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緒
第4階層。
金属が、火薬が、其処彼処で悲鳴を上げる。
人々は怒号を上げて、咆哮する。
血だ。此れは血だ。生温い。
俺は無力だ。文字通りだ。本当は何も持たないんだ。
戦う力も、殺す力も、君を守る力も。
彼れが有れば良かった。せめて、目の前の二人を止める力が有れば。此の戦争の全てを終わらせる魔法が見つからなかったとしても、彼れが、彼れさえ有れば。
俺は無力だ。俺は役立たずだ。俺は馬鹿だ。俺は何をしている。俺が居れば…君さえ居れば?何かが変わっていた?
俺は何を、何をして居るんだ?俺が悪いのか?俺は誰だ?可笑しい…俺は、俺は……
俺は、誰だ……?
『はっ!』
呼吸のような、叫びのような、自分の声に因って
目が覚めたのか、覚めながら叫んだのか。
我を取り返すと、眼前に天井が迫ってた。
硬い寝床が、軋む感覚。
目を開けてからも、暫くはぼんやりだ。
頭がぐらぐらするようだ。ぐらぐらしながら、少しずつ身体が解けていって、この寝床がどうやら空中に取り付けられた物で、だから天井がこんなに近いんじゃないかってことに気付く。こういうの、何て言うんだっけか…。
圧迫感が面白くて見詰めてると、此処と床とを繋ぐ梯子に誰かが手を掛け、ガタガタと揺れを感じる。そいつが上って来る。そいつが誰なんだか、分かんないが…
多分俺こそが、招かれざる客なんだろう。
招かれざるとは言葉通り、誰も呼んでないのにと言う意味だ。
梯子から顔を出したのは、少女だった。年端は、幾つくらいなんだろうな…分かんないな。
銀のような気も金のような気もする色の髪を真横で二つに結び、顔立ちは幼いながらに整ってるが…微かに目付きが生意気で、大人を大人と思わないような、そんな奴なんじゃないかと勝手に予想する。
『……起きた?』
少女が口を開いた。高くも低くもない、見目相応の、小動物みたいな声だ。
中々頭が覚め切らなくて口を開けて眺めてしまうと、少女からの質問が始まる。
『お前…名前は……。』
………名前?
『名前…?名前…名前……?』
名前。そう言えば、俺の名前は……名前?
名前って、何のことだったか。持つ物だったような気もするし、振り翳す物だったような気もする。
俺が答えられないと察するや否や、少女は質問を重ねる。
『…何故、この町に。』
………何故?
『何故…?何故…何故だ?何故って、何だ?』
『うん。重症だ。』
『は?』
今度は早々に諦められた。否、呆れられたように感じた。聞かれたから答えようとしてるってのに、心外だ。
でも…確かに我ながら呆れた。これっておかしいのか?頭の中の引き出しに…何一つ見つからない。目当ての物も、それ以外の何もかもも。
『これ以上聞くまでも無い。あなたは重症だ。』
重症って何だよ。俺に…何が起きてるんだ?
『……可哀想に。』
『何が…?何、言って…?』
さっきから、この少女が何を言ってるのか全く分かんない。同情されるくらいだったら考えたい。俺は誰なんだ。此処は何処なんだ。何処って何だ。もう帰りたい……何処に、帰れば良いんだ?
でも少女は、そんな俺の絡まった思考を断ち切るかのように続ける。
『ようこそ、名も無き吹き溜まりへ……あなたは招かれし被害者だ。』
嗚呼、どうやら俺は勘違いしてたらしい。
此処は吹き溜まりなのか。俺は招かれてたのか……吹き溜まりって、何だ?
『ミズルの、被害者…。』
少女は俺ではなく、壁ではなく、もっと向こうの何かを見透かすように呟く。
ミズルとは、何だ?それが存在する言葉なのかどうかも分かんない……
俺はこれからどうすれば良いんだ?
招かれたってことは、此処に居れば良いのか?それとも家に帰った方が良いのか?帰るって、何処に帰るんだ?俺はこれからどうやって生きてけば良いんだ?
否、生きなくちゃならないのか?生きた方が良いのか?死んだ方が良いのか?死んだ方が良い奴って、どんな奴なんだろうか……
『おい。』
『は…?』
『下りて来て。』
そう言い捨てると、少女は梯子を戻って行った。
言うことを聞くしか無い。いつまでも此処で天井を眺めて居ては始まらない。
よくよく下を覗いたら、寝床は人の背丈程度の高さだったけど、梯子は頼りなくて下りるのに少し身が竦む。只、直ぐにそんなことはどうでも良いということに気付く。
梯子に足を掛けたところで気付いた。どうやって下りれば良いんだ?
左腕は良い。問題無い。右腕は……どうしたら良いんだ?
左手は自分の意思で自由に動く生き物…右手は、言うことを聞かない変な無機物。これは、金属だ。
腕の半分から先に生える金属の土台からまた、変な物が生えてる。
これは何だ…何て言うんだっけか。細い棒の先に、丸い…何かを掬うような物が。
『…大丈夫?』
少女が下から声を掛けてくる。正直どうしたら良いか分かんないが、とりあえず左手で梯子を掴む。恐る恐る身を返し、一歩ずつ下りようとしてみたら……何だよ、案外いけるじゃん。何だか身体が左手の使い方を覚えてるような気もしたけど、そんな筈無い。頭が何一つ思い出せないのに、身体は昨日までのことを覚えてるなんて、そんな馬鹿が有って堪るか。
無事床に足を着けると、少女は少し心配そうにこちらを見守ってた。
部屋はとても狭い。寝床と、寝床と同じ広さの空間。つまり寝床の2倍の広さしか無い部屋だった。家具は無くて、所狭しと箱が幾つか積み上がり、その上に何に使うか分かんない道具が散乱してる。
見渡してると少女が膝を抱えて床に座ったので、俺も対面で同じように座る。
『私はプリマ。』
少女が自分の膝小僧を見詰めながら呟いた。嗚呼、そうか。そう言えばこんな感じだった。
名前って、こういう風に使う物だった。でも、それを思い出せても、俺の名前そのものは浮かばない。
『お前はルクス。』
『はっ…?』
少女から授けられたそれは…俺の名前なのか?
『お前は私が拾ったから。重症者の名前は、拾った者が付ける物。』
重症…さっきも言ってた。重症ってどういうことだ?あんまり良い意味じゃないんだろうな、どうせ。
『何処から…』
『あ…?』
『何処から説明したら良いか分からない。』
そんなの、俺も何処から聞いたら良いか分かんない。勝手にそっちで話進めて、勝手に名前決めて、勝手に行き詰まってさ。今のところ分かってるのは、俺が何も覚えてないってことと…
此処が『町』だということだ。
『…端的に言うと。』
どうやらプリマは、分かんないながらも説明してくれるらしい。だから疑問も文句も何も飲み込んで取り敢えず耳を傾ける。
『お前は外の世界から攫われたんだ。そして牢獄に囚われた。』
折角全部飲み込んで聞いてるのに、疑問を増やすなよ。誰に攫われたんだ。俺が何したって言うんだ。結局俺はどうしたら良いんだ。
とか思ってたら、まるで俺の心を透視して押し付けるように、プリマは続けた。
『もうこの町からは、二度と出ることが叶わない。』
それは説明ではなく、宣告だった。
二度と出られない。
それは、喩えこの場所がどんな楽園だったとしても……
まるで、死の宣告みたいだ。
『出ることが出来ないから、この町で生きるしか無い。だから、特段記憶を取り戻す必要も無いだろう。寝床は暫くこの部屋の一部を貸しても良い。仕事は、其処まで重症だと手に職が無くて探すのに苦労するかも知れないが』
『待て!待てよ!どうして出られないんだ!俺は誰なんだよ!帰るべき場所に帰りたい!』
勝手に話を進めるなよ…納得出来る訳無いだろ!
『ルクス。』
『は…?』
プリマは俺の目を、真っ直ぐに見詰める。
聞き分けの無い子供を宥めるように。
『お前はルクスだ…ルクスとして生きるしか無い。そして、帰るべき場所はこの町だ。』
プリマは遠く、この部屋の入り口を見遣る。俺も釣られて振り返る。蒼く塗られた扉には、明かり窓が輝いてる。
『この町は小さな島の上に聳え立っている。陸は続いていない。そして海も…何故だか分からないが、渡ることは叶わない。船で脱出しようと試みた者は何人も居たが…2、3日すると見せ付けるように、ばらばらの木片と遺体が海から帰って来る。そうして人々は、外の世界を諦めた。』
この扉の外には海が在るのか。
俺は思わず飛び出したくなった。少しでも自分の故郷に近付きたくなってしまった。海に飛び込めば、一歩でも、故郷に近付くことが出来るんだろうか。
『…だから、諦めて此処で暮らす事を考えた方が良い。もう皆、殆ど皆が受け入れてこの町の住民として暮らしている。』
信じられない。こんな不条理を受け入れられる人間なんて居るのか?
『……嫌だ。』
プリマは目を伏せる。申し訳無さそうにも見える。
本当はお前が悪いのか?こっちはそれすらも分かんないんだ。下手な仕草をしないで欲しい。
『…気持ちは、まぁ…分かる訳では無いけれど……飛ばされた者は皆最初はそう言う。でもどうしようも無い物はどうしようも無い。見知った以上は、お前が海の藻屑に成ることも耐え難い…言う事を聞くんだ。』
…こいつは本当に、俺のことを考えてくれてるのか?
何もかもが分かんなくて嫌になってきた。分かんない…こいつは本当に親切で俺を拾ってくれただけなのかも知れないが…俺のことを、説明だけで捻じ伏せようとしてくる。
いきなりこんなの、受け入れられる筈が無いだろ。記憶が無いっていうだけで、眩暈がするんだ。
『……つらそうだ。』
『は…?』
言われて気付いた。とても辛い。
身体はまだ重くて、頭が痛くて、汗ばんで、眩暈がして…多分顔は険しく目は吊り上がってたんだと思われる。
何だか恥ずかしくて少し緩めると、プリマはまた憐みの眼差しをくれながら続けた。
『詳しくは明日、何とかしようよ。今日はもう直ぐ日が暮れるし…お前、とても疲れていると思うから、今日は出掛けない方が良い。食事を持って来るから…少し、待っていてくれないか。』
そう言うと、蒼い扉へ向かう。プリマが戸を開け放つと、少しだけ薄紅掛かった強烈な西日が注がれる。
『待って、居てね。』
戸に手を掛けながら振り向き、もう一押し念じてからプリマは扉を閉めた。
流れ込んだ潮風が遮られ、部屋が静寂に包まれる。
一人になった途端、再び呆然が襲ってきた。
色々説明されて結局、俺とは何なのかが分かんない。
自分が何者なのか、その前提が分かんないと、これから先のことだって何も考えられない。
がらくたみたいな右腕を見詰めると、眩暈がする。少し泣きそうかも。涙って、こんな時に流すのが正しいんだったか?
