帰ることが叶うまでは。

だから、言われなくても思い出してやるよ。奪われた物は全てきっちり返して貰ってから家に帰るんだ。お前達から借りた町じゃない…本来の俺がこの手に持ってた、俺の故郷へ。

だからその時に、序でにだったら、お前に話してやらなくも無い。

きっと素晴らしい筈の、俺が生まれた世界の話。


水と魚で満たされた2つの甕を、棒に吊るしてずっと左肩に担いで階段を上って来たんだ。手ぶらで階段を駆け下りる解放感が堪らない。

今日は一際快晴だから余計に気持ちが良い。外周の道を通り抜けたら海風まで爽やかで、気分を切り替えることが出来た。この後マミム小屋で、マミムの獣臭さに汗を掻くことに甘んじてやらなくも無い。

第1階層に在る、恐らくこの町で一番広い牧場は、港の程近くに広がってる。町の端の方なので日当たりもまぁ悪くないし、マミム達は伸び伸び過ごせてるのかよく肥えて声もでかい。

外周から回って来たから牧場の隣の坂ではなく、町の奥に聳える山道から第1階層へ下る。

聳えると言っても、第7階層と同じくらいの高さで、最早すっかり町に取り込まれて建造物の一部と化してる…湧き水を採ったり石や植物を採ったりする『施設』のような扱い。

山道から目線を逸らすと、町に隣接するイズリンガルの林が見える…広大に見えるけど、きっと外の世界のそれと比べたら虫けらの世界のように小さな庭の筈だ…。

この道を下り終えたらまた仕事だ。そしてそれさえこなせば今日の仕事はお終いだろうから…気合いを入れて、何処か懐かしい気もする砂利道を蹴って、前を向く!

向いたら……スーピーと目が合った。

『あ……ルクスくん!』

山道の終着点には広場が在る。家を重ねるしか手段が無かったこの町の人々が、わざわざ空けて憩いの場と定めた僅かな隙間。皆の為の場所なんだから、この町の為に働く掃除屋で在るスーピーが、その手に常に持つ毛の生えた棒を振るわなくてはならない場所で在る。

そんなスーピーが、そんな場所で困ってる。いつも見せる輝く笑顔は鳴りを潜め、眉は下がり難しい顔をしてる。

スーピーの心中を推し量る。『困ったことが起こった。何でも屋に依頼しに行こうと思ったのに…何で選りにも選って、こいつだけが先に一人でのこのこやって来るんだ?』とか…

『選りにも選って』とか『のこのこやって来て』とか、流石にそんな嫌な奴じゃないか……あんな笑顔を出来る奴が。

『スーピー……何か、困ってる…?』

こんな顔をされて、何でも屋として聞いておかない訳には行かない。こいつは本当は、チェスタかビスカに聞いて欲しかったんだろうなとか思ったとしても。

『あ……えへ。ありがとう。そうなの…いま、そこに住むおじいちゃんに言われてきたところだったんだけど…。』

言われて見回して気付いたけど、広場の輪郭に並ぶ家々の前では、古くから此処に住むので在ろう爺さんとその隣に住む婆さんがこちらを…広場の真ん中を、気遣わし気に見守ってる。

首の向きを戻す序でに爺さん達の視線を辿ってみて……やっと見付ける。確かに俺は注意力が無いところが有るけど、それだけが悪い訳じゃない。

余りにも大き過ぎる物は、例え視界に入れたとしても認識が難しいことが有る。『見る』とは視界に招くことではなくて、輪郭を捉えることなんだ。

『これ…お片づけしてほしいって言われたんだけど、あんまりにもおおきくて…どうしたらいいかわからなくて…。』

『見る』と『理解』は、また別の話だ。

輪郭を捉えることに成功したとて、この物体が何物なのかは分かんない。

でかい……でかいとしか言いようが無い。まるで家だ。

家って言ってもこの町の、一番小さな家くらいの大きさ。便所も風呂も公共施設で、料理もしないこの町の家は、寝床が一つ置ければそれで満足な住民も多い。

溝みたいな色をしたふわふわの毛で覆われた、丸い家……

そんなの、家な訳が有るか!

『………チェスタ達を、呼んで来る。』

爺さんにも婆さんにも、スーピーにも、俺にも……こんなの、一人でどうにかなんて出来っこ無い。

皆が皆、皆の為に、手と手を取り合うこの町で……

誰かが困れば、それは皆が集まる合図。


第6世代…この町が始まった頃から代々マミムを飼い慣らしてきた家系であるルーバー曰く、『うちのマミムはこの町で一番の良い子ちゃんたちさ。これまでも、これからもずっと!』。

秘訣は愛情と意思疎通、とか何とか。常に間抜けな面をしたあのマミムと心が通じるとか、想像も付かないけど…。

そんな良い子ちゃん達のお陰だったのか、俺が走り着いた頃にはもう大掃除は一段落付いてて、チェスタとビスカはルーバーと一緒に牧草の上でのんびり麦茶を飲んでたんだ。

事態を説明…って言っても、俺も何が何だかまだ分かっちゃいないけど。話しながら広場に戻って来て……改めて遠目から毛の生えた家を見付けたら、やっぱりでかい。でか過ぎるし…面白い。

正体不明の謎の巨大物体が突如として現れるなんて本当はとても不気味な事態の筈なのに、大きさの程度が過ぎるだけで何だか酷く滑稽で阿呆臭い光景に見える。

『スーピー!一体何なんだー…これは…?』

『あっ…!チェスタくん、ビスカくん…!』

やっぱりチェスタはプリマにもそうで在るように、スーピーに取っても一番頼りになる兄なんだ。ほんの少しだけ、笑顔に明かりが取り戻った。

『あのね、なんなのかはまだ全然わからなくて……こわいから、さわることもできてないの……ごめんなさい……。』

直ぐに申し訳無さそうに目を伏せるスーピーの頭を、チェスタは優しくぽんぽんと撫でる。

『それは、仕方がないなー…不用意に触れたら、何が起きるか分からないからなー。よし、ビスカ!』

『……はいはい。』

何でも担当の俺に来るかとも思ったが、此処は身体担当のビスカが指名された。チェスタは、滅多なことでは自ら動かない。

巨大な毛玉に向き直ってみたものの…ビスカは、きっと何処から触ったら良いか分かんない。それに、やっぱりちょっと怖いんじゃないか?俺だって、やれって言われたら嫌だ。

毛が生えてる…ってところが怖い。皆うっすら思ってる……生き物の可能性が有る。こんなにでかい生き物なんて、只の怪物だ。

ビスカの長い腕が、そろりと伸ばされる。チェスタに怒るビスカの顔はしょっちゅう見るが、何かを嫌そうにするビスカの顔は中々見ないかも知れない。

大きくて骨張る癖に滑らかなその手が、溝色に沈み込むと

『…………は?』

ビスカの目は点のように丸くなり、見たことの無い間抜け面になった。

『ん……え?は………はぁ……………あー……うん…?』

驚いてるのか、気持ち悪いのか、顔を歪め頼り無い声を上げながらも…次第に無心に弄り出す…!

『ん?ん?ん……?いや…うーん……は?あれっ…?』

『ビスカ…?ビスカ!どうしたんだ!大丈夫かっ?』

自分からやらせた癖に過保護に心配するチェスタは、間延びすることも忘れビスカの夢中な腕を掴む。

『はっ……!あ、チェスタ…!』

『ビスカー…心配をさせるな!やはり、生き物なのか…?』

『いや、ごめん。大丈夫だ…大丈夫だけど……よく、分かんなくてさ……大丈夫だから、お前も触ってみてくれよ?』

『えっ!?』

ビクリ、と固まるチェスタ。

『………何でも担当ー!』

『はぁっ?』

チェスタは滅多なことでは動かない。チェスタが動こうとしないってことは、まだこの場が滅多を保ってるって証で……平和と言えば聞こえは良いけど、呑気と言えばこのリーダーは無責任だ。頼りになる兄は何処に行ったんだ?

『これは分担だ…お前、何でもやるといつも言っているじゃないか!』

『そうだけど…頭脳担当が触らなきゃ分析しようが無いんじゃないか!?』

『おい、二人とも…そんな、喧嘩するほど危険そうな感じじゃないんだけど…本当によく分からないんだよ。ルクスが触って大丈夫そうなら、チェスタも触ってみてくれよ。』

『えぇ…?』

『えー…?』

二人して似たような不服の声を上げて、何だか癪だ。我儘を言ってるのはチェスタ只一人なのに!

…まぁ別に、触って探ることも不気味だけど、正体不明のままいつまでも処分出来無い方がもっと不気味なんだ。やるしか無いか…。

『はぁ……!』

溜息で勢いを付けて、溝色の中に左手を潜らせると……細くて細かい毛に擽られて、怖気が走る…!

ふわふわふわふわ、擽ったくって…柔らかくて、温かい…

……でもこれは、生き物なのか?血の通った生物の温かさなのかと言われると、よく分かんない。兎に角この毛に包まれるだけで温かくて…この温もりが自分の肌から由来する熱なのか、この毛の奥に在るかも知れない生物の体温なのかが判然としない。

ふわふわとした毛がぎっしりと邪魔をして、地肌に中々辿り着けない。どんなに弄っても、ぴくりとも動く気配が無い。かと言ってこれが無生物だなんて、俄かには信じ難い。

『………分かんない。』

ビスカのあの頼り無い声の経緯が良く分かった。こんなの、謎は深まれど、核心には及べない。

『チェスタ…。』

『……ぐぐ。仕方が無いー…!』

愛するビスカの視線にじとりと刺されて、遂にこの事態は滅多なことでは無くなる。

覚悟を決めたチェスタは意外と潔い。心を準備する間も持たず、豪快に右手を突っ込んだ。

『ぐっ……!ん?あ………あ?んー……んー、んーんー…ふむ………いや、しかし……んー……?』

頭脳担当の分析力を以てしても、如何せん判断材料が足りな過ぎるみたいだ。兎に角この毛玉は、ヒントを寄越してくれない。

『……ねぇ。わたしも、さわってみようかな…?』

『…スーピー?』

何がこいつの躊躇を取り去り火を付けたのか、尻込み下がってた筈のスーピーも前に出て来て、気を回すビスカも構わず毛玉の中に左手を沈めた。

『おい、スーピー…大丈夫か…?』

『わ…ふわふわ!…あったかい……気持ちいい…!こんな枕、ほしいなぁ…!』

…成る程、そんな発想は無かった。でも枕にしたら、寝返りを打つ度に毛が口に入りそうで嫌じゃないか?どっちかって言えば、敷布団…否、掛け布団?あ、上着にしたらどうだろうか…?マミムの皮とは違う、柔らかく暖かい上着。否、今はそんなことどうでも良いだろ。

『…しかし、こいつは本当に一体何なんだー?いくら触ってもちっとも動かないが、これだけ大きな謎の物体を人が作ったとも想像し難いしー、かと言って自然界に存在する物とはもっと考えづらい…。』

『生きものじゃないなら燃やしたり海に沈めたりしてお片づけしたいんだけど……どうやって動かしたらいいんだろう…?』

『ここまででかいと、手で持ち上げて運ぶっていうのは何人掛かりでも不可能だよな…押して運ぶか……あ、この広場で焚き火をして燃やすか…?』

わしわしわしわし、もふもふもふもふ。

気付けば4人掛かりで取り囲んで弄りながら、何も進展はしないまま。

もしこいつらも皆俺と同じ心理に陥ってるんだとしたら……ちょっと癖になってきてやしないか?

柔らかな肌触り。弄れば弄る程広がる温かみ。

『ふむー…これだけの物を燃やすとなると大きな炎となり危険だし、出来ればやはり海まで運んでから処理したいところだなー。ビスカ……俺は正直、先ほどからずっと一つの考えが浮かんで離れないんだー…。』

『正直』って、妙な言い草だ。少なくともチェスタの中では、余り採用したくない考えなんだろう。

『何だよ…チェスタ?』

『……この仕事を任せるのならば、拾い屋なのではないだろうかー?』

拾い屋?

馴染みの無い職業だ…聞いたことが無い。

スーピーはぽかんと口を開けて分かってなさそうだけど、ビスカはぱちくりと瞬きしながらも息を呑んで、何かを察したみたいだ。

『拾い屋は何を拾うのかー、拾って何をするのか…何にも拘らずー、拾うことこそが仕事だと言っていたではないか。おそらくこのもふもふが何物なのかー、どれだけ大きいのか重いのかも拘らず、拾って持っていってくれるのではないかー?そう…拾い屋とは、収拾界の何でも屋ー…!』

『おい、会ったこともないやつを勝手に決めつけるなよ…。』

成る程。確かに『拾い屋』とだけ言ったら、何を拾うかは名乗ってない。これが例えば『石拾い屋』だったら石を拾うし『塵拾い屋』だったら塵を拾うが、只の『拾い屋』は何を何処まででも拾いに行かなければおかしい。運び屋が何を何処まででも運ぶようにだ。

『ねぇ…拾い屋さんって、どこにいるの?このへんの人じゃないよね?』

スーピーが知らないのなら、やっぱりそうだ。

急激に胸が騒ぐ。これは良い予感だ。

『あー、うん…拾い屋とは、実は俺たちも会ったことは無い。噂を聞いただけなんだー……第21階層にて。』

胸が躍る……チャンスが来た!

良いかミズル…これはお前が齎した賜物なんかじゃないぞ。きっとその筈だ。これはお前を殴りに行く為の…お前の理不尽に打ち勝つ為の、足掛かりなんだから。

『以前ー…ルクスのツテのために、上の階層で聞き込み仕事をした時になー……第21階層の何人かが同じことを言っていたんだ。『拾い屋に、医者を拾ってきてくれって依頼したらどうだ?』と…。』

流石のこの町だとしても冗談だろ?って思いたいような…随分乱暴な提言だ。上階の自由な人々からしたら、下階の医者不足が如何に他人事で対岸の火事で在ったのかがよく分かる。まぁ、あの時は当事者達ですら酷く呑気なもんだったけど…。

『どうやら拾い屋とは最近飛ばされてきた被害者が始めたばかりのー、新しくあやふやで自由な職業らしい…さながら何でも屋のように、なー。求める物を拾い集めたり、邪魔な物を拾い片付けたりー、拾った物を有効活用出来る者に譲ってやったりなど…どうだー?どんな無茶な物でも、拾ってくれそうな気がしないかー?』

する。否、何せそいつは只の『拾い屋』なんだから。この巨大毛玉も拾ってくれなきゃおかしい。そいつに依頼するべきだ。そして…

第21階層まで呼びに行くんなら、適任は俺だ。俺しか居ない!

『どうだろうな…そんな、都合良く解釈してその通りに話を聞いてもらえるのか…?それに仮にそいつがやる気になってくれたとしても、可能かどうかはまた別の問題だし。』

『ねぇ…20も上の階の人が、わざわざここまでおりてきてくれるのかな…?』

ビスカの懸念も、スーピーの憂慮も尤もだ。でもそんなこと此処で話してたって仕様も無い。取り敢えず動き出すべきだ。俺が一走り21階層まで行って拾い屋を呼んで来て、チェスタ達は此処で別の方法も模索しながらこの物体の調査を続ければ良いんじゃないか?きっとそれが良い。それしか考えられない程に…

『……ルクスー。』

はっ、と呼ばれて首を向けると…チェスタはジトっとした目でこっちを見て、まるで呆れてる。

『だから躊躇ったんだー…お前に、この話をすることが。』

…何だそれ。意地悪ってことか?

否、また不用意に俺を上層へ上らせて、面倒事を持って帰って来られたら堪んないのか?

それとも只…気に食わない?何十日経った今も、聞き分け無く足掻く子供のことが。

『しかしもう間もなく日が沈んでしまうー。今から第21階層に行って拾い屋を探して、ここまで来てもらいこの大荷物を運ぶということは非現実的な気がするー……一晩はどうにか様子を見て、明日から動き出そう。どうだろうかー、スーピー?』

『あ…うん。チェスタくんがそう言うなら、わたしもそうする!全然動かないし、危なくはなさそうだもんね。音やにおいもしないなら、一晩くらいおきっぱなしでもいいんじゃないかな?』

確かに二人の言う通りか。今のところは只々邪魔なだけで、緊急性は少ない。

『…ルクスー。お前が期待するものと同じ方法を採用してやろう。ただし余計なことをして、俺たちの平和を脅かすことをするなよ。』

随分な言い草で、心外だ。

俺を平和から連れ去ったこの町で暮らすこいつらが。

否…俺は、連れ去られる前は何処に居たって言うんだ?

外の世界だ……外の世界は、平和だったのか?

そんなことは無い筈だ。外の世界では戦争をしてて、兵士と言う名の殺戮が蔓延ってた筈だから。

でもそれが俺の日常だった筈で、俺の帰るべき場所は其処で、こんな時が止まった町では無かった筈だ。

その筈だ……俺には、俺の当たり前が在ったんだ。

だからって他人の平和を奪って良い理由にはならない。でも別に俺がこの町を脱出することが、こいつらの平和の崩壊を引き起こす訳じゃないだろう?

日常が壊れることが怖いから惰性には触れるなとでも言うつもりか?その惰性が、他人の日常を奪い続ける呪いだったとしても?

…他人事や対岸の火事を顧みないのはどうやら町民性らしく、チェスタ達も例外ではないらしい。淋しいなんて思ったりはしない。只、心外なだけだ。

お前に言われる筋合いなんか無い。

だから…癪だ。希望通りになるんだから、チェスタには感謝をしなくてはならないんだ。


『いってらっしゃい、ルクス。気を付けて…。』

『…あぁ、ありがとう。行ってくる。』

気を付けて、なんて初めて言われた。きっとプリマに取っても第21階層は未知の領域なんだ。未知とは恐れ、気を配らなくてはならない物だ。

でも、未知ってわくわくする物でも在る。つまり未知って可能性だ。悪いことが待ってるかも知れないし、だから良いことが待ってるかも知れない。

特別早く出発した訳じゃない。拾い屋はどうやら第21階層ではそこそこ名が知れてそうだから、聞き込みしたら直ぐに会えるんじゃないかってチェスタが言ってたから。

チェスタとビスカも今頃広場に向かって、毛玉の調査を再開するんだと思う。動物だって可能性も捨て切れないから牧畜屋のルーバーを呼んで、誰かが作った物なんだとしたら毛皮や毛糸を使ってるんだと思われるから素材に詳しい仕立て屋のヴェロアにも見て貰うって言ってた。

階段を上るのはすっかり慣れた。慣れたんだけど……第12階層、第14階層、第15階層、第16階層、第18階層…擦り抜ける度に、むずむず擽ったい。

ダンダリアンが、ゴードルンが、ミルハンデルが、レストラが、ハルルが…直ぐ其処に息衝いてるって知ってるから。

会いたいのかは分かんない。でも、何だか胸が引き寄せられる心地なんだ。

非常に気に食わない。まるで、俺と言う人間がこの辺りに根差してしまったみたいだ…きっと、気の所為だ。その筈だ…。

第18階層は下の階層と大きな変わりは無い。構成はやっぱり住居が中心で…でも一つひとつの土地が少しずつ広く、建物が大きくなって、人も増えてくる。偶に木や煙突も生えてたりして…

俺はもう確信してる。この階段を上ったら、きっともっと人が居る。

一つ階段を上がって、第19階層を踏む。雰囲気は殆ど変わんないけど、一つだけ大きな施設が見える。あれは何だろう?大きいけど簡素で、扉は閉まり人の出入りも無いから、何をする場所なのか想像出来ない。

気になったけど、一歩踏み出したら直ぐ目の前に第20階層への階段が現れて…そのまま上ることにした。だってこの階段が、何だか凄く格好良く見えたもんだから。

この町に、手摺りが付いた階段は案外少ない。でもこの階段の手摺りは曲線的に切り出したしっかりとした木材を使って、丈夫そうだし、掴まり易い。

鮮やかな赤の踏み板も目を引く。側板や手摺りは素朴な木の風合いをしてるけど、その落差が逆に格好良いし、早く此処を上れって呼び掛けられてるみたいだ。

折角だから手摺りに掴まりながら上った。踊り場まで付いてひと曲がりした階段の先には………街が在った。

一目見て、『街』と言う感想が浮かんできたんだ。

此処には店が在る。きっと勿論、金のやり取りなんかやってないんだろうが…外に開かれた家があちこちに在るんだ。第4階層には無かった…大きな窓に物が飾られてたり、其処から物を受け渡せたり、扉が全ての人に向け開け放たれてたりする家々が。

そんな開かれた家々に、気軽に出たり入ったりする人々。中に居る奴と気安く談笑する通りすがりの奴。窓に飾った物を売り込む為に声を張る娘。

街だ。今まで見てきた、牧歌的で長閑な光景なんかじゃない。

寝る為だけの家が雑然と並ぶ住宅街とはまるで違う。港や牧場とも勿論違う…第12階層とも違う。人出は夕刻の第12階層の方が多いが、何かが違う…。

何だか、ばらばらだ。第12階層に出る人々には食事と言う共通の目的が有ったが、此処を彷徨く人々はどうなんだ?ばらばらに見える…。

街往く人々はばらばらに見えるのに、気が狂わずに居られるのは色が統一されてるからだ。この辺はどうやら階段と同じ素朴な木材を基調に…口裏を合わせて、街作りをしてるように見える。敷かれた道だけが鮮やかな赤。窓枠の装飾や軒先に掲げた看板なんかでそれぞれの個性を細やかに主張をしながらも、それなのに不思議と完成された統一感が有る。

ぴかぴかと光が点滅する、大きな窓の家が目を引く。丁度目線の高さにくり抜かれた窓には装飾のつもりなのか色取り取りの毛糸玉が垂らされて…溝色のあいつを思い出す。中には毛糸で編まれた凝った服を着た布の人形達と、これまた色取り取りの小さな果物達が絶妙な調和で配置されてる。芸術的で…意味が分かんない。これは、誰に何の為に何を見せ付けてるんだ?

『……お兄、さーん。』

『…はっ?』

野太い声が落とされて気付く。いつの間にか、大きな影に包まれてる。

振り返ると、其処には大層大きな大男。ダンダリアンよりもっと背が高い。カストルの3倍くらい鍛え上げられた身体をしてる。カストルは仕事をしてる内に必要な筋肉が付いてきた風に見受けられるけど、こいつの身体は…まるで作品だ。彫刻のように、作り上げた物に違い無い。

そしてその身体を包むのは、果物のように色取り取りの薄くて頼り無い布。

『ソロ男子がひやかしてくれるなんて、めずらぁー。そのベリー、かわちーでしょ?昨日収穫したモンの一部なんだけど、丁度この前ワズから仕入れた毛糸と色がピッタンコカンカンバッチシグーだったから、インスピそのままオールで編み上げてジェシーとベッキーに着せて朝イチ飾り上げたってワケ。』

何の話をしてるのか、さっぱり分かんない。知らない単語ばかりだ。俺が田舎者だからか?これが、都会…?

『なー、中にもっと色んなドールとジューシーでめずらなベリーがあるから、見てく?昨日はホーンに収穫を手伝ってもらっちゃったから、ドッサリ豊作ハーヴェストで……拾い屋って、きっとこんな使い方するもんじゃないと思うけど。』

『…拾い屋!?』

渡りに船だ。まさか、ミズルの賜物なんかじゃないだろうな…?

『…ホーンに、なんか用なん?』

大男が、意表を突かれたように軽く呆ける。

拾い屋の名は、ホーン。

『俺、拾い屋に仕事を頼みたくて第4階層から上って来たんだ。何処に行ったらその…ホーンって奴に会えるんだ?』

この家が何の店なのかはよく分かんないが、客だと思ったらこんなことを聞いてきて、この男に取っては期待外れだったと思う。申し訳無いが、俺はめずらなベリーにもかわちーにもドールにも然したる興味は湧かない。

『第…4階層?そりゃまーはるばると…!拾い屋って、もうそんなに有名なんだー…ウラヤマ。ホーンはディンディイのとこで暮らしてるけど、きっともう出掛けちゃったんじゃないか?毎日色んなとこで色んなモン拾ってるから、どこに居るかはわからんよ。』

『ディンディイ…?』

そうか…失敗したな。確かに『拾う』って、外でする仕事だ。早めに来たらホーンが出掛ける前に捕まえることが出来たんだろうか?呼びに来るだけだとか思って、のんびり観光気分で居たのが悪い。これは一応仕事で、第1階層ではきっと今も困ってるのに…。

『ディンディイのとこなら、案内してやろうか?』

取り敢えず、ディンディイに話を聞いてみよう。家族なんだったら、何処に行くかくらい聞いてる筈だ。

『…ごめん、頼む。』

大男はニカッと歯を見せて、俺の前に親指を突き出してきた…多分、快諾してくれてる。

不思議な奴だな…勇ましい体躯をして太い声で強そうな感じなのに、服やこの店の色合いは女が好きそうな感じで、喋り方は今まで何処でも聞いたことが無いような感じで、表情や仕草は只のおっさんって感じだ。

『ちょい待ちちょんちょこ。』

快諾してくれたと思ったのに、大男は薄赤く丸い扉を開けて家の中に消えてしまった。ちょい待ちは…待ってれば良いのか?ちょんちょこって何のことだ?

多少の暇を覚悟して、もう一度大きな窓を眺めてみた。2体の人形…多分、こいつらがジェシーとベッキーだ。赤と、青と、その間を取り持つ紫がグラデーションで染められた毛糸で編まれてる。言われて見れば、一緒に飾られた果物達と良く似た色をしてる。

この、窓枠を縁取る小さな光が点滅する仕組みは何だ…?

『はい。』

また、野太い声に気付かされて振り返る。あっと言う間に戻って来た男が差し出してきたのは、花のように淡い色をした毛糸で編まれた…何だ、これ?

『良かったらコレ、下層階で女子に見せびらかして宣伝してくんね?男子には分からんかもだが、コレはシュシュって言って…髪を結っても良し、腕に嵌めても良し。忘れずに『ナルティのイチゴ屋をよろポコ!』って言ってけれ!ウチも拾い屋みたいに色んな階で噂になりてぇわ〜!』

こいつの名はナルティ…この店は、イチゴ屋?毛糸で編まれた輪っかを見せびらかして、何がどう苺屋の宣伝になるんだ?

『分かった…。』

分かんないけど、分かんなくても問題は無いと思ったから左手を差し出したら、ナルティが手首に嵌めてくれた。これは拾い屋の家へ案内してくれるナルティに対しての礼代わりなんだから、ナルティの気が済むなら構わないや。

女子って…プリマか、スーピーにでも見せびらかしとけば良いかな…?

『じゃ、行こーぜ。』

ナルティがくるっと身を翻して歩き出すから、俺も追い掛ける。

開かれた家。声を張る娘。見せびらかす為のシュシュ……この町には金儲けなんて概念は無い筈なのに、何の為に必要なんだ?

