第11話 宮仕え その4 秋花の節句(しゅうかのせっく)
森雅羅姫の入内が正式に決定した。
護霊の帝からは森雅羅姫に対し、豪華な結納の品が贈られた。
そして森雅羅姫からは、婚礼の証と感謝の意を込めて宝剣を献上することになった。
不二の都に伝わる強力な霊剣、『金地螺鈿荒咬剣(こんちらでん・あらがみのつるぎ)』である。
結納の儀を執り行ったあとは、おふたりだけで初めて一日を過ごすことになる。
それは来たる丞月(じょうづき:太陽暦十月)の十日、秋花の節句の日と決まった。
秋花の節句は、凄辰の大祭とは違い、大規模で派手なものではない。
だが、都の人間には貴賎を問わず重要な催し物であった。
この日は無病息災を祈願するのが目的である。邪気を祓う草花を飾り、厄除けの大きな人形を祀り、薬草を束ねて作った薬玉を玄関や軒先などに飾る。
そしてその日、護霊の帝とその近しい親族は、花に付いた露を綿で吸い、それで体を拭いて香気で体を包む。一種のアロマである。
この日、森雅羅姫のところに大きな木箱が届いた。そこには箱いっぱいの赤や橙の茨(薔薇)の花と、その上を覆うようにして綿が敷き詰められていた。
この木箱が届いたということは、森雅羅姫が護霊の帝の親族としてすでに認められていることを意味していた。
これからこの薔薇の香りを吸った綿で、森雅羅姫の体を拭くことになる。本来ならこれは側近の三つ子の鬼女の役目である。
だが森雅羅姫は娃瑙たち五人にこそやってもらいたいと頼んできた。
抗議の声も上げず、三つ子は無言のまま部屋を下がった。部屋の中には森雅羅姫と娃瑙たち五歌仙だけになる。
しゅるり、と姫が単衣を脱ぐ。
即座に真っ白な雪のような肌が目に飛び込んできた。眩しいほどであった。乳房は大き過ぎず小さ過ぎず、ほどよい大きさで、つんと張って主張する。腰は心配になるほどくびれており、その下にふわっと曲線美を描いて膨らむお尻がある。
色気と、儚さと、しかし矛盾するようだがどっしりとした安定感。
――完璧な黄金比。
女性としての理想の自然な肉体美があった。
例えるなら神話の美の女神。
同じ女なのに、思わず娃瑙は見蕩れてしまった。ほかの四人も同じ反応だった。
一糸も纏わず、森雅羅姫は無防備に娃瑙たちに身を委ねる。
薔薇の露を吸って濃厚な香を放つ綿で、姫の体を満遍なく拭いてゆく。
顔も首も、肩も胸も、腕も指も、背中も腹も、腰も股も、尻も太股も、足もその指も。
拭いたあとには森雅羅姫自身の匂いと混ざり、得も言われぬ艶やかな香気が立った。
すべて拭き終わり、再び衣装を森雅羅姫に身に付けさせた。不二の都でも特別なときにしか着ないものである。
着替えが終わると軍司たちと供に、薊式部が部屋に入ってきた。
「森雅羅姫さま。そろそろお時間です。護霊の帝もお待ちですよ」
「わかった」
森雅羅姫は娃瑙たちに微笑んだ。
「おまえたち、ありがとう。……では、行ってくる」
森雅羅姫は献上品である『金地螺鈿荒咬剣』を両手で掲げ持ち、三つ子の鬼女に先導されて歩み出した。
その周りを護衛の軍司たちが囲んで進む。
そうして、森雅羅姫は結納の儀の場へと向かっていった。
「さあさあ、入って入って」
森雅羅姫が出て少し経って、薊式部が急に十数名の女官たちを招き入れた。誰もが琴や笛を手にしている。彼女ご自慢の和楽団であった。
「私たちにできるのは、せめてお帰りになったときに豪華におもてなししてさし上げることだけ。とすれば、ここは楽団の出番ですね」
眼鏡をくいっと片手で上げた。腰には見慣れない、小ぶりの琴がくくりつけてある。小さな箱くらいの大きさしかない、不思議な形状の琴だった。
娃瑙たち五人は、部屋にすみに固まって座り、姫の帰りをただ待っていた。本当なら草花や人形を飾りたかったし、薬玉だって中身を引っ張りたかった。
それでもただじっと待っているのは、ひとえに姫の幸せを祈っているからだ。
彼女は、森雅羅姫は、帰ったときいったいどんな顔をしているだろう。どんな笑顔を見せてくれるだろう。
突然、廊下からドタドタと数人の足音が聞こえてきた。
格子の向こう側から声がかかる。どうやら望月宗像のようだ。足音の数からすると身を守る軍司たちも一緒である。
「森雅羅姫はおられるか。もう刻は過ぎております。お早くお支度を」
…………え?