今までの全てが分かんない。これから先のことも勿論分かんない。
ただ分かるのは、今、だけだ。
今、一つ確かなことは
俺を示す記号が『ルクス』だということだ。
プリマは何処からか飯を持って来た。小さな箱に詰まった、とても美味そうな飯。
全く同じ飯を2つ持って来て、1つを俺にくれた。右腕がこんなもんで、どうやって食事が出来るのかと思ったが……案外いけた。
積まれた箱の一つを机代わりに、左手でフォークを持って、右腕の先で器を押さえて。
何かをしようと思うと先ず右腕が疼くが、結局左手も使い物になる。そんな感覚がする。
食事をしながら、何だかこの変な腕も食事に使えるかも知れないなと思った。思い出したけど、これはスプーンに似てるんだ。スプーンが大きくなって、横に曲がったって感じだな…。
そうして食事を終えたら外はすっかり真っ暗になってて、プリマは箱を机にして何やらカチャカチャと作業を始めた。
箱の上に散らばってた道具を使って、小さな魚のような物を弄ってる。
その間、俺には何もする事が無かったから…頭に渦が巻いた。
外の世界から攫われたと、もうこの町からは出られないと宣告された訳だが…目が覚めて未だこの部屋から一歩も出てなくて、結局外とは何か、この町とは何なのかが判然としない。
案外飛び出してみたら見覚えの有る景色が広がって、この町こそが俺の故郷だったなんていう可能性は無いだろうか。そんな都合の良いことが有れば誰も何の苦労もしないって、記憶が失われてても何と無く分かる。
疑問はどんどん湧いて来るが、どうせ全部が、今どんなに考え詰めてみても答えが出て来ない仕様の無い物だ。
そう思うと考えないようにしても湧いてくる疑問の数々に苛々が増して、今夜はもう寝たいと考えるようになる。
『寝て居ても良いけれど。』
こいつ本当に、俺の心が聞こえてるみたいだ。
プリマは手元を動かしながら続ける。
『きっと、仕事が見付かるまでは退屈だろう。まだ疲れていると思うし…寝ても良い。』
仕事……さっきも仕事と言ってた。仕事というのは憂鬱だ。別に働きたくない訳じゃない。この町でこの町の為の仕事を見付けるということは、この町で骨を埋めると宣言するのとおんなじだ。
俺はこの町を出たい。仕事なんてする暇が有るなら、自分が居るべき場所に帰りたいんだ。
『……寝床が、一つしか無いんだ。ごめん。』
プリマにまた、気を遣わせてしまったみたいだ。
『俺は床で良いよ。また上るのはきつそうだし、安全な寝床を貸して貰うんだから、どんな場所だって文句は言えない。』
そう言えば、誰が俺をこの空中の寝床まで運んでくれたんだろう。まさかプリマが一人でやったとは思えない。
『そうか…ごめん。じゃあ其処の箱を退かすから、其処で寝てくれ。毛布はもう一つ有るけど、敷く物は無くて…』
プリマは寝床の真下の空間を指差した。箱が3つ置いてあるけど、退かしたら確かに一人横になれるくらいの空間になる。
『贅沢言えないから別に良い。でも…』
こんな少女に気が引けるけど、ちらりと見遣る。
『あぁ。退かすから、ちょっと待って…。』
片腕が生き物でないと、頗る不便だ。こんな物ならいっそ、潔く根本から無くなってしまえば良いのにとすら思うが、流石にそれは言い過ぎか?
実は中身はそんなに満たされてないのだろうか、プリマは箱をひょいと持ち上げて、あっと言う間に3つ除けてしまった。退かされた分の箱はさっきプリマが作業してた近くに積み重ねられ、圧迫感が作業の邪魔にならないかと心苦しい気持ちになった。俺なんかがいきなりやって来た所為で…
『おやすみ。』
俺が無自覚に呆然としてると、気付けばプリマはこちらを見上げてる。
『……おやすみ。』
俺も返してみる。おやすみと。
こんな挨拶を、何処かで誰かと交わしてたような、そんな気がするし、そんなこと無い気もする。
でも、悪い気はしなかった。
プリマがバサッと出してくれた毛布を掛け、板が連なった木の床に横たわる。とても硬い。こんな床で一晩過ごすなんて、やる前から身体が悲鳴を上げそうな苦行だけど…
どうでも良い。記憶が帰らない不安と、苛立ちと、孤独の恐ろしさに比べたら。
もしもこの、記憶の全てが失われた丸腰の状態で、独りで放り出されてたら…。
プリマが居て本当に良かった。プリマが居なかったらきっと、無様に泣き叫ぶしか無かったのかも知れない。
少女少女と言ってるが、実のところプリマの年はどれくらいなんだろうか。
記憶が無い所為だろうか、顔や姿形を見ても年齢の想像が全く付かない。
そもそも、俺は幾つなんだ?自分の姿は自分には見えないから、余計に分かんない。何と無くプリマよりは、年上なんじゃないかとは思うんだけど…。
まぁ、年なんてどうでも良いか。
寝てしまおう。
考えたって始まらない。早く外に出てみたい。きっとこの小さな空間に閉じ篭って居るよりは、自分の故郷に近付ける。
目を閉じて…
心の中で、もう一度『おやすみ』と唱えた。
この世界の何処かに居るかも知れない、居ないかも知れない…昔何処かで、おやすみを交わしたかも知れない誰かに。
夜が明けた。分かり切ってたことで、体が痛い。喩えじゃなく、悲鳴を上げてる。
プリマはもう起きてた。
『大丈夫…?』
『……あぁ…何とか…。』
本当はちょっと大丈夫じゃないけど、ぐっと堪えた。
今度こそ、今日こそ外に出る。
『朝御飯、食べる?きっともう、弁当屋はやっている。』
弁当…昨日の、箱に入った飯だ。昨日の飯がよっぽど美味かったからだろうか、余り腹が空いてない。
『…要らない。外に行きたい。』
プリマはぱちくりと目を丸くした。
『そう…?じゃあ、行こう。何でも屋も、きっともう開いている。』
プリマは早速扉を開けた。潮風が吹き込んだ。
眩しい。
薄青い空に覆われて目が痛い。
眼下に広がる海の煌めきも眩い。
嗚呼、そうだ。外ってこんな感じなんだ。眩しくて、風が吹いて、爽快で、素晴らしくて…やがて、日が暮れる。そんな感じだった筈だ。
否、こんな感じだったか?一歩踏み出して、完全に外の世界に身を晒してみたら…
家の前には道が有る訳だが、この道は一見して複雑そうだ。
其処彼処に階段が有って、上の路と下の路が入り組んでて…そして其処にはいつも、家が在る。
家の上に家が在って、それが階段で繋がって、その上にまた家が在って、路で繋がって…それを繰り返して
見上げてみた。何処までも何処までも、家が育ってる…!
『行こう。』
目線を戻して声の方を見ると、プリマは2、3歩歩き出して誘ってる。
『…きっと…分からないことばかりだと思うけど、何でも屋が何とかしてくれるから。』
プリマに遅れないように一歩踏み出しながら思う。何でも屋って何だろう。きっと何でもする仕事なんだろうけど、何でもって何だろうか。
歩き始めると景色が流れて、それをつい眺めながら、プリマに付いて行く。
道沿いには扉が幾つも並んでて…これは全部家なんだろうか?
あれは木…あれは、鉄板。あっちは…土壁?
家の隣に家が繋がってて、家の上に家が繋がってる。
別の建物なのに、一つの建物なのに、別の家だ。
これが『町』なのか?
町って、家の他にも何かが色々有ったような気がするが…気の所為か?
全く分かんない。何も覚えてないからだ。
町とは何なのか、家とは何なのか。これは正解なのか?
『おい。』
プリマに声を掛けられて、我に帰る。足が止まってしまってた事に気付く。
油断すると、疑問が汗みたいに溢れてくる。
記憶は一つも零れないのに。
プリマは階段を一つ上った。少し長いような気がする階段。何かしらの金属で出来てて、棒に板がくっ付いただけで、骨みたいにスカスカだ。
透けて見える下道に寒気がしながら、プリマに続いて上った。
上った先に現れた道は何だかブツブツで…石を固めてるんだ。こういうの、何て言うんだっけか。
家も土壁の物が多くて、下のエリアと比べると少し上等な気がする。でも上に重なる家は素っ気の無い木の壁で安っぽくて…景色が、ガチャガチャだ。この町の住民は景観を気にしてないのか?こんな…
後から継ぎ足して間に合わせたみたいな景色。
『ルクス、此処。』
プリマが止まったのは石壁の、この町にしては少しだけ大きめの家。その上には木の壁に薄い鉄板の屋根で蓋をした家が生えてて、其処からも路が伸びてる。何だかこのエリアを象徴するような佇まいだ。
3段だけの階段を登って、プリマが扉を叩く。
『たんま!』
扉の向こうから声が通る。何やらバタバタした気配を感じる。
少し待てば、向こうから扉が開く。
『あー、やっぱプリマ。来ると思ってたー。』
出て来たのは、白金の髪を跳ねさせた若い男だった。確実にプリマよりは年が上だ。俺と比べたらどうだろうか?同じくらいな気もするけど、あっちの方が少しだけ上のような気もする。
こいつ、何か変だ。服がおかしい。帯のような物で留めてはいるが、前が開くようになってて…黒い上着の下の青とも緑とも付かない変な色の布には、縦線の白い模様が描いてある。服って、こんな感じだっけか?俺やプリマの服は、全然違うけど…。
『とりあえず、上がってくれー。』
通されると、中は広めの一間で、草で編まれた変な床が敷き詰められてる。真ん中には綿が入ってそうな布と、其処に座る男。
『ん……成る程。』
何故かプリマは何かに納得してる。
『そういうことだー。今日、お前は必ず来ると思っていたんだけどなー…一回なら、いけるだろうなーとか。』
『だから言ったのに!絶対いけないだろ!被害者拾ったんだから、朝イチで来るに決まってんだろ!』
座ってる男が叫ぶ。何故か髪と服が乱れてる。こいつは普通の服だ。
髪は短くて…何だったかな。茶みたいな金属…あれの色に似てる。そして服を着てると分かりにくいが、細身ながらも鍛えてそうで、立ったら背丈は変な服の奴より高そうかなと思う。年は…?
『許してくれー。良いじゃないか。良いとこまでいったしー、続きは後ですれば良いんだから…。』
『しない!今日は絶対しない!』
『…今日は?』
『は……しない!とにかくしないから!』
何やらあちらだけで話してる。まさかこいつらが何でも屋なんだろうか。
『ルクス。こいつらは何でも屋。』
やっぱりこいつらが何でも屋なのか…。
でも、何でも屋にやって来て、何をして貰うんだ?
何でもやってくれると言われると、今の俺が何をして欲しいのかパッと思い付かない。
何をしたいかと言われたら、故郷に帰ることしか思い付かないが…諦めた方が良いと言ったプリマが連れて来たんだから、きっとこれじゃ無いんだろうな。
『何でも屋。依頼したい。こいつにこの町のことを説明してやって欲しい。』
『あー…良いだろう。』
プリマが変な服の男に向き直ると、男は微かに怪しく目を光らせたような気もした。
この町のこと…憂鬱だ。知りたくなど無い。知れば知る程きっと、帰ることが出来なくなるんじゃないかと思ってる。
『俺たちは何でも屋だー。頼まれたら何でもやるさ……第5世代の俺たちには、得意分野だと思うしなー…。』
何でも屋のことも分かんないのに、第5世代って何だよ…何となく凄そうなような、そうじゃないような。
『私は、ちょっと依頼が有る…釣り屋の。』
『おー、それは大切だ。安心しなー。こいつは俺たちが一人前にしてやろう。』
一人前…とても嫌だ。気が重くて潰される。このままでは恐らく、一人前の町民にされてしまう。
『じゃあ…ルクスをよろしく、チェスタ。』
プリマがそう言うと、変な服のチェスタはニコリと満面の笑みを返事にした。それを確認したプリマは、俺の方も一瞥してから扉の外に消えた。
『……さてー。』
プリマを見送ったチェスタは、ゆっくりと一つ瞬きをしてからこちらを向いた。こいつの喋り方は、何だか間延びしてる。
『とりあえず座ってくれー。あ、下履きは脱いでくれ。』
変な床へ促されて上がろうとするが……下履き…?
