第4話

 夜の八時を過ぎ、病院の出入口は救急外来のみが開いていた。自動ドアが静かに開くと、冷たい静寂が私たちを迎え入れる。


「この病院は、ミラノで最も新しく、最先端の設備を備えているそうです」


 女性警官の言葉は私たちへの配慮に満ちていたが、一刻も早くエマとアリサに会いたいという焦燥感を和らげるには至らなかった。


 受付を済ませ、警備員の視線を背に、私たちは警官の後を追う。救急外来の脇を通り過ぎながら、イタリア語と英語が混在する案内板の文字を追った。警官の装備が立てる金属音だけが、静まり返った廊下に響く。不安と焦りで、歩く距離が際限なく伸びていくように感じられた。


「エマはどこだ?」


 トマスの声は緊張で硬くなっていた。


「四階の集中治療室です。今、そちらに向かっております」


 角を曲がると、エレベーターホールが現れた。小さな扉が開くと、私たちは無言のまま上昇を始めた。四階に到着すると、静寂はより深まり、人影のない廊下には警官の装備が立てる金属音だけが空虚に響いていた。


 壁に記されたICUの文字に、自然と肩に力が入る。エマとアリサに会えるという小さな安堵感はあるものの、二人の負った傷の深さを思うと、喜びようもなかった。


 最奥部に到着し、警官が扉のボタンに触れた時、モーターの音が異様に大きく感じられた。正面には集中治療室への扉があり、隣のガラス窓越しに、忙しく行き交う看護師の姿が見える。


 右手の家族待機室に目を移した瞬間、私の心臓が跳ね上がった。並んだ椅子の端に年配の女性警官が立ち、その隣で、腰まで伸びた銀色の髪の少女が膝を抱え、うつむいていた。


 四年間共に暮らし、たった二日前まで同じ屋根の下で過ごした孫娘の姿を、見間違えるはずがなかった。


「アリサ!」


 思わず声が漏れた。しかし、アリサは反応を示さない。ただ顎を膝に載せ、虚ろな眼差しで宙を見つめているだけだった。幾度も流した涙の跡が、頬に筋を作っている。


 トマスも遅れて声をかけたが、アリサは身動きひとつしなかった。年配の警官が身元確認を求め、トマスが答える声が遠くに聞こえる。

 私はもう抑えきれず、手にしていたボストンバッグを落とし、アリサの前にかがみ込んだ。目線の高さを合わせ、「アリサ、おばあちゃんよ」と、もう一度呼びかける。


 アリサはゆっくりと顔を上げ、私の顔を無表情に見つめ、続いてトマスへと視線を移した。アリサの隣に立つ年配警官が、発見時からこの状態が続いていると説明する。その柔らかな物腰に、子育ての経験が感じられ、不思議と心が和んだ。


 アリサは相変わらず膝に顎を載せ、遠くを見つめている。その視線の先に何があるのか、私には想像すらできない。事故の瞬間を何度も反芻しているのか、それともエマと過ごした日々を思い返しているのか。十歳の少女の心の中で今、何が起きているのか、私には理解できなかった。


 膝を抱えるアリサの小さな手が微かに震えている。普段なら、スマートフォンを操作したり、エマと料理を作ったりする指先が、今は自分の腕を強く掴んでいた。まるで、そうしなければ自分が消えてしまうかのように。


「大丈夫よ。エマは強いから」


 両腕でアリサを包み込みながら、耳元で囁いた。抱きしめた途端、その体の硬さに胸が痛んだ。いつもなら柔らかく身を預けてくる孫娘が、まるで石像のように硬直している。事故の瞬間、この小さな体はどれほどの恐怖を味わったのだろう。


 アリサの顔を両手で包み、私と目が合うように向き直させると、睫毛の根元にまだ零れきれていない涙が光っているのが見えた。四年前、エマと別れてドイツに来た時も、アリサはこうして涙を堪えていた。しかし、あの時と今では、涙の重さが違う。


