透鏡の先に見据えるは

佐倉伸哉

前編

 慶長けいちょう五年〈一六〇〇年〉三月十六日。一隻の南蛮船が豊後ぶんご臼杵うすきにある黒島に漂着した(佐伯・大入島おおにゅうじまの説あり)。船名は“リーフデ号”、阿蘭陀オランダ語で“愛”を意味する。船名でも分かる通り阿蘭陀の船で、これが日本に初めて渡来した阿蘭陀船でもある。極東を目指し五隻の船団を組んでロッテルダムから出航したものの、当時敵対関係にあった葡萄牙ポルトガル西班牙スペインに拿捕されたり悪天候で散り散りになるなど災難が続き、唯一太平洋を横断したリーフデ号も病や原住民の襲撃などで人数を減らし、出航時は百十名居た船員は日本到着時には二十四名になっていた。ただ、長らくの漂流で衰弱していた者が到着翌日に三名、翌年までに七名が亡くなり、最終的な生存者は十四名まで減ることとなる。

 南蛮船の漂着を伝えられた臼杵城主・太田一吉かずよしはリーフデ号へ小舟を出して船員を保護、それと共に長崎奉行の寺沢てらざわ広高ひろたかへ通報し対応を求めた。広高は船内にあった大砲や鉄砲などの武器は押収し、船員の処遇については公儀こうぎゆだねることとした。しかし、公儀と言っても豊臣秀頼ひでよりはまだ八歳の幼子。その判断は自然とまつりごとを代行する時の権力者・徳川家康が行うこととなった。リーフデ号は大坂へ回航かいこうされ、船員達も大坂に身柄を移された。

 三月三十日。大坂城にて、徳川家康はリーフデ号の船員と対面した。家康、この時五十八歳。その表情は、どこか面倒くさそうである。

 リーフデ号の漂着を何処からか聞きつけたイエズス会の宣教師達は、彼等を海賊船だと指摘した上で「即刻処刑を」と再三に渡り求めていた。天正十五年〈一五八七年〉六月十九日付で秀吉により伴天連ばてれん追放令が発出されていたが、交易や外交の都合上全ての南蛮宣教師を国外追放するまで至らず、秀吉の死もあり耶蘇やそ(キリスト)教政策も軟化されている。イエズス会がここまで反発していた背景には、葡萄牙や西班牙のカトリック系と阿蘭陀や英吉利イギリスのプロテスタント系は当時対立関係にあり、カトリック系のイエズス会もその影響を強く受けていた。しかし、極東の日本には遠く離れた欧州の宗教対立は伝わっておらず、他にやりたい事を抱えている家康にとってはわずらわしいとしか思えなかった。

 家康が優先したい事。それは――天下取りだ。

 前年、対抗馬ともくされた前田利家が死去、家康の専横せんおうを阻止せんとしていた石田三成の失脚、さらに奸計かんけいめて五大老の一角・前田利長を屈服させるなど、天下取りに向けて順調に階段をのぼってきた。そして今年に入ってからも越後の堀秀治ひではるから『会津の上杉家が戦に向けた準備を進めている』と通報があったり上杉家家臣・藤田信吉が三月十一日に出奔し江戸の徳川秀忠の元に逃げ込むなど、天下取りに向けた下地が整いつつある。そうした最中で持ち込まれた雑事をさっさと片付けたいのが、家康の本音だった。

 ところが、当初は面倒な事と捉えていた家康は会見が始まってから考えを改めた。

 船長ヤコブ・クワッケルナックは重体で代わりに応対した航海長ウィリアム・アダムス(英蘭イングランド人)と航海士ヤン・ヨーステンの両名は、航海の目的や欧州で起きている宗教間対立を明朗に説明し、家康もリーフデ号が海賊船ではなく商船で国民の生命や財産を害する者ではないと見解を改めるに至った。その後もイエズス会側からはリーフデ号の船員を処刑するよう申し入れがあったが、家康は無視。逆に異国の権力者を相手に一歩も引くことなく自らの置かれた立場や経緯を説明し主張したアダムス達に好感を抱き、船と共に船員達を自らの領地へ移す決定をくだした。

 自らの濡れ衣を払拭ふっしょくしたアダムス達は、船内に積んであった品の幾つかを家康へ献上した。商船だけあって南蛮渡来品が数多くあり、時計や金平糖・葡萄酒などの中で家康が特に気に入ったのが“眼鏡めがね”だった。

 眼鏡は紀元前の頃にガラスを通して文字や物体を拡大して見る事が出来る事が発見されていたが、眼鏡の形になるのは十三世紀になってからとされる。日本に伝来したのは天文二十一年〈一五五一年〉に宣教師フランシスコ・ザビエルが大内義隆に謁見した際に献上したのが初出とされる(但し、将軍・足利義晴よしはるへ献上したのが先とする説もある)。この当時の日本ではまだ眼鏡を製造する技術を持っておらず、輸入品で希少だった為に高級品だった。

 家康はこの時代の人間には珍しく読書家で知られ、『論語』『史記しき』『吾妻鑑あづまかがみ』などを愛読していたとされる。しかしながら加齢による視力の低下、平たく言えば“老眼”に悩まされており、文字が見えづらかったり焦点を絞りながら読むので疲れやすかったりと苦労が尽きなかった。そうした中で献上された眼鏡は文字がクッキリと見える事に家康は大変喜んだ……と思われる。

(※眼鏡が献上品に含まれていたか、眼鏡に家康が喜んだかについてはそれを裏付ける史料は無いので、これはあくまで作者の創作です。あしからず)

 後年、徳川領へ下向げこうしたアダムスやヨーステンは家康が特に気に入った事もあり、徳川家の家臣として雇われた。アダムスは航海技術や見識を高く買われて“三浦按針あんじん”の和名で家康の相談役となり、ヨーステンなど他の船員達は帰国の途につく。余談ながら、ヨーステンは東京の地名である“八重洲やえす”の元ネタとなっている。

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