『下履き?』
『あー、すまん。そのー…足に履いてる靴のことさ。』
あぁ、これか…そう言えば、ずっと履いてたな…。
下履きを脱いで、やっと変な床に座る。床は、何とも言えない草の匂いを纏ってる。奇妙な組み方で敷かれてて…こんな変な床は今まで見たことが無い気がするけど、どうなんだろうか。
『さてさてー。』
俺と、チェスタと、もう1人の男で、真ん中に輪になって座る。床に座るのは、昨日に引き続きだ。
チェスタは胡座を掻きにんまりと笑みを湛え、もう1人は膝を抱えて何となく剥れてる。何が気に食わないのだろうか。
『改めてー…俺はチェスタ。こっちはビスカ。』
『よろしく…。』
『よろしく。えっと……俺は一応、ルクス…。』
きっと絶対俺の本当の名は全然違うから、ルクスと名乗るのはとても憂鬱だ。幾らプリマが俺の為に付けてくれた名前だとしても。
そう言えば、プリマは何故、俺にルクスと名付けたのだろうか。
『ふふふ……そうかそうかー…よろしく、ルクスー。因みに俺とビスカは、プリマに依頼されて君をプリマの寝床に運んだんだ。寝心地はどうだった?』
1つ、比較的どうでも良い疑問が解決された。こいつら、プリマと友達なのかな…それとも、本当に何でもする何でも屋ってだけなのか?
友達……友達、か……俺には、友達は…?
『運んでくれて、ありがとう。』
考え込んでしまう前に礼を言っておく。確か礼って、言わなくちゃいけない物だった筈だ。
『気にするなー。察するに君は…重症者なのかー?』
チェスタはずっと笑顔を崩さないけど…
何かこいつ、まるっと見透かしたような笑みと口振りがちょっとムカつくな。
『…プリマもそう言ってたから、そうみたいだ…。』
『そうかー。では、この町の…即ちこの世界の仕組みを伝えようー。』
今、確信した。こいつふざけてるな。世界とはどういうことだ。何でこの町が世界なんだよ。こんな、すっかり記憶を奪われて、いきなり置き去りにされる世界なんて許されて堪るか…!
『おい、チェスタ。もっと分かりやすくしろ。この町イコールこの世界じゃ、流石の重症者にも感じが悪いぞ。』
流石の重症者と言う表現が何と無く傷付くけど、ビスカはチェスタよりも幾分かは真面そうに見える。
『うーん…そうかー?ま、お前が言うならー…。』
チェスタは改めて、コホンと一つ咳払いをした。
『プリマにどこまで説明されたかは分からないが、この町は町と言うより、天まで昇る島と言うが近い。』
プリマも島と言ってたな…さっき家から出るや広がった海の煌めきと、見上げた何処までも育つ家を思い出した。あれが、天まで昇ってる…?
『と言うのも…これは伝え聞いた話なので、俺も見たわけじゃないが。この島には、元々人も獣も何も居なかったらしい。そしてそこにいきなり、数人の人が飛ばされた。』
『飛ばされた…?』
『そうだよー。呪いによって、外の世界から飛ばされたんだ。』
呪い?初耳だ。呪いって何だよ。何だかあやふやな言葉な気がする。
プリマが昨日言ってたな。俺は、外の世界から攫われたって…牢獄に囚われたって…
ミズルの被害者だって…。
『呪いって、何だよ。』
『うーん…それは分からない。分からないが、人々は便宜上ミズルと呼んでいる。とある時期…恐らく百何十年前から、何も無かったこの島に、ぽつりぽつりと人が飛ばされてくるようになったんだ。飛ばされた人は、ミズルの被害者と呼ばれている。君もそうだ。君も、被害者。』
何て理不尽なんだ。こんな理不尽が、百年以上前から繰り返されてたのか。確かに、呪いって感じなのかも知れない。呪いと言う言葉の意味はよく分かんないけど…でも……
この理不尽には、ミズルという名前が有るのか。
『被害者たちは己の不幸を嘆くのみで終わることはせず、島にあるものと自分たちが持ち寄った様々な技能で島を開拓し、子孫を作り…そしてその間にも、人は外から飛ばされて来た。家が足りなくなったから、家を作り…やがて、重ねるようになったそうだね。』
本当に、継ぎ足し継ぎ足しやってたからあんな間に合わせの景色だったのか…そんなに、どうしようも無い状況だったってことか…?
『…なんかー、この島はかなり植物と資源に恵まれていたらしいね。そういう場所が、選ばれたのだろうか…。』
選ばれた…何に?ミズルに?
『普通だったらきっとー、こんな豊かな島には獣も人も既に踏み入っているのが、普通だろうになー…あー、関係無いことを考えてしまった。続き続きー。』
ちょっと気になる気もするけど、今の俺には要らない情報だ。何で俺がこんな理不尽に、ミズルに囚われてしまったのか知りたい。どうしたら日常に戻れるのか知りたい。俺の日常って、何だったのか知りたい…。
『そうこうしている今でも、君のようにちょこちょこ人が飛ばされて来るんだ。ミズルの被害者は、今もなお増え続けている。今この町には…過去の被害者たちの子孫と、新しくやって来る被害者がごた混ぜに暮らしているんだね。手と手を取り合って…みんながみんな、みんなのために働きながら暮らしている。』
出た…仕事の話だ。みんながみんな、みんなのために…?
きっと俺にも、皆の為に働けって言ってくるんだろ…?
『ふ…最初は苦労する者も多い。君みたいに記憶を失くしていたり、君みたいに理不尽を受け入れられなかったりするとね…でも。』
チェスタは口角は上げたまま、俺の目を真っ直ぐに見通し、眼光を突き刺した。
『『働かざる者食うべからず』が、この町の掟なんだ。帰れないんだから、これは受け入れるしかない。』
突き刺さって、圧が有る。これも、宣告だ…。
だから何だよ。
そんな目で刺されたって、受け入れられる訳が無いだろ。
こっちはいきなり、本当に全てを失くしてるんだ。これ以上怖いことなんて有る訳無いだろ。
掟が何だって言うんだよ。偉そうに。
『……チェスタ。』
『え……んー、あれ?また感じ悪かったかいー…?』
ビスカに窘められて、チェスタが少し間延びする。こいつ多分、わざとやってるんだろうな。
『すまないすまない。記憶がどうこうと言ったがー…ミズルが人を飛ばす時、程度の差はあるがー、記憶が失われるそうなんだよね。』
嗚呼、また理不尽だ。ミズルとは理不尽なんだな。ミズルと、呪いと、理不尽が同じ意味の言葉なんだということは覚えた。嫌になる程に。
『これが本当に程度は様々でー…全く記憶を失わずに飛んで来られた者もそこそこ居るね。ただ大体はそうはいかず…名前だけとか、職業だけとか、人生の一部だけとか…何かだけ握り締め、あとは失ってしまったという者がとても多い。君みたいに一切の記憶を携えずに飛んで来た者は…重症者と呼ばれている。』
そういうことか。そんな気もちょっとしてたけど。
でも、記憶をそっくり保ったままで来られる奴も居るのか。それって何だか理不尽じゃないか?嗚呼、そうか理不尽ってミズルのことだった。じゃあしょうがない…とか、そんなこと思ったらこの町に染まった証拠になってしまう。俺はまだ諦めてない。
『…受け入れ難いだろうねー。』
チェスタはまた俺の瞳を見つめたが、今度は面白そうにニコニコしてた。
そりゃお前は面白いかも知れないよ。お前はもうこの町で生きてるんだから。
『俺とビスカは、第5世代なんだー。つまりそれぞれ高祖父母…ひーひー爺さん婆さんが、被害者だったということだー。』
こいつら、思ったより随分この町に根差してる奴らだった!こんな奴らに受け入れろとか言われたって、納得出来る訳無いだろ!馬鹿にするなよ!
でも…そんな、百年くらい前の奴が子供作って、孫作って、5世代も…そんなことになるくらい、この呪いは果てしないのか…?また眩暈がする…。
『多分ー、計算するとこの町には第6世代ぐらいまでは居るんじゃないかと思うから…偉そうに出来るほどではないがー、この町の魅力を伝えることは出来るぞ。』
『魅力…?』
魅力…。
考えてみたこと無かったな…魅力。魅力って、大体どんな物にも備わってた筈だ。
どんな魅力が在ったところで、故郷に敵う物など無いとは思うが…一応、聞くだけ聞いてみるか。
『まぁー…外の世界と天秤にかけてどちらが素晴らしいかは、外に出たことの無い俺には分からんがー。この町にはまず、争いが無いー。不思議な程に。』
何だそれ。争いなんて、そうそう無いのが普通だろ。
…そうか?俺はもっと、争ってたような気もする。
俺は普通じゃなかった気もする。否、争うことこそ普通なのか?ん?こんなこと考えるのって変なのか?争いって、何の為にする物だっけか……
『ルクス。君はきっと覚えていないのだろうが…外の世界では『戦争』というものに明け暮れているらしいねー。』
戦争……何だか、しっくり来るな。
こっちの方がしっくり来るぞ。争いとは、戦争のことだ。
……つまり、俺も戦争してたってことか?
戦争って、何をするんだろう…?
『あとはー、外の世界には金…金銭だっけ?そんな概念が有るとか。この町では、特にそういうやりとりが無いんだー。まー、記憶を失ってる君に小難しいことは無しだ。この町ではー、仕事さえしていればなんでもしてもらえるしなんでも手に入るんだ。仕事さえすれば、ね。重ねてになるがー…みんながみんなみんなのために、手と手を取り合って暮らしているんだよー。』
金…?金銭?余り詳しくは覚えてないが、多分普通は店という場所が有って、其処で何か…多分、金と交換して、物を手に入れてたんじゃないかと思う。
チェスタは恐らく、仕事さえしてれば金みたいな手順を踏まなくても欲しい物に困らないと言いたいんじゃないか。
『あー、あとは…うん、そうだな。例外も有るが…この町には、病気も滅多に無いぞ。おそらく、外の世界のような人流や多様な生態系が存在しないからだろう…。』
病気…病気とは、何だっただろう。これは全然思い出せないな。話の流れ的に、凄く良くない物なんだろうとは思うけど。何だかチェスタも、嫌そうな顔をしてる気がする。
この町には、外の世界に有る色んな物が無いみたいだ。
悪い物が無いと言うと聞こえが良いけど…
無いということは結局、足りないということだ。
足りない世界とは、本当に良い物なのか…?
