花吹雪のスクリーン
壱単位
花吹雪のスクリーン
薄い紅で埋められている。
青い空。日差しは柔らかく、あたたかく。
ときおり控えめに吹きとおってゆく風が、彼らの頭上の巨大な桜の枝をざああと揺らす。揺れるたびに、二人の足元の紅の濃度は増してゆくのである。
女は、そうした紅のうちの一枚が、いま彼女を抱きしめる男の背にのっているのを見つけた。指先を動かしてそれに触れたときに、男が動いて、彼女の肩に手を置き、ゆっくりと身体を離したのだ。
「……頼む」
茶色がかった髪が行儀悪く暴れている。細い顎にはまばらに無精髭。憔悴したように小さく震える指がめがねの細い縁に触れる。その奥で、瞳が濡れている。
「傍にいてくれないか。僕と、歩いてくれないか。ぜんぶ、捨てる。なにもかも。頼む。ようやく、ようやく、わかったんだ。君は……」
男は、だが、最後まで言葉を言えない。
女の手のひらが、男の頬を包んだからだ。
やわらかく、慈しむように頬に手をあて、哀しそうに微笑んだ。見つめるその瞳に、彼の背後の紅が映り込んでいる。
やがて彼女は小さく首を振り、俯いて、顔をあげ、もう一度わらって、声を出さずになにかを呟き、踵を返した。歩き出す。
縛られたように動けずにいた男は、ようやく一歩踏み出し、呼び止めるように手をあげる。
だが、そこまでだった。
ざあ、と吹いた風が、新しい紅を彼女と彼とのあいだに運んだ。
永遠のむこうとこちらに、存在をわける紅を。
「……カット!」
声がかかると同時にスタッフたちがわらわらと現れる。
「……なに、笑ってんだよ」
お茶の入った紙コップを差し出しながら、歩み寄った
振り返った美晴瑠は口に手をあて、可笑しくて堪らないという表情をしていたが、やがて落ち着いたのか、ふうと息を吐いてコップを受け取った。
「だって! あなたが! あのすかした二枚目で売ってたあなたが、あんな、情けなさそうな顔して、おまけに、めがね! あなた、めがねなんて絶対いやだって、そういう役、ぜんぶ蹴ってたじゃない。もう、可笑しくて可笑しくて」
「……うるさいなあ。いつの話してんだよ。僕だってもう、大御所なんだよ」
「あははは、そうよね、うんうんわかってる、あははは」
「……なんか、疑ってない? あの後だって、見てたんでしょ、僕のこと」
「そりゃもう、ずうっと、見てたよ。ずうっと、ね」
そのとき、向こうから
「よ! 相変わらずだねえ美晴瑠ちゃんは。さすがだわ。俺、モニタみるの忘れてずうっと目で追っちゃったもん。錆びてないねえ」
「監督さんもお変わりなく。それにみんなも! 美術さんも音声さんも、知ってる顔、たくさんある」
「だろ。俺が声かけたんだもん、美晴瑠ちゃん撮るぞって。もうみんな、うわあああってすっげえ盛り上がりでさ。どっから出てきたのよお前らってくらい」
「あはは、光栄」
監督と呼ばれた男は、こんどは健斗の方に向き直った。
「健斗はまあ、ついこのあいだ一緒に仕事したばっかりだったけど……こうやってみると、やっぱ懐かしいな」
「それは、ね……僕らが監督の作品で共演して出会った頃の……だからね」
「そうか……そうだな。いや、いい仕事させてもらえて、嬉しいよ。ありがとうな、美晴瑠ちゃん、健斗」
健斗と美晴瑠は監督の声に目をみあわせ、眉をあげた。
と、監督は後ろからスタッフに呼ばれ、いま行くよと応えた。二人に、じゃ、またな、と手をあげてせわしなく去っていく。
どうと吹いた風が、たくさんの花びらを運んだ。
その紅の中に、監督の姿は、溶けていった。
スタッフの声が聞こえる。
賑やかに相談している。
楽しそうに笑い合っている。
だが、その姿は紅の霧の向こうに隠れている。
やがてその声も、ゆっくりと、ゆっくりと、遠ざかってゆく。
「……ほんとに、ずうっと、見てくれてたの?」
健斗は監督を見送ったまま、美晴瑠のほうには振り返らずに、やや俯きながら、小さな声を出した。その背に、美晴瑠は手を置いた。やわらかく置いて、頬を寄せた。
「……しつこいなあ。見てたってば。ぜんぶ。映画もドラマも、雑誌の広告だって。ずっと、見てた。あなたがどんどん、成長していくのを。大人になっていくのを」
「……傍で、見ていてほしかった」
「ふふ、なあに、まだ役に入ってるの」
茶化そうとした声は、健斗の背の小さな震えを捉えて、止まった。
「……ごめん、なさい」
「……謝らないで。僕だって……もっと早く、告白していれば、もう少し長く一緒にいられた。もしかしたら、君を引き留められたかもしれない。ずっとそう思って、何年も、何十年も……」
美晴瑠は、健斗の背から手を回した。おもいきりのちからをこめて、抱きしめる。
「摂理だもん。止められないよ。わたしの、宿命だったもん。それでも、あなたと一緒に過ごした二年間、ほんとうに、ほんとうに、きらきらしてた。楽しくて、嬉しいことばっかりで……病気なんて、嘘なんじゃないかって、ずうっと思ってたんだよ」
「……もっと、たくさん、話を、したかった。もっと一緒に作品を創りたかった。もっと君の声を聴いていたかった。もっと……」
心をすりつぶすような声。そして、慟哭。震え続ける身体。
美晴瑠はふと、健斗がこのまま消えてしまうのではないかと不安になり、手を緩めて彼の顔を覗き込んだ。
その彼女に、にやり、と振り返る健斗。
「あああ! だましたなあ!」
「あははは、だから言ったろう。僕は大御所だって。たくさん賞ももらったし、そうだ、八十七歳の時には国の勲章ももらったんだよ。さっきの監督の遺作になった映画でさ。それに……」
強引に振り向かされ、ことばを唇で制止される。
紅の嵐が、ふたりを包んで輪舞をみせる。
その姿は紅と溶け、互いに溶けて、世界との境界を失った。
「あなたが来るのを、ずうっと、待ってた」
美晴瑠の小さな呟きが、二人のために用意された新しい宇宙に浸透してゆく。
「良い作品、創ろうね。時間はたくさんあるから」
花吹雪のスクリーン 壱単位 @ichitan
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