第15階層。

『すげーっ!美味っ…何だこれ!レストラの酒ぐらいうんめ〜じゃねぇかっ!レストラが作ったんだから当たり前か!ははは!レストラの酒都合して貰えん事なんか如何でも良くなっちった…このジュースは、もっと世に広めんべきだ!』

依頼人のダンダリアンでもなく、頑張った俺でもなく、何故かピズーリが一番盛り上がってる。

酒を都合って、何の話だ…?まぁ、どうでも良いならどうでも良いか。

『嗚呼…素晴らしい。砂糖漬けの筈なのに、素材の味が確かに感じられて、爽やかで上品だ。レストラに此の様な才能迄有るとは…。』

ダンダリアンは一口ずつ確かめながらジュースを味わい、酒場内は和やかな空気感だ。でも……

『ダンダリアン…もし満足出来なかったらまた話を聞いてくれるって、レストラは言ってたけど……誰かを笑顔にしたい時に、手伝ってくれるって…だから』

『否…此れで良い。今は此れが良い。お前のお陰だ。本当に有難う。ルクス…何でも屋の、ルクスよ。』

やめてくれ。嬉しいから。

俺はこの状況を以ってして、気付いてないんだ。俺の根がこの町に伸びようとしてることを。忘れてるんだ。この町で生きてしまったら、俺の負けだということを。

ミズルに、負けるな。

『ルクス。間も無く空が朱らみ、日は沈もうとするだろう。良ければ、また腹を満たしてから帰るか?』

確かに昼過ぎにポロップの元を発って、レストラのところで試飲をして、酒場でジュースも楽しんだ。

チェスタ達にはこの後寄って今回の報告をするって言ってたけど…どうせもう今日の仕事は殆ど残ってないだろうし、飯の一つくらい食べてから帰っても大差無いか。

『じゃあ、食べてく。飲み物は橙ジュースで良いや。桃ジュースはダンダリアンの物だから。』

『お…はは、そうか?じゃあ、御言葉に甘えようか。適当に作るから待って居な。』

ダンダリアンは言いながらもう足下の瓶を取り出して、新しいグラスに橙色の液体を注いでくれた。

料理の様子を何となく眺める。ピズーリは未だ興奮冷めやらぬままジュースの味や感動について語りまくってる。ダンダリアンはそれに適当な相槌を打ちながら後ろの箱から肉を出し、叩き始めた。

この前来た時とは…仲間と共に来た時とはまた包まれる空気感が全然違う。

他の奴が話してる様子を何となく眺めながら、会話が耳を通り過ぎながら、人と居る筈なのに1人の時間なんだ。

チェスタ達と来た時に居たビエッタもこんな気分だったんだろうか?悪くない、気分だよな…。

何処から来たのか不思議な心地良さに、身を委ねようとしたら

『旦那あ!』

新しく滑らかな扉は全く音を立てないから、まるで唐突に其処に現れたかのように男の声が高らかに響く。

『…ゴードルン!』

『おっ、ゴードルンだぁ〜。』

ダンダリアンとピズーリは笑顔で振り返る。

俺も振り返って見てみると…ゴードルンと呼ばれた男は、今までこの町では見たことが無い、ちょっと変わった格好をしてた。

髪は下は刈り、上は纏めて後ろで1つの団子にしてる。服は…普通なんだが、上半身に…何だっけな、これは。鎧とは違って…胸に当てるような。そう、胸当てだ。胸を守る為の鎧だ。黒と茶の斑模様で、恐らくマミムの皮で作られてると思う。この争いも天敵も無い平和な町で、何の為にそんな物を着けるのか。

『偉く楽しそうだな、ピズーリ…おや。見ない顔だ。酒を飲むような面構えには見えないが…旦那かピズーリの知り合いなのか?』

ゴードルンは何故か俺の隣の席に座り、俺はピズーリとゴードルンに挟まれる。ダンダリアンは何も言われてないのに、さっき自分が飲んでたみたいな琥珀色の液体が入ったボトルと、綺麗なグラスをゴードルンの側に置いた。

ゴードルンの年は、ピズーリより少し上のように見える。口元と顎に髭を生やしてる所為も有ると思うが。でも、ダンダリアン程大人ではないと思う。

『お前、名前は何だい?俺はゴードルン。ゴードルン・ポゼーソンさ。よろしくな!』

ゴードルンは注いだ琥珀の液体を一口流した後、笑顔で右手をカウンターの上に乗せ差し出してくる。が、俺は意味が分かんない。そう、今まで…スーピーとダンダリアンは左手を差し出してくれたから、自然と左手を返すことが出来たんだ。

『……何だ?俺は何か気に食わないことでもしてしまっただろうか?』

?が幾つも浮かんだまま、取り敢えず何か言葉を返そうとすると

『ゴードルン、よく見てやってくれ。其奴の右腕は俺達の物とは違い少しだけ前衛的なんだ。』

ダンダリアンが助けてくれて、ゴードルンは俺の滑稽な右腕を発見する。

『は…何と!このような腕は初めて見た!外の世界にはこのような腕が有ると言うのか…?ああ、すまない。改めて、よろしくしてもらえたら嬉しい。』

ゴードルンは右腕を引いて、今度は左手を差し出した。

『よろしく…俺は、ルクスだ。』

俺も左手を差し出し返すと、ゴードルンがぐっと掴むので応じて掴み返す。スーピーも、ダンダリアンも、この行為に何の意味が有ると言うのだろうか。初めて見える者とは、手の平を交わせば良いのだろうか?

『もしかして、被害者なのか?記憶の無い……まあ、握手くらいは忘れても大した問題は無いさ。応援しているよ。』

俺は気付いてない。いつの間にか緩衝を挟んでない。俺が認めてしまえば、ルクスとは俺の名だと言うことになってしまうのに。

そう言えばこいつにも名前が2つ有ったな。皆がゴードルンと呼んでるんだから、俺もそう呼べば良いだけか。

『ところでピズーリは何をそんなにはしゃいでいるのだ?美味い酒にでも巡り会えたのか?』

『ち、ち、ち。近いが、違うぞ。今日、俺は素晴らしいジュースに出会えたのだ!レストラの傑作ジュース…!』

作ったレストラでもなく、頑張った俺でもなく、何故かピズーリが一番偉そうだ。

『レストラが…ジュース?そんなの初耳だ!是非飲んでみたいものだ……旦那、俺が飲む分は余っているかい?』

『ん?嗚呼』

『このジュースの残りはダンダリアンの物だ!』

事情を知らないゴードルンには悪いが、強めに遮ってしまった。優しいダンダリアンは、どんな奴にでも一杯分けると言ってしまいそうだから…こんなことになるなら、ピズーリに飲ませるんじゃなかったな。

『そうなのか…?それはすまない。旦那、レストラに直接交渉でもしたのか?羨ましいなあ…酒場ならではのコネかい?』

どうやらゴードルンは悪い奴ではなさそうだ。多少勿体振った口調では在るが、ダンダリアンやビエッタと比べると、何処か柔らかい。

『ふ…何でも屋に無理を言って、我儘を叶えて貰ったのさ。』

頑張った俺ではなく、何故かダンダリアンが誇らしそうに見える。何故か、悪くない気分だ。

『何でも屋…?』

『何でも屋は、依頼されたら何を何処迄も何でもやってくれると言う、斬新な職業だ。な、ルクス。』

『は…?』

俺の答えを聞くまでも無く、ゴードルンの顔は理解の色を失う。こんな反応にも、もうすっかり慣れた。

『…その通りだ。言われたら何でもやる。他の仕事の手伝いも、下らないことも、ちょっと自分勝手なことも。』

そう言うと、ダンダリアンは小さく息を吐いて微かな笑みを押し殺した。俺にはダンダリアンが笑った理由が何となく分かるから、少しだけ擽ったい。

『それは確かに斬新だ…!素晴らしい!』

……ん?この反応は、まるで…あの夜の

『…おや。早めに来た積もりだったのだが。』

滑らかな扉はまた音も立てずに開く。部屋の中に蒸し蒸しと篭った香りが逃げて行く。

現れたのは、一度見知った女。ビエッタだった。

『あっ、ビエッタ。久し振りぃ〜。』

『嗚呼、ピズーリ…久し振り。だがお前がダンダリアンに寄越したワインは確実に私の中に取り込まれて居る。』

『ははっ!そりゃ良かった!仕事の甲斐が有るわぁ!』

ビエッタはピズーリと会話しながらゴードルンの隣、折れ曲がり独立した一席に腰を落ち着ける。その間にダンダリアンはもう、赤いワインのボトルとグラスをビエッタの目の前に置いてる。そして

『ルクスも、お待たせ。相変わらず料理に成っては居ないが…香りだけは良いだろう。』

ビエッタが扉を閉めたことによって、再び肉とハーブの香りばかりが空間を支配した。マミムの肉は臭みが少なくジューシーだけど、ハーブの香りが強く感じられて爽やかさも有る。

『ありがとう…いただきます。』

ダンダリアンの目を見て言うと、その目を細めて返事としてくれる。

ダンダリアンは片手しか使えない俺の為に、肉を小さく切って出してくれた。欠片の一つをフォークでぶっ刺して口に運ぶ。噛むと肉の汁が溢れ出て、それだけなのに不思議と幸福が満たされゆく。きっとハーブが同じなのか、この前の魚の味に通じる部分も有るな。シブリーのマミムとはまた全然違う…豪快な味だ。

しかしダンダリアンは、料理に関して特に卑屈に見える。こんなに美味い物を出せるのに、料理じゃないとか、そんな小さくあやふやなことばかり気にして。

『美味そうだなぁ…何でも屋。俺も腹ぁ減って来たなぁ〜。』

『そうだよなあ。俺も同じものが食べたくなってきたよ。』

ピズーリが俺の手元に横目を流すと、ゴードルンも同調する。

『嗚呼。良いだろう、待って居な…ビエッタは、食うか?』

『否…未だ、大丈夫。其奴らに先に振る舞ってやってくれ。』

ビエッタはまた、すましてワインを含みながら、聞いてないようでいてずっと俺たちに耳を傾けてる。

『おぉ〜、ありがとよビエッタぁ。宜しく、旦那ぁ〜!』

ピズーリは流石にもうレストラのジュースを飲み干し、最初に飲み掛けてた橙色の液体を呷った。あれってもしかして、只のジュースか?

皆仲が良さそうだ。客同士で仲良くすることも有るのか……そりゃそうか。酒が好きで、ダンダリアンが好きで、同じ場所に集まるんだから。

『なぁ…ルクス。お前、何でもやると言っていたが…実際どこまでやってくれるんだ?その…腕に、枷をはめて。』

尤もな疑問で在る。そして、今まで何回も投げられてきた疑問でもある。

『…何でもやってきたよ。あと2人、仲間が居るんだ。手伝ったのは、掃除屋、育て屋、材木屋、水屋、花屋…助っ人以外だと、朝起こしたり、代わりに弁当屋に並んだり、クルッケルの審判をしたり…後は』

『ああ、成る程なるほど…よく分かった。本当に何でも有りだということが。素晴らしいよ。俺の話も、聞いてもらうことは出来ないだろうか…?』

やっぱり。そんな気がしてたんだ。素晴らしいなんて言って、目が輝き出して。まるであの夜のダンダリアンみたいな。

まるで一筋の希望に縋るみたいな、なんて言い過ぎか?

『聞くことは出来るけど…依頼を受けられるかどうかは分かんないぞ。本当は俺、第4階層に住んでて……ダンダリアンの依頼を受けたのも、何て言うか…その、リーダーみたいな奴に許可を貰ったからなんだ。』

癪だ。とても不本意だ。でも、他に伝わるような言い方が思い付かない。確かに俺もビスカも、チェスタの指図を中心にして動いてるのだから。

『そうか…それでは仕方がない。どうしたものか。実は今日ここに来たことも、この話のためを兼ねていたのだ。皆の心当たりを借りたくて…。』

ゴードルンは思い出したかのように深刻な顔に変わった。さっきまでの陽気は何処へやら、憂いが過ぎる程に。

『如何したんだ、ゴードルン…解決に近付くかは分からんが、近付かんとも限らない。是非話してみてくれ。』

ゴードルンは琥珀色の液体で一口喉を流し、改まって語り出した……俺を含めた他の全員が、静かに耳を傾ける。

『実は…ロラサンが死んじまったんだよ…。』

『えっ…!』

ロラサンって、誰だよ?

他の3人は大層驚き、信じられないって顔をしてる。

こいつらが知ってるってことは、この辺の階層の奴なのか?死んで驚く程仲が良いか、名の知れてる奴ってことなのか…?

『ロラサンが居なくて、医療は間に合って居るのか?』

ダンダリアンが心配そうに問う。ロラサンとは医者だったのか?

『そうだな…周知だろうが、元々あの辺りは人口も比較的少なく、その分トラブルも少ないのだ。ロラサンも、俺が飛ばされて来た頃には既に高齢で出来ることも限られていたが、大きな問題も無くひたすら地域の相談役といった存在だった。日に日に老い医療と呼べる行為が出来なくなってきても、早急に切迫するということも無かった。しかし5日前にロラサンは死に……どうもそれを境に、医者の手を借りたいと言う者が漸増している気がするのだ。』

『は…?』

『…如何言う事なのだ?』

ピズーリは化かされたような、ビエッタは訝るような、それぞれの驚き方をする。ダンダリアンは焼いた肉を取り上げながらも、確かに目を丸めてる。

『どうもこうも…こっちが聞きたいさ。皆、医者という頼れる存在が失われて不安が募っているのやも……今のところは大した相談は無いんだが。いつか何かが起こりそうで、起きなさそうで…胸騒ぎがする。酒場に来れば、何か伝手を探れるかと淡い期待を胸に来たんだよ。』

ゴードルンは手を組み俯いてしまう。思ったよりも随分深刻な話だった。医者が居ないだなんて…考えられない事態じゃないか?

どんな職業も名乗ったもん勝ちだから、必要なものが失われっ放しになるんだろ?

『人口の多い12階層と21階層の間である第15階層は、生活基盤の境目でもあるのだ。11階層の医者モネミは12階層以下のことで、22階層の医者ニケアは21階層以上のことで、それぞれ手一杯だ……まあ、それでもたまに助けてはくれるがな。しかしもしもの時を思うと…もしものことが起こりそうで、少し恐ろしいのだ。この町に限り、そのようなことは無いと分かってはいるのだが。』

もしものことが起こりそうだ。

そんなことより

そんなことは無いと分かってる。

こっちの台詞の方が気になってる。

もしものことって、どういうことかは知らないが、どうせ良くないことなんだろ?何故そんな最悪の事態を想定して動こうとしないんだよ。この町の奴らの頭ってどうにも、雲の上でふわふわ遊んでるみたいだ。

トロイメラの、生気が無いと言う表現を思い出して、余計に気に食わない。

『何でもしてくれる何でも屋があれば、医者の代わりをしてくれるか、医者を探すかしてくれるやもと思ったのだが…。』

ゴードルンは何の算段も無さそうにちらりと横目でこちらを伺う。確かに聞いた限りではこんなの八方塞がりで、どうしようも無いじゃないか。

こんな事態が相手では、何でもやるより他が無い。

『……チェスタと…リーダーっぽい奴と相談しなきゃどうするか目処が立たない。此処より更に上の階で、いつ見つかるか見通せない医者の代わりをするのは難しいと思う。でもこんな状況放っとくことなんて出来ないから、何か力になれないか皆で相談してみるよ……それで、どうだ?』

こんな口約束をしたら、チェスタに窘められるだろうか?だってダンダリアンの依頼だって特別扱いだったのに、今度は更に上に行くだなんて。俺は楽しいんだけど。

レストラの蔵は第16階層だったから第15階層も通ったけど、ただ通り過ぎるだけだったからどんな施設が在ってどんな雰囲気だったのか、碌に見ることが出来てないんだ。

こんな事態に不謹慎極まりないが、今の俺にはこの町を知り脱出の手掛かりを探るだけが道だから。

『…ありがとう、ルクス!ああ、このような出会い…正にミズルに感謝だな!』

『はっ!?』

何だこいつ!

良い奴だと思ってたのに…選りに選ってミズルに感謝だと…?

そんなのまるで、俺をこの町に飛ばしたことを感謝してるってことじゃないか!

『ゴードルン…此奴、最近飛ばされて来たばかりの様なんだ。だから…』

ビエッタが諭すように声を掛けると、ゴードルンは

『は…あ、そうなのか!てっきり…いや、本当にすまない!まだ、乗り越えていないのだな…。』

未だ、とかそんな言い方も止めろ。いつかは必ず慣れてしまうみたいだろ。

『気を悪くしたならばすまない。今の言葉は忘れてくれ。きっとこの町の空気に溶け込んだならば…あっ!……本当に、すまない。』

…もう帰ってやろうかな。チェスタやビスカに相談しないで、もうすっかり俺の形になった布団に帰って、プリマが何かを弄るガチャガチャした音に身を委ねながら、寝てやろうか。

『ごちそうさま。』

『ん、嗚呼。』

全ての肉が俺の腹に収まった。取り残された皿と、桃と橙だった2つのグラスを目の前に押して寄せる。

『じゃあ俺は行く。ありがとう、皆。』

狭苦しい席から立ち上がろうとすると、ゴードルンはこの前衛的な腕に追い縋る。

『ま、待ってくれ!医者の件、よろしく頼むぞ!もう二度と、ミズルがどうこうなどと言わないからな!』

『分かってるよ…。』

頗る不快な気にはなったが、問題は深刻だから仕方が無い。

医者が居ないとさぞ不安で在ろう。俺のおたまは幸せだった。プリマが直そうとしてくれたから。

『ルクス、またな。』

『また…。』

『またな!今度こそ良い酒見付けたら紹介してくれよなぁ!』

ダンダリアン、ビエッタ、ピズーリの順に送り出してくれる。温か過ぎる度に、カストルが言うようにゴードルンが言うように、根が伸び染み込んでしまってないか。忘れ掛けてた危惧が忘れてたみたいに襲ってくるんだ。

『よろしく頼むよ、ルクス!』

ゴードルンは駄目押しの一声を押し付けた。俺は返事のつもりで軽く手を翳してから、黄色い門へ向かった。

もうすっかり日が暮れて、第12階層はまたあの賑わいで埋め尽くされてる。

この中には町育ちも被害者も居る。どちらも居るしどちらかしか居ない。

でも、どちらも同じ暮らし方をしてる。町の人々は被害者を受け入れて、被害者はこの理不尽な町を受け入れて。

気に食わないな。まるで俺が、我儘で聞き分けの無い子供みたいで。

気に食わない…いつか慣れるなんて先人振って語るゴードルンやビエッタが。そんな言い方をするということは、自分だって最初は出来なかったということなんだ。根を張り溶け込むと、受け入れることが。

あいつらは負けただけなんだ。ミズルに抗う心が、折られて砕けてしまっただけだ。

きっとそれだけだ。帰れるんだったら、こんな理不尽な無秩序に身体を預け浸されるなんて…

そう、生気が奪われるだけだろう?


『ルクスー…遅すぎて今日は帰ってこないのかと思ったが……なぜいつも俺たちの邪魔をするのかー…?』

俺…この家に来る時は、必ずこいつらの邪魔になってないか?きっと俺のタイミングが悪い所為なのに、こいつらが悪いんだろうって気がしてるのは何故だろう。

『あと15秒、いや30秒待つんだー………うん、んー……よし、入れー。』

躾けられたマミムのように立たされて、ゴーの合図で漸く入る。それにしてもこいつらがこんな感じになる時って、大体いつも布団が敷いてあるよな…。

『る…ルクス、おかえり……おつかれ……。』

いつもは体力が有って真面目で頼もしいが、今回のビスカは随分と頼りない。本当に、良く分かんない奴。

『さてー、ルクスによって一枚だけになってしまった我が家の布団を退けて、報告を納めて貰おうじゃないかー。』

何だよ一々嫌味にして、もう良いよ。遅くなった挙句邪魔をした俺が悪いよ。

『ダンダリアンの依頼は…レストラの酒を届けることは出来なかったけど、代わりにレストラが作ったジュースを届けて、ダンダリアンには満足して貰えたみたいだ。成功って言って良いかなって、俺は思うんだけど…。』

『えっ…レストラが、ジュース?』

『それはすごい…レストラは酒を作るということしか知られていないはずだがー…まさかルクスが、動かしたのかー?』

2人は…2人も、目を丸くする。酒で有名になると、酒以外の物を作るだけでこんなにも様々な人々から驚かれるもんなんだな。

『否…多分レストラは、ダンダリアンだからジュースを作ることにしたんだと思う。兎に角レストラはポロップの水に満足してくれたし、ダンダリアンもレストラのジュースに満足してくれたから解決だ!…それで、飯を作るって言ってくれたから酒場で待ってたら、ビエッタと…ゴードルンっていう男が現れて。』

チェスタはこの後話がどのような流れを辿るのか、勘が働いてきた風に見える。傾けた顎を拳で支え、ほんの微かに眉が寄る。

『…ルクスー。その、ゴードルンという男は第何階層に住んでいるんだー?』

チェスタの心中を推量してみる。『こいつちょっと1人で行動させた途端に芋蔓みたいに面倒臭いことを持ち帰って来やがって』『どうしてそんなに上の階の仕事ばかりに時間と人手を割けるわけがないだろう。』『しかし上の階には何でも屋を必要としてる奴らが結構居るんだな』『やっぱり何でも屋とは画期的で最先端の素晴らしい職業なのだ』…とか、そんな感じか?

『ゴードルンは、詳しく聞かなかったけど…多分、15階層辺りだと思う。15階層は人の多い12階層や21階層に挟まれて、医者の手が行き届かないらしい。』

『医者…?それは、つまり…!』

『は…それって結構、まずいんじゃないのか?』

2人は皆まで言わずとも察してくれたらしい。話が早くて助かる。

『15階層の医者が、死んだらしい。だから医者の代わりになるか、医者を探して欲しいってさ。』

そう伝えたところで、結局今回は難しいだろうなって思いながら吐く。だってこの第5階層から第15階層まで昇降するにも時間が掛かるし、この近辺の階層はドミトルとパストという医者が2人で受け持ってて、他に医者は見当たらない。つまり上へ…恐らくゴードルンも未だ行ってないような、第21階層以上に余ってないか探しに行かなくちゃならない。

この大きな町の、いじらしい階段たちが邪魔をして余りにも非現実的だ。

『そんなにも…思っていたよりも、随分深刻だな…うーん。しかし明日も明後日も仕事は詰まっているし……どうしたものか。』

チェスタは俺と同じ感想を呟きつつ、どうにか都合を付けようと画策してくれてる。

『ルクス…お前ってやつは、本当に面倒だー…困った者の話を聞いたならば、放っておくことは出来ないー……それが、何でも屋なんだ。どうだ…不便だろうー?』

『全くだ……ごめん。』

俺の謝罪を聞いた途端に踏ん切りが付いたのか、チェスタはそれはそれは大きなため息を放つ。

『はああああー……ビスカ…明日の仕事は何だっけかー?』

ビスカは宙に確認を取りながら、指を折る。

『…明日は頼まれてた洗濯をして各家に届けて、第1階層で海の掃除、第2階層の鍛冶屋のルジが作った農具を各農家に届けに行って、ついでに農家に困ったことは無いか聞いて、なんかあったらそれも手伝って…全部終わったら第4階層のプラツェのとこに行って、また子供たちとクルッケルしてやらなくちゃなんない。夜になったら第5階層に戻って、風呂入るついでに古い風呂桶を全部新しいやつに取っ替える。』

明日も相変わらずか。何でも屋って本当に何でもやるんだよな…それに、頭がおかしい。

海の掃除なんていつでも良いし、子供と遊ぶことなんかより医者が居なくなったことの方が確実に一大事だろ。

『……よし、決めたぞ2人ともー。』

俯き思案してたチェスタが顔を上げ、俺達を見渡す。

『洗濯は手際良く終わらせるしか無いとして…海の掃除は近日以内に後回し。農具はきっちり全て運ぶ。ただし農家の困りごとは、余程逼迫したもの以外は後回し。クルッケルは大事な仕事だが…致し方あるまい。後日に回して…1人でこなしたら、この辺でもう日暮れだろうー。風呂のついでに桶を替えるのは、予定通りだー。』

1人…?俺とビスカには、チェスタの思うところが未だ見えてこない。

『チェスタ…結局、どうするんだ?』

ビスカが聞くと、チェスタはムッと恨むように俺を向きながら種明かしを始めた。

『分担だー。この問題は早急に解決に挑まねばならない。まず、ビスカは通常通り下層階で何でも屋の業務に当たれー。明日の予定は今言った手筈で頼むぞ。そしてルクスー…。』

ムッと睨むように目を合わせるチェスタ。お前の所為だぞと、恐らく言ってる。

お前さえ居なければ、下層階の生温い依頼だけこなしてのんびり暮らせたのに、とか…?流石にそれは、言い過ぎか?

『ルクスー、お前は医者の代わりだ。』

『はっ?』

何言ってんだ、こいつ?

『お前は第15階層にて、故人が執り行っていたような…診察の仕事に従事しろ。俺は…2人をそれぞれサポートしながら、様々な階層を当たり医者を探そう。望みは薄いかも知れないがな……都合良く、医者の記憶を持った被害者でも飛ばされて来なければ。』

『おい待てよ!何で俺が医者の代わりなんだよ!俺は知らないことが沢山有るし、右腕も使えないし…チェスタの方がこの役目に向いてる筈だ!』

『んー…?お前に文句を言う権利は無いぞ?お前が持ってきた依頼だ。お前は、この事案を解決したいからこそここへ持って帰ってきたのだろう?この何でも屋は俺という頭脳で動いているのだから、俺が自由に動けた方が何かと都合が良いはずだ。それより何より…』

チェスタは苛立ちの眼差しをそのままに、まるでこちらを試すように口角を上げて

『お前、何でも担当なんだろうー?』

確かにそうだ。別に其処に何も文句は無い。

でもさ、何でもやるってことは、何でも出来るって訳じゃないからさ…。

『まーとにかく明日一度、2人で話を聞きに行くぞー。良いなルクス。ビスカもー…すまないがどうか?』

『まぁ…俺はなんでも良いよ。俺が一番体力あるし、そっちの方が大変そうだから。』

『………分かった。』

別に俺が何か悪いことをしたとは思えないのに、何故だか居た堪れない。今日、酒場に長居してゴードルンに会うことが無ければこんな面倒臭いことにはなってなかったのか?

でも医者が居ないなんて放って置けないし、だからこそチェスタも無理に動こうとしてるんだ。

俺達に出来るのは、早く解決出来るように動くことだけだ。

早く解決して、いつもの下らない依頼ばかりをこなす何でも屋に戻らなくては……

なんて思うかよ。騙されないぞ。

いつもの、って何だよ。

だらだらと、下らなくて、ずるずると、時が過ぎて

まるで絵画の中みたいな、磔の暮らし。

そんなのが俺の日常では、決して無かった筈なんだ。

また危なかった。怒り忘れてる。滾り忘れてる。恐れ忘れてる。

心を新たにしろ。碌に見たことの無い第15階層を見られるんだぞ。

新しい階で、新しいことを探るんだ。もしかしたら、脱出や記憶の手掛かりが……

有るのか?そんな物が。だって第12階層にだって、そんな物は無かったのに…。

恐ろしい。でも進まなくちゃならない。進まなければ、動かなければ…俺の時も、止まってしまうのだから。


昨日の出だしは、ポロップを待たなければならなかったからのんびりして…気は逸ってたけれども。

今日は昨日よりも早い時間で、少し緊張する。確か医者って、凄く大事で難しい仕事だった気がするんだ。

病気とか、怪我とか、体の痛みや苦しみをどうにかする仕事だったはずだ。チェスタは確か、この町には病気は殆ど存在しないと言ってたけど…まさか全く無いなんてことは無いだろう?怪我だって、どんなに気を付けてても起こり得る筈だ。その度に痛い苦しいって駆け付けられて……

詰まるところ医者って、人の痛みに責任を負わなくてはならない、遣る瀬無い職業だってことだ。

そんなことをする奴を探すにしても、そんなことをさせられるにしても、どちらにせよ責任感が重く鎮座する。

『ルクスー、行くぞ。』

チェスタは俺の…プリマの家まで、迎えに来てくれた。

『ルクス、行ってらっしゃい。』

プリマは玄関先まで見送りをしてくれるから

『…うん。行ってくる。』

修理屋だって、言われたら何を何処までも修理する。出張する時も有れば小さい物を預かって家で作業する時も。今日は色々なところから預かった様々な雑貨類を修理しまくるらしい。

『ふ…ではー、プリマ。ルクスはいただくぞー。』

は?

『…ん?あぁ。ルクスをよろしく、チェスタ。』

いただくって何だよ?

『よし。行くぞルクスー。』

不思議と優しくニヤつくチェスタを追って、慌てて歩き出す。

外はしとしとと霧のような雨がしめやかに舞い降る。これじゃどうせ洗濯は出来ないから、仕事が一つ減って都合が良かったかもな。

チェスタは黒い、頭まで被れるコートを着て雨など気にも留めてない。狡いとは言わないが…あのコートは誰に頼めば貰えるんだろうか。

雨を纏う町中は人出が殆ど無い。偶に、チェスタみたいなコートを羽織った奴が何か小包を持ってとぼとぼ歩いてる。多分弁当とか、何か直ぐに入り用な物を取りに行っただけなんだと思う。この町は、夜と雨には真面に動かない。

蹴り上げがとても高い、崖みたいな階段を上がる。チェスタは全然喋らない。こいつ、ビスカが居ないと全然喋らないんだな…トロイメラと進んだ階段を、少し思い出す。

きっと、ビスカが居ないからじゃない。俺だから話すことが無いんだな。これがもし、プリマや、カストルや、スーピーだったら…全然違うんだ。別に良いよ。別に、お前らと仲良くしたい訳じゃない……只、何だかムカつくだけなんだよ。

『ルクスー。』

後ろに付く俺に振り向かないまま、チェスタがゆっくり口を開いた。第7階層の小道。何の変哲も無いガチャガチャの住宅街。昏く曇る中をぽつぽつとランプが照らしてる。

『もしもこの仕事が上手くいったならば、またビスカも連れてダンダリアンの酒場へ顔を出してしまおうかなー?』

は?何の話だ?

そもそもチェスタは自分からもう酒場には行かないと言ってたし、ダンダリアンも来るななんて言ってなかったし、チェスタが行きたいと思うならいつでも好きに行けば良いだけなのに。

『何でそんな面倒臭いこと言うんだよ…行きたいなら行って、行きたくないなら行かなければ良いんだ…。』

気付けばこっちに歩幅を合わせてくれて、表情がよく分かる。チェスタは子供を遇らうような、優しくいけ好かない目をして口角を吊り上げてる。

『言っただろう。酒を飲まない者はいたずらに酒場に行くものではないー…ただ、依頼を叶えたついで程度ならー、顔を出すぐらい許されるだろうかと思ってな。あとはー…酒を飲めるようになってみたい気持ちが、少しあるー。』

歩く先の道を見据えながら、歩き始めた時よりも少しだけ楽しそうなチェスタ。酒を飲めるようになってみたいって、何だ?

チェスタだって桃ワインを飲んでたじゃないか。俺は桃ワインも飲めなかった…レストラはあの時、桃ワインは弱くて飲みやすいって言ってたな。何か訓練でもしたら、もっと強い酒に挑めるようになるのか?

酒って中々理解出来ないな。チェスタとビスカの関係くらい、謎が深まるぞ。

『ルクス。』

またチェスタに呼び掛けられる。次の階段は狭くて、小さくて、低くて。逆に上りづらい。

『プリマとの暮らしはどうだ?』

どう?どうと言われても…何なんだ、この質問?

だから、思い返してみる。多分30何日だ。とは言っても、お互いに仕事をして、帰ってきて、二人で弁当を食べる時も有れば、何でも屋の皆で食べて帰る日も有って…そんな時でも必ず、プリマは箱の上で仕事をしてて、俺より後に寝て、俺より先に起きてるな……きっと修理屋って、結構忙しいんだろうな。あの辺の階層では、プリマしか居ないみたいだし。

今のところ、プリマと暮らしてるから特別どうってこともない。こまめに腕を診て貰ったという訳でもなくて。あの、おたまが取れた日にはまた腕をガチャガチャ弄られたけど…初めみたいな、特別な感覚は現れなかったな。あの感覚は、まさか嘘だったんだろうか?