俺は、俺は何と無く…不安だ。
『…食事は、そこかしこにある食事処や酒場で食べられるしー、家で食べたいなら弁当屋でもらって来れば良い。キッチンのある家はほとんど無いからー、自分で料理をしたいなら物件をよく選ばなくてはならないな。風呂とトイレも付いてる家は滅多に無いからー、みんなその辺に在る公衆用のものを使っているよ。毎日掃除屋が綺麗にしてくれてるからー、想像するより気持ち良く使えるはずさ。娯楽はー…低層階には少なくて、ここも5階だから牧歌的だがー、上層階には色々あると聞くな。美味い酒を作る酒造屋とかー…何だったかな…音楽家とか、本屋とか、平和な賭け事とか…何だっけなあれは…葉っぱを吸うとか、どうとかー…。』
チェスタはフッと切り替えて、今度は有る物を沢山挙げていった。
有るからって、無いという穴を埋められる訳では無いと思うけど。
きっとこの町に無くて外の世界に有る良いことも、この町に有って外の世界には無い悪いことも有る筈なんだ。
『…ちなみにプリマは修理屋。壊れた物をなんでも修理してくれるー、無くてはならない存在だ。』
昨夜、プリマが箱の上でカチャカチャやってたのを思い出した。あれってもしかして、そういうことだったんだな。
『俺とビスカは、2人合わせて何でも屋だー。なんでもやってしまうのさ。画期的だろー?』
何でもって、何を何処までやってくれるのかよく分かんないが…俺を寝床まで運んだり、俺に町のことを説明してくれたり、どうでも良いことまで何でもやってくれるんだろうか。
…て言うか俺、既に結構こいつらの世話になっちゃってるんだな。何か癪だ。
『というわけでー。君も何屋をやるか、考えておけよー。始めのうちは面倒見てもらえるが…仕事せずにくよくよしてるとー、そのうち周りに見限られてしまうからな。』
結局この、勝手な結論か。
見限られるとか、何だよ。
お前らが俺を見限るんじゃない。俺が、この町を認めてないんだよ。
『何でも良いから、『何屋』なのか決めときなー。』
チェスタはまた、俺の様子を見てニヤついてるように見える。気に食わない。
『おいチェスタ。そんな一気に話して良いのか?こいつ全然返事してない…。』
ビスカ…こいつ、幾分マトモだけど、助けてくれるのが遅い。
『え?そうかー。時たま反抗的な目をするから、それが返事かと思ってしまったー。』
此処まで来たら流石に、まるで挑発だ。今までの苛立ちを、一旦少し発散しておこうかと思った。
『……そっちの話を、聞いてやってただけなんだけど。』
座ったまま、少しだけ見上げて睨み付けると…チェスタのニヤニヤは、より一層嫌らしさを増した気がする。
『そーかそーかー。それはありがとう。君が黙って聞いてくれたおかげでー…プリマからの依頼を達成できて、今日の弁当を貰う権利を得られるんだ…。』
チェスタはニコニコしながら拳の指を2本だけ立てて、自分の顎に当てて見せた。
何と無くだけど覚えてる。指を2本立てて見せるのは、楽しい時だ。こいつ今楽しいんだ。口振りと言い、詰まるところ俺を馬鹿にしてるんだな。
『お前…ふざけるのも良い加減にしろよ!俺が今どんな思いで居るのかも知らない癖に…!』
俺は思わず、チェスタに掴み掛かろうとして左手を突いて乗り出してしまった。こんなどうでも良い時まで、このふざけた右腕が憎たらしい…!
『おっと…洒落た腕だなー、初めて見た……ルクス。君が今どんな気持ちで居るのかはなんとなくしか分からんが、どんな思いでいるのかははっきり分かるぞ。答えは『何も無い』だ。記憶を失くした者に、思いなど残っているものか。』
チェスタは俺のオモチャの腕を軽く制止しながら、言ってはならないことを言った。
『おいチェスタ、やり過ぎだぞ!重症者をそこまでしつこくからかったら…』
もう遅いよ。こいつ本当に遅いし……重症者重症者って煩いんだよ…!
『許さない…許さない!馬鹿にするな!お前に何が分かるんだよ!お前らなんかに分かって堪るか!此処で生まれて、此処で働いて、此処で死ぬ奴に、何もかも奪われて無理矢理連れて来られた俺の気持ちが分かって堪るか!馬鹿にしやがって…!お前なんかこ』
ドンッ!
『……やっぱり。』
ビスカが真上を見上げて呟く。
ドンッ!ドンッ!
頭上で何か音がする。それを合図に、自分の怒気がホワッと霧になって抜けて行ったような感覚に陥る。これは肩透かしって奴か?
ドンッ!ドンドン!
天井が叩かれているような気がして、思い出した。
この家の上に生えてた、木の壁の上に鉄板で蓋をした家。
『カストルー。すまないー。でもこれは俺のせいじゃないー。お客の怒声なのさー。』
『いや、お前が怒らせたんだからお前のせいだろ…。』
もっと言えビスカ。
どうやらこのビリビリと鈍い音は、上のボロ家の住人が示す苦情のサインらしい。でも、だとしたらやっぱり俺は悪くない。ビスカの言う通り、悪いのは他ならぬチェスタのみだ。
『カストルー、覗いてみてくれ。被害者なんだー。』
覗くって、何のことだ?チェスタが言った後、少しの沈黙の中で天井を見詰めてると…
よく見たら、ど真ん中…本当にど真ん中に穴が空いてる。何だっけ、あの…果物くらいの大きさの穴で、其処が何だかチラチラしてる。多分彼処から音が通ってて、彼処から覗いてるんだ。
暫く黙ってたら、チラッと煌いて穴が暗くなった後
『悪いぃいい!』
と、カストルとやらは一言投げて来た。何だか喧しそうな声だ。
…嗚呼。あの音は…何だっけか。似た音を凄く聞いたことが有る気がするな。そんなことはどうだって良いか。
兎にも角にも、気勢が削がれてしまった。何にこの憤りをぶつけたら良いのか分かんないし、そんな憤りがまだこの身体に残ってるのかもよく分かんない。
『…なぁ、お互い一旦休憩しようぜ。多分あいつも来るし…。』
ビスカが俺の肩に手を掛け、宥めてくる…何だかこいつも、優しい振りして俺のことどんな風に思ってるのか分かんない。あいつ?来る?誰が?
まさか…
『何でも屋ぁああ!』
バターン!と、乱暴に扉が開け放たれた。
現れたるは、黒髪の男。後ろは刈り上げてる癖に前髪は長くて、真ん中で分けてる。
ビスカは引き締まったと言った具合だったが…こいつは更にもう一声逞しい身体をしてて、背丈はチェスタ程ではないだろうか。年は…ビスカと同じくらいか?
『すまないぃいっ!仕事が一つキャンセルになったから遅めに起きようと思っていたらぁ、キャンキャンうるさいからぁあ…どうせいつもみたいなことだと思ってしまったんだぁあ…。』
言いながらカストルは俺を見付けると…勢い良く、飛び付くように駆け寄って来た!
『うわっ!』
『すまなかったぁあ!この2人が、いっつもひっどいからぁ…!この町へようこそぉお!お前がここで豊かに過ごせることを、心から願ってるよぉおお!俺はカストル、よろしくぅう!』
何だこいつ…いきなり飛び込んで来て、屈託の無い笑顔で、べらべらべらべら勝手なことを…!
しかも声が喧しい!内容も含めて、何だか暑苦しい!
『おいカストル。ひっどいのはチェスタのせいだ!俺は悪くない。ちなみに今の件も、ルクスじゃなくてチェスタが悪い。』
『えー。非道いじゃないかビスカ。さっき現実に声を上げて煩くしたのはルクスだし、いつも誘うのは俺かもしれないが、最終的には2人で』
『うっさい!うるっさい!確実にお前が一番うるっさーい!』
『いや、今一番声が出てるのはビスカだぞぉお。』
…何だこいつら。勝手にお喋りし出して。ビスカは何をこんなに怒ってるんだ?
『……ルクスぅ。』
『は…?』
カストルに声を掛けられて思わずそちらを向く。こいつは真っ直ぐ…チェスタとは違う真っ直ぐ。何だか誠実な眼差しを合わせてくるんだけど…それも何処まで本当なのか分かんない。
今は誰の優しさも、誰の誠実さも信じられないぞ。
『寂しいかもしれない。不安かもしれない。でもきっとそのうち、お前の根っこはこの町に伸びていって、この町の栄養吸って、お前は満足出来るようになるよ…俺は応援してるよぉ。』
…まだ、プリマ、チェスタ、ビスカ、カストル…4人しか喋ったこと無いけど
この町の住民は本当に勝手だ。誰も彼もがこんな風なことばかり言ってて…
もしかして本当に、この町から出る方法は無いのかよ?
『チェスタもビスカも良いやつだしぃい…プリマもスーピーもすっごい良いやつだぁあ。この階層なら、きっとこの町が好きになってぇ、良い仕事を思いついてぇ…なんかお前とは、一緒に仕事出来そうな気もするなぁあ!』
くそ、本当に勝手だ!また仕事の話だ!プリマはまだか!帰りたい!
否、プリマなんて待たずに出て行ってしまおうか?
何処へ行くんだ…?
何かもう本当に、最悪だ。
『なんかー、ルクス…うんざりしてるのかいー?』
『いや…お前のせいで、カストルがトドメ刺したんだろ。』
『俺が何したんだよぉお!激励してやったんだぞぉおっ!』
他人事みたいに眺めやがって…絶対にこいつらがおかしい筈なのに。何だか、こっちが駄々捏ねてるみたいな空気醸しやがってさ。
『ま、顔見せできて満足だぁ。俺はオジャマかもしれないから失礼するよぉお。またな。チェスタ、ビスカ…ルクスも、またなぁあ。』
ポンポンと肩を叩かれた。ニッコリと爽やかに微笑み掛けられた。最悪だ。
カストルは扉を閉め、ものの30秒くらいで上階の床…この部屋の天井が軋む音が聞こえた。嗚呼、あいつは口を出さなくなっただけで上で聞いてるのかと思うと…さっき立たされた気が全く治らない。
て言うかこいつら、こんな家でお互い嫌じゃないのか?不便じゃないのか?気不味くないのかよ…?
『あー…ちなみにルクス。カストルはこの部屋の上に住んでいてー…運び屋をしているよ。荷物や資材を運ぶ、大事な仕事さー。』
だからか。力が有りそうな身体付きをしていた。
修理屋とか運び屋とかは分かる気がするんだけど、何でも屋だけはまだあんまり釈然としないな…。
『職というものは、各人が十人十色自由にー、様々な形で町に貢献しているよ。みんな…この町に生を受けたりー、この町に飛ばされたりして…この町で生きていくことになったらー、一人ひとりが自分と向き合って見つけるものなんだ。』
さっき、カストルと喋ってた時の感覚が蘇る。
やっぱり本当に、この町で仕事を探さなくちゃいけないのか?
『まー『俺はなんちゃら屋です!』って名乗った者勝ちなところはあるが…何でも屋もそんなもんかー、はは。まー…そんな職業でも何かの役には立っているし、良いと思うぞ。兎に角仕事をするんだぞー。』
『……あぁ。』
自分でもよく分かんない内に、返事をしてしまった。
凹んで俯いてたから見てないけど、2人がハッとした空気を感じた。
『……ふひ。』
チェスタが吐息だけで笑った。むかつく笑い方だ。
何でも屋とか…この役立たずの腕ぐらいふざけた職業の奴が、仕事しろとか偉そうに。
多分、自分すら気付かずに何かのスイッチが入った。
俺は探す。この町で生きながら…必ず。
この町を出る方法を探す。必ず、探す。
只探すだけじゃない。
出来ればこいつらに…示して、見返してやるんだ。
外の世界が……
俺の故郷が、如何にこの町より素晴らしいのかを…!
…まぁ、それは今の俺にも思い出せないことだけど。
その為には、職なんだ。
出来れば、働きながら脱出の方法を探れるような、そんな都合の良い仕事を…
『職が決まったら、ぜひ俺たちにも教えてくれー。何でも屋は、人脈が大事なんだー…。』
不敵に笑むチェスタと推し黙る俺を、ビスカが交互に気不味そうに見守ってる。
誰が教える物か。
そう思った時点で、俺の腹はある程度決まってたのかも知れない。
『じゃーまー、職が上手くいくなら、あとは問題無いんじゃないか?仕事さえしていれば生活には困らないし…プリマの家を出るなら、物件屋に家を見つけてもらって……あ。』
チェスタが空を見てポンと手を叩く。よく分かんないけど、わざとらしい仕草な気がする。
『ところで君、きっと自分の年も覚えていないんだろうなー。』
『え…?』
此処に来て年かよ!
そんなこと気にしてた朝なんて、もう遥か彼方だ!
