第12階層。

『プラツェ。これ、洗濯したシーツ。あっちに干しとくか?』

左手のみで雑に掴んだ大きな白い布を見せびらかすと

『あぁ、ご苦労さま!頼んでも良い?1人でできるの?』

プラツェは心配する振りをするけれども本当は、俺が意外と粗方何でも出来るってことをもう分かってる。

そりゃそうだ。俺は何でも屋なんだから。

『出来るよ。あの程度の高さの物干し竿……あ、そうだ。序でに弁当をくれ。』

『あらそう?2つ?3つ?』

『今は仕事だから3つ…。』

『はいはい。シブリー!ルクスに3つ、持たせてやってよー!』

プラツェは、女にしてはかなりガッシリとした身体を翻してシブリーに指図する。この夫婦は2人とも体格が良くて何だか似た者同士だ。まるで姉弟のように。

プリマが弁当に関してちょくちょく口にしてた『シブリー』とは、弁当屋の名だったみたいだ。そしてシブリーの嫁は、育て屋のプラツェ。子供の頃のプリマ達幼馴染の面倒をよく見てたのもプラツェで、プリマ達はプラツェの下で仲良くなったらしい。

プラツェは元々被害者で、若い頃に飛ばされ幼いシブリーと出会い、シブリーはプラツェに憧れ、成長してから愛を伝えて結ばれ…そうしてもう20何年らしい。

とても不快な話だ。この辺の子供達には憧れのラブストーリーらしいが…。

しかもプラツェは全ての記憶を保ったまま飛ばされて来たらしい。プラツェにはきっと、俺の気持ちは分かるべくも無い。

何でも屋の仕事は本当に何でもだった。

朝に起こしてやったり、失くし物を探したり、ゲームの人数合わせだったり。

何故か特に洗濯の仕事が多い気はする。誰かが洗濯屋をやれば良いのに。

他の仕事の助っ人をすることもよく有った。

階層毎にどんな仕事をどのくらいの人数でやってるのかは区々で、何でも屋はそんなバランスを調整できる点でも重宝されてるらしい。

スーピーの掃除を手伝ったり、プラツェのところの子供の面倒も手伝ってやったりした。

少し階を移動する依頼も有った。

第1階層…つまり地面には広い林が在って、草を刈ったり枝を切ったりさせられた…俺はあんまり役に立てなかったけど。

第3階層には水を作る施設が在って、林の近くで作られた炭を運んでやった。

プリマの家やチェスタ達の家が在るエリアは居住区とでも呼べば良いような家だらけのエリアで、もう少し外側に、下の階層に行く程に、林やら牧場やら畑やら、命を生み出す為の施設が見付けられた。

牧場にはマミムと言う謎の獣が飼われてる。マミムは最初にこの島に存在した唯一の動物で、マミムはどうやらこの島にしか存在しない動物らしい。そのマミムと、あとは飛来した鳥も手懐け、2通りの肉か海の魚しか食べられる生き物は無いらしい。虫を喰うと言う強者も居るっちゃ居るらしいが…。

だからシブリーの弁当にも、マミムか鳥か魚が入ってる。

シブリーの弁当はとても美味いが、こんなに美味いのはシブリーの料理の腕前だけでは無く、大地が近い低層階ならではの新鮮な食材の魅力も大きなところとか。

『……終わった。もう良いかな。』

『あぁ、ありがとう!これ、弁当。チェスタとビスカにもよろしくね。』

『うん。じゃ、また。』

いつもみたいに布に包んでくれたので、俺は何か有った時に直ぐ左手が使えるように、いつもみたいにおたまの先に引っ掛けた。プラツェと、その奥に見えないシブリーに手を振って、育て屋兼弁当屋を後にする。

プラツェとシブリーの家は第4階層で、プリマの家とは程近い。だからプリマの家からチェスタの家への道順を、ほぼそのまま辿って戻れば良い。

骨みたいにスカスカの階段にももう慣れた。チェスタの家に入るには、必ずノックして返事を待たなくてはならない。

カンカン、と音を響かせる。意外と直ぐに扉が開けられる。

『ルクスっ!ナイス!おかえり!あ…弁当もサンキュ!』

何故かビスカは頬を染めて、少しだけ服が乱れている。何がナイスなんだ?

『おいおいビスカー、ナイスとはどういうことだ?俺はルクスのことが許せないぞー…邪魔をするなと、言ったはずだが…?』

『うるっさ!おい弁当食うぞ!すっごい腹減った!』

何が邪魔だって言うんだ?ちゃんとノックしたのに。そして声の大きさだけで言ったら、ビスカの方がよっぽど煩いが。

『ふ…ビスカは本当にかわ』

『うるっさ!うるさ!いただきまーす!』

ビスカは何かを誤魔化すかのように精一杯の大声でチェスタを遮ってから食べ出す。忘れてた事だったんだけど、食べる時にはいただきますって言うんだ。食べ物と、それを用意してくれた者には、感謝をしなくてはならない。

俺も何と無くシブリーの顔を思い浮かべながら、いただきますと呟く。チェスタもニヤニヤと笑いを噛み潰しながらいただきますと溢す。

今日の昼弁当はマミム肉の香草焼きをメインに、よく分かんない野菜を焼いたサラダとか、良く分かんない麦を合わせたもちもちの飯とか。よく分かんないのは俺が記憶を失ってる所為か、本当にこの島特有の良く分かんない作物を使ってるのか、よく分かんない。

シブリーの弁当は本当に美味くて、毎日食べても飽きないくらいだ。

弁当屋は他にも幾つか有るが、プリマだけでは無くチェスタ達もシブリーの弁当が特に好きらしい。

『うーん、美味いなー。このハーブは食べたことの無い香りがする…。』

『そうだな…不思議な味だ。ルクスはどう思う?』

『ん…美味いけど、食べた事が有るかどうかは思い出せない。』

『そっか…もしかして、外の世界には無いハーブだったりしてな?』

チェスタとビスカとは、少し仲良くなった気もする。

チェスタは相変わらず、邪魔だと言わんばかりの小さな圧を偶に浴びせて来るけど…何がどう邪魔なのか教えてくれれば良いのに。

『ごちそうさまー。』

『ごちそうさま!』

『ごちそうさま。』

食べ終わった3つの弁当箱は綺麗に重ねて、一番上に3つのフォークを纏めて入れておく。そうやってまた弁当屋に返すんだ。

『……さて午後の仕事だがー。昨日花屋に言われていた草むしりを手伝おうかと思うんだ。イズリンガル家の手前あたりの花壇から…』

ドンドンドン!

まるで何かの取り立てみたいに重く力強く轟くノック。

あいつじゃないか。

『チェスタぁあ!ビスカぁあ!ルぅクぅスぅううっ!』

バンッ!と、壊れそうな勢いで素朴な木の扉を開け放ち、現れたるは筋肉に大声を詰め込み開放する男、カストル。

相変わらず底抜けに喧しくて…底抜けに笑顔だ。

俺は必ずノックして返事を待てって言われてるのに、何でこいつはいつも勝手に入って来るんだ?

『ルクスぅう!』

バッ!とカストルが首をこちらに向ける。あの後も数回顔を合わせたが、こいつはどうやら俺のことを気に掛けてくれてるらしい。ありがたいことなのかも知れないが、暑苦しくて面倒でも有る。

『ルクスぅう…すっかり慣れたみたいだなぁあ。』

『…まだ10日目だ。』

そう。今迄の話は全てたった10日間のことだ。

10日の間にそれは様々な仕事をし、様々な人と話したものだから…まるでこの町に慣れ切ったこの町の住民みたいになってしまったんじゃないかと思えて怖い。そしてカストルはそんな恐怖を後押ししてくる。

『10日でこの風格は立派じゃないかぁっ!』

『うっぐ!』

バッシンバッシンと背中を叩かれる。さっき食べた物が逆走しそうになって、慌てて飲み込み直す。

『あー、カストル。今日も元気そうで何よりだなー。丁度昼飯を食べ終わったところだったんだ。』

チェスタが横から助けてくれる。こいつ、10日前と比べるとちょっとずつ優しくなってきてる気がする。プリマに向けてた眼差しを思い出して…もしかしてこいつも元々は優しい奴なんじゃないかって、思える時も…無くは無いかも?だけど…最初から続く意地悪な笑みを思い返すと、認めたくはない。

『そうかぁあ!昼はどこのメシだったんだぁあ?』

『今日はシブリーだよー。』

『おぉお、そうかそうかぁあ。俺はさぁ…久しぶりに第12階層で食ってきたんだよぉお。』

第12階層…行ったことが無い。

飯なんて第4階層のシブリーか、第1階層のランド、第7階層のドルードしか知らない。どれも弁当で、外で食べられる所を知らない。チェスタは、食事処が有るって言ってたけど…。

『12階層ー…?足を伸ばしたな…仕事でもあったのかいー?』

『あぁ、そうなんだよぉお。そこでお前らに頼みたいことがあるんだぁあ!』

カストルはバッ!と身体を広げて虚空を見上げながら叫ぶ。

『何でも屋ぁああ!荷物を運ぶのを、手伝ってくれぇええぃいい!』

…その広げた両腕は何だったんだ?

俺たちは床に座ってるのに、何に対して叫んでるんだ?

これは、助っ人系の仕事だ。そう言えば運び屋を手伝ったことは無かったな。

『おやー…運び屋は、今は比較的人数は足りていると聞いたがー。』

カストルは広げた身体を今一度畳みながら答える。

『あぁあ…普段は足りているんだがぁ…今回は量が文字通りのケタ違いでぇえ…なんでも、すっごい大食いで大酒飲みの被害者がやって来たとかどうとかぁ…。』

…金も何も作らず、何の秩序も持たずにやるからそんなことになるんじゃないのか?呆れてしまう。

でも…金も秩序も無いのに、何でこいつらはこんなに平和に暮らせてるんだ?10日間暮らして、争いも怠惰も見たことが無い。この話だって、只大食いだったってだけの話で、それだけならば笑い話みたいな物だ。

秩序の仕組みも作らずに、じゃあ今在るこの秩序は何処から生まれて来るんだろうか…?

『第12階層は、今ある食事処エリアの中では一番低い…低層階の新鮮な食材を求められてるエリアだからぁ、下から上への運搬がメインとなるぅ。ちょっとキツいが…いけるかぁあ?』

カストルは主に俺に向けて説明してくれてるかのように見受けられる。

10日間仕事してみて、どうやら俺は、腕にハンデが有る代わりかは分かんないが足腰はそこそこ強いらしいことが分かった。

まぁ、1階から12階までとか言われたらどうなるかは分かんないが…。

『俺は出来ると思うから、頑張るよ。』

『おぉっ!本当かルクスぅ!頼もしいなぁあ!』

カストルは大層嬉しそうに蹲み、両手で俺の左手を掴む。圧と言う物は本当に様々な種類が有るし、無意識にさも親切そうに掛けてくる分、カストルのそれはチェスタのそれよりも更にタチが悪い気もする。

『あー、ルクスは結構根性があるよ。なー、ルクス?』

出た。チェスタめ。10日間一緒に居ても、相変わらず偉そうに。

でも俺ももう慣れてきたし、何故だか少し楽しいとすら思えてきた。

『あぁ。腕がこれだから、運べる物は限られてくると思うけど…。』

『んおぅ、軽い物とか細かい物とか色々有るから…協力してくれるだけでも大助かりさぁあ!急な話だから牧場や畑もまだ用意し切れてなくてなぁあ……明日一気に運ぶ算段だからぁ、明日一日貰っても良いかぁあ?』

『あー、良いだろう。じゃあ今日の残りの時間は出来るだけ草むしりをして、明日一日は運び屋と12階に捧げるぞ。良いな、ビスカ。』

『ん?あぁ、うん。』

チェスタはビスカへ眼差しを向け同意を求める。何で俺には聞いてくれないんだよ。

チェスタがビスカへと向けるのは果たして、恋人へ向ける視線なのか?否、種類が違うと言うよりは…過剰な気がする。強過ぎて、熱過ぎる気がするんだ。

『俺やルクスよりも、チェスタの方が心配じゃないか?普段は指図ばっかりして、体力仕事は殆どやらないじゃないか。』

ビスカは偶にだけど、核心を突いた本当に良いことを言う。

『運び屋の仕事は、少しならば何度も手助けしたことが有るし、きっとどうとでもなるさ。それに、指図で役に立てることもあると思うぞ。』

『…せめてその服はやめておいた方が良いぞ。』

10日間様々な人と出会い話したけれども、チェスタのような変な服を着てる者には1人も出会えてない。こんな服を着てるのは、世界にチェスタ只一人だったりして。

『よし。では明日の仕事も決まったし食休みも終わったし、草をむしりに行こうか。カストル、明日の俺たちの働きに期待しておいてくれ。』

『おぉおう!ありがとうぅう!期待してるよぉおお!よろしくなぁあ!』

どうやら明日の仕事は大変そうだ。でも俺は少し楽しみだ。

初めて行く階層、第12階層。この島を脱出する為のヒントが、何も無いとも限らない。

こうやって少しずつ行動範囲を広げて、人脈を広げて、手掛かりを探すんだ。

その為には体力くらい幾らでも使ってやる。でも…

無い腕だけは使えない。それだけが遣る瀬無い。

それだけは、恨ませてもらうぞ。

俺の腕をガチャガチャ弄って、こんなふざけた腕を作ってくれた女。

俺の大切な誰かめ…。


何と言うことか。少し腰が痛い。

草毟りって、只草を毟るだけなのに、とても足腰に負担が掛かるんだ。

今日は現地集合って奴だ。第1階層に在る養殖屋の前で待ち合わせ。

養殖屋とは、魚を獲るのではなく、育てて食料にする仕事のことだ。

『おっはよぉおおルクスぅう!良い天気だなぁあ暑くなるぞぉおお!』

一番乗りはカストルだ。暑いのは…否、熱いのはお前だ。

まだ日は昇って居らず水平線から漸く顔を覗かせたばかり。今日一日を全て掛けて必要な食材を運び切るという大掛かりな仕事だ。

それだけの量を食べ尽くすなんて…一体どんな被害者だ。普通だったら食事が喉を通らなくなってもおかしくない筈だ。

『ルクスぅ……本当にお前と仕事出来て、嬉しいよぉお。』

『は…?』

突然カストルがこちらに向けて微笑む。

『初めて会った日にぃ、お前とは一緒に仕事出来そうだって言っただろぉ?本当にそうなるとはなぁあ…お前の根っこはこの町に伸び始めてるんだなぁあ…!』

こいつは最初からそうだ。ずっと好き放題言いやがる。朝陽を浴びた微笑みを受け、こんなに嫌な気持ちになるだなんて。

『はよー、ルクス、カストル。』

ビスカとチェスタがやって来た。チェスタは…いつもと同じ、動き辛そうな変な格好だ。

こいつら、カストルの直ぐ下の部屋に住んでる癖に…何で一緒に来ないんだろう?寝坊したのか?

『おはよぉお!全員集合だなぁ!じゃあ早速行くかぁあ!』

カストルは港の直ぐ側に在る魚の加工場に連れて来る。

港と言っても漁の為の小さな船がその辺を回る為だけの物で、脱出不可能なこの町では外界と行き来する為の船は勿論無いし来ない。

カストルだけではなく、今日は近隣階層の運び屋達が大勢呼び出されてるらしい。漁師と運び屋…大声量の二大巨頭と言って良い職業が行き交って、覚め切ってない頭と身体が少し竦む。

『まずは魚だぁあ!日持ちする干物や塩漬けを沢山運びながら…生魚も少し運ぶぞぉおっ!』

箱が幾重にも積み重なる前でカストルが叫ぶ。

『記憶の無いルクスがどう考えていたのかはわからんがぁあ、この町では荷車は運搬には滅多に使わないんだぁあ。路が狭いし、上下の移動が肝だからなぁあ…だからちょっとした台車は使うがぁ、あとはひたすら腕で抱え、足で運ぶぅう!頼むぞぉおおっ!』

荷車って何だっけ。多分荷物を運ぶ車なんだろうな。台車も車なんだろう。車輪が付いてたら階段を上れないということだ。だから結局、足で上れと。

足は良いが、腕は…こんな腕の俺は、箱となると一つずつしか持てない。軽めの籠とかだったら上手くすればもう少し抱えられるが…箱は堅くて大きいから、柔軟には行かないのだ。

『俺はちょっと考えてきたんだがー…ルクスは、これを使ったらどうだー?』

チェスタは膨らんだ袖の中から、得意気にロープを1本出してきた。

その袖には、物を入れられるのか。便利だな…そんなことはどうでも良いか。

『その片腕では、台車のバランスをとることも難しいだろう?箱にロープを括り付けて、その大きな曲がったスプーンで引っ張るのさー。そして左肩にもう1つ箱を抱えて…どうだろうかー、ルクス?』

何でも屋の頭脳担当が発揮された。チェスタはこうやって、知恵を絞ったり指図をしたりして何でも屋を纏める。そうしてビスカがチェスタの手足のように身体を使い…俺は、何でもやる。

『…出来ると思う。ちょっと、やってみる。』

俺が答えるより先にカストルはもう2箱をロープで縛ってる。こいつは喧しいのと勝手が過ぎるのは問題だが、真面目だし仕事が早いから運び屋としては重宝する人材なのだと思う。

カストルにはロープをおたまに引っ掛けて貰って、ビスカには左肩に箱を乗っけて貰う。

ロープが外れない為には肘を曲げて工夫が要るが、箱は案外軽いし、取り敢えず歩いて進むことは出来るんじゃないか。

『……いけそうだ。』

『大丈夫か?その大きなスプーンが外れたりしないか?』

まだやってないが、不思議と平気そうな気がする。このおたま、無駄に丈夫そうなんだ。それに外れ掛けるようだったらまたプリマに診て貰えば良いか。

それにしてもチェスタもビスカも、おたまと言う名前を知らないんだな。まぁ、料理をしなけりゃ知りもしないか。

おたまと言われて思い出した俺は、料理をしたことが有ったんだろうか?

『じゃーとりあえず行くかー。』

車輪が付いた板に、5段積んだ箱を2列並べる。それはビスカが押して、チェスタは3段積んで2列並べる。合計16箱。

カストルは板が足りないのか、両肩に4つずつ、合計8箱積み上げてる。流石運び屋なのかは分かんないが…本当に大丈夫なのかよ?

4人で合計27箱を連れて、階段に向け歩き出す。カストルは此処に来て段取りを説明し出す。

『今回もリレー方式だなぁあ。俺たちの担当は1階から4階ぃ。4階からは別の運び屋に渡してぇえ、8階で更に別の運び屋に渡してぇえ、12階まで効率良くとにかく沢山運ぶぅうっ!』

何だ、上までは行かないのか。1階から4階なんて、既に行ったことの有るエリアじゃないか。

まぁ確かに他にも運び屋が居るなら、そのやり方が効率的だとは思うが。

『あー、待ってくれカストル。これはただの我儘だが…ルクスを第12階層に連れて行きたいんだー。』

『はっ?』

チェスタは俺の心の中を読み取ったのか?仕事を無視した、唐突な提案だ。

『んん?どういうことだぁあ?』

『いやー、昨日考えていたんだがな…ルクスは第8階層より上には上がったことがないんだー。良い見学になるかと思ってな。活気のある第12階層の空気に触れたらー、外の世界への未練も薄まるかもしれん。』

『おいチェスタ…感じ悪いぞ…。』

何だよそれ!ほんの少し芽生えた感謝を返せよ!

でも今俺の心を読んだ訳では無く、昨日から考えてくれていたのか?チェスタが?俺のことを…?

『おぉお…成る程、確かになぁあ!ルクス、どうするぅう?』

どうすると聞かれたら、答えは決まってる。

『行けるなら、行きたい。』

第12階層まで上るのに、どのくらい時間が掛かるのかは分かんない。

階層毎にどれ程広いのか、何処に階段が有るのかは区々なんだ。この町って、色んな物が区々だ。

時間も無かったし、足掛かりも無かったし…不安だったから、3人で仕事に行ったエリア以上の場所に中々踏み込めなかった。

でも荷物を持って行ったら、話が出来るかも知れない。

『そぉかそぉかぁ!未練、薄まると良いなぁあ!じゃあ…どぉにか都合つけるかぁあ!』

『カストルも…感じ悪いんじゃないか…?』

どっちも頗る感じが悪い。

カストルはいつだって清々しい程に勝手だ。でも希望通りにさせてくれるのだから、感謝しなければならなくて癪だ。

それに希望通りになるのだから、結局チェスタにも感謝しなければならない。癪だ。

こいつら見てろよ。第12階層で絶対何かのヒントを見付けてやるからな。

『よぉおっし!そぉなりゃその分どんどん運ぶぞぉお!ルクスも急げよぉおっ!』

牧場の脇の、坂になる道で…カストルが急に駆け出す!

