葛藤と贖罪
FUKUSUKE
嘘
第1話
大晦日のおけら
鍋の中で踊るように茹で上がった蕎麦をざるに引き上げ、丁寧に湯を切る。温めておいた丼に蕎麦を盛り、別の鍋で煮込んだ鴨肉と九条ネギをたっぷりと添えた褐色のそばつゆを注ぐ。途端に、表面を焼いてから煮た鴨肉と、そばつゆの鰹だしの香りが店内に満ちる。
誰もいない店内で、テーブルに腰を下ろし、静かに手を合わせる。
「いただきます」
まずは丼を両手で包み込むように持ち、つゆを啜る。九条ネギの清冽な香りと、鰹だしの深い風味が鼻腔を抜けていく。右手の箸でしなやかな蕎麦を二、三本摘み上げ、優美に手繰る。手繰った麺と薄切りにした鴨のロース肉を一枚、箸で摘んで丼の縁から滑らかに啜り込む。弾力のある鴨の身には僅かな獣臭さが残るものの、九条ネギの清冽な匂いがそれを優しく消し去り、遅れて蕎麦の香りが鼻腔を満たしていく。
その温もりに一日の疲れが溶けだし、思わず「ほう……」と、溜息が漏れる。
ポケットからiPhoneを取り出し、Youtubeを起動する。
つい先日までクリスマス一色だったコンテンツも、今では新年を迎えるための動画で溢れている。掃除のコツや開運神社の初詣情報、フライングで届いたおせちの食レポなど、様々なタイトルが目に留まる中、「海外でも増加する観光客による死亡事故」という見出しが目に入った。
大晦日に見るような内容ではないと思いながらも、気になって思わずタップしてしまう。
「この動画を見て欲しい……」というお決まりのナレーションで始まった映像は、酒に酔った観光客がミラノの旧市街の路地に車で突っ込み、死傷者が出たという内容だった。他の自動車が背後から撮影したドライブレコーダーには、恐怖で立ち尽くす少女を突き飛ばし、身代わりとなってプラチナブロンドの髪を持つ女性が撥ねられる瞬間が映っていた。ほんの一瞬の出来事だったが、俺には永遠とも思える時の流れに感じられた。
「まさか……」
思わず漏れた言葉に、自分の声が震えているのが分かった。
テレビのニュースとは違い、Youtubeでは淡々と事故の詳細が説明されていくのだが、もはやその内容は頭に入ってこない。指先で動画を巻き戻してみると、やはり跳ねられた女性の髪はプラチナブロンド。庇われて突き飛ばされた少女は、その女性よりも明るい髪色をしていた。
俺の脳裏に、四年前に離婚した元妻のエマと、娘の亜理紗の姿が重なって見える。
「いや、エマたちはドイツにいるはずだ……」
自分に言い聞かせるように呟く。
目を閉じると、十数年前の記憶が鮮明によみがえってきた。イタリアのミラノで修行していた日々のことが――。
エマとの出会いは、イタリアのミラノでの修行時代に遡る。調理専門学校で和食を学び、卒業後も三年ほど修行を重ねた俺だったが、専門学校時代の友人の影響でイタリア料理に魅了され、二十三歳で単身ミラノへと渡った。そこで出会ったのが、同じように修行のためにドイツからやって来たエマだった。
イタリアでは珍しいプラチナブロンドの髪を持つ彼女は、たちまち店の人気者となり、絶え間なく男たちから声をかけられていた。
「エマ、今日の君もとてもきれいだ。是非、今度一緒に食事でもどうかな?」
「イタリアのナンパな男たちには興味がないわ」
少し気位の高そうな物言いではあったが、凍てつくような冷たい視線を送って颯爽と立ち去る彼女の姿は、むしろ男たちの情熱に油を注ぐ結果となっていた。
ある夜のこと、仕事を終えて帰宅しようとした彼女に暴漢が襲いかかった。連日店に通っては彼女に絡む厄介な客が、完全なストーカーと化していたのだ。同じ時刻に店を出た俺は彼女の悲鳴を聞き、咄嗟に駆けつけてその男を投げ飛ばした。幸いエマに怪我はなかったものの、運悪く俺は左腕を切り裂かれ、縫合を必要とする傷を負った。
病院の処置室から出ると、彼女は涙ぐみながら感謝の言葉を繰り返した。
「家が逆方向だというのに、助けに来てくれてありがとう」
「いや、当然のことをしただけだよ」
「でも、本当にありがとう」
いつもは凛として気丈な彼女が、くしゃくしゃにした顔を俺の胸に埋めた。後に聞いた話だが、エマは本当に軟弱な男が苦手だったという。その反面、一見華奢な体格でありながらストーカーを投げ飛ばすような男として、俺は彼女の心に深く印象付けられたらしい。
俺たちは自然と惹かれ合い、付き合うようになった。そして愛し合って一年ほどで子を授かった。生まれた子どもは、ドイツ人であるエマの瞳や顔立ち、髪色を引き継ぎながら、日本人である俺の髪質や肌質を受け継いでいた。俺は娘に亜理紗という名をつけた。
