第3話

「トマス・ショーンコフと、ゲルダ・ショーンコフですか?」


 ドイツ語で声をかけてきたのは、凛とした佇まいの女性警官だった。規定の長さに整えられた栗色の髪、きっちりと手入れされた制服の襟元が、彼女の几帳面な性格を物語っている。その傍らには、白髪交じりの口髭を蓄えた年配の男性警官が、静かな存在感を漂わせながら控えていた。


「はい、そうですが……警察がどうして?」


 トマスは眉を寄せながら応える。


「エマの身元確認をお願いしたく、お迎えに参りました」


 女性警官の声は柔らかいが、芯の通った響きを持っていた。おそらく外国人観光客への対応に長けているのだろう。時折、年配の同僚と視線を交わしながら、私たちの様子を注意深く観察している。彼は無言で頷くばかりだが、その仕草には長年の経験が醸し出す確かな落ち着きが感じられた。


 ドイツからの老夫婦が迷うことなく病院へ辿り着けるよう、入国審査官との事前の連携を経て、このような手配がなされたのだろう。しかし、身元確認が必要というその言葉に、不吉な予感が胸を掠めた。


「エマの……容態は?」


 恐る恐る、私は問いかけた。


 女性警官の表情が一瞬曇る。「現在、集中治療室での治療を受けておられます。詳細は病院のスタッフからご説明させていただきます」

 事務的な口調で返答する彼女の声に、何か重苦しいものが感じられた。


「君はエマの容態を知らないのかね?」


 トマスの声には苛立ちが滲んでいた。


「申し訳ありません。エマは集中治療室におられ、私どもは上司の指示に従って行動しているだけでして……」


 女性警官の言葉には微かな後悔の色が混ざっていた。


 そうか。この警官は私たちを出迎えるよう指示されただけで、エマの実際の容態までは把握していないのだ。


「トマス、焦っても仕方ないわ」


 トマスを宥めると、意外に素直に聞いてくれた。同じように女性警官の立場を理解したのかも知れない。


「申し訳ありません。私たちも情報が限られていて……」

「いいえ、ご心配なさらないでください」


 女性警官は優しく微笑んで返した。


「お二人には、アリサというお孫さんがいらっしゃいますね?」

「アリサが……アリサがどうかしたの?」


 エマのことも心配だが、一緒にいるはずの孫娘の情報が全く入ってこなかったことに気づき、私は切迫した声で尋ねた。十歳の幼い孫が、母親の事故を目の当たりにしたと思うと、胸が締め付けられる。


「アリサも身元確認が必要です」女性警官は言葉を継ぎ、「エマが確認できる状況ではないため」と申し訳なさそうに付け加えた。「ただ、アリサは軽い擦り傷程度と伺っております」


 その言葉に、一瞬だけ安堵の息をつく。


「では、車に向かいながら、続きをご説明させていただきましょう」


 二人の警官に挟まれるような形で歩き始める。何も悪いことはしていないのに、周囲の視線が気になって、つい俯いてしまう。


 女性警官は歩きながら、静かに事故の状況を説明し始めた。


「午後二時ころ、ミラノ旧市街で開かれていたマーケットに、酩酊状態の外国人観光客が運転する車が猛スピードで進入し、アリサを庇ったエマが……」

「運転していたのは、どこの国の奴だ?」


 トマスの拳が震え、顔は怒りで紅潮していた。


「犯人は『俺は日本人だ!』と、喚いていました」

「日本人がそんなことするわけないわ」


 私は即座に否定した。エマの元夫は日本人で、誠実そのものの人だった。彼の友人たちも皆、礼儀正しく、酒を飲んで運転するような人がいるとは考えられない。


「はい。パスポートと免許証の確認により、日本の隣国に籍があることが判明しています。現在、ミラノ市警で身柄を拘束し、取り調べを進めております」

「なんて卑劣な……人を轢いておきながら、出身を偽って誤魔化そうとするなんて……」


 トマスの声が震える。


「お気持ちはお察しします」

「どうか落ち着いて」


 警官たちは、激昂するトマスを宥めようと優しく声をかける。不思議なことに、夫が火山のように怒りを噴出させる一方で、私の中の感情は次第に凍てついていくような感覚があった。


 パトカーは静かに発進した。他人の視線を意識してか、車内に入ったトマスは徐々に冷静さを取り戻していく。その様子を確認するように、女性警官は言葉を継いだ。


「エマの容態については病院の医師から詳しくご説明があるかと。そして、アリサのことですが……」


 再び、彼女の言葉が途切れる。

 先ほどの説明では擦り傷程度と聞いていたはずなのに。


「言葉を……失ったようです」

「ど、どういうことだ?」


 トマスが再び興奮気味に問い返す。前席のシートを大きな手で掴み、顔が紅潮している。


「詳細は医師からお聞きください。ただ、失語症ではなく、精神的なショックが原因かと聞いております」

「まさか……」

「私どもの言葉は理解できているようです。ただ、声を出そうとしても出ない状態とのこと。看護師の報告では、アリサは『ママ』という文字を書こうとされましたが……途中で手の震えが止まらなくなってしまうようです」


 バックミラー越しに、女性警官の憂慮に満ちた視線が私たちに向けられる。


「アリサは……いつもはとても活発な子なのに」


 私の声が震える。つい先日まで、家の中に響いていた孫の明るい声が、今は遠い昔のように感じられた。


「看護師からは『アリサの意識ははっきりとしており、首を振ったり、頷いたりすることで意思表示は可能です』と聞いております。ただ……」

「ただ、何?」

「誰かが声をかけると、まるで凍りついたように体を強張らせ、俯いてしまうとのことです」

「なんてことだ……」


 トマスの呻くような声が、重たく車内に響く。


 目の前で母親が事故に遭った衝撃が、アリサの幼い心を凍りつかせてしまったのだ。


 車内は深い静寂に包まれた。言葉を失った孫娘のことを思い、胸が張り裂けそうな私たちに、警官たちもかける言葉を見つけられないようだった。


 私は窓の外の暗闇を見つめながら考えた。エマの容態も気がかりだが、声を失ってしまったアリサに、私は一体何ができるのだろう。想像を絶する深い傷を負った幼い心に、どう寄り添えばいいのだろう。


 高速道路を走る車窓の外は、すっかり闇に包まれていた。うっそうと茂る森の木々が、黒い影となって車を包み込む。人工の明かりも少なく、ただ漆黒の闇が続いていた。


「あ、前方に病院が見えてまいりました」


 木々の間から、白壁とガラスで覆われた巨大な建物が姿を現す。隣でトマスが唾を飲み込む音が聞こえた。エマの状態が分からないまま、夫も私も張り詰めた緊張の中にいた。喉の渇きを感じながら、私たちは病院に近づいていく。


 パトカーは高速を降り、新興住宅街を抜けて病院の敷地に入った。空港を出てからの時間は実際には二十分ほどだったが、その一瞬一瞬が永遠のように感じられた。


「病院が空港に近くてよかったです」


 女性警官の言葉に、私たちは無言で頷くことしかできなかった。


 車は広大な病院敷地を滑るように進み、最も大きな建物の救急外来の前で静かに停車した。


 扉を開ける手が、微かに震えていた。

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