『おいカストルっ、危ないぞ!……よく落とさないな。逆に呆れる…。』

確かにカストルは、暴走してる癖に身体をくねらせ、両肩に積まれた箱は不思議と常に安定してる。逆に呆れると言うビスカの感想も、不思議と腑に落ちる。

『はははー。では我々も、カストルに負けぬよう歩を早めようじゃないかー。』

チェスタも小走りし出す。服の真ん中が割れてひらひらと膝が覗く。

『危ないぞ。箱落とすぞ。服引っかかるぞ。体力無いのに飛ばすなよ。』

この小言の数々も、腑に落ちる。不思議じゃない。正論だ。

こいつら、こんな調子で大丈夫か?我儘通して貰った俺が言うのも何だが。

俺も急ごうと思ったけど、強烈な光の圧を感じて一目だけ振り返ってしまった。太陽はじりじりと這い出し、青と青の境目を浮き彫りにしてゆく。

あの直線の向こうに故郷が在るということを、努努忘れてはならない。

馬鹿みたいな仲間達が居て、一緒に汗を流して。

そんな風にしてる内に忘れてしまうなんてことが、万に一つも有ってはならない。


第1階層から第2階層へは、牧場の脇の大きな坂を上って。

第2階層から第3階層へは、ドミトル家の隣のなだらかで上り易い階段を使う。引っ張ってる箱と板に載せた箱は、階段の度にいちいち下ろして一つずつ上げなくてはならない。

俺には見守るしか術が無いので、カストルとビスカがささっと上げてくれる。チェスタはのたのたと2、3個上げてくれる。

第3階層から第4階層へは、花屋のサイファー邸前に広がる一際美しい花壇を横目に上る。聞いただけの情報だが、スーピーの家もこの近くに在るとかどうとか。

そして第4階層から第5階層へは、あの骨みたいな階段ではなくもっとしっかりした…とは言ってもそれでも木の板を組み重ねたような物だが、下が透けて見えない大きな階段だ。此処で、上の階層を担当する運び屋に引き継ぎ荷を託す。

『おぉおおおいいいぃい!』

カストルが殊更に重く鋭い遠吠えを飛ばすと、わざとらしく片耳を押さえながら、黒くうねる長髪を靡かせた男が振り返る。

『……カストル。煩ぇーなぁー。』

『運び屋にはぁあ、元気が一番だろぉおお!待たせたなぁあ、トロイメラぁあああ!』

『待ったよ…おめぇー寝過ごしてんのかと思ったわぁー。』

全体的な雰囲気は怠そうなのに、目付きは細く鋭く、何処と無く凄みを感じる…気がする。

こいつが上の階の運び屋…トロイメラか。

カストルもそうだけど、運び屋って思ったよりも、所謂『屈強』って感じじゃないんだよな。確かに筋肉は付いてるんだが…徒じゃなくて、必要最低限しか用意してない。だから顔が必ずしも猛々しく無くとも、収まりが付く。

何だかこいつも、何と無くだが、女が好きそうな顔だ。何だろう。可愛い…とは違うよな?美しいってことか?カストルは、可愛い…なのか?どうでも良いか…。

『はははぁああ!悪い悪いぃい…と言うわけでぇえ、27箱だぁ……ぁあ。すまない、24箱だぁあ!3箱だけぇ、ルクスが直接持って行くぞぉおお!』

『は……ルクスぅー…?』

トロイメラは親指と人差し指をきっちり直角に構えそれを顎に当て、肘は抱えて何でも屋を眺め回す。表情なんて見なくとも、訝る姿勢が伝わる。

こいつどうやら、この町の中でも相当わざとらしい部類の住民なんだな…寧ろ形ばかりで中身の感情はそんなに伴ってないのではとすら思う。

『てゆーかぁー、何だこいつらはぁー?このそこそこ背があるヤツはまだマシそうだが…この変な服のヤツは随分貧弱だなぁー……おい、こいつに至っては何だよ!どうなってんだこの腕はぁー?』

随分的確な難癖だ。指摘自体は事実だし、貧弱な奴や不自由な腕の奴が何故この大切な大運搬業務に参加してるのかと不審に思うのも自然な思考だ。

『3人とも、何でも屋さぁあっ!俺が、今日という大事な日の助っ人に依頼したんだぁああ!』

『何でも屋だぁー…?どっかで聞いたこと…あるようなぁー…。』

トロイメラは構えを崩すことは無く、只眉間の溝を一層深め、鋭い目は一層切れ味を増す。

『何でも屋は、依頼されたらなんでもやるというー、画期的で最先端な職業さ。ぜひご贔屓にー。』

此処ぞとばかりにしゃしゃるチェスタ。へらへらとニヤつき、貧弱と見縊られた割にはしれっと何処か偉そうだ。

『…………変なのっ!』

トロイメラはあっさりと歩み寄ることを諦めた。

『それで結局ルクスってぇーのはどいつなんだよぉー?』

『ルクスはこの、変な腕のやつだぁあ!』

カストルが漲る笑顔で俺に手の平を向けると

『よりによってこいつかよぉー!』

よりによってとはどういう意味か分かんないが、腰を押さえ頭を押さえ反り返り、不審を訴えてくるトロイメラ。わざとらしい。

『そうなんだぁあ。ルクスは第12階層まで行ったことが無くてさぁあ。見学させてやりたいんだぁあ。荷物を運ぶついでに、ルクスのことも第8階層まで運んで、ルートリーに引き渡して欲しくてさぁああ!良いだろう、運び屋ぁあ?』

『ちっ。』

カストルの上目遣いに対し、返る応えは舌打ち。

『この大仕事の最中に……めんどくせぇ…めんどくせぇーったらありゃしねぇーよぉー!カストル…おめぇーバカのクセにずりぃーよなぁー……運び屋が、運べと言われたら断らないって分かった上でさぁー…。』

そうなのか。確かに運び屋って、何を何処まで運ぶと言ってはいない。何でも屋が頼まれれば何でもするように、運び屋も一度頼まれれば何を何処まででも運んでくれるのだろうか?

…何だかそんなのって、馬鹿馬鹿しくないか?依頼さえされればどんな仕事でも何処まででもやるって言ってしまったら…本当にキリが無いじゃないか。

結局この町には、秩序が無い。

『ありがとぅうっ!頼んだぁああ!そうと決まればこの荷を5階まで上げて、俺たち3人は1階の加工場に戻ろうぅう!あぁあ、トロイメラ…ルクスのその腕で引っ張ってる荷は、階段の度に上げてやってくれよなぁあ!』

『…ち。めんどくせぇー…りょーかぁーいぃー。』

今度は俺に小さな舌打ちを飛ばしてから、トロイメラはカストル達と共に箱を階段の上へ上げる。俺は此処でも見てるしか無い。

でもトロイメラは、多少捻くれてそうだが悪い奴では無い気がする。こんな面倒な依頼を引き受けてくれるんだから。

俺は言葉そのままお荷物になりながら、荷物を運んで、第12階層まで行こう。

カストル以外の運び屋は何人か見たことが有ったが、トロイメラには初めて出会った。きっとこの先には会ったことの無い奴だらけになって行くんだろう。少し不安だ。

俺ってもしかしてちょっと臆病か?そんなことは無かった気もするんだけどな。

今気付いた。記憶が失われてると言うことは、今当たり前のように喋ってるこの俺は、本来の俺とは全く違う人格に組み立て直されてる可能性が有るのか?そんなの恐ろし過ぎるだろうが。

自分のことを信じられなくなったら…何を頼りに自分を探しに行けば良いんだ?

誰も彼もが、過去を捨て骨を埋めろと言う町で。

少しだけ、猜疑心を更新した。こいつらのことは疑わなくてはならない。

自分のことは信じるんだ。きっと俺は俺だ。やっぱりきっと俺は少しだけ臆病なんだ。

何だか頭が重くて海を探したら、太陽はやっと水平線から旅立ち光は柔らかに降り注いでた。

太陽が羨ましい。独善的に独り立ちしながら、結局軌道の上だけを外れずに歩いてる。


『行くぞぉー荷物ぅー。』

カストル、チェスタ、ビスカの3人は来た道を戻って行った。また同じ場所に戻って、此処まで箱を運ぶ繰り返しだ。キツそうだけど、俺も12階から戻って来たらその地獄に復帰しなくてはならない。

トロイメラはチェスタとビスカが転がしてたような台を2つ用意してた。

6個を2列並べて、一台に12箱ずつ、片手に一台ずつ押して行く。合計24箱。片手ずつで押してるのに、さっきのチェスタやビスカよりも安定して見えるくらいだ。

カストルのあの訳が分かんない運び方と言い、運び屋ってあらゆる運び方のコツを弁えてるんだろうな。

トライメラにとって俺は飽くまでもお荷物なのか、言葉は決して最低限しか投げては来ない。只、一つだけ会話らしい会話をした。

『………ルクスぅー。』

『……何だ?』

『お前ぇー…重症なのかぁー?』

『は…?』

重症どころか被害者だということすら話してないし、世間知らずなところもこいつの前ではまだ見せてない筈だ。

『被害者だろぉー。そんな腕、この町じゃ見たコト無い…この辺住んでて12階層に行ったコト無ぇーってのも変だしぃー。重症ってぇーのはなんとなくだがな。お前ぇーバカっぽそぉーだぁー。』

馬鹿とは!仮に今の俺が世間知らずで救いようが無かったとしても、それは俺の意思の及ばぬ理不尽なところで記憶が失われ、挙句こんな外界から隔絶された独特の無秩序な秩序の中に投げ出され、右も左も分かんない物だらけなだけだ!

トロイメラ、前言撤回だ。こいつムカつく奴だ。

『……残念だなぁ。外の世界って、生々しぃーんだよなぁー。』

『なまなましい…?』

生々しいとは、何と無く知ってる言葉だ。でも、世界が生々しいって何だ?世界は常に此処に在る、生の存在だ。

『俺は外の世界の話が好きなんだぁー…戦争とか、金とか権力とか、生々しぃーよなぁー。この町は、生気が無ぇーからぁー…。』

生気が無いとは、何と無く言い得てる。人々は笑って暮らしてる筈なのに、何処か緩慢で、空気は重くて、時の流れが存在しない。

『まぁー、どっちで暮らしたいってぇーなら、断然この町だがなぁー。争いなんて絶対嫌だし、この町は仕事さえ有れば何もかも安心して暮らせるからなぁー。権力だって無い方が良ぃーだろぉー。王とか大臣とか将軍とか、そんな奴に振り回されるなんて御免だぁー。』

くそ。こいつも結局この町を持ち上げ、俺の故郷を馬鹿にする。

『お前ぇーに記憶が有ったなら、お前ぇーがどこの国で何してたのか聞いてみたかったなぁー。』

話を聞くのは好きなのに、暮らしたくはない世界なんて変な話だ。

御伽話のようだ。

詳しくは覚えてない。でも、救いようの無い話を伝え聞いて想いを馳せた後、結局家族と美味い物を食べて暖かい寝床で寝るという人が世の中には何人も居た筈だ。

この町の奴ら…トロイメラに取っても、外の世界とは御伽話の世界で在って、そんな世界に生まれなくて良かったと言う消極的な引き合いに過ぎないようだ。

全く良い気がしない。

それにしても、国って何だったろうな。聞いたことが有る。とても大事な物だったような気もするし、そもそも俺はそんな物持ってはなかったような気もする。

王って言う物も引っ掛かるな。何よりも守るべき物だった気も少しするが、何よりも許せない敵だったような気もするんだ。余りにも相反してるもんだから

まるで俺という人間は二人に分かれて存在してたかのようだ。

どうでも良いか。一人目すら思い出せてないのに、二人分考えるなんて途方も無い。

トロイメラはまた押し黙ってしまった。外の話も出来ない馬鹿の俺とは、どうせ喋ったところで盛り上がりもしないのだろうか。

只々無言で2人歩き続けることが苦痛かと言われたら、何とも言い難いところだ。

沈黙も気不味いけれど、あの3人みたいにこの町で笑い合い生きる朗らかさを見せ付けられるのも、何処か居た堪れない。


第5階層はチェスタ達の家がある階層で、何でも屋の仕事もこの階を中心に動き、既に勝手知ったると言った場所だ。

でも余り外側には行ったことが無くて、知らない道を色々進んだ。基本的にこの町は、内側に住居が多く外側には広い路が多いらしい。

外側を通ってまた中の方へ入り、少し大きめの階段を上る。トロイメラは無言で俺が引っ張る分の箱も上げてくれるが…いちいち過剰な程に眉を顰める。『めんどくせぇー』って言いたいんだろ。その通りだろうから別に良いけど。

第6階層は、俺が踏み入ったことの有るエリアの中でも特にゴチャゴチャしてる気がする。色んな素材、色んな大きさ、色んな向きの家が犇めき合って、その殆どの上にまた家や道が広がってて、差し込む光も限られてる。この階は全体が住居エリアみたいだ。

第7階層も殆どは家だ。只、極偶に何だか凝った外観の家が有る。屋根を2色で塗り分けてたり、窓枠に模様を掘ってたり。結局周りが雑然としてるから、美しさよりも滑稽さが勝つけれど。

第7階層でも外側の路を進んで、そのまま外側に在る大きな階段を上る。踊り場が広くて、テラスみたいだ。

第8階層には初めて足を踏み入れた。大体は第7階層と変わらないが…気の所為かも知れないが、ほんの少しずつ足掻きとの出会いが増えてくる。

屋根の色や窓枠の模様もそうだ。あとは軒先に飾られた植木鉢や、面白い形のランプ。壁に何か動物の絵が描かれた家も在った。この雑然とした景観に個人的に抗った形跡が、徐々に見られる頻度を増してる気がする。

どうやらこの町は階を進む程に程度が違う。

1から3階層くらいまではそこそこちゃんとしてる。第1階層なんて大きな林や牧場や港が在って、家ももっと行儀良く建ってて違和感が少ない。外の世界もこんな感じなんじゃないか?って思う。

4から7階層くらいは兎に角散らかってる。建てられる場所に建てられるだけ家を建てたって感じだ。はっきり言って汚い。歩くだけで疲れるから退屈しない。

でも第7から第8階層へ進んで抵抗の爪痕が増えたと言うことは、もっと上ったら抵抗が実り、もっと街らしい文化的な景観へと進化して行くんだろうか?

海を見渡せる縁の道を行くと、小さな畑が在る隣に、比較的しっかりした木造りの階段が伸びてる。

其処に待ってたのは髪の短い、そして背はやたらと高い男だった。

髪は橙のような色で、短い癖にとても行儀良く寝てる。トロイメラもかなり背が高いと思ってたが、こいつはそれよりも更にでかい。やはり筋肉は過剰じゃないんだけど、そんなことなどどうでも良い程に縦方向の迫力が凄い。

『ルートリぃー。待たせたなぁー。待たせたのはカストルのせいだぁー。』

振り返る男の顔を見上げてみれば、やはり整ってる。しかも何だか爽やかで、トロイメラよりも誠実そうだ。

只、年は結構上だな。チェスタよりは確実に上だ。この町にまだ知り合いが少ないから引き合いが出て来ないが、チェスタとシブリーの丁度間くらいなんじゃないか?チェスタとシブリーの年が離れ過ぎてるからざっくりとしてしまうが。

『おはようトロイメラ。気にしてないよ。だが、その少年はどうしたんだ?箱を抱えてるということは運び屋仲間か?それにしては、随分……オリジナリティの有る運び方だ。』

喋り方も、内容も、至極正当だ。しかも意識してやってるのかは分かんないが、『変』ではなく『オリジナリティ』という表現を使ってこちらの気を悪くさせないようにしてくれてる。

こいつは年は結構上だが、間違い無く俺が見た運び屋の中で一番女に好かれる筈だ。

『こいつは荷物だ…カストルに依頼されたんだぁー、クソ。引き継ぐぜ、ルートリぃー。魚のついでに、ルクスを12階層まで運んでやってくれぇーい。』

『ルクス…。』

ルートリーは俺を見つめ僅かに首を傾げた後、ニコッと清々しく微笑んだ。

『勿論だ!よろしくルクス。俺は普段は第13階層で運び屋をしてるルートリーだ。君は俺が責任を持って第12階層までお届けしよう。まずは荷を全て階段の上に上げてしまうから、少しだけ待っててくれよな……よし、やるぞトロイメラ。』

『…言われなくてもやるよぉー。』

ルートリーは真面目にてきぱきと、トロイメラは怠そうなのにてきぱきと箱を運び出す。やっぱり俺は見てるしか無い。何だか後ろめたさにも慣れてきた。

それにしても……

ルートリーって名前……何か引っ掛かるな…。

もしかして、何か失くした記憶に関わってたりしないだろうか。知り合いの名前と同じとか……でも全く思い出せない。只引っ掛かるってだけだ。

只何と無く、ルートリーと言う名前を、余り口に出して呼びたくない。

ルートリーには悪いが、やり過ごすことにしよう。

きっとこうして様々な人、物、感情に触れて、閉ざされた記憶は少しずつ露わになって行く筈だ。

否、本当にそうか?

どうでも良いことは直ぐに思い出せても、核心は一つも掴めない。名前とか、家族とか、何をしてたとかが。

輪郭とか、何と無くとか…そんなのばっかりだ。

嗚呼、また一つ嫌になってしまった。忘れるな。忘れてはならない。

戒めに後ろを振り返る。日はまた少し昇り、相変わらず軌道の上だけを進む癖に、その光はこの島だけに留まらずきっと世界中に降り注いでる。俺の故郷までにも。

やはり太陽は狡い。誰から奪われることも、誰から攫われることも無い癖に、誰からも忘れられることは無い。


よくよく考えれば不思議なことに、上に上っても緑は減らない。

第9階層以上にも木は生えてるし畑も在るんだ。只、流石に林と呼べる物は無いし、畑も一つひとつの規模は小さくなってきてる。

相変わらず家ばかりだがたまに花壇が在ったり、広場が在ったり、其処で子供達が遊んでたり。何と無く『町っぽさ』の片鱗が見えてきた。まだ『ぽさ』の『片鱗』だけだけど。

『ルクス……君は、被害者なのか?』

細かく向きを変えて並ぶ喧しい街並みを縫いながら、徐ににルートリーが口を開く。

『……腕がおかしいからか?』

トロイメラと同じ筋道で辿り着いた推論だと思った。この町の住民に取って、この腕は振り翳すだけで外の世界からやって来たことを示す名刺代わりのような物なのだと。

『ん…?あ、いやいや。そういう訳では。こんなにも個性が溢れる腕は、外の世界でも見たことが無い。』

『…お前も、被害者なのか?』

ルートリーは合点が行ったと言うように口角を僅か上げた後、肯定を表すようにフッと息を吐き目を細めた。何処までも爽やかだ。

『俺はもう10年も前に飛ばされて来たんだ。最初は理不尽な事態に茫然自失するしか無かったが…案外直ぐに慣れてしまった。この町はのんびりしてて人々も心優しく…頗る心地が良いからなぁ。』

ルートリーは空を仰ぎ、青に眩みながら笑い飛ばす。

嗚呼、こいつも諦めて根を張ってしまったんだな。プラツェとおんなじだ。俺に取っては只、不安を煽るだけの恐るべき存在。

『最初だけは少し苦労したんだ。徒に全ての記憶を持ち寄ってしまったものだから……どうしても家族や、恋人の顔を思い出して涙したりしたんだよなぁ…。』

しかも記憶持ちなところまでプラツェと同じか。家族や恋人の顔を思い出せるとか、なんて…なんて、贅沢な苦しみなんだ。

『君はどれ程の記憶を持ち寄ることが出来たんだい?』

いきなり何だ、その質問?

『……何も、無いけど。』

質問の意図が分かんない。この問いその物にも余り良い気がしないけど、これからもっと嫌な気分にさせられる予感がする。

『そうか。それは良かったな。』

悪気なんか一切見えない。こちらを見遣ることもせず、前を向き荷を押し、微笑みを絶やさぬまま。

『ならばきっと、すぐにこの町に溶け込むことが出来るだろう。』

こいつ…こいつも嫌いだ、ルートリー。トロイメラよりも、カストルよりも。

この町で話した人間の中で、間違い無く一番嫌いだ。

記憶が消えたら、大切な人を思い出せなくなれば、元居た世界への切望も断ち切れるだなんて

そんなこと有って堪るか!

『……あ、階段だ。よし、ルクス。その洒落た腕が引く荷物を貸してくれ。』

文句の一つも言おうかどうかと悶々としたところで丁度、どうしても世話にならなくてはいけない地点となってしまった。

でも別に良いか。此処で憤りを溢し始めたら止まらなくなって、仕事どころでも探索どころでも無くなってしまうだろうから。

括った2つをルートリーに預けて、階段の上で24の箱の登頂を待つ。

本当はちょっと聞いてみたかったんだ。俺の、何も生えぬ不毛の心に引っ掛かった、ルートリーと言う名前。そいつが俺の故郷が在る外の世界からやって来た奴って言うんなら、何か記憶を辿る足掛かりになるんじゃないかって。

でも聞くに聞けなくなってしまった。こんな奴に頼りたくはない。記憶が無い方が良いとか、この町が心地良いとか、そんなことを悪気無く押し付けてくる、勝手な奴には。

まぁ別に良いか。記憶が有るルートリーの方から俺に何か言ってこないってことは、少なくとも俺達は元々知り合いじゃないんだ。

ルートリーじゃないのかもしれない。ルートリーに、似た名前なのかも。

『よし、行こうルクス。』

『はっ!』

不意を突かれてまるでバネのように振り返ってしまった。隣にはルートリーと、積み上がった24箱。早過ぎる。

こいつは爽やかで、誠実で、顔立ちは端正で、なのにこんなにも仕事が早いのか?

こんな奴を放っとく女が居るのか?これだけ女に好かれる要素ばかり用意してるんだったら、外に居た恋人なんて忘れてしまえ。

さっきあんなに俺の心を煮え繰り返らせたんだ、これくらい非道いことを思わせろ。お前はこのくらい非道いことを微笑みながら言ってきたんだ。非道いと自覚してる分、俺の方がまだ人の心が生きてる。

『どうしたんだ、ルクス?もしや疲れてきたかな。階段ばかりだもんな。運び屋でもなければ中々キツいよ。もう少しだけ、休もうか?』

ルートリーが長い身体を屈めて俺の顔を覗き込む。何でそういうどうでも良い気遣いは隙が無いんだ…!

『……いや、大丈夫だよ。運ぶから、運んでくれ…。』

『うん?そうか。じゃあ行こう!』

ルートリーは爽やかに白い歯を見せてから、2つの箱に繋がったロープをおたまのフックに掛ける。そして軽やかに、転がる台を押し始めた。

あと2つ階段を越えたら目的地なんだから、我慢してやるか…仕方が無い。

ルートリーの背中を追うけれど、引き摺り運ぶ俺の速度に合わせてゆったりと歩き、俺には決して分かんない鼻歌を歌う姿が、遠くに煌めく海と相まって絵みたいに様になる。

運び屋とは仕事に実直で、強靭な肉体で、爽やかで、勝手なことばかり言って、その癖結局男前なんだから、何とも気に食わない職業で在る。


第8階層から第10階層までは余り雰囲気は変わらなくて、基本的には雑然とした住宅街だ。そして時折畑や広場、数本の果樹、何かの煙突、繋がれたマミムなどが現れる。

あの後ルートリーは『風が気持ち良い』だの『この辺の景色が好きだ』だの、『疲れてないか』だの度々話し掛けてくれたが、俺は終始不貞腐れて返事も上手く出来ず、きっと態度が悪かったと思う。そしてそんな俺相手にも笑顔と気遣いを崩すことは無い。気に食わない。

第11階層に入って、明らかに空気が変わった。路が少し広くなり、一つひとつの家が少し大きくなり、煙突と緑が少し増えた。全部少しずつだけど、確かな違いだった。

そして、幾つか曲がりまた外周に突き当たったところで、右手に大きな階段が現れる。何人かの肉体美と、乱雑に積まれた大小様々な箱が見える。

『ルクス、あれは食事処の…勝手口みたいな階段だ。もう他の奴らも結構集まってきてるな。あとは俺が良いようにしておくから、君はその一箱を持ち上に進むと良いよ。12階層に入るのは、初めてなんだろう?』

『…うん。』

トロイメラに聞いたのか?遊び盛りの子供扱いされてるみたいで体裁が悪いが、どうせ俺に出来ることはもう一つも無いのだから、何にせよそうする他無い。

ルートリーは洒落た腕からロープを外してくれる。張力から放たれて、ぐらっと悲鳴が聞こえる。

『好きなように巡り、良いところで好みの旦那にでもその箱を渡して、あまり仲間に心配を掛けない頃合いで戻れよ。この階段から帰りたいならば、赤い道標を辿れば良い。一日も早く君がこの町に馴染めることを、陰ながら応援してるよ!』

応援するな!