『うん…。』
俺が答えると、チェスタは改めて自分の顔を見せ付けながら
『俺は20でー、ビスカは18だ。因みにプリマは14で…カストルは、17?君は、カストル辺りに近いんじゃないかー?』
『は…?』
俺がもしカストルと同じ年だとしたら…プリマって、そんなに幼かったのか。チェスタって、思ってたよりちょっと大人だ。やっぱり俺の年齢感覚は、記憶と共に失われてしまってるのかも知れない。
『年は把握しておいた方が良いぞー。死期を測るのに、大事だからな…。』
『はっ…?』
ほんの少しだけ背筋が冷えた。
チェスタの表情は今までみたいな冗談めかした風にも見えたけど、何処か目が笑ってないようにも見えた気がして。
『あとはなんか言い忘れたことは…あー、マミムの偉大さについてー』
『もういいもういい。マミムは乳搾れて肉食えて皮採れる、偉大な生き物だ。以上!そろそろこいつ本当にパンクしちまうぞ。』
マミムって何だ?さっき、獣は居ないって言ってなかったか…どうでも良いか。
何にせよ、遅いぞビスカ。パンクして…俺は、弾けたんだ。前を向くことにした。俺のこと被害者とか、重症者とか呼んで……今に見てろよ。
『大丈夫…大体分かった。仕事も決める……明日までには。』
『えっ!』
『へー。』
ビスカは目を丸くして、チェスタは口の端を吊り上げる。
先ず一つ、こいつらの鼻を明かせた気がする…本当に、小さな一歩だけど。
俺は先ず、明日までに、この町での仕事を決める。
『…それは素晴らしい。ぜひとも』
チェスタがまた透かした顔で馬鹿にしようとしたら
『チェスタくんっ!ビスカくん!』
コンコン、と弱いながらも軽快なノックと共に、明るく真っ直ぐな声が通り抜ける。
『おやおやー…スーピー!入って良いぞー!』
チェスタが言うや否や、またもやバタン!と扉が開けられる。逆光の中に、今度は見知らぬ少女と……プリマが、居た。
『やーやー、スーピー…プリマもー、おかえり。』
青白く跳ねた髪をして、頭を布で包んでる少女、スーピーは…輝いてると言うが相応しい、満面の笑顔でチェスタたちを見てた。
『すぐそこでプリマちゃんに会ったから!あたらしいお友達が…来たんだよね?』
ちらっと視線を投げられた。こいつはプリマと同じくらいの年か?自分の年齢感覚はもう信じられないけど。
こいつ何と無く、こういうのが可愛いって奴なのかなって気がしなくも無いが…でも、素直に信じられないな。そんなこと言ったら、俺はまだ誰も信じてないんだけど。
『スーピー…こいつはルクス。』
後ろからひょこりとプリマが顔を出した。片手には何かを布に包んでぶら下げて、もう片手には毛が生えた棒を握ってる。
『ルクスくん…よろしくね!』
ぱあっと明るく笑いながら、スーピーは左手を差し出して来て…俺は2、3秒だけ呆けた後、左手を差し出し返した。スーピーは少しだけキョトンとして握り返し、また直ぐニコニコし出した。
『スーピー…こいつ、重症者なんだ。』
『あ…そうなんだ。ごめんね?』
スーピーは笑顔を崩さず、上目遣いで謝ってくれた。
取り敢えず差し出し返したら握って貰えたけど、何だこれは。何のための行為なのか分かんないから、作法が何処まで正しいのかも分かんない。
『プリマー、釣り屋は恙無かったかい?』
チェスタが割ってプリマに聞く。何か…朝は気付かなかったけど、違う顔をしてるな。俺に向けるそれとも、ビスカに向けるそれとも、違う顔をプリマに向けてる。
『うん。ルアーは全部直した。でも、帰って来る途中でぬいぐるみの修理を頼まれて…直ぐに出来そうだったから家に戻って直して、それから来たんだ。』
ぬいぐるみ…そんな物まで修理するのか。修理って、もっとよく分かんない道具使ってやるもんだと思ってた。ルアーって言うのは、どんな物なんだろうか…。
『なるほどー。お疲れさま…ルクスは良い感じだよー。やる気になったようだ。』
プチンと来た。また言い返してやろうかと思った。こいつ本当に嫌な奴だな。ずっと偉そうに、馬鹿にしたような姿勢を崩さないで…!でも
『そうか……良かった、ルクス。』
プリマがそう言って、こっちに微笑むから。
多分年下な癖に、あんまり優しいもんだから…息を一つ飲んでしまったら、鬱憤がホワッと霧になった。
『仕事は明日までには決まるそうだよー。楽しみだな。』
『え……本当か、ルクス?』
『…昨日飛ばされたばかりなんじゃないの?』
プリマと、序でにスーピーも目を丸くしてこちらに向き直る。
『…分かんないけど、そのつもりだ。』
何と無く恥ずかしくて、顔を逸らして呟き捨てると
『そうか……良かった、ルクス。』
さっきと同じ調子で、さっきと同じ台詞をくれた。
プリマって……もしかして本当に優しいのか?
他の奴らと比べて、ほんの少しだけ一緒に居る時間が長いからか?昨日は状況を理解出来ないまま不条理なことを次々言われて嫌になったけど…プリマは一生懸命、俺が受け入れられるように言葉を探してくれてた気がする。わざとむかつく言い回しを選んでくるチェスタとは違って。
『んー?なんだ…まーいいかー。ルクス。これが俺たちだー。スーピーは第3階層。プリマの家は第4階層。この家…俺とビスカの家は第5階層。この上にある、カストルの家は第6階層っていう扱いだー。ま…カストルは途中から来たんだが、俺たち4人はずっとこの辺の階層で育った幼馴染なんだー。カストルも入れて…専ら5人でふざけ合っているよ。君はどの階層で暮らすのか分からないがー…もしこの辺に定住するのなら覚えておいてくれ。俺たちー、そこそこ知れているから。』
階層って…多分、家が沢山積み重なって、それが何段目なのかっていう話だよな?此処って多分結構下の方なんだよな…海が、近かったし。何階層まで有るんだろうか?それにしても覚えておけとか、そこそこ知れてるとか、こいつは何処までも偉そうに…!
『ふざけてるのはお前だけだろ。』
『えーひどいじゃないかビスカー。毎日楽しく過ごせているのだから。楽しいということはー、ふざけているということだろう。』
『なんでそうなるんだよ。』
『良いんじゃないか。私も楽しいから、ふざけているんだと思う。』
『いや、だからなんで楽しいイコールふざけるなんだよ。ふざけるイコール楽しいだろ!』
『ビスカくん…それは、なにがちがうの?でも、どっちでもいいや。わたしも楽しいから!』
俺がまた沸々としている間に、早速こいつらはふざけ合ってる。でも、兎に角仲が良さそうだということは伝わってきた。そんなの俺にはどうでも良い筈なんだけど。
『あ…そうだ。チェスタ。』
『何だー?』
プリマは、草の床の上に敷きっ放しだった、綿が入った布を指差した。
『その、床に敷く寝床は余ってたりしないか…?』
チェスタと…ビスカは、本当にほんの少しだけ眉を歪めると
『…あー。余ってはいないがー、少し貸すくらいなら良いだろう。俺たちは2、3日ぐらいならー、一つの布団でもどうにかできるから。な…ビスカ。』
チェスタがビスカの肩を掴む。
『はっ…!?は、いや……あ、ぐ…くっそ。好きにしろよ!』
ビスカはチェスタの腕を制止しながら堪らなそうに顔を伏せる。
『……なんかごめん…。』
プリマはそんな光景に慣れた様子だ。
『気にするなー。大丈夫だよ。そっちの方が大変だろうからなー…。』
こいつら、何なんだ?
チェスタとビスカって、何かがおかしい気がするな。でも、何がおかしいのかよく分かんない。この違和感が、元々おかしい物なのか、記憶が無いから生まれる物なのかも分かんないな…。
『…じゃあ、そろそろ帰ろう。ルクス、それを抱えられる?弁当を、貰って来たから。』
プリマに言われて、左で掴んで右で押さえて、布の寝床を抱えてみる。全然いける。何故かチェスタがふっと薄く笑う。
その布の包みは、弁当だったのか。そう言えば…不条理を積み上げられて、飲み込んで、とても疲れて、腹が減った気がする。
『お…プリマー、やっぱりシブリーなのかい?』
『ん…あぁ、シブリーだ。多分、ずっと…。』
『…はは。良いと思うぞー。シブリーは美味くて栄養満点だから、俺も好きだー。』
こいつら分かんない話ばっかりして、自分達だけで盛り上がって…まぁ、元々こいつらが居るところに俺がいきなりやって来ただけだけど…でも別に俺だって、来たくて来た訳じゃない。
『プリマちゃん、またね!』
スーピーが両手を広げて笑顔を合わせると、プリマは其処に身体を委ねる。
『うん……また。』
解放されたプリマの表情は薄いけど、少し緩んでるようにも見える。
この2人は小さいな。小さいなと思ったけど…女って、こんなもんだったような気もするな。そうだ、前にもこんなことを思ったことが有るんだ。
女って、このくらいの大きさなんだって、知った時が有ったんだ。
『またなー、プリマ。』
『じゃあな、プリマ。』
チェスタとビスカもプリマに手を振る。そう。手を振ることは、別れの合図だ。
プリマは俺が付いて来るのを確認しながら、扉を押す。
外の空気が身体に流れて、解放感が堪らない。
やっとあいつらから、チェスタへの憤りから解放された!
全身がスッキリして、頭が冷えて、我に帰って…改めて考える。
仕事だ。あとは、家だ。
考えは有るけど…上手く行くかは分かんない。
まぁ…この町ではどうやら、仕事さえ上手く行けばあとは失敗は無いらしい。そういう風に考えたら、気が楽な気もする。
布の寝床は、ふかふかで…なんか、ちょっとだけ臭いな。気にしないようにしたら全然気にならないけど…何の臭いだ、これ?
プリマは振り向かないけど、俺が遅れないようにゆっくり歩いてくれてる。
協力して貰うぞ。
俺の計画。
俺がこの町で暮らす為の…そう。モチベーションだ。
俺はこの町を飛び出すんだ。
必ず脱出する方法を見付けて
全ての記憶を取り戻して
お前達5人に……
お前達が生まれ育ったこの町よりも、俺が生まれ育った外の世界の方が
俺の故郷が如何に素晴らしい世界かを……証明するんだ…!
弁当を食べて、それから残りの1日は……プリマは先程持ってた毛の生えた棒を弄り出して…俺は勇気を出して、少しその辺を散歩してみた。
記憶がそっくり失くなったのに、1人で外に飛び出すということは…昨日思ってたよりもとても勇気が必要だった。
プリマは『付いて行こうか?』と言ってくれたけど…余りプリマに迷惑を掛けるのも気が引けたし、ゆっくり自分の目で見て一人で考えたいとも思った。
一人で街に取り残されると、目に飛び込む情報量の多さに、足は竦み頭は凍りそうになる。
海の匂いがした。唯の水じゃない。辛そうで、少しベタベタしてる。
この街には…多分、この町には。全く店が存在しないように見える。何処を見ても、小さな佇まいに一つの扉だけ。店ってもっと、大きな窓に物が飾られてたり、窓に台が付いてて其処から物を受け渡せたりした筈じゃないか?そういう建物が一つも無い。
プリマは弁当屋って言ってたけど、弁当屋どころか何屋らしき物も見当たらない。
店が無いって凄く暇なことなんじゃないかって思うけど、結局この何でも有りのゴチャゴチャな景色が脳の処理速度を奪って退屈させてくれない。
兎に角見渡す限りが家、家、家で…上の方にも家だ。だからなのか、この町は暗い。
下の方や上の方も、こんな感じなのか?それとも何か別の景色が広がってたりもするんだろうか。
たまに擦れ違う人は、俺が通ると珍しそうに一瞥して行く。
『被害者』とか…思われてるのかな。
年寄り…とまでは言わないけど、それなりに年を取ってる奴が多い気がする。プリマとか、チェスタぐらいの奴は見掛けないな…小さな子供は、2人居たけど。
軽く一周して…もっと外側が在るみたいだけど、帰路に就いた。何処まで広がってるのかわからなくて、怖かったから。
何階層も有るみたいだけど…どのくらいの広さの街が、何段積み上がってるんだろうか。
上を見上げると高過ぎて、もう少し遠くから眺めないと、何処まで伸びるか見当が付かない。
ふと思った。上に行くのと、下に行くのとでは、どちらが故郷に近付けるのか。
少なくとも、この階層に居たままじゃ駄目だ。この階層に長く居るプリマやチェスタがあんな調子なんだから。何もヒントは無いだろう。
下に行ったら地に、海に近付いて、そのまま外の世界に繋がってるのか?
