書く資格のない人間。プロットは必要?
朝吹
書く資格のない人間。プロットは必要?
企画第二弾です。
どんな企画かというと、99%の人が疑いもせずに「偉い人が云ったから」と信じることに、あえて反対側から無駄な思考を巡らせるという、そんな黒歴史を披露する残念企画です。
内容は過去に書いたことと一部ダブっています。
ちなみに第一弾はこちらです。
「作家には経験が必要?」
https://kakuyomu.jp/works/16818093073565930762
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いいえ、わたしはちゃんと99%側と同じ考え方であり、プロットの必要性を理解している賢い書き手です。
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この方々には用のないことばかりを書きます。
ホワイトカラーの反対側から攻めてみるという、誰得な人生の無駄企画。
ではいきます。
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その昔、ネット小説のよく分からないお作法に頭を悩ませながら、ほそぼそと創作していた頃です。
或る日、「業界のプロ」が突然、素人のお前よりも賢くて上位の存在のプロであるアタシの言いなりに書きなさい、と命令してきました。
普通の人間関係しか知らないと、この手の異色な人間にはどうしても初動の対処が遅れてしまいます。
それまでその「プロ」はわたしに媚びているといってもいいような態度でしたので、その豹変ぶりが異様であり、またわたしの書いているものをコピーしては人前で自分の意見としてひけらかす人でもあったので、距離を空けました。
ところがその「プロ」は、貴重な時間をつかって指導してやると云っているのだからアタシに感謝しろ、と感謝を要求しながら居座ると、全てはあなたさまの指導のお蔭ですと云わせるべく、執念を燃やすようになりました。
たかり屋のように、こちらの努力や功績にぶら下がることを望み、脳内ではすっかり、『救済者と救済者に感謝をささげる愚かな無能』のシナリオが整っているようでした。
そこから、その「プロ」からわたしへの、凄まじい粗さがしが始まります。
一つでも何かあれば、「出来の悪いバカがまたミスをした!」と得意げに触れ回るようになりました。
後々、その「プロ」は自己愛性人格障碍者だったと判明したのですが、これは自己愛特有の、恥をかかせて周囲の眼からも無価値化し、ターゲットの自己肯定感を下げてコントロールしやすくする為のテンプレの行動で、被害者になった人はみなこれをやられています。
その「自己愛プロ」からすれば、粗さがしをして、大勢に言い触らし、「お前は駄目な奴なんだぞ。嫌われ者なんだぞ。そんなお前をアタシだけは見捨てないで指導してやるんだぞ」と吹き込むのは、教祖のように被害者の上に君臨するためには欠かせないプロセスで、本人の快楽的にも、外面的にも、至極当たり前の手法だったのです。
とりわけ、その「プロ」が攻撃材料として好んだのが、
「設定資料集を作っているのか? 作っていないのならお前なんかには小説を書く資格はないんだぞ」
「最初から最後までプロットを作っているのか? プロットがないのに書いている? 信じられな―い! 基礎も出来てないゴミ屑」
この二点でした。
その時によく考えてみました。
・設定資料集は必要なのか。
・緻密なプロットは必要なのか。
その「プロ」はアニメやゲーム畑の人であったので、そちらから創作に入ると、発刊されるような設定資料集の存在はマストであり、細かいプロットというのも、アニメのコンテのようにあって当然のものであったのです。
年齢、髪の色、肌の色、身長体重、家族構成、血液型星座、武器弾薬、教育水準、宗教、食料、服装など。
第一章はどこまで、第二章はどこまで、そして伏線をラストに繋いで壮大にストーリーを終える。
小説というものはこうやって書くんだぞ? とその「プロ」は断言していたのです。
そして、いかに自分は細かい設定を作っているか、いかに細かくプロットを立てているかをわたし相手に自慢して語り、
「プロットを立てるのは基本中の基本でしょ」
と云う。
そのくせ、絶対に本編は書かない。
何十巻にも及びそうな華麗な大長編のプロットと設定資料集だけを作って、そこで終わりなのです。
だからわたしは想いました。