俺がこの町で日が浅いということも、トロイメラに聞いたのか?それとも俺の言動や態度で瞭然なのか?

『じゃあな…また、何処かで会えたら嬉しい。』

俺は嬉しく無い…!

と言う顔を、多分してしまってたんだと思う。

ルートリーは俺の顔を見て改めて笑顔を輝かせ、それを結びとして筋肉達の中に混ざっていった。その中に居てもやっぱりルートリーは、正に頭一つ抜けて長い。

肩に抱えてた箱を両手で抱えるようにする。これはこれで右腕の角度に気を遣わなくちゃならなくて苦労するが、暫く扱き使われた左肩が開放感に打ち震えてるもんだから、もうこうすることしか出来ない。

胸糞が悪くて気にしてなかったが、何だか出掛けた時と比べるとかなりおたまの付け根が緩くなってるような気がする。やはりこんな使い方、無茶だったのか?

白い階段を上りながら見上げると、赤い門が在る。高い段差を勢い付けて上れば、その先には………男ばっかりだ。

今まで出会った運び屋達のようなスマートな筋肉達と、もっと骨太で厳ついおっさん達が立ち話をしたり、荷物を運び回ったりしてる。和やかだが、忙しそうで、居心地が悪い。

この辺の奴らには話し掛けられなさそうだ。ぶつからないように端を行き気配を殺しながら、2本伸びてた路の、細い方を何となく進む。

この階は何処か薄暗く、土は無いし緑も殆ど無い。要所には色とりどり、幾つもの矢印が描かれた看板が立ってる。あれがルートリーの言う道標だろう。

軒先に机と椅子が並べられてたり、扉の奥にカウンターが見えたり…ああいうのの何処でも、飯を食べることが出来るんだろうか?今は食材が揃わず営業出来ないからなのか、客のような者は1人も見えない。

部屋の中にキッチンだけが見える場所や、只箱が並べられてる冷えた空間も幾つか有る。それら全てをごた混ぜに、雑然と並べてるところは居住区と大差無いと言える。

どうしようか。少し楽しい。探検みたいだ。

でもキリは付けて早めに戻らなくてはいけない。しかしこのたった一つの箱を渡すにしても、忙しそうな男しか見付けられないんだよな。

うろうろとしてたら少し開けた場所に突き当たった。この階にしては日が当たり、植木鉢が置き詰められ、2人掛けずつの丸机と、日除けと思しき傘が立てられてる。洒落てるって、こういう感じなんじゃないか?

どうやら此処はこの階の縁の部分のようだ。人は勿論行き交ってるが、この辺は人口が少ないように思う。

探したら話し掛けられそうな旦那が居るかも知れない。右に進んでみよう。歩みをくるりと曲げて木造りの通路を進もうとした。

進もうとしたけど、その瞬間視界に入る。

とある、扉の無い部屋の奥……カウンターに座る男が居る。他とよく似てる、身体が大きくて、ごつごつしたおっさん。山みたいだけど、背中を丸めてるので、甲羅を背負った動物みたいにも見える。

カウンターの中には人が居ない。小さな部屋の中にはおっさんしか居ない。

少し不思議な気がして、ほんの刹那目が留まったら……丁度おっさんも顔を上げるもんだから、バチッと音がするように、目が合ってしまった。

『あ…。』

しかもつい声が漏れた。何か声を掛けた方が良いんだろうが…

何と無く少しだけ躊躇われる。このおっさん、何処か僅かに異様な雰囲気なんだ。

『お前……食材を運んで来てくれたのか…?おかしいな。俺の分は全部、ハズバンに序でに受け取って貰う様に頼んだ筈だが…。』

迷ってると、おっさんの方からこっちに近付いて来てくれる。エプロンが靡き、バンダナが揺れる。

目の前に来ると、改めて信じられない程でかい。

背の高さはルートリーと同じくらいだが、それに骨格と筋肉の圧が加わって、全方位への主張が凄まじい。

『まぁ良い…受け取ろう。態々有難う…。』

おっさんは俺の腕の中の箱に手を掛ける。俺もそれを受けて強張りを解放する。

おっさんが力を掛け箱を持ち上げる。ガッと小さな衝撃を受けて

カシャアアアア……ンッ!

……と。金属の何とも軽い音が響き、2人して、真下に視線を下ろすと

おたまが落ちていた。

状況は一瞬で理解した。大変なことをした。言い訳じゃないけど、本当にいけそうだと思ったんだ。箱って言ってもそんなに大きな物じゃ無いし、おたまだって、見た感じ高級そうな金属で、ちょっとやそっとじゃ壊れなさそうだったんだ。実際問題下に落ちてるおたまはぴかぴか光って…隣に、千切れた螺子が散らばってる。

おっさんは眉間に皺を寄せ、じっと腕と落ちた物を交互に見つめる。口は少し開け少し閉じ、多分信じられないんだと思う。どうやら箱に隠れて、俺のこの個性溢れる腕が見えてなかったようだ。

2人で暫く呆然とした後で、おっさんは逸早く現実を取り戻し箱を床に置く。序でに転がるおたまを手に取ると、勢いを付けて身体を起こし俺に差し出した。それを受けて俺も我に返り、受け取ろうとすると

『…此の様なおかしな腕で何故、運び屋と言う仕事を選んだのだ?』

『…は?』

おっさんは俺が箱を持ってたから、運び屋だと勘違いしてるらしい。状況として真っ当な間違え方だし、こんなおかしな腕では運び屋が務まるべくも無いと言うのも、当然の見立てである。

『嗚呼、悪い……しかし…此れはおたまだろう。そんな腕にはどんな使い道が有るのか…?』

受け取った、ぴかぴか煌めくおたまを見詰める為に俯く。壊れた未だに分かんない。このおたまを俺が付けてた意味。

『……無いけど、探せば有る筈だ。』

有る筈だ。此処まで2つの箱を引き摺って来られたように。

『そうか…其れは悪い事を言った。済まない…。』

それにしてもこいつ…おたまと言ったな。チェスタとビスカが知らなかったおたま。プリマは知ってるおたま。俺も…多分、知ってるおたま。

『お前…料理するのか?』

おっさんはふっと吐息だけで笑うポーズを取った後

『まぁな。此の階の住民に、料理をしない奴など居ない。まぁ、俺の作る飯等料理と呼べるか定かじゃないが…其れでも食った奴には、結構好評なんだ。』

腰に手を当て背中を丸め俺を見下ろし、少し得意そうな、否寧ろ本意じゃなさそうなあやふやな顔を浮かべてる。

確かにこの階全体が食事エリアらしいから、客らしい奴が1人も見当たらない中に居るこいつも料理人なんだ。でも……

『料理と呼べるか分かんない物しか作れないのに、何で飯屋をやってるんだ?』

名乗ったもん勝ちなこの町で、料理を作れないなら、料理人なんてやらなきゃ良いのに。

『ん?あぁ…俺の店は飯屋じゃない。飯はオマケだ。メインは酒さ。酒場なんだ。小さいがな。』

『酒…?』

酒って聞いたこと有る気がする。飲み物だ。でも何か普通の飲み物じゃなかった気がする。

薬?否違う…?あぁ確か、皆が愛して止まない飲み物だった筈だ。

………否、そうか?

『お前……其の腕は如何する積もりだ?』

『え…?あ。』

おたまのことを忘れそうになってた。どうしよう。

多分、俺の大切な人が着けてくれた物なのに。

否、こんな酷いがらくた着けてくれるだなんて、本当に大切な人なのかよ?

寧ろ外れた方が良かったのか?細長くて、頭でっかちで、とても腕を振り辛かった。

『家に修理屋が居るから、見せてみる。』

取り敢えずプリマに診て貰おう。でも螺子が千切れたから、多分無理だ。

『そうなのか…そりゃ良かった。俺はダンダリアン。』

『は…?』

ダンダリアン…何と無く、勇ましそうな名前だ。

料理人に勇ましさなんて要らない筈だけど、この体躯には似合い過ぎる程似合ってる。

そもそも名前なんて言葉も喋れない生まれ立てに親が勝手に授ける物なんだから、一つも体を表さない筈だ。

だから今の俺を顧みたところで、名前を思い出す手掛かりにもならない。

『お前は?』

『……一応、ルクス。』

幾ら一方的に授かった物だとしてもどうしても取り戻したい物なので、緩衝を挟まず名乗ることは未だに気が引ける。幾らプリマから授かった名前だとしても。

『そうか…悪かったな、ルクス。俺の所為で健気な腕が折れてしまったし、其の価値も軽んじてしまった。』

ダンダリアンは右腕をぴくっと震わせた後、左手を差し出してくる。俺はスーピーの時のことを思い出しながら、その手を掴む。

ガサガサしてるが、大きく包まれるから、不思議と温かい。

『俺の店は此れなんだ。扉が外れて、修理待ちだから寒くてな。其れで良ければ、今度遊びに来てくれ。御詫びにサービスするよ……とは言え、金等存在しないのだから、気分だけだがな。』

ダンダリアンは放した左手で扉枠を掴んで不器用に薄ら笑った。

修理か…プリマは第4階層で少し遠いし、12階層には12階層が頼る修理屋が別に居るんだろうな。

『俺の所為だが、お前大丈夫か?今日は大変な仕事だろうから、まだまだ運ぶ物が有るだろう。』

ハッと覚めて、上の床と下の床の隙間から空を覗いた。

太陽は、頭の天辺に到達する。不味いぞ。

『少し遊び過ぎた…!』

『そうか。では行くと良い。本当に悪かったな。有難う、ルクス。』

ダンダリアンはガサガサの手を重く振る。

『…今度、酒を飲みに来る。じゃあな!』

何と纏めたら良いか分かんなくて、咄嗟にそう吐き捨てて、駆け出した。ダンダリアンは

『は…?あ……まぁ、そうか…。』

何とも歯切れが悪かった。誘ったのはそっちの癖に。

ルートリーに教わった通りに、赤い矢印を辿って走る。何人もの筋肉と骨太を避けながら。

ふと思った。ダンダリアンは金の話をしてた。もしかして被害者なのか?記憶の有る…?

どうでも良いか。今度…店に行った時に聞いてみよう。

少し好奇心が刺激された。料理と呼べない料理、食べてみたい。

酒も飲んでみたい。どんな物か思い出したい。

何故だかおたまの柄を握りながら踏み出すととても走り易くて、速さが乗り過ぎてしまう。

カストル、チェスタ、ビスカは今頃せっせと往復して、汗を垂らしてることと思う。遅くなって窘められるかは分かんないが…

胸が弾んでる。第12階層を歩けて、ダンダリアンと話せて、7日目にして何と無く小さな一歩を進めた気分なんだ。

都合の良いこじつけだが…俺の身を離れてしまったおたまも、きっとこの一歩を祝福してくれてる筈だ。


階段を急いで駆け下りた。

道はあんまり覚えてなかったが、あちこちに階段があるからそれを適当に下りてたら…段々見覚えの有る景色になってきて

下りて下りて、第2階層と第1階層を繋ぐ牧場の脇の坂道に差し掛かり

『ルクスぅう!』

其処には…両肩に5箱ずつ抱えたカストル。何故朝よりも成長してるんだ、こいつは。

『ルクスだー。』

『おかえり、ルクス!』

チェスタとビスカも台車を押してる。相変わらず3人で、馬鹿な調子でやってたんだろうな。

『ルクスぅう!丁度良かったぁあ!もう魚は粗方運び終わってぇ、今はマミム乳を運んでたんだぁあ。それもこれでラストで…良かったら、この一番上の2箱を助けてくれないかぁあ?これでも、ちょっと無理して持ってるんだぁあ…!』

『いや、待てよルクス…お前…!』

ビスカが一番に気付く。

筋肉を震わせるカストルには悪いが、俺はもう期待に応えることが出来ない。

『もうおたまが取れたから、荷物が運べない…。』

『えぇえええええ!?』

そりゃ其処まで軽い話って訳でも無いが、カストルはこんな時でも勿論断トツで煩い。

『何だって…!荷を引かせたのが、良くなかったのか!』

チェスタのこんなに申し訳無さそうな顔は初めて見た。否、予期せぬ失敗を許せないのかとも思う。

『すまない、ルクス…。』

チェスタに謝られたのも、もしかしたら初めてなんじゃないか?

もっと、謝って欲しいことが沢山有るのに…。

『別に良いよ…こんな、オモチャ。』

『……そうか。すまない。』

もっと謝って欲しいことが沢山有るのに、何でこんな時ばかり真面目な顔をするんだ、こいつは…。

『とにかくルクスはもう仕事出来ないかぁあ…?』

カストルが残念そうに、荷物を落とさないように、肩を落とす。

『1つなら持てる。やらせてくれ。』

此処まで来て、我儘まで通して貰って、途中で諦めるなんて悔しい。何と無くだが…ダンダリアンにも、合わせる顔が無い気がする。

『……そうかぁあ?ルクスぅ…お前ぇえ、男だなぁああ!よっし!右の1箱はルクスに持って貰ってぇえ、バランス悪いから左の1箱はチェスタの台車に乗っけよぉおお!』

男だなとは変な話だ。俺が男だっていうことは、カストルだって最初から分かってる筈だ。

『うぐ…当然だ……すまない、ルクス…。』

チェスタはすっかりしおらしい。しょぼくれてるけど、ビスカが10箱押してるところを6箱しか押してないんだから、1箱くらいどうってこと無いと思うんだけど。

いつもの3人の元に戻って来た。不本意だが……少し、ホッとしてる。

知らない奴とか、身体のでかい奴とか、見たこと無い景色とか……嬉しかったけど、恐ろしくも有ったんだ。

自分が今何処に足を着けてるのかはっきりしない浮遊感と、元の場所に戻れるという保証が見えない不安感が、本当は常に付き纏ってたんだ。

でも、認めたくない。そんなの、俺に取ってこの3人が元の場所で、帰るべき場所みたいで……それってまるで、故郷みたいじゃないか。

落ち着け。忘れるな。直線を見ろ。太陽がすっかり旅立った直線を。

それでもまた太陽が帰り、太陽が旅立つ直線を!

太陽だっておんなじだ。俺だって太陽と同じ筈なんだ。帰る為に旅立つんだ。必ず帰る道が延びてる筈なんだ。

努努、忘れてはならない。

必ず、俺の故郷は存在するんだ。

唱えないと、油断すると、そんな当たり前のことが離れて行ってしまうんじゃないかと

今、静かで確かな恐怖に震えてる。


あとはひたすら、第1階層から第5階層の手前までを往復した。

魚とマミム乳の運搬は終わり、トマト、じゃがいも、青斑菜、にんじん等の野菜…後は氷室から氷を運んだりとか、兎に角様々な物を運びまくった。俺は何にせよ1箱しか持てないから、全然役に立たないしそんなにキツくもなかったけど。

トロイメラやルートリー以外にも沢山の運び屋が入れ替わり立ち替わり行き交ってて、あの2人には終ぞ再会することは出来ず、その都度知らない運び屋と初顔合わせして荷物を託した。こいつらもまたいちいち男前なんだ。

そんな風に過ごしてたら、あっと言う間に空に朱が滲み出してた。

せっせせっせと運び出してた荷物達も、残り後僅か。

『よし。俺たちの分はこれで最後で良いんじゃないかぁあ?第12階層まで運びきってしまおうぅう!』

『はっ?』

『あー、それが良い。そして新鮮な素材が届きたての12階層で何か食べて帰ろうじゃないかー。』

『ちょっと待てよ、それって…!』

どうせ12階層で飯を食べるなら、俺がわざわざ抜け出して12階層まで見学に行った意味が無いじゃないか!

『ルクス、どの店が良いかー?』

『え…?』

チェスタがニコニコと、珍しく裏の無さそうな眼差しを当ててくる。

『どうせお前のことだ。どこか贔屓が出来たんじゃないか?』

お前のことだ、ってどういうことだ?

俺、別にそんなに社交的なところを見せたことは無いし、寧ろ自分は臆病なんじゃないかってちょっと思い始めてたのに…。

でも、何故かチェスタは正解してる。チェスタの勘が凄いのか、俺がチェスタの掌で転がされてるのか…。

『じゃあ……酒場に行きたいんだけど。』

酒場と口にすると、3人は不思議そうに眉を寄せる。

『……酒場?』

ビスカが聞いてくるから

『酒場じゃ駄目なのか?飯も出してるって、言ってたんだけど…。』

3人は裏を合わせるようにお互いの顔色を窺った後、チェスタから口を開く。

『まー……飯が美味いなら酒場でも良いかー。一度寄ってみよう。』

『んー……まぁ、そうか。久しぶりに飲んでみるか。』

『俺も酒場は久しぶりだぁあ!緊張するなぁあ…!』

何だ、この感じ?皆歯切れが悪い。酒場って良くない場所なのか?

あのカストルが緊張するなんて、どんな恐ろしい場所なんだ、酒場って…?

でも、ダンダリアンは凄く良い奴だったんだから…酒場だって、酒だって、悪い物じゃないのかなって、思ったんだけどな…。

『ちなみにルクスー。お前、酒のことは覚えてるのか?酒は、飲んだことあるのかー?』

さっきの怪訝な素振りは何処へやら、チェスタは軽やかに荷物を転がしながらこちらを見遣る。

『…覚えてないから、飲んだこと有るかは分かんない…。』

飲み物だったということだけはちゃんと覚えてる。でもそれ以外全く浮かんで来ない。味とか、色とか、どんな時に飲んだかとか。余りに出て来ないから、俺は酒を飲んだことは無いのではとも思うが、それもどうなんだろうか。

『ふっはは…では、一杯飲んでみるのも良いかもしれないなー。』

『おいチェスタ、やめとけよ。』

チェスタが夕焼けに目を細めると、ビスカがいつもの調子で窘める。でも、今のチェスタの何が駄目だったんだ?ビスカがチェスタを咎めるツボって本当に独特だよな。

朝とは反対方向の、つまり目の前の空を見据えると、太陽は決められた帰路に着いて水平線には朱が溢れ燃えてる。背後には直ぐ、闇が迫って来てるんだ。

今日も一日が終わろうとしてる。少し怖い。ずっと怖い。俺の故郷がまだ俺のことを待ってくれるのか自信が無くて怖い。

俺が今日を掛けて、この町での暮らしに少しだけ慣れてしまったように。


『久しぶりだなー…グラゴーリの飯屋はまだ在るのだろうか…?』

『グラゴーリも良いけど、俺はスットのところの鳥野菜プレートが懐かしいな。身体作りにすごく良いんだ。』

『そういえばビスカは一時期どハマりしていたなー…カストルは昨日は何処の飯を食べたんだ?』

『俺は昨日はアルファマのところで食べたぞぉお!アルファマの飯は米と麦の配合が独特で、美味いし力が付くんだぁああっ!』

『アルファマって知らないな。力が付くなら俺も食べてみたいな。』

『ビスカが行くなら俺も行くぞー。ビスカが一人でこの階に踏み入り、酔っ払いに絡まれよからぬことでもあったら…!』

『ふざけるな。お前本当に馬鹿!』

3人だけでずっと盛り上がってる。

俺には一つも分かんない。只、どうやらこの階って本当に沢山の飯屋が押し込められてるみたいだ。

昼にはルートリーに見送られた赤い門から入って、細い路を進む。

チェスタに教えて貰った話だけど、矢印の看板は幾つも在るこの階の入り口の門へ帰る為の目印らしい。赤矢印は赤い門、青矢印は青い門。多くの人が訪れながら多くの店が詰め込まれた第12階層だからこその配慮なのだとか。他の階だって十分入り組んでるんだから、全部の路でやれば良いのに。

第12階層は昼間と違って、全体がすっかり盛り上がってる。男も女も子供も年寄りも。昨日から今日の日中まで此処で食べられなかった欲求が、やっと弾けてるんだろうか?それともこの階は普段からこんな感じなのか?

此処は俺が今のところこの町で訪れた階の中で間違い無く最も人が多く、一番活気が有る。

物珍しく気の向くままに歩いた末に辿り着いた場所だから空覚えだったが、奥の方、縁の方に在ったと思うのでひたすらそれを目指した。チェスタ達はくるくると首を動かしながら思い出話か何かに花を咲かせてた。

同じ路に出てしまうことも有ったがな何とか、傘の立てられた丸机を見ることが出来た。昼と違って満席で、隙間からまだ朱が終わり切らない空と浮かび出した尖った月が小さく見える。

右に曲がると…丁度人と鉢合わせる。ぶつかりそうになる。

『おっと!悪ぃ悪ぃ…じゃあ旦那、また来るよ〜。』

坊主頭のおっさんが無い扉の奥に軽く別れを投げると、もう1人おっさんが現れて、2人して左に去って行く。

其処には無い扉が残って、カウンターの中で小刀を振るうダンダリアンと目が合った。

『ダンダリアン…。』

『ルクス…!まさかこんなに直ぐに来てくれるとは!…随分友達が居るんだな。丁度4人座れるようになった所だ。』

昼間はよく見回さなかったが、この部屋は狭いな。小さなキッチンと、細いカウンター。4人座って、折れ曲がってもう1人。何分椅子の後ろの空間が激狭で、一度満員になってしまったら脱出には偉い苦労を要しそうである。

ダンダリアンの目の前、奥から2番目の椅子には、女が1人座って何か赤い液体を飲んでる。

『4人連れならば、私は端へ退こう。』

下の方だけくるくる波打つ長い髪に、花を差してる。多分この顔は美しい。でも年はチェスタよりも上なんじゃないか。ルートリーよりは、少し下か?