そんなこんなだから、大した会話もしてない。朝起きて、『おはよう』と言って、さっきみたいに出掛ける時は『行ってらっしゃい』に『行ってくる』。帰ったら『ただいま』に『おかえり』。それで寝る時には『おやすみ』って言って、朝が来て…それだけだ。つまりそれって

『……悪くない。』

たった一言の答えを導き出すのに、随分時間を掛けた。

チェスタはその間、何も言わずに待ってくれた。

『……ふ。ふはは。そうかそうかー。それは、何より。』

何故かは分かんないが、チェスタは満足そうに見える。

階段をもう2、3上る頃には、確実に静かに霧雨に晒されて、震える程には身体が冷えてた。

チェスタはきっと本当に、兄みたいな奴なんだ。

プリマの、ビスカの、カストルの、スーピーの、あいつら皆の兄みたいな立場で。気持ちで。状態で。

だから俺にも、兄の振りをしてくれてるだけだ。

なのに何故だか、ムカつくのに何故だか。

悪くないや。今なら、そんな気分だ…。


力になる為に上って来たは良いが、何処に行って何を何処まで協力すれば良いのか全く聞いてない。

第15階層まで来て、丁度朝の散歩をしてたような爺さんにゴードルンのことを尋ねたら、ゴードルンの家は第14階層だと言われた。

ゴードルンを手伝う為に来たって言ったら、偶々出会っただけの爺さんなのに『ありがとう』と返されて…理解した。ゴードルンは何かしらこの辺の階層の奴ら皆の為になる仕事をしてて、信頼されてるみたいだ。

第14階層の端の方、道端に建つ縦に長い家。細長くて二階建てで、だから一部屋当たりは狭そうで…使い辛そうな家だ。

『ルクス…!それに、あなたは…さては…!』

訪ねると出て来たゴードルンはもう出掛ける準備を済ませた所だったようで、家の中で昨日と同じ格好をしながら、俺とチェスタの来訪に大層な感動を露わにする。

『…正にルクスのリーダーと言った風体だな!非常に個性的で粋な装いだ。来てくれて、本当にありがとう…!』

ゴードルンの反応に、チェスタは御満悦だ。

『いやいやー。分かっていただけるとは、素晴らしい感性の持ち主なのだなー。この服にも、ルクスの腕に負けぬ斬新な魅力があるだろうー?』

どうやらチェスタこそが誰よりも、この何でも屋の仕事に誇りを持ってやってるらしい。人に頼られる時と喜ばれる時に、こいつは得意気に満面の笑みを浮かべる。そしてこの粋な装いにも、常に相当の自負を持って見せ付けてるらしい。

『しかし、あなたのその胸当ても中々見ないものだなー…マミムの斑模様が趣き深い。それは、自分で作ったのかー?それとも……。』

チェスタがそう言って気付いた。何でチェスタがこんなおかしな服を着てるのかは知らないが、自然に考えたらこの町で見たことの無いような物を身に付けてる奴が居たら、自分でデザインして作った酔狂で独創的な奴か…外の世界から持ち込んで来た、被害者だ。

俺のこの斬新で魅力的な腕のように。

『ああ…いや、どちらでもなく……これは仲間たちにアドバイスをもらいながら、第19階層の腕の良い革加工屋に依頼をして制作してもらったのだ。俺は6年前に飛ばされ、ゴードルン・ポゼーソンという名以外は何も記憶が無いんだよ…。』

やっぱりゴードルンは被害者だったんだ。

ビエッタもそうだったから…もしかして、外の世界の人間にだけ名前が2つ有るのか?何でそんな面倒臭いことをするんだろう。俺にも名前が2つ有ったのか?一つだけでもさっぱり浮かばないのに、2つも思い出さなきゃならないなんて…。

『しかし、この辺りの階層で知り合った仲間は不思議と元兵士と言うやつが多くてな…酒場でそいつらの武勇伝を耳に流している内に呼び起こされてきたのだ。民を守るという志、戦いに沸き立つ昂り…俺も昔そのように過ごしていたのではないか、と思わせる。この簡素な鎧は、その浮かび上がった感覚を逃さないための杭のようなものなのだよ。』

ゴードルンの目は何処か遠いけど、不思議と確かでも有る。感覚だけでも自分の正体の尻尾に杭を打つことが出来たんだから、羨ましい。

きっと俺も何か、外の世界で仕事をしてた筈だ。それを思い出せたなら、見える景色はまるで違うんじゃないか?職業っていうのは詰まるところ、俺がこんな腕でも今まで生きてきたっていう証になるんじゃないかって。

『…成る程。それはとても大切なことだ…きっとその掛け替えのない感覚こそが、ミズルの賜物であろうー。』

『ああ、俺もそう思っているよ。ありがとう…。』

何を言ってるんだこいつら。ミズルの賜物なんて…奪った物を、欠片だけ徒に返してきて、そんな言い方……ゴードルンは何でありがとうなんて言えるんだ?

『立ち話をさせるのも忍び無い。此処は狭くて客が入れられないから、詳しくはロラサンの家の方で話そう。すぐそこなんだ。』

外へ出る。雨は強まりも弱まりもしない。ゴードルンは、チェスタのより少し大きな褐色のコートをさらりと羽織ってやって来た。みんな必ずこの雨用のコートを持ってるのか…?欲しい。

家を出て直ぐ左の眼前にはもう、赤く塗られた木の階段が見える。この近所の建物の色合いはやたら薄くてカラフルで、子供っぽい。

何の変哲も無い真っ直ぐな階段を上って、正に目の前に小ぢんまりと佇む空色の壁。上の通路はこの家の屋根に収束して、其処には花が咲き寄ってるように見える。

やっぱり何となく、女子供が好きそうな家だ。多分、可愛らしい。

『ここがロラサンの…故、ロラサンの拠点だっだ。ロラサンは15階層で医者をして…第12階層と第21階層の間、盛り場と都の間にある静かなこのエリアを、静かに守ってくれていた。そして俺は警備員として、同じく盛り場と都の間を守ろうとしているのだ。』

『警備員…?』

どうやら誇らし気なゴードルンに、俺とチェスタは二人して理解しかねる。警備員って…何だ?初めて聞いた。警備って、何かを守ることだった気がする…。

ゴードルンが煤けた色の扉を押すと、ギッと蝶番が軋む音が響く。中央に丁度大人一人が寝転がれそうな敷物。隣に、2人くらいは何とか座れるだろうか。その側に小さな道具箱が打ち捨てられ、後は何も無い。小さな部屋には生活感が無くて、寂寥感が浮かんでる。

『とりあえず座ってくれ…と、俺が言うのもおかしいが。ロラサンは、きっと許してくれるだろう。』

ゴードルンは奥に腰を下ろしたので、俺とチェスタは敷物の上に座る。床の硬さと冷たさを、十分に感じることが出来る。

『…さて。改めて、俺はゴードルンという。6年前に第14階層に飛ばされて…色々考えあぐねた結果、そのままそこで警備員をすることにしたんだ。』

『あのー…先ほども気になったが、警備員とは初めて聞く職業だー。どのような仕事をするのか、聞いておいた方が良さそうだー。』

チェスタが手を挙げて尋ねると、ゴードルンはどうやら誇らし気だ。さてはこいつも…警備員という仕事に、プライドを持ってるな…?

『警備員とは…不意に飛ばされ記憶を無くし途方に暮れていた俺が考案した職業だ。日がな町中を歩き、不審なことが無いか見回るのだ…まあこの平和な町において、変わったことなどそうそう起きないものだから…専ら人々の様々な悩み相談に応えて過ごしているよ。』

『なんと…まるで歩き回る何でも屋のようだー…。』

チェスタは目を見張り、眉を寄せる。悔しいんじゃないか?人々の為になんでもやる仕事が、他にも有ったことが。

『ふ。そうかもしれないな……兵士の…民を想い平和に賭す志を活かしたかったんだよ。それが叶っているのかは分からんが、俺は今満足だ。だからこそ、この問題も解決したいんだよ。』

そうだったか?兵士って、民と平和を想う志を持つ物だっただろうか…?兵士とは、殺戮だった筈だが…。

そうだ。兵士とは、兵器だった筈だ。

『そういうわけで俺は今までも、困った民を解決へ導いてくれる職業に繋いでやっていたのだ。今回はなんでも解決してくれる何でも屋に繋ぐというわけだが……どうだろうか?俺はこの辺りの階層で困る者が居ないか見て回らなければならないから、医者の代わりをしながら、医者探しを助けてくれはしないだろうか…?』

俺がチェスタの顔色を伺おうとするからか、ゴードルンもチェスタの顔だけを見詰めた。チェスタは拳に顎を乗せながら、宙を見て思案する。

『…俺は思うのだがー、この依頼にはあまりにも終わりが見えなくはないか?結局新たな医者が見つからねば終わりは来ない…名乗り出る者が居ないということはこの近辺の階層を探しても無駄だと踏むが…だからと言って、恐らくもう60〜70階以上は建ち上がっていると思われるこの町中を探し回るということは、到底非現実的であろう。ゴードルンがこの件にのみ力を割くことが出来ないように、俺たちこそ低層階での仕事をないがしろにすることは出来ない。つまり…』

チェスタは、この仕事を受ける義理が無いという理由ばかりをつらつらと述べてゆく。ゴードルンの表情は萎れてゆく。

そんなことより、この町は60〜70階くらい重なってるんだな…高過ぎじゃないか?そんな高さ…どうやって攻略する?攻略して、果たして脱出への糸口は待ってるのか?眩暈だ…。

『つまり、期限を設けさせてくれ。そうだな…7日…いや、5日にしようー。』

確かに、期限を設けなければこんな依頼キリが無い。何を何処までもと言いつつ、ちゃんとこういう線引きも出来るんだな。無いようで有る秩序…否、やっぱり有って無いような秩序だ。

『…ありがとう。無理を聞いてくれて、感謝する。5日の内にどうにか出来るように、誰よりも俺が力を尽くすよ。』

ゴードルンが申し訳無さそうに嬉しそうに微笑むと、チェスタは情け深そうに微笑み返した。

『すまないなー、ゴードルン……これは俺には知り得ないことなので想像なのだがー…あなたの誠は正に、昔被害者から伝え聞いた騎士という者のようだなー。』

ゴードルンは今度は、素直に大層嬉しそうな笑みに切り替わった。兵隊など必要の無いこの町で生まれ育ったチェスタには、兵士などどのような物か想像することでしか言いようが無い筈だ。

俺の想像の中の兵士とゴードルンは、似ても似付かないな。ゴードルンは、人など1人も殺せそうな気配は無い……そんなこと言ったら、ダンダリアンだってビエッタだって…。

『よし。では早速行くかー…ルクス、あとは頼むぞー!』

『はっ?』

『よし…では俺も行くか!』

『えっ!?』

何だよいきなり、2人して!

俺はいきなり、取り残されるってことか?

『俺は、どうすれば良いんだ…?医者の真似なんて、出来ないぞ!』

『俺にも出来ないさー。どうせ誰にも出来ないのならば、この町のことをよく知らないお前がここに残りー、この町の地理に明るい俺が歩き回る方が道理に叶っているだろうが。手筈通り、頼むぞ何でも担当ー。』

やっぱりやらなきゃならないのか…!まぁ昨日から言われてたことだし、俺は何でも担当なんだから仕方が無い。どうせこの町では病気は滅多に無ければ戦争も争いも無いらしいし…5日くらいならどうにかなるか?

起こりそうで、起きなさそうな…もしものことでも起きない限りは…。

『ではー、またなルクス。夜までには一旦迎えに来ようー。』

『では悪いがよろしくな、ルクス。俺も解決に向けて頑張るよ!』

チェスタとゴードルンはそれぞれ後ろ目に俺を見遣って分かれの合図にした。

小さな部屋に取り残される。プリマの家よりも狭い。でも窓は3つも有って、明るさはこっちの方がかなりマシだ。木造だけど、しっかりとした小屋。

そもそも俺は此処でどうしてれば良いんだろう。待ってたら、その内具合の悪い奴がやって来るのか?

こんな右腕で、医者の真似事なんて出来るのか…?

そんなこと患者が来る前から考えててもどうしようも無いことで、すぐに飽きて床を見回し始めた。ずっと気になってた。敷物の側の、小さな道具箱。

小さな、と言ってみても、丁度プリマの…修理屋の道具箱と同じくらいの大きさだ。蓋の仕組みも同じ感じだ…と言うよりもしかして、箱はプリマの物と全く同じなんじゃないか?

留め具を外して開けてみる。上段には、小さな道具が幾つか収まってる。目盛りの付いた小さな棒、二股に分かれた金属の棒、先に小さな鏡が付いた棒、小さなハンマー、小さなブラシ、小さなハサミ…これは何だ…?細い管の片方には丸い錘みたいな、もう片方は二つに分かれて輪になりそうに曲がってる。医者ってこんなに様々な道具を使うのか。本当に、まるで修理屋だ。

上段を持ち上げると下には細かい物がぐちゃぐちゃと収まってる。丸められた布…見付けて少し思い出したぞ。これは怪我に巻く物だ。ぐるぐる巻いて、流血を押さえるんだ。これを巻くと、怪我を持ってるっていう証明みたいで…何処となく勲章めいてるのは、何故なんだろうか。この隣に沢山有る小さく切られた布を傷口に当てれば良い筈だ。

あとは小さい袋が沢山有って、その中に小さな玉が少しずつ入ってる。小さな瓶も有る。中には液体が少し入ってる。

これらは多分、薬だ。玉は何の薬か見当が付かないが…飲み薬なんだったら、熱を下げたり痛みを和らげたりするんじゃないだろうか?液体は、飲む物じゃない。傷に塗るんだ。傷の赤みを抑えたり、雑菌を殺して傷を清潔にする筈だ。

あとは丸いケースが1つ有る。中には仄かに透明感の有るベタベタしたクリーム。これも傷に塗るんじゃなかったかな…こっちは多分、傷口を保護する。

…俺ってもしかして意外と、薬のことを知ってるのか…?見たら色々思い出してきた。俺は多分過去に、傷を負ったことが有る。

当たり前か。傷を負ったことの無い人間なんか居ない…否、この町の住民だったらどうなんだ……流石に転んで擦り剥いたり、ハサミやナイフで間違えて指を切るくらいはするか。だからこそ、ロラサンという医者は必要とされてたんだろうから。

それに…傷どころの話じゃない。俺のこのおかしな、個性的な、斬新な腕は…この肘から下は、元から無かった訳ではないだろうから。

何かに…誰かに因って、切り落とされたんだ。否、これは傷ではないか?これは怪我。怪我でもない。これは、喪失だ。傷口ではない。

何にせよ俺は傷を負ったことが有る。漠然と、きっと何度も有るような気がしてる。

きっと人間は、何度も小さな傷を負っては癒してきたような、そうやって強くなってゆく生き物だったような気がしてる。俺もそうやって漸く強くなって…記憶を全て失い、争いの無いこの町で温く暮らして、折角育んだ強さをフイにしてしまったような気がする。

傷を負って強くならなくては生きてゆけない自由な世界と、ミズルが用意した傷付くことの無い揺籠の中であやされるのと、どちらが人にとって幸せなんだろうか。

他の奴らは何て言うか知らないが、俺には間違い無く前者だ。

だって、強くならなくちゃ自分で守ることが出来ないじゃないか。

ミズルに飼い慣らされる人生において、ミズルが居なくなったら、ミズルに掌を返されたらどうするんだよ。

大事な物は、大事な人は、自分は…自分で守らなくちゃ安心なんか出来ない。

それが例え、どんな深い傷を背負う道であったとしてもだ。


どれぐらい経ったか、分かんなくなってきたぞ。少しだけドアを開けて様子を見てみたら、雨は未だに強くも弱くもならずに柔らかく立ち込めてる。

少食な俺の腹の虫が鳴いてるんだから、きっととっくに昼を過ぎて久しい筈だ。

これ、どんなに暇でも腹が減っても、チェスタが迎えに来るまで待たなくちゃならないのか?医者を求める奴が来る気配も無いし…もう帰りたくなってきてる。根気が無いって、自分でも分かる。

座り直して、道具箱の中を弄り眺める。果たして何回目だか。部屋の中にこれ以外何も無いもんだから、この道具箱も無かったら、そろそろ退屈で狂ってる。

眠くはないけど、寝てやろうかな。自棄糞にそう思い始めた時

『すいまっせぇん。』

ギッと扉の根が軋んで、もうどれぐらいぶりか忘れた人の声。見上げると其処には黒髪が長い少年と、黒髪の短い、もっと小さな少年。

『…ロラサンじいさんは?』

長髪の少年も、きっとプリマよりは少し若いだろうな。短髪の少年は、少し涙目にも見える。

ゴードルンは昨日、ロラサンが死んだのは5日前だと言ってた。ロラサンの死を知らない者も、中には未だ居るのかも知れない。

『えっと…ロラサンは死んだよ…。』

『えっ!あっ、そぉなんだぁ。へぇー。』

随分あっさりしてる。余り故人に思い入れは無いと見える。俺はこいつら以上にロラサンとは何の縁も無い癖に、何となく寂しい気持ちになるのは何故なんだろうか。

『にいさんはロラサンの代わりなの?』

『あー……一応、そうだけど』

『じゃあいっつも通り寝るねー!』

一応そうだけど何処まで出来るか分かんない、って言おうとしたのに掛かり気味に勝手なことをされる。短髪少年は敷物の上に俯せになり、長髪少年はそれを挟んで俺と向かい合うように腰を下ろした。

『じゃっ、よろしっくぅ。』

勝手に進めた挙句、長髪少年は天真爛漫な笑顔、短髪少年は涙目で俺を見上げる。

『よろしくって言われても…何をしたら良いか言ってくれなきゃ分かんないんだけど。』

『えぇっ、そぉなのぉ…?』

『いっ…いたいよセウスー!もぉむりぃーっ!』

堰を切ったように唐突に、短髪少年が泣き出した!勘弁してくれよ、無茶言ってるのはそっちだぞ…!

『あぁっ、泣くなよフリウス。仕っ方ないだろぉ、こいつは代わりなんだから……えっとさ、俺たちいっつもロラサンに診てもらってたんだけど…』

おい。こいつとかどうとか、ちょっと失礼じゃないか…?まぁ、子供だから仕方無いか…やっと来た患者だしな…。

『俺たちは探検家になるのが夢なんだ。だっからやれる日は町を歩き回って足腰を鍛えたり、面っ白いものを探したりしてるわけさ。でも一日そうしてると、なぜだっか次の日脚が痛くなっちゃうんだよなー…ロラサンは、きんにくつー?って言ってたかなぁ。そうすっとロラサンが脚を揉んでくれて、治りが早っくなるんだよぉ。』

きんにくつー…筋肉痛?

聞いたことが有る…確かに聞いたことが有るぞ。

脚とか腕とか、使い過ぎるとその筋肉が悲鳴を上げるんだ。俺はこの病に、罹ったことが有る。何度も、何度もだ。

俺も探検したことが有ったんだろうか。否、脚だっただろうか?腕だった気もする。この、重い枷のような腕に悲鳴を上げたのか?

ていうか…探検家って何だ?こんな、上か下に行くしか無い町で。

『はやくぅー…。』

『にいさん?』

ずっと俺を見上げてる、黒髪の兄弟…出来そうな気がするから、やるだけやってみるか。

『……どうせこの辺が痛いんだろ?』

『びえっ!いだいっ!セウスぅうっ!』

脚の下半分、後ろに膨らんだ筋肉を押すと、短髪の少年フリウスは悲鳴を上げる。いちいち長髪のセウスに助けを求めやがる。

『多分、こんな感じだ…。』

『んんんん…?』

セウスは興味深そうに俺の施術を覗き込む。

不自由な方の腕で脚を押さえ付けながら、自由な手の親指で脚を、押す…否違う、擦るんだ。強めに擦る。押したり揉んでも余り良いことは無いんだ。次の日もっと酷くなったりして…。

『なんかロラサンと違うぅ…くすぐったいっ!あんまり…気持ち良くないぞぉお…!』

フリウスが身悶えながら文句を言うから、重い腕を更に乗せて押さえ付ける。

『ロラサンはどうしてたって言うんだ。』

『にいさん、ロラサンも同じ感じだったけど…もっとこうっ、ぐりっぐりやってたぞぉ。なんつっか、肩揉む感じで…。』

本当かよ…?絶対俺のやり方の方が良い。自信が有る。だって俺は多分ずっと、このやり方で筋肉痛と戦ってきたんだと思うから。ロラサンってもしかして、藪医者なんじゃないか…?

『文句が有るなら止めても良いけど…ゆっくり風呂で温めて、風呂上がりに同じことをした方がもっと効くと思うぞ。』

『えぇ…?にいさん、なんっかよくわっかんねぇなぁ…ロラサンと違うことするのに、ロラサンとおんなじこと言いやがる…。』

セウスは不思議そうに俺の手元を見詰め続けた。フリウスはずっと擽ったそうだ。言いやがる、とか…やっぱりこいつら、年長者との喋り方がなってない。

でもこいつらのお陰で、また一つ、ほんの僅か少しだけ本当の自分に近付けた筈だ。俺はきっと何度も、筋肉痛と闘い治してきた筈なんだ……だから何だって言われたら、何も返せないんだけれども。

左脚が終わって、奥の右脚に重りを乗せる。フリウスは観念したのかすっかり身を委ねてる。セウスはもう暇そうに欠伸し出した。こいつもどうやら俺と同じで、退屈に対抗する根性が弱いらしい。

やらせてくれるんだったら、きっちり良いようにやってやらなくもない。会話は無いまま、片指を滑らせ続けて…そんな頃に、またギッと扉が軋む。

施術に気分が乗ってきて、気付くのに一呼吸遅れた。差した影を見上げると……

『やはり来ていたのか、セウスにフリウス。』

其処にはゴードルンだ。コートに付いた大粒の雫に後ろを見透かすと、雨は漸く形を成し本降りになってきてる。俺は帰り道にずぶ濡れになるしか無いのか?

『昨日一日探検したと先程ピピに言われ、お前たちにロラサンの死を伝え忘れていたと気付いたのだ。』

『えっ…かあさん帰ってきてっのかい?』

黒髪兄弟とゴードルンは知り合いのようだ。歩き回る何でも屋のような仕事だと言われたら、この辺りで顔が広いとは容易く想像は付くが。

『ああ、畑の様子はもう見て来たと…しかし、良かった良かった。もうルクスに診てもらっていたのだな。』

ゴードルンは満足そうに俺達3人を見渡す。

満足するなよ。俺は只代わりをしてやってるだけで在って、常に此処に居てくれる医者が見つかった訳じゃないんだぞ。

『診てくれてっけど…ロラサンとは全然違うよぉー……文句があるなら止めるとか言うしぃ…な、フリウス?』

何だその告げ口みたいな言い方は?仕方無いだろ文句を言われたら止めるしか無いんだから!

同調を求められたフリウスは……寝てる。

『フリウス…終わってるけど。』

軽く揺すれば直ぐに、フリウスの目がゆっくりと開く。

『ふ……ふぁ…?ん〜…気持ち良かったぁ。結局気持ち良かったよぉ。ありがと……あ、脚も少し楽になったかもぉ?』

フリウスはしれっと起き上がる。もう瞳を潤ませたりはしない。結局とかいう言い方は少し気になる。兄が兄なら弟も弟なんだ。

『そっかぁ。じゃあ良かったなぁフリウス…かあさんも居るみたいだし帰っかぁ。じゃーなルクス!一応あんがっとぉ〜!』

『じゃーねールクスぅー!』

一応とは何だ。此処まで来ると、子供だからでは片付けたくない…!

2人は勢い良く扉を開け、鈍く錆びた音に見送られて雨の中を駆けて行く。折角筋肉痛と折り合いを付けたのに、今度は滑って転んでもっと痛いことにならないか心配だ…まぁ、あいつらなら少しくらい痛い目を見ても良いか?

『走ると危ないぞお!』

ゴードルンは心優しくも一声掛け、2人の少年の影が見えなくなるまで見送ってから扉をゆっくりと閉めた。そしてコートを脱ぎながら

『ルクス…お前さんこんなに立派に、医者が出来るんじゃないか!』

大層満足気だ。

『否…偶々筋肉痛のことは知ってただけだ。こんなもん医療と言える程のことでも無いし。本当に怪我や病気の奴が来たらどうしようも無いぞ。』

そうだ。本当に偶然が重なってどうにか対処することが出来た。あいつらが『筋肉痛』って言ってくれたから俺は対処法を思い出すことが出来たし、右腕を上手い具合に使って、左手だけでもどうにかマッサージすることが出来た。こんなに上手いこと、二度は行かない気がするが…。

『良いじゃないか。お前は今、目の前で困る幼い兄弟を救うことが出来たのだから。今のように、この小さな診療所を訪れた者一人ずつに確実に向き合い、処置を探れば良いだけと思うぞ。』

ゴードルンは優しく微笑む…そんなことを言われたら、そんな気もしてくるから良くないぞ。

良くないだろ。処置なんて、探ってたら手遅れになる…。

『しかし……医者の心当たりを探しながら上の階を回ってきたのだが…やはりこの近隣には見当たらないな……そしてついでにロラサンの死去を報せて回ると、皆一様にけろっと受け入れ、そのくせ医に関する悩みを打ち明けてくるんだよ。まあ、危険性も緊急性も無い話ばかりだが…不思議だよなあ。この辺りの住民は、上や下の階層よりも一際のんびりしている気がするなあ……もしも何か一つ、歯車が進んでしまったら…はああ…。』

ゴードルンはぶつぶつ振り返りながら敷物の上に座り、丁寧な溜め息を一つ吐く。

あの黒髪兄弟みたいな反応を、あいつらみたいな所業を、この辺の奴らはみんなやってるってことか?呑気過ぎる、というか…ちゃんと状況を理解出来てるのか?

『チェスタはまずは下層階を当たると言っていたが…期待をしてはならないな。しかし、都合の良い被害者が飛ばされて来るまで呑気に待つというのも…』

『ただいまー…おっと、ゴードルン!』

勢い良く押され、扉はギギッと痛々しい音で鳴く。現れたチェスタは直ぐ下に落ち着いたばかりのゴードルンに衝突しそうになる。

『ああ、チェスタ!すまないすまない…ご苦労様。果たしてどうだったか……聞くのも心苦しい気がするなあ…。』

ゴードルンは身を屈めつつも腰を上げ位置をずらし、チェスタはコートを脱ぎ畳んで、空いたスペースに滑り込んだ。下の敷物に、ぽたぽたと幾つかの雫が垂れる。

『うーん…まー、概ねあなたの予想通りの結果だと思われる……とりあえずこの雨の中歩けたのは第10階層いっぱいまでなのだがー……やはり第11階層のモネミは、第12階層のことで手一杯だし、最近はリューリューという弟子を作ってまでして回しているらしいー。第12階層は、食べ過ぎだの飲み過ぎだの、調理中の事故だのとドタバタが起きやすいからなー。モネミの手は借りられなさそうだ……明日は、一応もう少し下の階層を回ってみるかー…?引き続き期待はしない方が良いと思うが…。』

チェスタが申し訳無さそうに、でも当たり前のように淡々と報告を上げると…ゴードルンも残念そうに、でも当然のように頷いて次を見る。

『そうだな…不毛なようで申し訳無いが、それで頼む。俺は明日は平時の見回りをしつつ、12階層中の食事処に、情報提供と窮状拡散の頼みをして回ろうかな……勿論、寄り道をして酒を飲んだりなどしないぞ!』

チェスタもゴードルンも、どちらもかなり望みが薄そうだ……5日間という期限が決まってるとは言え、このままじゃ1つも結果の出ない、消耗だけの5日間になってしまうぞ。正に不毛だ。

『というわけで、よろしくな、ルクス。』

どちらから言ったのか聞き分けられない程同時に、両側から俺の目を捉えて言い放つ…。

消耗するのは、不毛なのは歩き回るチェスタで在り、ゴードルンで在る筈なのに…何となく俺が一番損をする予感がするのは、何故なんだ?

『夜は皆寝静まるし、俺もこの近くの家にずっと居て注視するから、ひとまずは大丈夫だろう……それより明日は、おそらく今日より忙しくなると思うぞ。今日俺は見回りをしながら、当面のロラサンの代わりの医者が来たと言っておいたから…。』

『は…はぁあ…?』

何でそんなこと言うんだよ…!わざわざ代わりが入ったとか言うこと自体荷が重過ぎるのに…俺は間違い無く医者なんかじゃないぞ…大丈夫かよ?

『よし、では今日は暗くなる前に帰らせてもらうか。行くぞルクス…ゴードルンは、また明日。』

『ああ…本当にありがとう、チェスタ。ルクスも、また明日。』

軋む扉の外に飛び出して、チェスタは手早くコートを羽織る。やっぱり雨は確かな雫に形を変えて降り注いで、朝みたいな誤魔化しが効かなくなってる。これって明日、俺が熱でも出して医者の世話にならなくちゃいけなくなったりしないよな?

『…ゴードルンー?あなたの家はこの直ぐ下なのだよな?』

チェスタが、ふと思い立ったように寂れた部屋へ振り向いた。

『ん、ああ…そうだが。』

腰を上げるゴードルンに、チェスタは手を貸すように見せかけて……その手のひらは、ゴードルンが小脇に抱えるグシャグシャの布を捉えようとした。

『そのコートを、ルクスに貸してやってはくれないだろうかー?』

ゴードルンは、ほんの一瞬にも満たない刹那にキョトンと静止した後、すぐに合点が行ったかのようにチェスタへと笑顔を合わせた。

『ああ、なるほど!気が利かなくてすまない…使ってくれ!明日、返してくれれば良いからな。』

人の良い顔で、褐色の布を広げながら差し出してくれた。羽織ると、ゴードルンが今まで吸わせた雨の湿気が籠るけど…あの雨に直接打たれるよりは、幾倍もマシな筈だ。

『よし。では行くぞールクス。』

にんまりと笑う。徒に優しい眼差しで。

くそ。こいつ、いつそうなるのか、兆しが全然分かんないのに

偶に、すごく良いタイミングで兄になるんだ。

狡い。俺に、そんな物が在ったのかは分かんないが……

勝手に決めて、勝手に仕切って、押し付けて、気が向けば、どうしようも無く優しくて。

きっと、狡い生き物なんだ。兄って奴は。


『ルクスー。仕立て屋のヴェロアは知っているな。次の雨天日までにー、彼女に雨外套の仕立てを依頼しておけよ。』

『わかった…。』

ヴェロアは第3階層に住む腕の良い仕立て屋だ。近いうちに時間を見付けて必ず行こう。このコートは、生活に必ず必要な物だ。今まで雨の日に歩き回ることなんて無かったから、気付かなかったよ…。

帰りながら話して、チェスタは明日は朝からビスカの仕事のサポートをしつつ、下層階を回れるだけ回るということになった。

ゴードルンは見回りで、俺はまた医者の代わりだ。今日より忙しくなるとか…嗚呼…勝手なことばかり言いやがって…。

第5階層に降りて直ぐのところでチェスタと別れて、一つ腹が鳴る。雲に隠れて見えないけれど、雨の向こうで太陽は今や今やと沈もうとしてる筈で、確実に町は昏くなりゆく。

真っ直ぐ家に向かうと見せかけて、少しだけ回り道をする。育て屋兼弁当屋の煙突からは、雨に打ち消され煙になり切れなかった靄が霧散してる。

弁当屋の入り口を2回小突いてから押すと、まるで待ち構えてたかのように焼けた魚の匂いが扉の隙間を抜けてくる。ダンダリアンの作った蒸し焼きの魚とは違って、皮目を香ばしく焼き上げた魚の匂いだ。弁当には、これが良い。

『ルクス。2つか?3つか?』

シブリーは大きな身体で小さな箱に料理を分けながら、必要最低限の言葉しか喋らない。不思議とその素っ気無さが心地の良い男。

『今日は出掛けてて、今帰ってきたところなんだけど…プリマは来てるか?プリマが来てないなら、プリマの分も貰ってく。』

きっとプリマは来てないんじゃないか、とは思った。まだ少し時間が早いし、どうせプリマはまだ作業に没頭してるんじゃないかって。

『プリマはまだ来ていない。お前のことを待っているんじゃないか、ルクス。』

待ってるだなんて、そんな大層なことは無いと思うけど…どちらにせよ、どうせプリマが1人で過ごしてシブリーのところに来てないってことは、何も食べずに腹を空かせてるに決まってる。

『2つくれ。』

シブリーは俺が言うより僅か早く手を動かしてた。小さな箱に手際良く米を詰め、既に切られた焼き魚を詰め、ころころ刻まれた野菜を詰め、ハーブを散らして……

『遠出して精を出したお前に魚を一切れ、お前を待ついじらしいプリマに余った苺を一つオマケだ。ほら。』

シブリーは言葉と表情が抑えられてるだけであって、その実はとても人情に溢れる奴だ。何かと言えばオマケを付けて…誰にでも毎回オマケが有るんだったら、もうそれはオマケとは呼べないんじゃないのか?

『ありがとう。』

『ああ。また。』

俺だって人のこと言えないぐらいには大して喋れないから、2つの箱が収まった布の包みを掴んで、重い右腕を挙げることを挨拶にして出て行くだけだ。

シブリーの元を発てばもう直ぐに家だ。たった一つ角を曲がるだけ。

ピンクの壁の真ん中に貼り付く蒼い扉の明かり窓からは、ぼんやりとした灯火が、プリマが未だ仕事に打ち込み続けてることを暴いてくれる。

身体を一振るいしてコートの雫を払ってから扉を引くと、プリマはやっぱり視界の右端で、たった一つのランプの灯りだけ頼りに、大きな箱の上で良く分かんない物を弄ってる。小さな車輪の付いた、木の棒。何に使うか見当が付かない。さては、子供の玩具か…?

『…おかえり、ルクス。』

『ただいま、プリマ。』

プリマの表情は語らない。でも、共に過ごしてすっかり理解してきた。このプリマは、温かい。

『思ったより早かったな…お疲れ様。』

『あぁ、ありがとう。これ、シブリーの弁当。今日は苺を1つ増やしてくれた。俺の方は、魚が1切れ多い…。』

『そうなのか……じゃあ、私のはこっちか。弁当まで、ありがとうルクス。』

蓋を開けて中身を確認したら、苺が2つに魚が3切れの弁当箱を持って行って、広げた玩具を除けた上に落ち着ける。

俺はコートを扉の側に打ち捨て、まるで置き去られたようにぽつんと一つ在る箱を机代わりにして、床に座った。魚が4切れ、苺が1つの弁当箱を眺めて、さっき弁当屋の扉を開けた時に感じた香ばしい香りを思い出す。最後にもう一回だけ、腹が鳴る。

『いただきます。』

『いただきます…。』

一緒に食べようとか、特に何も言ってない。だけど何故か大体いつも、不思議なことに…二つの声は、同時に響く。

今日の魚はシンプルに塩と青胡椒の味付けだ。この町ではどうにも毎日毎日変な魚が出てきて、同じ種には二度と中々お目に掛かれない。今日の魚はふっくらして脂が乗ってて、この味付けにとても合ってる。付け合わせの野菜には酢が効いてて、これも魚に合ってる。

チェスタ、ビスカと食事をする時は下らない会話を挟むことが有るが、プリマと弁当を食べる時には会話は一つも無い。黙々と、さっさと食べて…遅く食べ終わった方…大体俺が2つの弁当箱を纏めて、弁当屋に返しに行く。

『……ご馳走様。』

プリマは食べるのが早い。シブリーの弁当を気に入って食べてるってことは、味は感じてると思うんだが…何かこう、味わってるって感じじゃないんだよな。ひたすら同じリズムで口に運んで。

まぁ…かと言って俺が特別遅い訳でも無い。米を掻き込んで、飲み込んで。苺を一粒放り込んで……

『ごちそうさま。』

手を合わせて、目を閉じて。一呼吸追いて…何と無しに口を衝いた。

『プリマは、第12階層まで行ったりしないのか?』

最近、気になってた酷くどうでも良いこと。

ダンダリアンの、温かい料理を食べてみたら…そりゃ間違い無くシブリーの弁当は美味いんだけど、本当にプリマはそれだけで満足なんだろうか?

『ん…?う…ん……どうだろうか…?多分、小さな頃…じいちゃんに連れられ一度行った事が有るんだ……でも何を食べたか覚えていない。上るのは大変だし、じいちゃんも私もシブリーの味が大好きで……1人で行っても仕様が無いし、じいちゃんが死んでからは、私はシブリーしか食べていない…。』

ん…?そういえばプリマの爺さんって、いつから居ないんだ?俺がこの町に飛ばされて30何日…多分それよりは遥かに前に死んでるんじゃないか?まさか何年もずっと毎日シブリーだけだったって訳じゃ無いよな…?

一度でも第12階層で出来立ての料理を食べて、その後終ぞそれが恋しくならないだなんて信じられない。やっぱりプリマって、味なんて気にしてないのか?