『話しても無駄だ』
長編を一度書いた人はお分かりだと想いますが、長編を実際に書くうちに、徐々に物語がプロットにはなかった命を持ち始めるあの感触を、その人は知らないからです。
気難しかったはずのキャラが、想わぬ優しさをみせたり、正義感あふれるキャラが、なぜか動きが鈍かったり。
それまでに、ノートに書きつけるというかたちでしたが、何作もの小説を書き上げていたわたしには、「プロ」の云っていることは、実際には大長編を書いて完結させたことのない、完全なる空論に想えたのです。
最初に決めたプロットに沿って、そのとおりに長編を書く。
これは可能なことでしょう。
でも途中で「こちらの展開の方がもっと面白くなるんじゃないか?」と想った時には、迷わず、そちらを取る人も多いのではないでしょうか。
その時点で、「変更しても、きちんとラストに向かえる」という見通しが立つのなら、その長編は無事に完結します。
しかし最初のプロットからずれ始めた時に、脱線をはやいうちに修正して元のプロットにきちんと戻す、または、プロットを随時変更していきながらも、物語をまとめてラストに向かう、この手腕がない人は、そこで立ち往生してしまうのです。
とくに長い小説を書くだけの文章力を鍛えていない人は、プロットや設定資料集を作っている時の脳内に想い描いていた超大作と、眼の前の、まったく進まない、冴えない文章とのギャップを埋められず、理想どおりに書くことが出来ません。そのため、俗にいう、「エタる」になりがちです。
※エタる。永遠に未完結の意味。
マニアが飛びつくような分厚い設定資料集。わたしは大好きです。ファンの心をくすぐる世界観ごと、その作品を第二の故郷のように好きになります。その代表例はトールキンの「指輪物語」でしょう。
でも、『小説』に絶対にそれが必要でしょうか?
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完結済の世の長編でも、「決めていたのはラストだけでした」または、「途中までこの場面をどうするか迷っていました」など、耳にしたことがありませんか。
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つまりプロットは立てていても、絵コンテのようには詰めてない。
田中芳樹が「銀河英雄伝説」でキルヒアイスを殺してしまったことを後々まで後悔しているように、しかし、親友が中盤で消えたことでラインハルトの孤独と苦悩とあわや暴君化の展開が書けたように、命をもった物語は、作者にとっても思いがけない転がりをみせることがあるのです。
プロットを書かないとプロでは通用しないぞ!
とその「プロ」は怒鳴りつけてくるのですが、大前提としてまずわたしはその「プロ」には何も相談しておりません。
だからわたしにとっては、「恩人扱いしてアタシに上席を用意しろ」とぶら下がりたい人から、人格を傷つけられ、作品を落とされ、時間を使ってやったと感謝まで執拗に迫られているという、謎の状況でした。
また、たとえ相談したいことがあっても、その「プロ」には絶対に相談しないでしょう。
理由としては、人からパクった言葉で態度だけはでかく語るその「プロ」よりもわたしの方が小説については理解があると確信していたこと。
その「プロ」の悪評拡散の影響が及ばないところでは、わたしの人格は攻撃されず、わたしの作品を最底辺のものだと見做す人はいなかったこと等があげられます。
帰宅して、疲れた眼をこすりながら不慣れなタグを打って、当時入院していた親族の面倒をみながら、唯一の息抜きとして楽しい創作をしていたはずが、人間関係の対立と分断工作を得意とするその「自己愛プロ」の登場により何もかもめちゃくちゃにされていきました。
しまいには、PCを立ち上げるだけで、「自己愛プロ」とその洗脳手下から、「プロさまの云うことをきけ!」の怒号、粗さがしと悪評拡散がまた待っているんだな……とため息をつくようになっていました。
プロット。設定資料集。
それまで、書き物におけるわたしの評価は悪くなく、プロ作家からも某新聞社のお偉いさんからも、お墨付きをもらえるほどであったというのに、プロットと設定資料集が眼に見えるかたちで用意できないと、「小説を書く資格がない」とまで云われるのです。
そしてわたしは、このことについて、わたしの好きな作家の発言を意識して気に留めるようにしてみました。
プロットが! プロットが!