それって、どういうことなの……?
「森雅羅姫さま? ちょっと、失礼しますぞ」
宗像が格子を開けて入ってきたが、薊式部はふーっと溜息を吐いただけだった。
「もう姫さまは出発なされましたよ」
「なに。まさか。わしは内裏から来たのじゃぞ」
楽団の女官たちが、一斉に楽器を弾く構えをとる。娃瑙は場の空気が変質していくのを敏感に感じ取った。
「姫さまは、護霊の帝のいらっしゃる所へ向かったのではありません。ふっ、くくくっ」
薊式部が引きつったような笑みを浮かべた。
その禍々しさに娃瑙が慄いたとき、薊は「もう、いいわよ!」と叫んで右手を高らかに挙げ、ばちんっと指を鳴らした。
そこからの数秒間は、時間が非常にゆっくりとなった(スローモーション)ように娃瑙の目には映った。
――数秒の間、音が消えたように感じられた。
宗像の周りにいた軍司たちがすらり、抜刀するや切りつける。
吹く血煙。倒れ込む宗像。
ほぼ同時に燕角が懐紙を取り出し叫ぶ。
「護法識神っ!!」
瞬きするわずかな時間だけ人の形を取り、すぐにずたずたに切り裂かれて宙を舞う。
摩利が倒れた宗像に駆け寄る。
薊が札を宮須の顔に投げつける。弾かれたようにして倒れる宮須。
「羞天ちゃんっ、逃げてっ!」
娃瑙が羞天をうしろへ突き飛ばすと、彼女はすぐに察して透明になり姿を眩ました。
そして夕顔と藤壺が、娃瑙を守るようにして立ちふさがる。
――音が戻った。
心臓がばくばくと動悸している。
はぁはぁと息が荒い。
「ちっ、ひとり逃したわ」
「あ、薊式部、あんた、やっぱり」
「やっぱり? ふふっ、じゃあ、あの夜、話を盗み聞きしていたのはあなただったのね。お馬鹿さん、誰かに相談していればいいものを」
「あんた、なんなの。なんのつもりなの? 森雅羅姫はどこに行ったのっ!?」
「はあ? なんのつもりって、決まってんじゃないの。望月家の当主と森雅羅姫を殺して、入内の話をブッ潰すのよ。今日は結納の儀だからって、望月家も異界の連中もみーんな油断しててさぁ、絶好の機会だったのよね」
「なっ、し、森雅羅姫さまを、こ、殺すって!?」
「そーよ、ふふ。どうしてって顔してるわね。知りたい? いーわよぉ、教えてあげる。私はね、今もまだ美峰家の部下なの。こっち側に這入り込んでたってわけ。みっちゃん……美砂三位とだってほんとは仲いいのよ。あーあ、味方のふりも楽じゃなかったわ」
薊が摩利に抱き起こされた宗像のほうを見た。
「ん? あの男、斬られたのにあまり血が出てないわね。燕角の護法術か、運の良い奴」
摩利が宗像の体を抱えて軍司たちを跳ね飛ばし、外の廊下へ飛び出た。
「お前たちっ、そいつを逃がすなっ! ちょうどいいからその女もろとも斬り殺せ!」
摩利を追って、軍司の男たちが外に出る。軍司たちが刀を摩利に振り下ろした。
さしもの摩利も多方向から斬られ、刺され、崩れ落ちる。
伏した摩利の体は宗像ごと、男たちに格子の向こう側に連れていかれた。彼女の姿は娃瑙の視界から消え、やがて血飛沫が飛んだ。
「摩利さんっ……」
燕角は渋い表情だった。
「ごめん。護法識神は一枚ちかないの」
ぱんぱんっと薊式部が手を叩いた。急かすように。
「さあさあ、時間は大事。はやく、あんたたちも処分しなきゃね」
「何? 私と燕角を同時に相手するって言うの?」
薊は腰から小さな琴を取った。備え付けの柄をおもむろに取り付ける。
「まあ、私ひとりなら、あんたたちの敵じゃないでしょうねえ。でも」
柄を持って琴をあごの左側に当てて固定し、右手に短い弓を持った。
なに、あの楽器? 二胡? 馬琴?
