私だけが知っている素顔

藤 ゆみ子

私だけが知っている素顔

 視界の大半を覆い尽くすほどの大きな段ボールを抱え急いで理科準備室へと向かう。

 

「先生ー! 水沢先生ー!」


 両手がふさがった状態で理科準備室のドアを開けるのが困難であるため中に居るであろう化学教師水沢先生に声をかける。

 だが、何度呼んでも返事はない。


「いないのかな」


 仕方ない、そう心の中で呟いてドアに靴の裏をピタリとつけ少し押しながら横にスライドさせる。隙間ができた入り口に爪先を滑りこませそのまま横に蹴りあげるようにドアを開けた。

 行儀が悪いと思いながらも段ボールを床に置いてドアを開けるという選択肢はなかった。

 一度床に置いてまた屈んで持ち上げるという動作は思っている以上に膝や腰に負担がかる。

 いくらピチピチの高校生といえどクランプが二十本入った段ボールを一人で持ち上げるのはけっこう大変だ。

 なぜこんな重い物を一人運んでいるかというと自分で申し出たからだ。

 放課後の理科準備室、少し気が緩むこの時間帯、他の生徒には譲れない。

 だが、杞憂だったようだ。


 誰もいない準備室に重い段ボールを運び込み一番手前の机に置いた。


--バキッ


「えっ」


 本来するはずのない音がした場所を恐る恐る見ると段ボールのすぐ側には銀縁の薄いレンズのメガネが片方のテンプル部分を失い横たわっている。

 そして段ボールの下から片方のテンプルの端がチラリと覗いていた。


「うわやばっ」


 段ボールの下からテンプルを抜き出しメガネ本体に合わせようとしてみるが当然つくはずはない。


「水沢先生なんでメガネ外してるの……しかもこれ……最悪だ……」


 手に持ったメガネのレンズを覗いてみたが、それはガラスの壁が映るだけで視界が歪むことはない。これはだて眼鏡だ。


「あれ? 椎名さん?」


 水沢先生が理科室側から入ってきた。


「水沢先生、あの」

「どうして椎名さんがいるの?」

「ああ、クランプを運んできたんです」

「ええ?! 僕、田辺くんに頼んだんだけど。重かったでしょ」

「重かったですけど、それはいいんです。それより先生すみません、メガネ壊してしまいました」

「メガネ? ああメガネ置いてたんだ。いいよ。実はだて眼鏡なんだ。なくても困らないから。それよりクランプありがとね」

「いえ、私が持って行くって言ったんです。それより先生、絶対メガネはかけておいて下さいね」

「え? うん。また新しいの買うよ」


 またっていつなんだろう。明日先生がメガネかけてなかったら私のサングラスでもかけてもらおうか。

 そんなことを考えながらもう一度メガネを壊してしまったことを謝って準備室を出て行った。


 私はずっと前から先生の素顔を知っていた。メガネをかけていない先生の素顔。私だけが知っている。これから先もそうでなければ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私だけが知っている素顔 藤 ゆみ子 @ban77

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