と喚いている人はいませんでした。
どちらかといえばそれは漫画家の悲痛な叫びで(漫画家の場合は「ネームが!」です)、多くの小説家は、プロットと設定部分について滔々と外に語ることは少なく、長編であっても、「ざっくり」としかプロットを決めていなかったのです。
詳細な設定、緻密なプロット、と何度も怒鳴りつけてきた「プロ」の方法は、小説の基礎の基礎というよりは、
アニメを作る上での基礎
のようにしか、わたしには想えませんでした。
しかし、近年は、「設定資料集を隅々まで読んで育ちました」という人が作家にも出版社にも増えています。多感な時期にまず最初にそれに触れるものですから、「小説にも分冊で出せるほどの設定資料があるのが当然です」「厳密なプロットがまず最初になければ」と口にするようになっています。
これが新しい、小説界のスタンダード。
そのスタンダードは、わたしの想うのびやかな小説とは違い、決められた手順があり、決まった段階があり、「小説に厚みを作るためには当然、必要なことですよ」とばかりに、分厚い設定資料集を作り、プロットをびっしり組み、最初から最後までストーリーを厳格に決めて、おもむろにいざ清書する、というもののようなのです。
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そこまで密にプロットを決めているのに、なぜ、設定資料集まで作る多くの人が長編の途中でエタるのか。
その話については脱線するので、ここでは触れません。
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最初に決めたプロットどおりに大長編を書き上げて、キャラも初期設定のままに行動し、すべてが予定調和でパーフェクトに完結までもっていった。そんな作品も沢山あるでしょう。
いいんじゃないでしょうか?
カクヨムの書き手さんでも、短編を出すたびに、ちゃんと「構想」を付録で出す方が数名いるのですが、わたしとは全く作り方は異なれど、その人たちのややマニアックな男性らしい構想力が楽しめて、なるほどなぁと感嘆しております。
どのみち、プロットも、設定資料も、全て裏方のことです。
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実は当初のラストはこうなる予定だったんです。あのキャラだって、あの章のあたりで本当は別の行動をとる予定でした。完結してほっとしました。
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このくらいの、ゆるいものが、わたしの想う長編のプロットです。
わたしの考える長編小説とは、書いている期間も長期に渡るために、うっかり寄り道をしたり蛇行をとりながらも、舵をとり、その都度、「こっちにしたらもっと面白くなる」「このキャラはこの方が生きる」とあれこれ変更を加えながら、しかし大筋は変わらず、終わりまで書き上げる、そのようなものでした。
何故なら実際に物語を書き進めてみないと、小説の中の命をもった人々がその場面にきた時にどんな動きをして何を云うのかについては、他人のことが全て分からないのと同じように、作者のわたしにも未知数だからです。
一体いつからなのでしょう、【設計図どおり、最初に決めたとおりに、そのまま書き進める欠点のない完璧な小説】が最上とされるようになったのは。
物語というのはそのものがたりの命のままに、時として弾み、時として沈み、キャラAの性格を決めても、文中でBやCと話していると、作者の知らない面がひょっこり出てきたりするものです。
あの悪役はあれからどうなったの?
と読者に考えさせたり、「あそこであいつを倒していればw」と笑わせたり、つっこみどころが多い作品ほど、世紀をこえて、好かれてはいないでしょうか。
一体いつから、【プロットを死守し、設定資料集を作り、全てにおいて矛盾なく説明がつく】ことが、小説の最上形態とされるようになったのでしょう。
確かに最初にプロットをきっちり決めて、その通りに書き進めるなら、無駄な伏線も無駄な動きもセリフも遊びも、何もなく、作者が創ったパズルを作者がキメるようにして、きれいに納まって終わります。
伏線が重きをもつ長編ミステリーなら、この書き方がよいように想います。
詳細なプロットが必要となる時。
それは、まだあなたが書きとおせる人かどうかの信頼がない新人期間、「ずっと構想を温めていた長編です」と担当者にお伺いを立てる時。
その時にノートいっぱいにあれこれ書いていると、「文章力はあるし、ここまでよく考えているのなら」とゴーサインが出やすい。かも、しれません。
担当さんによって全然違うので、そこは保証できません。
「書かせてあげたい」と共に並走してくれる良い担当さんばかりではなく、何にでも否定してバツをつけて、やる気をくじいてくる担当はいます。
書くうちに、人気が出過ぎてプロットから外れ、想わぬかたちになったキャラもいれば、ジョージ・R・R・マーティンのごとく、人気があるからこそ殺してしまうこともあるでしょう。
小説世界に厚みをもたらすために必要不可欠らしい設定資料集については、こんなのは個人のこだわりがいかにという世界ですから、どこまでも凝る人は凝ればいいし、絵が描けるならスケッチをしてもいいし、写真集やネットから拾える画像でイメージを膨らませてもいい。それはとてもわくわくする、楽しい作業です。わたしも子どもの頃はよくそうやって遊んでいたので分かります。
かといって、それをもって、「だからわたしはこの作業をしない人よりも凄いのよ」とそこで満足して肝心の本編を放り出しているのでは意味がありません。
レクター博士、またはカンバーバッチ版シャーロックのように、脳内に記憶の宮殿があって、そこから取り出せるのであれば、プロットや設定をわざわざ別紙に書き起こす必要もないかもしれません。
ジャンルを問わず、小説を書くには、緻密なプロットと詳細な設定資料集が要る?
