ねがめ

福山典雅

ねがめ

「ねがめ―――――っ!」


 動画の中の幼い私は、嬉しそうに父の眼鏡を高々と持ち上げて、きゃっきゃっと笑っていた。


「ははは、違うよ、詩織。『めがね』、『めがね』だよ、言ってごらん」

「ねがめ―――――っ!」

「違うんだけどなぁ、でも可愛いからいいや!」


 まだ二十代だった頃の父は若くて、撮影する母が呆れるくらい私にデレデレだ。


 壁面の巨大なプロジェクターに映し出された新婦の紹介ビデオで、今は亡き父の姿を眺め、私は思わず涙が零れそうになっていた。


 今日は私の結婚式だ。




 私が17歳の時に病気で亡くなった父は、いつも眼鏡をかけていた。だけど私は幼い頃から、そんな父の大切な眼鏡をよく壊していた。


 母から聞く所によると、生まれて間もない私を父が初めてだっこした時の話だ。泣き叫ぶ私は父の眼鏡を掴むと「ぴぎゃぁあああ!」とほおり投げて壊したのが始まりだった。


 3歳になった私はお絵描きついでに置いてあった父の眼鏡のレンズにクレヨンで落書きをしてしまい、思わず買い替えに追い込んでしまう。


 4歳の時は補助輪なしの自転車に中々慣れず、父に衝突して眼鏡が宙を舞った。


 7歳の時は洗車中の父に悪戯して、ホースを足にひっかけて転ばせ眼鏡が大破した。


 9歳の時は私の誕生日パーティに残業で間に合わなかった父に腹を立て、寝ている隙に眼鏡をぐにゃりとへし曲げた。


 10歳の時はインフルで寝込んだ母の代わりに父が食事を作ったが、あまりに不味くて気絶しそうになった。そこで反省を促す為に父の眼鏡をこっそり洗浄機で洗ったらレンズを壊してしまい、やり過ぎたと反省した。


 こうして度々眼鏡を壊してしまう私に対し、父はいつも優しかった。すぐに許してくれて、翌日は決まって一緒に眼鏡屋さんへ修理に行った。そして帰りに父は必ずソフトクリームを買ってくれて、二人で「おいしいね」と言い合いながら食べるのが私の楽しみでもあった。


 



 中学に入り思春期を迎えた私は、父を見るとイライラする様になった。小言が煩いし、その癖家の中でだらしない姿をさらけ出す父によく反発していた。


 そして15歳の時だ。私は友達とカラオケに行き帰りが遅くなり、帰宅するなり文句を言う父を激しく罵倒して、テーブルに置いてあった眼鏡を床に叩きつけた事があった。


 我ながら酷いと思った。


 夜中にトイレに起きた時に、キッチンのテーブルに座り壊れた眼鏡を前に、寂しそうに一人でお酒を飲む父の背中が忘れられない。


 その時から私は、父だって一人の人間なんだとわかった。


 酷い言葉を言えば傷つくし、いつも強くて優しくて立派な訳じゃない。決して愚痴は言わなかったけど、仕事はきつそうだったし、きっと沢山我慢して、辛い事を噛みしめていたんだろう。それなのに母や私に気を使って、明るく冗談を言い、いつも優しくて、家族を懸命に守っているんだと今更ながらにその時の私は気がついた。