花飾りもとても美しい。生の花のようだけど、まさか本当に生じゃないよな?とても精巧だ。

『あー、申し訳ない!ルクスに話を聞いて来たのだが、まさかこのような隠れ家的趣きの場だとは知らず…今夜は別へ行き、ルクスはまたの機会に参上させることとしよう!』

慌てるチェスタ。後の2人もちょっと気不味そうな…俺、何か悪いことをしてしまったのか…?

『嗚呼、大丈夫だよ。席が空いて居るのだから。ビエッタ、今度こそ其方の席でも良いか?』

『…ん。構わない。』

美しい女ビエッタは赤いグラスを持って、折れ曲がり分裂した手前の席へ移動する。

『うーん、申し訳ないー。では、お邪魔する…。』

また一口喉に流すビエッタの脇を通り、4人でカウンターに座る。奥からチェスタ、ビスカ、カストルで、ビエッタの隣が俺。

座った俺達の顔を、改めて眺め回すダンダリアン。

『全員随分若いな…其の、可笑しな服のお前が兄貴って所か?酒は飲むのか?』

おかしな服の兄貴チェスタはがっくりと項垂れ、何処かバツが悪そうな…否仕方無く大人に甘えようとしてる感じにも見える。チェスタだって、自分よりも大人の奴相手には子供になったりするのか。

そう言えばダンダリアンは幾つなんだろうか。かなり年上に見える。シブリーよりも年上なのでは?でもシブリーはプラツェの尻に敷かれ気味だから余計に幼く見える気も…それはどうでも良いか。

『いや…すまないー。俺たちはもっと下層を拠点にしていて、若輩なせいもあり酒にはあまり馴染みが無いんだー…このような機能美の場だと分かっていたら遠慮させていただいたのだが…!』

機能美って何だ?

チェスタ達はどうやら、余り酒を飲まないらしい。酒場ってまさか、酒を飲めないと来ちゃいけない場所だったりしないよな…?

『ふ…狭くて小さいって言ってくれて構わないよ。それに酒なんて無理に飲まなくても構わないさ。どうせ、料理と呼べるか定かじゃない料理を楽しみに来たんだろう。』

『は…?』

嗚呼、そうだ。一番の目的は料理じゃないかも知れない料理。

二番目に、酒だ。

『ん?ルクスに聞いて居ないのか?兎に角きっと腹が減って居るだろう。1人分しか手が無くて少し掛かるが、待って居てくれよ。』

そう言うとダンダリアンは、さっきまで小刀で刻んでた野菜を一旦置いて、箱から魚を取り出した。あれってもしかして、昼間に俺が渡した箱だったりして…?

『ダンダリアン。酒を飲まずとも何か出した方が良いのでは。』

ビエッタが口を挟むと、ダンダリアンの手は直ぐ止まる。

『嗚呼…済まない。すっかり抜けて居た。お前達、何を飲む?別に酒で無くとも構わんぞ。酒以外の品揃えは悪いがな…済まん。』

ダンダリアンが申し訳無さそうに言うと、チェスタも少しだけ後ろめたそうな笑顔で微笑む。

『いやー、折角だから酒からいただこう…とは言えー、俺は桃ワインかな。何を隠そうー、これしか飲めないんだ。』

ワインって何だ?酒の種類か?桃ワインは、桃の酒だ。

『俺は杏酒かな。俺、普段から結構杏が好きなんだよ。』

杏酒は、杏の酒だ。何だか甘そうだ。何で杏はワインじゃないんだ?

『うぅうん……俺はぁあ。旦那ぁあ…すまないぃい、麦酒を林檎ジュースで割ったものをぉお、出してはもらえないだろうかぁああ。』

麦の酒って、一番不味そうだ。でも林檎ジュースは美味いから、それで割ったら良い感じになるのか?

『嗚呼、勿論。其れで…ルクス、お前は何を飲む?』

考えてなかった…と言うより、酒の種類なんて全然知らない。こういう時は、誰かと同じ奴を頼めば良いかな?

『ビエッタと同じ奴をくれ。』

ビエッタのグラスで、赤い液体がゴフッと少し逆流した。

『……其れは葡萄のワインだぞ。良いのか?』

ダンダリアンは驚いてると言うより、疑ってるように見える。

何で桃や杏は良くて、葡萄は駄目なんだ?

『…お前、待つんだ。此のワインは』

ビエッタが窘めるように何か言おうとすると

『まぁ良いか。少し出してやるよ。余ったら、残りは俺が飲むさ。お前達、少し待ちな。』

ダンダリアンは足下を探って、瓶を4本出してきた。

一つ開けて、黄桃色のトロッとした液体をグラスに注ぎ、チェスタの前に置く。

次を開けて、石ころみたいな氷を入れたグラスに杏色の透明な液体を注ぎ、それをビスカの前に置く。

それから開けた瓶からは黄金色の泡立つ液体が注がれ、其処に仄黄色い林檎ジュースが足されてカストルの前に出される。

そして残りが入った瓶も一緒にそれぞれの前に置かれた。

『ほら、お前には此れだ。』

俺の目の前に赤い液体が注がれたグラスが置かれる。ビエッタと同じ物だ。手に取ろうとすると

『じゃあ、乾杯するかー!』

チェスタから謎の言葉が飛び出した。

『乾杯って何だ?』

全然思い出せない。すると言うからには何かをするのか?これからいざ飲もうと言う時に、わざわざ何を?

『おやー…ルクス、乾杯も忘れてしまっているのかー。』

『よくよく考えたら今まで弁当ばっかりだったもんな…みんなで『乾杯!』って言って、グラスを掲げたら良いんだよ。』

『大きな声で叫べよぉおおっ!』

何故わざわざそんなことをするのかは意味不明だけど、難しいことでは無さそうだ。グラスに手を掛け、いつでも持ち上げられる準備をする。

『ビエッタもー…もし良かったらダンダリアンも、今日という日の平和と充足に杯を上げないかー?』

『…良いのか?では、俺も行かせて貰うか。ふっ。』

『では、私も。』

ダンダリアンとビエッタは目を合わせ、部屋の中は何だかそわそわと…わくわくしてるような気がする。

乾杯って、そんなに楽しいことなのか?

『んっんんー…では』

チェスタが、わざとらしく咳払いして

『ミズルに』

は?

『かんぱーい!』

皆一斉に声を上げて、グラスを掲げて

それから、ごくごくと喉を鳴らして酒を呷った。

これが乾杯…?ミズルに乾杯って、合ってるのか?

『けふ…ん?ルクスー、グラスを上げたら、直ぐに飲むんだぞ。ぐいっとなー。』

そうなのか。さっき言われてないぞ。慌ててグラスを口に運ぶ。

『あっ…!』

ビエッタが何か言いたそうだが、ダンダリアンは面白そうにしてて、チェスタはどうでも良さそうで、あとの2人は自分の酒を楽しんでる。

グラスから喉へ、温い液体が流れ込む。

『………………っ……ぐ!』

何だこれ。

最初の一瞬は、全然味が分かんなかった。

俺が覚えてるどの飲み物とも違う味で、どう感じたら良いか判断出来なかったんだ。

でも口に溜まり、舌の上を転がり、喉を通ることに依って徐々にはっきりしてきた。

美味しくない。否、不味いかも知れない。

これって本当に葡萄なのか?色は確かに赤かったけど…あんなにも立派な葡萄色からは想像出来ない。果実っぽくは有るが、甘くないし、やたらと濃くて眩暈がしそうだ。ちょっと渋くも有るな。

何よりこの…全体に漂う何かが、脳を直接揺さ振ってくる感覚が。

明らかに他の飲み物とは違うんだ。気持ち悪いけど、恐ろしいけど、身を委ねたら何かが待ってる気もして…

『おい…大丈夫か?吐くか?』

ビエッタの声で我に帰る。俺の肩を叩いて顔を窺ってくれてる。

口に僅かに残る感覚を飲み下して

『…あぁ、大丈夫だ……只…美味しくない。』

酒を出す仕事のダンダリアンの前で言うのを悪く思わなかった訳では無いが、余りにも衝撃的過ぎて勝手に言葉が出て来てしまったんだ。

『ふっ…ふふふふ、はははははは!』

ダンダリアンは笑った。

『そうかそうか!そりゃそうだ!無理しなくて良いぞ…一口を飲み干しただけでも立派だ。そうだな…お前には、水で割った橙ジュースでも出してやろう。スッキリするぞ。』

そう言ってもう一つ瓶を出して来る。

本当に楽しそうだ。気を悪くしてないのなら良かった。

ビエッタは胸を撫で下ろす代わりに自分のグラスを一口啜った。プリマのように表情が見えない女で、美味そうかどうかは測り兼ねるが、少なくとも不味くは無さそうだ…不思議だ。

『お前…重症なんだよな?』

ダンダリアンが薄い橙色の爽やかな液体を寄越してくれた。香りだけでも、スッと和らぐ安心感を放つ。

『…ダンダリアンも、被害者なんだよな?』

ダンダリアンはニヤリと口角を上げた。何処か切なそうな気もするけど…ルートリーやプラツェのことが過るからそんな顔も素直には信じられない。

『そうだよ。ビエッタもそうだ。俺は32の頃だから、11年前だな。ビエッタは1年位前に飛んで来て、俺が見付けたんだよ。只、俺は記憶は全部持って居る。ビエッタは…まぁ、余り言っても仕様が無いか…?』

ダンダリアンはちらりとビエッタを見遣る。確かに、勝手に他人のことをべらべら喋るのは良くない気がする。

『構わない…私は、記憶等無きも同然だ。ビエッタ・ローゼブートと言う名と、兵士と言う職に就いて居た事しか覚えて居ない。兵士等、争いも脅威も無い此の町では只の一つも役に立たない。』

こいつ、名前も職業も覚えてない俺の前で贅沢なこと言いやがって。俺は、俺は何も覚えてない。覚えてないから…

兵士と言う職のことを、今思い出したぞ。

兵士とは、戦争の駒だ。

つまりはこの世界…否、あの世界をひっくり返す力を持つ……殺戮。そうだ。兵とは殺戮その物だ。そうに違いない。

ビエッタも…人を殺してきたのか?何人も…。

『私は本当に名と職以外何も持たなかったが、ダンダリアンや町の人々の助けを借りて、漸く人並みの暮らしが出来る様に…とも、言い難いか。だが日々の営みは大分安定して来た。だからお前にもきっとそう遠くない内に、憂いが報われる日は来るだろう。』

出た。町民も被害者も、結局は同じことを言う。許せはしないが、これももう慣れる他無いんだな。

それにしても、ビエッタ…ローゼブートって何だ?名前が長過ぎないか?否…ビエッタとローゼブートの間に一呼吸有った。2つ名前が有るのか?

『ふ…そうだな。あのビエッタが独り立ちしたんだから。ルクス、お前は…取り敢えず此れを食いな。お前達、待たせたな。』

ふんわりと爽やかなハーブと、酸味と塩味が沸々と香ってる。

ダンダリアンは大きな平たい鍋の蓋を開ける。解放された唆る香りと共に逃げ出した湯気が晴れると、其処には乱雑に寝かされた丸ごとの魚達と、色取り取りの萎れた野菜達。

それを一匹ずつ皿に盛り付け、野菜を適当にやや不公平に添えて、俺達の前に出してくれた。

『全然料理じゃん…うまそー。』

『うん…良い香りだー。腹ぺこだよ。いただいても良いかいー?』

『嗚呼、熱い内が良いぞ。』

ダンダリアンは一仕事終えたように、俺が残して下げた赤い酒を豪快に一口呷った。

何故だ?ダンダリアンが呷ると…美味そうだ。

『いただきまぁあああす!』

『うるさっ。』

カストルがいつもの調子で煩い声を上げる。部屋が小さいから声の威力が直ぐに響き渡る。ビスカはいつもチェスタに押し付けるその言葉よりも随分可愛い調子で投げ捨てる。

俺も左手でフォークを持って、ダンダリアンを見上げた。

『いただきます。』

『嗚呼。楽しめよ。』

『……何を?』

『食べる事だよ。熱いから気を付けな。』

『…うん。』

弁当を食べる時、隣にシブリーが居る訳では無いから

いただきますに返事が付いてきたのは、初めてだ。

食事とは、楽しむべき物だったんだ。

それを念頭に置いて、魚の身を解して、野菜も一緒に刺して口に運ぶ。

『う……美味い!』

そう言えば、これもこの町で初めてだ。食事が熱い!

シブリーの弁当も最初は出来立てなんだろうけど…箱に詰めて、家に持ち帰って食べる頃にはどうしても生温くなってる。

この魚は今、鍋から飛び出したばかりなんだ。

熱って凄い。身体の中に染み渡る。ハーブの香りも、魚の酸味も、野菜の甘さも。

この旨みは、口だけじゃない、全身で味わってる!

『気に入ってくれたなら良かった…こんなの、料理じゃ無いだろう。』

今度はダンダリアンの呟くような卑屈で我に帰る。さっきから、ダンダリアンの出す物に俺の感覚は刺激されっ放しだ。

『とても美味いぞぉおダンダリアンん!立派な料理じゃないかぁあ!俺は特にぃ、魚の酢漬けが好きなんだぁああ…今日、仕事をした甲斐があったと言うものだなぁああっ!』

『う、うるさ…!』

ビスカが『煩い』を正しく使用してるのはやはり初めてだ。

カストルは本当に喧しい。只、今回は気持ちが分かる。酷く感動してるようだ。

『うん、本当に美味いよー。ハーブが効いていて…俺は桃ワインしか飲めないが、きっと白葡萄のワインなどがよく合うのだろうなー。間違いなくこれは料理だよ。』

ダンダリアンは歯痒そうに笑みを溢してから、また赤い液体を自らに注ぐ。

違うんだよな…って、言いたそうな笑顔だ。

『此の…タイトルも無いんだ。今日は酢漬けの魚だが…いつも適当でな。小さな平鍋を携えて…適当に其の時々の材料を蒸した奴を、旅路の野営でよく食べて居たんだよな。兎、蛇、蛙とか…只、ハーブは此の組み合わせでないと成らないんだ。オレガノとヒソップとローズマリーと、隠し味にシナモン……俺はさ、如何しても此の味が良くて持ち歩いて居たんだよ。戦場迄。馬鹿な傭兵だろう?』

急に饒舌に語り出した。オレガノとか何とかって…ハーブの名前か?ハーブって色々有るんだな……ダンダリアン、お前よっぽど料理が好きなんじゃないか。

『そうかー……良いと思うぞ。素晴らしいと。』

チェスタは何かを悟ったような…否、察したような顔をしてる。

ダンダリアンは傭兵…傭兵って、これも兵隊のことか?普通の兵士と何が違うんだろうか?

ダンダリアンもビエッタも兵隊なんだ…だからなのか?こいつら少し喋り方が似てるよな…。

『うーん、本当に美味いが、しかしー…やはり瓶一本もの酒は飲み切れないかも知れないな。』

そう言えば俺は1杯しか貰ってないが、チェスタ達の前には瓶ごと置かれてた。余り減ってないように見える。

『そうか…仕方が有るまい。しかしうちは狭くて瓶を並べて置く場所が無いんだ…持って帰るか…?』

『いやー。どちらにせよ、きっともうここには来られないさー。素晴らしい料理は惜しいが、やはり俺たちは酒が飲めないからなー…持ち帰るのも、遠慮しておく…良かったらー、ダンダリアンかビエッタで飲んではくれないか…?』

『……そうか。其れで済むならば、そうしよう。』

チェスタはまた申し訳無さそうな顔になる。

『…なぁ。もしかしてやっぱり、酒を飲まないと酒場に座ったら駄目なのか…?』

さっきからずっと気になってたけど、さっきからずっとそんな雰囲気だ。

こんなことを聞いて、この場の全員が、こいつは何も知らない重症者だからしょうがないなって…小さな子供を眼差すみたいな温かい空気が漂って、悔しさが気不味い。

『…ルクスー。本来酒場は酒を飲む者のための場所だから、酒を豊富に揃えているしー、酒飲みのために酒を飲まぬ者は遠慮をしなければならない場所なのさ。』

『え…!』

ダンダリアンがさっき、酒以外の品揃えは悪いと言ってたのを思い出した。酒がメインだから料理は料理で在る必要が無いのだということにも気付いた。

酒場は、酒の為の場所なのか。

この場所では、料理よりも、人よりも、酒こそが主なんだ。

『そうなのか…ごめん…。』

『気にするなルクス。俺がお前を誘ったんだし、酒場はこの階に未だ未だ沢山在って飲兵衛も迷う位だよ。本当にお前が、友達を連れてまた来てくれた事が嬉しいんだ。有難う。』

ダンダリアン…こいつ、良い奴だ。

今のところまだ、勝手なことも言ってこないし。

大人って感じだな…子供のどうしようも無い部分を、包んで溶かしてくれるんだ。

『この町では酒は酒場で飲むか、酒屋や酒造屋に直接交渉するかでしか手に入らないんだよ…だから飲んだくれは皆此の階層の近辺に暮らして、毎日あちこちの酒場を飲み歩くんだ。斯く言う俺は、酒を愛し過ぎて酒場を開いてしまった。碌で無しにも、酒場に住んでしまいたいと思い立ってな………だから今は幸せだ。きっとな。』

酒の話をしながら、また酒を呷る。

ダンダリアンって、酒が好きなのか。まぁ確かに、酒が好きだから酒を扱う仕事をするとは、自然な考えなのかも知れない。でも…

『しかしそんな思い付きで始めた物だから物件が余って居なくてな…こんなに狭くて、ボロい場所になってしまった。趣以外に取り柄が無いよなぁ。趣は、悪くないが…。』

ダンダリアンは、まるでさっきハーブの話をしてた時の顔みたいだ。何故そんな顔をするのかは分かんないが、ダンダリアンのことを好きになった後で見ると、何だかこっちまで歯痒い。

『済まない。喋り過ぎたか。』

ふと横目に入ってきたビエッタが…少し恥ずかしそうなダンダリアンを、歯痒そうに見詰めてる。真っ直ぐに。

『いや…俺もー、この場所が気に入ったよ。良い部屋だー。もう一杯だけ飲んだら、水をもらっても良いだろうか…?』

『俺も、この辺にしとこうかな…?明日に残ったら仕事に響くからな…。』

ビスカがようやく空にしたグラスを出すと、ダンダリアンは水差しから水を注ぐ。

残るってどういうことだろう。明日まで腹の中に残る飲み物が有るとしたら、それって凄くないか?得なのか損なのかは、何とも言えないけど…。

『俺はこの瓶は飲み干そうかなぁあ。林檎ジュースもぉ、全部飲むぞぉお!』

『すごいな、カストル…!』

ビスカは今回は逆じゃなくて素直にカストルを認めてるみたいだ。

チェスタやビスカが音を上げた物を飲み干すって言うんだから立派だと思ってカストルの顔を見たら、少し赤くて…いつもと違う。

楽しそうだ。何だか少し、気が大きくなってる?

『ふ…麦酒は弱いからな。喉越しも良いし、料理とよく合うだろう。』

弱いって、何のことだろうか。主張が薄いから、料理との調和が取れるっていう意味だろうか。

『うーんん…料理との相性はよく分からんがぁ、良い感じだぁああ!』

やっぱりカストルは雑になってきてる気がする。元々良い加減な奴では在るが。

『そうか、そりゃ良かった。楽しんでくれ……お、ルクスはもう平らげたか。何か他に食うか?今日なら、どんな食材でも揃って居るぞ。』

『ん…もう要らない。腹一杯だ。ごちそうさま。』

余りにも美味過ぎて一気に平らげてしまったが、大きな魚だったから腹はかなり満たされた。

『そうか…まぁ、飲み過ぎだけでは無く、食い過ぎも明日に響くかも知れんからな。食べ物だろうが飲み物だろうが、体に取り込んだ物は何もかもが未来に繋がる……運び屋は身体が資本だろうから、気を付けろよ。』

嗚呼、そう言えばそんな誤解をされてたな。解いてやらないと……ダンダリアンには、また会いたいから。

『言いそびれてたけど、俺は運び屋じゃないよ。』

『ん…そうなのか?』

ダンダリアンは僅かに呆ける。だからチェスタが差し出したグラスには、なみなみと水が注がれる。

『そうだ。おかしな服のチェスタと、チェスタの恋人のビスカと、3人で何でも屋をやってる。』

『ファッ!?』

酷い声が響いた。

何故かビスカが驚く。何という声を出してるんだ?声になってない。

『ビスカ…?誰だそいつ?』

ダンダリアンもビエッタも耳を押さえてる。ポーズだけのトロイメラとは違って、きっと本当に痛い筈だ。

カストルは気にせず麦酒を楽しんでる。

チェスタは教えてやれば良いのに、口元を押さえニヤニヤニヤニヤ、それは面白そうにビスカを見守ってる。

別に俺が教えてやれば良いだけだけど。

『ビスカは』

『知らないやつだ!全員絶対知らないやつだ!会ったこと無いっ!!』

かなり食い気味で遮られる。

『え、いや』

『うるさいっ!うるさいうるさいうるさい!ルクス、うるさいぞ…っ!』

何で俺がこんなに怒られなくちゃいけないんだ!

いつもチェスタを怒るみたいな調子で…。

ビエッタは良く分かって無さそうで、騒ぐ俺達に訝し気だ。

ダンダリアンはどうやら少し、スッとした顔をしてる。

『…しかし何でも屋とは、一体何の職業だ?此処は酒場で色んな仕事の奴が飲みに来るが、初めて聞いたな…まさか、頼めば何でもやってくれると言う訳では有るまい。』

ダンダリアンは何と無く優しい顔で話題を変えてしまった。この賑やかな第12階層で出会ったことが無いだなんて、プリマの言った通り何でも屋はこの町に俺達しか居ないのかも知れないな。

『そのまさかさー。何でもやるぞ。掃除に洗濯、多種多様な仕事の手伝いー…今日のように、運び屋も手伝うぞー。その他、探し物や人数合わせのような他の仕事が担えない隙間…運び屋が言われたら何をどこまでも運ぶようにー、何でも屋は言われたら何をどこまでも…何でも、やるんだー。』

チェスタが得意気に指を1本立てると

『ほう……其れは斬新だな…素晴らしい…!』

ダンダリアンは食い付いてる。こんなにもハッと目を輝かせるダンダリアンは初めて見た。

『おー、分かってもらえるとは嬉しいよ。なー…ビ』

『うるっさ!うるさ!あー美味かった!ごちそーさん!水もありがとな!』

『…嗚呼、如何致しまして。ん…お前も食ったか?下げようか…水は要るか…?』

チェスタは悪戯めかして笑いを堪えてるが、ダンダリアンも何処かニヤついてる。ダンダリアンは骨だけ残ったビスカとカストルの皿を下げて、空のグラスに水を注ぐ。

『あぁあ、美味かったぁあ…酒も、久しぶりに飲むと悪くはないなぁあ…!』

カストルは満面の笑顔で、それはそれは満足そうだ。そんなに幸せになれるなら、俺も麦酒って奴にしてみれば良かったかな…?

