第2話
クリスマスまであと三日。私は窓辺で電飾の取り付けに没頭していた。夫のトマスと娘のエマには店の営業があって、ここ数年のクリスマスの準備は私と孫のアリサだけでやってきた。でも今年は友人の結婚式でエマとアリサはミラノに行っている。
クリスマスマーケットで選んだ電飾が柔らかな温もりを放つ。シンプルながら心温まる光が、窓枠や玄関先を優しく縁取る。ひとりでの作業は少々骨が折れるものの、アリサの喜ぶ顔を思い浮かべれば気にならない。
夢中で飾り付けに励んでいると、頭上に分厚い雲が忍び寄っていた。スマートフォンで時刻を確認する。
「雨が降りそうね。もう三時だし、少し休憩にしましょうか」
リビングに入ると、暖炉脇のアドヴェンツカレンダーが目に留まり、二日前の会話が鮮やかによみがえった。
『おばあちゃん、私がいない間は代わりに食べていいよ』
『まあ、全部食べてもいいの?』
『一日一個までよ』
十歳の少女らしい気取った仕草で、アリサは両手を腰に当てて言い切った。
『それ、私がいつもアリサに言ってる台詞じゃない』
エマが苦笑する声に、私は遠い記憶を掘り起こしていた。
『あら、エマが小さい頃は、私があなたにそう言っていたのよ』
『え、そうだった?』
笑いが連鎖のように広がり、三世代の会話が温かく響き合う。かつて娘に向けた言葉が、今は孫娘へと受け継がれている。時の流れの不思議さに、胸の奥が熱くなった。
「出発してまだ二日なのに、こんなに懐かしんでいるなんて」
まるで寂しがり屋の老婆のよう。でも、本当はそうなのかもしれない。エマがミラノで修行していた時も、同じように過去を振り返っていた。子どもの成長と共に募る寂しさは、母親の宿命なのだろう。今はアリサの存在が、その寂しさを優しく癒してくれている。
アドヴェンツカレンダーの今日の窓を開け、中のチョコレートを口に運ぶ。子ども向けの甘いミルクチョコレートが、ゆっくりと舌の上で溶けていく。この優しい甘さは、エマの幼かった頃と変わらない。母から娘へ、そして孫へと世代を超えて紡がれる、小さな幸せの味わい。
「疲れた時は、甘いものが一番ね」
帰ってきた時に五個も食べなければならないくらいなら、アリサも許してくれるはず……と苦笑する。アリサのチョコレートをいただく些細な後ろめたさを、自分へのご褒美だとか、アリサのためだと誤魔化した。けれど本当は、早く二人に帰ってきてほしいという想いを、この甘さで紛らわせているのかもしれない。孫ができても、母親の心配性は変わらないものだから。
コーヒーマシンが唸りを上げ、できたての香りが部屋に広がる。その後訪れた静寂が妙に寂しく、鼻歌を口ずさみながら、コーヒーと自家製のベトメンヒェンをソファまで運んだ。
ベトメンヒェンを一つ手に取り、優しく齧る。薔薇の香りが漂い、しっとりとしたマジパンとアーモンドの食感が口の中で調和を奏でる。ナッツの芳醇な風味と砂糖の甘みが、舌の上で溶け合っていく。
「やっぱりクリスマスにはこれね……」
コーヒーに手を伸ばした時、テーブルのスマートフォンが鳴る。画面には夫トマスの名前があった。今はクリスマス前の繁忙期だから、シュトーレン作りなどに追われているはずなのに。
「どうしたのかしら」
首を傾げながら通話ボタンを押し、耳の遠くなった自分のためにスピーカーモードに切り替える。
『ゲルダ、ゲルダ!』
トマスの声が、異様な切迫感を帯びていた。
「こんな時間に珍しいわね。何かあったの?」
『今、ミラノ警察から連絡が——エマが事故に遭ったらしい』
「エマが、事故?」
その瞬間、世界が色を失った。指先からコーヒーカップが滑るように落ちていき、中身のコーヒーと破片がゆっくりと散らばる。
カップの破片を虚ろに見つめていると、自分の心臓の鼓動だけが異常に強く響く。トマスの声が、遠い水底から聞こえてくるようだった。
『ゲルダ、聞こえているか?』
「ええ、聞こえてるわ……でも……」
自分の声が震えているのが分かった。まるで他人の声のように。
『詳しいことは後で話す。店はハンスに任せて、今すぐ家に向かう。お前は荷物を準備してくれ。ミラノまで飛ぶぞ』
「荷物って、誰の……」
『俺とお前の荷物に決まっているだろう!』
怒りを含んだトマスの声が突き刺さる。
「エマは……エマは大丈夫なの?」
震える声が、不安を露わにする。
『病院に運ばれたことは分かったが、他は不明だ。とにかく急いでくれ』
「アリサは? アリサはどうなの?」
『おそらく同じ病院にいるはずだ』
電話の向こうでトマスの声が沈む。『くそっ、どうしてこんなことに』という呟きには、普段の温厚さは微塵もなく、緊張が滲んでいた。
突然の事態に、何を持っていけばいいのか、頭が整理できない。
『現地で買えるものは現地で調達する。パスポートとエマの健康保険カードを用意しておいてくれ』
「着替えは?」
『余裕があれば鞄に入れておいてくれ』
用件だけを告げて、トマスは電話を切った。
「どうして、こんなことに……」
暖炉の火がパチパチと音を立てる中、私はただ立ち尽くしていた。
トマスが帰宅し着替えを済ませると、私たちは空港へと向かった。息子のハンスが店を任され、ドイツ政府やイタリアのドイツ総領事館への連絡、諸手続き、そしてホテルの手配まで引き受けてくれていた。
フランクフルトからミラノ・リナーテまでのフライトは約一時間半。しかし、車での移動時間や空席待ちもあり、ミラノに到着したのは午後七時を回っていた。それでも鉄道より数時間は早い。
普段なら観光客で賑わう到着ロビーが、今は重苦しい空気に包まれているように感じられた。手荷物を受け取り、到着ゲートへ向かおうとした私たちを、入国審査官が呼び止める。
IDカードとパスポートを提示すると、厳かな面持ちの入国審査官が出口へと案内した。そこには警察官らしき男女が二人、私たちを待っていた。
※アドヴェンツカレンダー
十二月の各日付のところにチョコレートが入ったカレンダー。
クリスマスを楽しみに過ごすため、日めくりのようにその日のところを破ってチョコを食べます。
※ベトメンヒェン
フランクフルト地方で一般的なクリスマス菓子。
マジパンとナッツで作るので、家庭でもよく作られている。
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