上に行ったら…何が有るんだ?海からは、遠去かるけど……。
少し暗くなり掛けて、プリマの家の扉を開けると…プリマは箱に座って、一段高い箱に預けていた顔をハッとこちらに向けた。作業が終わって、転た寝をしてたのかも知れない。
『おかえりルクス。夜だけど…弁当、食べる?』
こいつ何だか、弁当の話ばっかりしてる気がするな。
そして俺は、さっき食った弁当のお陰で腹が減らない。何か、この町に来てから余り腹が減らないな。
否、元々俺は余り食べないのか?そんなどうでも良いこと、思い出せないな…。
『弁当は、今日はもう良いや。明日のことを考えようかな…。』
昨日横になった空間にはチェスタから…否、ビスカからなのか?奪って来た寝床が敷いてあった。腰を下ろすと
『なぁ。』
プリマが俺の目を見ながら、隣に座ってきた。
全てを失ってから、こんなに近くに人が来てくれたのは初めてかも知れない。
『本当に、こんなに直ぐに仕事が決まるのか…?』
この表情は…もしかしたら、心配してるのかも知れない。分かんないけど。
昨日、何て説明したら良いか分かんない癖に俺に理不尽を説き…今日、チェスタたちとふざけ合い…そして今、俺の隣で…
プリマって大人しくて表情が乏しくて、何を考えてるのか分かんない奴だと最初は思ったけど…よくよく思い返してみたらずっと気を遣ってくれてるし、チェスタ達と居た時は楽しそうだったかも知れない。
こいつはやっぱり、少女なんだ。
『……ルクス?』
少し呆けてしまった。プリマが見上げてくる。やっぱり幼い。
『……仕事は…上手く行くかは分かんないけど、考えてることが有る。』
この考えが、どういう方向に働くかは分かんないけど…取り敢えず、俺が一番最初に思い付いた職業なんだ。
職業と言うより、近道だ。その道が、通行止めになる可能性は有るけど。
『そうか……お前の仕事が、上手く行くことを願っている。』
プリマは微笑んだような、そうじゃないような…はっきりしない。
プリマは腰を上げようとすると、ピタッと俺のがらくたに目を留めた。
『……ルクス。それ、外れ掛けてる。』
『えっ…。』
指されて反射的に右腕を上げると、微かにぐらりと感覚がする。
『その……おたまが。』
おたま…?
おたまか…そう言えば、そうだった気がする。
このふざけた腕の名前は、おたまだ。
『直そうか?私は、修理屋だから。』
『あ…。』
そういえばそうだった。こいつは、修理屋だ。
昨日あんなにこの町を受け入れられないと思ってた俺が、今日だけで2回もこの町の仕事の世話になるなんて。
悔しいと思いながら、流石に少し諦めも有る。
『じゃあ…診てくれ。』
『うん。』
プリマはさっき顔を預けてた箱の上から、小さな箱を持って来た。開けたので覗くと、よく分かんない工具がガチャガチャと色々入ってる。
そう、これは工具だ。修理って、こんな道具を使ってるイメージだ。
『腕を、出してくれ。』
言われて、右腕を膝に乗せて差し出す。
改めて見ると、この腕は少しくすみ掛かってる気がする。小さな傷も有る。新品じゃない。
でも『おたま』の部分はぴかぴかしてる。此処だけ新品と言って良いくらいだ。
プリマも腕を持ち上げてぐるりと眺めジロジロした後、よく分かんない尖った工具をよく分かんない場所に突き刺してぐりぐりぐりぐり…別の工具を当てて、あれじゃないこれじゃないと選んでからぐりぐりガチャガチャ……
プリマはひたすら、ガチャガチャガチャガチャ。
何か……何か、初めてじゃ無いな。
自分の腕を、誰かにガチャガチャされてる…女に。
何か、こう……心を許せる、拠り所の様な存在に。
あれは…多分、とても心地の良い時間だった様な気がして……
取り戻したい……!
……何だ?何だか今…見えてしまった気がする。俺の取り戻すべき物の輪郭を。
あれは誰だったんだ?否…あれとか、誰とか言える段階じゃない。取り戻すべき物の輪郭が見えただけで、その人の輪郭が見えた訳じゃ無い。本当に一瞬、輪郭が見えただけなんだ…。
『ルクス…?』
『あ…プリマ…。』
嗚呼、これは何度目だろうか。プリマは絶対に俺より年下だ。なのに俺は直ぐに目の前が見えなくなって自分のことばかり考えて…そんな自分が嫌になるなんて、この町に毒されてるみたいで凄く嫌だ。
『これ…きっと着脱式だ。用途に合わせて、幾つかの腕を使い分けていたんじゃないか?』
着脱式…外れるのか。まぁ確かに…こんなオモチャみたいな腕でずっと生活してたなんて、流石に想像出来ない。
『もし良かったら、外そうか?外すだけなら出来そうだ。この腕…使い辛いんじゃないか?』
俺は昨日の、根本から無くなってしまえという気持ちを思い起こした。
確かにこの腕はとても不便だ。邪魔でしかない。今のところ、何も役に立ってない。
でも…さっきの感覚を、取り戻したいという気持ちを思い出すと
俺の腕はもしかしたら、もしかしたらずっと、大切な誰かに…
このふざけた腕も、大切な誰かが?
笑えないな…。
でもこの腕は、外の世界から持って来た、俺の身体だ。
『……外さなくて良い。このままで。』
プリマの目がきょろっと、僅かに動く。
『そうか…?』
不思議そうにしてから、直ぐに元の薄い表情に戻って
『じゃあ、お終いだ。どうかな。』
右腕を、小さく軽く振ってみた。ぐらぐらしないで、ちゃんと付いて来る。
『…ありがとう。』
何だか…プリマには、ありがとうと言える気分になってきた。
『良かった…寝たくなったら、寝ても良いから。』
プリマは工具達を小さな箱に雑に帰し、定位置へ戻って行った。箱に座り、一段高い箱の上にまた工具を広げ、布のような物で磨き出す。
俺はそのまま寝床に座りながら、明日のことを考える。
明日やることは、一つだけ決まってた。決まってるけど…もう一つ、考えが増えた。今決まったことだ。
どちらも上手く行くか分かんない。上手く行かなかったら他を考えるしか無い。でも、上手く行ったら足掛かりになるんじゃないかって思ってる。
俺は寝床にボフッと横になった。別にまだ寝る訳じゃないけど、この方が考え易そうだったから。
まだ2日だけど、まだ2日なのにこの町で生きることを決めた自分が怖い。これって結構凄いことなんじゃないか?だって昨日はあんなに訳が分かんなくて狂いそうだったのに。
勿論、ずっと生きてく訳じゃない。脱出する為に生きるんだ。それだけは、絶対に忘れないから。
その為に…先ずは明日だ。
見てろよ、チェスタ…!
目が覚めたら、身体は痛くない。
臭いも、包まれてる内に全然気にならなくなった。身体を起こすと、差し込む光は鈍く柔らかくて、今日の空は雲に覆われてると知る。
『おはよう、ルクス。』
プリマは今日も先に起きてた。そして、積まれた箱の上には弁当が2つ用意してある。
『食べたくなったら、言ってくれ。』
そう言って、いつもの箱の上にちょこんと座ってる。こいつが何もしてないところを、初めて見たかも知れない。
『…食べる。貰っても、良いか?』
左手を差し出すと
『…うん。はい。』
心做しか少し柔らかく、一つの弁当と一つのフォークを差し出してくれた。
この町に来てから、3つ目の弁当だ。どれもとても美味い。味付けも美味いけど、一つひとつの食材その物の味が美味い気がするし、彩りも鮮やかだ。
でも、美味いんだけど…おんなじ味付けだ。盛り付けも似てる気がする。美味いから別に良いけど。
食べながら、2つだけプリマに質問した。
『なぁ…何でも屋って、もうやってるのか?』
『…え?』
プリマは微かに、虚を突かれたと言った顔をした。
『…まぁ、弁当屋もやっているんだから、やっているとは思う。家に居るかは、分からないが…。』
そうか。まぁ…何でもやるからには、出掛けて仕事をする時も有るのか。じゃあ取り敢えず家に行って、居なかったら聞き込みでもして探すか…?
『もう一つ、聞きたいんだけど。』
『何だ…?』
『俺が帰って来たら、話を聞いて欲しいんだ。』
『は…?』
今度は、訳が分からないと言いた気な顔をしている。
『聞いて貰っても良いか?』
これは昨夜、決まった考えだ。
プリマ…俺が、お前たちを見返してやる為に。
『……良い…けど…。』
流石のプリマもとても訝し気だ。
分かんなくても良い。協力さえして貰えれば。
『ありがとう。ごちそうさま。』
空になった箱にフォークを収めて、プリマに返して
『じゃあ、行って来る。』
『えっ?』
そのまま立ち上がった。
プリマの内心を予想してみる。
こいつ、3日目にして急に訳分かんないぞ!…とか?
『仕事が決まったら帰るから、話を聞いてくれ。』
扉を開けるとやっぱり空には雲が垂れ込めてて、俺は返事も聞かずに扉を閉めた。
プリマの驚いた顔、混乱した顔、訝しむ顔を一度に見られて、何だかまた一つスッキリした。
まぁ、プリマの浮かべる表情なんて大したこと無くて、何となく今まで一方的に押し付けられた不条理の仕返しが出来たかもって気分になってるだけだ。
静かに確かに波打つ海を眼下に湛えて、左に曲がる。
一昨日はその前までのことを何にも覚えてなかったのに、今日は昨日通った道を覚えてる。何故だろうか。ミズルだ…不条理だ。
小さな扉を沢山過ぎて、ガチャガチャの街並みを過ぎて、スカスカの階段を上る。3段だけの階段を上る。
多分、ノックした方が良いんだろうな。2回くらい、スプーンみたいに丸まった腕の裏で叩いてみた。カン、カンと、抜ける良い音が鳴る。
暫く返事も何も来ない。只…何となくバタバタしてる気はする。
ダダダッと急に足音がして、扉が開いた。
『……ルクス?』
出て来たのはチェスタの方だった。
『は……ルクス?』
後ろからビスカの声が追い駆けて来る。
『こんな早くに、何の用だルクス……仕事は、決まったのかー?』
チェスタは小さく口を開けたまま、通すかどうか躊躇ってるように見える。
どうやらチェスタの虚も突けたみたいだ。多分ビスカのも。お前ら、この程度で終わると思うなよ。
『仕事は…この後決まる。お前ら、何でも屋なんだろ。依頼がしたいんだ。中に入れてくれ。』
チェスタは明ら様に眉を顰めた。
『…仕事も始めてないやつが、この町の仕事の恩恵を受ける権利があると思っているのか?ベッドに運んだのも、一人前にしてやったのも…弁当が食べられるのも、全部プリマが世話してくれているだけなんだぞ。』
口角は上げながら、目の奥にチリッと圧が仕込まれてる。
『仕事は、これから始める。後払いだ。』
勢いで息を吐き掛けるように出て来た言葉。後払い。
でもきっと使い方はそんなに間違ってない筈だ。
『……後払い?』
チェスタが知らない言葉ってことは、きっと金に関する言葉なんだ。やっぱり使い方はこれで合ってる筈。
『チェスタ…そこで話しててもしょうがないだろ。入れてやったら…?』
助け舟が入る。ビスカの顔はまだ見えないが、どうやらあっちも結構引いてるみたいだ。
『…お前がそう言うなら。来い、ルクス。』
一瞬だけ、ニヤついてないチェスタに初めて会うことが出来た。嬉しい。俺のことをミズルという剣で切り伏せ続けたこいつらを揺さぶることが出来て嬉しい。
中に入ると、草の床にはまた寝床が敷きっ放しで、またビスカは座ってた。今日は服は落ち着けてるけど、髪はまた少し乱れてる。
『座れー…。』
促されて…昨日みたいに輪になって。昨日と同じ頃に昨日と同じ奴らで、昨日みたいだ。
下を確認しながら腰を下ろして、顔を上げたチェスタの口元にはもう笑みが帰ってきていた。
『ルクスー…俺とビスカの時間の邪魔をし、仕事も持たず、本当にその依頼は俺たちを動かすに足る内容なんだろうな…?』
『ちょっ…余計なこと言うな馬鹿!』
何故かビスカが俺を差し置いて怒る。でもチェスタはどうやらもっと先に怒ってるみたいだし、それを言ったら俺は昨日からずっと怒ってる。
『おい、何でも屋!』
ビッ!と、おたまの先を真っ直ぐにチェスタへ向ける。
わざとらしい、勿体振った立ち回りだと思う。プリマやチェスタの透かした口振りに影響されてしまってるのかも知れない。
『お前…さっき、昨日俺を一人前にして仕事を果たしたみたいな言い方をしたな。』
『…は?』
チェスタとビスカは呆け、俺に釘付けだ。
『俺はまだ一人前じゃない。この町じゃ、仕事が決まらないと一人前と言えないんだろ。俺を、一人前にしてくれるのは…お前なんだろ?』
ハッ、とチェスタの顔色がまた一つ変わる。
『おい待て、お前まさか』
『俺からの依頼だ…!』
分かったんなら、言葉を待つ必要は無い。
『何でも屋……俺を何でも屋に入れろ!』
嗚呼、そうだな。これは物語みたいなんだ。この勿体振ったわざとらしさは。
決め台詞って奴だな、これは。
この町の奴らも皆、物語でも演じてるのか?
