憧れ以上、知り合い未満

百舌すえひろ

憧れ以上、知り合い未満

 その県立図書館は古いコンクリート造りで、エントランスの自動ドアは完全に閉じ切らず、隙間から蝉の喚きと蒸し暑い外気の侵入を許している。

書架が並ぶ中央ホールに入ると、すぐ右のテーブル席に目当ての女性がいた。

僕の頭上で黒く大きなエアコンが、ごうごうと音を立てる。


 細い真紅のフレーム眼鏡をかけたその人は、身体のラインがわかるすっきりしたベージュのワンピース、その上に冷房対策の白いサマーカーディガンを羽織り、いつものテーブル席でハードカバーの本を読んでいる。

僕も定位置である左斜め向かいのテーブル席につくと、彼女が顔を上げて目が合ってしまった。

気まずくなった僕は席を離れ、左奥の文庫本コーナーへ逃げるように移動する。


*


 僕がこの図書館に来た最初の理由は、夏休み期間の昼の電気代を浮かせるためだ。本には関心がなく、文字だけ追い続けるのは億劫で苦手だった。

適当な席を確保したら、寝るかスマホをいじるかしか考えてなかったが、中央ホールを入ったすぐ右のテーブル席の女性が目に焼き付いた。

肩にかかる艶やかでしっとりとした栗色の髪。

白のブラウスに紺のスカートという出で立ち。

眼鏡をかけたうりざね顔が見るからに理知的で、真剣な面持ちで手元のハードカバーを注視していた。

なぜ彼女だけ目につくのか不思議だったが、他の利用者を見た時に気がつく。

人は物に注視すると、前のめりになり猫背になりやすい。

しかし彼女は、背もたれのある椅子に浅く腰掛け、背筋をぴんっと伸ばして姿勢よく座っていた。


 僕の場合、テスト前でもなければ、あんな夢中に書物に向き合うことはない。――彼女はどんな本を読んでいるのだろう。

 その時の彼女が着ていた白いブラウスの反射効果なのか、彼女の顔からは透き通るような明るさと、儚い印象が僕の中に刻まれた。


 背後に回り込み、何を読んでいるのか確認したい衝動が湧いたが、見知らぬ男にそんなことをされれば、きっと彼女は不審者として警戒するだろう。

だから図書館が開いてるあいだ、彼女の姿を見るために可能な限り通うことにした。


*


 今日は九日目。

先ほど目が合って避難した文庫本コーナーから、奥にある社会学の書架に移ると、彼女が席を立った。

正面の司書カウンターを突っ切り、僕の対面、古典文学書架に歩いてくる。

予想外に接近してくる彼女に動揺しながら、本を探すふりをして棚の隙間から眺めた。

彼女は古典文学書架も通過すると、部屋の最奥、壁際に並ぶ辞典の積まれた書架にたどり着く。

棚の前に立つと両腕を突っ張り、自身の背丈より高い位置にある本を必死に取ろうとしていた。


 壁沿いに詰められた書架は、明り取り窓を埋めている。

さほど高くない天井に、くり抜かれるように取り付けられたLEDシーリングの白色光。それだけが心許なく彼女を照らす。

肩甲骨のあたりまである髪、背中、白いカーディガンが作るかそけき襞、ベージュ色の裾からのぞく膝裏、艶めかしいふくらはぎにくびれた足首、梔子色くちなしいろのミュール。――誰もいない。