『……俺も食べ終わったしー、みんなのグラスが空になったらお暇するか。本当に、邪魔をしてしまったなー…。』

美味い魚と、酒と言うよく分かんない飲み物。ダンダリアンと、ビエッタと言う被害者。それ以上の、もっと色々な物も。不快な思いや謎も無かった訳ではないが、振り返ってみればとても有意義で、結構楽しい時間だった気がする。酒も大して飲まないのに、少し居座り過ぎてしまったか…?

『嗚呼、待ってくれ、何でも屋!』

しかし意外にも、ダンダリアンの方からカウンターに身を乗り出して引き留めに来た。

『……なんだー?』

チェスタを始め、ぽかんと呆ける3人。俺も同じだ。ビエッタはさっきから、こっちの話を聞いてないようで聞きながらワインを身体に流してる。

『お前ら、第何階層に住んで居るんだ?第12階層の俺の依頼を、引き受けてくれはするのだろうか…?』

ダンダリアンは縋るような、それで居てとても力強い目力でチェスタに迫った。チェスタは驚きを滲ませつつ、少考し…

『……俺たちは第4と5階層に住んでいるんだー。少し遠い。遠いがー……素晴らしい料理と酒、趣に満ちた場とー…そして何より、ルクスとの友情に感謝を込めてー、何か役に立ちたい気持ちはあるな。』

友情……これって、友情なのか?

友情とは、友人とはどんな物だったのか…とても想像がつかない。俺はきっと、プリマとその幼馴染のチェスタ達のような関係を友情と思ったが…俺とダンダリアンも、あんな風になってるってことか?今日出会ったばかりで、流石にそんなことは無いと思うんだけど…。

『有難う…無理にとは、言わないが…。』

『いやー、任せてくれ。ルクスー、お前に任せたぞ。何でも担当ー。』

『はっ?』

急にこちらに話が来て間抜けな声が響く。

『明日でも良いか?明日ルクスがー、こちらに赴こう。』

『えぇっ?』

『ふ…ほう。』

俺はまた間抜けな声を上げて、ダンダリアンはまた少し目を輝かせる。

『良いだろうー、ルクス?ダンダリアンにはとても世話になったんだしー、お前は何でも担当なんだから…3人共抜けてしまうとー、低層階は何かと困ってしまう。俺とビスカは頭脳と身体で下を受け持つからー、お前は何でも担当として何でもして、俺たちの分までダンダリアンへの恩に報いてくれー。』

成る程…?確かに、いつもの仕事を投げ出して上の階の仕事に打ち込むことも良くないからな。それに、ダンダリアンに良くして貰った恩は一番良くして貰った俺が返すべきだし…何より俺は、何でも担当だ。

『有難う、感謝する。ルクス…明日を、心待ちにして居るよ。』

ダンダリアンは優しく微笑んだ。

俺も何だか楽しみだ。こんな町で仕事を楽しみに思うなんて、初めてだ。

『……よし、じゃあみんな良いかー?ダンダリアン、ごちそうさまー。ビエッタも…邪魔したなー。』

『否…私にも悪く無い時間だった。また、いつか何処かで…。』

ビエッタは口角を上げる訳でも無ければ目を細める訳でも無いが、不思議と何処か柔らかく見える。

『あー…いつか、どこかで。行くぞー、みんな!』

狭い中で一斉に立ち上がるとぎゅうぎゅうに詰まってしまうから、一番手前の俺から順番に、一人ずつ、出ようとしたところで……最後にダンダリアンはビスカに話し掛けた。

『そう言えば…お前の名だけ聞き逃したな。おかしな服のあいつはチェスタで、こいつはカストルだろう?お前の名も、今度良かったら教えてくれよな。』

ダンダリアンは、チェスタがビスカにするような悪戯めいた表情を浮かべてる。

『はっ!?は…いや、はぁ…うん…。』

何で今度なんだ?今聞けば良いし、ビスカも素直に自分の名前を言えば良いのに。チェスタとビスカの事情っていつも分かんないし、ダンダリアンがその仲間に加わってしまったみたいだ。

何とか4人で部屋の外へ抜け出ると、少しだけ空気が涼しくなってた。何と無く、頭が冴える。

『じゃあー、さらばだ2人とも!ありがとう!…ほら、ルクス。』

『ありがとう、ダンダリアン…また、明日。』

『嗚呼…またな、ルクス!』

ダンダリアンはガサガサの手を掲げて振った。ビエッタは無言でしなやかな手を翳した。

第12階層の人波は大分引いてた。もう皆も飯を食べ終わって、家に帰って、寝るだけなんだ。

赤い矢印を辿って帰ろうと思ったら、チェスタに口を挟まれた。

『ルクスー。俺たちの家の方面に帰るのならば、黄色の門が一番の近道だー。そっちから行こう。』

そうだったのか…確かに、赤い門からあの場所に辿り着いたのって、随分あちこち歩き回った末の偶然だもんな。

『あぁあ、夜風が気持ちいいいい!今日は良い仕事をして良い酒場で過ごせてぇっ、素晴らしい一日だったぁああ…!』

『おい…大丈夫かよ、カストル。明日は平気なのか…?』

『…まー、たまには良いんじゃないかー?俺も良い気分だ。今夜はぐっすり眠れそうだなー…お前もそうだろう、ビスカー?』

『んー…まぁな。』

皆笑顔で、何処と無くまったりしてる。

俺もかなり疲れたけど…疲れ過ぎて、此処まで笑顔になる程の気分じゃないな。

これってもしかして…酒の力なのか?俺は一口しか飲んでないけど、皆はもう少し飲んでた。

あの、脳を揺さぶられる感覚が思い起こされて…また気持ち悪くて、少し恐ろしい。

『あ。』

ぴた、と止まって…思い出した。

『どうした、ルクスー?』

『忘れて帰るかも知れないから、今返して欲しい。』

『ん?…あー。そうか、それもそうだなー。』

チェスタはごそごそと袖を漁り、おたまを掴み差し出してくれた。

『ほら。』

柄を握ると、また力が湧いてくる。これが本来の使い方なんじゃないかって思えてくる。

『ありがとう。』

俺がそう言うと、また皆で歩き出した。ゴチャゴチャと小さな家が並ぶ雑な街並みを歩く。上の階の床が天井になる薄暗い町は、夜になるとより一層暗いから、色んな形のランプが所々に並んでる。

俺は記憶を失ってから初めて、長い長い一日を愛しいと思った。


『ただいま、プリマ。』

かなり遅くなってしまったが、プリマはまだ箱の上で何かを直してたみたいだ。あれは…バラバラの紙を、糸で纏めようとしてる。

『ルクス…お帰り。大仕事はどうだった……っ!?』

プリマは俺の短くなった右腕と、左手に握り締められたおたまを見て固まった。そして俺の顔に目を遣る。プリマの表情は殆ど動かないが…もしかして、悲しそうか…?

『ルクス…おたまが……!』

プリマにしては珍しく、少しだけ迫る声だ。何故だ?まさかこんながらくたのことを気に掛けてくれてた訳では有るまい。

『…今日、使い過ぎて……螺子が千切れた。』

何処か決まりが悪くて目を合わせられない。遠い月明かりと小さなランプ1つだけで照らされた部屋が、重く揺らぐようだ。

『……螺子が無くては、どうしようも出来ない。螺子が合わなくては…どうしようもならないから…。』

何故かプリマまで申し訳無さそうにして、余計に居た堪れない。

お前がそんな風にするぐらいだったら、こんな腕どうでも良いよ。

こんな、悪戯みたいな、玩具みたいな、遣る瀬無い腕なんか。

『ちょっと、こっちに来て。』

プリマは作業途中の箱の方へ行くから、俺も付いて行く。ぐちゃぐちゃした線と大量の記号が描かれたバラバラの紙を避けて、プリマはジャラジャラと音が鳴る小箱を取り出す。

『もしも合う螺子が有れば、直せるかも知れない。』

箱を開けたら、大小、形、様々な螺子。それが全部纏めてばらばらに入ってる。仮に合う螺子を見付けられたとしても、それを此処から必要な分取り出すのに偉い苦労をしそうだ。

この箱を見るだけでも諦めが付く。螺子ってこんなに色々な種類が有るんだ。

プリマは真剣そうに、集中してる。箱から螺子をバラバラっと出しては、一つずつ腕に嵌めようとしてる。

おたまの根本は良いが、どうやら腕の先の螺子穴は深くまで潜り込めないと留め切れないみたいだし、数も何本も要りそうだ。

どれ程経ったんだ。もう俺は諦めてるのに。腕を上げっ放しで居るのは疲れて、悲しいような、寂しいような、そんなことは無くてどうでも良いような、そんな気分なのに…

プリマの気が済むまでやらせてやろうって、そんなつもりで待ってる。

『……………ごめん。』

俺が疲れに負けて無心になり掛けた頃、プリマは漸く諦めた。机代わりの箱の上には沢山の螺子が散乱して、小箱の中は空っぽになってる。

これだけ沢山の螺子の中から、一つも合う物が出て来ないんだから、やっぱり螺子ってとんでもない種類が有るんだな……それとも、この腕は他に代わりが効かない特別な物だったりして。

『……プリマは。』

『…え…?』

特に考えも無いまま喋り出してしまった。気不味いからだろうか。プリマの悲しくて悔しそうな様子を、どうにか晴らしてやりたかったのかも知れない。

『プリマは何で、おたまを知ってるんだ?』

『えっ…?』

プリマの行き場が無い思いは、一瞬で鳴りを潜めて呆け顔に変わる。動かないなりに何だか少し、プリマの表情の機微が分かるようになった気がするし、プリマも始めと比べてほんのりと気持ちを表に出すようになった気がする。気がするだけだけど。

『おたまは…シブリーに教えて貰ったんだ。小さな頃に…スープが沢山掬えそうで良いなと思って、聞いたんだ。』

『そうか…。』

スープ…スープか…何か、そんな話をいつか何処かでしたような…してないような……確かにスープは沢山掬えそうだが、スプーンと違って先が曲がってるから結局飲むには適してなさそうだ。子供ならではの発想だな。

『何故、そんなことを聞くんだ?』

『…チェスタとビスカは、おたまのことを知らないみたいだったから。プリマはおたまと言ってた…俺はそれを聞いて、このがらくたがおたまと言う名前だったことを思い出したんだ。』

『……そうか。』

どういう意図かは測れないけど、プリマは一旦目を伏せて…螺子が散らばる箱に向き直った。

『今日はとても疲れただろうから、好きな時に寝てくれ。』

そう言って、ジャラジャラと音を立てながら螺子を掴み、バラバラと箱に戻してゆく。

『うん…。』

何と無しの返事をして、寝床の下の寝床に座り、壁に背を付けた。

プリマはどんな気持ちで居るのか、よく見えなくなった。どうでも良い話を挟んで、少しは気が紛れただろうか。

おたまの話を少しして思い出した。この11日間、共に暮らしながらプリマと真面な話をしたことが無かったんだ。

否、仲が悪い訳では無いと思う。真面な…と言うより、下らない話をしたことが無かったんだ。

記憶が無いから、これが正しいのかは分かんないな。家族って案外、こんなもんなのかな…?プリマは特に感情を出さないから、思い浮かばない。

おたまはプリマの机箱の上に置きっ放しだけど、別に良いや。このままプリマに預けておこう。

疲れ過ぎて昂って、逆にまだ眠れない。箱と、打ち込むプリマ以外に何も無い部屋で、退屈だから、噛み締めてみようかな。

沢山歩いて、仕事をして、知らなかった奴らに出会えて

そしてプリマが俺の為に切なくしてくれた、今日と言う愛しい一日。


第12階層にはもう2回来たので、すっかりスムーズに辿り着けるようになった。

チェスタが教えてくれた黄色い門から入る。まだ全然日は昇り切ってない。だからだと思うけど、昨夜と比べると全然人が居ない。またエプロンを着たでかいおっさん達と運び屋らしき男前達がウロウロしてるけど、それも昨日の大運搬と比べると半分以下の賑わいに見える。

黄色い門から行くと、赤い門とは逆に左手に、ダンダリアンの酒場が在る。相変わらず扉は無い。扉が無いとノックが出来なくて何と無く気不味いのは、きっとチェスタとビスカの謎に慣れ切ってしまった所為だ。

『ダンダリアン。』

せめて元気な声を作ってから入る。すると…ダンダリアンは、カウンターに座ってた。

背中を丸めて…まるで、昨日初めてダンダリアンを見付けた時みたいだ。寝てるのか…?朝っぱらからこんな所で寝るなんて、逆に疲れそうだ。

取り敢えず、ダンダリアンの隣の席に座った。ダンダリアンの前には瓶とグラスが置いてあって、瓶の中には琥珀色の液体が入ってる。グラスにも同じ物が半分くらい残ってる。

これって多分、酒だよな。ダンダリアンは本当に酒が好きなんだ。何故俺には酒の良さが分かんないんだろうか…やっぱり、あの感覚への恐ろしさを克服しなければならないのだろうか…。

ダンダリアンは全く起きる気配が無い…しかし

ずっと観察してて気付いた。これはどうやら寝てないんだ。

一言で表すならば、蠢いてる。う…う…と、聞こえない程小さな声を溢してるし、偶に動こうとするんだ。でも動けないんだ。

何だよこれ…大丈夫か?

『ダンダリアン、ダンダリアン。』

さっきよりも強めの声を上げて、起こすことにした。身体に手を掛け持ち上げようとするけど、でか過ぎてびくともしない。

堪らなくて、叩いてやろうかと思ったら

『うっ……う。』

一瞬ビクッと反応した後、声を上げながらダンダリアンはゆっくりと上体を起こした。額に、カウンターの木目の跡がくっきり付いてる。

『………ルクス?』

ダンダリアンの目は、俺を見付けた途端に生気が戻って来たように感じた。

『ダンダリアン…大丈夫か?』

『嗚呼、済まないルクス……少し、疲れて居てな。大丈夫だ。済まない…。』

そんなに、謝らなくても良いけど…。

喋ってみると余計に、昨日の昼間の感じに似てるな…昨夜のダンダリアンと比べると、少しだけ暗いんだ。ほんの少し。

『少しだけ待ってくれ………ふぅ…。』

『あぁ、待つよ。』

待ってる間、部屋の中を眺め回してみた。改めて狭いと思うけど…満員だった昨夜を思い出すと、2人しか座ってないこの状況では少し広く見える。そしてカウンターの中のキッチンもかなり狭い。こんな場所で、こんなに身体のでかいダンダリアンがよく料理を熟せると思う。

テーブルや床の木は、プリマの家の床と比べると大分ごつごつして分厚い。何と無く、ダンダリアンに合ってる。

十分良い部屋じゃないか。確かに扉が無いというのは問題だが…つまりこの良さはきっと、趣という物なんだろうな。

『ふぅ……済まないな、ルクス。もう大丈夫だ。来てくれて有難う。』

『そうか…?』

確かにさっきよりは、大分生気が戻って来た気がする。一安心なのだろうか?

ダンダリアンは身体をずらし、俺の方に向き直った。

『それで、頼みたいことなんだが…単刀直入に言おう。レストラの酒が欲しいんだ。』

『レストラ…?』

レストラって、何だ?人の名前か…?

『酒を飲まぬお前は聞いた事が無いだろう。レストラとは、酒造屋だ。酒を造る仕事と言う事だ。』

酒って、造る物なのか…。

水は雨を溜めた物を使ってる。ジュースは果実を絞って、茶は葉っぱを乾かしてるって言ってたな…どれも、造るって感じじゃない。

造って生まれる飲み物って、どんな感じなんだ?

もしかして、造ることに依ってあの恐ろしさが生まれるのか…?

『レストラは数有る酒造屋の中でも、間違い無く一番の信頼が寄せられる存在なんだ。果実酒は本来、甘過ぎるから量を飲みたい飲兵衛には余り人気が無いんだが…レストラの酒は別だ。美味過ぎるからだ。』

そんなに凄いのか…?美味過ぎるなんて言われたら、気になるな…。

『うちにもレストラの酒が入る事は有る。只、偶に、ほんの少しだけだ。レストラ一家は厳しくてな…必ず酒屋を通して…それも決められた本数を少しずつしか流してくれないんだよ。』

美味いなら、人気なら沢山流せば良いのに。

と思いつつ、本当に人気過ぎるなら逆に、制限を掛けなければ際限が無くなってしまう気もする。だって恐らく、造ると言うことは数に限りが有る筈なんだ。昨日のダンダリアンのように、人の手には限りが有るのだから。

レストラという奴は、この町にしては珍しく、秩序を考えてる人間みたいだ。もしかして、被害者か?

『レストラが数を絞ってるんだったら、ダンダリアンが抜け駆けしたら周りに怒られないのか?』

ダンダリアンは大分正気を取り戻してきて、少し照れ臭そうだ。

『客に出したらそうかも知れないが……俺が、飲みたいんだ。』

何だそれ?

『…まぁ、俺が飲んで、余った分は客に出したい気持ちも有るがな。レストラの酒は本当に少ししか入荷しなくて、それも直ぐに無くなって、俺が飲む分はちっとも余らないんだ。飲んだ事が有るのも他の店で一回だけ…好きなだけとは言わないが、満足行く迄飲んでみたいんだ。』

ダンダリアンって、其処まで酒好きなのか?

まるで我儘じゃないか。ダンダリアンが仕方無いのか?レストラって奴の酒が凄過ぎるのか?理解が行かないのは、俺が酒を飲まない所為か?

『如何だろうかルクス。此の様な極めて自分勝手な頼みは、受けては貰えないだろうか。』

嗚呼、そうか。これは自分勝手と言うんだ。自分の都合で勝手なことをする奴。

別にこの町には勝手な奴なんて幾らでも居るし、そんな依頼も幾つか何でも屋に来てた。弁当屋に並んでおいて欲しいとか、隠れんぼで勝ちたいから一緒に探してくれとか。

特にダンダリアンには世話になったし、好きな奴だから、酒ぐらい持って来てやれたら良いかなって思う。

『取り敢えず、レストラって奴の所に行ってみる。』

俺が言った途端にダンダリアンの目は鈍く輝いた。昨日、何でも屋の話をした時みたいだ。

『有難う……嫌になったら、いつでも諦めてくれて構わない。元々、心の片隅で飼い慣らして居ただけの欲望なんだ。』

こんなに大きな身体の心の片隅で、飲み物のことを思い続けるなんて、随分可愛らしい欲望だ。

『レストラって、何処に居るんだ?』

『第16階層に酒造の為の土地が在り、住まいも其の近くに在るらしいが…しかしいきなり行って酒が欲しいと言っても恐らく取り合ってはくれない。其処で面倒なんだがな…俺がいつも酒を譲って貰う酒屋が第11階層に居て、レストラの酒も少し卸してるんだ。そいつに話を聞いてみてくれないか?』

確かにちょっと面倒だけど、そうするしか無いみたいだ。

『分かった。その酒屋が居る場所を教えてくれ。』

俺か出来るだけ真っ直ぐダンダリアンの目を見据えると…ダンダリアンは何処かふわふわと、でも優しく、眼差しで返事をしてくれた。

『嗚呼。では、先ず緑の門から第11階層へ降りて…』

ダンダリアンの説明を、聞き逃さないように耳を傾けながら…

レストラの酒の味を想像してみる。

果実酒ってことは、甘いのか?でも葡萄のワインは甘くなかったから、そうとは限らないか。

そんなに人々が夢中になるんだったら、もしかして…

俺が飲んでも、美味かったりして?

この仕事が上手く行ったら、俺もダンダリアンに少し分けて貰おうかな。


第11階層、緑の門から歩いて右に曲がると、少し大きめの窓が無い家が在る。青い屋根に赤茶の壁が目印。

表に男が出てる。屋根と同じ青い髪に、壁と同じ赤茶のシャツを着てる。ズボンも同じ色。特に何かする訳では無く、深呼吸してるみたいだな。

『なぁ。お前がピズーリか?』

声を掛けると、息を大きく吸い込む途中だったみたいで、男は軽く咳き込んだ。

『…っ、けほ……な、何だ…お前?こんな若い奴、酒に関する話じゃ無いよな…?ピズーリは俺だが…俺、何かしたか?』

年はダンダリアンよりは若いかな…ダンダリアンとルートリーの間くらいか?何だか、人の年齢を予想するのも楽しくなってきたな。別に特に答えは聞かないけど。

『…否、酒の話なんだ。俺はルクス。お前は、ダンダリアンの知り合いなんだろ?』

ピズーリは俺が酒の話をするのが意外なのか、俺がダンダリアンを知ってることが意外なのか、兎に角意外そうにした。

『お前、旦那の知り合いなんか…?じゃあ御使いか?どの酒持ってくんだぁ?』

どうやらピズーリは、要領を得ない内に勝手に話を進めようとする奴らしい。こういう奴、偶に居るよな…。

『違う違う…レストラのことを聞きたいんだ。レストラの酒が欲しいんだよ!』

『…えぇ?レストラん酒は品切れだよ。それに旦那にゃもう届けた筈だけど…。』

『否、一回全部話を聞いてくれよ……酒場に出す為じゃなくて、自分で飲む為にレストラの酒が欲しいんだよ。』

『えぇえっ!そんなん無理だよ!品切れだし…ちゅーかお前餓鬼なのに、そんなに酒が好きなんか?』

『だから話を聞けってば!』

つい苛々してしまった。しかも俺が飲みたいんだと勘違いされてしまったが、この際そんなことどうでも良いか。

『直接レストラと交渉したいんだ。お前、レストラの酒を扱ってるならレストラと会ったことが有るんだろ?取り持ってくれないか?』

ピズーリは露骨に嫌な顔をし出す。

『…何で俺がそんな事せにゃならんの?そんな下手な事して、レストラに嫌われて酒卸して貰えんくなったら、仕事無くなっちゃうよ。』

レストラってそんなに気難しい奴なのか?でも、一理有るな。

レストラをそうする前に、ピズーリから抱き込まなくてはならない。

『……何をしたらやってくれる?』

『は…?』

最早ピズーリの顔は、怪訝のみで構成されてる。

『えぇ…いやぁ…うーん…。』

否、怪訝に加えて、面倒臭そうだ。ピズーリの心中を推量する。きっと、早く家の中に戻りたいと思ってる筈だ。

『俺は、何でも屋だ。だから何でもやるぞ。』

『何でも屋ぁ…?』

ピズーリの頭にまた一つ訝しみが積み上がった。

『色んな仕事の手伝いをしたり、恋人への贈り物選びを手伝ったり、ぴかぴか硬い泥団子の作り方を探したり、弁当屋に並んだり…右手を使わなくても出来ることだったら、何でもする。』

『え…わっ!何だその腕?』

よく有ることだけど、さり気無く腕を下ろしてると、意外とこのおかしな腕に気付かない奴も多い。

『うーん、何でも…?本当に何でもなんかぁあ?』

『あぁ、何でもだ!』

虚勢のつもりじゃないけど、少し強めに目力を飛ばすと、ピズーリにじわりと隙が生まれてくる。

『う〜ん、でもなぁ…こんなん……否ぁ、しかし。』

『取り敢えず、言うだけ言ってみてくれよ…。』

さっきまでの食い気味の鬱陶しさから一転、執拗に焦らしてくる…。

『………じゃあ…そうだな……パ…』

やっと見付けたか?