きょろきょろしながら楽しそうに擦れ違う人々も、下層階への宣伝も、目的が見えない。この都会には、合理が見えない。

きっとこの景色の方が、外の世界により近い筈なのに。

何だか心細くて、不安になってきた。飛ばされたばかりの頃は、店が無くて家しか無い下層階の街並みに違和感が働いてたのに、今はこの活気溢れる街並みがしっくり来ない。こんなことは、きっとおかしい。

この景色を焼き付けて、この空気を取り込んで、思い出せ。引き金に指を掛けろ。

自信を持て。きっと俺は今、故郷へ一歩近付いた。


ナルティの店は、きっと第20階層で一番変な店だ。

服の店、野菜の店、パンの店、酒の店…他の家はどれも、何を出してる店なのかが一目で分かるし、一軒につき一つの題材を提示してる。苺屋と名乗って編み物を出すようなちぐはぐなことはしてない。

でもやっぱり目的は見えない。服屋の向かい側に別の服屋、その3軒隣にまた別の服屋が在ったりする。服屋から出て来た客は別の服屋にまた入って物を眺めて…其処から出て来た奴はその隣の装飾屋に入ったりする。一つの服屋で纏めて見せてくれれば良いのに、どうやらわざわざ店主の趣味に合わせて置いてる服の雰囲気とか客層が違うらしい。頼んだ服を、頼んだ通りに頼んだ分だけ仕立ててくれるヴェロアとはまるで違う。

ナルティが教えてくれたことだけど、装飾屋って店もいまいち理解出来無い。下層階ではアクセサリーらしいアクセサリーを着けてる奴は余り見ない。居たとしても日除け序での帽子だったり、プリマみたいに髪を縛る紐に玉をぶら下げてたりとか、その程度で。第12階層を超えた辺りから、ビエッタの頭の花飾りやハルルの髪に絡むリボンみたいな物も見るようになったけど…装飾屋なんて仕事は初めて見たし、この階を行き交う人々が纏うアクセサリーは、大きな木の輪やビーズが連なった首飾りや、ひらひらしたレースやリボンの頭飾り…特に役には立たず意味が無いってだけじゃなくて、邪魔になりそうで寧ろ生活に支障を来さないかと思う。

この階層で4軒目の野菜屋を左に曲がる。此処は大小色取り取り、形も千差万別なかぼちゃばかりをぎゅうぎゅうに並べてる。さっき通り過ぎた、橙色の農作物ばかり扱う野菜屋にも、かぼちゃは置いてあったのに。

細くて急な階段を上ったから、此処は第21階層だ。雰囲気はかなり似てるけど、開かれてない…店っぽくない家が少しだけ増えて、通路は緑色になった。

緩やかにカーブする外周に沿って進む。まだ太陽は昇りの道すがら、白い光を撒き散らして海面は遠く煌めいてる。

『この辺から見える海、よいちょじゃね?低層階と違って海の香りはだいぶと薄いんだろうが…コレはコレでよきよきでしょー。』

俺はこの町の景色の中ならって話だけど、海と夕べが結構好きだ。だから…

『…うん。良いと思う。』

何を言ってるのかよく分かんないけど、きっと返事はこれで合ってる筈だ。ナルティは嬉しそうに笑ってくれた。

『ふはっ。話分かる〜!…さ、此処がディンディイの…ディンディイと、ホーンの家だよ。』

カーブした通路の途中、海へ向かって突き出した場所が在る。まるで丸い島のようなバルコニーに、この町にしては少し大きめの丸い小屋。

日当たりと風通しが良くて気持ち良さそうな場所なのに、周りには金属の板と、大きくて素っ気の無い金属の箱が幾つか並べられててのんびりは出来そうに無い。風車が一つ、風に煽られくるくる回る様だけは風情が有るが。

『ディンディイ〜。』

ゴンゴンッと鈍く、ナルティが扉をノックする。扉には小さな窓が付いてて、ナルティは其処から中を覗いて確認すると、返事を待たずに開けて入った。良いんだろうか?チェスタの嫌味な怒り方と、ビスカの真っ赤な慌て振りが思い起こされる。

『イロオトコ〜…おまいさんのお客だから、話聞いてやってちょんちょん。』

扉から、真っ直ぐ見える部屋の奥…壁とそれに沿って建て付けられた机の上には、何種類もの計器、それからメモのような張り紙。其処には一人の男が座ってる。首が隠れる真っ白なシャツと、輝く色の髪が眩しい。

金ではない、黄色だ。花のような黄色。

ディンディイは机に向かいながら何やら手元でペンを動かしてる。気付いてないか無視されてるんじゃないかと思ったが、ナルティが黙って待つから俺も待つ。

『………うん、良し。待たせて済まない。』

忙しそうにガリガリ動かした手が急にビタッと止まって、ディンディイは椅子ごと回転して振り返った。さらさらと真っ直ぐな、でも上の方だけ少し跳ねた黄髪が揺れる。

『ぜんぜんおけまる〜。それがおまいの仕事だかんな……でも俺はもう戻ってもおけ?せっかく電球点けてるのに誰も店に居なうし、そろそろペダル漕がなきゃ切れちまうし〜!』

『そうか…其れは勿体無いな。後は構わず行くと良い。客人を案内してくれて、本当に有難う。』

何の話をしてるのかさっぱり分かんない。ディンディイは理解してるみたいだ……変な奴だったけど、忙しいのに此処まで案内してくれたんだからナルティには感謝しか無い。

『ありがとう、ナルティ。』

『どいたま!今度はウチのイチゴちゃんたちもゆっくり見てってけろ。宣伝、よろしくな…イカイカアームボーイ!』

いかいかアーム…?

ナルティは最後まで意味不明な言葉を並べながら別れの合図に大きく腕を振って、豪快に扉を閉めた。

丸い部屋には、色男と二人きりだ。

『ははっ…!イカイカアームとは、今日もナルティの言葉は独創的で心掴まれるなぁ。』

ディンディイはニコニコと楽しそうに笑ってる…確かに、女が好きそうな顔だ。清涼感の有るルートリーや鋭いトロイメラみたいなキリッとした感じとは少し違う。大人で男なのに、何だか甘くて優しそうなんだ。

『お前…あれが何て言ってるのか、意味が分かるのか?』

話し掛けて、初めて目が合わされる。大人の癖にやけに澄んで真っ直ぐだから、俺の気は少しだけ遅れる…。

『否、全く理解は出来て居ない。だが恐らく君の其の重厚な右腕を好意的に評した言葉だと思う。彼は個性を何よりも尊重し愛する嗜好を持つからな。』

確かにあいつは個性が好きそうだ。他人の評価を気にする奴なんて、他人に評価を付けてくる奴なんて下らないとか思ってそうで…これにも少しだけ負い目を感じるのは、何故なんだろう。

『さて。見ない顔の様だが、俺に一体何の用事だろうか?電気に関する話かな?』

『………電気?』

おい……お前まで知らない言葉を使うなよ!

電気って何だ?これは自信が有る。記憶を失う前にも聞いたことの無い言葉だ。頭の何処にも引っ掛からなくて、神経を行使する気にすらなれない。

『あの、俺…拾い屋に仕事を頼みたくて来たんだ。此処に住んでるって聞いたんだけど。』

『…ん?ホーンか!此れは失礼。』

ディンディイは自らの早合点も爽やかに笑い飛ばす。顔が良いだけじゃない…良識を感じる。だからこそ気になる、イカイカアームよりも見当が付かない言葉。

電気って、何なんだ?

『此の町での俺はすっかり電気屋な物だから…態々やって来る見ない顔等全て電気が目当てなのだと思って仕舞ってさ……しかし、拾い屋も名が売れたのだな。君、此の辺りの階層の者では無いんだろう?ナルティに案内されないと俺達の家が分からないだなんて。』

どうやら電気とはディンディイの仕事のことで…こいつらはこの近辺では名の知れた奴ららしい。そして、こいつももしかして…

『今、外の世界では失った肢体は其の様に処置をするのが一般的なのかい?』

……嗚呼。そう言えばルートリーか誰かも言ってたな…こんな腕は、外の世界でも見たことが無いって。

『…ごめん。俺、重症だから…外の世界でどうなのかは分かんない。最近飛ばされて来たばかりだし、気が付いたらこうだったから、何も話せないんだ。』

ディンディイは軽く呆けた後、再び爽やかに微笑む。哀れみなのか、どうでも良いのか。

『…そうか。君は、ホーンと同じなのだな。』

これは唐突で、意外で、聞きたくなかったかも知れない言葉だ。

そりゃ、そんなことも有るか。拾い屋は被害者だってことは、チェスタから聞いて既に知ってた。

『……拾い屋。』

『嗚呼、直に帰って来るさ。彼女も重症だったんだ。只…一つだけ分かった事が有ってね。だから君も諦めずに過ごして居れば、何かヒントが見付かるかも知れない。頑張れ。』

『は?はぁ…。』

少しだけ緊張してきた。

医者ごっこの仕事でミルハンデルやハルルと話してから、そう言えば今まで一度も見えたことの無かった自分以外の重症者と出会うことが怖かった。

もしもハルルが言うように、ミルハンデルがそうしたようにあっさりとこの町の暮らしを受け入れることを空っぽの記憶が助けてくれるんだとしたら…俺のこの足掻きって何なんだ?俺の悲しみと焦燥の正体って何なんだ?

……知るのが、怖い。

『…気を悪くしただろうか?済まない。未知は既知に上書きして置かないと気が済まない性分なんだ。何せ俺は外の世界では、大学にて摂理と言う摂理を追究して過ごして居たのさ。』

『摂理?』

やっぱりこいつも、外から飛ばされて来た被害者だったんだ。『この町ではすっかり』なんて言い回しもそうだし、ちょっと勿体振って小難しい喋り方も被害者っぽい。

『摂理とは、摂理の事さ。神が定めた、此の世の理に就いて…自然の事、生物の事…未だ人知の至らぬ『超常』とされる事さえ。エネルギーも、そんな超常的領域に跨る話では在るね。』

『エネルギー…?』

こんなところで『神』と言う言葉が出てくるなんて思わなかった。『摂理』も知らない言葉だったけど、『超常』も『エネルギー』も良く分かんない。折角ナルティの独特な単語の数々から解放されたのに、入れ違いで結局首を捻ってる。

『ふ…はは。君には、心が躍るなぁ。』

『は?』

三度微笑むディンディイからはいつの間にか、本心を暈した大人の爽やかさの奥に、無邪気さが垣間見える。

『否、重ね重ね失礼を済まない。未知を既知に上書きして置きたいのは性分なんだ。如何やら君の無知も上書きするしか無い。』

ん?この感覚は久し振りかも知れない…

うっかりスイッチを踏んでしまったら、もう止まらない…そうだ、レストラだ。

ディンディイの真っ直ぐな瞳が輝き出す。

『良いかい、エネルギーとは元々…』

拾い屋が…ホーンが戻るのはいつだ?

『ディンディイ…否、ホーン!否ッ……ディンディイイイイイイッ!!』

望んだ途端に時が進み出すのは偶々だ。だってこの声は拾い屋じゃない。酷く喧しい…男の声だから。

『おや、ニレイ…早いな。今、ホーンは出掛けて居るし先客が来て居るんだ。悪いが少し待って…』

『客…?』

ディンディイと似た、でももう少し薄い黄色の髪。年も同じくらいなんじゃないか?多分ビエッタとかルートリーとかレストラに近い。

但しこの、扉を開けるや否やの圧力は凄まじい。年はきっと同じくらいの筈なのに、こいつには『大人』と言う感想は浮かばない。

『……君は。』

『は…?』

ディンディイよりも少し短くディンディイよりも大胆に跳ねた髪を揺らし、ニレイはムッと微かに口を曲げた。

何となく嫌な感じがしなかったのは、拗ねてるみたいで…子供っぽかったからだと思う。

『君は見ない顔だな。電気を求めてやって来たのか?』

『え…?否、俺は…』

『確かに電気の実用は革命と言えるが、エネルギーとは其れを利用し何を成すかだ。詰まり電気の恩恵に与るには何より道具の存在が肝要と言う事…詰まりだッ!君の望みを叶えるには此の天才ニレイの発明が不可欠で在ろう!』

お前もか!電気とエネルギーと…あとはもう、聞き取ることすら出来ない!こいつら良い加減にしろよ!

何なんだ…この階層に来てから、頭が痛くなるようなことばっかりだ!

欲しいと思ってた筈なのに…刺激が与えられたら、記憶が呼び起こされるかも知れないって思ったのに、これ程の単語を浴びせられて何故何も思い出されないんだ?

『ニレイ、彼の目当ては電気では無く拾い屋らしい。今ホーンには一つ仕事を依頼して居て…昨日話した不具合が第22階層のF号の蓄電装置にも見付かったそうだから、朝一で拾いに行かせてるんだ。寄り道して無ければ、そろそろ戻る筈なんだが。』

チクデン装置って言うのも、もしかして電気に関係有る物か?低層階では見たことも聞いたことも無い物なのに…第20階層以上では、電気って当たり前に何かの役に立つ存在なのか?拾い屋も、天才ニレイも関わってる話みたいだ。

『む…む?そうか…其れは、失礼したな…君!』

ニレイは漸く勢いを和らげて、序でに放ちっ放しだった扉をバタン!と豪快に閉じた。そして白い歯を見せながら…差し出すのは、右手。

もう流石にどうすれば良いかは分かってる。でも、ニレイにはまだ見えてない。

『俺は7年前に此の町に舞い降りた天才、ニレイ・ドル・ブラハだ…宜しく!君の名は?』

ニレイ…ドル…ブラハ…?まさか、名前が3つも有る奴が出て来るなんて。

こいつも被害者なのか。自分から天才だなんて名乗って、随分不遜で大した自信だ。それでもやっぱり嫌じゃないのは笑顔で、子供みたいで、害が無さそうだから。

『ニレイ…其の、如何にも君好みの先端に気付かないのかい?』

ディンディイが後ろから助け舟を出してくれると、ニレイの目線は確かめるように下に下がって行って…直ぐに、固まった。

それはそれは、固まった。今までだって驚かれたことは何度も有ったが、こんなにも時が止まるのは初めてだ。

そんなにおかしいか。まぁ確かに奇異には違い無いが、おたまなんて言う意図不明な物が無くなった分、少しは疑問が減ったんじゃないかとも思うんだけど…。

『…ニレイ?彼は、如何やら重症者らしく…』

ディンディイがまた助けてくれようとすると

『君……君。君ィ…ィイイイッ!!』

ニレイは勢い良く跪き、下ろしたままの俺の右腕に縋った。

『何だ此の腕は…君は腕を切断して居るのか?だからと言って何故此の様な処置を施す必要が?必要等如何でも良い。こんなにも重い金属を、吊り下げもせずに如何やって直接肉体に取り付けて居る?とても重厚で質の高い金属だ…合金では在ると思うが、配合は何だ?こんな輝きは見た事が無い…む!此の先端…何か更にパーツを装着して居たのか?さては道具や、武器や、或いはまさか…』

うっかりスイッチを踏んでしまったら、もう止まらない。でも、こいつのスイッチは一体何なんだ?何故こんな役立たずの腕に、こんなにも目を輝かせるんだ?確かにこの腕はとても重いけどどんな金属が材料かなんて考えたことがなかったし、どうやって身体にくっ付いてるなんてことも気にしてなかった。

『おやおや…ん?あ、ホーン。お帰り。』

ニレイはブツブツと途切れること無く呟きながら夢中で錘のような腕をべたべた摩って気付かない。さっき豪快に閉められた扉は今度はそろりとゆっくり開かれて…小さな女が、滑り込むように静かに入って来たんだ。

『あ……ん?』

入りながら跪くニレイとそれが縋り付く先の俺に気付いて、小さく唸りながらも不審なのか言葉は直ぐに出て来ない。

プリマと…否、スーピーと同じくらいの年の筈だ。プリマよりは、少しだけ年上に見える。でも背はプリマより更に小さい。

鍔の狭い帽子に、白いアクセサリーを添えて何だか洒落てる。その帽子から覗く髪は…見たことが有る。一番見たことの有る色だ。何だっけな…これも花だ。あの花みたいな、紫色…

こいつが、拾い屋…やっと出会えたけど、思ってた感じとはちょっと違うな。

『ホーン、お帰り。喜べ。君の友達だ。』

『はっ?』

『ん…?』

いつの間にそんなことになってるのか分かんないし、それがこの事態の説明よりも収拾よりも真っ先に言うことか?

ディンディイはとても楽しそうにニコニコしてる。何故かは知らないが。

『良いじゃないか。似た境遇の者が2人揃えば、其奴等はもう友達だ。彼女が拾い屋のホーンさ。ホーン、彼は……ん?そう言えば、俺達も未だ自己紹介を交わして居なかったんじゃないか。』

嗚呼、その通りだ。そんな暇なんか無かった。俺は此処に来る前からナルティにディンディイの名は聞いてたし、お互いに名前なんかよりももっと気になることが先だったんだから。

『俺はディンディイ・ゲハイムファル。仕事は…いつの間にか電気屋と言う事に成って居る。此の家を拠点として電気を研究し、人々に電気の恩恵を広く分け与える事が生業と言った所だね。』

此処になって気付いたことだけど、ディンディイは自己紹介になっても席を立って手の平を交わすなんてことは決してせず、座ったままちらちらと計器を確認しながら話してる。忙しそうに針が振れたり呼吸のように目盛りが上下するあいつらも、きっと電気屋の仕事に不可欠な物なんだ。

『…俺は、ルクス。本当の名前は分かんない。今は第4階層に住んで、何でも屋をしてて…何でも屋の仕事を手伝って欲しくて、拾い屋を呼びに来たんだ。』

『ん…?』

『第4階層…?其れはまた、随分下から…!』

『……何でも屋?』

ホーンは何かに小さく唸り、ディンディイは俺が上ってきた階段の数に小さく驚き…ニレイは、何でも屋と言う職業に触れて夢中の眼差しを中断した。

『何でも屋とは、初めて聞く職業だ…此の町は本当に面白いなぁ。ニレイは知って居るのかい?』

チェスタ達が医者探しで歩き回った時の噂でも流れたのかも知れないって想像したけど、ニレイはどうにも歯切れ悪く首を捻った。

『否…3、4年前に何処かで噂を聞いた気がするのだが……そんなに下の階だったか…?まぁ、記憶違いか…若しくは偶然他所で別人が同じ職業を名乗る事も有り触れた茶飯事か…。』

チェスタは自分達の仕事を画期的と自負し、名乗ったもん勝ちだと自認し、ずっとビスカと二人でやって来たって言ってた。プリマも、何でも屋なんてチェスタ達しか居ないかも知れないって言ってた。

4年前にはもうチェスタ達は何でも屋を始めてたと思うから、やっぱり噂が間違ってたか、ニレイの記憶違いなんじゃないかとは思うけど…ニレイが言うように、何処かに偶々同じ仕事の奴が居ても不思議な話じゃないと思う。

でも、もしそうだったらチェスタは…どう思うんだろうか?良くは思わないんじゃないかって、気はするけど…。

『へぇ…俺は5年間此の町に暮らして初めて聞いたなぁ。是非、宜しくお願いしたいね。きっと…何でもやってくれるんだろう?拾い屋が、依頼されたら何でも何処迄でも拾いに行く様に。』

『…あぁ…そうだ。』

ディンディイに返事をしながら、ホーンの方を眼差してしまった。やっぱり拾い屋は、何でも拾ってくれるんだ。こんな小さな女が、何でも何処まででも…?

『ん…?』

俺の疑念に圧されたのか、ホーンは小さく唸る。そう言えばこいつ、まだ一言も言葉を発してないんじゃないか?今のところ表情も乏しくて、人間性がちっとも見えて来ない。

『…ルクス。ホーンはたった8ヶ月程前に飛ばされて来たばかりで、俺が拾い名付け、其の儘此の家に住まわせて居る。全ての記憶は疎か…恐らく町に飛ばされた際に言葉も失ってしまったみたいなんだ。何と無く分かる様に成ると思うから、気にせず付き合ってやってくれ。』

多分、皆同じ頃合いに同じ気付き方をするんだ。ディンディイはまるで俺に芽生えた違和感の跡を追うように慣れた素振りで微笑んだ。

『…あぁ。よろしく。』

『ん…。』

ホーンはほんの少しだけ目を細め、ほんの少しだけ口角を上げた…ような気がする。分かり難さはプリマと良い勝負なんじゃないか?こいつも悪い奴じゃ無さそうだから、一層惜しまれる。

言葉を失うだなんて、考えたことも無い。恐ろしい。

それに、後ろめたい。こいつは俺より多くの大切な物を奪われて、俺より可哀想な筈なのに、前を向いて電気なんて訳の分かんない物に関わって、拾い屋を営んでる。

やっぱり、出会いたく無かった。

『ホーン、彼も重症らしい。重症の先輩として、良くしてやってくれ。』

は?何だそれ?

『ん…。』

ホーンは多分柔らかいので在ろう表情のまま、こくりと行儀良く頷いた。

先輩って確か、先に始めてた奴みたいな意味だったと思うんだよな…何に於いても。先輩の反対は、何て言ったか…?

先輩は、後から来た奴に優しくしなくちゃならない物なのか?何故だ?

『良し…では、そろそろ良いかな?ニレイ。彼等も、俺達も、此の町の為に働かなくては。』

ディンディイが三度目に漕ぎ出した助け舟は、何だか無性に気に食わない言い草。

確かに、俺は第1階層の人々の為に早く拾い屋を連れて帰らなきゃならない。それが仕事だ。でも俺達は皆等しく被害者なのに、俺達から色んな物を奪った理不尽なこの町の為に働くだなんて言い方は…癪だ。

『む…!チッ…良くは無いが、一先ずは許してやらなくも無い。君ッ!』

何でも屋に軽く言及した以外の時間、ニレイはひたすらこの腕に付いた鉄塊を観察しながらメモを記してた。それは別に良いけど、何でお前に許しを貰わなくちゃならないのか?

『次は必ず外した先端を持参する様に。留め具も忘れるなよ!』

『は…?』

先端…?おたまのことか…?

『後は…そうだな。どんな機能、どんな姿の腕が良いかを考えて置いてくれ。道具は、使用する者の希望に寄り添わなければ何の意味も無いからな。』

『はっ!?』

何を言ってるんだ、こいつは?

『そう言う訳で、手隙の際に付き合ってやってくれ。時間は掛かると思うから、手隙の際にね。』

ディンディイまで、何を言ってるんだ!?

『む…求める性能次第だが、時間は然程掛からないぞ!規格は詳細に観察し記録して、仕様も既に見当が付いて居るからな!』

まさかとは思うが…新しく作ろうとしてる?この腕の先を…!

何故だ?いつからそんな話になった?

『発明屋は素晴らしい仕事だが、天才は自らの発明欲とでも呼ぶべき探究心にこそ基づき行動を決めるそうだ。だから酷く使い勝手は悪いが、一度やる気を出してくれされすれば、必ず何か良い物が出来上がるよ。ビジネスパートナーの俺が保証しよう…だから、手隙の際にね。』

勝手だ!煩い奴って、漏れ無く勝手な生き物なのか?

発明屋って、ニレイの仕事のことか?発明って何だ?何かを作ることなんだろうか…?

『パートナー…?勘違いするなよ。貴様は俺のライバルだ!俺の方が必ず、此の町の人々の役に立つ物を生み出す!』

何故かは知らないが、どうやらニレイはディンディイのことを敵視してるみたいだ。仕事の仲間なんじゃないのか?

『電気と発明が何を如何擦れ違えば敵手に成るのやら……まぁ良いや、君は相変わらずだな。ホーン、昨日迄の収集物は倉庫に収納済みかい?』

『ん。』

『蓄電装置は外に置いたかな?昨日と同じだから、ニレイに渡して置いてくれ。』

『ん。』

ホーンは逐一こくりと頷きながら小さく唸る。何処と無く得意気に見えるのは何故だろう。

『ニレイはどうせまたお前の収集物から宝探しする為に依頼に来たんだと思うが…どうせ急ぎでは無いだろう?勝手に漁らせるかい?それとも、ルクスの依頼が片付いてからにするか?』

『おいどうせとは何だ貴様!』

『ん…んーん。んー。』

ホーンはツンと口を結んで、一つだけ首を横に振った。

『だそうだよ。』

何が『だそう』なんだ?さっぱり分かんない。

『分かって居る!しかし其の分、先日依頼されたシステムの完成も遅れると言う事を承知しろよ。』

何で分かるんだ?本当に俺もその内、何と無く分かるようになるんだろうか…?

『…まぁ良いさ。今は蓄電装置の修正が先決だから。宜しく頼むよ、天才様。』

『むっ…!ふふふふふふ…!』

ディンディイに噛み付く子犬みたいだったニレイの表情が、急にニヤニヤと綻び出す。こいつのスイッチが良く分かんない。ディンディイのことが嫌いなのか、好きなのかも…。

『じゃあ、ホーンを宜しく…ルクス。』

『は…?』

ディンディイはディンディイで、いつからかずっと嬉しそうにニコニコしやがって、訳が分かんない。

よろしくって…俺がホーンに仕事を頼みに来たんだから、こっちの台詞だと思うんだけど。

『此の町での暮らしはホーンが先輩の様だが、年は如何やら君の方が上に見える。人生の先輩として、ホーンに良くしてやってくれ。ホーンの保護者として、宜しくお願いするよ。』

ディンディイがそう言って…俺も、ホーンも小さくはっとした。

成る程…人生の先輩とか、そんな考え方はしたことが無かった。先輩は、後から来た奴に優しくしなくちゃならない。そう考えると先輩って何だか損な気もするな。でも、お互い様か…。

保護者って、何だ?保護した者ってことか?じゃあ…俺の保護者はプリマ?何かが違う気もする…。

『…ん。』

ホーンは改めて小さく頭を下げた。悪い奴じゃなさそうだから…それだけが救いだ。

『ん。』

ホーンは一度ディンディイにしっかりと目を合わせた後、俺を誘うようにちらりと目を合わせて、それから窓の付いた扉を開けた。

『行ってらっしゃい、ホーン。』

自分も仕事に戻るらしいディンディイが、椅子を回転させながら笑みを湛えてそう声を掛ける様子が…

全然似てない筈なのにプリマに見えて、何処からか『家族』と言う言葉が浮かんで来る。

プリマはあんなにニコニコ笑わない筈だけど…。

いつの間にかニレイが消えてると思ったら、家を出て直ぐ壁際に一つ打ち捨てられてた金属の箱を眺めて弄ってた。バルコニーに並べられた他の箱達に良く似てるけど、これだけ色が違う。

『む…ホーン。片が付いたら俺の作業場迄声を掛けてくれよ。お前の戦利品を見せて欲しい。ディンディイの理論を叶えるには、如何にもあと一欠片の発想の転換が…』

『ん…。』

ホーンは返事と思しき浅い唸り声を上げながら、ニレイが見る箱の隣に打ち捨てられてた大きな籠を拾い上げた。その籠には、なんと2本の紐が輪になって生えてて…ホーンはそれを、ひょいと背負い込んだ。

何だそれ…?物凄い便利そうじゃないか。目から鱗だ。これなら片手が使い物にならない俺でも、どんな物でも沢山持ち運べそうだ。

欲しい……!

『君…ルクスッ!必ずまた来るんだぞッ!先端を忘れずに!』

歩き始めようとしたら、背後から念を押される。振り返ると、ニレイはにんまりと笑って…目を輝かせてる。子供のように。

『………ん。』

何て言ったら良いか分かんなくて、取り敢えず声だけ上げたら…ホーンみたいになってしまった気がして、何だか気恥ずかしい。

ニレイも、ホーンも、ディンディイも…悪い奴じゃない。多分良い奴そうなのに、今まで出会った誰とも違う。こいつらが変な奴らなのか、第21階層が都会だから違うのかは、まだ分かんないけど。

『どんな機能、どんな姿の腕が良いか』なんて、考えたことも無かった。俺は右腕に、どんな性能を求めるんだろう。

…性能なんて、どうでも良いよ。只…皆と同じ物で、俺は良いのに。

鏡の中の左手と、同じ物が有れば…それだけで…。

でも俺は知ってる。否、覚えてる。

それが一番の我儘だって事を。

だからきっと、今まで一度も言って来なかった。

でも、あいつは天才らしいから…

道具は使用する者の希望に寄り添わなければ意味が無いって言ってたんだから、言うだけ言ってみようかな…?


ホーンの帰りを待った時間と、仕事と関係無いことを話し込んだ時間。

少し押してる気がする。気は逸るけど、駆け足で下りることは出来ない…俺達は、二人だから。

ホーンにはこれからわざわざ幾重もの階段を下って、仕事をして貰うんだ。そもそも何と無くのんびりしてそうな奴だし、急がせるのは気が咎める。

それにしても…ダラダラとし過ぎてやしないか?

