第6話

 流れた涙を拭おうと首を少し傾げ、取り出したハンカチを目元に押し当てていると、その場に立ち尽くすアリサの姿が目に入った。全身を覆うチューブやモニター類。開頭手術の跡を包帯で隠された母の顔。いつもと違う姿の母親に、アリサの小さな体が微かに後ずさった。


 知らぬ間に背後から私たちの様子を見ていた看護師が静かに制止の手を上げた。ミラノはイタリア北部の都市で、ドイツ語を話す人も多い。


「彼女は開頭手術を受けられたばかりです。ベッドを揺らさないよう、十分にご注意ください」


 看護師は専門用語を避け、アリサにも分かるような言葉で説明を続けた。


「お母様のお顔に触れることは避けてください。でも、手を優しく握ることはできますよ」


 私は恐る恐るエマの右手に触れた。点滴の針が刺さっていない方の手だ。指先は少し冷たかったが、確かな温もりを感じる。


「アリサ、おいで」


 私は軽くエマの手を撫でながら、アリサを招き入れるように声をかけた。

 アリサはまだ躊躇っていた。その目には怯えと、母親に触れたいという相反する感情が混ざっているように見えた。


 看護師が気を利かせて小さな椅子を持ってきてくれた。


「こちらに座って、ママの手を握ってあげてね」


 アリサは慎重に椅子に腰掛け、私が撫でていたエマの手に、おずおずと小さな手を重ねた。


 心拍モニターの規則正しい電子音だけが響く静寂の中、アリサはエマの手を握ったまま、じっと動かなくなった。


 深夜に近づくにつれ、窓の外のミラノの街並みが闇に溶けていく。医療スタッフは淡々と作業を続け、時計の針だけが確実に進んでいった。


「ゲルダさん」


 物音を立てないように近づいてきた主治医のルカが、私たちに向き直った。


「もう夜も遅いですし、アリサさんも疲れているはずです。そろそろお休みになることをお勧めします」


「ハンスが隣のホテルを予約してくれている。私は病院に残るから、二人で先に休んでいってくれないか」とトマスが言った。


 アリサが激しく首を横に振った。エマの手を握る力が強くなる。


「アリサ、聞いて」


 私はアリサの目線まで身を屈めた。


「エマは、きっとアリサの体を心配しているわ。アリサが元気でいてくれることが、エマの一番の願いよ」


 アリサの瞳に涙が溜まり始めた。


「だから、今は少し休もう? エマのために、アリサが休んで、元気な顔を見せてあげましょう」


 私の言葉に、アリサはゆっくりと頷いた。ただし、その表情には深い悲しみが刻まれていた。


「ゲルダ」トマスが近づいてきて、小声で言った。「それと……翔太にも連絡を入れた方がいいと思う。離婚したとはいえ、エマの元夫で、アリサの父親なんだから、知る権利があるはずだ」


 その言葉に、私の心臓が早鐘を打ち始めた。


 私は思わず左手でエマのベッドの柵を握りしめた。トマスの言葉の重みが、まるで鉛の塊となって胸に沈んでいく。


 集中治療室の薄暗がりの中で、エマの左手が目に留まった。看護師が外して保管していた結婚指輪。"Shota to Emma"という刻印の意味が、今になって重く心に迫ってくる。


 なぜ、エマは離婚後もあの指輪をしていたのだろう。


 記憶の中で、エマの笑顔が幾つも浮かび上がる。三世代で暮らし始めてからの、穏やかな日々。朝のコーヒーの香りと、アリサの笑い声が響く台所。ベランダに干された洗濯物が風にそよぐ午後。夕暮れ時に皆でテーブルを囲む夕食。


 でも、その記憶の隅には、時折エマが窓際で遠くを見つめる姿もあった。指輪を無意識に撫でる仕草も。


「ゲルダ?」トマスの声が私の思考を中断させた。


「ええ、そうね……」言葉を濁す私の横で、アリサがエマの手を握り直した。その小さな動きに、私は我に返る。


 もし翔太に連絡すれば——。想像の中で、エマと翔太が再会する光景が広がる。アリサが両親と暮らせる幸せな未来。でもその光景は、同時に私たちの今の生活が失われることも意味している。