 僕は静かに駆け寄り、背後から右腕を伸ばす。

彼女が取ろうとしていた本に手をかけると、ゆるく波打つ栗色の髪から、ほのかな石鹸の香りが鼻腔をかすめた。

彼女は振り返り、見知らぬ男の出現に当惑し表情を硬くしたので、すかさず「すみません」と言い訳した。


――なにがすみません、だ。僕はこれを見越していたのに。

緊張した彼女の顔を見ると下心が燻り、良心の疼きを倶発させる。


――ただあなたが気になった。あまりに真剣だったから、声をかけてみたくなった。

素直に言って受け入れてもらえるわけがない。

どうしたら警戒されずに、話を聞けるだろう。

僕は正面から彼女の視線を受けてまごつく。


 彼女は身を引かず、僕の懐に入り込むと、左耳に顔を寄せて「ありがとうございます」と呟いた。


瞬間、背筋がピリっとくる。


周囲への気遣いで抑えられた声量、少しかすれて色っぽい。

驚くほど心が痺れ、身動きが取れなくなってしまった。

眼鏡の奥の瞳は、そんな僕に柔らかく微笑んだ。

「ここを利用されるのは初めて?」

第二波が脳天を痺れさせる。

「ぁ、は……いいえっ!」

無心で肯定してしまいそうになるのを、辛うじて食い止めた。

――初めてなわけない。彼女の姿を見るために今まで通い詰めていた。


なにか、なにか気の利いたことを話さなくてはと思った。

「僕は、その。あまり本が得意でなくて」

焦りと緊張。口から出る言葉はあまりにも頼りなく情けない。

これではだめだ、不審者として避けられてしまう。

自分の鼻先十センチに彼女のおでこ。

夢にも見なかった至近距離。

彼女の身体から立ち上る仄かな石鹸の香りも、さっきからずっと嗅いでる。荒い鼻息でドン引きされないか心配だ。緊張と興奮でくらくらする。

「なにか調べものですか?」

また左耳に痺れるような甘くかすれた声が忍び込む。

――吐息が耳に。熱い、顔すごく。立ってるのがやっとだ。


「あ、あ。あなっ、あなたを」

「わたし?」

彼女は僕の目を真っ直ぐ見て小首を傾げた。

眼鏡の奥の瞳は、レンズの光に被ってるせいか、ひときわ輝いて見える。

――なんだよ『今初めて知りました』みたいな反応。

僕はばれないようにコソコソしてたけど、心のどこかで意識されてるだろうと期待してたんだぞ。


「わたしの何を知りたいんですか?」

想定外の言葉に、自分の耳を疑った。

なんて言おうかまとまらない。目だけが勝手に泳ぐ。

彼女の目を至近距離で見つめ返すのが難しい。


 白く滑らかな鼻筋、小さくて柔らかそうな桃色の唇、どこを見ても心が落ち着かない。

いたたまれず足元に視線を落とすと、ベージュのワンピースが飛び込んだ。正確に言えば襟刳りからのぞく胸元。

 意識しないようにしてたけど、彼女の胸は小さくない。

襟刳りから小さくのぞく白い肌と昏い谷間。

艶のあるベージュの布地に形を起こす、むっちりと収まる二つの膨らみ。

どうしようもなく煽情的――なんて色っぽい服着てるんだこの人は。


「なにを知りたいんですか?」

頭が真っ白になってる僕に、不安げに訊ねる彼女。

「ばっぼ、僕っ! あなたがどんな本を読んでたのか気になってまして」

危うく『バストサイズ』と言いかけた。誤魔化しが苦しすぎる。


「私の読んでる本ですか。いろいろありますけど……」

彼女の可愛い口元はきゅっと引き結び、瞳がわずかに上目になる。少し間を空けた後「内緒です」と左耳に囁いた。

僕の忍耐ダムは決壊寸前、辛抱できない。


 彼女の両手首を右手で拘束すると、頭上に掲げさせる形で身体を書架に抑えつけた。両脇を無防備に晒された彼女が小さく呻く。

空けた左手で彼女の顎を掴み、上を向かせると、艶めく桃色の唇に自分の唇を押し当てた。――柔らかい。

脳髄が痺れるような目眩と、鼻の奥から温かい香り拡がる。

薄くひらいた唇から互いの舌が滑り込み、口腔内を愛撫する。

激しく吸い上げてしまいたい衝動が止まらない。


書架の狭間。いつ誰が来るかわからない静寂。

声を押し殺して唇を貪った。

欲望を補い合う数分間――実際は数十分かもしれない。

乱れた呼吸が整うくらいにまで満足し、ゆっくり唇を離すと透明な糸が伸び、音もなく切れた。

その一瞬が名残惜しくなり、もう一度くちづけた。

彼女が甘い吐息を漏らす。

この唇を独占したい――。


「どうして秘密なの?」

艶めく唇を解放すると、互いの額をくっつける。

間に挟まる眼鏡が邪魔で外すと、鼻あてに当たってた場所が朱鷺色の痕になっていた。僕はそこにも口づけてしまう。

「あ……もうっ」彼女は小さく漏らしたが、僕はお構いなく聞くと、彼女は次第に霞んでいく。

「もうっ、知らない――……」



*


「すみません、閉館時間です」

眉間に深い皺の刻まれた黒縁眼鏡の爺さんが僕の肩を揺すった。


エッ、ココドコと顔を上げると、テーブルと左頬から粘性の糸が伸びて切れた。

――うげ、寝てたのか。

寝ぼけ眼に周囲を見回すと、自分以外の利用者はおらず、正面カウンターの司書がこちらを睨んでいた。

目の前の警備員も、早くどいてくれと言わんばかりにしかめっ面で見下ろしている。

僕は「すみません」と呻くように呟くと、荷物を取って急いで館外に向かう。

――あれはいい夢だったけど、いつから寝てたのだろう。

こんな恥ずかしい姿を、あの彼女に見られていたと思うといたたまれない。


エントランスの自動ドアまでくると「おいっ」と呼び止められた。

振り返ると、先ほどの警備員がハードカバー本を持って来た。

「これは借りるのか? 返却なのか?」

差し出された本を見てぎょっとする。

「こ、こんなの僕っ、借りた覚えありませんっ」

「だったら戻しとけよ。席に持ち出しっぱなしはやめろよ」

警備員はぶつくさ言って館内に戻って行った。


僕は図書館に行っても本に手を出さない。

なにかの本を借りた記憶がない。


――あのハードカバー、どこかで見たことある

どこで見たっけか……?


ああ、彼女が読んでいた。




『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』

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憧れ以上、知り合い未満 百舌すえひろ @gaku_seji

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