『…ぱ?』

『パ…パン……』

ぱん?

『………あぁ、あーあーあーあー!此れは無しだ!そうだな、えーっと…』

ピズーリはさながら雑念を振り払うが如く激しく頭を振り手を振る。何なんだこいつ。こっちが面倒臭くなってきた。

『なぁ…もしもレストラがお前に酒を直接譲ってくれるような事が有ればさぁ、俺にも多めに流してくれる様にそっちが取り持ってくれよ!だから慎重に、上手く行くようにやってくれよ…それだったら、案内しちゃっても良い!』

成る程。それならダンダリアンの依頼と一石二鳥だし、話が早そうだ。

『分かった。上手くやるから、案内してくれ。』

交渉成立の筈だ。なのに、ピズーリは中々煮え切らない。

『はぁ…うん、まぁ〜此の辺が落とし所だよな…まぁ、うん…またいつかの機会に…!』

ぐちぐちぐちぐちと、煩い。

『なぁ、案内してくれよ。』

『はっ!あぁ、そうだったな。ほんじゃあ、16階に行くかぁ…付いて来な。』

ようやくピズーリは歩き出した。

ちょっと焦れたが、何とかレストラに会えることになったぞ。これで上手く話を付けられれば、今日中に仕事が片付くかも知れない。

この辺は、上階の通路が入り組んでて一際暗い。昼間なのにランプが灯されて、陰気な感じだな。何故、こんな所に住んでるんだろうか。そんなこと言ったら、最上階以外のこの町は大体そうか。

そう言えば、最上階って何が在るんだろう。

増える人々の為に町が伸びるのならば、やっぱり人が住むのだろうか。

そしてその上にはまた家が継ぎ足され……

果ては無いのか?雲を貫いてしまわないか?外の世界の人々は減り過ぎてないか?

何処までやれば、ミズルの気は済むんだ?


『こいつが俺の妹のアリュイだ。』

『よろしく〜。』

第16階層はこの辺にしては比較的緑が多い気がする。第1階層程の広さじゃないが、畑も在った。

今更だけど、第1階層以外の畑や牧場は、どうやって造られてるんだ?やっぱり、下から土を運んで来て造ってるのか?

『あの…レストラに会わせて欲しいんだけど。』

何でピズーリの妹に会わせられなきゃならないんだ?

『否々、実は俺はレストラと直接会ったんは1回しか無くてな〜。アリュイの方がレストラと仲良いんだ。家も近所だしな。アリュイ、ルクスはレストラに会って交渉したいらしいんだ。紹介しちゃってくれんか?』

『えぇ〜…まぁ、あたしが言えば会ってはくれるかもしれないけど〜…酒の話だったら、難しいと思うよ?』

ピズーリの妹アリュイの家は、窓の無い青い屋根の家。壁は赤。どちらもはっきりした色でかなり主張が強いが…不思議と格好良いな。この町には余り無い感じだ。

そしてアリュイは…青い髪を2つに結び、真っ赤なワンピースを着てる。何なんだ、この兄妹?

『取り敢えず会わせるだけ会わせてくれ。あとは話してみて考える。』

『えぇっ!作戦ナシなの〜?それじゃ〜勝算もナシだよ〜?ま、とりあえずってんなら行くだけ行ってみる?』

『頼む!』

兄と違って話が早くて助かる。やっとレストラに会える!

『じゃあ、俺は一旦蔵戻って今日の仕事するよぉ。宜しくな、アリュイ。ルクスも、さっき言った件頼むぞ。』

『あぁ…。』

『わかったぁ〜。』

アリュイは手を振り、ピズーリは去る。そして鮮やかな家の前に、2人。

『じゃ〜行こっか。こっちよ〜。』

アリュイが歩き出すので付いて行く。

この辺も薄暗いな…でも奥の方は少し開けてて、陽が差し込んでる。小さな木が、沢山生えてるな…。

『はい、着いた〜。』

『はっ!?』

早過ぎだろ!本当なのか?50歩くらいしか歩いてないぞ!

目の前には低くてスカスカの柵、小さな門、その向こうの芝生、上の家や通路を支える何本もの柱、3つの建物、そして奥の日溜まり、照らされる林。

『でっかいでしょ〜レストラの敷地は。家族全員がそれぞれ酒造ってるからね。あたしはご近所さんで昔から知り合いだから仲良くしてもらってるのよ〜。さて、んっんっん…。』

アリュイは咳払いしながら門を入るので、俺も続く。此処で酒が造られてるのか。あの大きな建物の中で造ってるのか…?

『レぇえええストぉラぁああああああ〜っ!!』

『うわっ!』

何てでかい声なんだ!いきなり何だ!?

カストルの大声にも結構慣れてきたところだが、女なのにアリュイの方が段違いのパワーが有るぞ!

『レぇえっスぅううトぉーぉおおおラぁあああ〜!!』

しかもリズムやアクセントを変えて…楽しんでるようにすら聞こえる…!

『レレレレレススススススストラトラトラトラ!トラトラっ!!』

最早何だよそれ。トラトラって、名前じゃないじゃないか。

この町にしては結構広い土地だ。芝生が敷かれて、まるで地面だ。さっき通った第15階層の暗さを思い出した。この土地が上に被さる所為なんじゃないか?

『レっスっトっラっレぇスぅトぉラ〜ぁ、あ、あ、あ〜!!』

叫びながら、芝生を歩き回る。アリュイの喉は潰れてしまわないか?そう思った頃

『アーアアアリュリュリュリュ……イィイイイイイ!!』

『あっ…レストラぁ、やっと来たぁ〜!』

建物の内の一つから、女が出て来た。鮮やかで濃厚な桃色の髪を、上の方だけ結んで後は下ろしてる。もっと薄い色のカーディガンの下に着た焦茶のエプロンには何か細い線が刻まれて…こいつが、レストラだ。

『ごめんごめん、今ちょっとあっちで試飲してて…今季も良い感じよ。だから許して。』

目元には…眼鏡が掛けられてる。ポロップと同じだ。眼の場所に2つ硝子が嵌め込まれて、細い棒が耳まで伸びて、引っ掛ける物。目が良くない奴が着ける物だ。

年は幾つだ?気軽に話してるからか、アリュイと同じくらいに見えるな。ビエッタと同じくらい…否、もう少し上か?つまりルートリーと同じ?

『ねぇ、この子誰?あんた以外の部外者には、あまりここに入って欲しくは無いわ…まさかこの子、酒屋なの?』

アリュイの後ろに寄り、眉を顰めるレストラ。やはり俺が酒が欲しいと言ったら、嫌な顔をされるんだろうか。

『ん?あぁ〜そういえばあなた何なの〜?なんか、レストラのお酒が欲しいらしいんだけど〜…。』

そういえば、アリュイには何でも屋だと名乗ってなかった……もしかしてだけど、この滑り出しってちょっと印象悪くないか?

『はぁあ?な、なんで正体不明のやつ連れて来ちゃうのよ!見てよあの腕!怪しさMAXじゃないのっ!普通こんな話取り合わないってば!あんたどんな弱味握られてんのっ!?』

『え…あ、ホントだ変な腕〜!』

言い過ぎじゃないか!?正体不明はその通りだと思うが…あとは言い掛かりも良いところだ!俺だってこんな腕気に入ってない!仕方無く連れて来た腕で信用度を測られて堪るか…!

『ね〜、ルクス。自己紹介してよ。そんで、話してみて考えるらしいから〜…良かったら、話聞いてやってよ〜。』

『ん…んん…。』

レストラは極上の警戒心を携えながらイガイガと唸ってる。最悪だ。

俺も結構嫌な気分になってる。でも俺の方が頼みに来てる立場だから、なるべくこれ以上嫌われないように御機嫌を伺わなくちゃならない。

『…俺はルクス。何でも屋だ。レストラの…素晴らしい酒を、直接分けて欲しくて来た。』

『……何でも屋ぁあ…?』

『何でも屋〜?』

レストラとアリュイは2人してとても飲み込めてなさそうだ。

『何でも屋なんて…聞いたこと無い。まさか、何でもやるわけじゃないでしょうね…?』

ダンダリアンにもこんな聞かれ方をしたな。何でもやるって、この町の奴らに取ってはそんなに変なことなんだな。名乗ったもん勝ちな町の癖に。

『何でもやるよ。だからレストラの酒も欲しいんだ。頼まれて来たんだよ。』

レストラは両手を腰に当て…不審の姿勢を崩してはくれない。

『はぁ〜…そんな話で、はいそーですかってあげられるわけないでしょ?あたしがどんなにプライド持ってお酒を造ってるかわかってる?あたしやお父ちゃんお母ちゃんの造ったものを寄越せって言って来るやつは沢山居るし、頼まれて来たってやつも勿論居るし、それを今まで全て断ってきたのよ?なのになんでよりにもよって何でも屋なんてわけ分かんない若造に渡さなきゃいけないの?どこ探してもそんな理由見当たらない!』

何だこいつ…べらべらべらべら。

プライドって…誇りのことだよな?仕事に、誇り…?

そんなこと、考えたこと無かった。

『……なぁ。』

『…はぁあああ、何?』

『どんなプライドを持ってやってるんだ?』

『…は…?』

どんな気持ちでやってるか理解出来たら、懐柔の余地が生まれるかも知れないとも後から思ったが

純粋に気になったから、口を突いて聞いてしまったんだ。

仕事を誇るなんて、想像も付かなかったから。

思い出そうとしても、仕事が誇りだった記憶なんてとても思い出せない。

どうやら斜めからの質問だったみたいで、レストラは軽く呆気に取られてる。

『……語ってやるわよ。』

レストラはスイッチが入ったみたいに目付きが変わった。

『……あ〜あ。』

アリュイは…面倒臭そうに目を閉じた。

『…あたしのお父ちゃんは被害者で、外では酒蔵の跡取りだった。それが、やっと一人前になれそうだった28才の頃に飛ばされた。でも…お母ちゃんと出会ったの。この町で代々果物農家をしていたお母ちゃん。第3世代よ。2人が結ばれたんだから…お酒を造り始めたのは必然だわ。最初はお父ちゃんが、外の世界でずっと修行してたヴォダを、お母ちゃんが作った葡萄やプラムで造り始めた。それが軌道に乗ったら今度はお母ちゃんがお父ちゃんに相談しながら赤ワインを造り始めて…そしてあたしは2人の志を継ぎながら、2人とは違う自分にしか造れないものをと思って、ワイン以外の果実酒の製造を始めたのよ。』

聞かない方が良かったのか…?

既に長いが、まだ漸く酒を造り始めたばかりじゃないか。親の話ばっかりだ。

『まず、ね。お母ちゃんが作るフルーツってとっても上質なのよ。特にお酒造りが本業になってからは、お酒のためだけの改良を続けてきたの。葡萄とプラム…あたしの果実酒のために、桃と杏の場所も作ってもらったわ。他の酒造屋は農家からもらってきた材料を使ってるけど、あたしたち家族は自分たちで育てた果実しか使わない。葡萄は皮が厚く渋いもの。プラムは酸っぱくて硬いもの。桃は甘いもの。杏はバランス良く…それを最適な時期に収穫して、すぐにそれぞれ酒造の工程に入るのよ。全てを3人で間に合わせるのは大変で…でもその辺のやつには任せられないし、仕方ないけどね……だから、この限られた土地では収穫も限られ、人数が少ないからできる範囲も狭いし、どうしても沢山作ることができないってわけ。』

益々理解が追い付かない…頭が弾けそうだ!

でも…凄いということだけが分かる。

自分達で追い付かないなら他の奴に手伝って貰えば良いのに。何でそうしないんだ?自分達でしかやらないということを貫いて、何が変わるんだ?

きっと、何かが変わるんだ。

こいつ…否、こいつらは、投げ出せないんだ。

そうだよな……だって、人にやらせたら、自分の仕事にならない。

自分の責任にもならない。

自分の手柄にもならない。

つまり、自分の誇りにもならないってことか…?

『そもそもが、お父ちゃんが造ったヴォダをあたしの果実酒造りに利用してるわけだけど…このヴォダが素晴らしいのよ。雑味を極限まで無くして…あんたみたいな若造には、雑味なんて言葉分からないでしょうね。そもそもヴォダというものは…』

終わらない。どうしよう。

プライドと言う物に関しては、少し掴めてきた気がするんだけど…。

『ねぇ〜え、帰っても良い?』

気付けばアリュイはその場に蹲んで欠伸をしてる。

『はぁ〜?あんたも酒屋なんだから、改めてあたしのプライドを理解してよ!だからこのクリアな味を実現するためにお父ちゃんは』

『レストラ!もう良いよ!プライドって奴は、もう分かったから!』

耐え切れなくて音を上げてしまった。でも仕方無い。このままじゃ日が暮れてしまう!

『っはぁあ〜?あんたに何が分かるってのよ!』

否、説明してくれるって言ったんだから、分かるように説明しろよ!

プライドって凄いな…人のこと、こんなに嫌な性格に仕立ててしまうんだな。こいつの元の性格は知らないけど。

『……まぁ、良いわ。こっちもあんたに使ってる時間が有るくらいならお酒の面倒見たいしね。とにかくそういうことだから、誰かを贔屓にすることなんて出来ないわ。帰ってちょうだい。』

参ったな。レストラのプライドを認めたらレストラの言い分も認めることになって、付け入る隙が無くなってしまう。

何かをぶつけるしか無い。レストラの武器がプライドで在るように、俺も武器を翳すしか。

『レストラ。プライドがどういう物なのか分かったし、お前が大変なプライドを持って酒を造ってるってことも、多分大体分かった。プライドを持って仕事をすることは、物凄いことなんだっていうのも分かった。』

『は…?はぁ…?』

レストラはまた訝し気な表情に逆戻りする。何でも屋と言った時のような、訳が分かんないと言ってる表情。

『だから、これからは俺もプライドを持つようにする。何でも屋にプライドを持って、自分の手で、一人ひとりの人々を笑顔に出来るように。』

何でも屋は、皆が困ってることを助けてやる仕事だ。

それってつまり、皆の困り顔が消えて、笑顔になることだ。

…って、思ったんだけど。

『はぁ…何が、言いたいのよあんた?』

『ねぇ〜帰っても良〜い〜?』

アリュイはすっかり暇を持て余して、地べたに腰を下ろし下げた髪をくるくるくるくる弄んでる。

『俺に何でもやらせてくれ。』

結局、このやり方しか無いみたいだ。

でも…さっきピズーリに言った時とは全然違う気分だ。

……の、ような気がする…。

『は、はぁあ?』

『俺は今まで多分、仕事にプライドなんて持ったことが無かったんだ。でもレストラの話を聞いて、衝撃だった。仕事は、自分の手でやらないと誇りにならない。誰かと協力することが必要な時も有る。でもそんな時でも、自分でやり遂げた分しか自分の誇りにならない。でも、責任は皆で負うんだ。お前ら家族は、3人でそれをずっと守ってきたんだよな…。』

『はぁ…あ…?』

レストラの警戒が少しだけ緩んで、疑問符はより飛び交う。

『俺にも仲間…って呼べるか分かんないけど、一緒に何でも屋をやってる奴らが居て、そいつらに言われて、凄く優しくしてくれた奴に頼まれて、今此処に来てるんだ。だから俺は何でもやって、責任持って、皆を笑顔にする。それが俺のプライドなんだと思うんだ。だから…レストラ、お前のことも笑顔にしたい。依頼を達成する為に。』

『ん…んん……。』

レストラは唸ってるけど…何だろうか?訝ってるようにも見えるけど、誰かと何かを相談したそうな感じにも見える。

『レストラ〜。なんか、言うだけ言ってみたら?なんでもしてくれるって言ってるんだしぃ〜?』

アリュイからの助け舟。やはり一応、帰られたら困るな。

『そうね……まぁ、うーん。言うだけ言ってみる…?』

レストラが遂に動いた!

長々と話を聞かされて…ようやく大きな前進だ。

『何でも言え!』

『はぁ?偉そうにしないで!…あたしたちのお酒は、さっき言ったように他の酒造屋には真似出来ないくらいの完成度なんだけど……あたし的には、一つだけ納得いってないことがあるの……それが、水よ。』

水…?もしかしてレストラは、水が欲しいのか…?

これは、直ぐに片付きそうな予感がする。

ポロップだ!

『お酒造りには、とびきりおいしい水が必要不可欠なの。ただ、おいしさというものにも色々種類があってね…あんたには、分かんないでしょうけど。この町の水って、柔らか過ぎるのよ。なんとなくだけどね。もっと硬い水が使えたら…こう、キリッとするような気がするのよ!なんとなく…。』

急に何と無くかよ…!水が硬いか柔らかいかなんて、考えたことも無かったぞ。水なんていう掴めない物に、硬さなんて有る訳無いだろ。

『この町の水はほとんどが雨を溜めて使っているから…きっと雨って柔らかいんだわ。雨に当たってみたら、なんとなく柔らかい感じがしたもの!とにかく硬い水を試してみたいの!硬い水をくれたら、それを使って何か作ってあげる!』

何なんだ…さっき以上に何を言ってるか分かんないぞ…!

こんなの、ポロップでも出来るかどうか……シルシルにも、サスペンズにも出来る気がしないな…否もしかして、普段から水を扱ってる奴なら、水の柔らかさって奴も分かるのか…?

『…心当たりが無い訳じゃないけど、どうなるかは分かんない。でも、何とかするよ…。』

『……えっ?』

初めて、レストラの顔が輝き出した。

俺のことを…初めて、真面な人間として見てくれてる気がするぞ。

『本当…!?嬉しいわ!本当にそんなこと出来るんだったら、あんたのことを認めてやってもいい!これは革命よ…他の酒造屋には申し訳ないくらい…あたしたちのお酒は伝説になっちゃう!!』

酒造屋のレストラが何でも屋の俺の何を認定してくれるのか分かんないが、取り敢えずやることは見えてきたぞ……何処までレストラの期待に応えられるかは、何とも言えないが…。

『そうと決まれば行きなさい!いつまででも待ってあげるけど…依頼が叶うまでは、ひと瓶もあげないからね!』

熱量が凄まじいな…情緒不安定だ。レストラは行動原理も感情原理も、全てが酒造りから始まって酒造りに帰結するみたいだ。

『やった〜やっと帰れるぅ〜!ばいばい、レストラ〜。』

アリュイがぴょい!と芝生から起き上がる。

助けてくれた後からこいつのことを忘れてた。こいつに取っては只紹介に来ただけのどうでも良い用事だった筈なのに、面倒を掛けて申し訳無かったな…全部終わったら、こいつにも酒を分けてやった方が良いかな。

『……………ん、待って!待つのよ…。』

『…はっ?』

『え〜!?まだ帰れないの〜?』

振り返って見えたレストラの表情には…この期に及んで、曇りが浮かんできてる。

アリュイは心底うんざりと、顔をギュッと顰めてる。

『……ねぇ、聞きたいことがあるわ!この答えで依頼を変えたりしないから…聞かせて欲しいんだけど。』

…何だか不思議だな。さっきからレストラは自分の酒のことばかり饒舌に主張して、俺の言い分なんてちっとも聞いてこなかった癖に…。

『何だよ?』

聞き返す為に、レストラの目を見据えて驚いた。

これまでのレストラからは信じられないような、力強く憂いを秘めた眼差しだ。

『誰の…いや、どんなやつのためにお酒が欲しいわけ?』

『え…?』

そう言えばそんな大事なことを言い忘れてた気がする。聞かれなかったし。でもレストラは酒を誰に何本やるかも拘ってるだろうし、正直に言っておいた方が良いだろうな。

『ダンダリアンだ。第12階層で酒場をやってて…すごく良い奴なんだ。酒が好き過ぎて酒場を始めて、でもレストラの酒は客に出してしまうから全然飲めないって言ってた。だから手に入れてやりたいんだ。俺が飲めなかった葡萄のワインも凄い美味そうに飲むし、今日も朝から何かの酒を飲んでたくらい酒が好きみたいなんだよ。』

『はぁ?ふーん…。』

レストラは、さっきやったみたいな不審気な顔を一瞬見せた後…直ぐにまた、今度は柔らかな憂いを纏わせた。

レストラが何を考えてるのか、全く想像が付かない。

『ま、だから依頼は変えないけど。あたしがどんな仕事をするかは、あたしが決めるからね…。』

本当にいきなりどうしたんだレストラは。思い出したように歯切れが悪い。水を探してる内に、気が変わったりはしないだろうな…?