 もし、最悪の事態になれば——。その考えが頭をよぎった瞬間、背筋が凍る。翔太が親権を主張し、アリサを日本へ。エマが目覚めても、もう私たちは——。


「そうね、ホテルから電話するわ」


 私は精一杯の冷静さを装って答えた。嘘だ。本当は、ただ怖かった。今の幸せが、砂の城のように崩れ落ちることが。


「ああ、よろしく……」


 トマスは深いため息をついた。


 アリサの手を取り、エマのベッドを離れる。数歩進むごとに、心が重くなっていく。振り返ると、アリサも何度も後ろを向いていた。


「Gute Nacht(おやすみ), Emma」声にならない声で、私は娘に語りかけた。


 そこには、目覚めたとき、私のこの選択を許してほしいという、祈りのような思いも込められていた。


 ドアが閉まる直前、最後に見たエマの姿が、網膜に焼き付いて離れない。


 病院からホテルまでは、わずか数分の道のりだった。


 エマやアリサの荷物は宿泊先に置いてあるようだが、それがどこなのかわからないので、アリサが着替える服がない。


「エマとアリサの荷物を取りに行かないといけないわね」


 エマとアリサの荷物の受け取りや、チェックアウトを済ませられるよう、彼女たち宿泊先は明日にでも調べないといけない。また、エマの容態についてハンスにも知らせないといけない。いや、それはトマスがやってくれるのかも……病院に到着するまでには考えもしなかったことが、ふつふつと頭の中に湧きだしてくる。それだけ私とトマスは焦っていたのだろう。


 ホテルに到着してチェックインをする際に、パジャマのレンタルをお願いした。鍵を受け取り、エレベーターに乗り込む。上昇する間、アリサは壁に寄りかかったまま、ずっと病院のある方角を見つめていた。


 アリサは全身の力が抜けたように、私の腕に寄り添って歩いていた。眼下に広がるミラノの街灯が、冷たい光を投げかけている。クリスマスシーズンを彩る装飾の数々が、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。


「シャワーを浴びてから休みましょう」


 部屋に入るなり、私はアリサの肩を優しく押した。アリサは疲れ切った様子で頷いたが、その目は生気を失ったようで、私の胸が締め付けられた。


 アリサがシャワーを浴びている間、私は持参した携帯電話の画面を開いたまま、動けずにいた。画面には翔太の古い連絡先が残っている。指が震える。削除しようと思いながら、結局できずにいた番号。


 シャワーの音が止まり、アリサが出てきた。パジャマに着替えたものの、髪は半濡れのままだ。


「アリサ、こっちに来て」タオルを手に取り、私はベッドの端に座った。


 アリサは黙ったまま私の前に立ち、背中を向けた。昔からの習慣だった。


 私が髪を拭いてあげると、アリサの肩から少しずつ力が抜けていくと、ようやく欠伸が出た。でも、アリサの小さな背中は時折震えていた。


「横になりましょう」


 アリサはベッドに入ったが、眠ろうとはしなかった。枕に横たわったまま、病院のある方角を見つめ続けている。私は隣に座り、アリサの背中を撫でた。

 やがて、アリサのスゥスゥという寝息が聞こえてきた。


 時計の針が深夜を指す。スマホの画面が、闇の中で青白く光る。

 今ここで翔太に電話すれば、彼は文字どおりミラノに飛んでくるだろう。アリサは父親に会えるに違いない。


 通話開始を示す緑のボタンを押そうとする指が震える。


 離婚した翔太からもらった結婚指輪を大切にしているくらいだ。エマが目覚めたとき、そばに翔太がいれば、きっとエマも喜ぶだろう。


 画面が消えた。慌てて、ロック画面を解除する。


 でも、そうしたら私たちは——


 再び画面にアドレス帳のShota Shijoの文字が暗闇に浮かび上がる。


 思考が堂々巡りを始める。エマの左手から外された結婚指輪が、まるで目の前に浮かぶかのように鮮明に思い出される。


 窓の外では、ミラノの夜景が煌々と輝いていた。近くに見える病院の一室で、エマは今も眠り続けている。


「Emma……」思わず声が漏れる。「Vergib mir(許して)」


 スマホの画面が、ゆっくりと暗闇に溶けていった。

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星降る食卓 FUKUSUKE @Kazuna_Novelist

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