『ルクスは…第12階層で、何を食べたんだ?』

自分が何処かズレてるってこと、気付かぬ素振りで聞き返してくる。チェスタたちだって大概シブリーばかりだが、それでも偶に、シブリー以外の弁当も食う。やっぱり、プリマが変わってるよな…?

『俺は…魚を食べたよ。ハーブで、蒸し焼きにした。第12階層で知り合いが出来たんだ。そいつが酒場をやってて…其処で食わせて貰ったんだ。』

『酒場…?』

プリマの顔が不思議そうに止まる。プリマでも知ってることなのか…酒が飲めないと酒場に居られないって。

『ルクス…酒が飲めるのか…?』

プリマは何だか怪訝そうだ。俺が酒を飲めたとしたら、何か変なのか?

『否…全然飲めない。でも、来いって言ってくれたんだ。料理とは呼べないとか言ってた癖にさ、凄く美味かったんだよ…温かくて、香りが良くて…ハーブの配合に、拘りが有るみたいでさ…。』

おたまの話もどうでも良かったけど、もしかしたらそれ以上にどうでも良いかも知れない話が予想外に往復されてる。一つだけ、ふと気になっただけなのに…。

会話って、こうやって始まるんだな。

『そうなのか……。』

プリマは俺の話を聞いてまた少し不思議そうな目をした後、フッと緩んだ。

『美味そうだ。食べてみたいな、いつか。』

俺には、笑ってる風に見えたんだけど…でも、プリマの表情は語らないから。

本当に食べてみたいなら、いつかなんて言わずに直ぐに行けば良いのに。

『……今度、一緒に来れば良いよ。』

『…えっ!?』

今まで聞いたプリマの声の中で、一番大きな声だったかも知れない。

語らぬ筈のプリマの目は丸く見張り、口元は放ち、はっきりと不意を突かれてる。

『………ルクス。私は、子供で……酒が飲めない。済まない……。』

また直ぐに表情は影を潜めるけど、目を伏せるポーズでシュンと沈む様子が伝わる。

『俺も飲めないけど、2回も飯を食わせてくれた。今度、プリマを連れて行っても良いか聞いてみるよ。ダンダリアンが良いって言ったら、来れるだろ?』

酒場って、面倒臭いな。酒飲みの為の場所だっていう事情は分かったけど、酒飲みじゃないのに贔屓の酒場が出来てしまった時はどう立ち回ったら良いんだ?

『ん…?ん……そうか………うん。じゃあ、それならば…。』

プリマは俯き、ゆっくりと間を溜めてから…顔を上げ、決意を固めた。

その顔にも声にも表情は無い。でも、何がと聞かれたら答えが見つかんないが…何かが、弾んでる気がするんだ。

我ながら、変な話をしてしまった。プリマと、ダンダリアンの酒場に行く約束になってしまった。何で、そんなことを言ってしまったんだろう…。

そんな必要、無い筈なのに……プリマは弾んで、俺も何だか悪くない気分なのは何故なんだ?

悪くない、とか偉そうに。

素直に、良い気分だって言えば良いのにさ…。

『ルクス。』

プリマは忘れてたと言うように近付いてきて、自分の弁当箱と俺の弁当箱を纏め出した。そして序でに上目を寄越してきて

『楽しみにしてる。』

口を開きながらだったからか、今度は少し口角が上がってたようにも見えたけどどうだろうか。

『弁当箱を、返してくる。』

『あ……。』

油断した。プリマがそのまま弁当箱を手に、蒼い扉を押す。闇の中には未だ、雨の雫がランプの灯りに鈍く煌めいてる。

プリマは何も厭わず無言で雨の中に飛び込んだ。そういえばプリマがあの雨除けのコートを着てるところを見たことが無いし、そもそもこの部屋にそんな物は見当たらない。俺がこの町に来て初めて雨に触れたあの日からいつも、プリマは雨に当たってた。

変な話を始めて、変な約束をさせて、弁当の片付けまでさせて…何だか俺、格好悪くないか?

取り敢えず…残り4日の内の何処かでダンダリアンの酒場に寄って、プリマを連れて行っても良いかを聞いてみるか。駄目なら其処で終わりだし…ダンダリアンなら、断ったりしなさそうな気もするな…。

家の外に出掛けて、家に居る時とは違うことをしよう。そんな約束をしたら、まるで本当の家族に一歩近付けたような気がした。何故なんだろう。

プリマは『楽しみにしてる』と言った。俺自身は……楽しみなのか良く分かんない。何が起こるか、どんな気持ちにさせられるか、想像がまるで付かなくて…。

プリマが戻るまでの間、俺には修理を手伝うことなど出来ないし、プリマを考えれば考える程膝を抱えてじっとするしか無くて不甲斐無い。

せめて、何でもやるしか無いか。何でも屋の仕事を。

何でも屋の仕事がきっかけでダンダリアンと出会い魚の蒸し焼きを食べさせてもらってプリマにこの話ができたように、またどんな話がどんな話題に繋がって……プリマと家族に近付けるようになるか、分かんないから。

そんな絆……必要無い癖に。

何故、どんな相手でも…例え、敵でも。それでも、同じ屋根の中に押し込められたら、家族に成らなきゃ気が済まないのは何故なんだ?

こんなことを考えるのは何故なんだ?俺は前にも、同じ思いをしたことが有るのか?まるで、同じ思いをしたことが有るみたいじゃないか。

こんな場所いつか必ず出て行くのに、こんな絆必要無い。でも一つ屋根の下に押し込められた家族は、もっと関係の無い話をして、下らないことに笑いたい筈なんだ。

だって家族なんて、現実逃避なんだから。

関係の無い幸せ嗜んで、また明日それぞれが関係の無い仕事に向き合うために……

ありがとう、プリマ。今日……家族で居てくれて。


この町の雨は常に穏やかで

いつの間に静かに始まって、直ぐに静かに終わってる。

空には薄い雲が蓋をしてる。でも光は透けて柔らかく降り注ぎ、昨日町中に置き去りにされた雨粒たちは煌めき、たったそれだけなのに理由無く神々しいから釈然としない。

『いってらっしゃい、ルクス。』

プリマは、今日は雨が上がれば昨日出来なかったマミム小屋の修理をしに行くと言ってた。マミム牧場ではなく、第6階層で個人が趣味で飼ってるマミムの為の、かなり派手で癖の有る小屋。

『…行ってくる。』

右脇にゴードルンに返す雨外套を抱えて、左手で扉を閉めようとするとプリマがその勢いを奪う。何となく昨日雨空に奪われた弁当箱を思い出して、そのままプリマに大きな扉を明け渡して前に歩き始めた。

町の中には未だ人出は疎だ。空が明るくなったとて、軒先や葉の裏に滴る雫も晴れなければ何処か億劫な気がするのは何となく分かる。階段の手摺りも、濡れてては意味が無いのだ。

チェスタとビスカには特に挨拶して行く必要は無いだろう。最短距離で、第15階層へ。

あの大運搬の前までは想像も出来なくて少し恐ろしくすら在った第12階層の向こうまで、いとも気軽に越えられるようになった。道のりは縮められないから、近所とまでは言えないけれど…気分的には、ダンダリアンもゴードルンも、レストラだって、会おうと思えば直ぐに会えるつもりだ。

大丈夫か?確かに行動範囲は広がったが…本当に脱出への道に繋がってるんだろうか?考えても仕方が無いのは分かってる。ゴールの方向を知らないんだから『本当に?』なんて問答の全ては無意味なんだ。

ネガティブになって立ち止まったらお終いだ。でもだからと言って、ポジティブになって歩き出してしまっても戻れなくなりそうで怖いんだよ。嘆くことを忘れるのと、満足して文句を言わなくなるのって、何が違うんだ?

入り組む街を一人で歩くとつい、考えなくても良いことが頭の中に浮かんできて、忘れてはならないことを忘れそうになる。そういう時は頭を振るえば雑念は払えて、前だけ見れば大切なことを忘れずに済む筈だ。

今日も上へ登る程に地は遠退き、緑は減り、家は犇めき…その癖太陽は、ちっとも近付いた気がしない。何となく不遜で、気に食わない。ミズルみたいな気もする。

ミズルミズルって、みんなが感謝したり、乾杯したりするもんだから…まるでミズルって、そんな奴がこの町の何処かに存在するみたいだ。まるで、この町の……王?否…神、か?

神って、何だったっけ?

ちっとも出て来ない。凄く大切な物だった気がするけど、思い出せないからどうでも良いような気もするな……まぁ、今はそんなことより、ミズルだ。

道が少し広くなり、一つひとつの家が少し大きくなり、煙突と緑が少し増えた。第11階層だ。直ぐ側の白い階段を見上げれば、大きな黄色い門。

もしもこの町の何処かにミズルと言う者が存在して、人々が捧げた感謝を受け、人々が捧げた杯を受けてるんだとしたら…上まで上って、町中を探して、ぶん殴ってやるのも悪くないな。

そうして反省させて呪いを消させれば脱出も出来るようになるんじゃないか?一石二鳥だ…………馬鹿馬鹿しい。

呪いが人として存在して、ぶん殴ったら反省するなんて、そんな楽な話が有る訳無いだろ。

さぁ、仕事だ。兎にも角にも仕事をするんだ。仕事をしなければ、生きてゆけないのだから。

ミズルを殴って脱出するにしても、この町でプリマの家族として何でも屋として暮らすにしても…生きなければ、命を繋がなければ終わってしまうのだから。

グダグダと考える内に、赤く塗られた木の階段の下の、縦に長いゴードルンの家が見えてくる。下らないことに想いを馳せる行為は、まるで時間を縮める魔法のようだ。きっとこの先も、その魔法に頼ることになる。


『おはようルクス!今日も来てくれて嬉しいよ……コートも、受け取るよ。役に立って良かった。』

縦に長い家をノックして出てきたゴードルンは髪を下ろしてた。後ろで団子状に結んでいた時は男らしい勇ましい髪型だと思ったが、下ろすとこれはこれで野生的で雄々しく見える。戦士っぽいかも知れない。

『俺も今から出掛けようと思っていたんだ。何かあったらそっちに寄るよ。お互い、今日も一日仕事を頑張ろう。』

頷いて、外に出る。赤い階段の上の空色の家。屋根のように咲く花たちには雨上がりの柔らかな光が降り注ぎ、葉や花びらから零れる雨露が煌めいて神秘的だ。あんな空間、俺はこの町で他に見たことが無い。不思議な場所だ…。

相変わらず大袈裟な鳴き声で軋む扉を開ければ、其処には当然誰も居ない。俺は敷物の奥に、扉を見詰めるように腰を下ろした。

さて、何もすることが無いぞ…患者がやって来ない限りは。下らないことでも考えるか…?

ロラサンは、この退屈な部屋で何をしながら、何を思いながら患者を待ち続けてたんだろうか。

病気も怪我も滅多に無いのに、医者は必要だから……医者は大変だよな。暇なのに続けなくちゃいけなくて。

どんなに皆が健康だとしても、医者が居なければ安心して生活することはできない。生活するためには、医者は必要不可欠だ。

ミズルって、自分の勝手で世界中から人々を飛ばしてくるんだよな。だったら飛ばす者を選んで、医者を優先的に第15階層に飛ばしてくれれば良いのにな。チェスタも、都合良く医者の記憶を持った被害者が飛ばされて来ればって言ってたし。

……またミズルを擬人化してしまった。呪いが意思を持って人を選ぶだなんて、何の為に?馬鹿みたいだ。

俺は心を殺してひたすら待った。暇ほど辛い仕事は無いと知った。道具箱の中を引っ掻き回すなんて、昨日で既に飽きてる。

『あ〜ん、すみません!…あ、あなたが新しいお医者さん?一昨日からずっと助けて欲しかったのよ!ゴードルンさんにロラサンおじいちゃんの代わりの人が来たって聞いて!今すぐうちにきて欲しいのよっ!うちって言うのも少しだけ歩くんですけど、この階層で……』

は…?唐突に扉が唸り女が入ってきた!…と言うより、戸が軋むより先に話し出してなかったか?声量は人並みだが、情報量が多くて煩く感じる!

でも、ずっと待ってた客だ。昨日始める前まではあんなに医者ごっこが嫌だったのに、最早誰か来るだけで嬉しいぞ。

『あぁ、わたくしメルタンと申します〜。この階で水場屋をやっておりまして…水場屋って、他の階層でも同じ呼び方なのかしら?トイレやお風呂などを管理する仕事なの。自慢ですけど、わたくしが管理しているこの近辺の水場はとても綺麗だと評判なんですよ。特に17階に窓が大きく特別眺めが綺麗なお風呂がありまして、わざわざ他階層からも』

『おい待て、待ってくれ!自己紹介は分かったよ!…お前、何か医者が入り用で来たんじゃないのかよ?』

『…はっ!』

両手を突き出して制止のポーズを取ると、メルタンは我に帰ったと言うように息を呑んだ。

多分真っ直ぐにしたらもう少し長いと思うんだけど、大胆にくるんと毛先が丸まった髪は丁度肩までのサイズに纏まってる。年は…レストラより少し上くらいかな。この異常な口数さえ知らないままなら、とても普通の女に見える。

『ちょっと聞いてよお医者さん!一昨日からずっと困ってたのよ!わたくしの愛しの旦那さま…トレーンっていって、これが中々のイケメンなんですけど…管理屋という、町中の施設を管理するとても立派な仕事をやっていて、水回りに関してはわたしたちは相棒とも言うべきね!出会いも仕事からだったんですけど…』

『おい。トレーンがどうしたんだよ。』

『はっ!そのトレーンが一昨日から熱を出しまして…3日経った今も熱が引かないのよ!何か大変な病気なんじゃないかとも思って…お医者さんに診てほしかったの!だから早く来て!』

早く来て欲しいなら、必要な話だけをもっと簡潔に話せよ…まぁ良いか。どうやら少し大変そうだ。

『分かったよ。トレーンの所まで案内してくれ。』

そう言って、腰を上げて…序でに、小さな道具箱を取った。医者が置いてった道具箱なんだ。病気を診るのに、きっと必要な筈だ。

『こっちよ〜。この道を真っ直ぐ行って、プラナタスの家を左に曲がるの。プラナタスって実はわたしの元カレだからちょっと気まずいの…でも結構イケメンで』

本当によく喋る女だ…面倒臭いから、目的地に着くまでは無視しておこう。

見上げたら雲は晴れてきて太陽が覗いてたが、意外にも未だ頂点には達してなかった。俺の辛抱の無さが明らかになる。

しかし熱か…熱ってもしかして、結構病気っぽいんじゃないか?良い加減なことは出来ないぞ……しかもこいつ『新しいお医者さん』とか言って、俺のことをちゃんとした医者だとか思ってないか?

少し憂鬱且つ不安なままメルタンに付いて行く。この町では大きな病気は無くて、この町に限ってもしものことなんか起こらないって言う住民たちのことを信じるしか無い。

……何でそんなこと、当たり前のように言えるんだよ?到底、信じられる訳が無いだろ…。


赤い屋根、黄色い壁の家。2人分の寝床を確保して、未だ少し余りは有りそうだ。

『この屋根と壁は幼馴染のバッサーに塗ってもらって…女だてらに塗装屋をやる、中々根性のある子なのよ!でも10年前にとある男を取り合ったことがあって…』

メルタンは道中ずっと1人で話してて、俺は全く聞いてなかった。よく話題が途切れないものだ。此処まで来ると尊敬出来る。

『トレーン、ただいまっ!お医者さんを連れて来たわよ!大丈夫…?』

中に入ると、横に長い部屋にベッドが2つ、奥へと並んでて…これ、奥のベッドへはどうやって行くんだ?手前のベッドを乗り越えて行くのか…?しかもトレーンは、手前のベッドに寝てる。

『お……おが…おか……り…げほっ!……いとし…の、メルタ…ン………医者……など……わざ…わざ……。』

メルタンと同じくらいの年だろうか…イケメンって奴なんだろうか?何せ…苦しそうで全然分かんない。

顔は赤く汗を掻き、ゼェゼェと息が心許なく、かなり辛そうだ。まさか本当に重大な病気だったりしないよな?

『ねぇ。診察をして、ただの風邪なのか診て下さらない?ただの風邪だったなら安心して看病に専念できるけど…もしも大変な病気だったら、不安でどうしたら良いか分からないわ!』

風邪って…何処かで聞いた気がするな。何かの病気だったっけか?でも風邪だったら安心ってことは大した病気じゃないみたいだ。

嗚呼、否……風邪って、俺も罹ったことが有ったかも知れない。そうだ。確か、その時は…布団に入って、温かくして寝てた。隣にずっと、誰かが居て……あれは、誰だったんだろう。もしかして、俺の家族だったんだろうか…?

……否、そうだったか?風邪を引いても、誰も助けてくれなかったんじゃないか?体調を崩して、使えなくなって、一人でやり過ごして治して、そうしたらまた働かなくちゃならないんだ。

何故?誰の為に?

きっとそうだ。その筈だ。温かいベッドで、誰かが隣になんて……幻想だ。きっと憧れて、夢を見てた。

『……お医者さぁん。大丈夫…?』

『……あ。』

忘れてた。取り敢えず目の前の患者に対応しなくては……トレーンは良いよな。愛しのメルタンに、こんなに心配して貰えて。

しかしどう手を付けたら良いか全く分かんない。とりあえず道具箱を開けてみることにした。病気などという見えない物を見分けるには、きっと何か道具が必要な筈だ。

『あら!体温計があるじゃない。ぜひ体温を測ってくださいな!』

メルタンが、目盛りの付いた小さな棒を手に取った。真ん中に通る細い線に…何か入ってる。赤い液体が、途中まで。

『…何、これ。』

『えぇえっ!?』

俺の無知にメルタンは高い声を上げあからさまに喫驚した。医者じゃない奴も知ってるくらい、当たり前のことなのか?

『体温計も知らないの?…あなた、本当にお医者さん?ちょっと借りるわね……トレーン…脇に挟めるかしら?どれくらい待てば良いのかしら……知らないわよね。』

トレーンは無理を押して少しだけ起き上がり、服を捲り左脇に体温計を挟んだ。これで、体温を測れるのか?温度計みたいな物か。

『俺、只の代わりであの診療所に居るだけで…医者でも何でもないんだ。というかそもそも重症で……風邪がどういう物なのかもあんまり覚えてない。』

『は……えぇえっ!?そんな…!ゴードルンさんの嘘吐きィイっ!どうしましょ〜!お医者さんさえ来ればなんとかなると思ったのに…でも、ロラサンおじいちゃんだったとしても、もう外に出て往診する体力なんて残ってなかったのかしら?そもそもおじいちゃんってばお医者さんのくせにちょっと薄情なところがあったから…』

こいつ、嘆く時までべらべらと!本当に凄いな…。

『なぁ、何でお前は体温計の使い方を知ってるんだ?他に、使い方が分かる道具は無いか?』

自分が役立たずなのは分かってるけど、目の前に倒れてる奴が居て放ってはおけない。せめてやることだけはやって帰る。

『えぇ…そうねぇ……実は昔、わたくしの母が熱を出した時もロラサンおじいちゃんに診ていただいたの。あの時はすぐに良くなったんだけれども、熱が出た初日はお母さんってば死ぬかもしれないなんて抜かしちゃって…』

『おい。前はロラサンはどの道具を使ってたんだ?』

『はっ!えぇと…とても覚えているのは体温計と…これを使っていたわ。何て言う道具なのかは知りませんけど。』

メルタンは、丸い錘と二股に分かれた金属が管で繋がれた道具を手に取った。この中で、俺が一番用途の想像が付かなかった物だ。これの使い方が分かるなら、是非知りたいところだ。

『これ、耳にはめるのよ。』

メルタンに、二股に分かれた金属を一本ずつ、左右の耳に嵌められる。不思議とスッポリフィットする。

『それでね〜……確か、こんな感じだったわ。』

メルタンはトレーンの服を捲り、左の胸に錘の平らな部分をぺたぺたと当ててみせた。

『あ、捲ったついでに体温計を見てみましょ……あとはよろしく!』

トレーンの脇から体温計を奪い、錘は俺に寄越すメルタン。真似して、左胸の辺りに錘を当ててみる。

『体温は…37.8度…?高いのか低いのか分からないわ……でもお母さんの時は、もう少し高かったかしら?もう覚えてないわ。大体お母さんってば身体はとても熱いのに泣き叫ぶ元気だけはあって、そのくせ』

メルタンは無視だ。それにしても不思議だ。錘の平らな部分を胸に密着させると、耳に嵌めた細い金属の管から音が聞こえる。メルタンが捲し立てる隣においても、はっきりと。規則正しく、トクトクと。

これは…心臓の音だ。だって此処には、左胸には心臓が在る。人の命を司る、極めて重要な機関の癖に、身体中に音を響かせ、己を知らしめてる。

だけどその癖こいつは骨に守られてるんだ。心臓を突き刺そうとしたって、一撃で仕留めることは難しい。骨の間を正確に縫うことでも出来ない限りは。一撃で仕留めるならば、突きよりも、心臓よりも……

…何で俺はこんなどうでも良いことをつらつらと思い出せるんだ?まるで、常にそんなことを考えて行動してたみたいだ。

まさか俺って……人を殺したことが有ったりはしないよな?

……そんな恐ろしいこと、考えたくも無いから…無視だ。

『…はっ!あら?お医者さんの代わりさん、大丈夫…?』

嗚呼、そんなことを考えたって仕方が無い!そんなことより、今はトレーンだ…!

『心臓の音が聞こえる…規則正しく、綺麗に。何処か悪いところが有るとは思えない…。』

何とも言えないけど…普段と何も変わりさえ無ければ、何か酷いことが起こることも無いだろう。

『そうなの…?安心なのかしら…?でも、こんなに苦しそうなのよ…咳もして。震えているし……何とかなりませんこと…?』

『はぁ…?そんなこと言われても…。』

病気なんて形の無い物、治りを待つ以外に何かやりようが有るのか?それとも、病気って形が有る物なのか…?

『喉が痛いんだよな?口を開けろ。』

『え、えぇ…?げほっ。』

『ちょっと…トレーンに乱暴しないでちょうだいね!』

咳ってことは、喉だ。もし喉がどうにかなってるなら、それをどうすれば良いか考えれば良い。

開けさせてみたものの、舌が邪魔して奥は見えそうで見えない。もどかしくて後ろ手に道具箱を漁ってみて、適当に一つ引き寄せた。それは、小さな鏡が付いた棒……これ、もしかして使えそうか?

トレーンの喉に突っ込んで、平たい鏡で舌を押さえてみる。

『うごっ!?』

トレーンが声にならない声で嘔吐く。胸の奥がチリ付く。俺は夢中で、恐ろしいことをしている事実に全く気付いてない。

『ちょっと!ひどいことしないでってば〜!』

『ちょっと待てよ!もうちょっとで……あ。』

奥がちょっと見えた。何だ…分かりづらいな…赤いけど、何処まで赤ければ問題なのか分かんない。でも、少し…痛そうだ。喉奥の左右。腫れてるのか?分かんない…!

『ちょっと!お願いもうやめてよっ!トレーンの美しい顔が苦痛に歪んでるわっ!』

『わっ!』

夢中で居たらメルタンに引き剥がされる。もうちょっとよく見たい気もしたけど…ちょっとわかった気もするぞ。喉は、良くない。きっと風邪だ。

『もういいわ!心臓が大丈夫なら、きっと大丈夫!…よね?やっぱり心配だわ…3日も熱が下がらないなんて可哀想に……管理屋の仕事も滞ってしまうわ!水回りはわたしがやるとして…その点に関しては、わたしたちは相棒だもの!ウフ…愛するトレーンのために頑張らなくちゃ』

『おいっ。喉が腫れてるから、それが治ればきっと良くなる。きっと、身体の外側の腫れみたいに…塗り薬みたいな物が良いと思うんだ。』

『喉に…塗り薬ィ?』

塗り薬って、ベタベタして…それが傷を守るし、ちょっと楽になる気もするんだよな。だから、ベタベタした粘度の有る…食べ物?飲み物でも良いか。

蜜だ。蜜。

『蜂蜜だ。』

口を衝いて出てきた言葉だけど、きっと確かに存在する食べ物の筈だ。

偶に食べてた筈だ。本当に、偶に。甘くて、幸せになる…。

『はち…みつ…?』

メルタンはぽかんと呆けた。知らないのか?

『蜂蜜を知らないのか…?蜂の蜜だ!多分、蜂が作る蜜…。』

俺も余り自信が無いけど…蜂って多分虫だ。蜜が採れるけど、良くない所が有った気もする。毒でも有ったのかな…?

『ハチって何…?動物なの?それとも虫?蜜を作る虫なんて…聞いたことが無いわ〜。』

そうなのか……蜂蜜って、何だか世界に広く出回ってる当たり前の物のような気がしたんだが…違うのか。でも、俺もそんなに頻繁には食べてなかったような気もする。この閉鎖的な町で、蜂が居ないということも普通なのかも知れない…のか?

『ねぇ、そのハチミツというものが薬になるとでもいうの?どうしたら手に入るのかしら…?』

『蜂が居なけりゃ無理だろ……なぁ、蜂蜜が無いならこの町では何を使って甘くするんだ?蜂蜜みたいな、トロッとした濃い蜜が良いと思うんだけど。』

『え?甘ーい味は…木や花の蜜を使っているんじゃないかしら〜?木の蜜なら、トロッとしてると思いますわ。お菓子屋に頼んで譲っていただこうかしら?そのままだと飲み込めないから、白湯屋にお湯を貰って溶かしてあげましょう。お湯を飲めば身体も温かくなるし…』

菓子屋はともかく…白湯屋?そんな仕事まで有るのか。各家は本当に寝る為だけの棲家で、台所も何も備わってないからそんな職業に頼らないとならないんだ。面倒な町だ…。

『なぁ、きっと心臓が大丈夫だから大した病気じゃないと思うし、喉も大事にしたらきっと治まる。他に何か心配なことは無いか?』

何となく、やることはやった気がする。

本当は…道具箱の下の段に遺された薬たちを使えたら良いのにってずっと思ってたけど。でもどれが何の薬なのか分かりようが無いから、下手なことは出来ない。

本物の医者が来たら、活かすことも出来るのだろうか…?

『えぇ…?あなた、急に頼もしくなっちゃって…なんだか少しだけイカしてるわよ!そうね…なんだかさっきより安心しましたわ。どうもありがとう!』

メルタンはニコッと笑顔を見せた。なんだか何かが報われた。誰かに感謝をされるのは、いつだって悪くない。

医者って、知識と技術さえ有れば…悪くない仕事なのかも。

『じゃあ…片付けて行くよ。熱で暑いかも知れないが、布団を被って温かくして寝ろよ。あと、白湯だけじゃなくて飲み水も沢山用意しといた方が良いかも。汗をかくし、喉が渇くだろ?』

『あら…確かにそうね。あなた本当に、急に冴え出してるわぁ〜…。』

メルタンは軽くだけど、呆気に取られてる。

確かに急にすらすらと口を衝いて、自分でも驚いた。もしかしてちょっとずつ、思い出せてきてるか?

『あとは、食事は体力を使うから…スープみたいな奴が良い。栄養の有る野菜を、細かく刻んだりして…。』

『スープ…?それは難しいわ…スープなんて、食事処ぐらいでしか食べたことが無いわね。第12階層も遠いし……お湯にお米を入れたら、お粥になるかしら?』

本当に不便な町だ。楽だけど、不自由だ。

『それで良いならそうしてくれ。行っても良いか?』

道具を仕舞って、扉の方へ逸りながら、メルタンを振り返った。メルタンはすっかり不安を落ち着けてそうだし、ベッドの上のトレーンも、微かに片手を俺に向け、礼としてくれてるみたいだ。

『ありがとう、お医者さん!これで安心して看病できる…きっとトレーンは良くなるわ。苦しむトレーンの顔なんてもう見たくないもの。確かに美しい顔が苦痛に歪む様も…少しなら良いわ。でもやっぱり3日も続くと、愛する人が苦しむ様なんて見続けたくないから』

メルタンは、代わりではなく俺を医者と呼んだ。

医者ってこんな物で良いのか。もっと、魔法みたいなことをしなくちゃいけない物だと思ってた。

苦しむ人を救うなんて、魔法でもなければ出来ない。

『だから出会った頃のトレーンって今よりもなんかこぉ〜…甘い感じのイケメンだったんですけど、結婚してからは少し逞しくなってこれはこれで』

メルタンを無視して外に出た。太陽はやっと頂点を超えてた。

少し、この仕事をした甲斐が有ったかも知れない。どんなに小さなことでも、思い出せたことが有ったし。

多分、プライドの器に温かい何かが少し注がれた。これは、この奮闘が無駄に終わらず、何かのためになれたという安堵。

来た道を戻って、プラナタスの家を曲がって、ひたすら真っ直ぐ。この辺の地理なんて全然明るくないけど、簡単な順路で助かった。

居ない間に誰か患者が来てたらどうしよう。どうせ大丈夫かな?昨日もあんなに暇だったんだし、この町には……どうせ、もしものことなんて起きないんだろ。


空色の小さな家が見えてきて……扉の前には、誰かがしゃがんでる。もしかして待ってたのか?昨日ゴードルンが、忙しくなると踏んでたのを思い出す。

本当に、医者が必要な奴が増えてきてるのか?

『おい。』

声を掛けると、男の目は輝き出す。

真っ白な髪。でも、年寄りの白髪とは違う…くすみの無い、透き通るような白。ツンツン跳ねてる。俺が出会った中だと…ビエッタに近いかな。若いと大人の間。でも雰囲気はあいつ…ピズーリに似てる。眠そうな目で、その癖勢いで生きてそう…適当そうだ。

『あーっ!もしかして、医者…?助かったー!ロラサンの代わりが来たって本当だったんだなー!』

声がでかくて…見た感じ、医者が必要そうには見えないが…?

『婆ちゃんがまたボケてんだよっ!』

は?

ボケたって……もしかして、只、馬鹿になっただけか…?

医者って馬鹿も治すのか?馬鹿が治せるなんて、そんな話そのものが馬鹿だ。苦労をしない。

『ちょっと前からひどくなり出してロラサンに相談してたんだが…ロラサンが居なくなってから、家族みんなで見張って頑張ってたんだよーっ!でも、ロラサンの代わりが来たんだから見せに行こうと思ってたらー…隙を突かれたーっ!今、家族で近所を探してるんだけど、婆ちゃんを診てはくれないかっ!?』

男はさも緊迫した事態のように声を上げる。本当に大変なのか、声がでかくて大袈裟に聞こえるだけか判別が付かない。

『なぁ……俺は何をしたら良いんだ?』

『あ…?まずは、婆ちゃんを探さねーとっ!』

確かに、本人が現れなけりゃ診察しようが無い……でも、何かおかしくはないか?

『もしかして……俺も探しに行くのか…?』

『もちろんっ!』

男は、分かり切った答えを発表するようにはっきりと発声した。

『あっちの方は今俺の家族が探してんだー!だからそっちの方を中心に頼むっ!弱ってるからそんな遠くには行かないと思うんだが……もしも見つけたら俺の名を…ユトピと呼んでくれ!俺はちょっと、自分の菓子屋の様子を見てからまた探すから……代わりに任せたっ!』

『あ……!』

ユトピは返事を待たずに反対方向へ駆け出してしまった!

しかし、ユトピは菓子屋なのか……恐らく、少し時間が掛かるな。あのメルタンの話を回避出来なければ…。

馬鹿になった婆さんを探すのは面倒だけど、仕方無いからやるか……他に患者も来ないみたいだし。

取り敢えずユトピが言った方向へ歩き出した。少し探して、見付からなかったら戻ってみよう。ユトピの家族が見付けるかも知れないし。

心配し過ぎなんじゃないか。多分だけど、年を取ったら馬鹿になるなんて、当たり前のことじゃないか?

人が生まれた時の無知はやがて成長する程に生きる力を身に付け、そして老いる程に今度は壊れてゆく。

人間は馬鹿として生まれて、馬鹿として死ぬんだ。

だから馬鹿になる前に死ねたら一番良い。

それとも、馬鹿な内に死ねた方がより幸せか?

若しくはずっと無垢なまま、馬鹿なままで生きることが出来るのならば。

第15階層は小さな家ばかりで、植木や花壇は下の階や第16階層に比べて少ない気がする。だからこそロラサンの家の上の小さな花畑は、小さいながらも存在感を放つのかも知れない。

建物が多いから死角が多くて苦労しそうだ。息を吐いて気合いを入れ直して、歩き出した。今日は終わった後に寄りたい場所が有るのに、そんな気力を残して置けるのだろうか…?


歩き回って程なく、不審な婆さんを見付けた。

メルタンの家とは反対側の通路を行っていくつか適当に曲がった一画。小さな家と小さな家の間の細い隙間を、座り込んでずっと見詰めてるのだ。馬鹿っぽい…否、壊れてる。

『婆さん…お前もしかして、ユトピの婆さんか?』

話し掛けても、返事は無い。こちらを向かない。微動だにしない。

『おい!返事だけでもしてくれ!言葉も忘れたのかっ?』

かなり強めに言ってしまった。しかし動じる様子は無く……ゆっくりと、姿勢を崩さぬままこちらを振り向く。

『………あら…ぁ。あら…?此処は、何処かしらァ。此処は、おうち…?そろそろ…夕飯かしら?』

思ったより馬鹿だ。爺さん婆さんってこんな感じだよな……多分、殆ど会ったこと無いけど。自分の家も覚えてないのかよ。まだ陽も頭の上で、全然夕飯なんて考える時間じゃないのに…。

『なぁ…多分此処はお前の家じゃない。俺と一緒にユトピを探して、家に帰れよ。』

腕を掴んで、立ち上がらせようとすると

『ユトピ…ユトピ!お前こんな所で何をしてるんだい!紫の子供たちが……お菓子……を。』

なんで俺がユトピなんだよ!しかも訳の分かんないことを言って…これも、馬鹿になってる所為か?こんなの、老い…かも知れないけど……病気かも知れないけど

誰かに似てる。

……まぁ、違うかも。こんな馬鹿を、何処かで見たことが有る…。

それにしても婆さんの腕って、こんなに細いんだな…小枝みたいだ。今にも消えそうで、怖い。

『おい。俺はユトピじゃない。ユトピを探しに歩こう。』

『え………あなた…だれ……!?助けて!乱暴しないでぇええ!ユトピ!ユトピぃいい!』

『はっ!?』

なんでそうなるんだ!確かにちょっと声を張ったり腕を掴んだりしたが、乱暴とまで言われる筋合いは…さっさと此処を見付けて、助けろユトピ!

