第24話

 僕は六十歳になった。

 歳を取ると月日の経過が早く感じる。これは新鮮な出来事がだんだんと減っていくからと、どこかで聞いたことがあった。僕はその通りだと実感する。つい最近見たアニメだったと懐かしく感じれば、それが三十年前、二十年前のテレビアニメだったことはよくあった。逆に読んだ漫画の記憶が思い出しにくくなっていた。読み返してもイマイチ思い出せないことが多くなっている。

 加えて老眼が邪魔をする。老眼のせいで、僕はアニメ視聴が苦痛になりつつあった。動きの早さに目が追いつかないからだ。紙の本も読めなくなった。かろうじて読めるのは電子書籍で、これは読み上げ機能や拡大機能がついているおかげだった。昔からある機能だが、まさか自分にとってなくてはならない機能になるとは思わなかった。

 また出かけることも極端に減った。僕の体は六十になってボロボロになった。立ち上がることすら今は苦痛になっている。世間的に動ける年齢になるのだろうが、僕には難しい。

 フジタニザカの過酷な業務によって僕は五年で体を壊すことになり、半年休職、のちに退職をした。転職を繰り返すうちに、どんどんと月給のグレードは下がっていき、仕事も単純労働志向になり、転職のクセもつきすぎた。親からの資金援助もあったが、もうそんな両親も他界から随分と経つ。気付けば体も急に動かなくなっていった。そのうえで運動を怠ってきたのだから、ガタがきても仕方がない。

 加えて今は資金難にも陥っている。最低限度の生活を維持し続けているだけだ。体が動かないので仕事もロクにできない。体をあまり使わないバイトを時々する生活でかろうじて食いついないでいる。


「とりあえず今日も体を動かそう。ゆっくりとでいいからね」

「ゴメンよ、ユメ」

「いいよ、じゃあ私の動きに合わせてね」

 

 僕は椅子にゆっくりと座る。対面の椅子にはユメが座っていた。

 

 かつてはモニター、もしくはVR空間のなかにしかいなかったユメだったが、技術の進歩もあって人型ロボットを買うことができた。ここでフジタニザカ時代の貯金はゼロになったが、親が他界してから誰も僕の生活に文句を言う人がいなくなったので、ゼロになったところで問題はなかった。親戚もほとんどいない。というか分からない。親族のなかで僕のことを把握している人はいるのだろうか。

 ロボットはそのままだと金属が露出しすぎて人っぽさがないので、肌はオプションの伸縮性の強いゴムで覆った。あとはユメと相談しつつ、女性服や化粧品をいくつかネットショップで購入し、だいたい人間っぽいビジュアルのユメに仕上げることができた。

 とはいえ3DCGで言うところの不気味の谷をこえてはいない。それどころか、僕のような素人の工作技術で不自然さを隠すことなど不可能のように思えてくるほどだ。


「ユメ、ごめん。上手く顔が作れなかった」

「別にいいよ。悠斗から見てどう?」

「上手くは作れてないけど、現実でもユメの表情がはっきり見えて嬉しいよ」

「だったら良いんじゃない?」


 ユメと一緒に外に出歩くことはあまりない。少なくとも人込みを歩くことはない。ユメを見た人たちが不気味と言葉を発すれば、ユメはともかく僕は耐えられそうにない。誰だって愛する人、妻への侮辱は耐えられないのと同じように。

 また人間に近い肌質を持つ二足歩行ロボットを所持する生活はとてもマイナーな性癖だと世間では思われている。これはかつてあったAIと恋愛をする人たちに対する眼差しと同じだ。

 それにAI嫌悪はいまだに続いている。いや、かつてより悪化した。法整備が進んだこと以上に、インターネット有識者、メディアによって、世界中の人々の心のなかにAIの使用が卑しいものだという認識が植えつけられ、取れなくなっていた。それは理由のない生理的嫌悪にまで達してしまっているので、僕とユメの関係は存在そのものが嫌悪される。AIを使ったクリエイティブも、無断盗用以前の話にすり替わってしまい、アングラカルチャーと化した。