「私には、手塩にかけて育てた楽団がいる」
楽団の女官たちが、一斉に音楽を奏で始めた。
薊も弓で琴の弦を弾く。
……っ!?
娃瑙は頭を殴られたような衝撃を受けた。
見ている景色が波のようにうねり、曲がって、気が付けば倒れ伏していた。
横を見れば燕角も倒れている。
大蛇の夕顔もだ。その長い体は伸びきって力強さが感じられない。とかげの藤壺にいたっては仰向けになって舌を口からはみ出させていた。
「な、なあっ」
頭が痛いっ! 目眩がする。なんなのこれっ?
「ふふふ。これはね、音の鞭で打ち据える『禁奏楽の術』って言うのよ。どんな妖術師や魔物にも有効なの。脳髄に直接響く旋律ですべてを灼き切るのよ。さしもの『へびとかげの君』や『孔雀明王の行者』も、この術の前には形無しね。でも幸運だったわぁ、腕力だけで戦う摩利は一番の苦手だったのよ。あの女さえ消せばあとは芥(ごみ)ね」
薊は体を音に委ね、小刻みに揺れながら琴を弾く。
その顔は恍惚として、どこか正気を失っているかのようだ。
「ああ、残念ねえ、本当はあなたたちまで殺すつもりはなかったのよ。でもね、ここまで深く森雅羅姫と関わりを持ったら放っておけないわ。特にあなたは、護霊の帝と森雅羅姫との逢瀬を取り持ってしまったのだから」
そんな独り言のようにつぶやく薊の声ですら、娃瑙の頭には響いて痛い。
「や、やめて、この音、止めてっ」
「ばあーっか。やめるわけないでしょ」
娃瑙は腹に息を溜め込んだ。大きな声を出すしか、出来ることはなかった。
「あ、薊式部! 姫さまは、森雅羅姫さまはどこよっ!」
雑音めいた娃瑙の台詞に、薊は不快さを隠そうとしなかった。眉を片方だけ上げ、赤い唇をくねらせて言葉を発する。
「煩いわねえ。もうそんなの、どうだっていいじゃないの。とっくに美峰家の武官たちに殺されてるわよ。まあ、あの鬼姫もちったあ術が使えるらしいけどさ、あの性格で戦えるかしらねぇ。あ、夜禮黎明に期待しても無駄よ。今頃、みっちゃんと玻璃磨の法師に術合戦仕掛けられて、とても手ぇ離せないだろうからさ。くくっ」
「な、なんてやつ……。あんた、ずっと森雅羅姫のそばにいたじゃないのっ! こんなことして、なんとも思わないの!? それでも人間なの? 心があるの? 森雅羅姫さまのお気持ち、知ってるんでしょ!? 護霊の帝のお気持ちも!!」
「ばかねえ、心とかそんなの関係ないの。これは、お仕事。それにさあ、何が悲しくて人の恋路を取り持たなきゃなんないのよ。ふたりの気持ち? 結婚したいって? 知らないわよ。そんなの望まない人も多いわよ。まったく、お互い立場を考えろって。だいたい今の護霊の帝は美峰家の出身のくせに、いろいろと自分の意見を言ったりして同族からもウザがられてるんだってさ」
調子に乗っているのか、薊は饒舌だった。
聞きもしないことまでぺらぺらと話している。
「今回の入内の件だっていきなり言い出してさぁ、異界の鬼姫と一緒になりたいって、あははは、今の都の状況分かってんのかって話よ。都の民も納得しないわよねえ? 近濃海や都の街中に異界の魔物が出たのはつい最近のことじゃない。異界の連中がど・ん・な・に恐ろしいか、民はよぉ~く分かったはずよお」
娃瑙は薊の顔を見た。にやついている。赤い唇がひん曲がっている。
それは、犯罪の告白も同然の台詞だった。
そう、か……。あの騒ぎに、薊式部は一枚噛んでいたのね……。
「うん、まあ、幸い、美峰家の血族に霊力の高い人はまだ何人かいるしね。最悪、今の護霊の帝には退位して頂いて、美峰家の言うことをきちんと聞く方を次代に継がせれば、ね」
「さいって……え……」
ぎんぎんと頭の中に音が響く。琴の音、笛の音、薊の声。
意識が暗転しかけるのを、必死で食らいつく。感覚のない膝を無理に立たせ、腕をつっかえ棒にして起き上がる。
せめて、あともう一言。言葉だけでも一矢報いてやる。
「薊式部、あんたに、ひと……こと……言ってやるわ」
薊の顔が驚愕に歪んだ。
娃瑙が立ち上がるのを、恐ろしい面持ちで見つめている。
「森雅羅姫を……恋する乙女を、馬鹿にするんじゃないわよぉっ!!」
薊が琴の弦に当てた弓を、素早く前後させた。
高い音色とともに、心を押し潰す衝撃が襲ってくる。
「ぎゃふっ」
娃瑙は再び倒れ伏した。もう、力が出ない。さっきの啖呵で精一杯だった。
自分の無力さが悔しい。
これで、これでもう、おしまいなの……?
