第5話
集中治療室から出てきた看護師に連れられ、警官二名とトマスが先に入っていった。私もエマの容態が心配だったが、空港まで迎えに来てくれた警官たちが親族による身元確認を優先したいと言うので、待合室で待つことにした。
警官たちが出てくるのを待つ間、私は隣の椅子に座ったアリサに目を向けた。
「晩ごはんは、食べた?」
アリサは私の目を見上げ、ゆっくりと首を左右に振った。
午後二時頃の事故から、既に六時間以上が経過している。空腹を感じていてもおかしくない時間だが、これも精神的なショックの影響かもしれない。
アリサの声を取り戻すために最も望ましい状況は、エマが元気な姿でアリサの前に現れることだろう。だが、ルカ医師の説明を聞く限り、完治までには数か月の期間が必要になるはずだ。十歳の少女の心を癒し、日常を取り戻してもらうには、いったいどうすればいいのだろう。
「アリサ、眠くないの?」
夜の九時前という時間を考えると、そろそろ眠気が襲ってもおかしくない。
たった二日前まで普通に会話を交わしていたというのに、今は何を話しかければいいのか分からず、つい表面的な言葉ばかりが零れ出る。
アリサは先ほどと同じように首を横に振った。
話そうともせず、ただ機械的に首を振る仕草には、言葉を発することそのものを諦めてしまったような印象さえ受けた。
「お昼寝をしたの?」
また首を横に振る。
「たくさん泣いて疲れているんじゃないかしら」
再び首を横に振るアリサだが、頬には涙の跡がくっきりと残り、瞼は明らかに腫れていた。
「そう……」
疲れていないはずがない。眠くないはずがない。でも、おそらく——眠れないのだ。十歳の私が同じ立場なら、瞼を閉じた瞬間に母親が跳ねられる光景や、倒れて動かなくなった母親の姿が蘇って、とても眠れないだろう。
どうしてアリサがこんな試練に直面しなければならないのか——私は胸が締め付けられる思いで孫を抱き寄せ、柔らかな髪を優しく撫でた。
小さな肩が微かに震えている。その華奢な体が、どれほどの恐怖を抱え込んでいるのか想像すると、心が引き裂かれそうになる。少しでも支えになりたいと願うのに、こんな状況では私の存在すら届かないのかもしれない。自分の無力さが、静かに、そして容赦なく突きつけられていた。
三分ほどで扉が開き、沈痛な面持ちのトマスと、空港から付き添ってくれた警官二名が出てきた。
「治療中の患者がエマさんであることを確認いたしました。ご協力ありがとうございました」
警官たちはトマスと私に向かって姿勢を正すと、女性警官が代表して告げた。
「親族による身元確認が済みましたので、私どもはここで失礼いたします。何かございましたら、ミラノ市警察までご連絡ください」
「お迎えいただき、ありがとうございました」
二人は装備品が立てる金属音を廊下に響かせながら、エレベーターホールへと消えていった。その音は次第に小さくなり、やがて完全に消え失せた。
しんと静まり返った家族待合室には、私とトマス、アリサだけが取り残された。
トマスは深いため息をつき、肩を僅かに落とした。
「どうしたの?」
「いや、どこの国でもそうなんだが……警察官がいると緊張するんだよ」
「悪いことしてないのにね。なんだか落ち着かないものね」と私は小さく微笑んだ。
トマスも一瞬だけ表情を緩めたが、すぐに強い意思の込められた眼差しで私を見つめた。
「さあ、ゲルダ……エマに会いに行こう」
トマスの瞳には決して諦めないという覚悟が宿っており、その視線に、私もまたエマと向き合う決意を新たにした。
「アリサもおいで」
トマスは無理に明るく振る舞おうとしたが'、その目には、エマの容態が心から笑える状況ではないことが染み出ていた。その表情の不自然さに、これから目にするであろう光景の深刻さを、否が応でも予感させられる。
アリサが小走りでトマスに駆け寄ると、トマスは逞しい腕で孫娘を軽々と抱き上げ、安心させるようにしっかりと支えた。その姿には、年を重ねても頼もしい男の力強さが溢れていた。日々、料理人として小麦袋や練り上げた生地を扱う腕は、今や孫娘を守る盾となっていた。
その腕に包まれて、アリサの表情が僅かに和らいだ。
今度は看護師の案内もなく、トマスがアリサを右腕に抱えたまま扉を開いて集中治療室へと足を踏み入れる。分厚い扉の向こう側は電子音が響き、部屋全体に緊張感が漂っていた。
集中治療室に入って十メートルほど進んだところで、「限界だ……」とトマスが呟き、アリサを降ろして手を繋ぎ直した。その手の力加減は、先ほどまでアリサを抱いていたとは思えないほど慎重で、それでいてアリサに安心感を与えるように、しっかりと握られていた。
トマスの向こう側に、半分だけカーテンの引かれたベッドが見えた。
私は直感的に、そこにエマがいることを悟った。
トマスがゆっくりと歩を進める。一歩後ろを行く私の心臓は、自分でも聞こえるほど激しく、早鐘のように打ち続けていた。
予感は的中した。半分だけカーテンの引かれたベッドサイドにトマスが辿り着いた瞬間、私は息を呑んだ。
見慣れない医療機器に囲まれた異様な空間に、全身をチューブで覆われた女性の姿があった。その顔は包帯で隠され、酸素マスク越しにわずかに肌が覗いていた。
目の前で横たわるエマの姿を目にした瞬間、言葉にならない悲鳴が心の底から湧き上がってきた。これが本当に、あの明るく笑顔の絶えなかったエマだなんて、どうしても信じられない。
本当にエマなの?
信じたくないという思いが頭の中を駆け巡る。
そうだ、トマスにどうやってエマだと確認したのか……。
「開頭手術の際に、頭髪を剃ったそうだ。この髪の束が、その証拠だ」
トマスは悲しげな目で、テーブルに置かれた毛束を手に取った。
それは、私と同じプラチナブロンドの髪だった。染色ではないことは、ベッドで横たわる女性の残された髪を見れば一目瞭然だった。
「それと、これもあった……」
「それは!」
トマスが手にしたのは、左手薬指から外された結婚指輪だった。リングの内側には、"Shota to Emma"という小さな文字が刻まれていた。
離婚以来、エマが指輪を着けているところを見たことがなかった。料理人という職業柄、指輪は食器類を傷つけやすいという理由もあるだろうが、既に離婚している以上、着ける意味もないはずだ。しかし、結婚当時に暮らしたミラノの街。そこでの友人の結婚式となれば、翔太との関係について尋ねられることもあるだろう。指輪があれば、結婚式の場で離婚の話をする必要もない。
もしかして、エマは今でも翔太に対して特別な想いを抱いているのかもしれない——でも、それならどうして私に打ち明けてくれなかったのだろう……。
もっと娘が元気な状態で入院しているだろうとどこか期待していた私は、現実を突きつけられ、慌てて意識を切り替えた。包帯に覆われた顔で、無防備にベッドに横たわるエマを見つめているうちに、大粒の涙が頬を伝って落ちていった。
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