『いってらっしゃい。』

レストラの目が、もう今は話すことは無いって語ってる。

『やった〜!ルクスっ、逃げよ〜!…てゆうか、あんたが変なこと頼むからこんなに時間食っちゃったんだからね〜!』

アリュイはもう限界だったのか、走って逃げ出した。それに釣られて、俺も少し駆け足になる。

取り敢えず、行くか。第3階層へ。先ずは…硬い水と柔らかい水の違いが判別出来なければ、探しようも無いな。

でも、水が用意出来たとしても…もしかして、酒って作るのに時間が掛かるんじゃないか?どれくらいで仕上がるんだろうか。でもレストラが硬い水が良いって言うからには、硬い水で作った方が美味い酒になるんだろうからな…

折角だから、美味い酒を貰えた方が良いよな。

今の俺は、プライドを手に入れたんだ。

プライドを携えて、何でもやるぞ。

何でもやって、ダンダリアンを笑顔にしてやろう。


やっぱり何でも屋って、人脈なんだな。

チェスタってふざけてるしムカつくけど、言うことは結局大体合ってるから悔しい……否、間違ってることも有るけどな…。

ポロップは婆さんと言う程では無いが、その一歩手前くらいの年だとは思う。レストラのそれよりは硝子が小さく丸い眼鏡を掛けてる。白髪混じりのうねる髪が不思議と可愛らしい、穏やかな奴だ。

でもポロップは少し変わってて…思えば少し、レストラに似てる。否、人柄はポロップの方が段違いに優しいけれども。

ポロップは水屋だ。皆の為に水を確保する仕事。池に水を溜めたり、第7階層くらいまで貫いてるこの島に元々在った山の湧水を汲んだり。上の階の水屋は専ら雨水を使ってるらしいが、下層階では山の湧水もよく使ってる。

ポロップは元は被害者で、もう少し上の階で暮らしてたらしいが、兎に角水にがっかりしてたらしい。何が違うのか分かんないけど、上階の水は不味くて、美味くすることを全然考えてないって言ってた。

だから下層階まで降りて来て、水屋を始めた。旦那も子供も作って、家族皆で水を作ってる……何だか思い返してみたら、大分レストラに似てるな。優しさは全然違うが。

ポロップなら何でも屋の仕事で会ったことが有るし、レストラみたいな門前払いの態度は少なくとも有り得ない筈だ。

あとは、硬いとか柔らかいとかの話が上手く行けば良いが…。

第3階層まで下りて来た。レストラとの話に時間を食った所為も有って、もう日が天辺を過ぎて経ってる。

ポロップの浄水施設は第3階層だけど、住んでるのは第6階層だ。きっと仕事をしてるだろうと思って急いで下りて来たけれど、これでペンズに家に帰ったとか言われたら、また6階層に戻らなきゃならなくて面倒だな…。

外周を大きく回って、上に通路も無く、開けた場所。池と言っても勿論、全て人の手に依って造られた物だ。此処は山からは少し遠いので、ポロップは雨水を中心に水を作ってる。

『……ペンズ…ペンズ!』

小さな門を開ける前に、ポロップの息子のペンズを見付けた。箒を持って、池の周りの掃除をしてたらしい。

『ん……お前は、ルクス。何の用だ……こぉんな……中途半端な時間に…。』

ペンズは少し間を溜めて話すから、時間が掛かる。早くポロップに会いたいな…。

『なぁ、ポロップは居ないか?ポロップに相談したいことが有るんだ。何でも屋の仕事なんだよ。』

ペンズの表情は微動だにしない。

ペンズもポロップと同じで、とても良い奴なんだ。だから、早くポロップは来ないだろうか…。

『ん……水屋に、用事が有る、何でも屋の、仕事って………何だそりゃあ……?』

『ちょっと、取り敢えずポロップに相談したいんだよ…ポロップを呼んでくれないか?若しくは水の硬さについて教えてくれ!』

『え………水の…硬さ?』

丁度ペンズの眉が確かに顰められた時

『あらぁ…あなたは、ルクスじゃないの。どうしたの?格好良い腕が、無くなっちゃって、まぁまぁ。』

ポロップだ!

池のすぐ隣の小屋で何かをしてたらしきポロップが、中から出て来てくれた。

『お…ポロップ。ルクスが……何か用事が有るんだとさ……あとは、よろしく…。』

『あらぁ、そうなの?ありがとうペンズ。』

『ありがとうペンズ…。』

ペンズは俺達に小さく頷くと、掃除に戻って行った。

『ルクス、今日は何もお仕事を頼んでいないけれども、どんな用事だって言うの?』

ポロップは相変わらず穏やかな笑顔で…手には、半分くらい水が入った小さなボトルを持ってた。小屋の中で何か美味い水を作る為の研究でもしてたんだろうか。

『ポロップ。硬い水が欲しいんだ。』

単刀直入に言ってみたけど、ポロップは一際目を丸くして固まった。

やっぱり流石のポロップも、レストラが何と無く思っただけの話なんて見当付かないか…?

せいぜい2、3秒くらいの沈黙だった。ポロップが口を開く。

『ルクス…何故、あなたがそんなことを知っているの?』

ポロップ…!流石、ポロップだ!

ポロップもレストラと同じで美味い水を求めてるんだから、硬さに関する話さえ通じれば、きっとレストラの求める水に辿り着ける筈だ!

『ポロップ…レストラって知ってるか?凄く美味い酒を作る奴らしいんだけど…。』

『えぇ、勿論知ってるわよ。一度だけだけど、第12階層へ足を伸ばして飲んだことがあるわ。しかも数が少ないとされるプラム酒でね…私なんかにも味の違いが分かるほどの』

『あ…知ってるなら良いよ、知ってるなら話が早いから!』

ポロップはとても優しくて協力的な良い奴では在るが、話が逸れるとどんどん1人で喋り出す…婆さんみたいなところが有る。

『レストラに頼まれて来て…美味い水が欲しいんだよ。何か…雨水は柔らかくて、酒造りにはもっと硬い水が良いって……俺には何言ってるのか全然理解出来なかったけど、ポロップだったら分かるかもって思って…。』

俺の声が頼り無く萎れてゆくに連れて…ポロップの顔は穏やかに嬉々として微笑み出した。

『そうね…雨水も、湧水も柔らかいわ。確かに硬い水はグッと来る感じで、お酒には向いているかもしれないわね…流石レストラだわ。』

ポロップはどうやらそわそわし出してる。

さては美味い水が欲しいって言われて、わくわくしてるんじゃないか。

ポロップのプライドが、騒いでるんじゃないか?

やっぱりポロップにもプライドが有るんだな。

『…ルクス。こちらにいらっしゃい。』

ポロップは小屋の方へ俺を促した。何をするつもりなのか想像が付かない。

箒を滑らせるペンズを横目に小屋に入る。初めて入ったけど、不思議な空間だな。外観の印象よりも広くて、火を焚ける台所のようなところには大きな鍋。タライ。後は…タオルか?手前に有る地べたに座るような低い机にはばらばらの紙が何枚か散らばってる。

『丁度ね、実験をしていたのよ。ルクス、海の水って飲んだことある?』

海の水…?そう言えば飲んだこと無いな。海の水を飲むだなんて、考えたことも無かったぞ。潮と言うし、海風はベタベタするし、何と無く塩辛そうなイメージだ。

『飲んだことは無い。』

『ふふ。飲もうと思うことなんて無いものね。丁度此処に少しあるの。舐めてごらんなさい。』

ポロップは鍋の近くのタライに溜まった水を指した。少し手に取って、舐めてみる。

『うっわ、しょっぱ!』

想像よりも更に塩辛い!塩をそのまま舐めてるみたいだ。何故こんなにしょっぱいんだ…?

『ふふ。とてもゴクゴク飲めるようなものではないでしょう?次はこれを飲んでみなさい。』

ポロップは、タライの横に置かれたボトルを差した。ポロップは水を入れたボトルを持ってるというのに、こちらにも水が入ってる。

ボトルごと…また変な水なんじゃないかと思って少し匂いを嗅いでから、一口ゆっくり含んだ……普通の水だ。塩辛さが流されるからか、いつもより美味く感じる程だ。

『それはね、いつものお水よ。雨水を溜めて、出来得る限り綺麗にして、みんなに届けているものね。そして最後にこれを飲んでみなさいな。ちゃんと、味わうのよ?』

ポロップは最後に、自らの手に持ったボトルを差し出した。同じ水じゃないのか…?

一応また匂いを嗅いでから、一口含んだ。

……何が違うんだ…?ん?何だ…?

自分の感覚に自信が持てなくて、飲み下してもう一口含んだ。

何だこれは…海水か?少しだけしょっぱい。舐めただけで塩辛かった海水と比べると、全然気にならない。幾らでも飲めそうだ。

それで、普通の水とも少し違う気がするんだよな。鋭い…とは違うか?重い…うーん、否……硬い…?

そうだ。この水と比べると、雨水は何だか柔らかい気がする。雨水の方が甘くて、身体にすうっと染み込む感じなんだ。

これが、水の硬さなんだ!

『その水は、海の水から作った水よ。海の水から塩を抜いて、綺麗にした物。』

『えっ!』

凄いな。あんな塩辛い水から、塩を抜いて水だけを残すなんて、そんなことが可能なのか…?

『レストラの言う通りなのよ。この島にある水は柔らかいものばかりで……悪いものではないけれど、私はもっと色々な可能性を探したかったのよ。海のお水を使ったらどんな美味しいお水ができるのかしら……って思って、実験を始めたの。それでお水の硬さには違いが有るのだと知ったのよ。だから、同じ水しか飲んできていないのにそのことに気付いたレストラは本当にすごいわ…素晴らしい才能。嫉妬しちゃうわ。』

こんなにも水のことを愛し探求するポロップが嫉妬するだなんて、レストラって本当に偉い奴なんだな…プライドという一言だけでは片付けられない。

でも…この海の水を使うことが出来たら、依頼達成なんじゃないか?

『ポロップ。この、海水から作った水を分けてくれよ。レストラはきっと喜ぶ筈だ!』

ポロップはさっきあんなにレストラを褒めちぎった癖に、顎に拳を添えながら首を捻る。

『そうね…そうしたいけれど、ルクス…そのお酒作りには、どのくらいお水が必要なのかしら?』

ん…?聞いてなかったな。水って、池や川みたいに沢山在る様子しか見たことが無かった。海だってたっぷり在るんだから、たっぷり作れるもんだと思ったんだけど、違うのか?

『ルクス。このボトル半分のお水を作るのに、大体この階層を一回りお散歩出来るくらいの時間が掛かったのよ。お酒作りに使える量を採るにはもっと沢山時間が掛かるの。そしてそれだけ時間を掛けている内に、始めに採ったお水からどんどん腐っていってしまうわ。私もいつもの仕事をしながら片手間に試しているもので、人にあげられるようなものじゃないのよ。』

そんな…折角見つけたのに…!ポロップは申し訳無さそうな顔をしてるけど、これ程レストラが求めてる物とぴったり嵌る物を、こんなに直ぐに見つけられただけで奇跡だ!……だからこそ、悔しいな。レストラの鼻を明かして…そうだ。

レストラを、笑顔にしたいのに…!

『ポロップ…何か、方法は無いかな…?』

俯いてしまう俺に、ポロップはまるで子供にするみたいに優しく肩を包む。

『そうね……ううん。私も何とかしてあげたいわ…私のお水を求めてくれるのだから。だから…そうね。』

ポロップは虚空を見上げながら思案し出す。俺には見守り待つことしか出来ない。

『何でも屋さんとレストラ次第だわ。』

ポロップは人差し指を口元に寄せながらにこりと微笑んだ。

ポロップは本当に優しいんだ。

まるで母親みたいだ。こういうのを母親って言うのか?少し違うのか?

母親なんて言う物は、影も形も想像が付かない。

『まずはね、レストラってどのくらいの硬さのお水が良いのかしら?』

『は?』

水の硬さなんて何言ってるのかさっぱり分かんなかったもんだから、どのくらいの硬さが良いかなんて全く聞いてないぞ。

水一つでどれだけ面倒臭いんだよ?嫌になるけど、そんな時は誇りを思い出すんだ。

『お水って、合わせたら混ざるものでしょ?つまり、混ぜたら硬さも混ざるのよ。だから海水から採れるものが少しでも…雨水と混ぜたら、量は増えるわ。ただ雨水の柔らかさが足されるから、それをどのぐらいレストラが許せるか…ね。』

成る程…確かに。一回レストラのところまで戻って、相談してみるか…?

『良かったら、さっき採れた分のこの海のお水と…ついでにうちで普段作ってる雨のお水もあげるわ。レストラに認めてもらえたら、嬉しいわぁ。』

『ありがとう。』

ポロップが2本のボトルをその辺の布で包んでくれる。

第16階層にまた戻るのは堪らなくしんどいが、仕方無い。今回の依頼は色んな奴が絡んで複雑になってしまったから早く解決したいし…レストラはきっと喜ぶだろうからな。

『ちなみに…何でも屋さん次第って言ったけれど…もう一つアイデアがあるわ。まぁ、これは一朝一夕ではどうにもならないわね。』

『何だそれ…?』

聞き返すと、ポロップはまた難しそうな顔をする。

『あのね…海水からどうやって飲めるお水にするかなんだけれど。簡単に言うと…なんて言ったら良いかしら?海水を煮立たせて、その蒸気を採っているのよ。つまり…お鍋が大きければ、もっと沢山お水が採れると思うわ。』

ポロップは台所の鍋を指差した。あの鍋もかなり大きいが…。

『私が今、考えているのはね。大きなお鍋と、大きな布を使って、此処よりもっと広い場所……海辺なんかが良いわね、海水もすぐ採れるし。とにかくそうやって、どうにかもう少しでも多くの海水をみんなが美味しく飲めるお水にしたいのよ。』

成る程…力技な気もするが、確かに量を増やすにはそうするしか無いのかもな。

『もしもレストラが本気でこの硬いお水を使いたいのならば、私も動くわ。海辺の場所を借りて…何でも屋さんに依頼をするわ。沢山の大きなお鍋と大きなタオルを調達してきてちょうだい、ってね。』

ポロップはまた人差し指を立て、今度はウインクした。

『ありがとう、ポロップ。レストラのところに行ってくる。』

『えぇ。私もレストラの答えを楽しみにしているわ。』

ポロップは温かな微笑みを湛えた。

でも俺は最後に一つだけ、途中から気になってた、余り関係無いことを聞いてみたかったんだ。

『最後に聞かせてくれよ…。』

『あら、何かしら…?』

『ポロップは何で、海の水を飲めるようにしたいんだ?』

『…あら…!』

ポロップは何故だか嬉しそうな顔をした。

スイッチが切り替わったように…!

『ふふ…ルクス。この町の人々は当たり前のように雨水か湧水を使ってるいるけれど、雨水の量は天候によるし、湧水は低層階の人々しか恩恵に与れなくてとても不安定だわ。海のお水は常にそこにあるでしょう?飲みきれないほど沢山あるわ。だから、海のお水を飲めるようになったら人々はもっと安心できると思わない?それにこの実験によって水の硬さという概念を発見できたことは奇跡の大収穫よ。さっき試してもらったように硬さが違うと味わいや印象が随分違う。どういうことかと言うと』

『もう良い何と無く分かった!ありがとう!レストラのところに行くから!』

やってしまった!レストラの時を思い出すべきだった!

プライドを持つ奴に、仕事のことを聞いちゃいけない!

『…ふふ。ごめんなさいね。じゃあ、無事に依頼が達成できることを祈ってるわ。何でも屋さん。』

ポロップは徒に口元を隠した後、目を細め淑やかに手を振った。

『あぁ。じゃあ、また!』

俺は小屋を出て、小さな門を出て…重い足取りで階段へ向かう。

重いけど、気が進まない訳じゃないから、自分の心に鞭を打って2つ飛ばしで階段を上る。

話が大きくなってしまった。ダンダリアンがちょっとレストラの酒を飲みたいだけだった話が、レストラの酒造りの為の水を探すことになって、ポロップの新しい水作りまで関わってくるなんて。チェスタ達もこんなことになってるなんて思ってもないだろうな。

……何か忘れてるな。まぁ良いや。

此処まで乗り掛かったんだから、全員纏めて笑顔にしてやる!


『………はぁ〜。』

先ずは、雨水から採ったいつものポロップの水を一口。低層階では、お馴染みの味だ。

『………………は?は……はぁっ、は!あぁあ!』

次は貴重な、海水から採った水。レストラの反応は…何だそれは?

『何コレっ!すごい!硬い!ガッチガチだわっ!このちょっとしょっぱいのが…逆に面白いかも?うわぁ〜何これ〜!?』

ガッチガチって何だよ?幾ら硬い水でも、水がガチガチにはならないだろ。

そんなことはどうでも良い。興奮に任せて勢いで飲み干しそうだ。

『待てっ!待て待て!今はこれしか無いんだから、飲み干すなよ…この後混ぜるって言っただろ!』

『はっ!あ…やっば、危ない危ない。ありがと……でも、すっごい。これぞあたしの求めてたものよ…!』

やっぱりそうなのか。ポロップ、流石だな……ポロップが居なかったら、どうなってたんだろう。

『じゃあ、取り敢えず半分ずつ混ぜるか…。』

『はい、じゃあいただきま〜す…………ん。んっ。』

レストラは一口含んだ後、二口目で一気に飲み干した。

『は…はひゅ、ふう。うん、そうね……なるほど。』

ブツブツ1人で喋りながら考えてる。俺には見守ることと、水を混ぜることしか出来ない。

『レストラ…?』

『大丈夫。分かったわ。一旦、100%と50%の間を飲ませてくれない?』

『は…?』

『だから!100と50の間の…75?75%よ!』

『否、そうじゃなくて海水と雨水どっちが多いのか教えてくれよ。』

『え?あぁ、ごめんごめん。』

…そうやって馬鹿みたいなやり取りを繰り返しながら、丁度レストラが一頻り満足する頃にポロップから貰った水も2本共無くなってた。

『んん〜、なるほど…ちょっと待ってよ今整理するから。』

レストラは左右の人差し指で頭を突っ突きながら思案してる。何と無くだが…眼鏡を掛けて悩んでる奴ってちょっと頭良さそうに見えるな。

レストラは自分の酒蔵には部外者を一歩たりとも入れたくはないらしい。レストラの自宅はこの敷地の直ぐ目の前、アリュイの家の3軒隣らしいが、本当に1人寝るスペースしか無くて布団が敷きっ放しだから入れないらしい。だからこの試飲会は全て、芝生の上でやってる。

『結論から言うと、62%だわ。えーっと、だから…雨水が38?合ってる?』

俺も計算は苦手だからそんなこと聞かないでくれ。しかも…

『そんな細かい数字分かんないだろ!』

さっきは50%とか、75%とか、比較的分かり易い数字でやってた筈だけど…62%なんて、どうやって量るんだよ。

『じゃあ計量用の器でも作れば良いわ。どうせお鍋を金物屋に頼むんでしょう?ついでに硝子屋に目盛りの付いた水差しを頼んできてよ!』

レストラはニヤニヤと笑い、目は血走ってる気がする。楽しそうだが、暴走し始めてる。

金物屋の何をどう序でにしたら硝子屋になるんだ。

『……じゃあ、今度そうする。俺が頼んだこと、覚えてるか?』

『はっ…?』

レストラは動きも表情もピタッと止まった。勘弁してくれよ。

『……俺が受けた依頼の為に酒を』

『あ〜あ〜あ〜分かってるわよ!でも、今は無理よ!海水なくなっちゃったじゃない!』

確かに全部無くなってしまったし、ポロップの感じだとくれって言ったら直ぐに貰える感じでもなさそうだ。ダンダリアンの分と…ん?何かもう一人分必要だった気がしたけど、誰だったか?待てよ、そもそもダンダリアンが……ん?あれ?そもそもダンダリアンと話してた時は、海水がどうこうなんて話一つも出てなかったじゃないか!

『なぁ、お前が硬い水で作った酒はきっと革新的に素晴らしい物になるんだとは思うけど…多分ダンダリアンは、いつものお前の酒でも十分だと思うんだ。取り敢えず酒だけ分けて貰うことは出来ないか?』

『…はぁ?とりあえず…?あんたあたしのお酒をとりあえず呼ばわり』

『ごめんごめんごめんってば!取り敢えずじゃないから!お前の酒を求めてる奴が居るんだよ!』

『ふーっ…ま、大丈夫よ。考えてあるから。まず、20日待ちなさい。』

『はっ!?』

良い加減にしろよ!これだけ色々やらせて、20日も待たなきゃならないのか!?

『20日待って、それからポロップの水を持って来てちょうだい。ちゃんと62対38よ。そしたらあたしが作った傑作を詰めてあげる。全部守らなきゃあげないし…全部守ってくれたら必ずあげるわ。なんだかんだお世話になっちゃったからね。』

レストラは偉そうに腕を組みながら…ほんの少し、本当に少し口元が笑い、眼差しは柔らかだった。雨水みたいだ。

『…分かった。ダンダリアンに伝えておく。』

『ふ。良い子ね。楽しみにしてなさい。あんたにも…少し飲ませてあげる。』

レストラは今度はもっと素直に、子供のように笑った。こういうのはどんな感じなんだろう?レストラはきっと俺より年上だから、姉みたいなのか?姉も、掴めないな…。

この町で、人々と接する度にいつも思う…俺に、家族は居たのだろうか。

母は、父は、兄、姉、若しくは弟、妹。

全部しっくり来ない。

じゃあ友達は?恋人は…?これも全然しっくり来ない。来ないんだけど……

仄かな憧れめいた物だけが、吹き飛ばされた燃え滓のように引っ掛かってる気がして。


やっと20日経った!