意識が閉じる、その寸前だった。
ぎぃいやぁん。
突如、不協和音が響いた。
薊の持っていた琴に、どこかで見たことのある刀が突き立っている。
続いて外から矢が二本、三本と飛んできた。楽団の女性や楽器にそれは次々と刺さった。途端に恐慌が生じる。
悲鳴が上がり、演奏が途切れた。
「だ、誰だっ!」
割れた格子の外にいたのは、刀を片手に持った女官と、弓を射る狩衣姿の男。
「さ、沙羅っ、伊周っ!」
「ちっ!」
薊が刀を琴から引き抜いて、娃瑙目がけて振りかぶった。
その刀が赤黒い紐に巻き取られて、薊の手から奪われる。
「なっ、なにっ?」
ぱっと、何もない空間にいきなり女子が現れた。
「ごめん、納言ちゃん~。あのふたり探してて遅れちゃった。待った?」
「羞天ちゃああん」
「くっそぉ、あの妙な生き物の術かっ」
薊式部がわめきながら袖に手を入れた。何か取り出す気のようだ。
そこへ沙羅が飛んできて娃瑙の前に立った。
ぐっと唸って、薊は動きを止める。
伊周もやって来て娃瑙に肩を貸す。そしてぐるりと周囲を見渡して大音声を上げた。
「ここにいる女たちっ、おとなしくすれば命までは取らん! ただし怪しい動きをすれば即刻殺す! 女でも容赦せんぞっ!」
その声を聞いて、完全に楽団員たちは腰が引けた。脅しではないのは先程の攻撃で明らかだ。実際に何人かの女官に矢は刺さっている。
追い打ちをかけるかのように、壁がぶち壊された。土埃のなかから出てきたのは数人の男たちと摩利だった。
壁の向こうには男が何人か血まみれで倒れている。先程彼女に斬りかかった軍司たちだろう。娃瑙が見た血飛沫は、どうやら彼ら自身のものだったようである。
「ま、摩利さん、無事だったんだ。よかったあ……」
摩利は黒髪をふぁさっと後ろへ流し、こともなげに言い放つ。
「わたくしは、柔肌ですから。刃物で怪我したことはありません」
柔肌って、そんな阿呆な。
だがたしかに、はだけた服から覗く摩利の肌にはミミズ腫れのような赤い跡こそあれど、まったく血が出ていない。本当に平気そうだ。
「宗像さまもご無事です。ご安心ください」
残った男たちが刀を振り下ろした。摩利の肩や額に当たるも、滑るようにして胸の立間に入る。はだけた大きな乳房に刃は挟まれ、びくともしない。
蠅でも払うかのようにして、摩利は左右に手を振った。あっという間で何回振ったか見えないほどの素速さだった。
刀が金属片になって散り、男たちの体は壁や天井に飛んで潰れて血の花を咲かせた。
摩利さん、本気だとあんな凄いんだ。ちょっとこわ……。
娃瑙は薊式部に向き直った。彼女は袖に手を入れたまま、動けずに突っ立っている。
「薊式部。よくも、やってくれたわねっ」
完全な形勢逆転であった。
しかし追い詰められているのは薊式部のほうなのに、彼女は攻撃的な目つきを緩めていない。
娃瑙は夕顔に命じて尻尾で思いっ切り薊をぶん殴った。鼈甲縁の眼鏡が割れて飛ぶ。
「森雅羅姫は、どこなの! 言いなさいっ!!」
一転してへらっと薊は笑った。
「そう? 知りたい? じゃあいいわよ。案内してあげる」
「それよりおまえ、その手を袖から出せ。ゆっくりとだ。妙な動きをすれば即座に肩から下を切り落とす」
伊周が凄むと、薊は渋々袖から手を抜いた。
袖の中身を調べると識神やら札やらが入っていた。もちろん全て取り上げる。楽団たちは駆けつけた検非違使隊によって捕縛された。
そして薊を五歌仙と沙羅、伊周で囲み、森雅羅姫のところへ導かせることになった。
「おい、薊式部とやら。今回のことを護霊の帝はご存じなのか」
「あ、伊周、それはなさそう。さっきこの年増から聞いた」
年増と聞いて、ぎっと薊が睨む。