ビスカはまだ呆けてるようにも、少し狼狽えてるようにも見える。
チェスタは明らかに顔を歪め不快感を露わにしてる。
ほんの数瞬、空気が凍った後で
『ルクス。』
チェスタが、口角は上げたまま口を開く。
『上手いこと言うんだなー、お前……唆られるー。』
へらっと微笑んだ。目を細め、確実に笑い、何を考えてるのかはよく分かんなくなった。
『俺とビスカの邪魔をする気か。』
意表を突かれた。何を言ってるんだこいつは?
家族や恋人の間なら兎も角、仕事の仲間は、邪魔ではなく助けになる存在の筈だ。
『邪魔って何だよ。よく分かんない。』
チェスタは一つ、はぁ、と呆れ果てたと言う溜息を吐いた。
『俺はビスカを愛しているから、俺たちの仲の邪魔をするなということだよ。』
『は…馬鹿!余計なこと言ってんじゃないっ!』
俺が反応するより早く、ビスカはチェスタに飛び掛かった。
何をそんなに怒ってるのか分かんない。
何だ。そうだったのか。もしかして、昨日の変な態度や朝出て来るのが遅いことも何か関係が有るのか?関係有るのかは分かんないが、ずっと変だとは思ってたんだ。
『…何が駄目なのか分かんないけど…別に俺、お前達のどっちにも興味無いし、邪魔にはならないと思うんだけど。』
ビスカはチェスタから手を外して何だか恥ずかしそうに声を上げようとしたが、急に面白そうに目を見開いたチェスタが先に話し出す。
『ははは!それはそれで心外だー……お前の、記憶を失いし価値観に助けられているのだな…。』
チェスタは今度は遠くを見て何かを馳せる為に目を細めた。
本当にこいつは何を言ってるんだ?まるで俺が記憶を失ってることで都合が良くなったみたいな言い方。そんなのこいつらが好き合ってるってことと何の関係が有るんだ?
『お前は何が出来るんだ?』
『は?』
チェスタはスイッチを切り替えるように、昨日みたいなニコニコふざけた顔に変わった。この質問も何だ?
『…俺はこの何でも屋の頭脳担当…小難しいことを考えてー、ビスカは…身体担当だー。』
身体?体力とか、力仕事とか、腕っぷしとかじゃなくて…身体?
『もういい加減にしろ…チェスタ…!』
ビスカは頭を押さえ、俯き、顔を赤らめている。何がそんなに恥ずかしいんだ?こいつはこいつでずっと分かんないな。
『お前は何の担当になれる?役に立つことじゃなかったら、どうしようも無いぞ。』
これも、意図を測り兼ねる質問だ。何言ってるんだ?頭脳とか、身体とか…何でも屋なんだから、決まってるだろ。
『俺は……何でも担当だ!』
『……ふは。』
俺の何がそんなにおかしいんだ?
『ははははははっ!ルクス、お前こんなに面白いやつだったのか!』
こいつが俺を馬鹿にし過ぎてるのか?
記憶が無い所為で俺は馬鹿になってしまったのか?
それとも俺は元々馬鹿なのか?
『ふふっ…ふははは…!』
チェスタは暫し顔を覆って笑いを隠し抑えた後、改めてこちらに向き直った。ほんの少しだけ真面目な顔をしてる。
『この面接の、最後の質問だ……お前、なんで何でも屋になりたいんだ?他にも職業なんていくらでもあるし、名乗ったもん勝ちでどうとでもなるとも言った筈だ。なぜ、一番最初に来るのが俺たち何でも屋なんだ?』
面接って、何のことだっけ?これが最後の質問ってことは、この質問が正解だったら、もしかして…何でも屋になれるのか?
何にせよ、正直に言う以外俺には思い付かない。俺は…!
『何でもやって……何が何でも、外の世界に帰りたいからだ!』
ビスカは、俄かには理解出来ないって言いたそうな、怪訝そうな顔をしてた。
チェスタは…面白がってるのか、訝ってるのか、嬉しいのか、怒ってるのか…どれともつかなくて、どれでもあるような。
でも、胡座の膝に手を置き直して
『何でもやったところで、外には帰れないぞ。それでも良いのか?』
チェスタの目が真っ直ぐ俺の目を突き刺す。
『絶対外に帰るから、構わない。』
俺だって負けない。チェスタの目を貫き返す。
俺だって、俺の方が、本気なんだ。
『……お前、子供みたいだなー。お前が諦めるまでだぞ。』
フッ、とチェスタの顔が緩む。いつもの、飄々とニヤついた顔…。
『チェスタ…マジなのか…?』
ビスカは口を開けるしか無いみたいだ。
チェスタの態度、ビスカの反応、二人の関係から想像すると…多分ビスカって、チェスタの無茶苦茶を沢山受け入れて来たんだろうな。何だか同情する。
『ビスカ…お前が言うならば白紙にした上で引き裂いてやっても良いが、どうする?』
何だよそれ。こいつはこいつで、ビスカに甘過ぎなんじゃないか?しかもその割にはよく怒られてるし。
『…や…俺は……別に、良いんだけど…。』
良いのかよ。ありがたいけど、やっぱりチェスタのこと受け入れちゃうんだな。よくよく思い返せばこいつら結局、話を進める時はお互いの間だけでやってる。
『お前ならばそう言うと思った。では、共にルクスを一人前にしよう……そう、ルクスは俺たちの子だー。』
『…は?』
は?
『夫婦が愛し子を独り立ちまで立派に育て上げるが如くー、俺たち2人の愛の力を合わせて、ルクスに出て行きたいと思わせようじゃないかー。』
『はっ!?何言ってんだよ馬鹿!お前本っ当に馬鹿っ!』
チェスタはいつの間にか間延びして調子を取り戻し、ビスカは顔を赤く染めチェスタを掴み喚く。
俺をどうするのかという話をしてる筈なのに、俺は最早…蚊帳の外って奴だ。
これが恋人…?これが恋って言う物なのか?
まるでお互いに、お互いのことしか見えてないような。
皆がこうなる物なのか?俺には、恋人は居たのだろうか…?
何にせよ、俺は面接とやらを突破したみたいだ。
出て行きたいと思わせるとか…
俺は既に出て行きたい気持ちで一杯だ。外に帰るんだ。お前たちの元なんて直ぐに巣立って、故郷に帰ってやる。
『ルクスー。』
呼ばれて焦点を戻すと…チェスタは、そう。プリマに向けてたそれに少し似てる。
これは、何て言うんだ……家族みたいな。そう。兄みたいだ。そんな眼差しで
『明日から朝イチで来いよ。』
そんな眼差しで、口元は変わらずニヤニヤしてた。
『…今日は良いのか?』
『今日は…家を探した方が良いんじゃないかー?』
チェスタはキョトンとした。確かに、仕事と家の2つが決まってこそ、ようやく新しい暮らしが始められるんだとは思うが。
『家は、考えが有るから多分大丈夫。』
仕事が望み通りに決まったのならば…家も望みを叶えてみせる。
帰って…プリマに話を聞いて貰うんだ。
『そうか…?まー、仕事は明日からで良いから、明日からは頼むぞー。あとは…必要なことはー、一つだけだ。』
チェスタは拳の指を1本立てて、口元に当てて見せた。1本は、どんな意味だったか…そのまま、1って意味か?
『俺とビスカの邪魔だけは、してくれるなよ。』
今までで一番、嘘っぽい笑顔。
『いい加減にしろよチェスタ!』
ビスカはずっと、何でチェスタに怒るんだ?
『…誰がするか。』
する訳が無いだろ。
『……はっは!心外だー。』
俺の方こそ心外だ。
俺にだって俺の愛する人が、きっと居た筈なんだ。
チェスタたちの下に付いて何でも屋をやりたいと思ったのには幾つかの理由が有って
一つはさっき言ったように、何でもやったら何か些細なことでも、外に帰る足掛かりが掴めるんじゃないかと思ったからだ。
もう一つは、一人で一から始めるよりも、チェスタ達が既に持ってる人脈が有った方が効率が良いんじゃないかと思ったからだ。何でも屋には人脈が大事だとは、チェスタが言ってたことだ。
更にもう一つは……不安だったからだ。
記憶が無いまま一人で街を歩くことに大きな勇気が必要だったように、何も知らない町で、何も記憶を持たずに、何でもやる仕事を一から始めることが恐ろしかったから。
チェスタたちの家から出ると、上から水が降っていた。
雫が、沢山、沢山、空から溢れて来る。
これは雨って奴だ。あの空に掛かる鈍色の雲が、涙のように垂れ流す物。
濡れながらプリマの家の扉を開けると、誰も居ない。拍子抜けだ。何か頭を拭く物でも無いかと部屋をぐるりと見回すと、丁度…
『あ……おかえり、ルクス。』
さっき閉じたばかりの扉をプリマが開けた。ずぶ濡れのプリマが。
『プリマも、おかえり。』
誰かが自分の元に戻って来てくれた時は、おかえりと言うべきだった筈だ。帰って来てくれた喜びを表し、感謝を捧げる為に。
『はい。』
プリマは箱の奥から布を引っ張り出して、俺に差し出した。
『拭かないと、風邪を引いてしまうから。』
『ありがとう…。』
風邪…?風邪って引くものなのか。多分良くない物なんだろう。
雑に頭を掻き回して、序でに右腕のがらくたの水分も軽く拭いてプリマに返すと、プリマもそれを使って水気を拭き取る。
プリマは、俺が他所から来た…客みたいな物だから気を遣ってるんだろうか?それともプリマって、元々優しい奴なんだろうか?