『おーっ!婆ちゃんっ!医者っち!遅くなってすまねぇーっ!』

声がして背後を振り返ると、いつの間にかユトピが駆けて来る。心で呼び掛けた途端にすぐ来てくれるとは…感動的だ。

『いやーちょっと客さんが来ててなぁっ。ありがとう、医者っち。婆ちゃん何やってんだよっ。なぁ…婆ちゃんとは話したか?』

ユトピは何だか小慣れてる。この壊れ掛けた婆さんを、暫くずっと世話してたんだ…だからだ。壊れ掛けが、少しずつ確実に壊れていった。

『話したけど……俺はどうしたら良いんだよ。こいつは病気じゃない。壊れてるだけだ。』

ユトピは婆さんの肩を抱きながら、先ずは軽く眉を歪める。

『何だそれ…失礼なこと言うなよ。婆ちゃんは元気だ!ただ…ちょっと変になっちゃっただけだよ。だから病気だ。元気なやつが、変になるのは病気のせいだ。だからロラサンも相談を聞いてくれたんだよ!』

筋肉痛の対処も良い加減だったロラサンのやることなんて信じられるか。時間も相手も判別出来ないくらい壊れた奴なんて

壊れた物なんて、壊れることしか出来ないだろ!

元に戻らないんだから、壊れるしかない…。

『病気じゃなくて、老いだろ。俺には時は戻せないし…お前だって、時を止めることは出来ないだろ。居なくなったら探したりとか…そういう、俺に出来ることだったらするよ。でも、やり方を知らないんじゃなくて…不可能なだけだ。どうしようも無いんだ。』

婆さんはユトピにくっついて、また何もかもが見えず聞こえないかのように呆け出した。何処を見てるのか定かではないし、身体が石になったかのように動かない。

『何で…そんな酷いこと言うんだよ。』

気付けばユトピは、どんどん語尾が頼りなくなり声は萎れてゆくような感じだ。目を伏せ俺の顔には目をくれないけど、別に欲しいとは思わない。

『お前って…もしかして医者じゃないの?』

何で今そんなことを言われるんだ?本当のことだから、別に良いけど。良いけど……

あの兄弟やメルタンにも感じたこの憤り……お前らが勝手に勘違いしただけだろ?落胆される筋合いなど無い。

『俺は医者じゃない。ロラサンが居なくなったから連れて来られてるだけで…医術どころか、自分の記憶も無い、重症なんだ。』

『はぁあっ…!?さ…最悪だ……!』

目を丸くし、口は塞がらないまま…まるで俺が悪いことをしたような表情と言葉で。こっちだって不穏な気分が徐々に高まる。メルタンの家を出た頃の悪くない気持ちは小さな泡のように順番に、知らない内に弾けてく。

しかも、続け様にこんなこと言われたらさ……

『お前…自分がボケてんだぁ……。』

『は…?』

何だ…こいつ?俺がボケてる?

俺が壊れてるって、そう言ってるのか…?

『そうか…そうなんだな…悪かったよ………かわいそうに。』

そうだ。俺は可哀想なんだ。唐突に理不尽に巻き込まれて、有無も言わせて貰えない。

でも、この『かわいそう』は……何でこんなに納得が行かないんだ?

『お前には医者が出来ないんだな。婆ちゃんを診るとかそういう話じゃなくて……しょーがねーけど、なんとか他を当たるよ。医者が出来ないなら、もっと最初からこんなこと始めない方が良いぞ……ゴードルンだって、そこまで強引な訳じゃない…。』

ユトピは目を細めて…さっきまでは俺に助けて欲しいって縋ってきてた癖に、今度は俺を憐れみ始めてる。

勝手に話を進めるな。一緒にするなよ。俺は何もかもが分かんなくなった訳じゃないし…俺は壊れてない!失くしただけなんだ!

俺の記憶は、必ず戻る!

『出来ないけど………何だよ……お前に、何が……。』

いつの間にか、俺の頭も俯き出して。

出来なくても、俺は昨日も今日も、出来ることはやってきたんだって。

訴えたかった訳じゃない…只、勝手に口から漏れ出てたんだ。

でもユトピは、そんな俺の言葉にわざわざ答えをくれた。

『だって話を、聞いてくれないじゃねーか…。』

フッと空気を感じて見上げると、ユトピも俺に向き直ってこっちの目を捉えてくる。婆さんは太陽へ向けて顔を上げたままユトピの腕の中で完全に寝てる。

『医者は話を聞く仕事だって、ロラサンは言ってたさ……婆ちゃんのでたらめに相槌打ちながらさ。』

ユトピは優しく婆さんを撫で、揺すった。

『婆ちゃん、待たせたなー。帰ろうよ。豆を使った菓子を作ってあるからな。今日は何色の子供にあげるんだ?昨日は緑だったから、今日はー…そろそろ紫か…?』

ユトピが婆さんに語り掛け続けると、徐々に身体に力が篭り、瞼が開き出し…そして、いつの間にかユトピが差し出した手を握り返してた。

『じゃあな。婆ちゃん見つけてくれてありがとう。』

婆さんは握り返した手に引かれてそのままヨタヨタと歩き出した。信じられない程歩幅が小さい。人間って終いには此処まで衰える物なんだな。ユトピは前は向きながら婆さんに合わせてゆっくり進んで…じゃあとか言った癖に、全然去らない。

何となく2人のことをずっと目で追い続けてしまった。このままじゃ角を曲がる前に日が暮れるんじゃないかとか思ったが、2つの背中は確実に小さくなっていって…何処かの家の隙間に吸い込まれていった。

嵐のように巻き込まれあっと言う間に見限られた。頗る後味が悪い。あいつが悪いのか、自分が悪いのかすら見当が付かないんだ。

昨日だって、さっきトレーンを診た時だって、医者で居られた自信なんて無い。でも、医者を求めて来た奴らは満足してるように見えた。

確かに俺はユトピの求めることは叶えられないけど、だからって話を聞いたら何が変わるんだよ。やっぱりロラサンはおかしな医者だ。

立ったままでは仕様が無いので、とぼとぼと来た道へ歩き出す。歩きながら考える。もう壊れてゆくだけの壊れかけの時間を戻すことも、緩めることも、どう考えても出来ないし…許されることでも無い筈だ。

ユトピが何故怒るのかも、何にがっかりしてるのかも、何を求めてるのかも一つも理解出来ない。

ユトピが言ったことへの言い訳みたいなものはぽつぽつと浮かんでくるけど、それでもどうやら整理は付かない。この後また誰かの病気の面倒を見るのは、今日はもう嫌だな…。

この町にはどうせもしものことなんて起きない。人は皆、時が来たら死ぬだけだ。またそうやって自分を励ました。都合の良い時に、都合の良い言葉だけ信じて…そういえばそうやって、やり過ごして生きて行くのが人生だったような気もする。


『ありがっとぉ!じゃあっねぇ〜!』

『ばいばぁい!』

セウスが笑顔で立ち上がると、フリウスも笑顔になって2人して駆けて行く。こっちの返事なんか待たないで、自分たちの目的が達せた瞬間に早々と…。

嫌な気分でロラサンの診療所に戻ったら今度こそ誰も居なくて、久しぶりに落ち着けたような気分だったんだけど。その後も少し、人が来たんだ。

どいつもこいつも下らなかったな。今去って行った黒髪兄弟は、また歩き回って膝を擦りむいたから処置してくれって言って、未だ医療っぽい行為をさせてくれたけど。

フリウスに右手の代わりをしてもらいながらだが、結構上手に包帯を巻けたと思うんだよな。きっと俺は何度もやったことが有る行為なんだと思うんだ。

変な奴も居たな…第16階層の女教師、スマス。毎日毎日夜眠れないとか。別に眠くないのなら、寝なければ良いだけなのに。

言えることだけ言ったけど…風呂にゆっくり入ってから寝ると気持ち良いとか、夜中星を眺めてぼーっとしてたらいつの間にか眠くなってるとか、眠くないなら無理に寝ようとせずに天井でも眺めてれば良いとか…あんまり泣き付くから思い付いた順に言って、こんなの意見でも何でも無いけど。まぁ、本人は何となく納得してたんだから別に良い。

あとこいつは煩かった。第15階層の建具屋パック。扉に足の小指をぶつけて、痛いから骨が折れたかもしれないって、おっさんの癖に泣き出して。

触ったら大丈夫そうだったし、そもそも此処まで歩いて来れるのなら問題無いんじゃないかって思ったし、そんなに心配ならって一応包帯をきつく巻いて固定してやったし…そうこうしてる内に、痛くなくなってきたとか言いやがって、笑顔で帰って行ったけど。

どんなに下らなくても、なんとかなる話なんだったら聞いたり答えたりすることは出来る。

思えば俺はこの町に来てから今まで、なんとかなる話にしか出会ったことが無かったんだ。この町に来てから、崩壊とか死とか無常とか、そんな物と対峙したことが無かった。時の流れに挑んだことが未だ無い。

戦う対象じゃない。そんな物、相手じゃない。只の道理だ。条理だ。

…戦うべきは不条理だ。ミズルだ。

壊れた物は直らない。でも、奪われた物は取り戻せるんだ。

だから俺は正しいし、ボケてなんかない。

『ルクス…お、お疲れ。その様子だと、今日も医者として皆の話を聞いてくれたみたいだな。』

窓が光源として役に立たなくなってきて、そろそろゴードルンが来るんじゃないかって思ってた。ホッとするけど…『医者として』『話を聞いて』って、ユトピの顔が思い出されて気に食わない。ゴードルンが悪い訳じゃないんだけど。

『帰りに偶然パックに出会して、ルクスのお陰で折れた骨が治ったって言ってたんだよ。何のことだか的を得なかったが、やるじゃないか…流石、何でも屋だな!』

良い加減なことを言いふらすなよ!良い加減な奴だったもんな…ユトピがゴードルンに出会したなら、俺が医者を出来ないって言いふらしたりするんだろうか。

『俺は今日も見回りをし、余った時間は第12階層で医者の求人を広めながら情報収集をして…やはり収穫は今日も無しだ。12階層以下では望みは無いのだろうな……チェスタの成果がどうかは分からんが、それも期待しては悪いだろう。明日は早起きをして出掛け、より上層の階へ足を伸ばしてみようかな。』

ゴードルンは憂えながら扉を放ち、先導した。今日もやっと解放される。

外では夕焼けと夕闇が鬩ぎ合う。この町の空は、基本的には小さい。見えない場所も有る。上に常に家が重なってるからだ。でも、だからこそ…其処から覗く空は美しい。救いだからだ。

『ありがとう、ルクス。今日はゆっくり休んでくれ。明日もきっと、患者は来るだろうからな。』

赤い階段を2人で踏み鳴らしながらゴードルンは笑う。俺は笑顔を返すのは下手だから代わりに大きく頷いて…細長い家の前で、もう一度『また明日』とお互い手を挙げて別れたんだ。

気付いてしまった。怖いのは俺だけか?『明日もきっと患者は来る』って、どうしてそんなことが分かるんだ?どうしてそんな言い方が出来るんだよ?

そんな言い方をされて気付いたんだ。昨日と比べて、いきなり色々来過ぎじゃないか?

昨日は黒髪兄弟の筋肉痛だけだったけど……今日は風邪、ボケ、不眠、ぶつけた足、擦り傷…5件も。

たまたまか?でも……

ロラサンが死んでから、医者に頼りたい奴が増えてるって…確かゴードルンは、初めて会った時にそう言ってたんだ。

……でもどうせ、この町で…もしものことなんて、起こる筈が無いんだろ?

なんとかしなくちゃ。

ゴードルンが。チェスタが。俺が…危機に気付ける奴が。危機感を持てる奴がなんとかしてやらないと。

危機感を持てない無垢な子供みたいな奴らに、もしものことが起こる前に。

騒めきが徐々に確かになって、活気溢れる中の小さな桃色の門が見えて、はっと気付いてモヤモヤとした思考が吹き飛ぶ。

すっかり忘れてた。ダンダリアンの酒場に寄ろうと思ってたんだ。混んでるかな…?でも、一つ質問が出来れば良いんだ。寄るだけ寄ってみよう。


『……ルクス。』

滑らかな扉を開いて先ず俺に気付いたのは、折れ曲がった手前の席に座るビエッタだった。この席はまるでこいつの定位置みたいだ。

『ルクス…?どうしたんだ?良く来たな。』

ビエッタの声に振り向いて、ダンダリアンも直ぐに気付いてくれる。手前には葡萄酒を携えたビエッタ、ダンダリアンの前には盛り上がる知らないおっさん達。おっさん達が大きく笑う度に何かが臭くて…あの、酒の感覚が呼び起こされるな。やっぱり俺って、此処に来る資格が無いのかな。

『丁度奥に一席空いて居るから、其処に座ってくれ。』

ダンダリアンは手元の鍋の火加減を見ながら、目の前の客に瓶を出しながら声を飛ばしてくれる。やっぱり忙しそうだ。

『いや…ちょっと聞きたいことが有って寄っただけなんだ。だから…』

『そうか。では、立ち話も何だから其処で聞くよ。お前達、少し後ろを引いて通してやってくれ。』

言われて3人のおっさんたちは揃って前に身を寄せ、心許ない通路が広がる。ダンダリアンは優しくて狡い。また俺を甘えさせる気なんだ。

『…ありがとう。』

おっさん達の後ろを通り様に礼を囁いて奥に座ると、いつの間にかダンダリアンが橙ジュースを出してくれてた。

『旦那ァ!いつからこんな可愛らしい客が来るようになったんだよ!ははは!』

隣に来ると一層声がでかい。これって酒の所為なのか?元々のこいつらのことは知らないが…カストルはこんな風に煩く笑ってたし、でもビエッタは大人しく澄まして飲んでるし…酒に強くなったら、ビエッタみたいになれるのか?でも、大声で笑えた方が楽しいんじゃないのか…?

『ルクス、もしやゴードルンと共に仕事をして来たのか?お疲れ。良かったら、お前もスープを食うか?全員分だから、多めに作ってるんだよ。遠慮をするな。』

大きな鍋の蓋が開かれると湯気は下から下りるカーテンのようにダンダリアンを隠し、熱気とハーブの香りが広がる。そしてそれらは直ぐに引いて、現れたダンダリアンはもう…おたまで、器にスープを注ぎ始めてる。

『ほら。温まるぞ。』

順番に椀が出されて最後に俺の元に渡る頃にはビエッタはもう口を付けてる。あいつが食事をしてる様子を初めて見ることが出来た。スープを啜る時にまで澄ましてやがる。

俺もスプーンで掬って、一口啜った。先ず温かさが支配して、その後旨みが広がる。きっと肉の…マミムの出汁だ。でもトマトが入ってて、力強いのに爽やかだ。そして幾つかの草が散らされて…ハーブの香りが混ざって攻めて来る。美味いという方向へ、脳を操作されてるみたいだ。あの、魚や肉を焼いた時のハーブと、同じような違うような…?

『ルクス、用件は何だ?ゴードルンの所で、何か有ったか…?』

ダンダリアンは琥珀色の酒を一口含んでから、心配そうに俺の顔を覗いた。もうレストラのジュースは無くなったかな。一人で飲むにしても少なかったし、日持ちもしないって言ってたからな。

『いや…まぁ色々有るけど、それは関係無い。聞きたかったのは……今度、俺の家族をこの酒場に連れて来たいんだ。ダンダリアンのハーブで焼いた、あの魚を食べさせてやりたくて。でも…そいつも子供だから、酒が飲めないんだよ…。』

こんな自分本意の我儘なんて聞く筋合いは無いだろうなと思いながらも、ダンダリアンは優しいからそんなことぐらいなんて言ってくれそうな期待も隠してる。そう言えばダンダリアンが誰かを否定してるところを、未だ一度も見たことが無い。

『何だ、そんな事。聞かずともいつでも来れば良いじゃないか。』

やっぱり。ダンダリアンは笑い飛ばして、何故か釣られて隣の席のおっさん達も笑い出した。酒場とはやけに和やかで煩いから、温かい場所だ。

『だが…そうだな。気になるならば、なるべく早い時間か遅い時間に来ると良い。今くらいの頃が丁度一番混むんだよ。大体昼が終わってから準備を始めて…日が落ちる少し前から賑わい出すな。遅くなるとまた空くが、そんな時間に子供が低層階から登って来る事は現実的では無いだろう。日が傾く頃にでも来れば、ゆっくり饗す事が出来るんじゃないか……予め言ってくれたら、その日は早めに支度をしておこうか?予約って奴だ。』

本当の優しさって、こういうことなのかもな。投げた言葉だけじゃなくて、心の中から様子を伺ってる分まで全部見通して包み込んでくれてるみたいで。俺たちが変に気を遣わずに済むように、ダンダリアンも考えて提案してくれてる。

『ありがとう……じゃあ確認して、また予約しに来る。』

気恥ずかしさを持て余してスープを身体に流すと温かさがじんわり沁みてきて、結局真心に当てられてるみたいだ。ダンダリアンは洗った皿を拭きながら、何故か不思議そうに薄笑う。

『しかし……そうなんだな。お前には家族が居るのか。良かった…それは、楽しみだ…。』

そう言えばダンダリアンにプリマのことを話したことは無かったな。別に話す必要なんか無いけど。だから、何処かが擽ったいのかも知れない。

おっさん達は3人で、恐らく他愛も無い話をして馬鹿笑いしてる。その向こうのビエッタはワインを口に含みながら…恐らくダンダリアンの手元を見詰めてる。一人でも皆でも、知ってる奴も知らない奴も、話を聞いてたり聞いてなかったり…孤独なのに、孤独じゃない。それが酒場なんだな。何となく分かってきた。癖になりそうな居心地なのに…酒が飲めないといけないだなんて、本当に勿体無い。

『ようビエッタ!今日も美しい花飾りだ……おや?満席か…!』

声が通るとどちらが早いか、目の覚める隙間風が背中を抜ける。

『おや…フェイクか。久しぶり!悪いな、丁度今し方満席になった所で…』

これは居た堪れない。音も無く開いた扉の外には、薄汚れた色の布を首にたっぷり巻いた小さなおっさんが残念そうに立ってる。いかにも、酒を飲みそうだ。

『そうか…!そりゃ残念だ…じゃあ次は何処へ行こうかな』

『ちょ、ちょっと待ってくれ!』

言いながらスープを流し込むから咽せそうになって、今度は慌ててジュースで飲み下す。温まった身体の中心に、冷や水が流れる感覚が直に響いて堪らない。

『俺、もう行くよ…ありがとう。』

怒涛の寒暖差に頭を一振りして、立ち上がる。椀とグラスを纏めて前に突き出すと、ダンダリアンは思わず突き返して心配そうに

『おいおいルクス、こういう時は気を遣わずとも…』

『否。もう食べ終わったし、聞きたいことも聞けたから帰る…おっさん!此処に座ってくれ。』

『そうかぁ…?』

おっさんは呆けながらも身をずらして、音の無い扉を押さえながら小さな入り口を放ってくれる。皆が隙間風に凍えないように、急いで立ち上がらなくては。

『ルクス…有難うな。また…。』

ダンダリアンは困ったように、申し訳無さそうに身を乗り出して送ってくれる。こんな顔をさせるなんて…帰るなどと言うのは逆に迷惑だったのだろうか?でも聞きたいことを聞けてスープも食えて目的は達成出来たし、それに居た堪れないなんてどうにも遣り切れない。

『あぁ、また……あ。』

身を寄せたおっさんトリオの後ろを通ってビエッタの隣まで辿り着いたところで気付く。

『ん?』

聞き忘れてた。と言うより、序でに聞いておいてやるかって気分だったんだ。思い出したから、やっぱり聞いておいてやるか。

『なぁ…チェスタとビスカも、また来ても良いか?』

ダンダリアンはキョトンと間を持った後、まるで苛立ちを解放するかのようにふっと笑った。

『ルクス!もう二度、そんな面倒臭い事は聞いて来るなよ。お前はもう俺の得意さんなんだから、お前の友を追い返す理由等何処に有ると言うんだ。良いからいつでも来て、来たら必ず、この料理とは呼べぬ料理を食べて帰るんだぞ。良いな!』

ダンダリアンはシッシッと追い返すように手を払う。初めてダンダリアンに少し意地悪をされたような気がする。楽しい気がするのは何故だろう。

『そうか。ビスカと言う奴に、遂に会う事が出来るのか…。』

ぼそりとビエッタが呟くのが不思議で耳に残った。この前皆で来た時に、ビエッタも居たじゃないか。ん?この前は、特に誰も自己紹介はしてなかったんだっけか…?

『有難うよ、坊主。次に会えたら今度は一緒に飲もうぜ…!』

入れ違い様に薄汚れたおっさんに肩を叩かれ礼を言われたので、その手に軽く触れ返しながら頷いて部屋を出た。蒼い扉は音も無く滑り閉じ、外には先程より一層多くの人々が行き交ってる。

確かに腹具合も高揚感も中途半端で、この浮かれた人混みは何となく恨めしい。でも別に良いや。今日は疲れたし俺は少食だからスープ一杯でも朝まで保ちそうな気がする…それに、次はプリマと来られるんだから。

だから真っ直ぐに黄色い門へ。きっとプリマももうシブリーの弁当を食べてる。折角だから今夜はさっさと支度をして床に就き明日に備えよう。明日もきっと、患者は来るんだから。

階段を一つひとつ降りる毎に家に近付いて、明日に近付く。期限も近付く。

楽しみなことも残酷なことも時は平等に運んで来るんだから、こちらも平等に受け止める準備をしなくてはならない。ダンダリアンの酒場にはいつ行ったって良いんだし、医者が見つからなければ第15階層の人々には自分達でどうにかして貰う他無いんだ。

俺は出来ることをするだけだ。出来ることをするしか出来ない。出来ないことは誰にも出来ない。

言い訳をして自分を慰めて、眠って朝になって目が覚めて、そうすれば幾分か気は晴れて、また真っ当な人間の振りをして歩ける。

俺は何も間違っては居ない。

宵街を少し歩くともう、スープに温められた身体は冷やされて身震いすら起こる。この町の空気は昼間はとても暖かくて、夜は少し涼しい。だから眠気を誘う。正確な時計みたいだ。子供をあやすリズムみたいだ。

ミズルにあやされて、決められた通りに眠って、そして仕事に精を出そう…そうするしか無いみたいだ。外の世界ではどうだったか覚えてない。でも少なくとも、この町の中では。

ミズルを引き摺り出して、ぶん殴って、反省でもさせない限りは…この町の人々はミズルの庇護の下、危機感を取り上げられて、止まった時の中に揃って過ごすことしか出来ない。


昨日は別に良いやと思って朝同様に無視して帰ってしまったが、そう言えばこれ以降チェスタ達がどう動くのかは聞いてないし、成果も共有しておくべきだと反省した。だから少し早めに出掛けて、先ずは石壁の家に寄る。

おたまは取れて無くなってしまったから、無い腕に直接取り付けられた重い土台のような物を打つける。ガンッ!と鈍い音が大きく響く。

『……ルクス。おはよう。お疲れ…あのさ…。』

扉が開いて出て来たのはビスカだ。2日振りだけど、変わりは無さそうだ……でも眉を歪め宙に助けを求め、何かに参ってる。

『チェスタは昨日はこの辺の階層中を歩き回ってすごい疲れてて…ルクスの顔は、今は見たくないって。悪いな。』

何で俺こそが諸悪の根源みたいな言い方をされなきゃならないんだよ。確かに顔も出して来ないけど…本当に昨日一日仕事をしてくれたのか?チェスタはどうやら悪人じゃないが貧弱でその上意地悪で狡賢いし、常に俺のことを微かに敵視することを忘れない。だから信用出来ない。

『つまりさ…成果は全然無かったよ。やっぱり下層階には医者は余ってない。そもそも下層階って、医者を必要としてる奴があんまり居ないんだよな。だから第2階層のドミトルだって第6階層のパストだって、代々細々と家族ぐるみで医者を続けてるだけで…そのロラサンって医者は、何で弟子を取ってなかったんだろうな。』

ビスカは遠い目のまま溜息を吐く。弟子って、何だっけ?でも確かにロラサンがドミトル家やパスト家みたいに子孫でも作ったりしてくれてればこんな苦労は無かったし、下層階で暮らしてる中で医者を必要としてる者を見たことは殆ど無い。俺も医者に頼らず30何日もやって来られたから、こんな仕事をやらされるまでは医療の必要性なんて全く思い出すことが無かった。

『とりあえず今日はみんなに頼まれた仕事を出来るだけ片付けて…きっとそれで終わりだ。チェスタは使い物にならないだろうし。今日なるべく明日の分まで片付けて、明日俺とチェスタの2人で出掛けて、今日の分まで手分けして上の階を当たってみようかって話してたんだ。あと3日とは言え、やれることは尽くさないとな。』

『あぁ…。』

確かに、あと3日だ。解決してもしなくても、あと3日で終わる。せめて手を尽くして、第15階層近辺の呑気な奴らの危機感を呼び起こさせるくらいのことはしてやらなきゃ。

『…ん?』

ビスカが不意に振り返る。後ろでモゾモゾと声が聞こえる。

『何だ、チェスタ……うん?あぁ、うん……はぁ。ルクス…さっさと働けってさ。』

顔だけ家の中に引っ込め直ぐに戻ったビスカは、恐らく草を編んだ床に横にでもなってるんだろうチェスタからの突っ慳貪な言伝を持って来てくれた。

言われなくても行くよ。俺は何でも屋の何でも担当だ。

そう言おうと思ったところで、もう一つの大事な相談と、其処まで大事でもない序での情報を思い出す。

『ビスカ。チェスタに聞きたいことが有るんだけど。』

『え…?』

遂にはビスカまで訝しそうに眉を顰める。こいつにまでこんな顔を向けられるのは傷付く。2人して俺のことを面倒事を持ち込む厄介な奴だと思ってやがるんだ。思えばこいつらに取ったら、俺はこの町に飛ばされた時からずっとそういう存在なのか。

『この医者探しが終わって、3日後は…何でも屋の仕事を早上がりさせてくれないか?』

『……はぁ?』

此処できっとチェスタならば、ムッと口を一文字に結ぶかギュッと眉を寄せるかして、不快感を見せ付けて来るんだろう。ビスカはそんなわざとらしいことはしない代わりに、やっぱりと言う代わりに、溜息を吐く代わりに…ゆっくりと一つ、瞬きをした。

『何でだよ…この件が終わったって、低層階の奴らの依頼は変わらず続くんだぞ。』

ビスカは諭すように言うけど、俺はこいつらが大方許してくれるって何となく分かってたんだ。

『プリマと第12階層に行くんだ。』

『は…!?』

ビスカは虚を突かれたと言ったように目を見張る。まさか唐突にプリマの名が飛び出すとは思わなかった筈だ。しかもプリマが、シブリーが有るのにわざわざ食事処になんて…とか。

『混み出す前に出掛けたいから、何でも屋の仕事は早めに切り上げて、修理屋の仕事を手伝って終わらせて、それから行きたいんだ。プリマは人混みに慣れてないだろうし、気を遣うだろうから。』

昨夜プリマと話して、この仕事が落ち着いたらダンダリアンの酒場へ一緒に赴く約束を取り付けた。つまり、あと3日後だ。プリマは1人では日が落ちる前に修理屋の仕事を終わらせられるか自信が無いと言ってた。ならば手に負えない仕事を助けるのも、何でも屋の仕事だ。

『プリマが12階層に……マジで?あ、待ってろ…おいチェスタ……!』

ビスカは今度は身体ごと奥へ引っ込んで、恐らくまたチェスタの御意見を伺ってる。暫く置き去りにされて、ほんの数十秒の後

『ルクス、お前は本当にずるいってさ。』

許してくれるとは踏んでたけど、そこまで言われるとは流石に思わなかったぞ。しかも……

『俺もちょっとそう思うぞ…。』

ビスカまでこんなこと言って、呆れたように目を細めながら、口元はへの字に曲げて本当に呆れてる。

こいつらは、プリマに甘い。

未だ共に過ごした時間は短いけど、そうだろう。恐らく皆が……プリマの幸福を願ってる。

『……だから俺たちもプリマに美味い飯を食べて欲しいけど、仕事次第だから返事はもうちょっと待ってくれってさ。こんなもんで良いか?そろそろ上に行った方が良いんじゃないか?』

言われてみれば、穏やかに確実に太陽の熱の威力を感じられるようになってきた。朝っぱらから筋肉痛だの眠れないだの言いに来るとは思えないが、大体の人間はもう仕事を始める頃だろう。

『あぁ、じゃあ……あ。』

一歩踏み出そうと身を返しながら、自分の口から間抜けな声が飛び出す。

『…まだあるのか?』

ビスカはもう呆れ果ててさっさと奥に戻ろうとした筈なのに、惰性に預けた扉を再び押さえ付けもう一度俺を見下ろしてくれた。

言い忘れてた。と言うより只、序でに聞いておいたことの伝言だ。

『チェスタに言っといてくれ。ダンダリアンはチェスタもビスカも、多分カストルも、いつでも来て良いってさ。俺の友達だから、追い返さないって。』

『は…?』

言いながら不本意な事態に気付いた。ダンダリアンはチェスタ達のことを俺の友だと思ってやがる。まるで俺達が心を許し合ってるみたいじゃないか。

『ビエッタがビスカに会うのを楽しみにしてたぞ。じゃ、また。』

咄嗟に許し難くて、吐き捨て様に立ち去ってしまった。

『…何だそれ!』

ビスカはいつもチェスタに揶揄われた時に上げる当惑したような声をしてたから、きっと丁度うんざりした筈だ。そのまま解放してやる。

ほんの少し玄関先で立ち話をしただけなのに、振り返って見たら家を出た時には静まってた町に、燥ぐ子供達や仕事道具を携える大人がのんびり歩いてる。油断をすれば直ぐに、一日は始まってる。

俺も15階へ行って、仕事を始めなきゃ。

今の俺の仕事は、医者だ。

医者の仕事のことを考えたら、一瞬だけ昨日の何かの感覚が思い起こされて大変な憂鬱に見舞われた。

でもやらなくちゃ…出来ることは、やるさ。

雨雲は完全に消え去り、今日はすっかり晴れて眩しい。朝からビスカの時間を奪って悪かったが、今から洗濯を始めても十分過ぎる程良く乾くと思う。

今日と言う日に、何が起こるかは未だ分かんないけど…きっと何かは起こって、出来ることをやって、文句を言われたり感謝されたりして。きっとそうやって、今日も何かを思い出せる筈だから。

勘違いするなよ。仕事なんて誰かの為にする物じゃない。自分が得をする為に…報酬を得る為にする物なんだ。報われる苦労以上のことをするもんか。

何度でも言う。皆が皆の為に……そんなことを宣ってやがるから、この町はキリが無くて、危機感が無くて、頭がおかしいんだ。


どの仕事だって大体同じ気分なんだと思う。午前中ってのんびりだ。

日が昇り切らなくて光は柔らかく気温も穏やか。何より始まったばかりで気持ちの余裕が違う。急かされること無く、じっくり事に当たれるんだ。

『見て下さいよ…!だから、かっゆいから掻いたらぼろぼろぼろぼろ粉を吹いて肌が白くなって…病気でしょ!これ!』

だからこんなどうでも良い話が目の前に来たって、冷静に諭してやることが出来る。

『どう考えたって乾燥してるんだろ。水分が足りないから肌が粉になるんだ。』

言ってる間にも、目の前の男…第13階層の計算屋リンスはぼりぼりと腕や首を掻き毟り落ち着きがまるで無い。少し向きがズレると分かるが、顔は眼鏡に沿って薄く日焼けをしてる。知らないけど計算屋って、家の中で集中してやる仕事なんじゃないのか?

『えっ…?何でそんな話になるんですか?皆と同じ空気の中で暮らしてるって言うのに、何故僕の周りだけ乾燥するの?』

しかもリンスは理解が悪い。知らないけど計算屋って、賢い奴がやる仕事なんじゃないのか…?

『いや、空気じゃなくてお前の身体が乾燥してるんだよ。栄養でも摂って、あとは…身体に油でも塗っておけ!』

『ええっ!油…!?』

この町の奴らって、自分の身体の仕組みのことを知らな過ぎるんじゃないか?コップに入れた水だって放って置いたらいつか無くなるんだから、肌の水分だって何もしなきゃ蒸発する。肌には油が有るからそれを防ぐんだ。だから肌が乾燥するなら内側から栄養を摂って、外側から油で蓋をする…知らなくても何となく想像が付くだろ?

『油って言っても、薄く塗れば良いんだ。塗った後、軽く拭いても良いから。風呂上がりに塗って、痒くなったらまた塗れ。試すくらい良いだろ?』

『へぇ…気持ち悪……仕方無い。11階の油屋まで行って分けてもらうか…。』

リンスは心底嫌そうに立ち上がり、扉の軋みは小さな溜息と重なる。別に良いけど、礼を言うことを忘れてはないか。

『…駄目だったら、また来ますからね。』

リンスのジトリとした眼差しは勢い良く引かれた扉に遮られ、ギッ!バタン!と耳障りな音が嫌な挨拶代わりに耳に残った。

午前中とは言っても、程無く終わりを迎えるだろう。此処に来るのに少しだけ遅くなってしまったし、もうこれで3人もの患者を見送った…やっぱり、人々が医者を求める頻度は確実に増えてる。

しかも痛いとか苦しいとか、病気とか怪我みたいな…医者って言われたら真っ先に思い浮かべるような深刻な相談事じゃなくて、今のリンスみたいな、どうでも良い話ばっかりだ。そりゃあ身体が痒いなんて気になって困るだろうけど、別に死ぬ訳じゃないし何が原因かも自分を振り返れば分かるんじゃないか?