ダンダリアンにもあの後酒場に寄って、今日酒が手に入るって言って有る。とても喜んで、心待ちにしてるって言ってた。

20日間は、チェスタとビスカと共に低層階でいつも通りの仕事をしてた。

チェスタ達に今回の話をしたら目を丸くしてた。俺が此処までやるとは思わなかったとまで言ってた。失礼だ。でも…見直してくれたんだったらまぁ良いか。

気持ちは逸るが、焦ってはいけない。先ずはポロップが海水を煮る作業をしてくれてる。俺はそれが出来上がったら直ぐに第16階層へ持って行く。

日が天辺を超えた頃、動き出す。

小さい門を開けようとすると、小屋からポロップが出て来るのが見える。

『ルクス!丁度必要な分が出来上がったところなのよ。少し温かいけれど、第16階層へ着くまでには冷めちゃうんじゃないかしら?重いけど大丈夫?』

『あぁ、大丈夫だ。』

ポロップは5本のボトルを2本と3本に分けて布に包んでくれてた。俺の左右の腕にそれぞれ掛けてくれる。

『うーん…おたまの腕も素敵だったけど、何も着いていないこれはこれで渋いわぁ。』

『えぇ…?』

ポロップはいつも俺のこのおかしな腕を褒めてくれるけど…ポロップは優しい奴だからそんなこと無い筈なのに、ちょっと嫌味っぽく聞こえる気もするな。そう、揶揄ってるみたいだ。

『レストラのお酒、私もまた飲んでみたいけれど…今回はどうやら余らなそうね。沢山の海水を飲み水に変えて私の分のお酒も作ってもらえるように、頑張るわ。お鍋とタオル、よろしくね。』

ポロップはまたウインクした。全然違う奴な筈なのに…この可愛らしさは、スーピーに似てる気がするな。何と無く。

『ありがとうポロップ。じゃあ、また。』

俺はポロップの浄水場を出て、第3階層から第16階層まで…13回階段を上る。水を5本持って。

でもやっと、ダンダリアンの依頼を達成出来る。

全ては、顔も知らない無神経で大飯食らいの被害者のお陰だ。

思えばあの大運搬で色んな奴に会って、行ったことの無かった階に一気に進んで、第12階層でダンダリアンに出会って、酒を飲んで温かい飯を食べて、感動して……

そんなダンダリアンの依頼から、レストラやポロップの思いにも触れて。

そうして俺は、誇りを覚えたんだ。

俺は気付いてない。大事なことを忘れてる。

努努忘れるな。

直線の向こうに故郷が有ることを。

本当は誇りなんか要らないってことを。

俺に取って、本当に必要な物を。

忘れてる。

忘れるな。


『待ってたわ、ルクス。』

まさかレストラに『待ってた』と言われることが有るなんて。もしかしてこの町中にも、そんな奴そうそう居ないんじゃないか?

レストラはなんと門の前で待っててくれた。あの日、ポロップのところから戻って来た時のように大声で叫び回らずに済んだ。

『さぁ、付いてきてちょうだい。あんたは特別に、蔵の手前まで連れてってあげる。絶対に一歩も入らないでよね。』

レストラは何処か得意気な顔をしてる。もしかしたら、余程酒の出来に自信が有るのかも知れない。

でも、今持って来た海水達は何に使うんだ?まさか今から酒を作る訳じゃないと思うんだが…?

芝生を少し歩くと広そうな建物…上に建物や通路がくっ付いてる訳ではなく、柱と一体になりつつ屋根で蓋をされてる。そんな全く同じ建物が、3つ向かって並んでる。その内の一つにレストラは入ろうとして、俺だけは制止する。

『良い?一歩でも入ろうとしたらこの話は全部ナシよ。約束だからね。』

手の平を突き出して、強い口調。今更レストラに逆らう気なんかとても湧いて来ないから大丈夫だよ…。

レストラは俺が持って来たポロップの水と共に蔵に入った。蔵には扉は無いが、中は真っ暗でレストラが何をしてるか殆ど見えない。

どのぐらい経っただろうか。鼻歌を2曲くらい丸々歌い終わって余り有るくらいの時間が経った。チェスタとか、結構よく鼻歌を歌うんだよな。ビスカも余り多くはないが、偶に気分が乗ると歌ったりする。俺は歌なんて1つも覚えてないから歌える筈が無い。

『ルクスっ!』

『わっ!』

油断して、レストラが戻って来た。手には2つの木のコップ。入ってる液体は同じ物に見える。トロトロで、黄桃色だ。これってもしかして…

『桃ワイン…?』

チェスタがあの夜飲んでた奴みたいだ。

『あら、桃ワインは知ってるのね。とりあえず、こっちを飲んでみてちょうだい……今季のヌーヴォよ。』

ヌーヴォって何だ?知らない言葉だが、もしかしなくても

『これ、お前が造ったのか?』

『ちょっと!当ったり前でしょ!うちの土地を、あたしたち家族が造ったもの以外の酒に踏ませる訳がないでしょ!大体ねぇあんたみたいな若造には分かんないでしょうけど』

『ごめん!悪いってば!飲ませてくれ!』

酒が土を踏む訳の方が無い!

でも、密かに出来たら良いなって思ってたことが叶う。

遂にレストラの酒が飲める。

あの日飲んだ葡萄のワインの良さは分かんなかったけど、人々を虜にするレストラの酒だったら、もしかしたら…

逆にこれが美味く感じられなかったら、俺には一生酒の良さが分かんないってことかも。そんなの…ちょっと格好悪いかな…?

『ちょっと、早く飲みなさいよ。』

『あ、あぁ…。』

変な考えごとをしたら少し緊張した。喉を一つ鳴らしてから、コップを口に運んで……口に含んで、喉に送る。

俺はどちらかと言うと少し、期待をしてた。だって何と無く、桃の方が葡萄よりも甘そうだから………でも

甘い。甘いんだよ。一口流して、通り過ぎるまでは、美味い気がした。でも

喉が熱い。確かに葡萄のワイン程じゃない。気持ち悪いって感じじゃ無いけど…これ、腐ってるとかじゃないんだよな?あの脳に届きそうな恐ろしさが、結局此処に在る。

ジュースみたいなのにジュースじゃない。只、この脳の揺れが有るか無いかに依って。

『どう?あたしが造ったお酒。今季は自信作よ…。』

『ん……うーん…。』

どうしよう。正直に言ったら、確実にレストラの気分は損なわれる。

それに、確かに美味い気はするんだ。瑞々しい桃の味がして…でも、この喉が焼けるような感覚が邪魔をするんだ。脳を揺さ振られるのが怖いんだ。

『ふ……あんたには分かんないわね。』

『あ…いや…。』

レストラは嘲笑…否、哀れみか?それとももっと別の…寧ろ優しい表情にも見える。

『別に良いのよ、怒ってないから。お酒って変よね。明らかに他の飲み物と違うの。』

レストラは今度は真っ暗な蔵の中を覗き出して、表情が隠れる。本当に怒ってなさそうだ。でも今度は声が、そんなこと言ってないのに、何だか自嘲的なような気もして…

そして、またこちらに振り向いて、ニコッと笑った。

『あんたも……お酒を飲み続けたら、きっとお酒を好きになっちゃうわ。』

なっちゃうって、どういうことだよ?

酒を好きになるって、好きな物が増えるって、良いことなんじゃないのか?

なのに何でか、僅かに切ない。

やっぱりレストラってよく分かんなくて、面倒臭い奴だ。

『ま、桃ワインはかなり飲みやすい方で、お酒が苦手な若者も桃ワインなら飲めるって子が結構居るわよ。葡萄のワインは他の果物のワインとは工程が少し違うから強くって…葡萄の強さがⅢで、この桃ワインはⅠよ。これでダメなら、他のお酒もやめといた方が良いわよ。』

強さって、もしかしてこの脳を揺らす強さのことか?ⅢとかⅠとかって段階ってことか?確かに、桃ワインと比べると葡萄のワインの強さはレベルが違った。

酒って、色んな強さが有るものなのか…不思議だ。

『さてさて、あんたが下戸の子供舌なのが判ったところで、次はこれを飲みなさ〜い。』

飲み比べなんて、ポロップみたいなことをさせる…。

このコップもトロトロしてて、黄桃色。否、色はこっちの方が僅かに赤いか…?これは桃ワインじゃないのか?

『ほら、飲みなさい。』

レストラに促されて、一つ深呼吸してから口に運ぶ。これも酒なんじゃないかって思ったら少し構えてしまった…海水の時のように。

トロトロで、甘くて、瑞々しい。

それだけで終わった。果物だけじゃない、砂糖のような甘さも少し有って、でも奥に少し酸っぱさが潜んで最後には爽やかな気がする。さっきの桃ワインを爽やかにして、そしてあの気持ち悪さがすっかり消え去ったみたいなんだ。

美味い!

『どう…?さっきのワインと何か違う?どちらがおいしい?』

レストラがさっきからすっきりしない笑顔でもやもやするが、俺にはこの美味さへの感動を正直に吐き出す他が無い。

『美味い。凄く美味い。こんなに瑞々しいジュース初めてだ。俺には……桃ワインよりもこっちが美味い。』

すっきりしなかった笑顔がピタッと止まった後、ニヤッと口角を吊り上げ一瞬で覚醒する。

もやもやするレストラに、何故だか此処でスイッチを入れてしまった。プライドを呼び起こすスイッチ。

『ふ…あんた本当にバカ舌ね。これはジュースと言うより…そうね、シロップとジュースの間ね。もっと時間が有れば発酵させて更に旨味を引き出しても良かったけど…発酵は健康にも良いしね。とにかくうちの飛びきり甘い桃と、隠し味にプラム。それを砂糖に漬けて』

『分かったごめんごめん俺は馬鹿だとんでもなく美味かったから許してくれっ!』

両手を上げてレストラを制止すると、目が覚めたレストラの顔は至って無色の、少しだけ口を尖らせたいつものそれになってた。

『…まぁ良いわ。それで最後にポロップの水を加えて、飲みやすくしたってわけ。という訳でこっちを持って帰りなさい。』

『…は?』

何だそれ。何がどういう訳なんだ?

俺は、ダンダリアンは、酒が欲しいと言った筈だが…?

『何でだよ…俺は、ダンダリアンに酒を持って帰れって言われたのに!』

今度はレストラが右手で俺を制止しながら、左は耳を押さえてる。

『あんたが味見して、こっちの方がおいしいんでしょ?じゃあその…ダンダリアンってやつもこっちの方が喜ぶわ。』

『ん?うーん…。』

確かにシロップジュースはすごく美味かったから、ダンダリアンにも飲ませたいって気持ちは有るな…。

でもダンダリアンは酒が凄く好きで、酒が欲しいって言ってたんだから、言われた通りに酒を持って帰らないと笑顔になって貰えないんじゃないかとも思う…どっちもくれれば良いのに。

レストラは俺が悶々としてる内に蔵に隠れ、ワインとは違う口の広い瓶を持って来た。薄く濁った水で満たされ、丸ごとの桃と、一回り小さな赤い桃が幾つか入ってる。

『これ、飲む時に果実をぐちゃぐちゃ潰しなさい。酒じゃないから悪くならないように、暗く冷えたところに保管して、早めに飲み切ってね。』

『あぁ…。』

言い包められてるな、これ。どうしよう。

レストラは構わず俺の腕を持ち上げ操作して大きな瓶を抱えさせ、俯いたままぽつりと言い置いた。

『……これを飲んでも、ダンダリアンの気が変わらないんだったら…話ぐらいだったらまた聞いてやっても良いわ。』

うーん。それなら、良いか…?

取り敢えずこのジュースをダンダリアンの元へ届けて…満足してくれるかも知れないし。

否、あんなに酒が好きなダンダリアンが、ジュースなんかで満足出来るのかな?

ダンダリアンって、脳を揺さ振られたいんじゃないか?

『……分かった。』

先ずは一旦、レストラの言うことを聞いてみることにした。レストラは此処まで俺に協力してくれたんだし、また話を聞いてくれるって言うなら悪くない。

『果物が丸ごと入ってるんだから、栄養も有るわよ。潰したら吸収しやすくなって、余計に良いと思うわ……だから。』

レストラは改まった。改まった顔、改まった目で、俺の目を狙う。

『この瓶を渡す時にダンダリアンに伝えてちょうだい。』

『何を…?』

レストラはまた、見えない程微かにニヤリと口角を上げたんだ。

『あたしは、破滅が嫌いなの。だから楽しみなさいってね。』

『は…?』

何を言ってるんだ?破滅なんて言葉、何処から出てきたんだよ?

『……あんたみたいな若造には分かんないわ。ルクス…。』

『な、何だよ…?』

分かんないよ。分かんないだろ。破滅なんて好きな奴居ないだろ。

レストラってずっと自分本位で、意味不明な奴だ。

『あんたにはプライドがあるわ。だから、あたしがあんたの依頼人を笑顔にする手助けをしてやったのよ。あんたが、ポロップの海水を持ってきてくれたように…。』

レストラは、俺の目を刺したまま、ニカッと笑った。

俺が今まで見たレストラの笑顔の中で一番の、飛び切りの笑顔。

『だからまた誰かを笑顔にしたい時は、手伝ってやっても良いわ。そして笑顔になりたい時は、あんたを呼ぶわよ。覚悟しなさい。』

プライドが、満たされてゆく。

プライドって、器のような物だったんだ。

持つだけでは意味が無い。満たす為に、仕事をするんだ。

レストラにそう言われ、自分がどんな顔をしてたかは見えないんだから知るべくも無い。でも、胸の内は至ってシンプルだ。

嬉しい。

嬉しい。嬉しい。

レストラを笑顔にすることが出来た。

良くない。やめろ。ふざけるな。

故郷が遠くなる。足音が遠去かるようだ。

忘れるな…忘れるなよ。

忘れるんじゃない……!


瓶を抱えて、今度は4回階段を降りる。橙色の門から入って、一回道を間違え掛けたけど傘の立つ洒落た一角へ辿り着いた。

20日間来ない内に入り口には蒼い扉が嵌められてた。プリマの家の扉に似た色だけど、壁の色が違うとまた印象が変わる。

新しい扉だからか、蝶番は音も立てず至極スムーズに開けられた。カウンターの中にはダンダリアン…そしてその目の前の席にはあいつだ。ピズーリだ。

『ルクス…御苦労さん。』

『あっ!ルクスじゃ無ぇか〜!丁度今旦那とお前の話してたんだよぉ!レストラの酒、俺の分も有るんかぁ?』

ダンダリアンの手元には琥珀色のグラス。ピズーリの手元には鮮やかな橙色のグラス。

今日も酒を飲んでる。酒が届くって言うのに。本当に好きなんだな…まぁ、酒は持って来れなかったんだけど。

『…其れ、酒なんか?酒ってよりゃあ、でっけぇジャムみてぇだな。』

『否…作り置いた儘の果実酒にも見えるが……取り敢えず此処に置いて良いぞ、ルクス。』

ダンダリアンに促されカウンターに瓶を置く。ゴトン、と言うどっしりした音で、改めて自分が重い物を此処まで運んで来たんだという実感が湧く。

俺もピズーリの隣に座って、事の次第を説明しながら…謝らなくちゃ。

『実は…これは酒じゃないんだ。レストラは、硬い水を見つけて来たら酒をくれるって、途中までは言ってたんだけど……今日水を持って行ったら、その場で何か作り始めたんだよな。多分この瓶を作ってたんだと思うけど。それで、酒とこの…シロップジュースを味見させられて…俺には酒の味が分かんないし、ジュースは凄く美味かったから正直にそう言ったんだ。そしたらこっちが美味いならこっちを持って帰れって……俺の所為かも…ごめん…。』

後ろめたくてどんどん俯いて丸まっていく。ダンダリアンはどんな顔をしてるんだろうか。

ダンダリアンの残念な顔を、見たくない。

『ルクス…。』

ダンダリアンが口を開く。

『有難う。』

そう言われ、顔を上げたら

ダンダリアンは笑顔だった。

でも、優しくて、何処か切ない。

子供のお使いを見守ったみたいだ。多少間違っても、頑張ったから褒めてやろうって。

ダンダリアン…お前、そんな笑顔ばっかりじゃないか。俺は気付いてしまった。

ダンダリアン、お前の心からの笑顔を…只の一度も見たことが無い。

『折角ルクスが持って来てくれたんだ。ルクスと、レストラにも感謝しながら…皆で飲んでみようじゃあないか。』

『…おっ?俺も飲めるの?やたぁ!』

ピズーリの方が輝く笑顔をしてる…そう言えばこいつと何かを約束した気もするが…何だったか。別の奴だったか?

『あ…何か、中の果物を潰して飲めって言ってた。俺が飲んだのはトロトロの…桃ワインみたいになってたんだ。』

『そうか。ではそうしよう。待って居な…。』

ダンダリアンはカウンターの下をごそごそ漁って、太い棒を取り出して来た。ピズーリはそわそわ心待ちにしてる。

『あっ!』

ダンダリアンが棒を瓶に突き刺そうとした時になって、ハッとする。大事なことを忘れてた。

『ん…何だ、ルクス?』

俺の目を狙ったレストラの目を思い出す。意図はさっぱり見えないけど、レストラの大事なメッセージなのかって気はしてる。

『レストラからの伝言なんだけど、意味は分かんないんだが…』

『ん…?』

なるべくレストラの真似を試みる。改まった目で、見えない程微かに口角を上げて。

『破滅は嫌いだから、楽しめってさ。』

ダンダリアンは完全に止まって、見えない程微かに眼をキョロッと動かして…呆けた後で、笑った。

『ふ…ふふふ、ははははは!』

『はっはっはっは…旦那ぁ!レストラってたっまんねぇよな〜!』

ダンダリアンと、何故かピズーリも大笑いしてる。楽しそうだ。何処か自棄糞に似てる。

『ふ…流石レストラだな。本当に、酒に誇りを持って居るのか……俺も見習って、楽しまねばな…分かっちゃ居るんだがな…分かっちゃあ…。』

何故かは分かんないがともあれダンダリアンが腹から笑ってくれた…と思ったのだが、結局また、この顔なんだ…。

『さて、待たせて居るな…直ぐに用意するからな。』

言いながらまた棒を構え瓶へ何度も突き刺しぐりぐりと果実を潰し始めた。ぐりぐりぐちゃぐちゃ、そうする毎に水が、海水が濁る。眺める程にわくわくと、高鳴る心は何故だろうか……そして

『この位で良いのか…?桃ワインの様に成れば良いのだろうか。』

ダンダリアンは足下からグラスを3つ取り出す。

そして桃が潰れてトロトロになった液体を…小さなおたまで掬って取り分けていく。

色も、香りも、滑らかさも、さっきのジュースとおんなじだ。酒は持って来ることが出来なかったけれども

やっとダンダリアンに、この最高のジュースを飲ませてやれる。

『乾杯しよう。』

『…はっ?』

俺が出した提案は、ピズーリの顔だけを間抜けに変えた。

『おいおいルクス、ジュースで乾杯って何か大袈裟じゃね?子供っぺえってぇか〜…。』

何でだよ…酒は乾杯するのに。ジュースだって飲み物なのに。何が違うのか理解出来ないのは俺が子供だからなのか?やっぱり俺って…子供なのかよ?

『ふっ。良いじゃないかピズーリ。乾杯しようじゃないか。俺達に幸せを運ぶ、この町の仕事達への感謝を込めて…。』

…気の所為か?

ダンダリアン…少し、嬉しそうか?

『さあ、グラスを取れ。俺が音頭を取るぞ。』

慌ててグラスを取る。ピズーリは渋々と言ったようにグラスを取る。

今度こそちゃんとグラスを上げて、『乾杯!』と大きな声を上げるんだ。

『グラスを持ったか?では…』

ダンダリアンは軽く、音にならない咳払いを落としてから

『ルクスに』

『えっ!』

…俺?

『……乾杯!』


***


ルクスのおたまが取れてしまった。

でも本当は、いずれ仕方が無い気はしていたんだ。

だってあの腕は、只のおたまだったんだから。

只のおたまと言うには…とても綺麗過ぎるおたま。

眺め回してみても、ぴかぴかの…薄く温かみの有る、見たことも無い金属に見える。爪で叩くと軽く微かな良い音がして、螺子が千切れる程の使い方をしたと言うのに、ちっとも歪んでなんていない。

でも、螺子は…締め直した時に見た限りでは、大した事の無い螺子。よく見る様な…銅か何かではなかっただろうか。しかもおたまが細いから、螺子も細く少なくて…こんな、こんな矛盾など。

ルクスのあのおたまは……何が目的なんだ?

否、そもそもあの腕は何なのだ?

あんな物…まるで、ルクスが右腕を失っているかの様な。

否、分かっている。ルクスの腕は存在しない。ルクスは既に一度、腕を失っているんだ。

きっとあの、今のルクスの腕は、失ったルクスの腕の代わりに取り付けられた『処置』なんだ。

失われた、自分の意思で細やかに力強く動く腕のような物を、新しく作って取り付けるという事は人の手には不可能だと思う。ミズルにも、出来るかどうか。

でも、幾ら何でもこんな腕…決して口に出しては言わないが、やっぱりふざけている。

あれは着脱式だ。様々な腕を使い分けていたんだ。

それが…何故選りにも選ってあの腕を連れて来てしまったんだ。

ミズル…この町では仕事をしなければ過ごせないのに。

ルクスに、仕事をさせない気だったのか?

ルクス……良かった。チェスタとビスカに拾って貰えて、本当に…。

『………っ!』

ふと一震えして、肌寒いことに気付いた。おたまを見詰め始めてから、結構経ってしまったのではないか。

ルクスは少し前に眠りに落ちて、ぐっすり眠っている。今日は疲れた事だろう。たっぷり働いて、第12階層でチェスタ達と温かな飯も食べたらしいから、きっと朝までゆっくりと休める筈だ。

私も寝よう。ルクスを起こさぬ様、いつも以上に気を付けて梯子に手を掛ける。

上った先に目が合うミスケは、只のぬいぐるみ。綿の塊を、布で閉じ込めただけの物。

でも構わない。傍らにミスケを抱いて、毛布を被る。

ミスケはきっと、最初は布の匂いしかしなかった筈だ。其処から少しずつ、私の匂いになっていった。

自分の匂いの筈なのに、自分の匂いだからこそ、心が安らぐ。

満月が待ち遠しい。ミスケと話がしたい。今度は眠らぬように努めて、沢山話がしたい。

沢山話したいことが有るんだ。

ルクスの腕の話。スーピーと海で遊んだ話。チェスタとビスカの惚気話。カストルの苦労話。シブリーの弁当の御菜の話。新しく咲いた花の話。ルジに新しく作って貰ったスパナの具合が良い話。それから…

きっと全ては話せないだろう。私は子供だから、夜には長く耐えられない。

それでも満月が待ち遠しい。ミスケが待ち遠しい。

私はした事が無いけれども、これは恋に似ていたりはしないだろうか?

ミスケ、お前がいつかしてくれた話の様な…。

でももう二度と、お前にあの話はさせない。

もう、お前のあんなに辛そうな声を聞きたくはないんだ。

おやすみ。ミスケ。

おやすみ、ルクス。

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