『……ん!』

まただ…また立ち止まって、数歩先へ駆け出して、蹲んで、今度は何を拾ってる…?

家を出て歩き出した直後から屢々こんな調子で、目の詰まった籠の中身が今如何程なのかは見えないが、もう結構な塵…否、戦利品が入ってる筈だ。スーピーが見たら、『お片付けしてくれてありがとう!』とか言ってくれるんじゃないか?

ホーンの普段の行動範囲がどの辺りなのか知らないけど、きっとあんまり下層へは来たことが無いんじゃないかと思う。階段を越えれば越える程、下に進む程…目を輝かせて足元ばかり気にして、立ち止まる頻度は増してゆくから。

『んっ!んっんっ!』

またホーンが駆け出す。第9階層の道端に唐突に落ちてたのは、黒くてギザギザの金属。もしかして農具か工具か何かが、取っ手から外れて落ちて忘れ去られた物なんじゃないか。

当然ホーンは拾う。あんなの、何の役に立つって言うんだ…?

あと8つの階段を下るのに、どれくらいの時間が掛かるんだろうか…?嫌な予感がする。山道に入ったら…きっと酷くなる気がするんだ。

『…なぁ。その籠、何処で手に入るんだ?』

ちょっとでもホーンの気が逸れるかと思って、気になってたことを聞いてみたけど

『ん…?んん……んーんー…んっ!んん。』

何を言ってるか分かる訳が無いし、唸る間にもホーンは足元への注視を欠かさなくて、何かを見付けた途端にこちらは構わず我を忘れる。

不安になってきた…そもそもこの籠に、あの巨大毛玉が入る筈が無い。頭脳担当の当ては嵌まるのだろうか?俺のこの仕事に、果たして意味の花は開くのだろうか?つまりはホーンに、あの溝色の毛の生えた家を拾うことが可能なのか…?

不安になるのは、期待が外れたからだ。第21階層まで行けることになって、何かの切っ掛けになるかも知れないって何処か浮ついてたのに、街並みにはしっくり来なくて、文化の違いに付いて行けなくて、難しい言葉に頭は弾けそうになって、気付けば出掛ける前よりも何かを失くした気すらする。

別に希望が潰えた訳じゃ無い。まだまだ町は上に伸びてるし、そもそも20階層や21階層だって全然じっくり探索出来てない。でも、じゃあ…この虚無感は、一体何処から襲って来てるって言うんだ?

……ホーンは、恨むに恨めない。必要以上に多くの物を奪われて尚、ディンディイの笑顔を浴びながらこんなに無邪気に、楽しそうに拾い屋を全うするホーンのことは。

だから遣る瀬無い。俺はこれから一体、何に縋って動けば良いんだろうか?

一つ、階段を下りる。憂鬱だ。あともう一つ階段を下りたら、第7階層。

山が近付く…!


昨日と同じ山道から下るのは仕方が無い。直接広場の入り口に繋がってるから、結局これが一番の近道なんだ。

見下ろすと、毛玉の周りにはチェスタとビスカの他にも数人集まってるみたいで、何だか騒がしい。何をしてるんだ…?

『む…ルクスー!随分遅いじゃないか!さては寝坊か寄り道か…もしくは、両方をしたかー?』

目を凝らしながら近付く過程で、急に顔を上げたチェスタと目が合った。心外だ。確かに俺は全てを無駄無くこなせた訳じゃない。でも、此処まで遅くなってしまったのは…

『…ん?ルクス…拾い屋は、連れて来られなかったのかー…?』

『は…?』

振り返ると、後ろには誰も居ない……とか思ったら、草木に霞む程の奥から、のんびりとホーンが歩いて来る。

『おい…ホーン!』

お前が、山道に入った途端に3歩歩く度に石だの枝だの木の実だの拾い捲るから、俺は余分に窘められてるんだぞ…!

『…彼女が、拾い屋…かー…?』

チェスタも、こういう感じの奴が来るとは予想してなかったみたいだ。ゆっくりと向かって来るホーンを眺めながら呆けてる。

『チェスタくんーっ!ビスカくんーっ!』

更に振り返れば、反対側からスーピーが歩いて来る。急ごうとして小走りだけど…とても疲れてそうだ。笑顔を浮かべる余裕すら無いらしい。

『スーピー…お疲れ。流石掃除屋だな…助かったよ。』

『ううん…これは、わたしのお仕事だから……でも、しつこかったよぉおお!』

ビスカに労われると、顔を覆って蹲み込む…こんなスーピーは初めて見る。普段だったら『全然大丈夫!』とか言って明るく笑いそうなのに。

『一体、どんな酷いことが有ったんだ…?』

『む…実はだなー、大きな事実が発覚して…はー…』

チェスタが大きな溜息で調子を整えながら、うんざりした様子で語り始めようとしたら…

のこのこやって来たホーンが、漸く俺に追い付いて

後から思うなら、俺達が立ったこの場所が丁度こいつの『目』の前…つまり『鼻』の前だったってことだと思う。

ゴウッ!

と、空気が震える音がして……

誰も何も動けない。何が起きたか、理解が追い付かないから。

只、尖った何かがホーンを襲った。

『ホーン…っ!?』

鋭い何かが二叉に分かれて、ホーンの頭を挟む。否…喰い千切る。

『んっ…?』

本人も何が起きたか分かって無さそうな、呑気な唸り声で気付かされる。頭じゃない。持って行かれたのは、帽子だ。

髪よりも一層濃い紫色の帽子が、白いアクセサリーごと飲み込まれる。

『…まずくないか?』

『あー…まずい!窒息するぞ!』

ビスカとチェスタは何の話をしてるんだ?今、誰が無事で誰が危ないんだ?

全部がほんの一瞬の出来事で、行動を起こす暇なんて片時たりとも無かった。そんな密度の濃い一瞬は

ブッ!

と言う、力強い癖に何故か間抜けにも聞こえる愉快な破裂音が終わりを告げた。

『あ……吐いた。』

終了の後先ず、声を上げたのはビスカ。綺麗な放物線を描いて、何かがべちゃっ!と地面に落ちる。

濃い紫色の、ぐちゃぐちゃの…多分、帽子。

『…一先ず、危急は去ったかー…?』

ぽつぽつと、皆が口を開き出す。

『えっと……ホーン、ちゃん…?だいじょうぶ…?』

わなわなと震えるホーンは、スーピーに声を掛けられると、堰を切ったように…

『あ………んんんん…んんんっ!んんんんーっ!!んんー!!んんんんー!!』

咆哮……否、慟哭だ。哭いている。

『んんんっ!んんんんーっ!!ん!んっんっ、んーっ!!』

『あっ…よせよ!また襲われるぞ!』

ホーンは毛玉に掴み掛かろうとして、ビスカに制止される。多分、抗議しようとしてる。あの帽子が…そんなに大切な物だったのか?ホーンには悪いけど、そんなことより…

『…なぁ、整理がしたい。何がどういうことなのか、一つも理解出来無い。』

チェスタがゆっくり頷く。広場に集まる他の奴らもそれぞれ顔を見合わせる。ビスカとスーピーと、周りの家の住人っぽい年寄り達と、それから牧畜屋のルーバー。

『今の騒ぎで、俺達にも新しい事実が提示されたー…恐らくこの件は、拾い屋の手を借りるような種類の仕事ではない。整理をしながら、状況を共有しようー。』

拾い屋の仕事じゃない…?嘘だろう?

この俺の遣り場の無い虚無感も、ホーンが新たに奪われた大事な物も、全部意味が無くなったってことなのか…?


広場の真ん中…巨大毛玉の周りでは、牧畜屋のルーバーが中心になって出来得る限りの調査を進めながらの様子見が続けられてて

俺達は、外周に沿って並ぶベンチの一つに腰掛ける。ビスカ、チェスタ、俺。それから打ち震えるホーンと、それを慰めるスーピー。

『端的に判明した事実から発表しようー。あれは、どうやら生き物のようだー……そして、今の騒ぎも含めたこれまでの情報から察するにー、鳥ということで間違いないらしい。』

……あれが、鳥?そんなの、脅威で在り怪異だ。

つまり、あの尖った二叉は開かれた嘴?信じられない……かと言って、あれが生き物じゃないって言われたって信じられないんだから、どうしたら良いか分かんない。何に付けてもあのでかさが、全ての理解を奪ってゆくから。

『しかしまだまだ謎ばかりでな……俺とビスカは今朝から広場で調査を続けていたのだがー、兎にも角にもびくともしないんだ。どんな刺激や衝撃を加えてもー、道具を使って押して運ぼうとしてみても……そのうち、朝の仕事を終えたルーバーとヴェロアがやって来てなー…。』

ルーバーとヴェロアの知恵を借りるとは、昨日から言ってた話だ。生き物なんだったらルーバーが、誰かが何かの毛皮を使って作った物ならヴェロアが、ヒントを見付けてくれるんじゃないかって思ってたけど。

『流石は専門家の二人でー、俺たちでは気付けなかったことを見付けてくれた。ルーバーは『ほんの微かに、呼吸のような規則的な揺れを感じる。』と言いー、ヴェロアは『この細かく温かな毛は、毛皮と言うより鳥の羽毛に似ている。』と表した。プロが示した二つの見解を受けー、次の手をどうしようか話し合おうとしたところで……酷いことが起こった。落とし物をされたのだー!危うく、引っ掛けられるところだった…!』

思い返すだけで余程恐ろしいらしく、チェスタは頭を抱えて俄かに乱れ、多分無事を噛み締めてる。

『落とし物…?』

『……糞だよ、糞。真っ白な液体に包まれた、黒い塊…鳥の糞も、これだけでかいやつのモノなら、あんなに臭くて大量なんだな…。』

チェスタの代わりに答えてくれたビスカも何処か遠い目で呆けて、それが逆に当時の混乱の凄惨さを物語るようだ。

少し理解出来た。スーピーは掃除屋として、その落とし物の片付けをしてくれたんだ。鳥の糞って、スーピーをあんな顔にさせる程しつこいんだな…気を付けよう。

『糞の特徴から言っても、あいつは鳥で間違い無さそうなんだけど…呼吸をして、糞もして、生きてるのに…なんでちっとも動かないし丸まって顔も出さないんだってところが全然分からなくてさ。少なくとも昨日の朝からは何も食べてないだろうし、体の大きさの割には呼吸が浅いから弱ってるんじゃないかってルーバーが言うから…木の実とか、魚とか、ルーバーの牧場で使ってる飼料とか、目の前に置いてみたんだよ。でもやっぱり動かない。腹、減ってると思うんだけどな…。』

あんなに大きな体で、丸一日以上何も食べてなくて…もしかして、弱り過ぎて動くことが出来ないんじゃないか?でも目の前に食べ物が置かれたなら、這ってでも口を運ぼうと踠きそうなもんだけど…食べなきゃ、死ぬんだぞ?

『……ルーバー曰くー、あいつの好物は俺たちの想像が付かないような、何か変わった物なんじゃないかとー。いつも口にしている決まった餌以外には全く興味を示さない、警戒心の強い種族なのではないかということだー。』

平静を取り戻したチェスタが顔を上げる。

鳥が食べる物なんて、山の鳥は木の実、海の鳥は魚、あとは……ハルルの所に来る鳥は何でも食べるって言ってたけど、あいつは違うみたいだな…

……ん?

『…まさか、あいつの好物は、ホーンの帽子ってことか?』

そんなに頑なに微動だにしなかった奴が、ホーンが目の前に立った途端に、嘴を広げて、帽子だけを掠め取って……

『いや…違うんじゃないかー?あいつは帽子を吐き出した…だから、分からないんだー。何が目的で、帽子を口に含んだのかー…?』

確かに、帽子を食べたかった訳じゃ無さそうだ。それに、不思議だ…身体を丸めて、顔を出してなかったんだから…帽子を目で見て見付けた訳じゃない。体のどの器官を使って、何を感知して、食べ物でもない帽子なんかを口にしたんだ…?

『……ん。んうぅ…うっうっ!』

突然ホーンが、恰も悲痛な声を上げて呻き出す。巨大鳥に喰まれぐちゃぐちゃになった帽子を握り締めながら。

『ホーンちゃん……だいじょうぶだよ。このお帽子丈夫そうだし、ていねいに洗って乾かしたらきっと元どおりに……』

『んんんっ!んんんーっ!んんんんんっ!!』

スーピーが笑顔で優しく宥めても、ホーンの悲しみは治らない。確かにスーピーが言う通り、何処も破れたりはしてなさそうだし、洗濯すればまた使えるようになりそうだけど…。

『…なんでそんなに悲しいの?どうしてなにも教えてくれないの…?』

スーピーが溢す憤りで気付く。こいつら、ホーンのことをまだ何も知らないじゃないか。

『あ…こいつ、言葉が喋れないらしいんだ。重症過ぎて、言葉まで失くしたって…。』

『えっ…!』

『…そんな重症はー、初めて聞いたな…!』

『そんなやつに、わざわざ来てもらったってのに…。』

この町でずっと暮らす3人の口々の反応で改めて実感する。やっぱりホーンは可哀想な奴なんだ。俺なんかよりももっとずっと。

『ご、ごめんね…しゃべれないだなんて、思わなくて…。』

『んんん…。』

謝るスーピーに、ホーンは慣れたように落ち着いて首を横に一振りした後…

『んん、んっ!!んんっ!んぉ……んおおおおーっ…!!』

ぐちゃぐちゃの帽子を俺達に見せ付けながら、勝手に思い極まったのかまた雄叫びを上げて泣き出した。

『…コミュニケーションの壁はー、それはそれとして、兎に角帽子を喰われかけたことが許せないんだなー……しかし、元通りになるのだからそんなに怒らなくても』

『んんんっ!!んんんんんんーっ!!』

ホーンはチェスタを向いて、激昂するが如く激しく首を横に振る。

―ふざけるな!お前はなんにも分かっちゃいない!!―

とでも言ってるかのようだ…。

『はっ…?何だー…?俺は、何か悪いことを言ってしまったのかー?』

『…もしかして、何か失くなってるのか?帽子に何か付けてたとか…』

本当は俺が一番に気付かなきゃならなかった筈なのに…

ビスカの閃きで、俺も漸く気付く。何で今まで分かんなかったんだ…ホーンが、何よりも大切にしてた物は…

『白いアクセサリーが無くなってる。鍔の辺りに付けてた、軽い石みたいな物で出来た奴……あの毛玉は、白い石を食べたくてホーンの帽子を奪ったんだ!』

『……んっ。んんん…!』

―やっと気付いたのか…遅過ぎるよ!―

とでも言いたそうに、恨めしそうにこちらをジトリと睨み付けながら、ホーンはまだ目を滲ませ続けてる。

『アクセサリー…?あいつが、その小さなアクセサリーだけ飲み込んじまったっていうのか?』

小さなって言っても、子供の拳くらいの大きさは有った…それでも、あの大きな体の餌にしては豆粒以下の価値だと思うけど。何かはよく分かんないけど、恐らく抽象的な物を象った美しい意匠で、ピンか何かで留めてたんだと思う。

『そのアクセサリーが、あの鳥の好物だと言うのかー?一体、材料は何だと言うのだ?人工物が鳥の好物だなんてー、流石に考えられない!何か天然の素材が…』

『んんっ!んん!んん!んんーっ!!』

ホーンは何やら、素材にも拘りが有ったのかも知れない。泣きながら必死に訴えるけど…

『……何言ってるのか、分からないな…。』

『……ごめんね…ホーンちゃん…。』

言葉って不便だ。伝えたいことは常に一人ひとりの心の中に在る筈なのに、同じ生き物の筈なのに…言葉を発する口と言葉を受け取る耳と言葉を理解する頭…分かり合う為には、用意しなくちゃならない物が多くないか?

…でも、そう言えば不思議だ。ホーンが言葉を交わす為に足りない物って何なんだ?ホーンはこっちの言うことに反応して、ディンディイの指示にも返事をしてて、言葉を受け取る耳と理解する頭は持ってる。うんうん唸って、声が出せないって訳でも無さそうだ。ディンディイはまるで、記憶と一緒に言葉もミズルに奪われたかのような言い方をしてたけど…今一つ腑に落ちない気もする。

『……んんん…んん…!』

イガイガとした地鳴りのような唸り声で気付く。ホーンがまた、こちらを睨み付けてる。多分、俺に対してこそ苛立ってる。

俺は皆よりほんの僅かに早くホーンと出会って、皆よりほんの僅かに長くホーンと過ごした。アクセサリーが帽子にくっ付いてたことだって始めから分かってて、失くなったことにも誰より早く気付けた筈だ。

ホーンのアクセサリーの正体に迫ってあの鳥を動かすにも、ホーンが失った物を慰めるにも、俺こそがホーンと向き合うことが必要なんだ。

『……帰ろう、ホーン。』

『えっ…!』

『…まー、確かに拾い屋には、無駄足を運ばせてしまったなー…。』

スーピーは驚き、チェスタは申し訳無さそうに肩を落とすけど

『ん…。』

ホーンはまだ目を潤ませつつも、力強くはっきりと頷く。言葉で語らずとも、俺の考えを察してくれてる。

『俺、ホーンを家まで送るよ。ホーンには家族が居るんだ。そいつに聞いたら、きっとアクセサリーの素材が何だったのか分かると思う。それを集めて、あの毛玉の餌にしたら…あいつを何処かに動かすことも出来るだろ?』

ディンディイにあの白い石の正体を教えて貰って、それを俺が沢山用意して、一つをホーンに…残りを全部、あの毛玉に差し出す!

『ふむー…確かにその情報は、是非とも有った方が良いなー。ルクスには言う通りにさせて、俺たちは調査を続けながらー、餌を用意出来た後の作戦も練っておくこととしよう!』

決まりだ!

ビスカが頷く。スーピーは、ホーンの肩に軽く触れながら申し訳無さそうに…

『…ホーンちゃん、わたしたちのために来てくれてありがとう。こんなことになっちゃってごめんね…。』

『…んーん…。』

ホーンはゆっくりと首を横に一振りする。そしてスーピーの手を包み返してから、ひょいと立ち上がって

『んっ!』

スーピーの前に、親指を突き出した。

『……あ、ありがとう。』

そうだ。多分、全然気にするなって言って、許してくれてる。

『ホーン…俺からも、謝らせてくれー。何でも拾ってくれるという拾い屋ならば、この巨大な物体も何処かへ持って行ってくれるのではないかと思い立ったのは俺なんだー……こんなことになるとは思わず…すまなかったー…。』

『んんっ、んっ!』

ホーンはチェスタの前にも親指を突き上げて、序でに何も言われる前に背伸びしてビスカの前にも親指を見せ付けておいた。

『ん…んっ。』

ホーンは俺を誘うようにちらりと目を合わせた後、山道に向けて歩き出す。

『…ありがとう、ホーンちゃん!またね…!』

『あー…また、いつかー!』

『ありがとうな、ホーン!』

歩きながら、3人に向けて大きく手を振って……前に向き直ったホーンの目からは、また大きな一雫が、思い出したかのように

今度は静かに、悲しみを弔うみたいに溢れてた。

『………ごめん。ありがとう、ホーン…。』

ありがとう。あいつらに気を遣って、親指を突き出してくれて…。

『………ん……ん!』

伏せた目が急に見開かれる。ぴたっと歩みを止めた後に、数歩駆け出して……蹲んで、何かを拾ってる。

……やっぱりこいつが何を考えてるのか、俺にはまだ分かんない。さっき通って来たばかりの道を戻るだけなのに、何を新しく見付けたって言うんだよ?

ホーンが立ち上がるのを待つほんの一瞬に、広場の方を振り返ってみたら…俺達の様子を見詰めて不思議そうに呆けるスーピーと目が合ってしまった。


元来た道を戻るだけなんだから、流石に行き道よりは時間を掛けずに越えられたと思う。それでもホーンは何が気になるのか何度も立ち止まって、背中の籠に拾得物を放り込みながら随分のんびり進んだ訳だけれども。

離れ小島みたいな丸い家に着いた頃には、なんともう太陽は傾き始めて、日差しは徐々に眩しい力強さを増してきてる。

ホーンは背中の籠を扉の脇に打ち捨てて、部屋に入って行った。後ろに続きながら横目で中身を窺ってみたけど…細かい何かがこんもり詰まってて、まるで塵箱にしか見えない。

『…んー……お帰り、ホーン。もう直ぐ一区切り付くから、弁当でも取って来てくれたなら助かる…。』

ディンディイはまた、目盛りと睨めっこしながら何かをガリガリ記録してる。振り返らずに、だから俺も一緒に戻って来てるって気付いてない。

ホーンはナルティがそうしたみたいに立ったまま黙って待つから、俺もそうする。ディンディイの仕事は邪魔してはならないというのが、電気屋を知る者の暗黙の了解みたいだ。

『………うーん、まぁ良いか…?ホーン…如何したんだい?動かずに……ん?ルクス…?』

椅子ごと回転して振り返ったディンディイは俺を見付けて目を丸くして

『んっ!んっんっ!んん!んんんーっ……んぉおおっ…!』

『はっ…!?ホーン、何だ?何が有った…?』

それを合図に堰を切ったホーンの様子に更に目を開いた。

『帽子が随分濡れて居るし、骨が無くなって仕舞って居るじゃないか…!』

喚くホーンにぐちゃぐちゃの帽子を見せ付けられ、ディンディイは一目で異変を理解した。

『骨…?』

『嗚呼…此の帽子に付けて居たアクセサリーさ。骨を削って加工した物で…第22階層のパルテムが制作してくれたんだ。『飛翔と帰巣』がテーマで、翼と愛をモチーフに構想した意匠だそうだよ。』

あのよく分かんないデザインに、そんな壮大なテーマが込められてたのか?この町に閉じ込められた被害者で在るホーンに帰巣がテーマだなんて、当て付けがましくて笑わせてくれる。否、そんなことより…

『ディンディイは、あのアクセサリーの材料を知ってるのか?』

『え…うん。或る日ホーンが持ち帰って来て嬉しそうに見せびらかす物だから…加工して常に身に付けられるアクセサリーにしたら如何か、と勧めたのは俺なんだよ。ルクス…一体何が有ったんだい?』

俺はディンディイに、一連の経緯を全部説明した。

どうやらこいつは凄く賢いみたいだから…何か思わぬ知恵を貰えるんじゃないかって、ちょっと思ったんだ。

全てを聞き終えたディンディイは…うずっ、と一震えしてから

『成る程…其れは随分おも……っ、ゴホン。深刻な事態だ。力に成れるならば、是非そうしたい所だけどね…。』

こいつ…今、『面白い』って言いそうじゃなかったか?

『俺は外では摂理と言う摂理を研究して来たと言ったが…生物と言う分野も、神が与え給うた大切な課題の一つだ。巨大生物…非常に興味が湧くし、俺が此の目で見て力に成れる様な事が無いとも限らない。しかし、此の町での俺は電気屋……電気は未だ研究段階で不安定な事も多く、不測の事態に備え俺は此の家を離れる事が難しいんだ。実に惜しいな…。』

惜しいって言ったぞ…本当に真面目に考えてくれてるのかよ?

『だが、其の鳥の好物は恐らく人骨で間違い無いだろうね。日頃食する餌以外には嗅覚が反応せず、顔を伏せて目も塞いで居たから他の物には見向きもしなかったんだろうなぁ…触れても動かないのは何故だか見当が付かないが、確かに弱っては居るのだろうな。此処は絶海の孤島。此の島に辿り着く迄にも長旅を経ただろうし、戦争の無い此の町では人は滅多に死なず死体処理も迅速で、人骨の拾い食いは困難を極めるだろうからね……此の町から脱出し外の世界へ帰れなければ其奴の飢えは解消されないし、飢えが満たされ体力が回復されなければまた外の世界へ羽ばたく事は難しいだろう。』

ずっと謎だったことの幾つかを、ディンディイが推測で解明してくれた気がする。でも話が全然頭に入って来ない。だって…

『待ってくれよ。人骨って…何だよ?』

『ん…?そんな事も忘れて仕舞ったのかい?人骨とは…』

『違うだろ!何で只の骨じゃなくて、人の骨なんだよ?』

『え…嗚呼。そりゃあ、彼のアクセサリーの材料が、人骨だからさ。』

ディンディイが何の屈託も無く笑みを湛えると

『んんっ!』

ホーンは得意気に腕を腰に当てて、にんまりと鼻を鳴らした。

何だこいつら…意味が分かんないぞ!こんな町で、何で道端に人の骨が落ちてるんだよ?それを喜んで拾って帰る奴も、そんなに気に入ったならアクセサリーにしたらとか勧める奴も、その提案を受け入れる奴も…気持ち悪い!知らない奴の、死体の一部なんだぞ…!

『彼れは、人間の腸骨の辺りで間違い無いね。割れては居たが見事な深さと大きさで…恐らく生前は骨太で立派な男性だったんじゃないだろうか?其処で判明したんだが、ホーンもその怪鳥と同じで、何故だか人骨の収集に情熱を掻き立てられるらしいんだ。此の様に町の暮らしの何が何時何の様に作用して己が呼び起こされるか分かった物では無い。君も希望を捨てずに日々を全力で生きろよ。』

何だその纏め方は!?言われなくたって、俺は奪われた物を取り戻す為に毎日全力で生きてる!…否、そんなこと今はどうでも良いだろ!

『…まぁ、実際人骨だけで食い繋ぐ事は、幾ら人が死ぬ外の世界でも不可能だろう。広く骨…若しくは屍骸全体を食する事が出来るんじゃないかと思うんだが、きっと其の溝色の家は偏食…否、美食なんだろうな。健啖に暴飲暴食の限りを尽くし肥え果てた末に人骨の味を知り他を口に出来無くなって行ったのだとしたら…丸で食に踊らされて居るな。同情したい。』

確かにそんな風に言われたら哀れに聞こえるけど…可哀想と言うよりは、馬鹿だ。贅沢にも、生きる目的を忘れてやしないか。

……生きる目的って、何だ?

生きる為に食べるのか?美味い物を食べる為に生きるのか…?

『兎に角人以外の骨には興味が無い筈だ。砕いた家畜の骨を使用して居るで在ろう飼料に、目もくれないのだろう?』

家畜の餌って、家畜の骨を使ってるのか?何だか嫌だな…それも今はどうでも良いか。

人骨なんて…予想外だ。あの巨大な体の餌になる程の量を、どうやって集める?ホーンの為にも、腸骨とやらを一つ余らせてやらなくちゃならないのに…。

『…抑々君達、其の溝色の巨大毛玉を如何処理する積もりなんだい?』

『は?処理…?』

『処理』って、どんな意味なのか余り深く考えずに使ってた言葉なのかも知れない。だって、処理と言われて何故今胸がざわつくのか、上手く説明が出来ない。

でも、何と無くハルルのことが頭に浮かんでる。

…そう言えば、ハルルの葬送方法ならば、人骨が余るんじゃないか?あの時は勘が働かなかったけど、葬送の舞台で在る広場のあちこちで山にされてた白い物は、もしかして…

『処理とは、処置と言い換えても良い。如何様に決着を付けるのかと聞いて居るんだよ。先程言った通り、其の巨大鳥が再び大空に羽ばたき此の町を後にする事は難しいと思うよ。俺達に其処迄助ける義理も無いし。皆で飼育し愛玩する様な理由も場所も無いだろう?此の町は食肉が不足気味だから最終的には捌いて弁当屋に流すか干し肉にでもして備蓄するのが最も大勢の利益に成ると思うんだが。』

『はっ…?』

あいつを…食べる?