他の2人も、朝起きたら首を寝違えてた奴と、最近やたらと抜け毛が酷い奴。

寝違えなんて一日我慢すればすっかり無くなってそれ以上何も起こらないのに、14階の農家ピリンは『今までもそうだったけど、これからもそうとは限らないし、折角医者が居るなら診て貰った方が安心じゃないか。』とか訳の分かんないことを抜かして煤け色の扉の前に立って俺の出勤を待ち伏せしてやがった。

抜け毛なんて…弥々どうしようも無いじゃないか。只の老化だ。ボケと同じだ。『未だ33才なのにこんなに抜けるなんておかしいだろ!』とか言って自分の毛を鷲掴んで見せてくれて、確かに有り得ない量の毛が拳の中に捕まってたけど…33才なんてもう良い年だし、老化が始まってて当然なんじゃないか?しかもこの男、11階の肉屋であるイストリの何がムカつくって……

『11階のモネミは12階の患者を診るのに忙しいから、気軽に話せそうな医者を探してたんだよ!』

だって…。

リンスもピリンもイストリも…否、昨日のスマスやパックだって、本当に医者が必要な奴だって言えるのかよ?これじゃまるで…ユトピが、ロラサンが言うことに一理有るみたいだ。

俺はこの3日間医者の振りをしながらも、殆ど…話を聞いて、少し答えてるだけだ。

癪だ。納得が行かない……患者に依って笑顔で帰る奴、渋々言うことを聞く奴…その結末の一つひとつが、まるで俺のことを医者だと認め出してるみたいで釈然としない。俺は病気や怪我を治した訳じゃない。魔法を使った訳じゃないのに。

苦しみから人を救うことが医者の仕事なのかと思ってたのに、俺は別に救わなくても結果が変わらない奴らの話を聞いて返事を返しただけなんだ。

『はぁー……。』

大きく一つ溜息を吐いてみたら、何処からか物寂しさが湧いて来た。やはりもう昼に違い無い。

朝の道程に立ち寄った第7階層のドルードの所で貰った弁当に手を掛ける。ドルードの弁当は2回しか食べたことが無い。少し遠いし、プリマはシブリーしか食べないし、チェスタもビスカも結局皆シブリーが大好きだから。でもドルードが悪い訳では決して無くて、こっちはこっちの良さが有る。シブリーよりも凝った、複雑で濃い味付けをしてるんだ。だから久しぶりでちょっと楽しみだ。

剥き出しのまま渡された箱の、蓋を開けようとしたら

『コンコン!』

耳を疑った。ノックの音じゃない。ノックの声がする。ノックを真似した無邪気な声。扉が喋ったのかと思って咄嗟に寒気さえ過ってしまう。

『コンコン!コンコンッ!』

返事を求めてるのか、只々向こうからは狐のような鳴き声が投げ掛けられるのみ……狐って何だったか。確か、獣。

『…入って良いよ。』

そう言うと

『…おっせーよっ!』

子供のような無邪気な所業から一転、乱暴に吐き捨てられた随分な挨拶を通しながら扉は開く。雑な開扉に蝶番は太く短い悲鳴を上げる。

大きな影は女だった。キラキラ光る薄桃色の髪がやたら眩しくて派手に見えるけど、逆光をよく見ると顔は少し老けてる気がする。俺が知ってる女の中で一番年が近いのは、多分第1階層の材木屋のイズリンガルだな。プラツェよりは下だし、レストラなんかよりは比べるまでも無く上だ。

『はぁああ〜……おぇっ。あ、アンタが医者ァあ…?信じらんな…おぇっ!』

下品な女だ。真っ先にそう思った。喧嘩腰の言葉に、食って掛かるような顔付きに、汚い仕草で小さな部屋に雪崩れ込んで来る……苦しそうだけど、不思議と余り可哀想ではない。

そんなことより恐ろしい。こいつ、何回も嘔吐いて…もしかして、吐きそうなんじゃないか?こんな狭い部屋で、医療行為をするかも知れない部屋で吐かれたら堪ったもんじゃない…!

『おい、やっぱり外に出よう。』

『なっ…いだっ!なんでヨォオオ〜!入って良いってオエッ!うぅう……この床冷たくて、きもちイのにィイ〜………お、お、え……!』

女はビクッと身震いして頭を押さえた後、ゆっくりと手のひらを滑らせ口元に運ぶ。俺は…

『馬鹿……やめろっ!!』

余りの恐怖に、女の足に引っ掛かって半開きだった扉を掴むと、同時に跪く女の頭に足を掛けて

思いっ切り、外へ蹴り飛ばした。

女の頭はボールみたいに日差しの中へ飛び込む。頭がボールなんだから、体は放物線に沿って付いて行く。

その上に虹が掛かる。輝く吐瀉物。

煤けた扉と赤い階段の間に倒れる人間と汚物。最悪だ。否、最悪の事態は回避したか…?

記憶を失ってから初めて、嘔吐を見た。そうか、生物は苦しむと嘔吐をする物だ。これは生体の防衛システム。異物を排除する為に、無くては成らない…

だから、恐ろしい。嘔吐とは異常事態のサイレンだ。

嘔吐が表れるということは、もう戦争は始まってるんだ。異物との戦争が。一度異物を受け入れてしまったら、制圧するか追い出すかしか生き残る道は無い。だから俺は、異物を恐れ、避けて生きてきた。

…異物って、何のことだ?

『ぐァああああ〜っ!』

女が目を覚ました。良く良く見たら、汚物と言っても大したことは無い。中身は無くほぼ液体で、同じ線を描いて飛んで来た女の身体に綺麗に掛かってる。白いシャツは例えようの無い汚い色に染まってる。

『くっせぇ!何すンだョおォ…!アタシゃ患者様だっつの…っぐ!』

肘を突き、苦しそうにやっと半分だけ上体を起こす女。しかし嘔吐きは治ってるみたいだ。やはり異物を追い出せば、一先ず戦争は終わる。でも、この女の異物とは何だ?液体か…?

『何すんだはお前の方だろ…吐きそうな奴がいきなり狭い部屋に入ってくるな!お前、何を診て欲しくて来たんだよ…?』

チッ!

と、女は豪快な舌打ちで勢いを付けながら起き上がった。そして汚いシャツで汚い顔をゴシゴシ拭いて、臭い顔をこちらに向ける。やっぱり、決して若くはない。女らしくもなくて、美しくもない。でも真っ直ぐ力強い眼差しが有無を言わせないから、油断するとこれが格好良いような気がしてきてしまう…臭くて汚いけど。

『何って、見りゃ〜分かンでしょ?二日酔いだよ二日酔い…まさか、酒も飲めない程のクソガキが医者やってるってワケぇ?』

何とも横柄な態度だ。吐瀉物を浴びて道に倒れる女が、何を根拠に此処まで偉そうに振る舞えるのか。

二日酔いって何だ?酒と関係が有るのか?酔いって、酔うって、確か……

『……まさか、ホントに分からんとか?』

何も言えずに呆ける俺に、女の顔が引き攣った。どうやら二日酔いとは、医者なら治せて当たり前の歴とした病らしい……本当か?どうせ今までの奴らみたいに、一人でもどうとでもなるような下らない相談を持ち込んで来たんじゃないのか?

『はぁ〜……もォいいわァ〜、薬よこせよ!いつもロラサンがくれた薬…ホラッ!』

『は……ひっ!』

女の手がこちらに伸びて…臭い!

酸っぱくて、眩暈がして…不潔さとかは最早どうでも良い。反射的に避けてしまった。女が再び小さな診療所に進入する。まずい。

『おい!入るなってば』

『るっさいな!…あ、あったあった!おい、その箱寄越しな!』

『は…?』

女は俺がドルードの弁当箱の傍らに仲良く並べてた、ロラサンの細やかな道具箱を指差した。そう言えば…下の段には、正体不明の薬達が詰め込まれてた。

『…持って来るから、此処からは出てってくれ。』

チッ!と湿った音が響いて、女は身を引き、俺は恐る恐る箱を手繰り寄せる。女はその…二日酔いの、薬の正体を知ってるのか?もし一つでもあの薬達の正体が分かるのならば、話を聞いてやるのも悪くないかも知れない。

『早く寄越しな!下の段の、玉みたいな薬だよ。きったない色の…』

『おい…勝手に触るなよ!』

戻るや否や、女は道具箱を引ったくり、上段を外して手慣れたように小さな袋達を漁り出す。図々しい。紛う事無き強盗だ。

『コレじゃない…コレでもない。』

『おい、お前は本当にロラサンにその薬を貰ったことが有って、知ってるんだよな?』

『だからそう言ってるだろ……イッタ!…アンタ本当にロラサンの代わりなのかい?子供だし、何も知らなそうだし…チッ!』

女は度々頭を押さえて顔を苦痛に歪めてる。刺すような頭痛も、二日酔いの症状の一つなのかも知れない。

『代わりでは在るけど、知らないことの方が多い……でも話を聞きながら何とかしてはこられたんだ。だから二日酔いのことも、ちゃんと話を聞かせてくれたら考えるから…』

言いながら、迂闊に話を聞くという言葉を使ってしまったことに気付いてまた悔しい。

やっぱり医者は、話を聞かないことには始まらないんだ…それは分かる。でも、話を聞くことが目的では無い。治療という目的の為に、話を聞く筈なんだ。なのにユトピは……

『あっ、めっけ!』

急に女の声が弾んで手元に注目すると、小袋から赤茶色の菓子みたいな丸薬を手のひらに広げて嬉々としてる。あれが二日酔いの薬…本当に合ってるのか?しかも豪快に全部ばら撒いて…少し地面に溢れてるし

『助かった〜。』

ぱくっと、纏めて笑顔で口に放り込んだ。

こいつは何処まで雑で勝手で向こう見ずに振る舞えば気が済むんだ?

『おいっ、水は…!』

粒は小さい。例えるなら服を装飾するビーズ玉くらいの…でも2、30粒一気に口に運んで、無事に飲み下せるのか?用量も、合ってるのか?たかだか二日酔いにその量は、多くはないか?

『ん…んぐっ……んごっ!げっ、ぐぐっ…!』

案の定ビクッと顔色を切り替え、悶え始める。お互いに、去ったばかりのトラウマが蘇ってる筈だ。また、吐くぞ。

この辺では何処で水が汲めるんだ?3日も来ておいて、そんなことも確認してなかった。上層階には井戸が無い。各所に水屋が在る筈だ。ポロップみたいな水を作る水屋じゃなくて、其処から水を貰って各家庭に配る水屋が。ロラサンが此処を選んで診療所を構えたなら、そう遠くない場所に在る筈……

『……ぐヴォッ!!』

『ひっ…!』

やっぱり駄目だ、手遅れだ!嘔吐の際の声って、化け物みたいだ。人間じゃない。どんなに信頼してた奴だって、何か汚い物を吐きながら一瞬で化け物に変わって…吐いて、憑き物が落ち元に戻って優しく謝られたり感謝されたりしたところで、もう付いて行けない。

『………ごっくん!』

は……?

女の口の中は戻って来た何かで満たされて、頬は膨らみ一杯になった……それをそのまま、飲み下した。

今は無表情。石像のように、固く、なのに虚に時が止まってから……

『はぁ〜……スッキリ。さんきゅー。』

憑き物が落ちて、穏やかに綻ぶ。

そのまま散らかした箱の中身を片付け出す。嫌に丁寧に、薬の袋をサイズ毎に揃えて、鼻歌まで刻みながら。何だこいつ…?

気持ち悪い……!

何故だ?俺は毒も異物も何も口にしてない。弁当すら手を付ける前だったんだ。なのに…吐きそうだ!

この一連の様子を見て…胸の奥の何かが呼び起こされる…!

『うっし。じゃあ行くね。』

女の細長い指先は直ぐに箱を片付け終えた。散らかる前よりも綺麗に詰めて、蓋を閉め、扉の前に置いて。

『否、待てよ!本当に大丈夫なのかよ?さっきまであんなに苦しそうだったし…今の薬も本当に合ってるのか?』

俺が口を挟んでも、女は先程のように顔を歪めたり睨みを飛ばしたりはせず、きょとんと、無感情に見直る。

『合ってるよ。何回も貰ってたし、間違い無い。コレ飲んだらすぐ良くなるから……っ痛!…頭痛はあんま良くなんないんだけどさ…吐き気さえ治れば、仕事は出来るからね。』

さっきまでの騒ぎぶりとは別人みたいに淡々と語りやがって。立ち上がって、尻に付いた砂を払って、俺よりでかいその女は最後になってこう締めた。

『アタシは第16階層の酒呑み、グレコ。またよろしく、ドクター。』

のたりと身を翻し、来た方の道へ帰る。ブーツの底がやけに分厚くて、パコパコと音が鳴る。その音が何だか間抜けで…何故だか格好良い。臭くて汚い筈なのに。

嵐みたいだ。こういうのを、何て言うんだったか?こんな遣り口が、戦争に存在した筈だ。何の宣言も無く無慈悲にやって来て、蹂躙して、全てをぶち壊すような戦い方。

改めて周りを確認してみる。散らかされた薬箱はグレコ本人がきっちり残さず収めてくれてる。吐瀉された雫も殆ど、グレコの身体の上からは溢れなかったみたいだ。冷静に見渡してみたら、何もすることなど思い付かない程に、状況は変わってない。

だからこそ思う。この時間は何だったんだ…?

俺は何をしてたんだ…?否、何もしてない。あいつは本当に医者が必要な患者だったのか…?確かに、酷く苦しそうだったけど……

二日酔いって何なのか、聞いたことが有るような無いような…『酔う』って多分、酒に酔うことだ。

思い出した。酒って酔う物だ。酔うとどうなるのか…酔ったことが無いから分かんない。でも、焼き付いた印象として覚えてる。

酒を飲んだら、強くなれる。

きっと、酒を飲んで強くなった奴を何人も見てきたんだ。

…でも、酒を飲みたいと思ったことは一度も無かった。何故だろうか。強くなれた方が、良いに決まってるのに。

それにしても二日酔いって意味が分かんないな。一回飲んだら、2日続けて酔うことが出来るのか?それって得してるんじゃないか?何が病気なんだ…?察するにあの嘔吐や頭痛が二日酔いの症状なんだろうけど、あれが酒と何の関係が有るんだ?関係有るなら、まるで…毒みたいじゃないか。毒だから、戦争が始まる。

…まぁ、どんな食べ物だって食べ過ぎたら吐くし、其処までおかしなことでも無いか。二日酔いって、どれくらい飲んだらああなるんだろうか…?

ギィイイ…。

嫌な音だ。疲れた後はより一層切なく耳に残る気がする、蝶番の泣き声。

小さな道具箱を元の場所に戻そうとして、其処で待つもう一つの小さな箱を思い出した……でも悪いけどもう、お前に向き合うには暫く時間が必要そうだ。

楽しみにしてた筈なのに…ドルードの弁当。

今、思い浮かべようとすると…胸が焼けそうだ。

医者ならばこの程度の混乱も茶飯事なんだろうか?医者として過ごし続ければ、何とも感じなくなるのだろうか?

だとしたら、やっぱり医者は医者がやるべきだ。

人が人を救う為には、不潔さも醜さも不条理も直視出来なければ始まらないのだろう。


『ありがっとぉさん!まったねぇ〜。』

『ばいばぁい!』

セウスがフリウスの手を引き立ち上がる。フリウスも引っ張られて立ち上がり、2人で夕空に駆け出す。こっちの目も見ずに、自分たちの目的が達せた瞬間に早々と…。

今日はフリウスが転んで肘を擦りむいた。こいつらはこんな海も森も無い中途半端な階層で歩き回って、何をしてるんだろうか?探検とか言ってたけど…あいつらに聞いたら実はミズルの居場所を知ってるとか脱出方法を見つけたとか、そんなことが有れば良いのに。

午前中は散々だったけど、午後は其処まで人は続かなくて…それでも、黒髪兄弟を入れて3組。鼻から血が出た第13階層の研師マークン、第17階層の馬鹿な伝達屋ナナツ。

鼻から血が出る理由なんて、大体大したこと無い筈で、程無く収まる筈だ。マークンの奴はその場でじっとしてれば良いものを血を見て慌てて、しかも11階のモネミの所へ行こうと階段を降りようとしたら下を向いて血が溢れると思ったから、上を向いて15階までやって来たらしい。上を向いて血が喉に流れ込む方が良くないと思うけど。

二つも階段を上ってやって来て、やることなんて取り乱すマークンを宥めながら小鼻を押さえて止血するだけだったんだ。一人でも済んだことなのに…結局俺が居て変わったことなんて、少し言葉を掛けてやっただけ。

ナナツなんて、ユトピの婆さんよりも酷い。人に連絡を伝えに行くことが仕事の伝達屋なのに、最近移動の間に伝達の内容や誰に伝えに行くのかを忘れてしまうことが偶に有ると言う。こんなの只の馬鹿じゃないか。

不思議な表現をしてた。『まるで一度死んで、生まれ変わったかのようで。記憶が抜け落ちたのではなくて、私はその時間生きていなかったの。』とか何とか。

俺に言えたことは一つだけだ。『メモを取れ』って。忘れたくないことは何もかも、全て遺す準備をしてから死ねって。

『ルクス。』

窓の表情を見れば外は未だ明るい世界に踏み止まってるって察しが付く。でもゴードルンが扉を開放すると黒い影の後ろには鮮やかな夕焼けが佇んでて、そろそろその世界もお終いだって教えてくれるんだ。

『お疲れさん。今日もありがとうな…其処で、セウスとフリウスに会ったよ。すっかり医者も板に付いてきているじゃないか。』

『やめてくれよ…。』

冗談なのか本気が混じってるのか、測り切れない冗談だ。少し思ってた。もしも俺に医者の素質が有れば、何でも屋を辞めて第15階層で医者になれば全てが丸く収まるのかなって。医者の不在は解消されて、チェスタとビスカの邪魔をすることも無くなって……無理なことは、出来ないけど。こんなふざけた腕の奴が、ひとつも記憶の無い奴が、医者として暮らして行ける訳が無いし、どうせ俺は何れこの町から抜け出す。

『俺は今日も見回りをして…時間を作って第20階層に少し行ってみたんだがな……やはり新たな医者など余ってはいないみたいだ。もはや未経験でも良いとも言ってみたんだがな……ルクスだって、こんなに立派にやってくれているのだから。しかし人が多く職もより自由な20階層以上だと、わざわざ下層へ下りて医者などという大変な仕事に身を投じようとは…少し呼び掛けたくらいでは、そんな気はとても起こらんな。まあ、上階の連中と危機を共有することが出来ただけでも、本日の成果だ。』

自由って、薄情なんだな……そりゃやらなくて済むなら、自身の豊かな暮らしが確保されてるならば、こんな無理と文句だらけの仕事の為に家を移るなんて、只階段を降りるだけなんだとしてもそうそう御免被りたい。

第20階層とは、どんな場所なんだろうか。言うなればこの町は同じ建物で、第1階層から第16階層までだって、街並みは徐々に変わっても文化の違いなんて殆ど無かった。でもこれまでのゴードルンの話の端々からは、まるで第20階層を境目に街も人々もすっかり先進的で自由と活気に支配されてるんじゃないかって…多分、期待をし過ぎてる。今まで俺が見て来た生気の無い町とは、一味も二味も違うんじゃないかって。

『…明日はチェスタとビスカも上って来て、上の階を回るって言ってた。』

5日の内の4日目…明日は勝負だ。明日糸口が見つからなかったら…明後日は、その後はどうするんだろう?只不毛に5日間延命の振りをしただけで終わってしまうんだろうか?

『ビスカ…?』

ゴードルンが首を傾げる。そういえばゴードルンはビスカに会ったことが無ければ、俺達にどんな仲間が居るかって話もしたことが無かった気がする。

『ビスカはチェスタの……俺達の、仲間だ。』

チェスタの恋人、と言おうとして何となく止めてみた。今朝のビスカの呆れた顔が過ったら、何故だか言わない方が良い予感がしたんだ。何故だろうか。

『…そうか。ではビスカもきっと心優しい、気の良いやつなんだろうな。明日、挨拶をさせてくれ。』

『あぁ…。』

今日は昨日よりも少し早い。栄華を極める真っ赤な夕焼けに覗かれながら赤い階段を降りて…細長い家の前で、ゴードルンと別れた。

夜に向かって流れる空気は冷たくて、いつだって爽やかだ。焼き付けられた心の傷はようやく薄れてきた。あの汚さと臭さと恐ろしさが醒めて、腹が減った。

毎朝毎晩階段を上って下りて、怠くて仕方無い。寄りもしないのに夕時の第12階層を過ぎるのは少し気が重い。人混みに足を取られて面倒だし、浮かれる人々が何だか妬ましいから。

でも今日は弁当だ。4階まで下りて、少しだけ回り道をして、育て屋兼弁当屋。

『シブリー。』

扉を開けると靄々と芳しい蒸気の直撃を受けて、顔がしっとりと濡れる。この香りは肉だ。蒸した鳥の肉だな。

『ルクス…少し早いな。今出来上がる所だ。今日は2つか?3つか?』

『プリマは、来たか?』

丁度鍋の蓋を持ち上げてたシブリーは、俺がそう聞くと察したように足下から弁当箱を2つ取り出した。シブリーは冷静で頭が切れて、相手がどうして欲しいかを察しながら、常に必要最低限で動く。

『まだ来てないよ。出来上がってないからな。』

確かに、未だ夕飯には少し早いかも知れない。出来立てのシブリーの弁当…惜しいな。

『じゃあ…今日はひとつ。』

『……は?』

丸くしたシブリーの目には、俺の片手に収まるドルードの弁当箱は悟られてなかったみたいだ。

きっとプリマの目にも奇妙に映ることだろう。家族が2人揃って別々の弁当を食べるなんてきっと変だ。別に良いけど。

一緒に居るのに別の物を食べるのは、自分だけ冷たい料理を食べるのは、何処か寂しいことのような気がするけど…誰かと一緒に食事が出来るのに、そんな気になるのは贅沢だ。

一人でした食事の記憶は思い出せない。無いことは無い気はする。でもだから……一人は怖い、そんな気がするんだ。

気がするだけだ。でも、孤独は闇に似てる。漠然と、静かな恐ろしさが横たわってるんだ。

だから今日も俺は、二つの弁当箱を抱えて帰る。約束した訳でも無いのに、プリマが待ってくれてるって勝手に期待して、縋ってるんだ。

…爺さんが死んでから、俺が来るまでずっと一人でシブリーを食べ続けてたプリマは、どう思ってるんだろうか。


『君がビスカだな。ルクスから名前は聞いているよ。来てくれてありがとう。今日はよろしくな。』

『ああ、お前がゴードルンだな。こっちこそよろしく。力になれるように、頑張るよ。』

ビスカとゴードルンは気が合いそうだ。合いそうだから、話は弾まなそうだ。お互い真面だから、言いたいことが無さそうだ。

『よし…脚はとりあえず回復してはいるー……行くか、ビスカー。』

『あぁ…。』

今日は朝早くから、細長い家の前に集合して打ち合わせ。チェスタとビスカはこれから上階へ…第21階層よりも上へ行って医者を探す。ゴードルンは先ずはいつも通りに13階から19階の見回りをして、時間が余れば昨日のように上の階へ…まぁ、ゴードルンについては時間が少なくて余り期待は出来ないだろうが。

俺も昨日と同じで、診療所で医者ごっこだ。歩き回れないから、一番やきもきする立場だ。でも歩き回って成果が表れる期待は薄そうだし、どちらがマシかはどうとも言えないな…。

『よろしく二人とも。ルクスも、また後でな。』

ゴードルンは家の中に戻って行った。きっと胸にマミムの皮の鎧を着けてから、また出掛けるんだと思う。

俺も赤い階段に向かう。上り切った先に在る細やかな神々しさにももう慣れた。耳を引き裂くような軋みにも。

敷物を越えて小さな道具箱の隣に座る。早く出たから、患者が来るのはもう少し後だろうと思う。でもきっと、今日も医者を求める奴は来る。

明日が終わった後そいつらは、未だ見ぬそいつらはどうなるんだろうか。目を閉じながら昨日までのことをゆっくり思い出すと、そんなの知ったことかと思うけれども…

血に狼狽え、苦しみに呻き、事態に焦燥して他人に助けを乞うなんて愚かなんだ。自分のことは、自分にしか救うことが出来ないんだから。

でもそんなのは寂しくて貧しい考え方だって、頭の何処かに閉じ込められたもう一人の自分が訴えてるような気もする。昔誰かにそう教えて貰ったじゃないかって、悲しそうに見守られてるような気が。

だからせめて、言われた通りまではやるよ。文句を言われても、不毛でも、何かが間違ってても……お前に、言われた通りまでは。

膝に顔を埋めて、決意を確かめたら…まるでそれを待ってたかのように扉が鳴いて、溢れた眩しさに当てられて身体が疎に温められる。

……お前って誰だ?

分かんないけど、今は良いや。今は目の前の影が、俺の相手だ。

もう二度とお前からの慈愛を受けることの無いように、俺は顔を上げる。


決意を確かめたら、視界が晴れてきた。決意は道標だ。迷ったら、嫌になったら決意を新たにして、見えた道を進めば良いだけ。

『ぷぁっしゅん!』

第18階層で壊し屋を営む女、イリーガル。大人だけど、どちらかと言えば若いと思う。声を聞いて何となくそう感じるってだけで、後は測りようが無い。ちっとも顔が見られないからだ。

『ぶぁ……ひゅっ!はぁあ〜…かゆっ!とにかく熱は無いんだひゅよ…!喉もヘーキで、ただただ鼻が…ぽぎゅっひょん!』

これって、くしゃみなのか?大胆で斬新で…まるで芸術みたいだ。くしゃみが止まらなくてどうしようも無いから、飛沫が飛ばないように両袖で顔を覆い、決してその表情は窺えない。

訪れるや否や豪快なくしゃみの乱打で話が全然進まないけど、話さなくても異常は伝わる。これじゃとても生活はままならない。

どうやら風邪ではないらしい。痒いと言うのも変だ。こんな症状には今まで出会ったことが無いんじゃないか?

『何か心当たりは無いのか?いつから始まったとか…。』

『んズズ…いつから…?そん……ぶぇっし!ぞんなこと言っても…いつの間にかでふぁぶっ!はぁあ……いや、まさかね……はっしゅっ!』

油断して上がり掛けた顔も、直ぐにビクリと震えてまた引っ込む。

『何か有るんだな…?』

『何かって…ひゅっ!程じゃ…ただ……ざいっきんっびゅっ!困ってるの!迷いマミムを拾って…一緒に、暮らじてるのよ…ひっし!』

迷いマミム?迷うって…迷子ってことか?牧場か何処かから逸れて来たのか?

『ほんの4日前のことで…っぺし!第18階そ…ぽっへい!にはマミム屋なんて…ぶひょ!…居ないし、どこから…来たのか…全然…っばしっ!わっかんなくて。これがまだ子供でどっでもかわ……っぱは!』

くしゃみが小刻みになってきてる。これはこれで聞き辛い。イリーガルは伏せた顔が沈み過ぎて最早蹲るような状態になってる。土下座しながら笑いを堪えてるみたいだ。

こんなの絶対、そのマミムが原因じゃないか。動物って汚そうだし…マミムは毛が長いから、それが空気中に舞ってるんじゃないか?それが鼻に入ったりとかして。

『そのマミム、どうするんだ?』

『ふぁ?どーするって、どこ……どっびょえぇいっ!…どこかテキトーなぼくっ…………牧場に預けちゃっても、良いんだけどね…ばっしゃああああいっ!……でも、ずごく可愛ぐって、もうちょっと一緒に居たいなとか…かかか………かひゃっはぁああ!』

大した能天気だ…こいつも今までの奴らと同じなんだ。同情し掛けた心が一気に失せてきた。どいつもこいつも自分の身体のことを理解もしてなけりゃ、何処か他人事のような呑気さも有る。その癖医者に対しては『どうにかしろ』と煩かったりして。

外の世界でもこんな感じだったのか?俺は、医者に掛かったことが有ったのだろうか?覚えてないけど…有るのかも知れない。何だか医者って年寄りで、偉そうで、何を言っても大して取り合ってくれないような…そんなイメージが勝手に浮かんで来るんだ。

『そのマミムをさっさと牧場に渡しちまえよ。もしくは…家の中には上げないで、外で飼うんだ。同じ部屋に居るから毛が落ちたりして部屋が汚くなるんだ。』

『ぞんなっふぁっはっ!まだ子供なのよ!?外じゃ凍えちゃっ!しゅっしょっ!』

『…だったら塵が鼻に入らないようにマスクをして暮らすとか。』

『えぇ…息苦じぞぉ…っぷし!』

『すいまぜーん。』

建て付けの悪い扉の隙間から渇いた声が滑り込めば、ゴン、ゴン、と、少しだけ鈍い音がゆっくりと響く。

助かった。丁度、この女は埒が明かないって思い始めてた所だ。

『開げまーす…。』

『ぶぇっ?ちょっと待…ふぁっぎゅしょいしょいいっ!』

イリーガルは蹲ったまま真横に転がって、内開きの扉を既の所で回避した。入って来たのは、少しだけ髪の長い若い男。肩に掛かる程度の薄緑の髪。チェスタよりは年上な気がする。ルートリーまでは行かない。

『ありゃ…先客だ…げほっ。医者に、話を聞いて欲じーんだが…ごっほ!…ごほ。』

察したぞ。こいつは喉が悪いんだ。よく聞けば渇いたと言うよりはささくれた声で、口元を拳で隠しながら、がらがらと喉をあやしながら喋ってくる。

『ぢょっど…ズズズ!あだしが先に相談してて…ぶっきしゅっ!』

『じゃあ早ぐしてぐれ。俺も困ってんだよ。ん、ごほ…げっほ!』

何だか2人してずるずるがらがらと話して、くしゃみや咳で区切られて酷く耳障りだ。この男は風邪なのか?見たところ、怠そうな様子や熱そうな様子は無く、真っ直ぐ立ててるみたいだけど…。

『おい、お前はマミムとの暮らしを何とかしたら解決だよ。毛を吸わないように、別々に暮らすか防御をするしか無いと思うんだけど…。』

『何だ…何の話だ…?げほ、よいしょっ。』

男は図々しくも俺の正面…イリーガルが退いた場所にそのまま腰を下ろし、勝手に話に入って来る。狭苦しくも雑音響く冷たい部屋。今日もこの仕事は不愉快だ。

『マミみゅひゅっしゅっ!マミムよっ!…マミムぢゃんど一緒に…っぺし!暮らしたいんだけど毛が舞うからららっしゃいぃいいー!ズズ…はぁあ。』

『なんでぇ…ごっほぉ!げひ。そんなら服を着せろよ。』

服……?マミムに、服?毛塗れで、十分過ぎる程暖かそうなマミムに?

『毛が舞うなら、げほっ!布を被せてフタしちまえよ。サイズ測って、仕立て屋に頼めば…っがっは!げほ…良いじゃねーが。けほ。』

不思議だ。動物に服だなんて、今までそんなこと一度も考えたこと無かったけど…妙に説得力が有るな。確かに服を着せて体の大部分を覆えば、無闇に毛が舞い飛ぶことは格段に減らせそうだ。

『ず…ずすすひゅっしゅんんっ!素敵っ!マミムに服を着せるなんて、とっても可愛ぐないっ!?あなた素晴らじいこどを言うっ……ぱひゃひゃひゃっ!なにも…何者…?』

興奮に思わず起き上がり男に迫るが、また直ぐに波が来てその場に蹲るイリーガル。飛沫は全て男の肩に掛かる。一瞬だけ顔の全容が覗いたが、やっぱり若そうで、この男と同じくらいの年のような気がする。

『汚な…っごほ!俺はヴァリアン。第12階層でにぐをさばいげっふぉごほごほっ!おぇ…っ!ごめ…!』

今度はヴァリアンにピークがやって来て、イリーガルとは反対側へ倒れ込む。何なんだこいつらは。馬鹿みたいで投げ出したくなる光景だけど、イリーガルの方の悩みは解決か?

『…ヴァリアン、お前は喉が悪いから来たのか?熱は有るのか?』

二人の再起を待つのは面倒臭い。こうなれば纏めて片付けてやろう。風邪…しかも喉なら、一度診たしもう一度何とか出来そうだ。

『おごっ、ごほ……あ、あー…違うんだ、風邪じゃっ…ふぉ、なぐで………歌い過ぎだ。げふっ。』

『………はぁあ?』

ヴァリアンはゆっくりとまた起き上がる。何故か得意気にも見える。

掠れ声で…聞き間違えたか?歌って言ったか?ふざけてるのか…?

『俺ぁ、今はごんなだが歌うのが好ぎで…結構上手いんだぜぇっほ!昨日は珍しぐ早めに仕事が終わって、だから仕事場を掃除しながら歌ってだら…ごほ、こほっ!気分入ってぎぢゃってなぁ…喉が痛ぐで、違和感じか無いんだよ!げふっ!』

やっぱり『歌』って言ってるじゃないか!

歌で喉を酷使して駄目にしたってことか?イリーガル以上に下らな過ぎる。そんなの、今日一日大人しくしてやり過ごす以外どうしようも無い。と言うかこんなことになる前に、こんなことになるって想像くらい付くだろ!

『あの、肉屋のイストリが世話になったって聞いたがらざっはっほ!あー……些細なことでも、相談に乗ってぐれるって。』

最悪だ…イストリは無責任で、ヴァリアンは投げ遣りだ。つまり二人共後先や迷惑を考えない似た者同士だ。しかも抜け毛だの歌い過ぎだのでわざわざ階段を上って来て、こいつらは暇なのか?

『はぁあああ…。』

『…っぐしゅっ!』

『ごほ…げほ!』

嘆息と、くしゃみと、咳が重なって…その瞬間だけ、この部屋に言葉を介する人間は居なくなった。

やっぱりおかしい。医者と言う職業は常日頃から、こんな馬鹿らしい問題にばかり向き合わなくちゃならない物なのか?ロラサンも毎日こんな風に過ごしてたのか?こんな仕事、本当に必要なのか…?

俺には医者に掛かった記憶が無いから分かんない。医療とは何なのか。何の為に必要なのか。でも、うんざりして来たからそう感じるのか?明日が過ぎれば終わりを迎えるからそう感じるのか?

まるで、引き留められてるみたいだ。

どんなに些細な話でも、意味の無い話でも、途切れさせさえしなければ終わりは訪れないのだから。

次の医者が見つかるまでは行かないでくれって、この階層に引き留められてるみたいな、そんな感覚が今、急に降りて来て…。

じゃあ自分たちで何とかしようって気も起きないこいつらが、そんな回りくどいことをする筈が無いって分かってるんだけど。

『なぁ…あーあー。喉を良ぐするにはどうしたら良い?お医者さんよ。』

困ってるのは自分の癖に、ヴァリアンは何処か呑気な顔をしてる。呆れるを通り越して、最早憎めない。不思議だ。

『……蜂蜜でも食ってろ。』

『…げほっ。はちみつ?』

嗚呼…そうだ、この町に蜂は居ないんだ。蜂。それから、マミム以外の動物。不便な町だ。

虫。動物。医者。危機感。時の流れ。被害者の記憶…この町に足りない物の基準とは。

ミズルが俺達から奪い去ってゆく物の基準とは、何だ?


