後編

 時は移ろい、慶長五年九月二十七日。大坂城への登城とじょうを終えた家康は滞在先となる西の丸に戻った。

(あぁ、疲れた……)

 った肩を揉みながら息を吐く家康。

 リーフデ号の船員との対面から約半年、家康の置かれた立場は劇的に変化していた。

 堀秀治の通報や藤田信吉の証言などから“上杉家に不穏な動きがある”と判断した家康は会津へ帰国している上杉景勝かげかつへ上洛し申し開きをするよう伝えた。しかし、上杉家側は後年“直江状”と呼ばれる長文を送り付け、自らの潔白を主張すると同時に「来るならどうぞ、売られた喧嘩は買ってやる」と挑発。これを受け、『豊臣家にあだなす存在』と断じた家康は上杉征伐せいばつを決定した。

 六月十六日に大坂から出陣した家康だったが、畿内を留守にしている間に事態は急変する。これまでまつりごと牛耳ぎゅうじっていた家康が居なくなった隙を突いて、家康の専横に反感を抱いていた者達が結託けったくして家康追討の軍をおこしたのだ! これにより、家康と上杉征伐に従軍する諸将達は“公儀(豊臣家)の後ろ盾を得た軍”から“公儀に害を為す軍”に引っり返ってしまった。

 しかし、百戦錬磨の家康は動じない。“幼君・秀頼に自ら判断する能力はない、三成が秀頼の名をかたって仕向けたものだ”と豊臣家内部で確執のある陣営に矛先を変え、不遜ふそんやからを倒す軍に変えてしまった。そして迎えた九月十五日、関ヶ原の地で両軍は激突。天下分け目の大戦おおいくさの末、家康は勝利を収めた。

 そして迎えた、今日。主君である秀頼やその母・淀のかたと対面し、石田三成を始めとする世を騒がせた連中を主君にわり討伐した旨を報告した。その際、秀頼や淀の方は『あずかり知らぬ』として罪について一切言及しなかった。

 一応まだ“豊臣家の家臣”なので秀頼を立てているものの、先日の戦で名実共に天下人てんかびととなった家康。ようやく掴み取った大いなる野望は、最後の仕上げを残すのみとなっていた。

 此度こたびの戦で家康の為に働いてくれた者達に報いる為、近々ちかぢか論功行賞ろんこうこうしょうを発表する積もりだ。この家康に楯突いた者共から没収した土地を原資に、家康を頂点にした体制を構築する。詳細はこれから詰めていくのだが、今日は疲れたので休むことにした。五十八歳と高齢になり、心も体も十分にいたわる事を家康は心がけていた。

 寝間着に着替え、燈明とうみょうあかりの下で持参した書物を読み始める家康。この日も献上された眼鏡をかけ、お蔭で読書も大いにはかどっていた。

 ところが……今日に限っては様子が違った。なかなか集中出来ず、文字が頭に入ってこない。

 物思いにふけっていた家康は、本を閉じる。そして、透鏡レンズ越しに虚空こくうを見つめる。

(思えば、右府うふ様も太閤たいこう殿下も新しい物をこのまれたな)

 先人せんじんの天下人である織田信長・豊臣秀吉と天下人になったばかりの家康に共通している事がある。南蛮渡来のものなど新しい物が好きな性格だ。

 好奇心旺盛おうせいな信長は耶蘇教の布教に好意的だっただけでなく、自らも外套マントを羽織ったり南蛮甲冑を身に付けたりと積極的に取り入れていった。一方の秀吉も伴天連追放令を出すなど耶蘇教が広まる事に締め付けこそしたものの、持ち前の明るい性格で南蛮からの献上品を家臣達に気前よく振る舞うなど拒絶する事はなかった。く言う家康も興味関心のある人物で、江戸から関ヶ原へ赴く際も南蛮甲冑を身に着けたり、後年には様々な時計を蒐集しゅうしゅうしたりしている。

 異国の地のものだからと拒絶したり怖がったりするのではなく、受け入れるだけの器がある者こそ天下人になれる第一の条件なのかも知れない。それは言い換えるならば、時代の潮流を読む事に繋がる。家康はそう考えていた。

ひるがえって、今の豊家ほうけはどうか)

 八歳の秀頼は英邁えいまいになるか愚物ぐぶつになるか現時点で判別はつかない。これからの成長次第だが、かつては“徳川家の上に立っていた”という意識が抜けなかった場合は徳川の天下をおびやかす存在になる恐れがある。淀の方についてはもっと顕著で、今日の対面でも「秀頼に罪が及ばないか」の一点でおびえていたが、秀吉死去後に家康を警戒していた点から時流じりゅうが読めるとは言いがたい。

 使い古された言葉ではあるが、“物は使いよう”という。例えばはさみも、物を切るのに重宝する一方で人を傷つける道具にもなり得る。今家康がかけている眼鏡も使い方を知っていれば文字を読むのを助けてくれる優れ物として機能するが、それを知らなければ単なる硝子ガラスを加工した物にしかならない。用法を知り使いこなして、初めて物は便利な物に昇華するのだ。

 あの信長も秀吉も、人を物同然に見ている節があった。あの者達の下に居る頃は「恐ろしい人だ」と思ったが、同じ立場になってみてよく分かる。人は“役に立つ”か“役に立たない”か“害をす”に分類される、と。阿呆でも使い方次第では優れた道具になるし、その逆もしかり。その人が活きる役割を与え、配置する事こそ肝要かんようなのだ。その為には人を見る目も養わなければならないし、経験を積む必要もある。この場合、経験には失敗も含まれる。家康も英邁の呼び声高い嫡男・信康を信長の命で自害させ、腹心の臣である石川数正が秀吉が裏で糸を引く形で出奔しゅっぽんされ、今回の戦でも思うようにいかなかった点もある。天下人になればもっと難しい対応が求められる。気を引き締めなければならない。

 家康の中で、幾つか悩んでいる事がある。思案を巡らせていく中で、一つ解決した。

(時代の流れを読めないものに過大な扱いは無用。そうだ、天下人なのだ。天下人らしく威厳を見せないと)

 踏ん切りがついた家康は、燈明の火を消して床に就いた。思っていた以上に心も体も疲れていたみたいで、すぐに深い眠りに落ちた。


 後日、豊臣家は『今回の事態を止められなかった』責任を取り、全国各地の直轄領・蔵入地くらいりち・金山銀山などを全て没収。摂津・河内かわち和泉いずみ六十五万石の一大名格に転落した。但し徳川家を頂点とする体制から外れる配慮がなされ、家康が征夷大将軍になり江戸幕府がひらかれるまでは格別な扱いを受ける事となる。

 家康とすれば、“時流を読んで徳川家の臣下に入る”ならば鎌倉幕府における鎌倉殿のような特別扱いにする考えもなくはなかった。しかし、時流を読もうともせず“徳川家は豊臣家から天下を奪った不届き者”と思うならば……その時の対処も覚悟していた。

 さて、家康の眼鏡にかなったかどうかについては……歴史が証明してくれる事だろう。

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透鏡の先に見据えるは 佐倉伸哉 @fourrami

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