枠の外

長尾たぐい

枠の外

 呑み屋の引き戸の向こうから現れた女性は眼鏡をかけていた。

 その女性が自分の友人であると気づくのに少し時間がかかった。彼女は自他ともに認めるコスメオタクで、学生時代からドライアイ気味で目薬が手放せないくせに、それでも「メイクを楽しむにはコンタクト一択」と今現在に至るまで常に度入りのカラコンを付けている。おしゃれは我慢、の歩く見本。

 その眼鏡どうしたの、と訊くとキッと鋭い視線が飛んできた。

「朝、コンタクトの箱を踏んで全部ダメにした。ほんと最悪」

 彼女は私の隣のカウンター席に腰かけ、おしぼりの袋を豪快に破く。

 似合ってるよ、と私は感想を伝えた。お世辞ではない。眼鏡は理知的な彼女の容貌をより際立たせている。彼女は厨房の店員に「生中ひとつ」とオーダーをしてから、ため息をついた。そして右手の親指で右のこめかみをグリグリと押してから眼鏡を外し、差し出してきた。眼鏡の下のオフィスメイクは会社帰りの時間帯にもかかわらず、どこも崩れていない。

「かけて右上を見て」

 困惑しつつも眼鏡を受け取り、目元に持っていく。カチンと小さな音がした。二つの眼鏡のツルがぶつかった音だった。

 幼い頃から強度の近視と乱視があるので、比喩ではなく眼鏡は私の顔の一部だ。にしても、外そうという発想すらない自分に苦笑したくなる。……ふむ、レンズの度がかなり低い。視界は裸眼より多少マシな程度だ。

 で?

 右上を見た。壁に貼られているはずのメニュー短冊はまるで寺社のお札。眼鏡を外して右のレンズを舐めるように見たが、特に異常はなさそうだった。

 で、なんなの。そう訊ねたけれど、彼女はそれを無視して次の話題を振ってきた。この話は自然に流れた。

 それから数日経った。どうも私の眼鏡の右レンズの枠外、視界の右上に何かが常駐している。が、近視が強すぎてレンズの枠外の正体は判らない。は私が引き取ったから、彼女がまた眼鏡姿を見せてくれないかな、と思っている。

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枠の外 長尾たぐい @220ttng284

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