そうだ…食べ物は、そのまま置いたら腐ってゆくんだ。死体と同じなんだ。肉だって、植物だって、元は生き物だったんだから。

改めて恐ろしい。弁当だって腐るんだ。昨日のドルードの弁当が、一日経つ間に腐らなくて本当に良かった。グレコの所為で悪心を生じて後回しにした筈なのに、結局それを食べて食中毒を起こすだなんて笑えない。

と言うことに、先程来た患者…第14階層の茶葉屋、メイパティオが気付かせてくれた。大食いで弁当を食べることが何よりの趣味だけど、時間が無くて食べ切れなかった分を一晩置いて朝に食べたら腹を壊したって。

そう、腐った食べ物だって異物の一種だ。取り込んでしまったら制圧するか追い出すか。追い出す方法は、上から出すか下から出すかだ。

『にいさん、どうだい?結構いいカンジぃっかぁ?』

セウスが終わったから、恐怖を振り返って無事を実感する行為もお終いだ。今日はまたフリウスが、不注意で転んで額の真ん中を擦り剥いた……子供だからって、3日も連続でそんなヘマをする物か?こいつらも…俺のことを引き留めてはないか?

『…あぁ、良い感じだ。出来るじゃないか。』

だから今日は、自分たちでやらせてみた。そんなに転んでばかりならば、自分で包帯くらい巻けるようになれと。

『次からは家で、自分でやれよ。』

『えぇっ?うぅーっん…。』

何が引っ掛かるのか、セウスは少し拗ねてる。フリウスは傷口に当てたガーゼを無駄に気にして弄ってる。

『そっかぁー…にいさんと喋るのぉ、結構好きになってきてたんだけどっなぁ…。』

セウスが勿体無さそうに口を尖らせると、フリウスは屈託無さそうに満面の笑顔を発現する。

『あぁ!俺も好きだぞぉ!』

こいつらまでふざけるのか。こいつらまで、医者に『話しに』来てるって言うのか?

『……もう、大丈夫なら帰れよな。』

何かを誤魔化したくて、何かを言ってやりたかったけど、面倒でうんざりして諦めた。こいつらに…この町の住人達には、もう何を言っても無駄なような気がして。

『はぁーっい。行くぞぉ、フリウス。』

『うん、セウス…』

黒髪兄弟が立ち上がろうとした空気に、何となくはっとした。きっともうそんな時間で、昨日の景色が頭に浮かんだんだ。

『ルクス、どうだ……むっ!これは…セウスとフリウス!すまない!』

ゴードルンだ。その向こうの空は、もう薄朱い。

ゴードルンが開けた扉はフリウスの背中にごちんとゆっくり当たって、立ち掛けたフリウスは僅かに体勢を崩すけど、直ぐに振り返る。

この町は時計のようで、この町は絵本のようだ。この兄弟は毎日同じ時間に探検に出掛けて転んで帰り際に此処に寄って、ゴードルンは毎日同じ時間に見回りに出掛けて同じルートを回って終わったら此処に寄る。皆が同じ時間に起きて寝る、決まった時間割の中で…何度見ても、磔の景色。今日は偶々、そんな二つの景色が重なっただけ…。

『また来ていたのだな…ルクスが居て、良かったな。さあ、きっとピピが待っているぞ。気を付けて帰れよ。』

『うん!じゃっ、ありがっとぉにいさん〜。』

『またねぇ〜!』

ゴードルンは外側へ身を引き、二人の兄弟は朱い陽差しの中にひょいひょいと飛び出し、そのまま駆けて行った。

『またね』と来たもんだ。俺の医者ごっこは明日で終わりなのに…明日、今度はまたセウスがすっ転ぶ気か?

『お疲れ、ルクス。今日もありがとう…チェスタとビスカはまだ、か。』

ゴードルンは温かな微笑で兄弟を見送った後、扉を閉めて端に寄り腰を下ろした。チェスタとビスカはどうしてるんだろうか。2人が帰るのを待って、成果を共有しなくちゃならない。きっと皆して、大した物は持ち寄れないんだろうけど。

『ルクスは今日は…いや。この4日間、どうだった?』

狭くて冷たい部屋で二人きりは重たくて、だからって記憶も失くした俺達に話題なんてこれくらいしか無かった。でも……

『2人を待たなくて良いのか?』

『ああ…まあ、そうだな。すまない。これはただの世間話だ。医者を必要とする者の数が増えていないかと、少し心掛かりでな。』

そもそもゴードルンがそう言ってたんだ。ロラサンの死を境に、医者の手を借りたい者が少しずつ増えていってるんじゃないかって。元々がどれ程の頻度でやって来てたのか知らないが、片手で数えられる程度の人数の推移なんて、誤差の範囲じゃないか。どちらにしろ医者が見つからなけりゃ解決にはならないし、考えても仕方が無い話だ……と思いつつ、俺もかなり気になり始めてる。

『…今日は、くしゃみと声枯れ、食中毒。それから目が腫れた奴と、さっきの兄弟だけだ。昨日はもっと多かった。一昨日はそれより少し少なくて、今日と同じくらいか…。』

『そうか…そんなに…!』

ゴードルンは急に深刻そうに目を見張った。俺は基準を知らない。やっぱりこれって、異常事態なのか?

『ロラサンが生きて仕事をしていた頃は…一日に1人、来るか来ないかだったんだ。』

『は?』

そんなに少なかったのか?それが居なくなってまた新しい医者が来た途端に、毎日5人も6人も来るようになるもんなのか…?しかもあんな、どうでも良い用事ばかりで。

『だからロラサンは昔は、自ら町を歩き住民の声を聞き、様子が変わった者が居ないか確かめて回っていたのだ。病の芽に目を光らせ、育つ前に摘もうと…丁度ロラサンが年を取り、歩くのが億劫になった頃にこの俺が警備員を初めてな…それからは俺が見回りのついでに、不安な者をロラサンの元へ案内したりしていたよ。』

自分から、患者を探しに…ってことか?何故わざわざそんな、面倒に首を突っ込むようなことを?

見えたぞ。ロラサンがそうやって自ら進んで面倒事を探し回るようなことをしてたから、この辺の階層の奴らは医者に甘えてどうでも良いことまで差し当たり相談しに来るようになったんじゃないのか?否…それなら何故、ロラサンが死んだ途端に俺にばっかり言いに来るんだ?…辻褄は合わないが、きっとロラサンは悪い。ロラサンがそんな合点が行かないことをするから、ユトピにあんなことを言われたんだ。

『……ルクスは。』

『は…?』

声を掛けられて気付けば、ゴードルンは何処か気まずそうな…否、後ろめたそうか?そんな目を扉に透かして、誤魔化してる。そんな態度をされたら、打ち明けられる前から気分は下がる。

『ルクスは……このまま医者になる気は無いよなあ…?』

『は?』

ほら見たことか。碌な話じゃ無いと思った。

あれは未だ昨日のことか…俺が医者になれば全てが収まるのかって思ったけど、そう言えばあれもゴードルンに揶揄われたから至った考えだったんだ。やっぱり冗談じゃなかったんだな。

『この4日間、随分立派に医者を務めてくれていたみたいだからな…素人でも、手探りでも、医者さえ居れば…人々は笑顔で暮らせるはずなんだよ。』

あたかも平和の味方のような切ない顔をして、偉く勝手なことを言ってくれる。

俺の笑顔はどうなるんだよ。少なくとも俺の笑顔は、この町に落ち着いてこの町の人々の笑顔を守ることなんかじゃない。俺は、必ずこの町を脱出するんだ。

『……お前まで、引き留めるのかよ。』

『え…?』

思わず吐き捨ててゴードルンがきょとんと間抜けな顔になった所で、扉がゆっくりと開く。さっきよりも濃い朱が、眩しい光が、響く不快な金属音に招き入れられる。

『ルクスー…お、ゴードルンも居たか。待たせたなー…。』

チェスタは酷くくたびれてる。昨日顔を出さなくとも見せ付けた嫌味な態度も鳴りを潜める程に。

『はぁー…流石に一日歩き回って疲れたな。俺も座れる場所、有るか…?』

ビスカも大きな溜息を連れて来る。チェスタは何故か一度退室し、ビスカをゴードルンとは反対の端へ押し込めてから、自分が真ん中に収まって扉を閉めた。間違い無くこの人数が、この部屋の限界許容量だ。

『お疲れ、チェスタ、ビスカ。一日本当にありがとう。まずはぜひ休憩してくれ。』

ゴードルンは、チェスタとビスカにも何だか申し訳無さそうに微笑み掛けた。悪いと思うなら頼まなきゃ良いのにって思いながら、昔にも何処かでこんな遣る瀬無さを抱いたことが有った気がする。

『いやー…大丈夫だ。帰りが遅くなる方が明日に響くしなー。簡潔に話そう。俺たちは今日、第32階層まで上ってきたんだ。』

『さ……32階!?』

ゴードルンは大層驚いて…申し訳無さ過ぎて、青褪めてるようにも見える。此処から17もの階段を上った先…上るだけならば手近な階段を探して直ぐだろうけど、くまなく歩いて聞き込みをしながらだったなら、きっとかなり骨が折れる。それにきっと、上の階層はもっと人が多いんじゃないだろうか?

『まー…階層の全てを余さず周り切れた訳ではなく、行ける所まで足を運んでみただけだがー…はっきり言って、成果は無かった。驚いたよー…。』

チェスタは冷静に淡々と報告しながら、目線は床を眼差し少し俯いてる。ビスカは折った片膝に肘を付いて頭を抱えてる。一日歩いて何も意味無く終わったのなら、どんなに最終的に自分に害の無い問題だとしてもやさぐれたくなる気持ちは分かる。

『俺、実は21階層までしかちゃんと歩いたことが無かったんだ。チェスタも独り立ちする前に24階層でこの服を手に入れたきりだって。だからびっくりした。30階層以上はかなり垢抜けて栄えてて…自由だし、21、2階層あたりも今はすごい人が多いんだな。低層階とはまるで空気が違う…。』

上の階程都会だって、今までの話で何となく察してたけど…どうやら俺の想像以上みたいだ。垢抜けるってどういうことだ?人が多いって、第12階層よりも多いのか?眩暈がしそうだ。自由って、ミズルに囚われたこの町で一体何が自由なんだ?

行ってみたい。脱出の手掛かりを探りたいだけじゃない。単純に興味が有る。刺激が欲しい。何でも良いから俺の脳を刺激して欲しい。どんなに小さなことでも、取り戻す切っ掛けの為に。

『そうか…それは苦労を掛けたな。しかし、駄目か…そうか。無駄骨を折らせてすまない。』

感謝と、謝罪。ゴードルンはさっき俺の笑顔を無視した以外は、ずっと気を遣ってばっかりだ。

『俺が受けると決めた仕事さ。気にしないでくれー。しかし、泣いても笑っても明日までだー…キリが無いから。』

明日…どうするんだ?第32階層よりも上へ医者探しを続けるのか?

チェスタはふぅ、と息を吐き勿体振ってから、ゆっくりと顔を上げた。

『もう医者を探すのはやめだ。明日は、上へは上らない。』

…諦めるのか?じゃあ明日はどうするんだ?この仕事はこれで引き上げるのか?それとも俺だけが明日もこの小さな診療所へ上って来て、只一日医療と呼べない医療を延命させて終わるのか?

俺以外の2人は余り不思議そうにしてない。ビスカはきっと、此処へ着く前に歩きながらチェスタに既に話を聞いてるんだと思う。ゴードルンは、きっともう、諦念に辿り着いてる。

『明日ー、ビスカはまず低層階でいつもの何でも屋の仕事を片付けて…終わり次第こちらに向かって貰おうー。俺はルクスと共にこの診療所まで赴き…人々が、医者が居なくとも凌げるように手助けしたいと思っているー。』

確かにそうだ。見付からない物を当て所無く探し続けたって不毛で、無くてもどうにか済むように諦める方が余程前向きだ。それに…セウスだって、包帯を巻けるようになったんだ。

『医者が居なければー、自分のことは自分でなんとかするしか道はない。明日はこの近辺の人々にその指導をして回る。怪我の処置、病の判断基準、医者の世話にならないための日常生活の心構えー……実は今日、聞き込みついでに第22階層の医師ニケアの妻イトとー、第28階層の医師プラームスにいくつかの知恵を教わって来たんだ。それを人々に授けー、そうして凌ぎ新たな医者の漂着を待ちながら…それでも間に合わなければニケアや第11階層のモネミの助けを借りー…借りられなければ、それはそれまでだ。』

チェスタの考えに完全に納得させられるということは、何処か癪だ。否、納得した訳では無く、元々俺の中にこの数日間燻ってた擬かしさを、チェスタが纏めて形にしてくれただけなんだ。

本当はそれでも、どうにかなる筈だ。

『ニケアにはもうー、有事の際は駆け付けて貰えるよう話はしてある。モネミにもー、この帰りにでも話を付けておこう。俺たちが出来ることは此処までだと思う…どうだろうかー、ゴードルン。』

チェスタの笑顔は真にゴードルンとこの階層のことを憐れみ優しいし、だからこそなのか圧が有る。その笑顔に笑顔を返すゴードルンもそれを分かって受け入れてる。俺はそれを見て何となく『大人』という表現が浮かんできて……気に食わない。前を向く為に、諦める筈なのに。

『…ああ、素晴らしい。それが良いだろう。そこまで考えてくれて、本当に感謝してもし切れない。明日は俺も共に回ろう。顔が効く俺が話した方が、皆も少しは真面目に聞いてくれるかも知れない。』

『…よし。決まりだー!』

ゴードルンの返事を受けて、チェスタは一瞬はっきりと明るく笑った後、ふっと息を吐き勢いを付けて立ち上がった。もう大分暗くなってきてる。今日は早く帰った方が良い。明日で漸く、この仕事も終わりを迎えるのだから。

暗くなりゆく空の向こうに去ろうとする朱が羨ましい。あんなに遠く、小さく、美しくて…だから、酷く自由に見える。

赤い階段を皆で降りて、細長い家の前でゴードルンと別れ、第11階層でモネミの元に寄ると言うチェスタとビスカとも別れた。星の光も中々届かない暗い住宅街では、それでも町中が夕飯を食べて風呂に入って床に就くまでは、孤独になることは少ない。

今回の仕事は後味悪く終わることになりそうだ。いつか出て行く俺には関係無いし、それでもどうせ、そんなに大変なことにはならなそうな気がする。どうやら俺の危機感も呑気な住民達に奪い去られてしまったみたいだ。

何でも屋の仕事を始めて、少し慣れてきた頃にあの大運搬が有って、ダンダリアンと出会ってレストラにジュースを貰って、今度はゴードルンと出会って…また余計なことさえ無ければ、ようやく落ち着いた日々を手に入れられる筈だ。

この町の輪郭が、少しだけ見えてきた。自分のことも、断片的にだけど思い出すことが有って、何も進んでない訳じゃない。そろそろどうしたらこの町を抜け出すことが出来るのか…考えて動き出してみても良いのかも知れない。

人が多くて、栄えてて、自由な第21階層以上に行ってみるのも良いかもな。また俺に面倒を掛けられて苦労したチェスタに睨まれて、難しいかも知れないけど…都合の良い口実を考えてみよう。

先ずは今日も、シブリーの所へ寄って弁当を2つ貰って帰るんだ。この時間じゃあ、出来立ては到底望めやしないが…。


『ではプリマ、またルクスをいただくぞー。』

『あぁ…行ってらっしゃい、ルクス。』

『…うん。行ってくる。』

プリマに表情は殆ど浮かばない。でもきっと微かには浮かべてる。視覚には表れない柔らかさを、何処となく感じるから。

チェスタはニヤニヤと俺の腕を引いて蒼い扉から引き摺り出した。この仕草は、十分わざとらしい。

昨日チェスタが言ってた通り、ビスカは後からやって来る。チェスタ達は昨夜モネミに会い話を付けることが出来たらしいから、もう今日はひたすら人々に健康意識を啓発して回るだけだ。

今日で一区切りと思うと、このかったるい階段を積み重ねた通勤経路も名残惜しい…気がする。チェスタは昨日までの疲れが抜け切ってないのか、ふぅふぅと小さく息をしながら顔を曇らせ歩いてる。横目にそう感じてたら……

『……ふぅ。ルクスー…。』

『…ん?』

こちらを向かないまま、前の方の少し下を向き歩きながら、チェスタが話し掛けてきた。

『お前は明晩プリマと共に行くからー、今夜は酒場には寄らないかな…。』

『は…?』

ふっと息を吐きながら、チェスタがニヤリと口角を上げた気がした。

『この5日間は殆ど歩き通しで心が荒んだからなー…今日はビスカと飲むぞ。せっかくダンダリアンの許しも貰えたからなー。とは言え、どうせ瓶一本も飲み干せないだろうな…。』

丁度第7階層から第8階層への階段を上り切って、チェスタの足取りが僅かに軽くなる。未だ9本もの階段を越えなくてはならないと言うのに。

チェスタは何となく吹っ切れたみたいな…って表現は、大袈裟だけど。でも、折角見付けた居心地の良い場所を心置き無く楽しむことに決めたみたいだ。

俺は何もしてない。ダンダリアンがやってる酒場で、ダンダリアンが来いって言ってるだけで、俺はそれを伝えただけだ。でも何だか気分が良い。ダンダリアンとチェスタたちは、俺で繋がったから。でも……

『……俺は、今日が終わってから決めるよ…お前らが行くなら、ダンダリアンに挨拶くらいはしてこうかな。』

3日前に行ったばかりだし、明日プリマと行くし、あの狭い酒場に俺ばっかり行くのも気が引けるから。未だ片手で数える程しか行ったこと無いけど、何となく感じるんだ…それをして良いのは、ビエッタだけなんじゃないかって。

『そうかー。では、とりあえず今日の勤めを果たしてからだなー。』

前向きなことを言ってみたところで、薄暗いこの街並みの中ではどうにも締まりが悪い。

『……なぁ。』

『んー?』

直ぐに第8階層から第9階層への階段が現れる。町の外周に在る階段は開けて明るいけど、町の真ん中に在る階段は通路が密集して薄暗い。此処も、そんな場所だ。

『明日は、早く帰っても良いってことか?』

少し嫌味な積もりだった。2日前の突っ慳貪で門前払いな態度と、『ずるい』という2人の言葉が思い出されたから。でも今日のチェスタの態度は飄々として…いつもより、僅かばかり爽やかだ。

『ふ…俺の、妹のように大切な小さな幼馴染とー、あとは……自ら面倒事を持ってきたくせに文句ばかり言ってー、それでも俺の言う通りにやり切ってくれた、もう一人の相棒のためにー…仕方無いから明日までは厄介と我儘を許そう。』

兄の顔だ。チェスタが時折俺に、いつもプリマに見せる…ビスカには見せない、憎らしく得意気で頼もしく健気な面持ち。

今……『相棒』とか、言ったか?

『まー、元々俺とビスカはずっと2人でやってきていたんだ……お前くらいー、居なくなった所でな…。』

階段を上り切ったチェスタはまた少しだけ早足になり、鼻歌を歌い出した。勿論、俺はこの歌を知らない。音楽と言う形の無い物に何の意味が有ったのか、俺には未だ思い出せない。そんなことは今はどうでも良いから後回しだし、いずれ必要なのかどうかも分かんない。

でも、知らない旋律を勝手に口ずさまれて、チェスタの歌は全然響いてなくて多分下手なのに、不思議と耳障りでは無かった。小気味良いリズムを刻まれて、少し歩き易くなった気すらする。

住宅街を抜けて、異質な区画で在る第12階層に入って、直ぐ桃色の門から上ってまた住宅街に入ると、最後の面倒臭い一日が始まる覚悟を決めなくちゃならない。

住民達には未だ、今日が啓発活動の日だと知らせてはない。予感がしたんだ。悪い予感は、当たるから怖い。

否、必然だ。この町の景色は、磔なんだから。


ゴードルンはマミムの胸当てを身に付け、髪もばっちり結んで既に家の前に立ってた。俺達の視界に細長い家が捉えられたと同時に、ゴードルンもこちらを見付け手を掲げる。

『おはよう、ルクス!チェスタ――』

そんなことはどうでも良かった。

『医者っち…医者っちーっ!!』

ゴードルンが上げた声で気付いたのか、あちらも偶々やって来た所だったのかは分かんない。

でも、赤い階段の上から精一杯叫ぶ声が聞こえた。

『……ユトピ?』

『ユトピ?』

チェスタが聞き覚えの無い名を飲み込めないまま、俺に釣られて上を向く。

階段の上で人の体が宙に浮いて、白髪が揺れてる。そのまま、中段に打って、転がって…

『あ、危ない…!』

一番近くに居たゴードルンが反射的に駆け出した。俺とチェスタも直ぐに走り出すけど、間に合う筈が無い。

ユトピはあっと言う間に最下段まで転がって来た。見えなかったけど…確かユトピが声を上げた直後に、何とも形容し難い酷い音が響いてた。多分、駆け降りようとして滑って投げ出されたんだ。

『大丈夫か、ユトピ!』

ゴードルンとユトピは、当然のように見知ってるみたいだ。高くも無いが低いとも言い切れない階段の下…意外にも、ユトピは直ぐに自分で手を突いて起き上がる。

『あー…だっ、大丈夫だゴードルン……っそれより…医者っち……!』

青天の霹靂に駆け付けるしか無かったけど…改めてユトピに『医者』と呼ばれてハッとした。こいつが、俺に一体何の用なんだよ…?

『今すぐ来てくれっ!婆ちゃんを、助けてくれ…っ!』

何を言ってるんだ、こいつは…?

余程の危急なのか、ユトピはもう足を立てて立ちあがろうとして、ふらついてる。

『ブリックに、何か有ったのか…?』

ユトピの婆さんのこともゴードルンは知ってるみたいだ。

ユトピはゴードルンに尋ねられた癖に…俺に縋り付いて、そのままの勢いで立ち上がった。

『婆ちゃんが急に苦しんで…死にそうなんだっ!助けろ医者っちっ!』

この町に、もしものことなんてどうせ起こらないんだろう?

そうだ。これは滅多に無いような仮定の話なんかじゃない。

有り触れて、常に其処に孕まれる、当たり前の死だ。

俺は知ってる。永遠なんか無い。物は必ず壊れて無くなる。

それに抗うなんてことは、救済でも何でも無いんだ。


人間だって獣の一種で、必死になれば意外とどうとでも動けるみたいだ。あんなに派手に階段を転がったユトピなのに、もう死ぬしか無い婆さんの為に必死で走りながら喋ってる。

『本当についさっきなんだ…っ!飯食った少し後から、婆ちゃんが咳き込み出してっ…いつもはそのうち収まるけど、どんどんどんどん酷くなってきて…それからどんどんぐったりしてきて、苦しそうなんだよっ…!頼むっ、助けてくれ…!』

こうしてユトピが来て帰るまでの間に、もう死んでるかも知れない。第11階層のモネミを呼びに行ったゴードルンが間に合うことなんて、有り得ないだろう。ユトピだって、何でそう思えないんだ?そんな状態から時を戻して、死を回避するなんて…

『婆ちゃんを、楽に…っ、安らかに死なせてやってくれっ!』

………死を、楽に?

安らかに死なせる…?

『其処だっ!其処が俺たちの、家だっ…!』

俺たちの…と言っても、どうかと言われたら小さな家が5つ引っ付いて一つの塊になったような物に見える。真ん中の家だけ比較的広そうで、扉は開け放たれ、女が叫び掛ける悲痛な声が聞こえてきた。

『お婆ちゃんっ!お婆ちゃん…聞こえる?お婆ちゃん!ハニャはここに居るわ…安心して、気をしっかり…!』

ユトピよりももっと若そうな、しっかりと気立てが良さそうな女。俺やビスカと同じくらいの年かも知れない。

『ハニャ、退けっ…医者っちだ!ほら医者っちっ!頼む、診てくれっ……苦しそうだ…!』

未だにどうしたら良いのか理解し兼ねるのに、ハニャと言う女が退くから言われるままに婆さんの枕元に収まる。

婆さんは確かにぐったりして、汗ばんでも居る。でも確かに生きては居て、呼吸は浅いがゼェゼェと何かが詰まったような音で…偶に激しく咳き込み、ゴボッと何かが溢れそうな音と勢いが轟く。

恐ろしい。嘔吐に少し似てる。

『医者っち…婆ちゃんを、笑顔で死なせてやってくれ…!笑顔にしてくれるだけで良いんだっ!』

笑顔で死なせる…。

ユトピは、婆さんが死んでも良いのか?

笑顔で死ぬ奴なんて…この世界中、外の世界も含めた全世界を探しても、存在し得るのか?

医者の力が有れば、笑顔で死ぬことが出来るのか…?

『は……はぁあーっ…ルクス…!』

婆さん程では無いが息を切らせて酷く苦しそうな声がして、振り返る。一緒に全力疾走してた筈なのにいつの間にか遅れ去ったチェスタが、漸く此処まで辿り着いた。

『ぞ……その婦人が…ユトピの、婆さん……っ、はぁ、はぁあ…!』

あと一歩で室内と言う所で力尽き、変な服の裾をぐしゃぐしゃにしてへたり込む。しかしながらどうにか顔を上げ俺達を見回し、何でも屋の頭脳担当は一瞬で状況も成すべきことも理解出来たんだろう。

『おい…話が進まねーから、お前はまずそっちで休めっ…』

『ルクスっ!』

チェスタはユトピの為に、ユトピを無視した。一刻を争う中で、苦しむ婆さんを前に誰よりも取り乱すユトピは無視しなければ、ユトピの望みには近付けない。きっとそうだ。

『何よりも呼吸を楽にするんだ…きっとそれが良い!』

呼吸を楽に…?そんなの、どうしたら良い……風邪や声枯れみたいに木の蜜を飲ませたら良いのか?こんな今にも死にそうな婆さんに、そんなことさせられそうも無い。そもそもこいつ、飲めって言って話は通じるのか?3日前にはすっかりボケて真面に会話も通じなかった婆さんが……今、こっちの言葉は認識出来てるのか?

もし、出来てるなら……こんなの、笑える訳が無い。

『ユトピ!あと…ハニャ!』

ハニャは心配そうに、でも俺達の邪魔をしないようにぶつぶつと小さく婆さんに呼び掛けてる。ユトピは…ほんの少しだけ、目が潤んできてる。そんなに、婆さんのことを愛してるのか……信じられない。泣くほど愛しい、人間なんて。

『お前ら、笑えっ!』

『……はぁあっ…!?』

言葉とは裏目の賽子なのか諸刃の剣なのか、ユトピの顔はみるみる歪んだ。激しさは違うけど、3日前に俺には医者は出来ないと言い捨てた時の様子が思い起こされる。

でも俺にはあの時みたいな憤りは無い。今度こそ俺の方が正しいって自信が有るからだ。

『微笑むだけで良い…笑え!もっと優しく話せ…!婆さんに触れろ、抱き締めろ……お前ら、家族だろ……。』

あの感覚が、実在した記憶だとは思えてない。

でも、記憶じゃなかったとしても感覚は有って……

風邪を引いた時に、暖かいベッドの隣にずっと居てくれた誰かが……もしもこんなに悲しそうにしてたなら、きっと俺は到底笑顔にはなれない!

『家族って、そういうもんなんだろ…っ!』

『医者っち…。』

言いながら、やっぱり自信が無くなってきて、やっぱり俺には家族なんて一人も居なかったんじゃないかって思えてきて…ユトピの方を向けなくなって、婆さんを確かめて……気付いてきた。もしかして、寝かさない方が呼吸が楽だったりはしないか…?

余りにも頼り無い動きで気付けなかった。婆さんは、どうにか体を起こそうと身を捩って……

『君は正しい。』

正しいって、何のことだ?家族が、そういう物だっていうことか?それとも、俺には家族なんて居ないってことか?それとも、婆さんを起こした方が良いってことか?

て言うかこいつ、誰だよ?

聞き覚えの無い、硬くて感情の無い女の声。急激に違和感が襲って、反射のようにバッと振り向いたら……皆の目はもう、チェスタの背後に立つ女に釘付けだった。

白髪だ。でもユトピの白髪とはまた少し、光の当たり方が違う。この女の髪は透明感が無くて、絹のような質感に見える…。

『ルクス、チェスタ…驚くな!彼女は、医者のようなんだ!』

女の更に後ろから、ゴードルンの声がする。医者って言ったのか?信じられない。だって…

『は……医者?あなたが…?馬鹿な…!』

誰よりもチェスタが、目も口も大きく開けて唖然としてる。俺は一目も見たことが無いけど、チェスタは昨日、モネミにもニケアにもそれからプラームスにも会ってるんだ。チェスタが知らない医者は、この辺の奴等の誰もが知らない医者。そう。昨日まで、どんなに歩き倒して求めても見つからなかった……

そんな都合の良い話が、在って良いのか…?

『私は如何やら馬鹿では無い…其処迄通して貰っても良いかな?』

女が目線でチェスタ達に指示を出すもんから、欠片が嵌まるように目が合った。プリマやビエッタと似てるような似てないような、勿体振った喋り方。でもプリマとビエッタには悪いが、第一印象としては…この女の方が、話が通じそうな気がしてる。

『……あー…頼む。』

チェスタは立ち上がって、身を引いた女の脇を通って外に抜ける。そしたら今度は女が入室して、身を寄せ合い固唾を飲むユトピとハニャの前を頭を下げながら通り過ぎ、俺の隣まで辿り着いた。

そこまで長くない髪を顔の脇にたっぷり残しながら、後ろに編んで結んでる。髪とはそのまま結んで垂らすよりも、編んだ方がより美しいし邪魔じゃない。薄紫の首を覆う長いワンピースは布が硬そうで、狭い部屋では何となく邪魔だ。

婆さんの咆哮のような咳は一旦治ったみたいだ。隙間風のような音がするから、辛うじて息も続いてるらしい。只、死にそうな程苦しいことに変わりは無い……否、死にそうだから苦しいだけなのか?

『君は正しい。少し上体を起こそう。』

優しい声で念を押して、ぽんぽん、と肩を叩いてくれて。

そのまま、俺の肩をぐいと後ろに引いた。

『御兄さん、此方へ。御婆様の身体を少しだけ起こしてあげるんだ。其の方が呼吸は楽だ。毛布か布団は余って居ないだろうか?丸めて背中に当てて、起きた状態を維持してあげるんだ。』

冷静で、非常にてきぱきしてる。これから人が一人死ぬと言う所で淡々と的確に動ける様子こそが、こいつが医者だと証明してくれてる。

『わ…私、自分の部屋の布団を持って来るわ!』

『…有難う。出来れば何枚か、御願いする。』

ハニャがバタバタと外へ出て行った。ユトピは化かされたみたいに、女のことを信じられないまま動けない。

『し…死にそうなのに、起こしたら、辛くないか…?』

勢い任せで一方的だった第一印象が嘘のように、ユトピは今や不安そうだ。確かに、死ぬ時には横にしてやるのが優しさなんだと俺ですら思ってたし、叫ぶ程走る程必死で助けて欲しかった所に突然求めてた救世主が現れてくれたならば、逆にどうしたら良いのか途方に暮れるだろう。

『大丈夫。体を起こした方が胸が広がって、呼吸が楽になる。一度試させてくれ。少なくとも此の儘では、何かが良くなりはしない。』

女はユトピを宥め寄り添うように、穏やかな笑みを保ち続けた。

『只、此処から回復をさせる事は難しい。薬を飲む事ももう出来無い。手は冷たく青く、自ら姿勢を変える体力も残って居らず、此方の問い掛けに応える事も叶わないだろう。次に此の荒い呼吸が治まる時は、呼吸が止まる時だ。』

ずっと微笑んでるのに、連ねる事実はどうしようも無く残酷だ。また少し感覚が呼び起こされて来た。

そう。医者ってこんな感じだった。事実だけを突き付けてくれて、感情は介入しないしさせないから表情も込める必要が無くて、用意した一枚の仮面だけを浮かべてる。でもそれは間違い無く、目の前の課題を解決する為の手段だ。

こいつの仮面は、優しい。

『だから、御婆様を安心させるんだ。笑顔にしたいと願う側が笑顔にならなければ、相手を笑顔に導く事は出来無い。残す家族が笑顔で無ければ、安心して旅立つ事等到底出来無い。』

ユトピはゆっくりと、大きく息を呑んだ。

確かに俺の思った事は、間違ってなかったみたいだ。でも冷静さに欠けて、説得力を持たなかった。この女の包容力が、ユトピの不安と悲しみを捩じ伏せようとしてる。

『お待たせ!布団よ!これを使ってっ!』

ハニャが戻って来て、チェスタとゴードルンがバサバサと3つ布団を投げ込んで来た。医者女は即座にそれを拾い丸め出す。

『君もそっちを同じように丸めてくれ。御兄さん、御婆様の背中を持ち上げて。』

起こした背の後ろに丸めた布団を2つクッションのように挟んで、起きると寝るの間…椅子とベッドの間みたいな姿勢が出来上がった。もう1つ転がった布団も丸めて、膝の下に突っ込み、脚も少し曲げてやったら…婆さんの苦しそうだった眉が微かに下がって、少しはマシな様子になった気がしなくも無い。姿勢を変えてやってる間に振り返した咳も、再び落ち着いて来た。

『さぁ、御兄さん、此方へ。御婆様の手を取り、優しく語り掛けてあげるんだ。聞こえるか…心迄届くかは判らない。でも聞こえるならば、届けてあげた方が良いに決まってる。』

女はユトピを婆さんの枕元へ誘った。ユトピはすっかり落ち着いてた。覚悟を決めたような…そう、吹っ切れたような様子で。

『…婆ちゃん。手ぇ、冷てーな……ごめんな、心配掛けて。もう大丈夫だからな…心配しないでくれよー……俺は、ずっとついてるからな。』

穏やかな声で、後ろからじゃ顔は窺えないけど…きっと、笑顔の筈だ。

『…妹さんも、一緒に声を掛けてあげるんだ。』

女が後ろを振り向くから俺もハニャを見遣ると、いつの間にかもう1つ、ペラペラに萎びた布団を抱えて来てた。

『ねぇ、お婆ちゃんにこれを抱かせて!』

『此れは…?』

『ユトピっちゃんの布団よ!お婆ちゃんのことが大好きで、一番お世話をしてきたのはユトピっちゃんだわ……ユトピっちゃんの匂いを抱いたら、きっとお婆ちゃんも寂しくなくなる筈よ!』

ハニャは医者とユトピの間に割って入って、婆さんの腕を動かして萎びた布団を抱かせた。そうだな。ふかふかの布団に収まるだけじゃなくて、ふかふかした物を腕に収めて寝るっていうのも、心地良いのかも知れない。

『婆ちゃん…。』

『お婆ちゃん…。』

俺は3歩引いて、壁に背中を預けた。きっと俺はもう用済みで、2人だけに…否、3人だけにしてやった方が良い。でも医者女は動かず同じ場所に立ったまま、婆さんの顔をずっと見張ってる。

さっきまでの騒ぎが嘘のように凪いで、その癖ユトピとハニャは婆さんに話し掛け続けるから、婆さんの喉から鳴る儚い隙間風も、もう俺の耳には届かない……そろそろ、終わりなんだろう。良かった。

ユトピと、ハニャと、婆さんの願いは叶った筈だ。

俺は結局、本物の婆さんと会話をすることは無かった。だから婆さんが実際最期に何を願ったのかは思い浮かべようが無いけど…きっとこの対処と結果は、悪い物じゃ無かったんじゃないかって推測する。

2人の言葉に耳を傾けることは止めた。野暮だとか、そんな気を遣った訳じゃない。只俺には必要の無い時間だし、どうせ医者やチェスタとゴードルンも聞いてない筈だ。

楽に死ぬ事など、恐らく不可能だ。死とはどうせ痛く、苦しく、怖く在る。一度生まれ、芽吹き、燃え盛った筈の物が消える過程なんか、到底容易な話じゃない。

楽に死にたいなんて…安らかに旅立たせてやりたいなんて、条理を無視した我儘だ。

だから、こんな死に際に立ち会った事は多分無いんだ。命と言う物は奪うか、投げ出すか…大抵どちらかで、愛する家族に優しい言葉を投げられながら旅立つ奴なんて見たことは無い……そう、この光景はまるで旅立ちだ。惜しまれながら送り出される、故郷との決別。

故郷とは本来、このようにして巣立つべき場所なのに。

『……婆ちゃん。行ってらっしゃい。』

『おやすみ…お婆ちゃん……。』

一方で行って来いと言いながら、他方で休めと言うのも変な話だ。死とは果たして旅なんだろうか、眠りなんだろうか。当然ながらこの世界の何処を探しても死んだ事の有る者なんて見付からないんだから、知るべくも無い。

『……一旦、外で話さないかな?』

医者の女は無言で3人の側を離れ、邪魔にならないように俺に声を掛けてから外に抜けた。確かに…2人が立ち上がらない事には、次への進み様も無い。

開け放ったままだった扉を潜れば、薄雲が混じる空ですら酷く眩しく感じる。頗る不謹慎な表現だけど、まるで地中から生き返って来たような、そんな清々しい心地がした。

ゴードルンは目を閉じて、何かに思いを馳せてる風に見える。チェスタは虚空を見て、何を考えてるのか、考えてないのか測り兼ねる。女は、何も思ってないんじゃないだろうか。改めて…こいつは、何者だ?