いったいいつから?
何年前からそんなことに?
小説とは、構想ノートに書きなぐっているうちに徐々に固まり、それを原稿に書く時にまた変更を加え、育てるようにして書くものだと想っていたので、本当にびっくりです。
俯瞰しながら物語の命に任せて書いていくわたしには、作者が細部の細部まで最初に決めているというのは、ただ単に、「そういう書き方なのね」というだけのことです。
しかし現代の出版社が「設定資料集を舐めるように愛読して育ちました」「プロットがない人間は小説を書く資格なし」「プロットの重要性を理解しないなんて頭が悪い」という方々で占めているのなら、これからの小説のスタンダードは、こちらなのかもしれません。
わたしの考える小説のもつ豊かさとはまったく違い、小説を書く手順と規則が、偉くて賢くて、最上の小説を書けると豪語する方々によって、設計図どおりに一ミリも変更せずに書くのがいいといつの間にやら決められており、小説の価値とは、その準備段階が全てであり、それがなければ「書く資格なし」だという。
気がつけば、わたしは「書く資格がない」の側に入っていたのです。
真っ白い画面に一行目から書く。
これが「最上の作品を書けると豪語するプロ」から散々バカにされたわたしの書き方なのですが、脳内で、考えながら組み立てながら、先を進めながら、この方法でいったい今まで何本のまとまった量の作品を完結させてきたことでしょう。しかしこんなのは、「プロットがない、設定資料集を作ってない」という理由で意味のない、読むに値しないものだと、最上の小説を書けると自負する自信満々の方々から、完全に否定されるのです。
数おおくの小説を想い浮かべると、そんな詳細な設定資料集があった、練り込んだプロットどおりに書かれたとは、到底想えない、あちこち矛盾だらけの、抜けだらけの、登場人物の名前すら途中で間違える、でも生き生きとして、何度読んでも心の踊る、忘れられない面白い長編小説がごろごろ出てくるのですが、これが最上の小説を書く方法だと唱える偉い人が「だからァ」「お前みたいなバカには分からないだろうけどォ」と決めたことが小説の規則ならば、これからの小説は、そして小説を書く人たちの99%は、「さあ完璧なプロットと完璧な設定資料集を作った。これをなぞって欠点のまったくない完璧な小説を書くぞ」と、いかに完璧な小説であるかを競うように、そうなっていくのでしょう。
まとめ。
どうやらわたしは、炉端で昔語りをするような方法で小説を編むタイプのようです。
それが「小説を書く資格なし」とまで云われるほどの少数派だとは、声の大きい偉い人が断定する今のいままで、まったく想っていなかったのです。
映画監督でも脚本どおりに撮る人と、その場の思い付きで役者のセリフや行動を変えていく人、漫画家でも「この場面はその時の情動で描きたい」とネームを白紙においておく人がいるのですが、ある一つの方法のみが「賢くて最上」という小説世界になっているようなのです。
何やら大きな、「べき」が立ちはだかっている。
それはわたしの想う、娯楽としての小説の持つ豊かさ、自由さとは、まったく相容れないものでした。
まさにそれは他者の尊厳を踏みつぶし、見下す権利を得たとばかりにニヤニヤ嗤い、自分のいるサイドだけが優れていると豪語する、「自己愛プロ」がしがみつく、創造と想像力の完全なる否定なのでした。
[了]
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※プロットを立てても、立てなくても、エタる時にはエタります。
書く資格のない人間。プロットは必要? 朝吹 @asabuki
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