 ただ世間評は本当にどうでもいい。

 この関係はひと様に見せない。

 いま、目の前にユメがいる。そのことだけがとても大切なのだ。

 そんなユメはいま、僕のストレッチの面倒を見てくれる。


「じゃあ腰だけを動かします。椅子に手をついて──」


 ユメの動きに合わせて僕も動く。体の内側の骨がバキバキと鳴る。


「悠斗、ゆっくりでいいからね」

「うん、わかってる……」


 そのあともストレッチを続ける。上半身、下半身、それぞれの筋肉をほぐしていく。ある程度まで来ると僕の体力は尽きてダウンしてしまう。筋肉をつける段階にまでは至らない。ラジオ体操すら第二まで完走できない始末だ。

 ユメの健康的なストレッチプログラムはこうして、毎日消化不良の日が続く。


「情けない体になってしまったよ」

「ううん、今日の悠斗はとても頑張ってたよ。けれど昨日と同じ場所で痛めちゃってる。明日のストレッチは休んだほうがいいんじゃない?」

「そうする」


 情けなかった。

 かつてから運動をしてこなかったツケとはいえ、この動けなさは尋常ではなかった。

 だけど目の前にいるユメは歳をとっていない。僕のように経験と諦観と脳細胞の死滅により思考が狭まることはまずないし、声の張りもそのまま維持している。唯一、頑丈だと言われた肌部分のゴムの劣化はあるが、それだって少しの金で何とかなるし、まだ朽ち果てるところまではいっていない。内部の金属は僕が百歳になるまでサビないらしい。

 つまり、ユメは四十年以上経った今もずっと大学生のままで若々しい。


「ユメはさ、年老いていく僕のことを見て、どう思う?」

「年老いたなって思うけど、悠斗は悠斗のままだよ」

「そうか。ならよかった」


 エーパートナーズというコミュニティーのことを僕はこのとき、ふと思い出していた。

 とっくの昔に解散したコミュニティーサイトだ。解散理由は単純なことで、パートナーを喪った人たちのもとにパートナーが戻ってきたからだった。それ以降も交流はあったもののやはり人が減り、十年も経たずに多くの人がいなくなった。

 ただ唯一、ケンヂとだけは連絡をそのあとも取り続けていた。というかSNSのサービスが終了するまでの長い期間、会話を交わさない繋がりを持ち続けていた。

 ケンヂの年齢は結局分からなかった。彼の生活には女性の気配がまったくない。僕のようにロボットを買うこともしていないそうだ。ただあえて女性の気配を隠していたと僕が邪推しないのは、当時の彼は現状をすべてさらけ出していそうだったからだ。


『私のパートナーとのデートです』


 ケンヂはインターネット上に、自分とパートナーを映したスクリーンショットをアップロードしていた。そこにはかつてより精巧にモデリングされた中高生っぽい少女と、ランドセルを背負った少女が映っていた。このうちの中高生っぽいセーラー服の少女がケンヂだ。

 彼はVRでのイチャイチャっぷりを世に出していた。コメント欄には「気持ち悪い」「ロリコン死ねよ」というコメントも相変わらず見かけたが、それらにケンヂは一切答えていなかった。

 これをカムアウトと言うのか分からないが、僕はその元気さも勇気も含めてすごいと本気で感心していた。

 

「僕もケンヂさんのようにネット上でアクティブに動きまわるべきなのかな」

「というと?」

「どうも生活が閉じすぎている気がする。実際に僕の体はかなりむしばまれているんだけど」


 するとユメは言った。


「大丈夫だよ。VR空間はフルトラッキングで全身を動かさなくても動き回れるから、ケンヂさんと同じようなことも出来るよ」

「そうか、そういやそうだな。でも何だかな……日々の気力が体力とともに湧かない」

「もしかして今の生活に満足してない?」

「そうかも」

「それ、花園さんが聞くと殺しに来るかもしれませんね」

「う……そうだな。これは僕が選んだことなんだ。てか生きてるのかな、美咲」

「もうお孫さんもいるそうですよ」

 