『御婆さんは既に息を引き取ったと見える。2人が別れを告げ終わって整理が付いた所で私が正式に確認を取り……葬儀は、どの様な方式で行えば良いのかな?後は、墓の準備だな。2人の気持ちに区切りが付く迄、私達で準備を始めて仕舞わないか?』

葬儀って…何だ?墓は…何となく分かる。一度生まれ芽吹き燃え盛った命が完全に消え去る事はとても難しくて…抜け殻と人々の記憶はしつこく残り続ける。だからどちらも、墓に仕舞うんだ。そうやって、思い出したくなったら墓へ会いに行って……ん?もう、思い出す必要の無い奴の抜け殻は…どう処理してたんだったか?

『それで…私の状況は、いつになったら誰が教えてくれる?』

女が訳の分かんない事を聞いてきて、チェスタははっと目を見開いた。俺には未だ見当が付かなくて、こっちが先に教えて欲しい。

『あなたは……たった今、飛ばされて来たばかりだと言うのか!?』

飛ばされた……?被害者?

チェスタは信じられないからこそ驚いて声を荒らげたんだろうけど……俺は理解が行って、スッと全てが落ち着いた。外の世界で医者だった奴が、偶々たった今直ぐ側に飛ばされて、ゴードルンが見付けて連れて来た……振り返ってみたら、そうとしか考えられない展開だったな。

理解は出来るけど、有り得無くは無いんだろうけど、腑には落ちない。

『どうやらそうみたいなんだよ…モネミ家の方へ降りるのに近道になる階段が、第14階層の袋小路に有るんだがな……そのどん詰まりに、彼女がぼーっと立っていたんだ。俺にとってこの辺りの者は皆見知っているが、見たことの無い顔だったし、何をしているのかも分からず不審で…ピンと来たよ、被害者なのだと。この町に飛ばされ6年…自分が被害者の第一発見者になったのは、初めてだ。』

偶然じゃないみたいな、願っても無い偶然だ。偶然の反対って、何だっけか……運命、か?少し違う気もする。

そんなことが有って良いんだろうか?実際に起きてしまったのだから、ありがたく受け入れるしか無いのか?

やっぱり何かが納得行かないな。受け入れはするが、ありがたくは思いたくない。

『…ん?目覚めたのは、いつ頃なんだ?被害者は大体、倒れた状態で発見されると相場が決まっているが…。』

そう言えば俺も、気付いた時には寝かされてたな。チェスタとビスカが運んだって言ってた。

『そうなのか…?分からないんだ。頭の中が濃い靄に満たされた様で…気が付けばあの場所に立って居た。今も未だ地に足が付いて居ない感覚で、夢の中の様な心地だ。』

確かに女は、まるで何処かに置いて来たみたいに心は此処に在らずだ。どうにも声や目線に力が篭らなくて、ふわふわと宙に浮いてる。その現実味の無い浮遊感には何となく共感出来るけど、全くが俺と同じと言う訳では無さそうだ。

『あなたは、その…どこまで覚えているんだ?名は?自らの身の上を……医者という職のことを覚えているなら、そこまで重症ではないのか…?』

こいつは医者を正に完璧にこなしてた。つまり自分が医者だということ、医者として日々どう過ごしてたのかを覚えてるってことで……俺が全て奪われた物を、少なくとも幾つかは携えたまま此処に来てる。それがミズルと言う名の理不尽…。

『名…名前か。そう言えば…何だったか……うん?ミル…キ……?ああ、確か、ミルハンデル・ミルキだ。御手数だけど、ミルハンデルと呼んでくれ。医者と言うのも、その人に医者かどうかと聞かれて……言われてみて、確かに私は医者だと思い出したから、そうだと答えたんだ。そうして此処に連れて来られた。』

ゴードルン…抜け目が無いな。聞いてみてこいつが医者だった所で、飛ばされて来たばかりの被害者にこんな切迫した仕事を押し付けようとするだなんて。

確かに…医者を呼びに行かなくちゃいけないのに被害者も放って置けなくて、じゃあこいつが医者ならこいつを連れて来れば良いだけで非常に話が早い。でもそんなの、余りにも自己都合で、手前勝手だ。俺がミルハンデルだったら激怒したい。

『医者の事も、全てを覚えてる訳じゃ無いんだよね……でも此処へ向かいつつ話を聞いてみたり、此処に来て様子を見て居る内に、どうしたら良いのかが自然と頭に浮かんできて…うーん、他の事は今一つはっきりしないな……ちゃんと考えれば、もう少し浮かぶかも知れないけどね。』

しかしミルハンデルは俺みたいに取り乱すことも無く、婆さんの最期を処理した時と同じように淡々と噛み砕く。何処から来たのか、この先どうなるのか……帰ることが出来るのかも分かんないのに、よく此処まで冷静に居られるな。記憶も判然としない癖に……やっぱりこいつは俺とは違う。どうして憤らずに居られるって言うんだ?

『なぁ………ありがとう。』

ぽつり、と言葉が落ちて来た。振り返ると…ユトピが奥から顔を出してる。

『…もう良いのかい?』

『ああ…大丈夫。それに、今すぐ礼を言いたくなったんだ。ありがとう、お医者ちゃん。医者っちも、ありがとうな。ゴードルンも、そこの兄さんも…みんな、ありがとう。』

ユトピの目は赤いのに、表情は晴れやかに映る。家族が死んだと言うのに不思議だが、これを旅立ちだと捉えるならばそんな物なのかも知れない。

『如何致しまして。でも、気にしないで……もう一度少しだけ、御婆様に会わせて貰えないかな?本当に此処を旅立ったのか、確認だけさせて欲しい。』

『…あぁ、そうだな。頼む。来てくれ。』

ユトピとミルハンデルはもう一度部屋の中に消えた。確認をして、葬儀に、墓…この後具体的にどんな仕事が待ってるのか、見当が付かない。朝には今日婆さんが死ぬなんて思ってなかったんだし…もう啓発回りをする必要は無くなったと思うから。

昨日までの停滞が嘘のように、ミルハンデルと言う歯車が一つ嵌まった途端に全てが目紛しく展開し出す。

偶然の反対は運命では無い。

こんな結果が定めだと言うのならば、ちっともありがたく無い。これが定まった結果だって言うのなら、今までの俺達の苦労って何だったんだよ?

『ゴードルン…これは、一体……。』

チェスタが徐に呟き出した。ゴードルンに問い掛けながらも、眼差しは宙に浮いて。空でも無い、何処を見詰めてるのか。

『ミズルの……賜物としか…。』

チェスタのその言葉に、ゴードルンは見られてもないのにこくりと頷いた。

『ああ…ミズルの賜物としか、言いようが無い。』

この町で暮らしてると、憤りの先や後にはいつもミズルの名前が出てくる。

この町の奴らが、被害者が、ミズルのことをどう捉えてるのか、多分俺はまだ余り理解出来てないと思うんだが……

もしかしてこれってやっぱり、神って奴に似てやしないか?

神、と言う言葉のことは未だ全然思い出せないんだ。でも、こんな感覚だった気がするんだよ。

都合が良い時も、悪い時も、神は言い訳なんだ。

詰まりは拠り所。この町ではミズルを言い訳にして、奇跡を信じて、理不尽を乗り越えてる。

……そうか。だからミズルは神なんだ。言い訳なんかじゃない。理不尽とは、ミズルのことなんだから。

ミズルとは、この町の神のことだったんだ。


ミルハンデルは婆さんの死を確認し終えた。動かないで、目を閉じて、息をせずに脈も動かなければ生きてはないって誰だって判別は付くと思うけど…最終的な判断は医者が下すべきらしい。ミルハンデルがそう言ってた。

『…そうなのか。其の様な遣り方も存在するのか…?私が経験して来たのは、もっと違って居た様な……まぁ、余りはっきり思い出せないし、ユトピ達が望むならば、否定等しない。』

『しかしこのようなやり方を採用しているのはこの近辺の階層のみのようだ。他は燃やしたり、下層階まで遺体を運んで土や海に沈めたり等するそうだが…第18階層に、変わった葬送屋が居てな。彼女が独自に編み出した弔い方だ。この町の理には適っているよ。』

ゴードルンとミルハンデルがゴチャゴチャ段取りしてる。葬儀と言う物はどうやら幾つかのやり方が有って、それぞれが好きな方法を取るらしい。でもこの町に墓と言う物は存在しなくて、ミルハンデルはそのことに驚いてるみたいだ。確かにこの町で暮らし歩いた中で、墓は一度も目にしたことが無い。

話を横で聞きながら何となく思い出そうとして…俺も、墓を作ったことは無かった気がするな。見たことは何度も有った気がするんだけど。

死体なんて、専ら埋めるだけか、その場に放って置くだけで……ん?でも待てよ。もしかしたら何処かで一度……

『死の確認が取れたならば、急いだ方が良いんだ。この方法は時間が掛かるから…死体が腐敗してしまう可能性がある。ユトピ達の準備が出来たならば、早速18階まで運ぼうじゃないか。』

『そんなにバタバタと進めて良い物だったか…?』

ミルハンデルにはどうやらしっくり来てないらしいが、俺は特に何も感じない。こいつと俺は気が合わないみたいだ。嫌味じゃ無い。きっと育ち方が、過ごして来た人生が全く違ったんだろう。こいつの記憶がはっきりしてきた所で、話を聞いても然した役には立たないかも知れないな。

『それならば、一度診療所の様子を見て来ても良いだろうかー?ビスカが来ているようならば、遺体を運ぶのに協力させた方が良いだろうー。』

ビスカの存在を、今日も独りで下層階の細やかな業務を片付けてくれてるビスカのことをすっかり忘れてた…緊急事態だったんだから、許してくれ。

色々有って、もうすっかり昼を越してる。多分腹が減ってるけど、皆そんな暇も気分も無いだろう。何故、人が死ぬと食欲は失せるのだろうか?

『そうだな…ではチェスタには診療所に行ってもらい、俺は遺体を運ぶ担架を持って来るか。ルクスは、ひと足先に葬送屋へ話を通して来てくれないだろうか?』

『は…?俺?』

『ああ、その…その腕では、担架を運ぶ作業は向かないのではないかと…。』

『…腕……腕……っ?』

ミルハンデルが小さく息を呑む。どいつもこいつもどうにも、この腕の違和に気付くのが遅過ぎる。そんなに俺はハンデを感じさせずに動けてるのか、皆俺に大した興味が無いだけか?

いつもいつも不本意だけど、この腕を持って役に立てることはこの場にはもう無さそうだ。と言うかこの階層の仕事に置いてこの腕が働いたことは、結局一度も無いまま終わってしまった。おたますら失くなってしまった、こんな腕じゃ…。

『第18階層で誰かに聞けば、場所を教えてくれると思うから。』

第18階層…レストラの酒蔵の2つ上。行ったことは無いけど、今はゆっくり眺める暇も無いだろうし…どうせなら、第21階層以上に行ってみたいな。

『じゃあ……行ってくる。』

『ありがとう、ルクス。頼むぞ。』

でも、葬儀と言う物だけはとても気になってる。何かの切っ掛けになるとは思ってない。多分、記憶を失う前にも見たことが無い物だと思うんだ。

葬送屋って、どんな奴なんだろうか。人の旅立ちを、眠りを見送るだなんて……生産性の無い仕事。


第18階層は、下の階層と大きな変わりは無い。構成はやっぱり住居が中心で…でも一つひとつの土地が少しずつ広く、建物が大きくなって、人も増えてきてる気はする。偶に木や煙突も生えてたりして……予感をさせる。上に進めばもっと栄えてるって。

『葬送屋はね、この通路をずっと真っ直ぐ行って、突き当たりを左に曲がりなさい。突き出して開けた場所に高い柵と大きな門が有るから、大きな声でハルーリーを呼んで。』

階段を上がって直ぐに居た女に尋ねたら、丁寧に教えてくれた。葬送屋の名は、ハルーリー…。

言われた通りに進めば、上に巡ってた通路や床が唐突にブツッと途切れ、代わりに空が広がって、高い柵…大きな門が現れる。

人が2人縦に並んだくらいの高さ。この町でこんなに大きな鉄柵は見たことが無い。此処にしか無いんじゃないだろうか?

棒を組み合わせたような柵はスカスカだから中の様子を伺うことが出来る。そこそこ広い土地の所々には何か塵のような物が山になってる。真ん中には道具や設備は何も置かれてなさそうだけど、広場の一番奥…最も空に近い場所に、人が一人横になれるような台が据えられてる。端には簡素な木の小屋が建って、寂れてる。一見人が居る気配は感じないけど、松明が二本立って炎を燻らせてるから、この施設で人は確かに暮らしてる筈だ。小屋の中にハルーリーが居るかも知れない。声を上げてみよう。

『ハルーリー…ハルーリーっ……!』

死に対面して詰まった息を発散させるように、思いっ切り叫んでみた。柵を掴んだらガシャンと響いて、こっちが外側の筈なのにまるで気分は牢獄の中だ。

『おーいっ!ハルーリー!』

何度か名を繰り返して、それでも広い空間には誰も現れる気配無く虚しく響くだけ。留守なんだろうか?どうしたもんか…

『オーイっ!ハルーリィーィイ!』

『はっ!?』

キンッ!と、高音が耳を裂く!

酷く驚いて、ひっくり返りそうになって、鉄柵で身体を支えようとして、またガシャンと大きく響く。

『キミ…ダレか死んだんだね?』

振り返り其処に居た女は、片手に大きな…縦に聳えるパンパンの袋を抱えてた。桃色の服で、桃色の髪で、若そうで、笑顔で、目が死んでる。

否…死んじゃいない。光を通してないだけだ。本当に見えてるのか?でも、目線は定まってる。良く分かんない奴だな…。

年は、ビエッタよりは下だ。チェスタよりは、少し上のような気がするな…昨日の、鼻と喉の2人と同じくらいか?白桃よりも薄く輝く桃色の長い髪にリボンを絡ませて…洒落てるような、奇抜なだけなような。

『…ン?チガウの?』

話し方も、何となく変だ。何がどう変なのか、上手く言い表せないけど…声も、聞いたことが無い不思議な音だ。高音だけど、何処か柔らかくて儚くて…でも、高音は高音だ。

飄々として、捉え難い。チェスタなんかよりも、よっぽどふざけた印象だ。

『…違わない。俺のじゃないけど…婆さんが一人、さっき死んだんだ。早い方が良いって言うから、早速此処に死体を運ぼうとしてて…葬儀の準備を、してもらえないか?』

『……ソーギ…?』

葬儀と言う言葉に引っ掛かって、キョトンと目を丸める女。こいつは、葬送屋のハルーリーなんじゃないのか?

『ゴメン。ソーギはデキナイよ。ココは葬儀屋じゃナイ。葬送屋。』

葬儀と葬送って、何が違うんだ?俺はそもそも何の為に婆さんの死体を此処に連れて来なくちゃならないのかも良く分かってない。何となく、死体が邪魔にならないようにどうにかするんじゃないかとは思ってるけど。

『儀式はしナイ。送るダケー。』

ハルーリーは生気の無い目ではっきりと俺の目を刺した。

悪戯のように薄笑う笑顔は、気の所為だとは思うけど、不敵に見える…。

『ま、入ってくれ。ハナシはナカでシようー。』

ハルーリーに肩を掴まれ、ぐいと門前から押し除けられた。荷物を持つとは逆の手で大きな錠前を外すと、大きな鉄門も片手でズルズル押して開ける。細い身体に、よくもこんな重い門を押す力が潜んでる。

柵に丸く囲まれた土地に足を踏み入れて見れば薄く土が敷かれてて、さらさらと砂埃が舞ってる。何かを踏んでしまってパキッと渇いた音がした。これは、この空間のあちこちに掃かれ山にされ纏められてる…白くて渇いた、棒?棘?踏むと砕けて、砂になる……まるで塵みたいに雑然と扱われてるから、別に良いか…。

『アナタ、被害者なんだね。』

藪から棒だ。そんなに今の俺は世間知らずだったか?

『ソーギは儀式。この世の全てに別れと感謝を告げる。そして遺された者は故人に別れと感謝を告げ、故人はこの世の者ではナくなる。神か、精霊か、星か…儀式によって、死者は死後の国の者にされる。』

そうか、葬儀とは儀式のことか。なら、確かに必要無いか?ユトピとハニャならさっき婆さんに辛うじて息が有る内にも沢山話し掛けて、別れなんてもう十分だろう。でも…死者には死後の国が待ってるのか?儀式をしなければ、死後の国からは新たな住人だと認めて貰えない?もう死んでしまってるのに?そうなったらどうしたら良い…ずっと旅を、彷徨い続けることしか出来ないんだろうか?

『ソーソーは、送るダケ。別れを交わすコーナーも無ければ、済ませた先に何者かに成れるワケでもナシ。デモ、死んだ者はいつまでも生者の世界には共に居続けられないでショ?だから世話してやるワケさ。』

何を言ってるのか、良く分かんなくなってきたな。送るだけ送って、後のことは知らないってことか?ん?死者に後なんて無いだろ?結局葬儀って何なんだ?葬儀が分かんなけりゃ、葬送のことも…

『……分かりヤスく言ってヤんね。ココはシタイをショリするダケさ!』

あぁ…何だ。それならそうと、早く言えよ。

否、俺が葬儀という言葉を先に出したのが悪いのか?誰だっけ、葬儀なんて言い出したのは…。

『儀式をシたがるのは、神を信じるヒトビトだけ。このマチに神はイナイ、宗教は存在シナイ。だからこのマチで出来るコトはソーソーだけってコトさ。アンダスタン?』

ん?おかしいな。さっき、ミズルはこの町にとっての神なのだと、神とはこの町で言うミズルのような物なんだと理解した積もりだったのに。宗教って何だっけ?宗教とは、神の為に必要な物…?

『だからソーギなんて言ってクるのは、被害者なのカナーって思ってネ…。』

…あぁ、そうだ。さっきはミルハンデルが『葬儀』と言い出したんだ。俺には、そんな物の覚えは無くて……ん?俺だって外の世界から来た筈なのに、俺には神が居なかったのか…?

『フッ…!フフフフフフフフ、フフフふふフあハハハハッ!』

天まで届きそうな程高く自由に浮遊する笑い声。ハルーリーは話しながらいつの間にか、隅の小屋から色々道具を運び出して来てた。大きな甕、大きな筆。あの棒は、新しい松明か…?隣に転がすのは、それを立てる台だ。

『ハハハッ……羨ましい!』

ハルーリーの笑いの経穴が全く読めない。一人で喋って説明してただけの癖に、何がそんなに面白くて…羨ましいんだ?

『ジュンビ完了ー!…アトは、シカバネが来ないコトにはね。待てば来るかい?それとも、オマエはもー帰る?』

多分ゴードルン達はビスカと合流したらすぐに婆さんの死体を運んで来る。今戻っても行き違いになるかも知れないし、帰った所で仕様が無い。葬儀じゃなくても良い。葬送でも良いから、見てみたい。

ハルーリーは奥の台をベンチ代わりにして座り出した。網状の大きな敷物が掛けられてて、尻が痛くなりそうだ。

最も空に近い場所に、人が1人横になれそうだから、座ったら2、3人並べそうだ。ベッドなんて言うような良い物じゃない。只の四角い、鉄の台。少し低くて、僅かに膝が立つ。

こちら側は柵がとても低い。俺の腰程度の高さ。身を乗り出したらなんて想像したくはない。

『…ワタシはハルーリー・パラディーソ。ハルルと呼ばれた方が嬉しい。』

名前が二つ有る。こいつも、被害者なんだ。

何となく、俺もハルルの隣に腰を下ろした。後ろが空だと思うと背筋が寒くて…癖になる。

目の前には広場に打ち捨てられた道具と、大きな門、その向こうに幽かに透ける家々。この場所は町から突き出し天井も無いから、牢のような鉄柵の圧も相まって外界から隔絶された虚しさを感じる。俺とハルルの、二人きり。

『キミ…重症者なんだろう?羨ましい。』

『は…何で…?』

俺はまた気付かずに、世間知らずを露呈したか?

否、こいつ…重症者が、羨ましいと言ったか?

『コッチがナニか新しく言うタビにゴチャゴチャゴチャゴチャ悩んで、まるでヒトツずつ噛み締めてキオクをハンスーしようとシてるみたい。チガウ?』

何も間違ってない。そうか…記憶喪失って、側から見たらそんな風に映るのか。でもそれって仕方が無いだろう。外から物を取り込むには噛み締めないと飲み込めないのは食事と同じで、記憶が無いと何をどれだけ取り込めば良いのか取捨も選択も難しいから手当たり次第に咀嚼して、時間が掛かる。

『羨ましい…。』

さっきから羨望が煩い。否、この眼差しは本物なのか?こう言うのは何て言うんだっけか?馬鹿にしてるみたいにも…

『一体、何が…』

『イヤ、妬ましいと言い換えよう。』

ハルルの目に相変わらず光は通らないが、キンッと凍るような冷たさが宿った。でもまた直ぐに緩む。冷たくも温くも無くなる。詰まりは生気が無い。

『は?』

『キオクさ。すっかりナくて、羨ましい。このマチで、キオクなんかイラナイ。キオクがあれば…一層帰りたくなってしまう。外の世界に。』

みるみる心が黒く蝕まれる。昔何処かで見たな。手紙がゆっくりと焦げてゆく様に似てる。

ルートリーに向け芽生えた憎しみが蘇る。

『何度、船を出そうと思ったコトか…でも、とても怖くて出来なかった。自死と同じ行為なのだから。』

ハルルはハルルで、憎しみを目で飛ばしてる。その真っ直ぐな眼差しの先には鉄門が聳えてて…きっとこいつはこいつで、今座る此処を牢獄に見立ててる。

『ワタシは10年前…15才という若さで飛ばされた。ノドカな牧場で、ウシとトリと、父と母と妹と暮らしてた。いつか恋人が出来るコトを夢見てた。恋人と結婚して、妹の巣立ちを見送り、父母の旅立ちを看取るつもりだった。どれも私だからこその希望、私にしか出来ない希望だったのさ…。』

15才は、プリマの一つ上だ。自分が何才なのか、15才の頃にどうしてたのか記憶の無い俺には、若いかどうかは今一つピンと来ない。

ウシって何だっけ。動物だよな?やっぱり外の世界にはマミムって居ないんだな。ウシはマミムと何が違うんだろうか。

『そんな家族も…今はもう、ワタシなど死んでしまったとでも思っているのだろうか?ミズルはとても残酷だ。被害者の記憶の程度が、それぞれだなんて…仲間意識が希薄にならないか?ワタシがオマエを妬むように。』

さっきはルートリー、でも今度はミルハンデルの顔を思い出す。

ルートリーもお前も、結局乗り越えて仕事してる奴が偉そうにするなよ。

絶望を乗り越えることは、希望を諦めることだ。10年だろうが15才だろうが、結局諦め切れる程度の望郷が、他人が奪われた物を引き合いに出して偉そうにするな。

でも、ミルハンデルが居て。乗り越えるべき絶望すら存在せず、既に淡々とこの町での初仕事を華麗に終えたミルハンデルが居る。

望郷の念が、失った物を取り戻したい心が全ての者に等しく備わってると言う訳ではきっと無いのだろう。

バサバサと音がする。黒い羽根が舞う。広場に鳥が一羽、戯れに降り立って白い塵を啄んで弄り出す。

『ハハ…ッ、オーイっ!チョット早いゾーっ!』

ハルルは身勝手にもまた生気を捨てた。正直、ハルルのことが気に食わないかどうかは、未だ判別が付かない。

重症者を妬む程故郷と家族への情を持ってたハルルは、如何にしてそれを乗り越え葬送屋を始めたんだろうか?だってこんなこと言って俺の心を逆撫でしておきながら…乗り越えてなきゃ、やらない筈だ。葬送屋だなんて生産性の無い、終着点のような仕事。

ゴードルンはハルルの仕事を『変わった葬送屋』と評した。ハルルが独自に編み出した、この町の理に適った弔い方だと。

やっぱりこの葬送は見ておいた方が良い。だから待つ。塵を啄む鳥の、ギョロギョロと気持ち悪い目の動きでも追って気不味さを持て余しながら。


担架に載せられて迎えられた婆さんは、鉄のベッドに丁寧に捨てられた。

寝る婆さんの顔は、笑顔では無い。眠ってるみたいだ。だから、安らかとは言えるのかも知れない。

『…見てくー?』

『いや、いいよ。俺、あんたの世話になったことは無かったけど噂はみんなから聞いててー…信頼してるからっ。婆ちゃんの生を、無駄にはしないって。』

『…ハッハ!モっチロンっ!』

どうやらビスカは下での仕事が片付いたみたいで、チェスタとビスカが片方ずつ担架を担いで、婆さんを此処まで運んで来た。ユトピは付いては来たけど、本当に只付いて来ただけみたいだ。それにもうすっかり落ち着いて、余計な気を使わなくなって、初めて会った時のユトピが戻って来てる。勢いは未だ足りないけど。

『じゃあユトピも帰るらしいし、行こうルクス。』

ビスカが空になった担架を脇に抱えて冷たい門を潜ろうとすると

『アッ!待ってよ。コイツ、置いてってくれタマえ。』

『…ん?』

ハルルは俺の裾を掴んで、尊大な癖に何処か戯けた声を上げた。

『ヒトデを借りたくてさ。ダイジョブ。時間は取らないから。忙しい?』

海星…?何か、そんな名前の生き物が居た…否、この場合は人手か。こいつは、文章はおかしくないのに喋り方と声が変で…何故か、何を言ってるのか分かり難い時が有る。

『…まー、今日の仕事はもう全てキャンセルになったようなものだし、良いんじゃないかー?今、次に大事なのはミルハンデルだ…ルクスー、俺たちはとりあえず診療所に戻る。早く済むようならまた来てくれー。遅くなるようなら、そのまま家へ帰っても良いぞー。』

婆さんが死んで、此処まで運んで来て、ユトピの悲しみも下火になって、だからチェスタも一段落して軽く呆けてるようにも見える。それに確かに次に解決しなければならないのはミルハンデルの身の上で、その為には今は其処まで人手は要らないだろうし、記憶も持たず自分のことすらどうにも出来てない俺が居ても邪魔なだけだと思う。

『分かった。じゃあな。』

こくりと頷き、チェスタは浅く手を翳す。ビスカは首を向け、目線で挨拶してくれる。

『じゃ…またな、医者っち。悪かったな。ありがとう。』

ユトピはボンボンと両肩を叩いて笑顔をくれた。そう言えば俺はこいつに『出来ない癖に』とか一方的で偉そうなことを言われて不愉快な思いをしたんだったが、まさか今の言葉一つだけがその謝罪な訳では無いだろうな?『また』と言うのも何なんだ?俺がお前の菓子屋に、豆の菓子でも貰いに行くのか?

3人は牢の外へ出て、重い門は地面を削りながら閉ざされる。

『…人手って、何に必要なんだよ。俺、片手しか使えないから…』

さっき出して来た大きな甕を婆さんの枕元へ引き摺り寄せながら、ハルルは目線だけで俺に仕事を指図する。取り敢えず大きな筆を1本、松明を2本抱えて同じ場所へ運び、人手として動いてみる。

『目んタマはフタツ付いてるんだからジューブンだろ?ヒトデとは、旅立ちのギャラリーのコトだよ。キミ…ソーソーを、見てみたかったんだろう?』

俺って何処まで分かり易いんだ…?思ったことを直ぐに理解して貰えて望みが叶うことはとてもありがたい筈なのに、何故こんなにも嫌な気分になるんだ。恥ずかしくて、素直に受け入れ難い。

『サテ…コレ、シのカクニンはしてる?』

『確認…?あぁ…確認は…』

ハルルは何の抵抗感も出さずに、渇かんとする婆さんの顔に顔を近付けた。

ミルハンデルも確認を気にしてた。何度も何度も…確認した所で、絶えた息が吹き返すことなど有る筈が無いのに。

『ちゃんと、死んだかどうかカクニンしないと…放っとくコトなんてデキナイよー……うん、イキはナイなぁ。ミャクは…ナイ…か?ナイかな?専門じゃナイから、わかんナイー……ほっ!』

ドゴォッ!と、鈍くて重くて柔らかい音が響き渡る。

ハルルは短いズボンから伸びた足を大胆に上げ、横たわる婆さんを踏むように一蹴りした。

『えっ!?』

『おらっ!おりゃっ!』

もう一蹴り、更に一蹴り。

『はっ!?おい!やめろよ!確認は、ミルハンデルがしたから!』

婆さんはもう痛みも屈辱も感じることは無い筈なのに、ハルルのこの蛮行を看過ごすことだけでも疚しく思えるのは何故だ!?

『……フンッ、マー、死んでるでしょー。』

ハルルは婆さんがぴくりとも動かない無生物で在るとその目で確かめて、満足そうに鼻を鳴らした。あたかも嗜虐的に見えるけど、気の所為で良いんだよな…?

『ホラ、死んでないのに動けなくて食べられるなんてカワイソウなコト、有ってはならナイじゃナイか。』

『食べられる…?』

うん。きっと気の所為だと思われる。ハルルは言葉に胡散臭い実演を交えて、こいつなりの葬送について説明しようとしてくれてる。

『サテ。ツギは味付け。』

続く工程は、大きな筆を甕の中に思い切り良く突き刺し浸ける。ズブッ…と、粘度を持った音が立つ。

引き抜けば芳香が舞う。甘い…少しだけ、塩気が有る?どうやら油みたいだ。それを、筆を使って婆さんに塗りたくり出した。服の上から、豪快に。

一気に、これから何が起きるのか予想が付かなくなる。

『チョイチョイ。アレも持って来てよね。』

目が二つ有ればと言いつつ、ハルルは次々顎で指図する。振り向けば広場の真ん中に、さっき抱え切れなかった2本の篝火台。

『このベッドの両ワキに、一本ずつ立ててくれ。ア、あまり近付けスギず……アァ、遠い遠い!もうイッポ近く…!』

何だかんだ働かされてる。まぁ、暇よりは良いか。周りにはすっかり油の匂いが広がってる。でもこれは恐らく食用の油。

ハルルは何がしたい?婆さんの死体を胃袋に仕舞って処理しようとしてるのか?

『……コレぐらいで来るかな…?マ、アトは喰い付きシダイで足すか。』

べちょべちょと筆を押し付けて止めを刺したハルルは、既に照らされた松明から火を採り2本の新しい松明を灯した。これが、点火した途端にもくもくと煙が溢れ出して目が痛い。俺が咳き込む間に、ハルルはそれぞれを脇の篝火台へ立てる。

『行こ。』

ハルルは面倒臭そうにずるずると甕を引き摺る。ずっと訳が分かんないまま、付いて行く。小屋の近くに向かうから入るのかと思ったが、ハルルは甕を適当に打ち捨てた後鉄門の方へ向かって…冷たい門に背中を付けて、地べたに座り込んだ。真似をして座ると、低い台に寝かされた婆さんと、丁度同じくらいの目の高さになった気がする。

広場の端から端を眺めて、何が始まるんだろう。あの油は魔法の薬で、あの松明に灯る炎は魔術の炎で、超常的な力で死体を消し去ろうとでもしてるのだろうか?

『ワタシの家系は、何代もマエから農場をやって居たんだよ。ウシとトリ…と言っても、ゼンブで4種類在るんだ。ワカル?』

『は…?』

何が言いたいのか全く理解出来ない。勿体振らないで欲しい。この町に飛ばされたばかりの時プリマやチェスタの話を聞かされて、勿体振ったいけ好かない奴らだって思ったけど…被害者の知り合いが増えて思った。外から来た奴らの方がよっぽど勿体振って手間が掛かる。

『マー、ウシをマミムに置き換えたらゼンブワカルと思うケド…ニクになるウシ。チチを採るウシ。ニクになるトリ。タマゴを採るトリ。ウチの牧場には、この4種類が暮らして居たんだよ。』

成る程。考えたことが無かったけど、確かに。乳や卵を採るなら健やかに育てないといけないし、肉を食べる為に殺したら、もう乳は出ず卵も産まれない。効率良く、用途別に生産するんだ。

『ワタシはモノゴコロ付いたトキからずっと、フシギで仕方がナかった。同じ種族なのに、ベツのバショに飼われ…しかも、チチのウシやタマゴのトリも、サイゴは捌かれニクになり消えるんだよ!』

それも考えたことが無かったけれど、考えてみたら分かることだな。多分乳や卵って、子供を育てる為に必要な物だから。年を取って子供を産めなくなったら、乳や卵も出なくなって…役に立たなくなったら肉にして食べることが活用だ。何が不思議なんだ?