 アリサが数回まばたきを繰り返し、不思議そうに首を傾げた。まるで深い眠りから覚めたような仕草に、その瞳から虚ろさが消え、代わりに現実を受け入れることへの恐れが浮かんでいた。


「連絡を受けて、急いで来たのよ」


 その言葉を聞いた途端、アリサの表情が歪み、小さな肩が震え始めた。次の瞬間、彼女は私の胸元にしがみつくようにして泣き崩れた。何度も涙を拭った跡のある指が、私の服をぎゅっと掴んでいる。


 震える背中をさすりながら、私は娘のエマを思った。幼い頃から負けず嫌いで、何事にも真っ直ぐに立ち向かっていったエマ。きっと今回も、必ず乗り越えてくれるはずだ。


 トマスがアリサに水を勧めると、彼女は私の胸元から少し顔を上げ、小さく頷いた。震える手でペットボトルに伸ばされた指を、私は両手で包み込んで支えた。


「ゆっくりでいいのよ」


 アリサが少しずつ水を飲む様子を見守りながら、トマスと目が合う。夫の瞳に浮かぶ深い憂いは、きっと私の目に映るものと同じなのだろう。


「あの、ご家族の方?」


 ガラス窓から看護師が手を振り、トマスが応対する。「担当医が来てくれるそうだ」という夫の言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。これから聞く説明が、良い内容であることを祈るしかない。知らず知らずのうちに、アリサの手を握る力が強くなっていた。


 しばらくして、集中治療室のドアが開き、白衣の男性が姿を現した。エマに会えると思うと不安で胸が潰れそうになり、アリサの小さな手を握る腕に更に力が入った。


「エマ・シェーンコフのご家族の方ですか?」


 男性が警官に向かって尋ねる。警官が私たち家族を紹介すると、男性は自らを担当チームのリーダー、ルカ・ブランビッラと名乗った。


「早速で申し訳ないが、娘の容態を」というトマスの切実な問いかけに、ルカは「単刀直入に申し上げます」と応じ、私たちにソファへの着席を促した。


 ルカは私たちが腰を落ち着けるのを確認してから、重い口を開いた。


「現在、彼女は非常に危険な状態にあります」


 思わず唾を飲み込む音が漏れた。横目で見ると、トマスは喉の渇きを紛らすように慌ててミネラルウォーターを口に含んでいた。


「エマは脳と内臓に重度の損傷があり、危険な状態です。手術は成功しましたが、予断を許しません」


「そ、そんなに酷いのか……」トマスの声が掠れた。


 ルカは黙って頷き、脳挫傷による開頭手術の実施、頭蓋内の血腫除去、損傷組織の摘出について説明を続けた。障害が残る可能性、開腹手術による内臓の部分摘出と縫合についても、淡々と語られる。


 私たち夫婦には専門的な医学用語の理解は難しい。それを英語で説明されては、なおさらだった。ルカの言葉は耳に入っているものの, 頭の中で意味をなさない。


「手術は成功していますが、安心はできません。些細なことで容体が変わる恐れもあります」

「そ、それで、エマはどうなるんだ?」


 トマスが掠れた声で尋ねる。医学的な説明は理解できなくても、結論だけは知りたかった。私も「そう、エマはどうなるの?」と、すがるように聞いた。


「最善は尽くしましたが、ここからは彼女の頑張り次第です」


「そ、それは……」トマスの言葉が途切れた。


 医師として本当に最善を尽くしてくれたのだろう。これからは、医師も、私たち夫婦もエマが生きようとする力を支えることしかできない。すべては、エマの強い意志にかかっているのだ。


「より詳しい説明の時間を設けますが、まずはエマに会われますか? 看護師を呼んでまいりましょうか」


「はい、お願いします」トマスが答えた。


 ルカの説明を聞いても、エマがどんな姿でベッドに横たわっているのか、私には想像すらできなかった。

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