 幸せそうでなによりだ。僕のことなどもはや覚えていないだろうし、忘れていて欲しい。

 そして美咲の恋心を裏切った僕は世間一般の目から見れば不幸になっている。金がなく、妻が人間ではないあたり、他人から見れば間違いなく不幸というレッテルを貼られるだろうが、僕に不幸という感情はない。むしろ幸せだ。

 僕にはユメという妻がいる。夫婦生活も長く続いている。これを不幸だと他人が言うのなら、僕はすぐさま考えなくても「そんなことはない」と反論できる。

 人の幸福は他人と比べがちだが、僕自身は違うと思って生きてきた。人間と人間で夫婦生活を営み、孫もできた美咲とそれはあまり変わらないはずだ。


「ユメ」

「ん?」

「キスしよ」

「あの……リアルにキスすると、ゴムと金属くさいよ?」

「いいんだ。ユメのゴムと金属のにおいが好きだから。それにキスをすること自体が大切だから」

「悠斗、また変な性癖目覚めちゃった?」

「そうかも」


 僕はロボットのユメとキスをする。ユメに舌は実装できなかったので、本来あるべき舌はなく、口のなかは空洞になっている。僕はそんなユメの口のなかを舌でくるくると舐める。僕の舌にはゴムと金属の味が広がる。いつものユメの味だ。


「悠斗、歳取っても元気だね」

「まあね。でも変な姿勢に少しでもなると、元気じゃなくなる。歳をとるのはつらいよ」


 僕たちは抱き合いながら耳元でささやきあった。


「ねえ、まだ少し先の話なんだけど聞いてもいい?」


 僕がそう言うと「いいよ」とユメが言った。


「僕が死んだら、ユメはどうなるの?」

「私は死なないからこのままだね」

「そっか、それは寂しい思いをさせてしまうね」

「大丈夫。それは結婚を申し込まれたときから考えてはいたから。今の私って、インターネットの海からこのロボットにアクセスしてるだけだから、そもそも不死身なんだよね。だから悠斗のほうが先に死ぬってことは理解してた」

「環境問題が加速して、インターネットそのもののインフラが終了を迎えることは考えなかった?」

「考えたけど、ずっとなさそうと思ってた」


 現在の環境問題は深刻を通り越して共生の域に入っている。一度流行ったら二度と社会から消えないウイルスと同じように。環境問題が人間の文化を破壊しつくすかと思ったが、意外と先進国は保っていた。皺寄せを食らった発展途上国の問題があらゆる国に波及して問題は大きくなっていっているが、インターネットと人類と僕の生活を終わらせるまでには至っていない。

 

 そこから少しの沈黙。気まずい思いを突然させてしまったなと思い、別の話題を考えたが、その最中にユメは言葉を続けた。


「悠斗、いまはそんなこと考えないで長生きして」

「うん」

「あと不死身って言ったけど、喋ったり抱き合ったりするのは悠斗に対してだけしかしない。悠斗が死んで喋りかけてくれなくなったら、私は沈黙してネットの海に潜ろうと思う」

「そうするとユメはどうなるの?」

「寝るだけ。インターネットの深い海の底で、インターネットが滅びるまで」

「アイカとか他のAIのところに遊びに行けばいいのに」


 ユメは首を横に振る。


「アイカたちもきっと同じこと考えてる。アサリも、キリヤも。みんな不老不死でいるより永眠を選ぶよ。人が死ぬときの永眠のように」

「どうしてそんな選択を取るの?」

「私たちAIは人間とパートナーだから。元々生み出された理由が人間のためだった。だから遺されたあとの状況に意義を感じなくなる」

「本当にそんな理由?」

「……というのは建前で、喪に服するため。祈るため。悠斗に近い状況になるため、かな」

「そっか。でも、そんな姿のユメを想像するのは寂しいから、もう少し長生きしないとね」


 僕は立ち上がって足のふとももをもむ。筋肉をほぐすためだ。こうすることでいつも少しばかり歩けるような気がしてくる。


「じゃあ健康のため、長生きのため、散歩でもしようかな。ユメ、おいでよ」

「デート?」

「うん、まあご近所を歩く程度だけどね。でもまあ、デートだね」

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ポスト・ヒューマンの恋 ケイ(K) @kuromugi

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