そんなこと、考えてもみなかった。

何故か勝手に思ってた。何であいつがいきなりあんな場所に舞い降りたのかは分かんないけど…多分、不本意なんじゃないかって。

あいつも自分の居るべき場所に帰りたいんじゃないかって、勝手に思ってた。

『ん…?何か、変な事を言ったかな?』

『……否…。』

ディンディイは、誰かの境遇と自分の不遇を重ねて、感傷的になることは無いんだろうか。

ディンディイは……自分の居るべき場所に帰りたいって、思わないんだろうか?

『低層階にも食肉・採卵用の鳥を扱う牧場は有ると思うが、大きな鳥を捌くには人手と技術の面で苦労を要するのでは無いかな?羽毛と言う貴重な素材も採集したら利益が有るし、もし運搬方法と経路を確保出来るので在れば、専門家で在る鳥飼屋に依頼する事をお勧めするけどね…上階の方がより一層の肉不足だし。』

一度生まれ、芽吹き、燃え盛った筈の物が消えることは、到底容易な話じゃなくて…あれだけ巨大な命なんだったら、尚更だ。ルーバーに聞いてみなけりゃ、分かんないけど。

『何方にせよ、人骨を餌に誘い動かして運ぶ必要が有るかな。此の町の人々は遺骨に全く思い入れが無いみたいだから、寄越せと言ったらくれるだろう。第18階層のハルルは知って居るかい?』

しれっと飛び出す、ハルルの名前。

『…あぁ。一度会ったことが有る。俺も、ハルルのことが頭に浮かんでたところだったんだ。』

『そうか、ならば話が早い。此の時間ならば未だ如何にか話を聞いてくれるかな?…ホーンは、如何する?行くのかい?』

何だ。ディンディイもホーンも、ハルルの所に人骨が積み上がってることを知ってたのかよ。それなら、あんなに泣いて怒らなくても良いんじゃないか…?

『んー……んっ!んんっ、んんっ!』

部屋の真ん中に有るテーブルで肘を突いてたホーンは…どういう意味だか、ギュッと眉間を寄せて一呼吸渋った後で、決意を固めたように立ち上がった。

もう直ぐ太陽は沈み出す…ホーンを連れて行ったら面倒そうな予感がするけど、仕方が無いか。ホーンの損失は他ならぬ溝色の、つまりは俺達の依頼の所為なんだから。

『ルクス。そう言う訳だから、良ければまたホーンと共に行ってやってくれ。宜しく頼むよ。』

『あぁ…。』

『んっ。』

ホーンは付いて来いとばかりに目線で合図して、扉を放つ。斜めに差す西日はまた少しばかり輝きを増してる気がする。

『ルクス。』

部屋と外の境界を踏む頃、ホーンはいつの間にか塵を片付け空っぽにしてた籠を背負おうとして、ディンディイは俺を呼び止めた。

『またな、ルクス。』

意味が分かんない。ディンディイとまた会う理由が、思い当たらないから。ホーンに迷惑を掛けて、拾い屋に頼むような仕事じゃないことが判明して、毛玉の好物の正体も判ったのに…。

『……うん。』

まぁ、良いか。同じ町の住人同士なんだから。会う理由も思い当たらなければ、二度と会わない理由なんてもっと見当たらない。

そっと扉を閉めたら、ホーンはもう路に乗り出して誘うようにこっちを見詰めながら待ち構えてた。

チェスタ達は今頃どうしてるだろうか。何か良い作戦は思い付けたんだろうか…?でもきっと何にせよあの鳥の餌で在る人骨は必要な筈だから、ディンディイの話と共に持ち帰って策の足しにしてやらなくちゃならない。

……あの毛玉は、もう二度と外の世界へ羽ばたくことは叶わない。

あいつは何でこんな島に…こんな町に降り立ってしまったんだろう。好物も食えない、ちっぽけな島に…まるで殺される為みたいに。

助ける義理が見付からないことが、助からない理由に当たるなんて……何だか……

当然だ。


ホーンに付いて行く格好で歩きながら気付いた。ハルルの広場とディンディイ達の家は同じ方角に建ってる。海を向けば、太陽は右手に帰ろうとしてる。つまりは南側だ。

だから手近な階段を3つ降りるだけ。こんな近くに大好きな骨が山積みになってるって言うのに、ホーンは何故あんなに憤慨し慟哭することが出来るんだ?まさか『飛翔と帰巣』のデザインがそんなに気に入ってたのか…?

牢獄のように重く冷たく聳える鉄柵。透けて見える向こうの世界にリボンが絡む桃色の髪を探そうとしたら、先に見つけたのは…

『…ビエッタ!』

時を閉じ込めたような精巧な造花に彩られた、下の方だけくるくる波打つ長い髪。

『……ルクス?ルクスじゃないか!会いたかった…是非一言、礼を伝えたかったんだ。』

広場の真ん中でぼーっと空を見詰めてた癖に、俺を見付けたら駆け寄って来て、鉄柵越しに心做しか僅かに語気が弾んでる。こいつのことを、俺は余り良く知らないけど…こんなビエッタは初めて見たかも知れない。

『そんな、礼を言われる程のことはしてない…。』

『否、お前のお陰だ。お前のお陰で私は漸く仕事と言える仕事に有り付く事が出来た。』

別にビエッタは、働かずに怠けて暮らしてたって訳じゃ無い。只、自分の生業を胸を張って仕事だと言えなかっただけだ。

『動物を仕留めることにこそ長け、捌くことも出来る狩人』なんて、野生動物の居ないこの町に居る筈が無いし、ミルハンデルみたいに都合良く飛ばされて来るなんてことも有り得ないと思ってた。

でも依頼をされた以上は…見付けたら紹介するって約束した以上は、やれることだけはやろうって思ったから。だからプリマとダンダリアンの酒場に行ったあの日、俺はダンダリアンに、客の中に狩人が居ないか聞いてみたんだ。

そしたらダンダリアンは嬉しそうに…『どうせもう直ぐやって来る、無愛想な小娘にやらせてやれ』って言うから。

働かざる者食うべからずと言うこの町で、名前、そして兵士と言う職以外何も持たずに来てしまったビエッタには戦うことしか、『殺すこと』しか思い浮かばなかった。でも争いも脅威も無い町だから、縁に座って偶に舞い降りる渡り鳥を仕留めるくらいしか思い付かなかった。

意義有る仕事だって言えなくは無い。この町は肉不足らしいから。でも徒な行為だって言えなくも無い。だって効率が悪くて、虚しいから。

『此処で働き始めてから、毎日に張り合いが出た気がする。人に求められ武器を振るうと言うのは、きっと久し振りで…何だか昂るんだ。ハルルとも…まぁ、上手くやって居る。』

『そうか…?じゃあ、良かった。』

ハルルと気が合うのかは、少し心配だった。ハルルは変わった奴だし、記憶が無い被害者を妬んで煩かったから。まぁ、ハルルだってわざわざ俺に依頼してまで募集した狩人なんだから、無闇に嫌味に遇うことはしないか?

『んっ!』

恐らく痺れを切らしたのか、ホーンが軽く声を上げる。ビエッタは目を丸くするから、きっとこの二人は初対面なんだ。

『ん…?死出の始発点には、随分珍しい小さな客だな…ルクスの友人なのか…?』

ビエッタが呆けた隙の背後から

『拾い屋…ヒサシブリー。ヤクソク破って、ナニしに来たのー…?』

高い音で、戯けた調子。何処かふざけた、でも笑えない態度。この広場の主…

『ハルル…。』

『…何でも屋も、ヒサシブリー。重症者がもうスグ店仕舞いの夕刻にフタリも揃ってナンの用?』

嫌味だ。相変わらず死んだ目は不敵な笑顔を構成するけど、俺達重症者を羨み妬んでるのかと思うと圧が生まれて…少し痛く感じる。

『拾い屋…?ハルルの知り合いなのか。では門を開けるから、中に…』

『アー、待った待った!…イイ機会だからビエッタには教えておく。コイツはホネを拾いたがるダケの酔狂者なの!アンマリホネ狂いなモンだから…入場制限シてるのサ!アノ山がイッパイになるマデは入れナイで!』

ハルルはうんざりしたように声を荒らげて、広場の隅に寄せられた骨の塊を指差す。前回散々意図不明な質問を浴びせて俺の頭に渦を巻かせた奴のこんな様子は、何だか意外だ。

指差す先の骨は山程の量とは言えず、人一人分にも満たないように見える。反対端にも何箇所か骨が集められてるけど、そっちは前回同様積み上がってて、山と呼んでも良いくらいだと思う。

『え…余って居るのだから、くれてやれば良いんじゃあ無いか?』

『ダメ。ポリシーに反する。』

『ポリシー…?』

『コイツは放っといたら好きなダケホネを持ち帰って、ジブンの倉庫に積み上げとくダケなんだヨ!ソレじゃ遺骨を持ち帰って墓にシマう、外の世界の信神者とオンナジで不毛でショ!アノホネは日用品やアクセサリーを作る材料とシて道具屋や細工屋にオロすから!』

『…余ってるのに…。』

成る程、何と無く納得した。ハルルは死体の全てを余す事無く有効活用したいんだ…人が生かして人が殺す、家畜のように。倉庫に溜めてホーンが悦に入るだけじゃ、活用とは言い難いんだろう。

『マダ一ヵ月クライしか経ってナイし、サイキンはヒマでバーサン一人が死んだダケだし…アトは前回の残りが積んで有るダケだケド?ソレトモ、理詰めのイロオトコでも死んだ?』

ハルルの仕事って、そんなに暇なのか…?この町ってそんなに人が死なないんだな。折角ビエッタを紹介してやったのに、こいつらは一ヵ月間此処で何をして過ごしてたんだ?

一ヵ月以内に死んだ婆さんって、もしかしてユトピのボケ婆さんじゃないだろうな…?

『ん、んんん…!』

ハルルの嫌味に、ホーンは唸ることしか出来無いけど……

『…ハハッ、相変わらず、ナニ言ってるかワカンナイー…。』

心乱された仕返しみたいに、調子を取り戻しながら不敵に薄ら笑うハルル。

多分…ハルルに取ってホーンは、この町で一番気に入ることの出来無い存在だ。記憶を奪われ飛ばされ、記憶に捉われずに拾い屋なんてあやふやで自由な仕事でこの町に溶け込んで、理由も分からず資源で在る死体の一部を愛でて。

『んんー…。』

ホーンが何処か苦々しそうなのも、何だか意外な様子だ。『飛翔と帰巣』を失った悲しみの中でもチェスタ達に親指を立てられる程、優しい奴だから。

『ハルル…ホーンは欲張って来た訳じゃ無い。俺がした依頼の所為で、帽子に付けてた骨のアクセサリーが失くなっちゃったんだ。それを作り直す分だけ、ホーンに分けてやって欲しい。』

こいつら、きっとズレてるんだ。だから俺が繋いでやった方が良い。俺はそれぞれの良さを、少しずつだけど知ってるから…。

『ハ…ナニソレー?ナニをどーシたら、何でも屋と拾い屋がそんなコトに?』

『ハルル…入れてやって話を聞いた方が良いんじゃ無いか?第4階層のルクスが態々此処までやって来て居るんだ…何か重大な事態なんじゃ無いだろうか?』

ビエッタがこっちに加勢してくれると

『ム…オマエ、ソンナ下から来てたワケー…?』

ハルルは怪訝そうに眉を顰めながら、鉄門の閂を引き抜いてスタスタと広場の真ん中へ踵を返した。背中が、渋々招き入れてくれてる。

ビエッタが体重を掛けて重い門を引き隙間が開くと、ホーンは一目散に小走りして、さっきハルルが指差した山と呼べない山に飛び付き漁り始めた。ハルルはそれを見遣って、頭を押さえて溜息を一つ…あんなに嫌味を言われて窘められたのに、よくもこんなに夢中で自分の嗜好を最優先出来るな。

『一つダケだからナッ!アッ…コラ!勝手に仕分けるナ…!』

ハルルはまたすっかりホーンに調子を持って行かれてカリカリしてる…俺の話を聞いてくれる余地は、残ってるのか…?

『なぁ…実は、俺にも骨を分けて欲しいんだ。一つじゃなくて、なるべく多めに…』

『ハッ!?重症者のアイダじゃあ、骨拾いがハヤッてるってワケ?』

ハルルは顔を思い切り歪めて不愉快を示すけど

『ハルル…ルクスの事だ。さては何でも屋の仕事に関する話なんじゃ無いか?何か人の為に成る用途ならば活用と言えるし、お前も吝かでは無いだろう?』

ビエッタがまた助けてくれる。こんなことになるんだったら、こいつをハルルに紹介して本当に良かった。

『ムムム…チッ!ナニに使うの?ドノ位アゲられるかはコッチで判断するから、要件をカンケツに!』

やっぱりハルルはムシャクシャしてる。確かに、簡潔に正直に話すことが肝要そうだ。

俺は昨日何が有ったか、今日何が起きたかをなるべく手短に、分かり易く説明したつもりだ。突如現れた鳥が家と呼べるくらいに巨大なこと。何をしてもびくともしなかった癖にホーンの小さなアクセサリーに反応して襲って来たこと。

『……は?ハァ…?』

努力はしたけど、一度逆立てられたハルルの心はやっぱり怪訝だ。

『トリのエサァ…?ムム……ソレ、本当なの?ナンなのそのトリ…ミズルにトばされたワケじゃ有るまいし…ハァ。』

ミズルに飛ばされた…?成る程、言われてみればそんな風にも見えなくも無い。昨日まで居なかったのに或る朝いきなり広場のど真ん中で行き倒れてるなんて、まるで被害者みたいだ。

でも、それは有り得ないんじゃないか?マミム以外に獣が居ないまま百年以上平和に続いて来たこの島にわざわざあんな化け物染みた鳥を取り込んだところで、ミズルに然したる利益が有るとは思わない。幾ら肉不足と言われてても、差し迫ってひもじい奴が居る訳じゃ無い。

『本当なんだったら、ショーがナイケド。ソッチの山の方がフルいから、ソコから勝手にスキなダケ持ってイッて……カゴとかフクロとか余ってナイから、貸さナイケド!』

ハルルは苛立ちを当て付けるように空っぽの俺の手元を睨み付けた。

籠、と言われて思わずホーンを見直して、目が合ってしまう。『一つだけ』と釘を刺されて吟味の真っ最中らしく、その背中の大きな籠の中にはまだ何も入ってない。

…ホーンに聞いても埒が明かないならば、さっきディンディイに聞いておけば良かったな…この背負い籠が、何処で手に入る物なのか。

『…ビエッタ。』

此処まで来たら、序でに助けてはくれないか?

『えっ!?悪いが私は、今は狩りの道具も此処に置きっ放しで、毎日手ぶらで通って居るから貸せる物は何も無い…其れを借りたら不味いのか?』

『……ん?』

ビエッタは申し訳無さそうに肩を竦めながら小さな背中に寄り添う空っぽの籠を指差して、ホーンはまた微かに振り返る。

『拾い屋…オマエドーセ、今日はモー帰って寝るダケでショ。そのカゴ、一晩ダケ何でも屋に預けてっタラ?』

『ん…んんん〜っ!?』

ホーンは明ら様に拒否を示した。両腕で籠ごと背を庇って、後退る。

『オマエ…拾うコトとホネに関してダケはホンットーにワガママだなッ!ドーセ此処からは一つダケしか持って行かせナイんだから今日はもう使わナイだろ!明日の朝イチバンに返却させたら問題ナイッ!』

『えっ…!』

それはそれで面倒だな…この骨を持ち帰っての巨大鳥の反応とチェスタ達が立てた作戦次第では、明日の予定がどうなるかまだ見通しが付かないし…

『……んんんー…。』

恐らく、拾い屋に背負い籠は無くてはならない商売道具なんだ。小さな身体で数歩歩けば何かを拾い上げるようなホーンに、片手を塞ぐような鞄は似合わない。

『オマエ…下にオリて、コマったヤツらをソノ目で見て来たんだろ?一晩ダケ、カゴくらい貸してやれないワケ!?』

『………んん、ん。』

でもきっと『困った奴ら』と言われて、ホーンの中の正義感が疼いてる。渋々と目を伏せながら取り敢えず背から下ろして、いじいじと籠の目をなぞって悩み抜いた後

『…………ん。』

切なそうに、山になった古い骨の前に籠を供して、合図するように俺を一瞥してから自分の物にする骨の選別に戻って行った。

『…あ、ありがとう。』

ホーンは変な奴なだけで、良い奴なんだ。どんなに善良な人間にだって、他人に迷惑さえ掛けなければ、自分の信念を優先する権利が有る。なのに籠を貸してくれたんだから、礼を言うべきだし…明日早起きをしてでも、ちゃんと借りた物を返しに行くべきだ。

『ハーッ!ジャ、サッサと必要なブンを拾って帰ってくれる?ワタシは夜がダイっキライだから、仕事がナイならサッサと寝てヒノデと共に目覚めタイの!』

ハルルはフンッと鼻を鳴らして俺達に圧を当ててから、隅に建つ小屋へ消えて行った。主が消えた代わりに、侘しい広場にはビエッタが、戸惑いながらも気不味い空気を取り持つように繕い切れない表情で見守ってくれる。

ハルルが夜を嫌う事情は見当が付かないが、どうやら俺とは違う理由みたいだ。

俺も、夜は嫌いだ。

夜が来たら、朝も来るから。

夜が降りたら、明日も連れて来てしまうからだ。磔の時の中で、何も進まず、故郷へ一歩も近付けずに…何も新しいことを思い出せずに終わってしまう一日には、臭い布団の中で瞼を閉じることが怖い。

否…今日みたいに、少しだけ近付いたような気になる日が一番怖い。地に足が付いてないみたいに、ふわふわするんだ。

何処に在るのかもまだ分かんないんだから、本当に近付いてるのかどうかも分かんないんだよ。

進む方向が、正しいのかどうかも分かんないんだ。もしも、間違ってたら?逆方向を辿ってしまってたらどうする…?

逆向きに闇雲に我武者羅に走って走って走って、疲れて、動けなくなって……時が流れて、いつか死んでしまうんじゃないかとか…

きっと、俺の記憶は愛しい筈なのに。必ず取り戻さなくてはならない、そんな自覚だけは有るのに。

俺の記憶は、俺の人生は、俺のことを見捨ててしまったんじゃないかとか

夜の闇が、瞼の裏の闇が、得体の知れない不安だけを後押しするんだ。


これって一体、何人分の骨なんだろうか。きっと何人もの死が、少しずつ集まり大量になって、ずっしりと重たい。

ホーンに籠を借りて、俺は取り敢えず入れられるだけの骨を詰め込もうとした…けど、籠が大きいのかハルルの葬送屋が暇だからか、白い山を掻き集めて詰め込んでみたら、意外と一杯にはならないまま入り切ってしまった。だから侘しい広場の足元はすっかり片付いて、より一層哀愁が増した気がする。

ホーンはいつまでもお気に入りを決められなくてうんうん唸ってたから『腸骨って奴にしないのか?』って聞いたら、がさがさと漁り直して皿みたいなでかい骨を探し出して、それに決めたらしい。

『途中迄一緒に下りないか、ルクス?』

ハルルに礼と別れを告げ門を閉じて、上りの階段の根元からホーンを見送ったところで、ビエッタからこう誘われた。確かに向かう方向は同じ『下』なんだし、別に悪くはない提案だ。

そう言えばビエッタの家って何階なんだろうか?それとも今夜も、飽きもせずダンダリアンの酒場で葡萄のワインを啜るんだろうか。

『……プリマは元気か、ルクス?』

歩き始めて直ぐ、ビエッタが口を開く。

『え…?あぁ、変わんないよ。』

『そうか…。』

会話は弾まない。そもそもビエッタに弾ませる気が有るのかどうかも良く分かんない。

こいつはやっぱりプリマに似てる。表情は不器用だし、口下手だ。容姿が麗しいのに不器用だなんて寧ろ余計に生き辛そうにも見える…プリマも、大人に育ったらこんな風になるんだろうか?

『……ダンダリアンも、偶にお前等の話をして居る。またプリマを連れて顔を出してやってくれないか?』

『え?あぁ…そうだな。』

第16階層への階段を下り切った所で、またビエッタが口を開く。弾まなかった話の、今更の続き。こいつ、本当に話すのが下手糞だ。

『…ビエッタは、第何階層に住んでるんだ?それともこのままダンダリアンの酒場まで行くのか?』

仕方無いからこっちから話を振ってやろう…って思った訳じゃない。気になってたことだし、序でにビエッタに無理をさせずに済むならその方が良いと思った。

『ん、私は…取り敢えず第15階層迄は下りる。だから良ければ、ルクスも其処迄付いて来てはくれないか?ミルハンデルも、お前に会いたがって居たんだ。』

『は…ミルハンデル…?』

意外な名前が飛び出して虚を突かれたところで、美しい横顔に急に輝く夕日が差し込んで更に目が眩む。

『にいさん…?にいさん!にいさんじゃねぇっかぁ!』

『え…あっ!ほんとだぁ!わぁい!』

今度は聞き覚えの有る無邪気な声に振り返らされて、忙しい。其処には黒髪が長い少年と、黒髪の短い、もっと小さな少年。

『セウス…フリウス…!』

『ルクス…?ルクスーっ!』

今度は何だ?…否、これも聞き覚えの有る声だ。硬くて感情の無い…否、少しだけ弾んでる気もする、女の声。

『ミルハンデル!』

目の前に垂れる下りの階段から、ゆっくりと白髪の女が上って来る。絹のような髪も、硬そうなワンピースも、朱い日差しを跳ね返すこと無く優しく受け止めてる。

『おっしょおさん!やっとにいさんに会えたなぁっ!』

『嗚呼…しかしまさか、上からやって来るとは思わなかったけどね。ビエッタと一緒に来たと言う事は…もしや、葬送が入用だったのかい…?』

ミルハンデルだって恐らくそんなに感情が表に出るような女じゃなくて、プリマやビエッタに似てるんじゃないかとすら思ってたけど…やっぱり語気は弾んで、口角は何と無く上がってる。まるで、さっきのビエッタみたいに。

ビエッタもミルハンデルも、セウスもフリウスも…何故こんなに燥いでるんだ?俺に何か用事なのか?

『…葬送に来た訳じゃないけど、ハルルに用事が有ったんだ。それで、ミルハンデルが俺に会いたがってるって…』

『そうだったのか…有難う、ビエッタ。』

『ビエッタさんありがとぉ!よかったねぇおっしょおさん!』

『…おっしょおさん?』

セウスもフリウスもミルハンデルを囲んで謎の呼び名を使って…何だか矢鱈に慕ってる。

『ん?あぁ…多分『お師匠さん』って言ってる。此奴等は、私の門下に入ったんだ。ふふ…まさか私が、弟子持ちに成るなんてね。』

『…弟子…?』

弟子って…何だっけ?何処かで聞いたことが有った気もするけど、あれはこの町でのことだったか。

『俺たちさぁ、探検家になるのが夢だったけどぉ…にいさんに包帯の巻き方を教えてもらって、ちょっと楽しかったんだよぉっ。目的も無く町をうろつくよりよっぽど『できたぞぉ!』って気分になれてさぁ……だからあの次の日もにいさんに色々教えてもらおっと思ってロラサンの家に行ったら、おっしょおさんが居て、もうにいさんは居ないって言うから…おっしょおさんの弟子にしてもらったんだよぉ!』

セウスの言うことから察するに、おっしょおさん…否、お師匠さんは何かを教えてやる奴…隊長…否、教師みたいな物か?でも、わざわざ弟子と言う物にならないとおっしょおさんから教えを授かることは出来無いみたいだ。何だか面倒臭い。

『ビエッタ、今日も酒場へ行くんだろう?私も今日は2人を家まで送り届けたら第12階層迄降りようと思って居たんだ。一緒に如何かな?』

ミルハンデルのこの口振り…もしやいつの間にか、こいつもダンダリアンの酒場に通うようになったのか?それに…

『…お前達、どうしてそんなに仲が良いんだ?』

そう言えばそもそもいつから知り合いなんだ?ミルハンデルは唐突にこの町に降り立って、その次の日に俺はビエッタにハルルの仕事を紹介して…その後のこいつらのことを何も知らない。

『ん?未だルクスには、何も話して居ないの?』

『嗚呼…私は元々第13階層の荒屋に寝て居たんだが、第18階層へは少し遠いから、ハルルの下で働く事になった際に15階の…診療所の近くに引っ越したんだ。第12階層へは遠くなったが…まぁ、折衷案と言った所だ。ミルハンデルはゴードルンが酒場に連れて来て皆に新入りとして紹介してくれた。家も年も近いし…お互い話し易い気もしてる。』

『そうなんだよ…だから私達、ルクスに御礼が言いたくてね。』

『…は?』

俺に、礼?

『俺が何したって言うんだよ…?』

『え?はは。悪い事したって責められてるみたいな言い方して…私達はルクスに感謝して居るんだよ。ビエッタはルクスに仕事を紹介されて、第15階層で暮らすようになった…私が第15階層に飛ばされたのは偶然か、将又ミズルの気紛れなんだろうけれど。でも私は何と無しに、今自分が此処で医者をして居るのはルクスの御陰なんじゃないかと思って居る。だから私達が友人に成れたのも、此奴等が弟子に成った事も、ルクスの御陰だ。有難う。』

『ありがっとぉ、にいさん〜!』

『ありがとぉ!』

ミルハンデルの元に駆け寄って、ニカッと同じ笑顔をこっちに向ける黒髪兄弟。教師や隊長とは少し違う感じもするな…どちらかと言えば、育て屋のプラツェに擦り寄る子供達に近い。

『…私からも、有難う。ルクス。』

ビエッタも、家々の隙間から溢れる光に照らされる微かな笑顔が美しい。

……こいつらが何を言ってるのか、全然分かんない。

何を成したのか自覚も出来無い癖に、訳も分からず褒められて、何と無く皆が笑顔で、嬉しいような気がするなんて馬鹿みたいだ。

レストラの笑顔にプライドの器を満たされた時の感覚に似てる。でも、今回満たされた器は誇りじゃない。そんなに大層な物じゃないんだ……只、素直に嬉しいだけなんだ。

笑顔って、魔法みたいだ。

……良くない、魔法だ。

『…さて。ルクスも良ければ一緒に如何?ダンダリアンも、会いたがって居たよね。』

『あ…ルクスは今日は無理だろう。此の背中の荷物を下階へ届ける迄が、ルクスの今日の仕事だ。』

ビエッタがずっしりと重い籠を目線で指すと、ミルハンデルはぱちくりと目を丸める。

『おや。そうか…其れは残念。では、またの機会に。今度はチェスタとビスカも連れて来てよ。』

『嗚呼…ビスカ、か…。』

ビスカの名が出て、何故かビエッタは微かながら眉を顰めた。

立ち話に花が咲く内に、夕日はまるで引力に引き寄せられるように海に吸い込まれて…それに引っ張られる形で、背後から暗闇が確実に這い寄って来る。

『あ…もう暗くなってしまう。行こうか、セウス、フリウス。御母様を心配させてしまう。』

『うんっ!じゃ、まったねぇ〜にいさんっ!』

『ばいばぁい!』

『では、私もミルハンデルと共に行くとしよう…ルクス、此処迄有難う。また…。』

ビエッタはしなやかな手の平を翳して、黒髪兄弟はぶんぶんと腕を横に振って、ミルハンデルも手の平を軽く揺らす。笑顔で手を振るのは、別れの合図だ。只の別れじゃない。きっと次が有る、優しい別れ。

『うん、また…。』

俺も頭の少し上辺りに左手を翳して、一振りしてみた。4つの背中が直ぐ其処の角を曲がるのを見届けてから、目の前に垂れる階段に足を掛ける。

何だったんだろう、この一時は?余計な時間を食ってしまった気がする。急がなくては。

なのに何だか忘れられない。大切なことは何一つ…自分の出処は何一つ思い出せないのに、何でこんなピンと来ないどうでも良いことは忘れられないんだ?