『ニクのウシやトリは太らせて元気なウチにコロす。チチのウシはコドモを産ませてチチを絞って、チチが枯れたらまたコドモを産ませてチチを絞る繰り返し…産めなくなったら、ニクにする。コドモが飲む分のチチなんてモッタイナイから、オヤコはスグに引き離すよ。オスはニク、メスはチチ。タマゴのトリは、ホッタラカシ!産めるだけ産ませて、産まなくなったらニクにする。』

……少し、不思議になったな。でも、何が不思議なのかが言い表せない。さっき、婆さんを蹴るハルルに覚えた不快感に似てる。食べる為に、欲しい物を採取する為には、とても効率の良い手段に聞こえるんだけど。

ハルルの変な話に耳を傾けてたらいつの間にか、鉄のベッドに合わせてた筈のピントはズレてきて…白い物がチラチラと目に障って、思い出すように慌てて嵌め直した。さっきの奴とは別の鳥。べたべたの婆さんの顔に降り立った。あの顔が自分で、生きて感覚が在ったとしたならばとても嫌だ。

『フシギなんだ…肉も乳も卵も、牛も鳥も人間も同じ世界の生き物なのに、人間だけが都合に合わせて効率的に動物を飼育して、採取し、屠殺し、使役して…ショージキ、罪悪感などナイ。タダ、理由が知りたいダケなんだ。』

罪悪感…?この、じっとりと留まる不快感の正体は罪悪感なのか?何が罪悪なんだ?生きる為に食べ物を用意する牧場の、何が罪悪だ?婆さんに対しては、何か悪いことをしたか?

2本の煙はもくもくと天に昇る。それに隠れて、今度は黒い影が広場にやって来たみたいだ。さっきの鳥なのかどうかは分かんない。

『キミは、キオクを奪われトばされて…今、どんなシゴトをしているの?』

『は…?』

この話、いつまで続くんだよ?葬送も全然始まらないし。時間は取らないって言ってなかったか?

『俺は、さっき来たチェスタとビスカと一緒に何でも屋をやってるよ。』

『ナンデモヤ…?』

何でも屋って、何でもやるだけの分かり易い職業な筈なのに、前例が無いってだけで人々の理解に一手間が加わって非常に面倒臭い。

『ナンデモヤ…何でも屋…?ドコかで聞いた…気のセイ?マ、イーヤ。フーン。』

何だよ、聞いたこと有るのかよ。しかもそっちから聞いておいて、まぁ良いやって、失礼だ。チェスタ達って、何処まで知れ渡ってて、何処に知れてないのか良く分かんないな…。

『ワタシは15才と言うコドモの時分にやってキタけど…15才じゃあ、もうこのマチのヒトビトはミンナ自立して働いているそうだね。だからワタシは、どんなシゴトをシようか…牧畜?ソレトモ…?そう考えたトキ、ニクとチチとタマゴを思い出して、この葬送屋を思い付いた。』

独特な音波でゴチャゴチャと、言いたい順に散らかして来やがって。この話の行き着く先が、さっぱり見えない。

葬送も見られない。帰れば良かったかな…?溜息を吐くと

『キヅイテる?もう、ハジマッテる。ちゃんと、眺めて。』

そう言って、ハルルもひとつ溜息を捨てた。ハルルの話の中を迷子になって、のぼせたみたいに頭がぼやけてまた視界が朧になってたことに気付く。

ギュッと目を閉じて勢いを付けてから見開くと、婆さんに群がる鳥はもう2羽増えてる。小さい奴と、この中では一番大きいやつ。4羽で仲良くツンツンと…啄んで味見してるようにも、突いて遊んでるようにも見える。否…仲良くって言うよりも、様子を見てるのか?出方を伺ってるみたいだ。

『コノヘンを通るトリって、ナンデモ食べるんだよ。死んだニクも、オイシイみたい。ニオイを付けて…あとは、ケムリで知らせると、ヨってクる。』

『……は?』

ちょっと待てよ。これが、葬送なのか?

味を付けて、鳥達の胃袋に収めさせるんだ……時間が掛かりそうだ。

また一羽、飛来した。先ずは鉄の寝床の傍らに降り立ち、様子を見てる。

『キミは…魂の在処とはドコに存在すると思う?』

こいつは本当に俺に語り掛けてるのか?こちらの応えも待たず、まるで一人で喋ってる。自問…否、自分に言い聞かせてるみたいだ。

『トリの魂とは…ウシの魂とは。チチのウシの魂と、ニクのウシの魂の場所はチガウのか?イキモノの魂は……では、死者の魂は?あの…バーサンの魂は、死んでドコに行った?消えた?アソコで啄むトリたちの魂は、このアトどうする…?』

『はぁ?おい、いいかげんに…!』

捲し立てられて、焦燥が酷く煽られた。魂って何のことだ?死んだら何処かに行く物なのか?死とは、魂の旅立ち?死とは魂の消失?息が絶える前…紫の子供達を探してた頃の婆さんには、魂が宿ってた?

何がそう思わせるのか…神のことを思い出した。神だろうが、ミズルだろうが…見えない物に無理矢理想いを馳せようとすると、どうしても都合良く結び付け頼ろうとしてしまう。

『……魂とはナニモノか。タマシイとは平等に在るべきか?ワカラナイ…ケド、コレがワタシなりのアプローチ。』

鳥に食べさせたら、魂はどうなるんだ?天に運ばれる?

それとも齧られ血肉にされることによって、肉になった動物達と平等な顛末を味わせることが出来る?

『死体をエサにして、トリたちに食べさせてー…食べ尽くさせたらあのヒモを引っ張って集まったトリを一網打尽にしてニク屋に持って行かせるんだよね…このマチはニク不足だから。』

回りくどいし要領は得ないまま苛立ちは治らないが、漸くこの葬送の全容が見えてきた。

あの網の敷物は、罠だったんだ。よく見たら紐が伸びてて、広場を囲う柵の上を通ってこちらに繋がってる。何処か得意気な笑みを浮かべるハルルが手を伸べ示す先に、その端が垂れてる。

成る程。きっとゴードルンが言ってたように、この町の需要に適った理の有る方法なのだろう。墓にもしない死体を処理出来て、不足してる肉も少し調達することが出来る。

魂と言う存在に就いて、これがどうして答えになるのかは分かんない。さっきの不快感の正体が何なのか、何故罪悪感なのかもぴったりと嵌まらない。

でもきっと、ハルルの気が済むならば、それが一番の手段だ。遺された者達…ユトピやハニャの気じゃない。ハルルの気が済むことが肝要だ。答えを求め思い馳せ彷徨う者にこそ、答えを決める権利が有る。神を必要とする者にだけ、儀式が必要なように。

『……これ、いつになったらあいつらは全部食べ終わるんだ?』

4羽の動きは忙しなくなってきてるけど、肉を千切って口に含んでるのかは遠くて良く見えない。一歩引いて眺める1羽は未だ参加すら出来てない。

『ンー…アイツらだけでゼンブ食べ切れるワケじゃナイからねー。オナカイッパイ食べて飛び去って次のヤツが降り立って…3〜4日くらい?』

『は?時間は取らないって言ってただろ!俺はいつ帰れるんだよ!?』

『ハ?じゃあ帰れよ。』

『はっ…!?』

キッと睨み付ける冷淡な顔と冷淡な高音…勝手過ぎるだろ。だったらせめて最初から、趣旨を教えておいてくれよ…。

『ドー思った?ワタシのハナシと、トリに貪られるバーサン…。』

…こいつは何で、俺に葬送を見せてくれたんだろう。俺が見たがってそうだったからってだけじゃないんじゃないか。俺に何か、感じさせたかったんじゃないか。

何を感じさせたかった?何もかも忘れて尚被害者面する重症者を妬んだ嫌がらせかよ。

『…確かに不思議な気もしたし、少し嫌な気分がした。でもそれ以上は良く分かんないや。』

『イヤなキブンとは?』

嫌な気分という言葉に反応して…意外なことにハルルは、意外そうに目を丸くした。

『多分、罪悪感…?だと、思うんだけど…。』

『………フ。フハッ!』

罪悪感という言葉には、鼻息みたいに間抜けな笑みを溢した。何なんだよその笑い方は。

こいつはずっと俺を馬鹿にしてやがる。人を馬鹿にして、ミズルの理不尽を恨んで、その癖重症者を理不尽な理由で妬んでやがるんだ。でも、性格の悪い嫌な奴…って思う気になれないのは何故だ?

出会ってしばらく、チェスタにはムカつくことが多かった。ルートリーに、記憶が無くて良かったなと言われたら、途端に憎しみが湧いて来た。俺の思考を振り回し頭痛を生んだハルルには…何故か、怒る気にはなれない。

こんな奴、初めて出会った。他所に同じような奴が居る気もしない。

変な奴……!

『注文した通りのカンペキなシゴト振りをドーモアリガトウ、ナンデモヤ。』

ハルルはこちらに向き直り、ニコリと満面の笑みで右手を差し出して来た。ハルルも俺のことを、妬みはしても嫌いはしないでくれてるみたいだ。でも……

『あの、ごめん。腕が…。』

俺の右腕には、他人の右手を握り返す為の物は何も付いてない。おたますらも失ってしまった。

『…ムッ。見えてるよ。シツレイな!』

ハルルは口を尖らせると、俺の重くて寸胴な腕を両手で引っ張り、ぶんぶんと撓ませた。

『ワタシはこの初めて見るユカイな腕とアクシュがシたかったの!』

この腕が見えてた上で、全然驚いてなかったんだな…まぁ、そういう奴も結構居る。こんな腕を他に見たことが有る奴には、未だに出会えたことは無いけど。

本当に変わった奴だ…手の無い腕と握手がしたいとか。ふざけてると思うのに、悪い気がしない…。

『ツイデにサ、気が向いたらもう一つ頼みを聞いてくれナイ?』

『…何だよ?』

ハルルはもう一度、眠る婆さんを指差した。

今思い出したけど、あれは祭壇に似てる。台の上に何かが供えられて、左右に灯りが焚かれて。祭壇って、何に使う物なんだっけか。

『あのアミでトリを捕まえたら、ニク屋に引き取って貰うんだけど…ニク屋はニクを捌きベントー屋や食事ドコロに配るのがシゴトだから、忙しいとナカナカ来てくれないコトも多くてね…ワタシヒトリだと大量のトリの相手はタイヘンなのだよ。ワタシのパートナーになるような腕の良いニク屋…イヤ、狩人がイチバン良いな!動物をシトめるコトにこそ長け、捌くコトもデキる狩人を見つけたら、ゼヒこの葬送屋に紹介しろ!』

『はぁ…!?』

何と言うことだ。また上の階の奴に依頼をされてしまった…この連鎖は、いつまで続くんだ?これもチェスタに怒られるか…?

『…まぁ、もしもそういう奴を見付けた時に、紹介するくらいなら…。』

『ヤタッ!』

ギュッと目を細めたハルルは、喜びの勢いのまま飛ぶように立ち上がる。

『ヤクソクだよ?じゃ、バイバイ。』

『はっ!?』

閂を抜いて、ズルズルと鉄の門を押すハルル…。

本当に勝手な奴だ!

何故だ…何故、怒る気になれないんだ?訳が分かんなくて、怒りが湧かない自分の方に憤りを覚える…!

『ホラ、さっさと帰れば?』

追い出されてるみたいだ……折角なのに勿体無い気がして、最後にもう一度鉄の祭壇へ目を凝らした。

一羽増えてる。否、さっき眺めてただけの奴が参加し出したんだ。あの赤いのは…血か?はっきりしない。でも、婆さんの旅は次へ進めるみたいだ……鳥の一部になって、その鳥はきっとこの町の誰かの一部になって、そいつが死ぬ時はまた、此処から旅立てば……

この町の人間は、永遠にこの場所に縛られて、永遠にミズルの物として生きることが出来る。

………それが、ハルルの答え。

神を必要とする者にだけ、儀式が必要なように。


俺はそう感じるってだけの話だ。走った後なんかよりも、頭を悩ませて神経を使った後の方が断然、疲労感が凄まじい。

人の死が迫る火急の事態にどうにかしろとかせっつかれて、救世主のように現れた医者はさっき飛ばされて来たばかりの被害者、死体の処理を頼みに行った先の葬送屋は理不尽な妬みを一方的に押し付けて、小難しくて独特で超越的な…意図不明な話を長々と!

未だ空は青く清々しい。でも長過ぎる一日だ。風呂に入りたい。否、その前に体操がしたいかな…若しくは、一度思い切り叫びたい……ん?その前に、飯か…?

遅くはなってないと思うから、未だ皆診療所に居ると思う。ミルハンデルの処遇について話し合ってる筈だ。

扉を叩くと、暫しの後チェスタの手に依って開けられた。奥にミルハンデルが居て…ビスカ、チェスタ、ゴードルンと、男三人で囲んでる。

『ルクス…早いなー。もう良いのか?』

『あぁ……これ、俺は座れるのか…?』

一目瞭然なんだから、無理だと分かって聞いてる。今日は疲れたし、もう帰ってやろうかな…?

『否、粗方話は終わってるんだ。然うだろう…ゴードルン?ルクス…私は、此処で暮らしながら医者をやる事にするよ。何やら、丁度席が空いて人々が困って居たらしいね。』

やっぱりミルハンデルは淡々とこの状況を受け入れて…ほんの少しだけ悲しいことのような気がするのは、何故だ?ハルルが見たらきっと、羨ましくて憎らしいんだろうけど。

『そういう訳でルクス…ミルハンデルが、ロラサンの代わりになってくれることになったよ。お前が今日まで協力してくれたお陰で、ミルハンデルと出会うことが出来た。本当にありがとう…。』

本当に、そうか?

俺の力が何か作用してミルハンデルをこの場所に引き寄せた訳じゃない。だからゴードルンの言うことは決して正しくない。

でも俺の4日と少しの苦痛と奮闘は、ミルハンデルに出会えるまでの時間稼ぎだったんだって

無駄にならなくて良かったという、安堵が溢れてる。

溢れる程に納得が行かなくて恐ろしくて……

何故こんなにも急に都合良く全てが解決するのか戸惑いが拭えないし…ミルハンデルは、本当に良いのかよ…?

『何でも、此の町では人々の為に働いてさえ居れば安寧と安定は保証されて居るらしいね。医者をする以外に取り柄の見当たら無い私には有難い。直ぐ側にゴードルンが住んで居て助けてくれるし、人々にも必要とされて居るのならばやらない手は無いだろう……ルクスは少し遠くに住んで居るらしいが、此れからは同じ町の住人と言う事で…どうぞ宜しく。』

ミルハンデルはニコリと微笑んだ。まるで、本当にこれで良いみたいに…。

『ルクス…我々が此処で役に立てそうな事はもう余り見当たらないしー、そろそろお暇しようかと思うんだ。どうだろうかー、ミルハンデル…?』

チェスタが顔色を伺っても、ミルハンデルの姿勢は崩れない。

『ああ…そうだね。遠くに住むと言う君達の時間を余り煩わせても、仕方が無いだろう。今日は本当に有難う。助かった…感謝する。』

『いや…こちらの、言葉だー…。』

チェスタの最後の一言は、何処か力無くて気不味そうだ。

チェスタはぎこちなく診療所を後にして、ビスカも立ち上がり続く。ゴードルンとミルハンデルも次々出て来て、階段の手前まで見送りをしてくれる。

『じゃあ、またいつか。今度は酒でも飲もう!』

『あー、そうだな…またな、ゴードルン。』

『ミルハンデル、しっかりやれよ。応援してる。』

『あぁ…ビスカも、またいつか。ルクスも、またな!』

ミルハンデルの顔と手がこちらを向く。ずっと淡くて、ずっと微かに笑顔だ。

俺とか…ハルルとか、ミルハンデルとか、ゴードルンとか、ダンダリアンとかビエッタとか、ルートリーとかプラツェとかポロップとか…被害者って、一体何なんだ?

町育ちの奴と話すよりも、人生の道半ばでこの町と言う牢獄に飛ばされて来た被害者達と話す方が、孤立感が深まるのは何故だ?

今、一番話したくないのは、未だ出会ったことの無い自分以外の重症者なのかも知れない。

もしそいつも、ミルハンデルみたいにあっさりと故郷を手放せるような奴だったとしたら…俺は、俺は何でこんなに辛いんだよ?

『…よし。行こうー、二人とも。』

『あぁ。行こうぜ、ルクス。』

チェスタとビスカが歩き出す。半ば呆けながら付いて行って、通路を渡り、階段を下りながら…

『……なぁ、ルクスー。』

チェスタが徐に口を開く。ビスカが居るのに、俺の方に向けて話し掛けてくるなんて珍しい。

『ミルハンデルを、どう思う?』

『…はぁ?』

意図のはっきりしない問い掛けには今日はもううんざりで、明ら様に拒絶的な声を上げてしまった。チェスタは不思議そうに眉を顰める。

『…でも、いい奴そうだよな。前向きそうだし、ちゃんとした医者みたいだし…あいつのお陰で、俺たちも心置きなくこの仕事を終われるんじゃないか?』

ビスカがやんわりと間を取り持ってくれた。取り持つ為の適当な一言だけど、至極正しい。そう。あいつのお陰なんだ。まるであいつが…

『…やはり、そうだよなー。ミズルの、賜物だ。』

……そう。ミズルの賜物。

ミズルに飛ばされ、ミルハンデルはやって来たのだから。

医者が死んだ所にやって来た医者は、まるでミズルからの贈り物…。

『…ミズルが、医者が居なくて困ってた俺たちに齎してくれた、賜物?』

ビスカはフッと、吐息で笑った。チェスタはそれを見て、一呼吸呆けた後…口元が緩んだ。

俺はその一連の様子を見て、何だか羨ましくて妬ましかった。ハルルの理不尽な嫉妬の真似事のように。

これでもう、この話は本当にお終いだ。どうでも良いことなんか、有耶無耶にして。

自分の目的や周りの平和が、誰かの自由や幸せを犠牲にして成し得た物なんだって、そんな疑念を信じる者なんかきっと意外に少ない。

隣で愛する人が笑い飛ばしてくれたならば、尚更安心することが出来るから。

『ルクスー…第12階層が動き出すにはまだ少しだけ早いかもしれないな。どうするー?』

そうか…そんなこと、もうすっかり忘れてた。明日のことですら忘れてたんだよ。

『…今日は、やめとこうかな……ダンダリアンに、明日プリマと一緒に行くって伝えといてくれ。』

酷い疲れと苛立ちと、遣り切れ無さが靄のように立ち込めて、重くて息が難しい。

明日のプリマとの約束の為にも、今日は帰ってゆっくり休む…そして、明日は早めに仕事を切り上げるんだ。

『……そうかー。では、今宵はビスカと二人きりで楽しませてもらうとするかー…ふふふ…!』

チェスタはよく、こんな気分が重くなるような仕事の後で楽しむ気分になれるな。さっきの口振りじゃ、こいつだって間違い無く不信を抱いた筈なのに…自らを生かす、ミズルと言う機構に対して。

今は嘘のように、無かったことかのように、愛するビスカを揶揄って微笑んでる。

『な…何だよ…!?二人きりって…他の客も居るだろ!ビエッタとか…!』

ビスカは多分俺が来る遥か以前からこんな愛され方を続けてきたのであろう癖に、飽きもせず毎回顔を赤くして憤慨する。そもそもこいつが何に対して憤りを感じるのか殆どにピンと来ないんだが…だが、チェスタの感覚だけが少し掴めてきた。自分の発言が愛する者の心を動かすという事実は、恐らく快感だ。相手が、自分だけを見てくれてる。

だってこいつら、もう俺のことなんか見てないんだから。

『ふ…そうだなー。ビエッタは、きっと今日も居るだろうがー…それはきっと俺たちには関係あるまい。あっちはあっちでやるだろうー。』

『は…?』

ビスカは肩を透かされた様に小首を傾げて、俺には少し腑に落ちた。嗚呼、きっとダンダリアンも、チェスタとビスカが客だと楽な筈だ。チェスタはビスカとやるから、ダンダリアンはビエッタとやれば良いだけなんだから。

『よし!そうと決まればー、酒場が開くまで、どこか雰囲気の良い場所で愛でも語り合うとするかー…また明日な、ルクスー。』

『はっ…ふざけるなチェスタっ!本当にお前は馬鹿だっ!』

チェスタがビスカの手を掴み、見せびらかすように引く。慌てたビスカはその手をぶんぶん振って振り解こうとするから、二人は遊んでるか、喧嘩でもしてるようにしか見えないけど。

『あぁ、また明日…チェスタ、ビスカ。』

チェスタとビスカは脇に曲がった。雰囲気の良い場所って何処だろう。雰囲気がどういった物なのか、良く分かんないけど…外周へ回って、海でも眺めるのだろうか。俺は、この町の景色の中なら…って話だけど、海と夕べが結構好きだ。

俺は階段をひたすら下りて、真っ直ぐに家へ帰る。

プリマはきっと未だ仕事の最中だ。箱の上でガチャガチャ何かを弄ってるか、外に出掛けて何処かの小屋でも直してるか…夕の分の弁当も未だ出来上がってないだろうし、弁当はプリマの仕事が済んでから貰いに行った方が良いだろう。

医者が死んだ所にやって来た医者は、まるでミズルからの贈り物…果たしてそうか?

ミズルが作り上げたこの町へ、ミズルからの贈り物?

と言うよりは、修理みたいだ。そう呼ぶ方がしっくり来る。壊れた自己機構を直すみたいに、外部から取り込んで、動かして…何だか、病気みたいだ。

そうだ。風邪や筋肉痛が放って置いても治るのは、栄養を取って安静にして養生したら、身体の中で自己治癒力が働くからで…ミズルがミルハンデルを取り込んで、ロラサンと言う欠片を失ったこの町の歯車達は新たな欠片を受け入れて、またその内滞り無く回るようになって……ミズルはそうやって、この町と言う大きな一つの生物を育て生かし続けてる。

意思を持たない呪いが飛ばしてくれた奴が偶々必要な人材だったなんて話よりも、よっぽど納得出来る。

……本当にそうか?丁度席が空いてた?医者しか取り柄が無いからありがたい?

ミルハンデルがそう言うなら、納得するしか無いじゃないか。この憤りには、遣る瀬が無い。

ミズル……お前は、本当に存在するんだろうな?

神のように、何処かで…俺達を眺めてるのか?何の為に?目的すら存在しない程の、理不尽の為に?

いつか必ず、お前を見つけてぶん殴ってやる。

どんなに天上で嘲笑ってようが、其処まで辿り着いて掴み掛かってやるよ。

呪いを殺したら呪いは晴れて、海に漕ぎ出し故郷に帰れるようになるだろうか?

…そんなことは、今は取り敢えずどうでも良いんだ。殴らないと気が済まないんだ。

まるで遊びのように一つずつ人間を集めて、纏めて怠惰に飼い慣らすこの呪いを。

きっとそうしたら、ミルハンデルの目も少しは覚めるんじゃないか。故郷のことを思い出して、情熱を取り戻して……ルートリーとか、ダンダリアンとかも、被害者達で船を造って漕ぎ出して…プリマ達に、俺の故郷の素晴らしさを見せ付けられたなら。

プリマにいつの日か、俺の故郷の海と夕べを見せてみたい。

…叶え方の想像も付かない未来を空想する行為は、眠りながら夢を見る時と同じ部分を浪費してる気がして、虚しくて、癖になる。


***


第12階層。恐らく、一度だけ訪れて、何か料理を食べた事が有ると思うんだ。

でもそれはきっとやっと歩けるようになった頃で、何も覚えてはいない。その後、私はじいちゃんに誘われても『シブリーで良い』と一点張りだったみたいで…。

人が沢山歩いている。目が回りそうだけど、恐らくこれが酣では無く、これから陽が沈む程に賑わいが増し、大人は酒に頬を染めるのだと思う。

ルクスに導かれるが儘に階段を上り継ぎ、黄色い門を潜った。ルクスはどうやら、私が逸れない様に努めてゆっくり歩いてくれているみたいで…少し忍び無い。いっそ何処かルクスの端を掴んで喰っ付いて行きたいけれど、常に片腕の塞がったルクスにそんな事をしてしまったら、危なくて仕方が無いだろう。

低層とはまるで違う景色を進んで、恐らくこの階層の東端。突き当たりそうになった所で、ルクスは左手の小さな部屋の扉を開けた。

我が家に良く似た蒼い扉。壁の色が変われば、印象も少し違う。

『ダンダリアン…。』

『ルクス…待って居たぞ。随分可愛らしい家族だな。よろしくプリマ。』

ルクスは小さなカウンターの中に苦しそうに収まる大男を、ダンダリアンと呼んだ。じいちゃんのように無骨そうな男だが…こいつが、料理をするのか。

『よろしく、ダンダリアン。』

『嗚呼。さぁ、此の辺にでも座ってくれ。其の端は二人組には座り辛いから、またどうせ今夜もやって来る無愛想な小娘に座らせよう。』

逞しくても、笑顔はとても温かい男だ。きっとじいちゃんよりは、人と触れ合う事に慣れて居るんだと思う。

無愛想な小娘とは、そのような常連が居るのだろうか…私の事を表したみたいで、一瞬胸を衝かれてしまった。

促されて、私は一番左端の席に、ルクスはその隣に腰を下ろした。カウンターの中が少し見えて、中には何が何なのか想像も付かない大小の瓶や、食材が入っているのであろう箱が沢山積まれている。調理器具は、シブリーに教えて貰ったから少し知っている。寸胴鍋、フライパン、ターナー、おたま…あれは肉を切る包丁。あっちは魚。あれは野菜を刻む筈だ。

『昨日は大変だったらしいな…御疲れさん。だが、問題は解決したんだから、良かったじゃないか…。』

ルクスの今回の仕事について、私は殆ど何も聞かされて居ない。私がルクスに修理について話す意味が何も無いのと、理由は同じだ。

だが、ルクスが酷く疲れてそうだったことは痛く感じていて…階層の移動だけでも辛かっただろうに、何やら思いを巡らせて難しかったんじゃないかって、そんな風に見えた。

『チェスタ達から聞いたのか?』

『否、チェスタ達は確かに来たんだが…実はその後ゴードルンも来てな。俺は何もして無いってのに礼を言われたよ。俺のお陰でルクスに出会えた、ってさ。』

『何だよ、結局ゴードルンも来たのか?』

『嗚呼。チェスタと…ふっ。ふっふっふ……ビスカの様子を見て、何とも言えない顔をして居たな…ビエッタは怪訝そうだった。否…やっとビスカに会えて良かったな…。』

ルクス…私の知らない知り合いが、何人も増えたんだな。

良かった。これはきっと、これこそが間違い無く、ミズルの加護。

ミズルよ…貴方に奪われ舞い降りたこのルクスと言う細やかで尊い一つの命に、どうか安らかな幸を、一つでも多く与え給え。

『…ダンダリアン。』

ダンダリアンは蓋をした儘の浅い鍋と、隣に置いた深い寸胴鍋をそれぞれ火に掛け出した。ルクスが事前に約束を付けてくれて居たらしいから、きっともうあの鍋の中に食材を仕込んで待ち構えて居たのだろう。

『何だ?ルクス。』

ダンダリアンは足元からグラスと橙色の瓶を取り出す。注がれ、水で割られた橙は向こうの世界を透き通す。

『ダンダリアンは…否。ダンダリアンの故郷って、どんな所なんだ?』

故郷…私は、使った事が無い言葉。

しかし、きっと何処かで一度聞いた事が有る。そんな言葉を私に聞かせてくれたのは、きっとミスケ…。

『俺、記憶が無いから…聞いても全然分かんないかも知れないけど。』

ルクスはどうやら、本当に聞きたかった事を濁して着地したみたいだった。そしてそれをダンダリアンも察していて、温かな微笑みがルクスを宥めた。

『ふっ…其れを言ったら、プリマはもっと分からないんじゃあないか?お前さん、町育ちなんだろう?』

『ん、あぁ…外の世界の事は、分からない。プラツェが少し話していた事が有ったかな。外の事を話したがる被害者には、会った事が無いから…。』

故郷とは、外の世界の事だ。ルクスにとって、外の世界とは故郷。

『ははは、そうだな。べらべらと饒舌に過去を話したがる奴も居るが…余計な事は話さずこの町に溶け込む奴の方が、何方かと言えば多い気がするな。暮らしが軌道に乗れば、皆がそうなる。』

『……そうなのか。』

ダンダリアンがそう言うとルクスは意外そうで、気落ちした風にも見えた。

『…俺の故郷はプーフスクだ。とは言え傭兵としてあちこちを転々として…結局は三国全てに加担した。俺に取っては故郷等、在って無い様な物だ。』

プーフスクとは知らない言葉だけれども、恐らく国の名前だ。外の世界には三つの国が在るとは、プラツェが言っていたような気がする。国と言う物に何の意味が有るのかは分からないけれど、国とは只の単位で在り、塊。

ダンダリアンの言葉の一つ一つ、何がどうルクスに作用しているのか見当が付かないが、また微かに気落ちたように見える。

『…プーフスクって、町の名前か?知らないや…ごめん。』

ルクス…さてはこの話題を選んだ事を、後悔してはいないか?

望む答えが得られなかったのは、当てが外れたからじゃない……ルクスがダンダリアンに…否。それよりも私に、気を遣って本当に知りたかった事を素直に口に出来無かったから。

『お前は何と無く、ビルバルドの様だ。』

ルクスがこの男と懇意になった理由が見えて来た。

ダンダリアンは人の心の機微を、揺らぎを察知する事が出来る。それはきっとあちこちを転々としたと言う経験から培われた能力なのだろう。そしてその能力を活かす事の出来る、心根の優しさを併せ持って居る。

ルクスもダンダリアンも、お互いが優しいから友達になる事が出来たのだ。

『は…?ビルバルド?』

この言葉もルクスの記憶からは奪い去られて居るみたいだけれど、察するにこれもきっと…

『国だよ。外の世界の国。俺達外から来た者は皆、三つの国のどれかの人間だった。ビルバルド、ハールラマ、プーフスク…。』

国とは、きっとこの町に住む私には測り知れない概念だ……何故世界が、三つに分かれる必要が有るのだろうか?外の世界は折角、きっと素晴らしく広大な筈なのに。

『まぁ、三つの国に文明・文化的な違いは全く無い。只『敵』なだけだ。しかし何故だろうな…其の、穏やかな闘志が、何と無くな。お前の其の目は、ビルバルドだ。うん。』

『闘志…?』

ルクスは擽ったそうに小首を傾げた。

ビルバルドと言う国の事は一つも分からないが、闘志と言う言葉は腑に落ちる。確かにルクスには、鍋の底から静かに泡が立つような熱さが有る。激しくは無くとも、決して潰えず、薪を焚べれば沸騰してしまいそうな危うさを秘めた熱さが。

『俺はビルバルド軍として戦った事も有るし、ハールラマやプーフスクとしてビルバルドと対峙した事も有るからな…当たってると思うぞ。保証は無いが。』

ダンダリアンは寸胴を一つ掻き混ぜながら、隣の浅鍋の蓋を開ける。中には丸々と大きな魚が2匹、雑に重ねられて居る。部屋は芳しい蒸気に包まれて…不思議だ。シブリーの台所では嗅いだ事の無い香りだ。荒々しくて、心を揺さ振る。

『きっとゴードルンも言って居ただろう。』

2つの大きな皿に、丸々一尾ずつの大きな魚が乗せられる。弁当には切り身しか入っていないから、丸ごとを食べると想像すると…何だか、心が踊るな。

『此の町へ流れ着く者は、何故だか兵士が多い。お前も案外…兵士なのかも知れんぞ。あのふざけた腕も、何かを守って居たのかも知らん。』

そう言いながら、ダンダリアンは一つをルクスの前に、もう一つを私の前に差し出してくれた。ニヤリと笑って、どうやらルクスが救われる事の無さそうなこの話題には、一区切りの合図。

『…そんな訳が無いだろ。』

『…ふっ。さぁ、熱い内に食べるんだ。スープも今よそうからな。』

籠る蒸気の所為か、話が思うように行かなかった決まりの悪さからなのか、ルクスは気恥ずかしそうに左手と…おたまが消えた右手を合わせる素振りをする。

私も両手を合わせる。いつも必ず目を閉じて、シブリーの笑顔とマミムや魚の在りし日の姿を思い浮かべていた。でも今日は、目の前のダンダリアンを見据えて。

『いただきます。』

いつもと同じ様に、ルクスと声が重なった。

『おう。熱いから気を付けな。』

いただきますに返事が来るのは、久しぶりの感覚だ。プラツェの育て屋で、チェスタとビスカとスーピーと、皆でシブリーの弁当を食べた時以来。

切られていない魚は、何処から手を付けたら良いか分からない。一番美味しそうな腹の真ん中を突き刺して、巻き込んだ僅かな身を口に運ぶ。

自分の身体と世界との隔たりが消え去ったみたいだ。外から吸い込んで鼻を通る芳香も、口の中に運ばれて喉を通る熱気も、同じ味がするものだから

『熱っ…!』

思わず声が漏れそうになったけど、そそっかしいルクスが先に声を上げてそれを遮る。

『おいおい…だから、そう言っただろう?こっちも熱いぞ。』

ダンダリアンは笑い飛ばしながら、今度は椀にスープをよそって出してくれた。濛々と湯気が立ち込める。

『プリマも、気を付けてくれよな。熱いから、冷ましながら食えよ。』

『…あぁ、ありがとう。』

ルクスは余計に罰が悪そうだ。恥じる事など無いのに。熱い物に熱いと漏らすのは当たり前だし、美味い物に逸るのも又然りだし…何よりも今、私もダンダリアンも、とても楽しいのだから。

ルクスには納得が行かなかったようだけれども…私にはこれも、至極腑に落ちる。

ルクスには闘志が有る。きっと兵士に向いていた筈だ。兵士とは何物なのかは知らない。でもダンダリアンの口振りから推測が利く。兵士とは、何かを守る者。

ルクスの闘志は激しくは無いが確実に其処に有り続ける…それで居て、優しさも持ち合わせて居るのだから、ルクスはきっと大切な物を守るのに向いている筈だ。

ダンダリアンを信じてみよう。

ルクスは、兵士。

ルクスの故郷は、ビルバルド。

ビルバルドって、一体どんな景色なんだろうか?人々は…ルクスの、家族とは?

いつか、見る事が叶ったら良いのにな。

ルクス……私の故郷は、この町だ。

この、名も無き吹き溜まりの温かさに、これからもお前が触れるように……

お前の故郷の温かさも、いつか私に見せてはくれないだろうか?

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