『仕事は…見付かったのか…?』
毛先に布を当てながら、プリマが話し出す。
『見付かった。だから、話を聞いて欲しいんだ。』
『え…良いけど…。』
プリマの瞳は怪しんでるようにも、少し怯えてるようにも見えるけど、結局それは微かなので定かではない。
プリマは箱に座って、俺は床に座る。
『俺、何でも屋になったんだ。』
『…そうなのか。』
プリマは少し不思議そうなものの、これ自体には特に驚いてないみたいだ。
でもプリマはまだ何も分かってない。
『何でも屋はこの町では珍しい…もしかしたらチェスタ達しか居ないかも知れない仕事だ。チェスタ達が行けない上層階の人々にはきっと喜ばれる仕事だと思う。何でも屋ということは、上の階でやるのか…?』
ほら、やっぱり分かってない。
『否、チェスタ達と一緒にやる。仲間に入れて貰ったんだ。』
『えっ!』
プリマの硬い顔の、目だけが大層丸くなって…直ぐにブツブツ俯き出す。
『意外だ……ビスカは兎も角…あのチェスタが…ビスカとの…そうなのか………本当に?』
プリマはきっと今までずっとあいつらが…特にチェスタが、お互いのことばかり基準にして生きてきた様子を見てるんだ。どのくらいずっとなのかは分かんないけど…。
幼馴染って言ってたけど、プリマ達は果たしてどれ程長い付き合いなんだろう。幼いって、幾つから幾つまでなんだ?
そんな不文律みたいな箱庭に、俺は今から割って入ろうとしてるんだ。
『だから、プリマ。頼みが有るんだけど。』
此処ぞとばかりにプリマの目に狙いを定めると
『は…?』
プリマは身構える。不審そうだ。
でも漠然と自信が泡を立ててる。チェスタ達に押し通したように、プリマにも協力して貰う。外へ帰る為に。
『俺をこの家に置いてくれないか。』
何でも屋を、チェスタ達の下でやると思い付いた時の発想と同じように
1人で暮らして1人で夜を過ごすなんて、想像出来なくて恐ろしかったということも理由の一つだ。
でも一番の決め手は昨日の夜で、プリマは俺の腕を修理してくれるから、きっと便利なんじゃないかと思ったんだ。
それに何より、あの感覚が……あの、大切な感覚を、忘れたくない。
今のところ、あの感覚が一番の、外の世界への足掛かりで…
唯一の拠り所だ。
『……ルクス…。』
プリマは困ってそうだ。と言うより…困惑してる?
表情は何とも言い難いが、口元に手を当てて、自分の膝と俺の顔とを交互に見てる。
そうしてやがて、膝だけを見詰めてから…俺の方へ目を戻して
『…外の世界でどうなのかは知らないが、この町では2人以上で居を共にする事はとても珍しいんだ。チェスタ達の部屋は広いが、普通は一つひとつの部屋はとても小さいし、夫婦でも近くの家で別々に暮らしたりとか…子供は小さい頃は共に暮らして育てるが、15才くらいで独り立ちしたら別の部屋で暮らすし、それを機に離れた階層へ移ったりする者も居る。』
何と無く納得出来ることが増えた。
チマチマした家が雑然と並ぶ街並みは、そういうことだったのか。
そしてプリマがこの年でこんな狭い部屋に独りで暮らしてるのも、そういうことだったんだ。
『プリマも、家族から独り立ちして此処で暮らしてるのか…?』
『私は…じいちゃんが死んだから。だからこの家をそのまま使って居るだけ。』
じいちゃん…?
プリマは少しだけ顎を上げて、何処か遠くに眼差しを向けた。
プリマの家族は死んでしまったんだ。家族が死んだことを思い出させてしまった。
『……なんか、ごめん…。』
プリマの表情は戻って、ちっとも崩れてないけど…
こういう時は、謝らなくちゃいけなかった気がする。
『否、全然大丈夫。だからこの家は窮屈でも、2人で暮らせる筈なんだ。』
プリマは、ちっとも表情を崩さないままで
『は…』
『…まぁ、じいちゃんと一緒に居た頃私は小さかったから、上の寝床で一緒に寝て居たりしたんだけれど。でも昨日や一昨日も2人で過ごせたのだから、どうとでもなる筈だ。』
『は…?』
そしてプリマは微笑んだ。
うっすらと、儚く、確かに微笑んだ。
『よろしく、ルクス。』
俺は昨日の、スーピーの輝く太陽のような笑顔を思い出した。
多分、可愛いってああいう物のことを言うんだった気がするけど…
『お前のこの町での暮らしに、幸多く有らん事を。』
多分、優しいってこの笑顔みたいな物のことを言うんだ。
プリマって、本当に優しい奴なんだ。
俺は今、優しくして貰ってる。
『じゃあ、弁当を貰って来る。』
『はっ?』
プリマは立ち上がり扉へ向かう。
『昼飯を、食べていないんじゃないか?』
『……あ、あぁ。』
言われてみれば確かに、多分飯時は優に過ぎてる。
腹ぺこと言う程ではないが、朝の弁当は大分腹から消えてる。
『ルクスも居るなら、いつもシブリーばかりではいけないかもな…。』
ぽつぽつ呟きながら、扉を開けようとするもんだから
『プリマ!』
慌てて呼び止めた。
言い忘れてた。否、言い逸れてたことが有る。
『…ん?』
何かを一緒にやる奴は、仲間だ。
『これからよろしく、プリマ。』
仲間になる奴には、よろしくと、言わなきゃならなかった筈だ。
プリマもそう言ってくれたのに。
さっきはプリマの優しさが嬉しくて、言い逸れてた。
『…うん。』
プリマはまた微笑んだような気もするけれど、さっきみたいな確かさが無くてはっきりしない。
そしてプリマは濡れるのも厭わず、まだ泣き続ける空の下へ出て行ってしまった…大丈夫なんだろうか?何だか申し訳無い気持ちで一杯だ。今度、何処に弁当を取りに行ったら良いのか教えて貰おう。仲間なんだから。
昨日までは俺のことを憐れみながら説き伏せようとしてきた奴らを、仲間にしてやった。
箱庭に割って入ってやったけど、それに関しては其処まで罪悪感が無い。
だってあいつらに、外の世界の素晴らしさを知らしめてやりたいんだ。
外へ脱出する為に何でも屋を
大切な記憶を離さない為にプリマと共に
そうやって俺は掴んでやる。我儘言って仕事と家を手に入れたように
理不尽を、呪いを、ミズルを
ぶっ壊して、そしてこの町から故郷へ帰るんだ。
***
じいちゃんが死んでから、恐らくもう6年が経っている。
寂しくは無い。1人では無いから。
否、きっとずっと1人だった。でも平気。家を出れば何でも屋と掃除屋と運び屋が居る。いつでも、私に笑顔を向けてくれる人が居ると確認出来る。
家に居ても、寂しくは無い。ミスケが居る。
ミスケは満月の夜にしか喋らない。でも、ミスケはいつでもこの家に居てくれる。
ルクスはもう眠りに落ちて暫く経っているみたいだ。私もさっき包丁セットの修理が終わって、明日の朝一番でシブリーに届けなくちゃいけないから、もう寝ないといけない。
ルクスを起こさないように梯子に手を掛け、足を掛け
そうして寝床の上には、ミスケが居てくれる。
『ミスケ……ミスケ。』
ルクスに聞こえないように、ミスケの聞こえぬ耳元で囁く。
ミスケは何を模したぬいぐるみなのかよく分からない。
くすんだ葡萄みたいな色の丸い頭、丸い耳、丸い腹。頭と胴を繋ぐ縫い目からは白いレースが生えている。目は右が緑、左が黄色いボタンで出来ている。
こんな動物が、外の世界には居たりするのだろうか。この町の動物はマミムしか居ないから分からない。
雨は上がったが薄曇り。でも光は朧気に差しているから、ミスケは答えてくれるかも知れない。
『ミスケ、ミスケ…。』
やはりちゃんと月が出ていないと駄目なんだろうか。月に一回、満月になる日にはこうして欠かさず話し掛けるけど…月が雲に隠れている時は、何と言うか区々なんだ。月が出ていれば必ず答えてくれるけれども、そうでは無い時は…まるで気紛れみたいだ。
『プリマ。』
諦め掛けてうつらうつらして、ミスケの声が聞こえてはっとした。
ミスケの声。少年のような少女のような、あどけないような凛としたような声。
『ミスケ…。』
『プリマ。待たせてごめんね。変わりないかい?』
そう。ミスケに報告したいって、思っていた。
『ミスケ、変わった事が有る。ルクスと共に暮らす事になった。』
『……ルクス?』
ミスケはぬいぐるみだから表情は分からないけれど、とても不思議そうだ。
『被害者なんだ…重症の。一昨日私が拾ってあげて、この家に置いてやっていたんだけど…そのまま一緒に暮らすことになった。今、下で寝て居る……だからじいちゃんが居た時のように、囁くように話して貰えたら助かる。』
『そうか……そうなのか。』
ミスケの声が少し小さく、優しくなった。
でも何処と無く僅かに、憂いを帯びている気もする。
『ミスケ……ルクスは、嫌…?』
ミスケはぬいぐるみの癖に、ハッと小さく息を吐いた。
『嫌じゃないさ。プリマが決めたことを、僕が嫌だと思うはずがない。』
ミスケは優しい。
『ただ…プリマのことが心配なだけだ。僕はプリマにこの町で、楽しさと穏やかさと…友達に包まれて、暮らして欲しいだけなんだ。』
ミスケは優しい。分からないけれど、私を見守る母のような、姉のような…若しくは付き慕う妹のような、そんな温かさが有る気がする。
『…ありがとう、ミスケ。大丈夫。ルクスもきっと、友達になるから…。』
少し遅くなり過ぎただろうか。何だか瞼が重くなってしまった。折角の、満月なのに…。
『…そうだね、プリマ。大丈夫。そう、大丈夫だよ。』
いつも眠りに落ちる前に唱えてくれる呪文。大丈夫。
ミスケはまるで魔法のように私の事を理解して、勇気を分けてくれる。
『大丈夫。心配しないで。何も、心配しないで。』
大丈夫。そう言って貰えるととても安心して、ゆっくりと微睡が襲って来る…。
『大丈夫。きっと僕たちは、いずれ会うことができる。』
…この夜が終わってしまう前に、一応また聞いてみよう。
『ミスケ…。』
『…何?』
『名前を呼んで…私の、名前…。』
何故かは分からないけれども、分かっている。
『……おやすみ。僕の、愛しの…欠片。』
そう。私はミスケの欠片。だから何故だか、私の名前を呼んではくれない。
ミスケはこんなにも私の側に居るのに…名前を呼んで貰えないだけで何故、こんなにも寂しいのだろうか。
『君は僕の欠片。つまり僕は、君の帰るべき場所だ。だからきっと…いつか僕たちは出会える。』
…いつかとは、いつなんだろうか。帰るとは、出会うとはどういう事なのだろうか。いつも不思議に思いながら、微睡に蝕まれる。
『おやすみ。僕の欠片。』
優しい声に寝かし付けられて、もう目が開かない。
言い包められているけれども、仕方が無い。ミスケは、いつか出会えると言っているのだから。
『………おやすみなさい、ミスケ。』
目を閉じたまま、諦めて
『…良い子だ。僕を抱いて、安らかにおやすみ。』
優しい声が寝かし付けてくれるのだから、寂しくは無い。満月の夜にはこうしてミスケがおやすみを言ってくれるし
これからはルクスも、おやすみを言ってくれるのだから。
ミスケの言う通りに丸々としたその体を抱いて、ミスケのお陰で、心安らかに…
きっと、大丈夫。今までそうだったように、これからもきっと、楽しさと穏やかさに包まれて…そうしていつか
いつかミスケに、出会ってみたい。
私がいつかミスケへ帰れるように、ルクスもいつか帰るべき場所へ帰る事が出来たら良いのにな…。
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