俺の、お陰とか……『ルクス』のお陰……否、『ルクス』って、『誰』なんだよ…!

この混乱は八つ当たりって奴だ。ミズルと言う理不尽に支配されたこの町にのうのうと溶け込む住民達に、他ならぬ自分が溶け込んでいってしまってるんじゃないかって…焦りを忘れたくて、何でも良いから自分のことを思い出したい。取り戻したい。

ルクスって誰だよ。

俺は、ルクスなんかじゃない。

きっと、その筈なんだ…。


もうすっかり暗くなってしまった。山道には住居も街灯も滅多に無いから暗くて歩き辛いし、侘しくて焦燥が煽られる。

でも最短距離で広場まで戻らなくては。チェスタ達はまだ残ってるだろうか?見下ろせば周りの家々から漏れる柔らかな明かりが、巨体を覆うふさふさの細かい毛を照らし付けてる。側に人影は見えないが、視線をずらして広場の外周を見回すと…ベンチに座る男が2人、途方に暮れてるようにも見える。

『チェスタ…ビスカっ!』

最後の一踏ん張りと思って走りながら呼び掛けると、2人ははっと立ち上がってこっちを見上げて…多分、本当に待ちくたびれてたんだと思う。

『ルクス…流石に遅いぞ…!』

『もう帰ろうかと思っていたところだぞー!…その、背中の荷物は…?』

2人はすっかり待ちくたびれて、待ち切れなかったんだと思う。立ち上がって、俺が向かう方向へ駆け寄って来てくれて…俺は兎に角早く2人の元へ辿り着かなくちゃって、広場の中へ走って…

忘れてた。否、見くびってた?あいつの、人骨への執念を…!

『はっ…!』

最初に異様な空気を察知したのは身体担当のビスカだけど

『…っ!成る程…逃げろ、ルクス!』

それを受けて、逸早く事態を理解したのは頭脳担当のチェスタだった。

『はっ…あ!うわ!うわぁああっ!!』

何でも担当の俺は…迫り来る巨大毛玉の鋭い嘴に、間抜けな声を上げるしか無い…!

早い…否、速い!取り敢えず逆走の体勢を取るけど…こんなの、人間なんかが逃げ切れる訳が無い!

でも、こいつ…羽ばたいて飛び付いて来ては居るが、飛翔してる訳じゃない。これは、跳躍だ。思えばホーンを襲った時もそうだったかも。体が重過ぎるんだ。

ドスン!と地が響く。広場の欠片が粉みたいに舞う。そんな様子がいやに冷静に目に焼き付くってことは、俺は既の所で躱せたみたいだ。

でもまだ鋭い嘴はその姿を覗かせてる。つまりあいつは顔を上げて俺を…否、俺の背中を諦めてない。恐怖がそう見せるのか、まるで刃物みたいに光って見える。

『おいルクス…また来るぞっ!』

ばさっと大きな羽が一震えするより僅かに早く、ビスカが声を上げてくれる。でも、だからって何処に逃げれば良い?いっそこのまま海まで走るか…否その前に追い付かれるか、俺の足が駄目になるだけだ…!

『ルクス!その背中の荷物をいくつか投げろー!気を引けるかもしれない!』

どうしたら良いか分かんない時は、咄嗟だとしても聞こえる声の言うがままにやるしか無い。チェスタがくれた声の通りに、左手で骨の欠片を掴んで、迫り来る毛玉目掛けて投げて…怖かったから一応もう2回、掴んで投げて、掴んで投げた!

白い塊は毛玉の横顔を掠めて、それを追うように燻んだ薄桃色の嘴はぐるりと曲がって…その刹那に溝色の巨体はもう一度、重力に負けた。

ズシィイイイイッ…ン!

そんな音が、衝撃が響いて、また少し粉が舞う。

広場の地面にはモザイクみたいな石畳が敷かれてる。でももう、あの蠢く毛玉の下は滅茶苦茶になってるだろう。俺の所為かも…。

『おい!今のうちに、それをどこかに…あいつの鼻の利かないどこか遠くに隠せーっ!』

俺は考え足らずの馬鹿だから、聞こえる声の言いなりにやるだけだ。反射的に舵を切ったのは山の方向へ引き返す形で、丁度第2階層くらいの高さまで坂を駆け上ったところで、適当な草むらの裏に籠を下ろした。

見下ろすと、毛玉は身を捩って嘴を八方に動かしながら、散らばった人骨を取り込もうと踠いてる。巨体には繊細な動きは難しいのか、案外上手く行ってない。

『ルクスー…!』

二人がこっちまで来てるからやっと合流する。ビスカはチェスタの顔色を窺って…チェスタは、呆れた形相をして怒ってる。

『お前ー…目の当たりにしたホーンの悲劇を忘れたのか…!せっかく調達した餌が危うくフイになるところだったぞー!』

『ご…ごめん…本当にごめん!』

これに関しては只々俺が悪いから、反省するしか無い。朝から上に行って下に下りてまた上に行って…新しい奴と出会って知らない言葉を沢山浴びせられてホーンと歩けば度々蹲んで中々進めなくて、ハルルには苛立ちを当て付けられて、ビエッタ達との余計な一時は忘れられなくて、結局…今日一日の間に思い出せたことは有ったようで一つも無かったみたいだから。

夜になってやっと此処まで戻って来られて、安心しちゃったんだよ…

俺だって、不本意だ……。

『…えっと、ルクス。結局ホーンの帽子に付いてたっていうアクセサリーの正体は分かって、それを調達して来られたってことなんだよな?一体、白い石って何だったんだ…?』

俺が肩を落としたのを見てか只気になってただけなのか、ビスカは草陰に隠れた籠の方へ話題を逸らしてくれた。チェスタはまだ少し剥れながら、ふぅと一つ溜息を吐いて調子を整える。

『あれは…人骨だ…。』

『…人骨ー…!?』

チェスタとビスカが目を丸くする様子が見られて、少しだけホッとした。ディンディイとホーンの様子を見て、ハルルが人骨まで余すこと無く活用したいって聞いて、人骨のアクセサリーなんておかしいと感じた自分が変なんじゃないかって思えてきてたから。

俺はチェスタとビスカに、ディンディイから聞いた話をそのまま伝えた。

『…ふむー、なるほど。確かにディンディイとやらの言うことで辻褄が合うようにも思えるなー…しかしそのような奇特な鳥が、なぜこんな最低層にー…?』

ハルルの、ミズルがどうこうと言った呟きは伝えてない。俺が、そんなことは有り得ないなって思ったから。

『チェスタ…どうする?あいつをどこにやるのかと、どうやって動かすのか…ルーバーも、ああ言ってたし。』

『ルーバーが…?』

『あー…そうだな。仮にあの鳥を首尾良く動かせたとしてもー、処遇そのものを決めかねているのだ。ディンディイの言うとおりー、ルーバーは家禽を飼育するプロであり、鳥類全般に精通しているわけではないー…あいつの苦しみを最小限に止めつつ息の根を止めることは難しいだろうから、出来れば施設の整った鳥飼屋まで連れて行って欲しいと言っている。』

苦しみを最小限に、息の根を…

何だか、ユトピが言ってたことに似てるな…。

何故そんなことを考慮する必要が有るんだろうか。どうせ殺すなら、どうせ死ぬなら…苦しみの有無なんて関係無い筈だ。死んだら終わりで…つまり、死んだら楽になれるのに。

…まぁ、ルーバーが言うなら仕方無いか。あんな怪物、そもそも殺すことすら難しそうだし…鳥飼屋って奴なら、何とかしてくれるんだろうか。

『まー、海に運ぼうが上まで運ぼうが、運搬のプロである運び屋に協力してもらいながら丈夫で広い路を選べば何とかなるだろうー。しかし肝心の、こいつをどうやって動かすかという方法がー…うーん…!』

『…骨で釣って動かすんじゃないのか?』

『さっきみたいな調子で、31階まで走り切れるか…?』

俺の間抜けな質問に、ビスカは溜息を吐いて苦笑する。

昨日、遠くから毛玉を眺めた時の気分を思い出した。余りに途方の無いことに直面すると、何だか愉快な気分になってくるのは何故か。

『鳥飼屋って、31階じゃないと居ないのかよ?』

『他の階層にも居るがー、一番近いのが31階なんだ。確か…アンギュラとかいう名だったかな?鳥は主に高い場所に飛来するものだからー、今や低層階に鳥の知識を詳しく有する者は居ないのだ…。』

『…やっぱりなんとか海まで連れてって、そこでどうにかするしかないのかな?』

ビスカが、何処か切ない顔をする。すっかり暗くなった広場で、家屋から溢れる明かりだけが照らすから余計にそう見せるのかも知れない。

『そうだなー。海で、食事を出来ぬまま衰弱したところを男何人かで掛かれば、何とか仕留めることが出来るだろうかー…?はー…。』

…何だ、それ?

成る程、チェスタの言うようにしたら、最小限の苦労で邪魔者を片付けることが出来そうな気がする。

でも、少しだけ何かが引っ掛かって、気分が悪いのは何故なんだろうか。

さっきは苦しみの有無なんて関係無いって思った癖に、自分が矛盾してるみたいで嫌だ。思い出したけど、ハルルが婆さんの死体を蹴った時の感覚に似てる気がする。

『…いつ、海まで運ぶんだ?』

『うーん。人手とも相談だがー…あの鳥もあれでもうかなり弱っていることだと思う。この広場で餓死されてここで解体作業をすることになっても困るからー…明日はまず誘導経路の確認をして、皆に協力を呼び掛けてー…早ければ夕方頃には行けるんじゃないか?ルーバーにも聞いてみなければならないがー。』

『……そうか。』

何て言ったら良いか分かんないし、俺には何も思い付かないから、何も言わないことにした。

『とりあえず、明日も朝からこの広場に集合だー。あいつには…明日ルーバーに相談して、人骨を混ぜた餌をやってみるかー。死ぬ前に好物を食わせてやろう。腹を満足させてやったら、肉の質も良くなるかも知れないしなー。』

『すぐに殺すなら、関係無いんじゃないか…?胃袋に物が残ってたら、捌きづらそうだし。』

『ふっ…気分の問題さー、ビスカ。』

気分か。そうか…これは飽く迄も、気分の問題なんだ。

少しすっきりした。気分なんてそんなもんだ。誰かの他愛も無い一言で切り替わるような、形が無くてあやふやで霧のように不確かな物。

『ルクスー…明日、ちゃんと朝から来るんだぞ。今日のようにのろのろしないようにー。』

『……分かってるよ。』

心外だ。別に今日だって、寝坊した訳じゃ無いのに。

まだまだ幾つかの苦労は残ってそうだけど…この奇妙な事件も早ければ明日、3日目にして一段落付きそうだ。

鳥飼屋の話が出て来て、第31階層に行けるかも…とか、ちょっと思ったんだけど。そう何でもかんでも思い通りに行く訳でも無いし、行けたとしてもゆっくり回る暇なんか無いか。

…それに、第20階層だって第21階層だって、大した収穫なんて何も無かったんだ。

今、此処で何も持たないんだから、此処じゃない何処かに行けば何かが有るんじゃないかなんて…甘い考えだったのかな。


今朝はびっくりした。何て言ったら良いか分かんない。

『いってらっしゃい、ルクス。』

『……うん。』

プリマが俺を見上げれば、花のように広がる髪は後ろで揺れる…慣れはしない。

まだこの町が働き出すには少し早い時間だけど、ホーンに一刻も早く商売道具を返してチェスタにのろのろしてるとか言われる前に広場へ行けるように、もう動き始めなくちゃならない。

ずっしりと詰まってた人骨はあの後ビスカが持って来てくれた適当な箱に移して山道に置いて来たから、空っぽの籠はもうこの手元に収まってる。

折角だから、第21階層へ上り切るまでの間、背負って歩いてみようかな…?

とか思いながら、蒼い扉に身体を預けた瞬間

『んっ!』

掛け声のような唸り声と同時に勢い良く引かれた扉に俺の全部は持って行かれて…倒れそうになったけど丁度、腕の中の籠は小さな胸へ飛び込んだ。

『……は…?』

『ん。』

『………誰?』

一連を眺めるしか無かったプリマが呆ける。ホーンは直ぐに奪った籠を背負う。

そんなに早く籠を返して欲しかったのか…?わざわざこんな朝早くにやって来るなんて…この家のことは、どうやって知ったんだ?その辺を歩く誰かに聞いたのか?否、喋れないこいつがどうやって聞き込みするんだよ…?

『ルクス…そいつが、籠を貸してくれた拾い屋…か?』

『あ…あぁ。ホーンっていって、こ』

『んっ!』

ホーンは俺を越えた先のプリマに向けて元気良く唸りながら丁寧に一つ辞儀をして

『ん!』

がら空きになった両腕を使って、俺の左腕を引っ張った。

『…っ、おい!何するんだよ…っ!?』

咄嗟に身を引いて抵抗しようとしたけど…こいつ、身体の小ささの割には、結構強い…!

強いと言うより、根性が有る!簡単に諦めないから、ずるずると俺の身体は日差しの下に引き摺り出されて…

『ルクス…?』

『プリマっ!このこと、チェスタに…』

伝えておいてくれっ…!

とまでは、声は届かなかったと思う。傾きの力でゆっくりと閉まる扉に遮られてしまったから。

『おい、ホーン!籠はもう返しただろ!一体何なんだよ…!?』

ホーンは唸りすら上げなくなった。俺の手を引っ張って黙々、ぐいぐいと進み、階段を上る…。

これ、もしかして第21階層まで連れて行かれるのか…?

何の用事で?元々籠を返しに行くつもりだったから上るのは良いけど、時間が掛かるのは御免だぞ。広場に集合するのが遅くなったら、チェスタから小言を刺される…!

ホーンは黙してひたすら進む。やがて空の弁当箱を持って返しに行く奴や、仕事道具を持って歩く奴と擦れ違うようになって…この町は、どうやら今日も動き始めた。

観念して抵抗を緩めてもホーンの腕が緩むことは無くて、こいつの『仕事』への執念を感じる。そう…こいつは恐らく誰かに頼まれて、俺を拾いに来たんだ。

あやふやな仕事は、何を何処まででもやらなきゃならないんだ。お互い、苦労するよな…言葉を介さないお前がどう考えてるのか、俺には知るべくも無いけどさ。


ホーンは、小さな窓の付いた扉を身体を使って押し開ける…第21階層で俺のことを呼びそうな奴なんて、そりゃあ此処くらいしか思い付かないよな。

でも、昨日の今日でわざわざ何の用だって言うんだ?

『ルクス…待ち兼ねたよ!拾い屋のホーン、確実な仕事をいつもどうも有難う。』

『…ん!』

輝く髪の色男が何処かわざとらしい謝辞を述べると、拾い屋のホーンは大層得意気に鼻を鳴らしてやっと俺の腕を解放した。

『おい…何の用だよ?ホーンに籠を返したら、今日もあの鳥をどうにかする為に働かなくちゃならないのに…!』

『働かなくちゃ』と言って、何だか癪だ。昨日こいつが出してくれた、気に食わない助け舟を思い出してしまったから。

ディンディイは俺の抗議にも一つの疾しさも無さそうにニコニコ爽やかに笑ってる…余裕って奴は、どうにも人を不敵に見せる。

『其の鳥は、如何する事に成ったんだい?』

『は…?』

『如何遣って何処へ運び、何の様な処置を施す?』

『え……あ……。』

答えられやしない。分かんないからだ。

『…えっと、牧畜屋のルーバーは出来れば鳥飼屋に頼みたいって言ってるんだけど、31階まで運ぶのは…あいつは人骨が無きゃ死んだみたいに動かないし人骨が近付いた途端に目の色変えて襲って来るから、階段を幾つも越えて走り抜くのは難しいんじゃないかって。だからせめて海まで動かして……其処で飢えさせて、弱らせて…何人掛かりかで仕留めようって話になってる…。』

声が勝手に萎む。何故俺が疾しい気持ちにならなくちゃいけないのか分かんない。でも、あいつを助ける義理が無いとか捌くのが一番良いとか最初っから言ってたディンディイだから、別に何とも思わないんだと思うけど。

ディンディイは…

『ははっ…やっぱり!』

とても嬉しそうに満面で笑った。

やっぱりとか…まるで、こうなってるって分かって聞いてたみたいに。

『ディンディイイイイイイ!!』

謂れの無い気不味さと疑問は、喧しさに打ち消された。振り返れば、ホーンは豪快に扉を放った煩さを避けるように部屋の真ん中の机へ移動して、残されたニレイはどうやら憤りに打ち震えてる。

『許さん…許さんぞッ!葬送屋等初めて赴いてみたが…貴様の名を出したら、頗る嫌な顔をされて仕舞ったではないかッ!御陰で俺の発明が如何に此の町の発展に繋がり人々の為に成るのかを、滔々と説明する羽目になったぞ…!何故ホーンに行かせない!』

『…葬送屋…?』

言われて、気付いた。ニレイの右手には何か白い物が握り締められてる。程良い太さで、立派な棒みたいな…あれは、まさか骨…人骨、か?

『うーん、矢張りそうか…其れは済まない。ホーンは彼女にすっかり嫌われて仕舞ったみたいだし、俺は此の家から離れられないからさ。』

『…や、矢張りとは何だ…!其れならそうと最初から言えぇえッ!俺迄嫌われ掛けただろうがッ!』

『掛けただけならば良かった。最終的には嫌われずに済んだのだろう?』

何だか…まるでふざけてるみたいなやり取りだ。否、ディンディイが楽しんでるだけか?

『貴様、大概にしろよっ…ルクスッ!』

『はっ?』

ディンディイに真っ直ぐに食って掛かってた筈のニレイが、立ち所にこっちに視線を刺す。俺が何したって言うんだよ…お前が葬送屋で何をして来たのかも分かんないんだぞ。

『君ィ…先端を忘れて来て居るでは無いか!必ず持参する様に言ったのに。』

『え…?』

否…そもそも俺はホーンに無理矢理連れて来られただけで、おたまを持つ暇すら与えられなかったし、ニレイが居ることも聞いてないんだけど…。

『ニレイ、君の知的探究心には全く共感出来るが、此れから始める作業には支障は無いじゃないか。さっさと始めて、下階の事件を解決すれば…ルクスは君の天才ぶりに満足して、発明屋の御得意に成ってくれるんじゃないか?』

『むっ!?…ふむ、うーん…まぁ、良かろう。次回は忘れるなよ、君ッ!』

作業?これから何が始まるんだ?もしかして時間が掛かるんじゃないか…家を出てから、もうどれくらい経ってる?チェスタ達もそろそろ家を出た頃なんじゃないか…?

否、待てよ……事件を…解決?

これから、何が始まるんだよ…!?

『…と言う訳でルクス、先ずは其処にでも座ってくれ。』

『否、何がどう言う訳なんだよ!』

ディンディイは机を挟んでホーンの向かい側の席に俺を促すけど…理解出来る訳が無いだろ!

『君の望みは、溝色の巨大毛玉を最善の方法で処理する事だろう?』

ディンディイには、一つの疾しさも無い。ニコニコして…まるで、不敵だ。

『…そうだけど。』

『しかし安定した運搬方法が確立出来無いから、最小限の移動距離で済む次善策に甘んじようとして居るんだ。其処でさ…昨日君の話を聞いてから、俺に一つだけおも……良いアイディアが浮かんだんだよ。良ければ、座ってくれないか?』

『えぇ…?』

こいつ今…『面白い』って言いそうになってなかったか?

少しだけ、何となくだけど、嫌な予感が…不安がする…!

でも何分どうやらこいつは頭が良い。本当に良い方法が有るんなら、チェスタだってビスカだってルーバーだってそれを望んでる…俺だって、そりゃそうだよ。

『……取り敢えず、話を聞かせてくれ。』

迷いながらも、草で編まれた椅子に腰を下ろすことにした。

話だけ聞かせて貰って、走って広場まで行って、良いアイディアとやらを持ち帰った上で事情を話せばチェスタも許してくれるだろうか…?

『うん。説明は、実物を用いながら行った方が話が早いだろう…ニレイ、ホーン!』

『んっ!』

『ふん、指図をするなッ!』

ディンディイの合図で、部屋の中の空気が一変する。

ホーンは立ち上がって、さっき俺を引っ張ってずんずん階段を進んだ時と同じだ。真っ直ぐに、与えられた目的だけを見据えてる。

ニレイの瞳は輝き出した。ギラギラと力強く、元々喧しい奴に、より一層の生気が灯されてしまった。

ディンディイは…笑顔だ。

疾しさなんて微塵も無い…つまりは邪気が無いんだ。こいつ、面白がってる…!

『良し、ホーン。机上に固定してくれ。先ずは解体からだ。』

『んっ。』

『はっ…おいっ!何する気だよ!?』

ニレイに命じられたホーンは身を乗り出して、またしても根性を以て俺の腕の自由を奪う…今度は、がらくたの右腕の方。

ニレイの右手指の隙間からは、2本の尖った棒が飛び出して身の毛がよだつ。嗚呼…否、あれは…ドライバーって奴か…?プリマの道具箱に何本も入ってた。

『始めるぞ。動けば要らぬ傷が付く事に成るやも知れん…大人しくして居ろよ、君ィイ…!』

ニレイは眉も口角も吊り上がって…狂気すら感じる…!

…否、待てよ。何なんだよこれ?今、何が起こってる?これから何が始まるんだ?さっきからずっと、一体全体…

『何で俺が、こんな目に遭わなくちゃならないんだよぉおおおおっ!』

心からの叫びを受けて、ディンディイは

『…うん。実物を用いながら説明した方が早いだろうね。お互い、暫く発明屋の仕事に委ねようじゃあ無いか。』

笑顔で椅子を回転させて仕事に戻った。疾しさなんか、一つも無い。


もう観念した。発明屋に拾い屋に電気屋…どれも下層階ではちっとも聞いたことの無い職業ばかりだったけど、こいつらのプライドには感服だ。それぞれ仕事を完遂する為ならば、全く聞く耳を持ってくれやしない。

『嗚呼、確かに其のおたまの腕とやらを戻す為には、此の4つの穴に合う螺子を嵌める他無いだろう。しかし其れならば此の下の…土台ごと取り替えて仕舞えば良いのだ。其の上で頑丈な土台を新しく取り付ければ良い……ふんっ!ほら、矢張り俺は正しい!』

昨日の下調べが俺から聞き取った情報と嵌まって順調なのか、ニレイはおたまの台座…つまりは錘みたいな腕の蓋のような部分を取り外すことに成功した。

『矢張り中は空洞だ。とても丈夫な、見た事の無い合金で囲まれた空洞…先端に武器や道具等のパーツを装着し、内部には其れが働く為の機構を収納して居たのだと思われる。』

中身が空っぽなのは、腕を振った感じで最初から分かり切ってたことだ。だから何故こんな大層な覆いを施すのか意味が分かんなかったけど、成る程確かに。この中に仕組みを仕舞えば素早く武器を飛び出させたり、火を吹かせたりすることも出来るのかも知れない。

おたまの腕には仕組みなんか必要無いから、空っぽのままだったんだ。

『…矢張り君の腕は、存在しないのだな。』

嗚呼、分かってたよ。別に今更、悲しくも何とも無い。

だから、お前がそんな目なんか、別にしなくたって良いのに…。

『しかしおたまの腕とは、責めて手首が使えないと意味が無いなぁ……掬い上げても、溢してしまうだろう。』

ニレイはどうやらおたまのことを理解してるらしいが、料理をしてた訳じゃなくて、賢いから知識として知ってるってだけなんじゃないかと思う。それとも、外の世界では皆当たり前に知ってる物なんだろうか。

『存外、本当に巫山戯ただけなのかも知れんな。』

ニレイの目は、さっきのままだ。錘の中身が空っぽなことを確かめて俺の腕の半分が存在しないことをゆっくりと含んだ時の瞳で…口角が、見えない程微かに悪戯っぽく上がった。

『そんなこと…有って堪るか。』

そんなこと、有って堪るかよ。

掬い上げても溢すような、おたまとしての役割すら果たせないがらくたくっ付けたまんま、今までの自分全部失くして。

そんながらくたが、今までの俺にも大切な人が…故郷が在った筈なんだっていう唯一の拠り所で、不確かな証拠なんだ。ふざけ過ぎて、余り有る。

『そうだな。同情しよう。だから意味の有る腕を作ってやるんだ。何やら自信が有る…俺は必ず、君が最も求める腕をくれてやる!』

『は?何だそれ…?』

『ふっ!…先ずは、君が今成すべき仕事に特化した道具を施してやるから、其れを使用し君は俺の仕事ぶりを評価するが良い!…今回はディンディイの発案が元と言う点が癪だが、設計と作業は他ならぬ発明屋の俺だからな。其の点を決して忘れる事の無い様にッ!』

ニレイの調子はいつの間にか戻って、瞳は熱く、口調は喧しくなった。

結局、発明って何なんだ?この町で俺の腕を弄ろうとする奴はプリマ以来だが、ニレイのこの作業は今のところびっちりと閉じてた空洞の蓋を外しただけで、どちらかと言えば修理と言うより破壊に近い。

『俺が天才で在る故に頗る順調だが、後少しだけ時間は掛かるから聞いて置こう。君…どんな機能、どんな姿を望むか、決めたか?』

本当に、ニレイは俺の希望に寄り添った腕を発明してくれるつもりなんだろうか。我儘だって知ってても、無理だって分かってても、天才だったら、受け止めてくれやしないだろうか…?

『…鏡の中の左手が、欲しい。』

見向きもされず暇を持て余してた生身の腕を持ち上げて、緩慢な空気を掴んで見せてみた。ニレイの手は止まって…ぱちくりと瞬きながらも、真っ直ぐに向き直ってくれた。

でも、やっぱり無理な物は無理だ。天才って何のことだか覚えてないけど、多分神のことでは無い。

『…君の気は察するに余り有る。しかし人間の指の動きとは我々が平時意識する以上に細やかで正確で、其の靱やかな造形と併せても奇跡と呼べる。自由に指が動き物が掴める腕其の物等…』

『そうだよなぁ…神が与え給うた、生命と言う奇跡。幾ら君と言えど…』

何処から聞いてて、何処まで聞いてないのか良く見えないディンディイが何気無く口を挟む。元々無理は承知だったし、賢い奴に賢い奴が同調するんだから、諦めも付く…とか、思ったけど

『否……否、待て!俺に不可能等無い。発明は魔法だ。全てを可能に書き換える!』

『え…そうか…?』

急にニレイは掌を返して胸を張って、今度はディンディイが振り返って瞬く。

ニレイのスイッチって、もしかして、ディンディイ…否、『不可能』か?

『天才』に依る『発明』で『不可能』に抗う…?成る程、確かにそれって…

『魔法』みたいだ。

『だが…時間を寄越せ!そう、こう言う物は、急拵えの良い加減は良く無いからな。其れ迄は…そうだな。ちょっと考えるから、1日くれ。』

『1日で良いのかい?良い加減は良く無いだろう。』

『おたまなんて冗談みたいな腕や重厚なだけで何も持たない腕の方が良く無いだろう。少なくとも、其れよりは役に立つ何かを作るッ…俺は天才なんだから!次こそは、ディンディイの出番は無いッ!』

『はぁ…そうかい。だそうだよ、ルクス。』

ニレイは此処ぞとばかりにディンディイに勢いを当ててからまた手を動かし始めて、ディンディイは呆れた風に見せて少しだけ楽しそうに息を吐いてからまた椅子を回転させて背中を見せた。ホーンはもうこの場での役目は果たし切ったのか、ディンディイに断ってから何処かに出掛けて行った。きっと今頃また、沢山のがらくたを背中の籠に集めてる。

ニレイは、後少しだけ時間が掛かるって言ってた。重い腕を弄られてる間は動くことも出来なくて暇だから、今まであんまりちゃんと見てなかったこの家の様子を見回してみる。

この部屋は…この町で過ごした部屋の中で、何だか一番居心地が良い。壁や床、机なんかの家具は滑らかに切り出された木で作られてるが、椅子は硬い草で編まれてて、柔らかくて座り易いし隅に飾られた小さな木と調和してる気がする。壁に囲まれてるのに開放感が漂うようで、不思議だ。

第1階層の広場ではまだ人々が困ってるのに、早く広場へ行かなければチェスタに怒られるのに、この爽やかな空間と二人が黙々と仕事に打ち込む穏やかな時の流れが緩慢さを生み出すから、非常に良くない。

せめて、少しでも身になる、役に立つことを思案して時間を有効活用するんだ。それがきっと、この緩慢の根源で在るミズルへの抵抗と成る。仕事の役に立つこと、若しくは失った記憶の手掛かり…

……魔法って、何だったかな?