俺たちは幸せな日々を重ねていたが、今から四年前、父がクモ膜下出血で倒れた。マルペンサ国際空港から直行便で十二時間。諸々の手続きを含め、実質十八時間を費やして病院に辿り着いた時には、父はすでに息を引き取っていた。
父の遺した店を継ぐ決意をした。元々三十歳で日本に戻る約束をしており、エマもそのことは承知していた。しかし、エマは亜理紗の幼さや、言葉の壁、自身の両親に何かあった際の距離の問題を理由に、日本行きを拒んだ。そして、亜理紗を連れてドイツへ戻ったのだ。
だからこそ、エマと亜理紗がミラノにいるはずがない――記憶の迷路から現実に引き戻されるように、目の前のiPhoneの画面に意識が戻る。
「そう、ドイツにいるはずだ」
再び自分に言い聞かせるように呟き、「次の動画へ」と表示された部分に指を伸ばす。その指先は、さして寒くもないのに小刻みに震えていた。
数分が経過し、指先の震えは収まったものの、どこか心が落ち着かない。鴨肉から染み出た透明な脂が浮かぶつゆに箸を入れ、再び蕎麦を手繰り、汁と共に啜る。動画を見る前に味わった蕎麦と同じとは思えないほど、味が感じられない。蕎麦は喉ごしが命というが、今は詰まったように麺が喉を通らない。
このままでは前に進めないと悟り、思い切ってエマに電話をかけることにした。
数回のコールの後、緊張の色を帯びた声で相手が出た。
「Guten Abend, hier ist Gerda Schönkoch. Emma kann gerade nicht ans Telefon.」
(こんばんは、ゲルダ・ショーンコッホです。エマは電話に出られません)
意外にも電話に出たのは、エマの母ゲルダだった。
エマは携帯を家に置き忘れて仕事に向かったのかもしれない。
「Hi, this is Shota Shijo. Is Emma there?」
「I'm sorry, she's working late tonight. It's Silvester! It's quite unusual for you to be calling.」
(やあ、四条翔太です。エマはいますか?)
(残念だけど、大晦日だから彼女は遅くまでお仕事なのよ。それにしても、あなたから電話なんて珍しいわね)
大晦日を祝うのは日本だけと思っていたが、実はドイツやオーストリアでは大晦日のことをシルヴェスターと呼び、盛大に祝う風習があった。当然、都市部の飲食店で働く人々には休む暇もない。
少なからず心配していたが、今日も通常通り仕事に出ているということは、俺の懸念は杞憂だったのだろう。
「I just wanted to say Happy New Year.」
「We’ve just finally hit Sivester night in Germany.」
「By the way, how’s Alisa doing?」
「Alisa is doing great. We’re about to go see the fireworks in town.」
「Sorry to interrupt. I'll try to call her later.」
「I’d really appreciate that.」
(ちょっと新年のあいさつをしようと思っただけですよ)
(こっちはシルヴェスターの夜になったばかりよ)
(ところで、亜理紗はどうしています?)
(アリサは元気にしてるわ。これから町の花火を見に行くところよ)
(邪魔してごめんなさい。あとでまた電話します)
(そうしてもらえると嬉しいわ)
短い言葉を交わして電話を切った。
知らず知らずのうちに張り詰めていた緊張が、一気に解けていくのを感じる。
父の代から続く伝統として、毎年元旦は朝から雑煮だけを提供することになっている。ゲルダにはあとで電話すると約束したものの、エマが帰宅する時間帯は店の営業時間と重なるため、実際には電話をかけることは難しそうだ。
動画に映っていた女性と少女は、エマと亜理紗ではない――そう確信できただけでも、俺には救いだった。
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※ドイツでは大晦日のことをシルヴェスターと呼びます。カトリック教会の聖シルヴェスターⅠ世の命日に由来します。
※日本語、英語、ドイツ語が入り混じっていますが、感情的に昂ったり、焦ったり、困ったりしたときにドイツ語が出るのを表現するためにそのまま書いています。
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