 だから、私は子供として甘えるだけではなくて、家族として父を支えてあげないといけないと思った。


 私は父が大好きだ。少しだけだか、大人になるとはこういう事だと思った。


 そんな父は私が17歳の時に倒れて、すぐに亡くなった。


 私は多くの後悔を抱えながら、ひたすら泣くしか出来なかった。






「では、新婦様のお母上様よりご挨拶でございます」


 司会の女性がそう言うと、身内側の席で父の遺影の隣に座っていた母が立ち上がり、マイクの前に立たずに何故か私の所に来た。


「詩織、お父さんが来てるから」


 母はそう言うと、私の目の前に父の遺品である眼鏡ケースをそっと置いた。


「お母さん?」


 その瞬間、会場の照明が一斉に消えた。 


 突然の真っ暗闇の中で戸惑う私の耳に音楽が聞えて来た。


 それは父が好きだった「パッヘルベルのカノン」。


 私も好きで何度も聞いた事のある思い出の曲が静かに流れ始め、突然壁面のプロジェクターに映像が映し出された。


 そこには、亡くなる前の父の姿があった。


 瞬間、私の胸はぎゅと締めつけられる様に苦しくなった。



「詩織、驚かないでね、って言うのも無理があるか、ははは」


 画面の父は見慣れたうちのリビングに、何故かタキシードを着て座り、穏やかに語り始めた。


「あのね、詩織には内緒にしていたけど、お父さんは身体がすっかり悪くなっているんだ。だからね、お母さんに頼んでこのビデオを残します。


 詩織


 お父さんは詩織が結婚する時には、もうこの世にいない。だからね、未来の詩織へお父さんの想いを伝えようと思ったんだ。


 それとこの大切な日に、僕は幼い時の君との約束を果たそうと思う。もう覚えてないかもしれないけど、お父さんからのささやかな贈り物があるんだ。でも先ずは、


 結婚おめでとう。


 優しい詩織の事だから、せっかくの結婚式なのにお父さんの遺影なんかを見て、寂しくしてないかい? 花嫁衣裳を見せたかったとか泣いてちゃ駄目だよ。


 お父さんはずっと幸せだった。だから何も心配しなくていい。


 僕は君が生まれてから、数えきれない程の幸せを貰っている。


 赤ん坊だった君がその小さな手で僕の指を掴んだんだ。温かくてやわらかい小さな手だった。そして君は僕を見てにこっと笑ってくれた。その瞬間、僕は父親として認められた気がした。嬉しかった。とても嬉しかったんだ。


 それからの毎日はまるで夢のようだった。


 君と手をつないで色んな場所を散歩した。


 君を肩車して、喜ぶままに思わず走ったりもした。


 君をおぶって歩き、一緒に歌を歌って帰るのも楽しかった。


 お風呂に入って、色んなおもちゃでも遊んだ。


 春は君の好きな桜を眺め、


 夏は君の好きなスイカを沢山食べて、


 秋は君の好きな車で遠くまでドライブに行き、


 冬は君が夢中で作る雪だるまを玄関の横に飾った。


 お父さんの人生はね、君が居てくれたおかげで、信じられないくらいに充実していて、それはかけがえのない時間でもあり、決して色褪せない大切な思い出となったんだ。


 詩織


 僕に父親である事の喜びを教えてくれて、ありがとう。


 新たな人生の門出を迎える君に、このビデオを残すね。


 今日の良き日を祝福して。末永く幸せにね」




 穏やかにはにかんだ笑顔を浮かべる父の姿があった。


 私は震える声で嗚咽して泣いていた。


 ハンカチを指し出してくれた母が、改めて父の遺品である眼鏡ケースを私に持たせた。


「……詩織、開けてみて。お父さんから」

「……えっ?」


 ささやかな贈り物と父は言っていた。私は涙を拭ってそっとケースを開いた。そこには昔父が愛用していた眼鏡が入っていた。私がクレヨンでレンズに落書して、買い替えになったはずの眼鏡だ。


 たまらず、私の視界が再び滲んだ。


 古い眼鏡の右のレンズには、幼い私の拙い文字で、


「ねがめ! しおりにちょうだい!」


 とあり、


 左のレンズに見慣れた父の文字で、


「結婚する時に記念であげるよ。約束だ、お父さんより」


 と書かれていた。


 涙がぶわっと溢れた。


 室内に「パッヘルベルのカノン」の調べが優しく鳴り響き、幾重にも重なりあう大切な思い出の中、「ねがめ、ちょうだい!」と言う私と指切りで約束する笑顔の父の姿があった。

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ねがめ 福山典雅 @matoifujino

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