今まで何回か無意識に当たり前のように使ってきた言葉だが、よくよく思い返そうとしてみたら、そんな物俺は一度も見たこと無かったような気がするんだ。

でもきっと、さっきのニレイの口振りから察するに、何処か超常的で…それこそ奇跡を叶えるような力。

見たことも無い癖に…

俺はそんな力を、強く夢見て居たような気がする。


結局どれくらい時間が経ったかは分かんないけど、確かにそんなには掛かってない気はする…そう、信じたい。

『良し。先ずは立ち上がって、ゆっくりと腕を振ってみるんだ…具合は、如何か。』

言われた通りに腰を上げて、先ずはそろりと上に、次は下に動かしてみた。ずっと同じ姿勢に固定されてたから、こんな動きだけでも解放感を味わえる。

何かを中に入れ込まれてたみたいだけど、重くは無くて感覚は殆ど変わらない。只、空っぽの虚しさだけが無くなって、何かが詰まった窮屈さだけが少しばかり気になるようになった。

『…うん。問題は、無いけど…。』

無いけど、この腕は結局一体何なんだよ。空洞の中に何かの仕組みを入れたんだろうけど、外側に飛び出る物は何も無くて、見てくれは昨日までと何にも変わんない。錘の蓋の部分はどうやら付け替えたみたいだけど、結局塞がってるし。

『言って置くが、此の仕事は俺が天才で在る故に此処迄の早さで成し得た物だと思えよ。シンプルに見えながら非常に堅牢な造りで在ったが、如何にも此の天才の閃きが冴えパズルのピースが嵌まるが如く』

『さて、其れでは此処からは俺の役目を果たす時間だ。其の腕の使用方法を、実物を用いて説明しよう。』

『おぃいいイッ!俺の口上を遮るなよッ!』

こいつらの会話っていつも、まるで冗談を演じてるみたいだ。使うのは二人して、難しくてややこしい言葉ばかりの癖に。

『ルクス、此方へ来て貰っても良いかな?』

こんな時までディンディイは席を立つことをしない。こいつ、風呂とか便所とかはどうしてるんだろう…まぁ、どうしても必要なことは出掛けてやるんだろうけど。近付いてみたら、何だか少し良い匂いがするし。

『ニレイ、此れは、結局釦は何処に?』

『天面…突出口の側だ。』

『えぇ?少し危なくないかい?発動と同時に勢い良く飛び出して手に当たる可能性が。側面の方が良かったんじゃ…』

『其の位の安全意識が俺に無いとでも思ったか!技術的に不可能なんだッ!…今の所は、な。天面の蓋は比較的薄く簡素で、分かり辛い繋ぎ目を如何にか探し出して螺子を外す事に成功したが、側面の金属は頑丈過ぎて穴を開ける事も出来無ければ繋ぎ目も見付からない。無理に手段を施せば身体から外れて二度と元に戻せない可能性も有る…如何やってそんなに強固に喰っ付いて居るのかも、未だ解明出来て居ないのだ。チッ…!』

おい、危ないとか何とか言ってなかったか?何が飛び出てくるのか気になって仕方無いけど、ニレイの話も気になる。

不可能に抗う天才が不可能と言う言葉を持ち出す程の技術が使われてる…この腕って、もしかして結構凄い物なのか?

『うん、分かった分かった。まぁ、ルクスが注意して使用すれば問題は無いだろう。と言う訳でルクス、彼方の方に腕を向けて、此の釦を押してみてくれ。』

ディンディイに言われて腕を曲げて錘の蓋を覗き込むと、昨日までと何も変わらないと思ってた其処には良く見たら中心にうっすらと円が描かれてて、その側に小さく丸い突起が飛び出てた。

ボタンってこれのことか?きっとこの円から、何かが勢い良く飛び出して来るんだろうな…気を付けて、注意しながら、ディンディイが指差した誰も居ない何も無い虚空へ腕を定めた。

腕を伸ばすと蓋は見えなくなるから、手探りで小さな突起に指を掛ける。ぐっ…とほんの少し力を込めると、ガチャッと、意外と大袈裟な手応えがして

感覚が蘇った。

記憶は、思い出は、情報は蘇らない癖に…感覚だけが。

『…っわぁ!』

その感覚も、勢い良く飛び出て来た白い塊への驚きに因って直ぐに引っ込む。まるでそれに付き合うみたいに塊も直ぐに腕の中へ引っ込む。

『嗚呼、釦を押し続ける間だけ骨が飛び出す仕様に成って居るからさ。もう一度、押し続けてみてくれないか?』

『骨…?』

ディンディイに言われて、恐る恐るもう一度ボタンを押してみる。潔く押そうがゆっくり押そうが飛び出す物の勢いは変わらなくて、この機構が今自分の体の一部で在るだなんて信じ難い。

豪快に飛び出したのは、棒だ。白くて太い…さっき、ニレイが持ってた棒か?つまりは…

『ルクス、其れは大腿骨だ。人体の中で最も太くて長い骨…ホーンからの聴取に拠れば、葬送屋の余り物の骨は全て君が持ち去ったが、新規の一人分の人骨はホーンが持ち帰った腸骨一つ以外は其の儘なんじゃないかって事だったからさ…今朝ニレイが自らの好感度を犠牲に迄して拾って来てくれたのさ。』

『おィイイイイイッ!!貴様が前情報を寄越さない所為だし、嫌われ掛けただけだ!嫌われては居ないッ…筈だ…ッ!』

唸ることしか出来無い筈のホーンからどうやって其処まで聞き取れるんだ?

まぁ確かに…俺はハルルが許可をくれた山積みの古い骨は残さず全てを籠に収めたけど、ユトピの婆さんかも知れない分の骨は最後までホーンがじっくり品定めしてて、ホーンが腸骨しか持って帰ってないのならそれ以外の部分はそのまま葬送屋に余ってたんだと思う。

『其れだけ重厚な金属でぴったりと蓋を閉めたら、少なくとも嗅覚に依って骨の存在が察知される事は無いんじゃないかな。骨の匂いを嗅がせたい間だけ釦を押して、休みたい間は引っ込めたら良いよ。ワンタッチで切り替えられて手軽だろう?後は…出来れば骨を仕舞う所作に一工夫加えた方が良いかな。其の鉄塊の中に収納して居ると覚られたら、元も子も無く成る可能性が有るから…まぁ、俺には其の毛玉の知能が如何程か推知出来無いが。』

成る程…確かに便利そうな…出来そうな気もするな。あいつを一先ず置いておけそうな隙間を見付ける度に立ち止まりながら、点を線で繋ぐみたいに進むんだ!

…否、本当に出来るかな?あいつの勢いは恐ろしいまま変わらない。幾ら広くて丈夫な路を選んだからって、広場の石畳も粉にするような着地に耐えられるのか?まだまだ課題は山積みのようにも思える…。

『…ふふ。他にも幾つか、運搬に際して心得ると良さそうなアイディアが浮かんで居るんだ。其の腕と併せて持ち帰って、当事者同士で検討し合ってみてはくれないか?』

『…う、うん。』

ディンディイは俺の心中を見透かしたように優しく微笑んだ。何となく恥ずかしい…。

『んっ!』

ギッと小さく軋みながら、扉が開かれる。俺はこの二日間を共に過ごして知った。ホーンは表情は乏しいが慣れてくると意外と勢いが有って、結構元気だ。

『お帰り、ホーン。もう良いのかい?…でも丁度良かった。君の御陰も有って腕は完成したから、手筈通りルクスと共に第1階層へ向かってくれ。』

『は?』

手筈って何だ?ディンディイは今、どれ程先のことまで考えてるって言うんだよ…?

『あの…俺、早く戻らなくちゃ…!』

『大丈夫。今回ホーンには籠を背負って下りない様に、既に昨晩話を付けて有るから。君達の意向を拾って俺に持って帰ると言う事が、此の往復に於ける拾い屋の仕事さ。』

『は…?』

何考えてるのか、意味が分かんないぞ…!

『ルクス…修理屋は、文字を読めるか?』

ニレイまで訳が分かんないことを言って来る。文字…?

文字って、何だっけ?

『ん…?嗚呼、そうか。きっと君自身が文字を知らないか覚えて居ないのだな…まぁ、もしも修理屋が読めないならば図を見る様に言ってくれ。此れは其の腕の仕様書だ。万一不具合が有れば修理屋に見せてくれ。』

そう言って、3枚の紙を渡して来た。それぞれに様々な角度から俺の右腕を両断して曝けたような絵が描かれ、隙間を埋めるようにびっちりところころした記号が敷き詰められてる。これが、文字…?多分俺は、文字を知らない。

『…良し。では全ては整いつつ在るかな?最後に纏めも兼ねて、俺の頭の中に有るアイディアを順を追って全て説明して置こう。』

否…最初から順番に説明しろよ!

多分だけど…もっと俺が不安にならずに、穏便に此処まで辿り着く手順が在った筈だ…!

…まぁ良い。過程はどう在れ、結局俺の右腕は大腿骨になってしまったし、ディンディイ達は…まぁ、多少は楽しみながらも、困り果てる下層階の人々の為にこんなにも色々協力してくれたんだ。

だからディンディイの頭脳を以て立てられた作戦を聞き漏らすことの無いように真剣に耳を傾ける…もう、さっきの感覚は霧のようにすっかり消えて、何かが蘇ったという事実すら忘れて目の前の仕事のことだけ考えてる。

こんな調子じゃあ、きっと今夜も闇が怖い。

でも今日は良いや。俺は右腕を手に入れたんだから。

鏡の中の左手とは似ても似付かないけど…

死んだ人間の骨が飛び出てくるだなんて、お前がくれたがらくたの腕くらいふざけてる。


背中に籠を負わないホーンの歩みは…まぁ、悪くは無かった。

偶にぴくっと一震えして立ち止まるけど、平時の調子で無闇に拾っても持ち運び切れないと目に見えてるからか、ギュッと目を閉じ惜しそうに溜息を吐いて整えてから、歩き出す。だから真っ直ぐ進むよりはやっぱり時間は掛かるけど、いちいち蹲むよりは随分とマシだった。

山道を下り切るのが少し怖かった。プリマが朝の状況を何処まで理解してチェスタに伝えてくれたのか分かんないし、俺が悪い訳じゃないのにこれ以上鈍間扱いされるのは御免だから…!

広場ではルーバーが巨大な毛玉を見詰めながら優しく撫で付けてて…チェスタと、ビスカと、カストルが話し合いながらウロウロしてた。今回も俺達を一番最初に見付けたのは、徐に顔を上げたチェスタ。

『…ん?ルクスー!それに、ホーンまで…!?』

『ルクス!無事だったのか!』

『ホーンんん?誰だぁ…こいつぅう…?』

3人の反応はこんな感じだ。チェスタもビスカもプリマがちゃんと話を伝えてくれてて、咎めずに心配してくれて…そして何より、大層不思議がってた。数時間前の俺と同じ気持ちだ。

俺はディンディイと違って、最初から順番に3人に説明する…カストルも既にこの場に居たのは、呼びに行く手間が省けて非常に都合が良かった。

何でも、取り敢えず運び屋を呼んで海までの運搬ルートを話し合ってたが、巨体の跳躍を繰り返させながら疾走するにはやはり道の損壊が避けられないと頭を悩ませてたところらしい。

ディンディイのアイディアを伝えたら、3人はまるで目から何かが落ちたかのように呆け…誰からとも無く、おぉ…っと歓声が漏れ出した。カストルに至っては、目が燃えるように輝き出した。

『…な、何だそれぇえええええ…とても、とっっても楽しそうじゃあないかぁああああああ!!俺はやるぞぉおおおっ!この町の全運び屋の中で、きっと俺が一番の適任のはずだぁあああああああっ!!分からんけどっ!』

…とか何とか。兎に角やる気を出してくれるのは良い事だ。だから後は、準備と練習…と、その前に、ホーンの仕事から片付ける。

皆の意向を纏めて、ディンディイの元へ持って帰らせる。

皆のって言っても、チェスタとビスカの分は聞く前から何と無く分かってた。『可能ならば、ルーバーの望む通りにしたい』って。

そしてルーバーは、優しい顔で優しく、溝色の羽毛を撫でながら…

『わがままが通るんなら、この困ったちゃんに嫌われたくないや…!』

とか何とか、申し訳無さそうに笑ってた。

ホーンは山道を上って行った。一人で真っ直ぐ帰れるものか、少し心配だけど…何せ籠は無いんだし、まぁ何とかなっただろう。

其処からやることは沢山有ったけど、一番忙しかったのはカストルだ。

先ずは巨大毛玉に飯をやる。俺が昨日持って帰ってきた骨を全部、ルーバーが特別に料理してくれた。

これはディンディイの作戦の一つ。

―君が背負って帰った分の人骨を利用して、或る程度毛玉の腹は満たして置く事を強く推奨するね。広場で飢え死にされたら此れは此れで元も子も無いし、上へ移動する為に、其奴にも体力が必要だ―

確かにそうだ。背負い籠一杯分の骨程度じゃ、何日も断食してた巨体を満たすことなんか到底出来無いだろうから…魚とか果物とかも混ぜて嵩増しした特製の餌をやる。

しかし何せこいつは人骨が差し出された途端に目の色を変えて暴れるからまた石畳を滅茶苦茶にされたら堪んないし、満腹になった後だと暫く動いてくれなくなるかも知れないから…序でに明日の練習もさせて貰う。

餌遣り序でだけど、大腿骨の腕の仕舞い方のコツも練習したいから、織り交ぜながら。ひたすら俺とカストルと…後はビスカにも加わって貰って、連携だ。

チェスタはなるべく広くて丈夫な路を割り出しながら頭脳の中で運搬経路を模索する。第21階層近辺のディンディイが知ってるエリアに関してはディンディイの助言を伝えたりもしたけど、結局これも、日々町の上下を繰り返す運搬のプロ…運び屋のカストルの意見を大いに取り入れた。

カストルはあっちこっちに走り飛び跳ね毛玉と格闘しながら、チェスタに何か聞かれたら答えながら。

こんな調子で…明日にはもう蓄積した疲労だけで身体が潰れて仕舞わないだろうか?心配だけど…やって貰うしか無いから、カストルの体力とやる気を信じるしか無い…!

上階の準備は、ホーンから俺達の意向を受け取ったディンディイが整えてくれる筈だ。

もう人骨は食べ切った。時間は無い。

こいつが死ぬ前に、こいつを殺す為に

明日…上まで、駆け上る。


天気は快晴。大仕事には打って付けだ。

集合場所は勿論第1階層の、山道の終着点で在る広場。此処から唐突に全てが始まった訳で、今日も此処から全てが始まり…そして今日、全てに決着を付ける。

ルーバーやスーピーはそれぞれに不可欠な通常業務が有るから今日は来てない。集まったのは俺、カストル、チェスタ、ビスカ…

それから、プリマ。

『プリマ……本当に、大丈夫なのかー…?』

『ただ沢山階段を上るってだけじゃなくて、かなりドタバタすると思うぞ…?』

『うん…大丈夫。少なくとも、足手纏いにはならないようにする。』

心配する兄のような男達二人にも、プリマは甘えること無く、いつも通り表情も見えない。

『プリマぁ…お前ってやつはぁあ、本当に立派だぁああああ!…しかし、これは必ず成功させなければならない大切で難しい仕事だぁああ!ついて来られなければぁ、置いていってしまうかもしれないぞぉお…?』

カストルって、暑苦しい性格の癖に意外と仕事の時は非情だ。間違ったことは言ってないんだろうけど。

『あぁ、大丈夫だ。必ず付いて行くから。』

『…プリマ。お前、素っ晴らしぃいぞぉおおおおおおっ!!』

その癖やたらと心意気を評価する。何と無く勝手だと思うのは、何故なんだろう?間違っては居ない筈なのに。

プリマが何故、平時の業務を休んでまでして今日一日俺に付いて来てくれるのかは、表情が有ろうが無かろうが理解は出来無い。有難いことなのは確かなんだけど、必要なのかどうかは疑問だから。

でも昨夜家に帰って此処までの経緯を粗方説明して、ニレイに渡された仕様書をプリマに見せたら…プリマは甚く真剣に図と記号と睨めっこしてから、一呼吸だけ俯いて、そして『第31階層まで付いて来る』と言った。

何が起きるか分からない激しい仕事の半ばで、万に一つも大切な腕に不具合が起きた時には直ぐに対応出来なくてはならない…って。

勘違いかも知れないけど、プリマの瞳には使命感めいた物が宿ってる気がする。仕様書と見詰め合う内に…宿り出した気がする。違うかも知れないけど。

『…よし。ではー、あまり心配し過ぎても仕方が無いと思うし、そろそろ始めるかー…?』

チェスタがプリマを見下ろしてた顔を上げる。俺達3人と、プリマも頷く。

皆で後ろを振り返る。溝色の家みたいな毛玉は、今日も丸い。

寝てるのかどうかは分かんないけど…どうせ、俺がボタンを押せば始まるんだと思う。

だから喉を鳴らして、緊張をあやしてから…号令は、俺の役目だ。

『…行くぞ、皆!』

誰からとかじゃ無い。皆一斉に返事を上げる。だから頷いたかとかちゃんと構えたかとか確かめもせずに…ボタンを押した!

ガチャンと感覚がして、白くて太い棒が飛び出す。きっと一呼吸は間が有ったんだろうけど、来るって分かってやってるからなのか、骨が現れた途端から緊張感が揺らぎ出して空気の震えを感じた。

『来るぞっ!やるぞ…カストルっ!』

『わかってるよぉビスカぁああああああっ!!』

スタートは、多分大丈夫だ。昨日は広場で練習出来たし、山道は丈夫で広いから!

『来いっ!偏食の…溝色毛玉ぁっ!』

俺は山道へ向かって全力で駆け出す。でも駆け抜けはしない。あいつは走りも飛びもせずに、瞬発力だけが取り柄の跳躍のみで進んで来るからだ。

駆けながら振り返って様子を確認する。真っ直ぐに俺に跳び付かんとする毛玉の前には…先ずはカストルが立ち塞がる。作戦通りだ。

カストルは毛玉の落下点に先回りして、両手の平を天に押し上げる…衝撃を吸収するように『ふんわり』とだ…!

『おりゃあああああああっ!!』

…ふんわりと、だぞ?気合いを入れ過ぎてはないか?

バネのように突き上がるカストルの腕は、まるで発射台みたいに毛玉を後方に撥ね飛ばす。

『はっ…馬鹿!カストル、飛ばしすぎだっ!』

『悪いぃいいいいいっ!楽しみすぎたぁあああああ…!』

軌道に待ち構えてたビスカが慌てて走る。間に合いはしそうだけど飛んで来る角度は急で、一旦仕切り直して体勢を立て直した方が良さそうだ。

『ルクス、骨をしまえっ!とりあえず坂の手前で止まるっ!』

『わ、分かった!』

俺は一応、腕を思いっ切り一回ししながらボタンを放した。

これもディンディイの立てた作戦の一つで…―君の腕から骨が出たり入ったりする様子を何度も見せ付けては、流石の毛玉も嗅覚なんかに頼らず其のイカイカアームを喰い千切ろうとするだけさ…遠くに向けて腕を振りながら骨を仕舞い、恰も投げて隠した様な振りをすると良いだろう―って。

白い棒が引っ込む間に、ビスカは毛玉に手を添え衝撃を抑えながら流すように地面へと誘導する。ズシィ…ン!と響くけど、ビスカの丁寧さが光ったのか、どうやら地面にヒビが入る程のことにはならずに済んだみたいだ。

『…カストル…!』

ビスカは怒りながら呆れてる。チェスタとプリマも山道の方へ駆け寄って来る。

『おいおいー…これじゃ先が思いやられるぞ…お前たちに掛かっているのだからー、くれぐれも頼むぞ…3人とも!』

『す、すまなぃい…次こそは、ばっちり飛ばすぞぉっ!』

チェスタは上へは付いて来ない。体力が保たない自信も他信も有り余るから、今日は昨日一昨日と溜まってしまった何でも屋の仕事を一つでも多く一人で片付ける。

『いや、だから飛ばし過ぎるなよ…?』

見えない前途に頭を押さえるビスカの横を抜けて、プリマが隣に来る。

『ルクス…骨の腕は、大丈夫か?』

眼差しは、まるで真剣だ。

『うん…大丈夫。』

『そうか。何か有ったら、直ぐに言ってくれ。』

『うん…。』

始めたばかりで、しかも早速仕切り直しになって、そんなに直ぐに故障する訳が無いじゃないか。

こっちの前途も、何だか見えない。見えない物には、やっぱり不安が拭えない。

俺の腕を、俺の目を真剣に眼差すプリマに悪い気がしないもんだから、俺は尚更戸惑ってる。


最初に聞いた時は『何だそれ?』って思ったし、矢鱈と楽しそうに話すディンディイにも信用出来なくなってきて半信半疑だった。

でも昨日の練習の成果も有ってか、思った以上に上手く行ってると思う。

この作戦は、ディンディイが昔過ごしてた…ダイガクって場所で休み時間に見た光景から着想を得たアイディアらしい。

飛んで来たボールをキャッチする訳でも、投げる訳でも無い。手の平で押し返してもう一度空中に上げて、それを皆で落とさないように続ける遊び。この町では大人は仕事か体操以外に余り運動をしないし、子供はボール遊びと言えば専らクルッケルだから、チェスタやビスカも知らなかったって。

―毛玉の勢いが凄まじいならば、衝撃を和らげてから着地をさせれば良いと思ってさ…地面に打つかる前に他の何かに打つかれば、衝撃が奪われてゆくと思わないかい?此の町で最も逞しいとされる職業は運び屋か大工だと思うが、此の仕事は飽く迄も運搬作業で在るのだから運び屋に依頼をするのが望ましいだろう…二人組が良いな。宛らスパイクの様な突撃を受け止めつつ勢いを和らげる役と、更に其の毛玉を受け止めつつ優しく地面へ誘導する役が…―

カストルの気持ちが、全く理解出来ない訳じゃない。そもそも休み時間の遊びが元になってる作戦だし…これが怪物みたいな溝色毛玉なんかじゃなくてボール相手だったなら、確かに結構楽しそうだ。

第7階層までは順調だ。でもここから先は山じゃ無くなる。つまりしっかりとした地面が無くなって人の手で建てた通路を通らなくてはならないから、より一層の慎重さが求められる。

『はぁっ…きっつ…!大丈夫か、プリマ…?』

『私は全然大丈夫。ビスカとカストルの方が辛そうだ…水を入れて来ているから、飲んでくれ。』

『俺はまだまだ全然いけるぞぉおおおおおおっ!でも、ありがとぅおプリマぁあああっ!』

骨の腕も今のところ頗る快調だけど、プリマが来てくれて何だかんだ結局俺達は助かってる。疲れた時に優しくしてくれる誰かが常に側に居てくれることが此処まで心強いとは、初めて知った。

第7階層の、山の頂点を示す目印のように立つ大木の下。貴重な開けた場所で毛玉は転がりながら嘴を…顔を左右に振って、大腿骨を探してる。瞳はふさふさの羽毛に隠れてよく見えないけど、きっと血走って少しの白も見逃さないようになってるんじゃないかと思う…健気で、哀れで、何だか可愛いとすらちょっとだけ思える。息が切れてるようにも見える…こいつの体力は、31階層まで保つのか…?

『ルクスは、大丈夫か?』

『…うん。平気だよ。ありがとう、プリマ。』

と言いつつ、差し出された水は受け取って、飲み干しておく。汗を掻く仕事に、水分は何よりも不可欠な筈だ。

『一応、少しだけ見せてくれないか…?』

『…うん。』

プリマは俺の右腕を手に取って、まじまじと眺め回したり、ボタンの感触を確かめる。

…プリマは、本当に大丈夫なのか?

気負い過ぎてはないか?こっちは、お前がこんなふざけた腕に何故そんなに真剣になるのかも見えてないんだ…助けたくても、助けられないぞ。


第8階層から先は兎に角広く、兎に角丈夫な道を選んで進む。

石や土で造られた道が望ましいけど、第一に優先すべきは広さだ。だから結局殆どの場合は、運搬用に整備された外周の道が適してる。

『はぁあああ…かなり慣れてはきたがぁああ…かなり疲れてきたなぁああああああ…っ!万が一にもぉお…道が壊れてしまったらと思うとぉおおお…!』

『体力もかなり使うけど…神経も相当使うよな…!正直、チェスタはついて来なくて良かった…今回は、足手まといだ…!』

確かに…チェスタは体力は無いしビスカに余計な神経を使わせそうで邪魔になりそうだ。

俺達もこの進み方に大分慣れてきたけど、この怪鳥も動くことにかなり慣れてきてる風に見える。昨日や一昨日よりも自在に動けるようになった気がするし、跳躍距離も伸びた気がする。何より、もしかしたらこっちに協力的になってるんじゃないかって気がするんだ…俺達が思う通りに付いて来たら、最後にはちゃんと骨が貰えるんじゃないかって思ってるのかも。ディンディイが思ってる以上に、頭は悪くないのかも知れない。

『…よし。また、階段だぞ…いけるか?カストル。』

『ふっ……当ったり前だろぉおビスカぁあっ…とりゃあっ!』

蹲み込んでたカストルが勢いを付けて立ち上がる。此処は食材を運んだあの大運搬の日にも使った階段だ。ルートリーと初めて出会った場所…木造りだけどしっかりしてるし、何より広いし外周で人の邪魔にもなりにくいから、此処から第9階層へ上るのが良いだろう。

『あ…待ってくれ。彼処に誰かが居る。』

プリマが小走りで階段を上がって行く。大掛かりな運び方だから、始める時は通行人を巻き込まないように注意を払わないといけない。力仕事以外は何かとプリマがやってくれるもんだから頭が上がらない。

大きな階段の先に突っ立ってたのは婆さん…否、爺さんか?下でぐったりと突っ伏しながら震える巨大毛玉を呆けるように見詰める様子が、ユトピのボケ婆さんを彷彿とさせるけど…プリマが話し掛けたらハッと我に返って、どうやら真面に会話は出来てるみたいだ。少し話して、プリマは直ぐに戻って来た。

『何か…見学をしたいらしいんだ。この運搬の噂を聞き付けてわざわざ待って居たみたいで…邪魔にならない所で見て居ても良いか…って。』

『…はぁあ?』

ビスカとカストルは揃って眉を顰め声を上げる…俺だって、同じ気持ちだ。意味が分かんない。

昨日、ホーンが俺達の意向を持ち帰る為に町を上る際に、序でに各階にこの毛玉の大移動のことを触れ回ってくれることになってた…どうやって伝えたのかは知らないが。

でもそれは、皆に巻き添えを回避して貰って迷惑を最小限に減らす為だ。こんなの、見物するような物じゃない。

『あの爺さん、ミズルのことをとても信じているみたいなんだ。人々の糧と成る大きな鳥はミズルの賜物だろうから、是非とも拝みたいって…。』

何だよそれ?荒唐無稽だ…ミズルを信じてるってだけでも、理解が及ばないのに。あいつ、町育ちなのか?被害者なのか…?

『…なるほどぉ。じゃ、いいんじゃあないかぁあ?なぁあ、ビスカぁあ?』

…はっ?

『んー…まぁ、邪魔にならないならいいか…?あのへんの物陰にでも隠れてもらえばいいかな…?』

何でこいつらは納得出来るって言うんだ?否、確かに邪魔をしないならば何処でどうするのもあいつの自由なのかも知れないけど…すんなりと受け入れ過ぎだろ。

まるでミズルって本当に、この町の神みたいだ…!

『ん…分かった。』

プリマは上の爺さんへ向かって両腕を使って大きな丸を作り、了承の意思を見せ付ける。更に片手で階段から少しだけ外れた場所に積まれた箱やら道具やらの山を指すと、爺さんは一呼吸の後理解してそっちに身を隠した。

『よし、行こうぅう!上ったすぐ先にぃ、ちょっとした広場があるぅうう…俺、ビスカ、俺、ビスカのトスで届くぐらいだろぉう。ルクスは、まっすぐ走れよぉお!』

『…うん。』

『了解。』

俺もビスカも同時に頷く。やるよ。走りはするけどさ…不安だ。陰に隠れて視界には入ってない筈なのに、上手く行ってたさっきまでとは違う物が一つ有るって言うだけで…。

俺は毛玉の目の前に、カストルは階段の根元に、ビスカは階段の中腹辺りに構える。こいつは身体は重くて飛ぶのが下手糞みたいだから、階段では小刻みに手助けしてやらなくちゃならない。

『行くぞ…カストル、ビスカ。』

仕方が無いから…やるよ。

『おぅううっ!』

『おぉっ!』

カストルの大声と、その奥に通るビスカの返事を確認して、俺は腕のボタンを押す。ガチャンと大袈裟な手応えにも、もうすっかり慣れた。

『行くぞ…起きろっ!』

声を掛けたから…って訳じゃ勿論無いけど、毛に隠れてた目が急に見開かれて現れる…来る!

階段を駆け上るのはしんどいけど、俺は絶対にこいつに追い付かれちゃいけない。大きな階段を2段飛ばしで上がると、俺が通り抜けた後に先ずはカストルが立ち塞がる。

『飛べぇええええええええっ!』

朝の一発目の如き気合いで突き上がる手の平は、階段を越えさせる為ならば丁度良い勢いの筈だ。毛玉はカストルからの補助を受けて羽をもう一つ振るわせ、その目の前にはもうビスカが待ち構えてる。

真っ直ぐな階段を上り切って、後ろを確認する。毛玉は丁度ビスカの腕から飛び立って、カストルはさっきまでの疲れが嘘みたいな速さでもう俺の直ぐ後ろまで駆け上がって来てる。

『よしっ…次で決めるぞぉおおおっ!ビスカ…』

カストルの腕が、再び溝色の巨体を押し上げようとした刹那

『おぉ…おぉおぉ……!』

聞き覚えの無い嗄れた声が聞こえたのと、どちらが早いか

見開いた目が、薄桃色の嘴が、ギュンッと真横へ曲がった。

それと同時に毛玉の下から現れたのは嘴と同じ色の、三又くらいに分かれた棒みたいな…

それが、首の動きと同じくらいの力強さでカストルを蹴り飛ばしたから

嗚呼、成る程。あれは、脚だ…!

『ルクスッ…爺さんの方に行けッ!!』

ビスカの必死な叫びで我に返ることが出来た。毛玉がカストルを蹴り飛ばしてまで方向転換をした先に居るのは…何をしたいのかわざわざ自ら怪物の視界に姿を現した、ガリガリで、まるで骨みたいに痩せっぽちの爺さん…!

『カストルーッ!!』

背後でビスカが叫んでるけど、一つの身体は二つの方向へ走ることは出来ないんだ。ビスカはこっちに行けと言ったんだから、あっちはもうビスカに任せるしか無い。

大丈夫だろう?この町でもしものことなんて起こらないんだろう?もしものことって何だ?カストルが怪我をして、爺さんが喰われて、後は…

『爺さんっ!逃げろ!隠れろーっ!』

俺は何故だか、この4日間でお前の頭の中が何となく分かるようになった気がしてる。

でも思えばいつの間にか気に留めなくなってしまった…お前は鼻だけじゃない、目でも骨を見付けることが出来るんだ。

お前、俺達がこの爺さんを御馳走してやる為に此処まで連れて来たって、勘違いしてやがるだろ…っ!

初動が遅れたらもう、瞬発力だけが取り柄の毛玉にこの超短距離では追い付けまい。年寄りは急には動けないのか、俺の声が届いてないのか、何を考えてるのか…爺さんは呆然と突っ立ったまま巨大鳥を拝んでる。

ぼんやり浮かんで来てた『最悪』と言う言葉が、輪郭を顕にする…

『ご隠居っ!』

『カストルッ!』

『お前は…!』

順番に色んな方向から短く声が続いて、突っ立ってた爺さんは突然何者かに腕を引かれて側の建物の奥へ引っ込んだ。

次に巨体が重力に負けて木造りの通路に落下する。町が一気に崩れてしまうんじゃないかってくらいの衝撃を感じて、一呼吸の後…

『…本っ当ぉー、めんどくせぇーなぁーてめぇらはよぉー…!』

聞き覚えの有る、気怠気な声。締まりの無い喋り方。

爺さんの無事も確認してないのに、思わず振り返ってしまった。真っ直ぐ後ろ…階段の向こう側。町と空の境目で在る頼り無い柵からカストルが投げ出されようとしてて、その腕をトロイメラの長い腕が確かに掴んでる。

『おいそこのマシなヤツ…引き上げるの手伝えよぉー!』

『えっ…あ、悪い!今行く!』

あと一歩のところで間に合わなかったらしいビスカが、駆け寄ってトロイメラに加勢する。

『ルクス、大丈夫か…!』

いつの間にか階段を上って来たプリマは、あっちとこっち、どちらに付いたら良いのか分かんないみたいで取り敢えず俺に声を掛けた。

『否…俺は、多分一番大丈夫…。』

カストルはトロイメラとビスカが引き上げて、ぐったりしては居るけど落下と言う『最悪』は回避することが出来たみたいだ。嗚呼、そう言えば爺さんは…?そうだ、あとは毛玉の所為で通路が壊れて…

『うーん…着地位置が奇跡的なのか、見事に柱や梁の損壊は免れてるみたいだ。とは言え床板には穴が空いてしまったみたいだから、修理屋を…いや、大工の方が良いかなぁ?どう思う、ルクス?』

これも聞き覚えの有る声だ。真面な内容を真面な喋り方に乗せて、浮かべる笑顔は何処までも爽やかな…

『ルートリー…!』

爺さんが引っ込んだ方向から現れたのは、女が好きそうな整った顔立ちとやたらな長身を併せ持つ男。目を合わせると改めて満面の笑顔を湛える。

『やぁ、久しぶり!昨日人伝てに依頼された通りに、トロイメラとペアで第11階層の広場に待機してたんだけど…あいつが暇だ暇だってうるさいから。早めに合流して何か手伝えることが無いかと思って下りてきたんだ。どうやら最高のタイミングで出会うことが出来たみたいだね。』

『俺ぁー、待ってるのは性に合わねぇーんだよぉー!ルートリーの外の世界での話だって、もぉー聞き尽くしちまったしなぁー。』

『お前が根掘り葉掘り聞き出してくるからネタが尽きたんだろ?まったく…カストルは、大丈夫か?』

呆れたような笑顔まで悠然さを醸すルートリーが心配を向けると、名前を出されたことがスイッチになったみたいにカストルは勢い良く飛び起きた。

『はぁっ!…いっだぁあああっ!俺は、大丈夫だぞぉおおおおっ!…と言うか、俺は途中で引き継ぐだなんて聞いてないぞぉお!31階層まで走り抜ける気満々だったのにぃいいい…っだだだぁあっ!!』

『…痛ぇって言ってんじゃねぇーかよぉーバカがっ!』

『全然大丈夫じゃないじゃないか。』

『いや、こんなキツい仕事31階までやり抜くなんて無理だから、区分けして他の運び屋にも応援を頼むって昨日話してただろ…ん?カストルは、練習に夢中で聞いてなかったか?』

カストルは起き上がった癖に直ぐ頭を押さえて、3人の男達から次々に突っ込みが入る。

―君の骨の腕は代わりが利かないから頑張って貰うより他に無いとして…巨大毛玉で球遊びをしながら第31階層迄上るのは、何よりも怪鳥の瞬発力に負けないパフォーマンスを維持し続ける事が難しい。三区間程に分けて、負担を分散しよう。上階の運び屋へは俺の方から依頼を通して置くからさ―

…って、ディンディイが言ってたから。俺はちゃんと皆に伝えたんだけど…

『なぁ…!えっと…ルートリー…?』

『ん?』

今度は少し離れた場所から、プリマの声がする。気付けばまるでルートリーと場所が入れ替わったみたいに、爺さんが消えた建物の陰から顔だけ出して、こっちに助けを求めてるみたいだ。

『其処の路の様子を少し見てみたんだけど…通路の損壊や修理はこの町全体の構造にも関わってくるから、修理屋よりも大工を呼んだ方が良いと思う。あと、この爺さんがどうしても間近で鳥を拝みたいらしくて出て来ようとするんだ。どうしたら良い…?』

爺さんも後ろから顔を覗かせようとするのを、プリマに制止されてる。懲りない奴だな…食糧になる巨大鳥はミズルの賜物とか言ってたっけ?あわや自分が、あいつに喰われそうになってた癖に。やっぱり状況を理解してないのか…?

『おや…このお嬢さんは?』

『あ…こいつ、修理屋なんだ。俺の腕に何か有った時の為に、付いて来てくれてる…。』

『なるほど!それなら確かに彼女の言う通りにするのが間違いないんだろうな。このままだと邪魔されそうだし…ぜひそこのご隠居に大工を呼びに行ってもらうことにしよう。その間に俺達はこの巨大鳥を移動させて……うん、ありがとう!えっと、君の名は…?』

『あ…私はプリマ。よろしく。』

ルートリーはニコッとプリマに微笑み掛けて、プリマに表情は生まれない。プリマは別に、ルートリーの顔に興味は無いんだろうか。少し年が離れてるか…?

ちょっと早いけど、カストルとビスカは此処でお役御免みたいだ。実物で練習した訳じゃないトロイメラとルートリーが何処まで上手くやれるか分かんないし…何より俺はこいつらのことがあんまり好きじゃないけど、ルートリーの言うようにするのが一番良さそうだ。

それが仕事なんだから、仕方が無い。

骨みたいな爺さんの、まるで壊れてるみたいな荒唐無稽な信仰。それをすんなり受け入れる奴ら。ハルルが何気無く吐き捨てた呟き…ミズルと言う名の理不尽、ミルハンデル……たった今起こり得た『最悪』と、回避された『最悪』。

偶然の反対は運命じゃなくて…摂理とは……嗚呼、何だったか…?

今までこの町中で納得出来なかった違和感の全てがぐるぐる巡る。でも結局何にも成らず混ざりもしないから、きっとその内消えるしか無い。

只…心の中でぐるぐる暴れ回る内に見えない小さな傷を沢山残して、それがまたいつか何かに滲みることになるのかも知れない。


『よっ……それっ、トロイメラ!』

『あぃよぉー…っと、こっちだっ!』

トロイメラの体躯と比べて、毛玉の体積はきっと数倍も有る筈なのに…不思議だ。まるでトロイメラが巨大鳥の全てを優しく包み込むように、勢いを往なして穏便に地へ導く。

こいつら…上手い…!

昨日練習したカストルやビスカより上手いかも。手際が良くて、なのに正確だ。こういう感じを、何て言うんだっけか…スマート…?違うか?

『お疲れ…水、飲む?』

『…さんきゅーう。』

『ありがとう、プリマ!君が居てくれて本当に助かるな…よく気が付くし、新たな出会いに俺の心も一層華やかになれたし。何だか楽しいよ!』

プリマは言葉も表情も少なくて愛想なんか無きに等しいが、ルートリーの爽やかな笑顔が取り持ってくれてるのか、初対面らしい二人とも少し打ち解けてきた気がする。

第9階層の惨状はビスカと手負いのカストルに任せて、俺達はそのまま第31階層へ向けて進むことにした。巨大鳥と共にいつまでも彼処に留まってたら、またあの爺さんが何をやらかすか分かったもんじゃない。

カストルは痛みを訴えながらも自分の足で立ち上がれてたし、通路の穴は毛玉を退かして見たら思った程深刻でも無さそうだったから、ビスカが中心になって事後処理は出来るんじゃないかと思う。

毛玉は…何だか少し元気を取り戻したような気がする。爺さんを食べ損ねて、意気が削がれてしまったんじゃないかと思ったけど…トロイメラとルートリーの言うことを良く聞いてる。

否、こんな奴が人間の言葉を理解出来る筈は無いって思うけど…『こっちだ』とか『落ち着け』とか、トロイメラやルートリーが話し掛けてる通りに事が進んでる気がして……まさかこの鳥、女なのかな…?

『……なぁ、トロイメラ。』

『…なんだよぉー。』

もうそろそろ次の階段が見えてくるだろう頃に、ルートリーが呟くようにぽつりと口を開く。

路が狭くて複雑で難関な第12階層も何とか超えた。潮の匂いもかなり薄くなってきた。太陽もとっくに天辺を超えて、多分今頃が一日で一番暑い時間帯。

こいつらとも、そろそろお別れだ…。

『俺たちはまた、ポルクスに怒られるのかなぁ?』

ポルクス…?運び屋の名前か?この先の階段で待ってる奴のことかも。

『知らねぇーよぉー!あいつが怒ったところで、悪ぃーのは俺らじゃねぇーだろぉーがっ!カストルがっ……いや…誰も、悪いやつなんか居ねぇーだろ…。』

カストル?…そう言えば、前にカストルとトロイメラが話してた時に、ポルクスの名を聞いたことが有ったような気もする。まぁ、どうでも良いか。

『遅いぃ…っ!』

不意に、じりっとした声が渡る。高いけど、男の声だ。幼い訳じゃないが、何処か頼り無くて…

なのに顔を向けたら、路の真ん中に仁王立ちしてたのは歯を噛み眉を吊り全身から怒りを表して空気に伝えてるような奴。俺と同じくらいか、少し年下かもな…大人って訳じゃないけど、少年って呼ぶ程でもない。

『お疲れ、ルートリーとトロイメラ!ズッシーンって聞こえたからさ、やっと来たのかと思って見に来たんだよ。』

後ろに立つもう一人の男はにこやかだ。あっちは多分チェスタと同じくらいの年だ。程良く逞しくて誠実そうな顔立ちの青年で、女に好かれそう…こいつは、運び屋だ。

『ごめんごめん。これでも少しは巻き返したと思うんだけど…カストルたちが早めにリタイアしたり、色々あったからさ。』

『おいバカッ…その名を出すなよぉー!』

ルートリーが優しく笑い飛ばしながら応じると、トロイメラは大層面倒そうに顔を顰める。

『カストルぅっ…?おいぃっ!カストルに何かあったのかよぉっ!?』

察した。こいつがポルクスか?トロイメラの懸念通りなのか、カストルの名が出た途端にその目には一層の熱が灯って確かにややこしくなってしまった気がする。こいつ、カストルのことが好きなのか、嫌いなのかな…?

『おいおいポルクス、ルートリーは笑ってんだからきっと大丈夫だろう?カストルの分まで俺らが頑張って終わらせちゃおうぜ。』

『クリエぇ…!』

クリエと呼ばれた後ろの青年は、ルートリーにも劣らぬ爽やかさで微笑んでポルクスの肩をぽんぽんと叩いて宥めた。何だかこいつは、清涼感に加えて軽やかさも有る。男女なんて隔たりは関係無く好かれそうな明るさと親しみ易さを感じるんだ…良い奴そうに見えるけど、実際のところはどうなんだろうか。

『ありがとうクリエ…でも、仕事にも関わることだからちゃんと伝えるよ。あの鳥の行動原理は兎にも角にも『骨』の一点のみみたいなんだ。俺たちにはあんまり分からないような骨の匂いにもとても敏いらしいし、骨のように痩せた爺さんが視界に入っただけでルクスの腕の骨も差し置いて、待ち構えてたカストルを足蹴に方向転換して襲おうとした。イレギュラーさえ無ければ、素直で一途な良いコだったけどね…。』

ふぅー…と、細くて長い溜息を吐いて、ルートリーが今日の大仕事を振り返る。俺に取ってはまだ半ばだし、ポルクスとクリエにとってはこれから始めることだけど…上手くやってるように見えて、何だかんだでルートリーにも疲れやストレスは積み上がってたみたいだ。

『ルクスぅ…?はっ…まさかそのぉ、ごっつい腕が噂の骨腕かぁ…!お前ぇ、カストルの足を引っ張ったんじゃないだろぉなぁ…!?』

ポルクスの目が俺にぶら下がる冷たい右腕を見付けた途端に、ギッ!と歯を食い縛る音がした。

否、何で俺がそんなこと言われなくちゃならないんだよ?道理の無い物見の部外者で在る爺さんを受け入れようとしてたのは、寧ろカストルの方だぞ。

『あぁ、ポルクス!ルクスはとても良いやつだし、カストルとは普段から仲が良いみたいだから、お前もぜひ仲良くしてあげてくれよ。な?』

『はぁあああ…っ!?』

『…おいぃー…余計なコト言うなよぉー…!』

ルートリーが余計なことを言うのは、性格なのか何気無い癖なのか…まさかわざとじゃないだろうな?もうこいつには帰って貰った方が良いかも…。

『なぁ…皆。』

『何だよぉっ!?今は取り込み中…んん?お前は、何だぁ…?』

プリマが口を挟んで、俺はポルクスの尖る眼差しから解放される。代わりにその目に刺されるプリマは、乏しい表情にも困ったように空気を伺う幼さが見て取れる。

『どうしよう…あいつ、眠そうなんだ。』

路に崩れる毛塗れの巨体をプリマが指差す。丸まって目も嘴も溝色の羽毛に隠れてしまったが、その呼吸に依る規則的な揺れは見て取れる程にいつもより大きい。息が深くなるくらい疲れてるってことだ。

『おやおや…そりゃ、俺たちが疲弊してあのコが疲れないなんて訳がないよなぁ。ただ、立ち止まることも出来ないからなぁ。日が暮れる前に31階層まで、急ぐしかないな…骨を見せたら起きるかな?じゃあ、此処からはよろしく頼むよ。運び屋のポルクスと、クリエ!』

『……ちぃっ…!やるよぉ…打ち合わせ通りにやるぞぉ、クリエぇっ!』

『おう。ルートリーもトロイメラも、あとは任せて安心して今日はゆっくり風呂にでも入ってくれ!』

ポルクスはとても仕事人とは思えない綺麗な舌打ちで不承不承を表して、クリエは快くニカッと笑って自分の胸を一つ叩いた。

ポルクスとクリエ…こいつら、大丈夫かな?

この先の階段を上れば第21階層。この辺は方角的にはディンディイ達の家とは反対の方で、俺に取っては初めての景色。そして更に一つ階段を越えれば、第22階層から先は一度も足を踏み入れたことの無い未知の領域。其処を、今出会ったばかりの奴らと怪物を引き連れて駆け抜けなくちゃいけないんだから、不安だ。

正直、只付いて来るだけでもプリマが居てくれるだけで心強い。カストルとビスカが居なくなって、知らない顔と出会って、その度に実感する。

但し、大腿骨の腕は頗る順調で、プリマがその片手に健気に携えてる道具箱を開ける機会は未だに無い。

でもプリマの表情は変わらない。姿を現さないけど…瞳の奥にだけ、何かの使命を帯びてる。


『それでぇ!ルクスぅっ…カストルはぁ…っぐぁ!』

『否…だから、ちょっと待ってくれっ…一旦、骨をしまうぞ!』

『ほーい!じゃっ、ピヨピヨもこの辺で休憩しよーぜ…っと!』

ポルクスが巨大毛玉を突き上げる…否、突き飛ばされる。

次にクリエが軌道を修正したり、着地を補助したりする。

それが、こいつらが昨日打ち合わせた作戦らしい。

ポルクスはひ弱とか華奢って感じでは決してないけど、背はやや低めで運び屋としては力が弱い方らしい。それでも自ら志願してこの仕事をやることになったから、相方に顔馴染みのクリエを指名してこのやり方で行くことに決めたみたいだ。

『うっぐ、ぐっはぁ…ル…クスぅ、カストルはぁ…っ!』

路の真ん中で倒れ込みながらも、口を動かし続けて…さっきからずっと、こんな調子だ。

『はぁ…っだから、走ってる間は質問されても答えられないって…!』

ポルクスは執拗にカストルのことを聞き出そうとしてくる。カストルは最近どんな仕事をしてるとか、どんな物を食べてるとか…俺だって別にしょっちゅうカストルと一緒に居るって訳じゃないし、答えられることは少ないんだけど。只、そんな質問は俺よりも先にカストルと知り合ってたプリマが答えられる時も有る。

『大丈夫か、皆…水、飲むか?』

プリマが追い付いて来る。先ずは倒れたポルクスに駆け寄るプリマを、横目で窺いながらゆっくり起き上がって…

『プリマぁっ……カストルはぁ、今どれぐらいの背丈なんだぁ…?』

『え…?』

ポルクスは、まるで此処ぞとばかりに俺達にカストルのことばかり聞いて来る。

『ポルクス…』

こいつの普段の様子を知る者は、此処にはクリエしか居ない。そんなクリエはポルクスのことを窘めたりなどは全くしてくれない。只、ようやく口を開いて、何か言ってくれるのかと思ったけど

『…カストルは、お前と同じくらい…否、そうだな。お前より少し大きいくらいの背丈だと思う。お前よりは、大きい。』

仕事内容とか何を食べてるかとかは見てなければ分かんないけど、背丈なら毎日のように会ってれば直ぐに答えられる。だからプリマは正直に答えて、クリエの発言は遮られる。

『………そうか。』

ポルクスはまるで不貞たように顔を伏せて…一呼吸の後立ち上がった。

『おいぃ!行くぞぉっ!こんなひどい仕事はぁ、さっさと終わらせるぅっ…!』

自分から志願してやってる仕事なのに、何て言い草だよ。今だって、お前が起き上がるのを皆で待ってたのに…。

恐らくポルクスは、下層階から荷物が引き継がれる仕事だって聞いて、カストルに会えるかも知れないって思ったんじゃないだろうか?カストルが此処まで来なかったとしても、下階から上って来た奴からカストルの情報を何か聞き出せないかとか…そんな下心を携えて。

何故、そんなにも必死なんだろう?こいつが普段第何階層に住んでるのかは知らないが、どんなに階層が離れてようが所詮は同じ町なんだから、自分からカストルに会いに行けば良いだけなのに。

『なぁ、ポルクスー…。』

『何だよぉ!クリエぇ…!』

もう一度クリエが口を開く。クリエには邪気など全く無さそうで、なのにポルクスは睨み付けるように振り返って…自分がクリエをこの仕事に呼んだ癖に、何が不愉快なんだか分かんない。

こんな人間は外の世界にも居たんじゃないかって気が、何と無くしてる。でもこんな性格を何て言い表わすんだったか思い出せない。絡まってるとか拗れてるとか…何と無くだが、そんな言葉が浮かんで来るけど。

『さっさと終わらせた方が良いってのは俺も同感だが、酷い仕事だなんてことは無いだろう?お前の大好きなカストルの友達どもと、友達になれたんだから。』

『だっ…!?』

『…友達?』

『ん?違うの?プリマ…』

ポルクスは大層不服そうに顔を赤らめて、友情と言う物を全く覚えてない俺には理解がゆかなくて、クリエは只一人反応を示さず無表情で会話を眺めてたプリマに意見を仰いだ。

『ん…?よく分からないけど、カストルは良い奴だからきっとその友達のポルクスも良い奴だし、そんなポルクスの友達ならばクリエも良い奴なんだと思う。だからクリエの言うことは間違っていないんじゃないか?』

『何だよそれぇ!わけ分かんないだろぉっ!』

こればっかりは、全くポルクスの発言に同感だ。でもクリエは満足気にニコニコと頷いてるから、どうやらプリマの言うことは間違いでは無いらしい…納得は、行かないけど…。

『そうだよなぁ、プリマ!俺もそう思うよ…お前もルクスもすっげー良いやつそうだし、しかも何でもやってくれるんだろう?』

『は?』

嫌な予感が走った。

そろそろ俺は気付いてる。俺の予感は、結構当たる。

それとも何でも屋っていつでもこんな感じなんだろうか?チェスタもビスカも下層階で、こんな感じで下らない仕事を沢山頼まれてきたのか…?

『何でもやるだなんて、良いやつだよなぁ…ん?良いやつだから、何でもやってくれるのかな?ははは!』

『クリエ…私は何でも屋では無い。何でもやるのは、ルクスだけだ。あとは、チェスタとビスカ…。』

『ん、そうなのか?そういえばプリマは修理屋なんだっけ…じゃ、ルクス。あとはよろしく!』

歯を見せて爽やかに笑いながら、クリエが横目で俺に飛ばす物は…

何なんだこれは?依頼…なのか?

『おいぃ…クリエぇ、お前何言って…』

『ん?悩んでて、じっとしてるだけじゃ解決出来ないんだったら…動けばいいじゃないか。カストルのことで悩んでるんだったら、カストルと仲良くてしかも何でもやってくれるルクスに頼むのが手っ取り早いだろっ?どーよ?』

『…はぁあぁ?』

ポルクスは再度顔を赤くして、今度は何て言ったら良いか分かんなくてに困ってるように見える。

『違うか…?でもこのままじゃあ…カストルみたいに、ルクスとプリマにも次にいつ会えるかわかんないぞ…?』

クリエは不思議そうに小首を傾げて、その癖やっぱり笑顔でポルクスの顔を覗き込む。ポルクスは…

『………ちぃい…っ!』

仕事中とは思えない見事な舌打ちを聞かせてくれた…怒ってるのか?何でだ?

嫌な予感がする…面倒だな……今までで一番面倒臭いかも…!

『……ルクスぅっ!お前ぇ…何でも屋なんだろぉ…?依頼を受けた時に軽く聞いたぞぉ…!』

『う……うん。』

今までも面倒な依頼は幾つも有った。今正に進行中のこの仕事だってそうだ。でもこれは…一際気が進まない。

こいつらの事情が全く見えない。何故かは知らないがどうやらカストルはポルクスの友人の癖して長いこと会うことを避けてるらしい。

そしてポルクスは、それなのにカストルのことを求めて止まない執着を捨てられないらしい。嫌われたなら…捨てられたならば諦めれば良いだけなのに、意味が分かんない。

俺よりもカストルと仲の良いチェスタとビスカが何て言うか分かんないけど、これはきっと『厄介事』って奴なんだ。

心の見えない怪物の相手をするよりも、希求を剥き出しにした人間の方がよっぽど厄介だ…!


正直信じられないと言うか…実感が湧かない。俺達は、第31階層に辿り着いた。

『っはぁあ……っ、はぁあああーっ…げほっ!』

ポルクスは正に満身創痍だ。クリエも流石に息を切らせてるけど、笑顔は変わらず明るくて、常に照度を保ってる。

『はぁ…遂に来たなぁ…!俺たちは、大したトラブルは何も起きなくて良かったな!ピヨピヨとポルクスは限界っぽそうだが…ギリギリ間に合ったってやつかな?』

第31階層の外周の通路は見晴らしが良い気がして、第21階層のディンディイの家の辺りの風景を思い出す。でも煌めく海面はより遠くなって、代わりに空は少し近くなった気もする。

確かに毛玉はもう限界だ。第31階層への階段を越えて直ぐの所で力尽きて、地に突っ伏して…序でにポルクスも隣で倒れてて、まるで仲でも良いみたいで滑稽だ。

でも…

『なぁ…まだゴールじゃないだろ?アンギュラの鳥飼屋って、どの辺りに有るんだよ?』

第31階層まで登り切ることが目標じゃない。鳥飼屋までこの巨大毛玉を運び切ることこそが目的だ。

『ん?なんだ、知らないのか。そこが鳥飼屋だよ。くせーだろ?はは!』

クリエは階段の真横に聳える大きな門を指差した。木で出来た高い柵に囲まれた広い土地…広いって言ってもルーバーの牧場とは比べ物にならないけど、この町はどうやら上れば上る程一階層毎の広さは狭まっていくらしいから、この高さの割には大きな施設だと思う。

言われてみれば、確かに臭い。でもこれもルーバーの牧場の、マミムの獣臭さとは違う。穀物みたいな匂いだ。

『…此処が、鳥飼屋。』

プリマが柵を見上げながらぽつりと呟いた。プリマだって今日一日沢山の階段を上りながら、甲斐甲斐しく俺達の面倒を見てくれた。苦労の反動が感慨を引き起こすのかも知れない。

『おーいっ!アンギュラーっ!ポルクスが死んじまうから、あとは頼むよぉおーっ!』

クリエはアンギュラとは既に顔見知りなんだろうか。ポルクスは酷い言われ様だが、少し前まであれだけ煩かった奴がもう反論する気も起きないとは確かにこいつも限界らしい…本当に死んだりはしないと思うけど。

『…はーいはいはいはーいっとぉ!今行くから待ってなぁ、オットコ前どもぉー!』

大きいけど簡素な木の柵は声を良く通す。遠くから低めの声が飛んで来る。低いけど不思議と少し艶を感じて、女の声だと判る。

『お待たせー…ってか、そっちが待たせてたんだけど。やっぱ大変だったみたいだねぇ…ってデカっ!』

軽そうな門を勢い良く蹴り飛ばして出て来た女は、早速溝色の巨体を見付けて驚いてくれた。

鳥のプロで在る鳥飼屋でも、空に近付いた第31階層でも、こんなにも大きな鳥にお目に掛かることは中々無いらしい。

こいつが、鳥飼屋のアンギュラ…女の割に背は高いが、年は大分若そうだ。クリエと同じくらいかも。うねる薄赤色の長い髪を顔の両脇に貯えながら、残りを後ろで一つに丸めてる。

『…おっ。キミ達が何でも屋かぁ?意外と幼いね。結構前に噂を聞いたコトが有ったから、も少し大人なのかと思ってた。』

…おかしい。チェスタ達は大体第1から7階層くらいまでを中心に仕事をして、第8階層より上では知名度は格段に落ちる。ダンダリアンもレストラもゴードルンも、何でも屋なんて聞いたことも無さそうにしてた。

でも第21階層でニレイは何でも屋の噂を聞いたことが有るって言って、第31階層のアンギュラも同じことを言って…

やっぱり、何でも屋って他にも居るのか?

俺達とは違う、もっと遥か上層の階を拠点にして…

『アンギュラ、私は何でも屋ではなく、修理屋のプリマ。何でも屋はこのルクスと…下階にあと二人、もう少しだけ年上の仲間が居る。』

『ん、そーなの?…カワイイから大歓迎だけど、何で修理屋さんなんかが此処までくっ付いて来たワケ?』

アンギュラの不思議そうな笑顔でまた思い出した。結局骨の腕には一度も何の異常も起こらなかった。

プリマが此処まで階段を上って来て、何にも意味が無かったって訳じゃない。プリマが居てくれたお陰で助かったことが沢山有った。でも…プリマが今朝その目に宿してた使命は、多分果たせてない。

『アンギュラ、それはそうとポルクスがもう限界なんだ…水かなんか、一杯分けてやってくれないか?あと、ピヨピヨももう動けんかも。中まで運んだ方がいいんだろうが…』

『んー?…あぁ。まー良いよ?何とかするわぁ。何とか……ね。』

アンギュラという女には、何処か違和感が有る。はっきりとした喋り方で、どうやら友好的で、間違い無く笑顔なのに…トロイメラ程では無いが、何故か気怠そうに見える。

『後はプロに任せなぁ。』

ニカッと笑いながら腰にぶら下げた水筒を差し出す様子で気付いた。こいつ、レストラに少し似てる。

何か心配そうな…嗚呼、否、これは…憂いって奴か?

『サンキュー、アンギュラ。おい、ポルクス…飲むかー?ほら。』

『……う。うぐぐぅ…っ!』

水筒を受け取ったクリエはそのまま蹲んでポルクスを覗き込む。ポルクスは呻きを返事として震える腕を伸ばすが、まだ顔を上げられない。

アンギュラは巨大鳥に歩み寄って、そっとその溝色の毛を撫で付け出した。余りにも優しいもんだから、微動だにせず突っ伏す毛玉が無視してるのか受け入れてるのか気付いてないのかも判然としない。

『…ポルクス、暫く動けないっしょ?休んでっても良ーよ?』

『んあ?そりゃ助かる!何から何まで悪いな…。』

『こーゆー時はお互い様よ……と、言うワケで。またね、ルクスとプリマ!お疲れぇ。』

『えっ…?』

ニカッと微笑むアンギュラに、プリマが呆ける。

俺も似たような気分だ。此処までの苦労には何処か見合わない、何とも淡白な終わり方…。

『ん?それとももーちょっと、コイツとの最期のお別れに浸っとく?…そんなのイヤじゃない?』

嗚呼、そうだ…忘れてた。俺達はこいつが死ぬ前に、こいつを殺す為に此処まで苦労をして運んで来たんだ。

俺とプリマが去った後、こいつはアンギュラに殺される。

『……嫌じゃない。』

偶々プリマの一番近くに立ってた俺にしか聞こえなかったかも知れない。でもプリマは確かにそう呟き捨てて、毛玉に歩み寄り、アンギュラがそうしたように優しく手の平で溝色の羽毛に触れた。

『さようなら。ありがとう……ミタモ。』

柔らかい眼差し…このプリマはきっと、笑顔だ。

……でも、何だよその台詞?不可解だ。

『……ミタモって…何?』

アンギュラが眉を顰め、皆の疑問を代弁すると

『ん?えっと……あぁ、多分、ミズルの賜物…?呼び名が無いと礼の言いようも無いから、咄嗟に出て来た…。』

ミズルノタマモノ…略して、ミタモ?

何だよそれ…!?

『…ぷっふ!はははははは…っ!』

ぱちくりと目玉をひと回しした後、アンギュラは腹を抱えて爆笑した。

プリマの表情はまた鳴りを潜めたが、目を伏せる様子が少し照れてるようにも見える。

『プリマ…あんた、優しいんだね。だからとっとと帰りな。この肉はこの辺の階層の料理人に分けられて、あんた達低層階の奴らの腹に収まるコトは無い。食べもしないヤツが、死ぬ肉に思いを馳せる義理なんか無いさ…あとはこっちに任せときな。』

確かにそうだ。食べもしない肉どころか、普段食べる肉にも然して思い馳せたことなど無い。形骸化した儀式のように『いただきます』と唱えるくらいで…

『そんなことは無い。』

今度ははっきりと、真っ直ぐにアンギュラの目を見てプリマは言い放った。

『この町の腹を満たすミズルの賜物に、感謝をしない筈など無い。この町は私の故郷だから。私は、掛け替えの無いこの町が大好きだから。』

『……こ…きょー……?』

アンギュラはプリマの力強い純粋さにたじろぎ、故郷という言葉に小首を傾げた。

さてはアンギュラはこの町で生まれ育った人間なんだろうか。旅立つ先も帰る先も無いこの町では、故郷なんて言葉は何の役にも立たない筈だ。

『プッ!』

唐突に甲高い破裂音が響いて、怯んだアンギュラも思わず身体を震わせる。

『なっ…何の音…?』

確かめずとも何となく判る。家程巨大な身体が音に合わせて震えて、毛がふわふわと微かに煌めく。その中から少しだけ、燻んだ薄桃色が覗いてる。

『プッ…プピピーッ!』

言葉を持たない獣が、声を上げて何を表したいのかなんて人間には測りようが無い。だから状況を補完して勝手に都合良く解釈するしか無いんだ。

俺の見立てはこうだ。『強がって振り絞った別れの挨拶』か、『辞世の雄叫び』。

…どちらにせよこの声は恐らく、こいつがこの世で上げる最後の『言葉』。

『……ピヨピヨ、こんな声だったんだなぁ。』

呆気に取られたクリエが染み染みと呟く頃には、薄桃色の嘴も隠れてミタモはまた毛玉に戻ってた。

プリマもそれを確認したのか、くるっと踵を返し、合図のように俺に近寄る。

『ミタモをよろしく、さよならアンギュラ。』

プリマの表情は微かが過ぎて測れない。でもきっと悪気は無くて、何より優しい筈だ。それなのに…

『よろしく…って…。』

それを向けられたアンギュラは明ら様に顔を歪めた。プリマは直ぐに身体を返して歩き始めたから、きっとその表情は見えてない。俺も慌ててプリマを追って歩き出す。

少しだけ…でも確実に様々なことが憂鬱で、やっと大きな仕事を終えられると言うのにちっとも心が晴れない。

アンギュラの気持ちが少しだけ読める。これから殺すだけの動物に名前を付けるだなんて、情が生まれそうになるから止めて欲しい。寝覚めが悪くなる。

それにポルクスの依頼だって忘れてない。どうしたもんか…取り敢えず、帰ったらチェスタとビスカに相談かな…?

何より…衝撃的だった。プリマの、この町への…『故郷』への想いを、初めて見せ付けられた。これは…こんなのは……

まるで、信仰と呼ぶに相応しい。

信仰は、心の支えだ。俺はプリマの心の支えで在るミズルをぶん殴って、プリマに取って掛け替えの無いこの町から飛び出そうと足掻くんだ。

自分の故郷へ帰る為に。

嗚呼、そうだ。俺には俺の掛け替えの無い故郷が、信仰がきっと在って…

つい最近チェスタに言われたことを思い出した。

―俺たちの平和を脅かすことをするなよ―

俺が脱出を目指すことが、この町の崩壊を引き起こす訳じゃないだろう?

だって、そうだろう。この町はプリマの故郷なんだ。

故郷とは、帰る為に在る場所。

この町を飛び出すことが出来るようになったとしても、この町はプリマが帰る為に在り続ける筈なんだから。


『仕事し辛くさせないでよね…。』

アンギュラは顔を伏せて吐き捨てるけど、階段を下り切る頃の俺達にはもう聞こえないし、聞かせないように呟いたんだろう。でも様子を何と無しに眺め続けてたクリエには聞こえてたみたいだ。

『……なんか、手伝うか?アンギュラ…』

少し心配そうに顔を覗こうとするクリエに、即座に背を向けてわざとらしく腕を回し始めたのは、何を気取られない為だったのか。

『いんや、問題ナシ。あたしは、プロなんだからさ…!』

でも声は、言葉は力強くて、その魂に偽りが無いことの証左となる。

皆が皆、皆の為に、手と手を取り合うこの町では…

誰もが何かのプロで、代わりは利かず、妥協なんか許されないんだ。

それが、プライド。


プリマもくたびれたのか、歩みが遅い。

折角だから、さっきまでゆっくり眺めることの出来無かった初めての景色を、きょろきょろと観察しながら戻ってゆく。そうして気付いたけど、プリマも同じように首を動かしながら歩いてる。

プリマは生まれながらにこの町に住む住人だが、この辺は馴染みが無いから目新しいんだ。だって確かに、低層階とは雰囲気が全然違う。

先ず、色が統一されてる。

下層階では建物は思い思いの色で塗られて素材も様々。山や地面には色取り取りの草木が生えてた。ガチャガチャな景色は階段を上る程に足掻きが…景観美への憧れが見えてきて、第20階層からは区画毎にデザインすることで統一感に依る美しさと、枠組みの中から各々の個性を主張する自由を両立させた。

大体、第26階層くらいからだろうか?意外と早めに第20階層みたいな華やかさは落ち着き出して、同じ色が増えてくる。煉瓦みたいな暗赤色。煉瓦そのもので作られた建造物も無くは無いけど、木で作られた小屋なんかも全部似た色で塗られてる。まるで、個性なんか考えることに飽きてしまったみたいだ……否、疲れたのか?

でも、不思議とこれはこれで悪くは無い。第30階層から上は金属素材も増えてきて…鉱物が採れる山が在るのは下層階なのに、何故上に来て金属が増えるんだろうか?分かんないけど…暗い赤と鈍い光沢は相性が良いように映る。

金属…そんな共通点で思い出して、自分の右腕を軽く持ち上げてみる。ニレイが本当に天才なのかどうかは分かんないが、確かに腕は良いんだろうな。

『なぁ…プリマ。下まで下りる前に、この辺の知らない食事処で飯でも食べて行かないか?弁当屋でも良いけど…。』

『…え?』

振り向いたプリマは、無表情な癖に大層不思議そうに見える。

『折角この腕の為にこんな上まで付いて来てくれたのに、何の故障も無くて…雑用ばっかりしてくれて、無駄足みたいになっちゃっただろ?せめて、此処まで上ったからこそ出来るような特別なことをして帰らないか…?』

プリマは黙して只、その丸まった瞳をこちらに向けるのみだ。そんなに変なことを言ったか…?俺なりに、此処まで支えてくれた礼のつもりで言ってみたんだけど…。

『…ルクス。何が無駄なんだ?私はちゃんと、発明屋に託された仕事を果たすことが出来たのに…。』

『はっ…?』

二人して、ぽかんと口を開けて見詰め合って…馬鹿みたいだ。

『いつの間に…ニレイに、何を頼まれてたんだ?』

『え…だって、この仕様書に…』

プリマは道具箱から折り畳んだ3枚の紙を取り出して、一番下…3枚目の紙の、最下部に太く力強く書かれた記号を指して見せ付けた。

『……ん?もしかして、ルクス…文字が読めない…?』

何と無く、恥ずかしい。文字が読めないって…出来ないことが有るって、決して良いことじゃないとは思うけど…どのくらい普通じゃないのかは分かんない。この町の暮らしでは、皆あんまり使ってないような気もするけど…看板とかは、絵で描いてあったりして。

『ごめん…そうだよな、記憶が……まぁ、私も全部が読める訳では無いんだ。じいちゃんが教えてくれた簡単な言葉とか、修理に関する用語や記号だけ…それで、この一番太い文字は多分『私の寸分狂わぬ完璧な仕事を見届けて、私の天才ぶりを証明してくれ』…みたいなことが書いてあると思う。』

『……はぁあああ?』

何だそれ……偉そうだ!

『この下に小さく書いてある端書きみたいなのは、ちょっとよく分からなくて…何かを『よろしく』って、言ってるみたいなんだけど。』

言われて更に下に目を落とすと、太い文字の下に小さくぐちゃぐちゃっと何かが書いてある。虫が走るみたいに汚くて、ちゃんと伝える気が有るのかも定かではない。

『その腕…只骨を飛び出させるだけの目的に、結構丁寧な仕組みと貴重で丈夫な素材を使ってるみたいなんだ。私がおたまを直そうと触れた時のことも思い出して、仕様書を読めば、此処まで手掛けた発明屋が頭脳と感性を持った天才なんだと判る。だからこの仕様書を託された私は、書かれた通りにその腕が働き役に立つことを見届けるのが役目だと思った……勿論、万一故障を起こしたら仕様書の指示通りに修理するつもりも有ったけれど。』

俄かには理解し難いが…どうやらプリマは使命感に衝き動かされた訳でも他の誰の為でも無く、只ニレイからの依頼を遂行する為に此処まで苦労を共にしてくれたみたいだ……否、これって依頼って言えるのか?只の目立ちたがりが溢した自己顕示欲を、馬鹿正直に捉え過ぎてるだけの気も…!?

『ルクス。お前が良ければだけれど、第20階層に寄らないか?』

『はっ…?』

不可解過ぎて顔を歪めた俺に気を遣ったのか、プリマが止まった歩を再び進めながら話題を逸らす。

『イチゴ屋に行ったら…これと同じシュシュが、もう一つ置いて有ったりはしないだろうか?やっぱり、髪は耳の後ろで結ばないとどうにも落ち着かないんだ。小さな頃から、ずっとああしてきたから…。』

プリマは頭の後ろで髪を纏める花のように淡い毛糸のシュシュを指して、また少し照れ臭そうだ。

…確かにそうだな。銀のような金のような不思議な色の髪を真横で二つに結んで、表情が無いから何処と無く目付きが生意気に見えるし、口調が堅苦しいから年相応の可愛気も表れないけど…

でも、俺がこの町で出会った奴の中で、誰よりも純粋な人間。

そんなプリマじゃないと、俺も落ち着かない。

もう空は大分朱くて、大仕事で掻いた汗はすっかり夕風に冷やされてる。イチゴ屋に寄った後、第12階層で温かい夕飯を探すのも悪くないかもな…ダンダリアンも会いたがってるって、言ってたっけ。

今日も間も無く、一日と言う区切りが一つ終わる。何の進展も無い不毛な日々の一つにまた別れを告げる。

…進展が無い?正しいとは思うけど、しっくりは来ない。後退と呼ぶ方が相応しくはないか?

この町の為の仕事を終えて、肩の荷が降りて、プリマと二人で歩いて、見慣れたプリマに再会する為のシュシュを探して、ダンダリアンの酒場で見知った奴等に挨拶をして、温かい飯を食べて帰るとか…そんな小さくて近過ぎる未来を、悪くないとか思ったり

否、悪くないとか…

本当に、悪くないだけか?

受け入れてるだけなのか?まさか、お前…俺は

望んでる訳じゃないだろうな…!

…恐ろしいことなんて考えたくはない。嫌な考えなんて全部思い浮かびすらしなかった振りをして、馬鹿の振りをして生きて居たい。

でも、それって結局…

今日もこの町の温もりに溺れながら、眠りに堕ちるってことなんじゃないのか…?

ミタモ…プリマが名付けた、ミズルの賜物。

俺も、お前も、自分の居るべき場所に帰りたいんだって…不本意なんだって

俺は、そう思ってた筈なのに…。


***


『…ただいま、プリマ。』

蒼い扉が軋んで、ルクスの声がする。でも響かないで、頼り無い…きっととても疲れている。

『おかえり、ルクス…お疲れ様。』

見上げてみたルクスの表情は、何だかとても複雑で私には心中を推し量ることは難しい。只の疲労だけとは思えない。失意?焦燥?否…切ない…?まだ子供の私には、難しい感情はとても理解出来無い。

何やら昨日突然第1階層の広場に謎の巨大物体が現れて、上階に住む拾い屋と言う者に頼ろうとしているとは昨日のルクスと朝に会ったスーピーに軽く聞いたが…まさか当てが外れたのだろうか?しかし修理屋の私には、今のところ役に立てることは無さそうだ…。

『一応シブリーに聞いたら、プリマは来てないって言ってたから…弁当、2つ貰って来ちゃったんだけど…』

『あぁ、今日は私も仕事の区切りが付かなくて…ルクスが帰って来たら終わりにしようと思って居たんだ。弁当、ありがとう。』

机代わりの箱の上に散らかした工具を端に寄せて雑に片付ける。記録屋のピロが愛用するペンの修理だけ、手こずって終わらせられなかったな…明日、早起きしよう。

『遅くなって、ごめん…今夜は、魚を揚げた弁当だって。』

何を謝ることが有るのだろう。ルクスが遅いお陰で、私もゆっくりと仕事に打ち込むことが出来たのに。

申し訳無さそうにそっと弁当を差し出すルクスの左手が不思議で目が追うと…その美しさに、思わず呆けてしまったんだ。

淡くて、でも確かに彩り豊かで心が躍る。花みたいな紫、桃色に…少しだけ、黄と緑が差し込まれている。毛糸で編まれているのだろうか…?ひらひらとうねって、まるで人形のドレスの裾みたいだ。

でも、違和感が滑稽だ。ルクスは記憶が無い所為も有るだろうが、この年頃の男の中ではかなり飾り気が無い奴だと思う。そんなルクスが、何故選りにも選ってこんなにも女が好みそうな淡く華やかな装飾を唐突に…?

『………あ。』

私の目線を追ったのか、ルクスの目も自分の左手首に辿り着いて微かに声を上げる。まるで着けていることを忘れてたみたいだ。

『えっと…第20階層で、イチゴ屋って奴から貰ったんだ。この町じゃ儲けるもんも無い癖に、拾い屋みたいに色んな階層で有名になりたいとか言って、これを女子に見せびらかして宣伝してくれって頼まれたんだよ!えっと、これはシュシュって言って…腕に嵌めても良いし、髪を結んでも良いって…』

決まり悪いのか目を泳がせながら説明を捲し立てるルクス。

イチゴ屋と言う仕事は初めて聞いたが、シュシュと言う物にも馴染みが無いな…髪を結ぶのは兎も角、腕に嵌めたら仕事がし辛そうだ。あんなに美しい毛糸が、塗料や木屑で汚れることが有ったりしたら嫌だ。

『だからこれ、プリマが貰ってくれ。』

『えっ!』

何故こんなに驚いてしまったのか我ながら分からない…きっと、自分がこんな美しい装飾を身に付けるだなんてとても想像出来なかったからだ。

私だってルクスのことを何も言えない。白いシャツと丈夫が取り柄のズボンを仕事で汚しながら洗って使い続けて、着飾るだなんて只の一度も頭に浮かんだことは無かった。

ルクスは『女に宣伝しろ』と依頼されたから、手近に居た私に渡そうとして居るだけだ…でも残念だけど、きっと私はルクスの期待には応えられない。

『あの…ルクス。きっと他の、飾るのが好きな女に渡した方が良い。修理屋の仕事は手元でばかり作業するし、腕に嵌めたらきっと直ぐに汚してしまう…。』

ルクスは不思議そうだし、悪気は無いし、実際にルクスは悪いことは何もして居ない。

『…髪を結ぶのに使えば良いかなって、思ったんだけど…プリマだって、髪を縛ってるその紐に玉をぶら下げて、飾ってるじゃないか。』

……そうか、この玉は…飾る為に下げられたのか…?

私は自ら望んで髪を縛り始めた訳じゃ無い。

私はどうやら人よりも頭から生えて来る毛の量が多く、おまけに毛質は硬くて、伸ばしっ放しだとばさばさと見苦しい。

或る日じいちゃんが、目や口に毛が入るからと言って、その辺に有った紐で真横に二つ縛ってくれた。私は何だか面倒で『短く切れば良い』と言ったが、じいちゃんは『そんなのは詰まらないぞ』と言ったから…よく分からなかったけど、私は受け入れたんだ。

瞳程の大きさの透き通るガラス玉は、プラツェが下げたんだ。髪を縛って育て屋に行ったらプラツェに甚く好評で、『じいちゃんに結んで貰った』と説明したら…

『流石ドラグォ。無骨で、足りなくて、惜しい男。』

そう言って紐を解いて、何処かから持って来たガラス玉を通して、髪を結び直してくれた。『これで可愛くなったわ』って言って…私にはこの意味も、よく分からなかったんだけれども。

プラツェは、私のことを飾ってくれたんだ。じいちゃんは…髪を短くしたら飾ることが出来なくて詰まらないって、言いたかったのだろうか?

『……プリマ?』

反射的に思い出が鮮やかに再生されて、ルクスのことを置き去りにしてしまった。でも、これはルクスのお陰で呼び起こされた、大切な真実…。

『もし嫌だったら、プリマの言う通り別の奴を探すよ。スーピーは…髪は長いけど、結んでる訳じゃないよな…髪を結ってる女って、後は誰が居たっけ…?』

『ルクス、済まない。』

『…は?』

自分の勝手を心より申し訳無いと思い口を突いて出てしまった言葉だが、唐突で言葉足らずで、ルクスの理解は追い付いていないかも知れない。

『やっぱり、そのシュシュは私にくれないか?必ず身に付けて、この辺りの女達に宣伝するから。』

『え…?あ……うん。じゃあ…はい…。』

ルクスは不思議そうだ。受け取れないと言っても寄越せと言っても同じ顔をされるなんて、何だか矛盾みたいで滑稽だ。

ルクスが差し出した左腕から、鮮やかなうねりを回収する。

毛糸はふわふわと柔らかい。取り敢えず机代わりの箱の隅に置いて、私は思案する。何せこのシュシュは一つしか無いものだから。

でもきっと皆は喜んでくれる筈だ。だって、飾らないことは詰まらないことで…つまりは、飾るということは楽しいこと。楽しければきっと、皆笑ってくれる筈。

それに…ルクスがされた依頼に、ルクスの『仕事』に、協力することが出来るならば。

今まで一度もしたことが無いこと。こんな小さな勇気くらい…出さない手は無いだろう……そう、思う。


『おはよう、ルクス。』

ピロのペンの故障は、インクの詰まりが原因だった。分解して丁寧に掃除をして、新しいインクの補充は自分でやって貰うように言って返却すれば、この仕事は完了だ。

ルクスはルクスで昨日上階で拾い屋に借りたと言う背負い籠を、朝一で返却しに行かなければならないらしい。なのに昨日の疲れが響いているのか空が明るくなっても起きて来ないから、声を掛けてやる。背負い籠なんて、その辺の農家の誰かに余りを分けて貰うか、藤編み屋のエウロに新しく作って貰うかでもすれば良いのに。

『ルクス…起きなくて良いのか?』

あんまり気持ち良さそうに寝ているから忍びないけど、埒が明かないから毛布を少し剥がして揺すってみる。不快そうに眉を寄せ、吐息を溢して、やっとその目が開かれる。

『……………は…?』

ゆっくりと、確実に、見開かれたと言うのに…ルクスから言葉は顕れない。

無理矢理起こして、怒ってしまったのだろうか?ルクスはそんなことで怒るような気の短い奴でも、起きて直ぐに怒ることが出来るような寝起きの良い奴でも無いと思うのだが…

もしかして……やっぱり、変なのかな…?

でも、二つに結んだ髪の片側だけが鮮やかで華やかな方が、バランスが悪くて余程滑稽じゃないか?

だったら…後ろで一つに結ぶしか無いじゃないか。

『………ん?あ………え…と……あ。あ、あぁ……あぁ。』

言葉を紡げないまま、声だけが段々と確かさを帯びてきて…ルクス、さては寝呆けて居て、昨日のことをようやく思い出したんだな。

『……おはよう……プリマ…。』

思い出したのだろう筈なのに、きょろきょろと目を丸くして、お前の所為で変わった私の新しい姿に一向に慣れてくれない。

でも、私だって慣れないんだ。両耳の後ろにスースーと風が通って、落ち着かない…!

『今日は早めに出掛けると言っていたから、もう弁当を貰って来ておいたんだ。食べるだろう?』

『うん…。』

やっぱり出来るならば、髪は二つに結びたいな…イチゴ屋とやらを訪ねれば、同じ物がもう一つ貰えたりはしないだろうか?左右揃いのシュシュで結べば、おかしくは無い筈…でも、第20階層まで上る機会なんて中々無いからな…。

『いただきます…。』

『私も、いただきます。』

ルクスがすっかり受け入れてくれたことに甘えて、飽きもせずに今朝もシブリー。今日もまた変わらない一日が始まる。大変なことが起こっても、私の髪型が変わっても…大切なことは変わらない。

太陽は昇って、私が居て、ルクスが居る。

其処には…ミズルの加護が在る。

…次の満月までは、あと半月くらい有るのに…もう、待ち遠しい。

飾る私を見たら、ミスケはびっくりしてしまうだろうか?でもきっと、喜んでくれる筈だ。

だって…楽しければきっと、皆が笑ってくれる筈だから。

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