なによ、これくらいの悪口、なんなのさ。
薊は劣勢であるにも関わらず、憎まれ口を叩いた。
「あの方もまあ、酔狂よね。幼少のみぎりにちょっと遊んだ程度の女との約束を、律儀に守ろうなんて。しかもこっちにしてみれば、相手は恐ろしい異界の鬼女よ?」
娃瑙はがつっと薊の脛を蹴った。「いった」と顔をしかめる。
歩きながら伊周が尋問を始めた。
「で、結局おまえは何者だ。美峰家の配下なのは分かったが、どこの家の出だ?」
「……」
「おい、黙ってんじゃねえ」
ふいっと横を向いて、半目で庭を見る薊式部。
「てめえ」
「あたしが、憑依して喋らせましょうか。生霊を重ねれば、頭も読めますの」
宮須が淡々と述べたが、声の底に怒気が混じっているのはその場の全員が分かった。
さすがにこれには薊も効いたようだ。冷や汗を垂らしてうたい始めた。
「なにっ!? 不二の都の王族に仕えていただって? あそこに、普通の人間がいたのか!」
「あんたたちは不二に人間なんか住んじゃいないって思い込んでるけどさ、それがちゃんといるのよ。人間ならこっちに潜入してもバレないでしょ? 私は森雅羅姫の血族と対立する派閥に雇われて、美峰家の渡りでこっちに来たのよ。あっちもあっちで色々あんのよ」
生まれも育ちも不二の都の人間……!
道理でこいつは燕角の記憶にないわけだ。
美砂三位や凜々子さまは、こいつの正体を知っていたのだろうか。
知っていたのかも知れない。
自分たちの知らないところで様々な権謀術数が渦巻き、その深淵には到底辿り着けない。
自分はただ偶然にその場に居合わせ、偶然に知り得た。それだけだ。
娃瑙の腹の底に、悔しさや怒りといった気持ちを押し込めた塊が沈んでいく。
「ところでさあ、いったいこれからどうするつもりなの? ふふっ、どうせ今頃行ったって、鬼姫はとっくに膾切りよ。あんたたち、今は勝ち誇ってるけど、身の振り方を考えておいたほうがいいんじゃないかしら? 今、政権を握っているのは美峰家の当主よ。太政大臣に逆らって、あんたたちのお父さま方が無事に済むかしら?」
それを聞いて、娃瑙たちの顔色がはっきりと曇った。
それも無理からぬこと。みな、中流貴族の家系なのだ。権力の中枢まで上り詰めた上流貴族に太刀打ちできるわけがない。
しかし娃瑙は薊式部の襟首を掴んで引き寄せ、鋭く睨みつけた。
「誰が政権を握ろうが、ひとりで何ができるのよ! 私には政治のことなんてよく分からないけど、これだけは言えるわ! 上にも下にも人間がいなきゃやっていけるはずない! その人間の心をないがしろにして何が政治よ! そんな連中に民だって付いてくるもんかっ!!」
「……ぐっ、このガキがぁ」
そんなやり取りをしている間に、目的の場所へ近づいたのが分かった。
ひどい血の臭いがするのだ。
そのうち廊下に血の河が出来ているのが見えた。流れは横にも逸れて、庭にぼたぼたと真っ赤な滴を垂らしている。
急いで奥へ進むと、寝殿造りの大きな一間に、累々と死体が折り重なっていた。
切り傷だけでなく、火傷のような跡や、獣に食い千切られたような噛み跡も見られる。
死体の半数以上は男の武官だった。刀や弓、薙刀で武装していた。
彼らだけではない。異界の者も多く倒れている。
みなすでにこと切れていた。
森雅羅姫は奥の壁に、半分座った姿勢でいた。息があるのは彼女だけのようだった。
「し、森雅羅姫さまっ」
娃瑙が駆け寄る。姫はひどい有様だった。
絢爛な重ねの衣装は短冊のように切られ、左腕は大きく刀傷を受けて血を流し、頭の角は数本折れていた。右手には献上するはずだった宝剣が握られている。
「そなたら……、無事であったか。ああ、よかった」
「なにをおっしゃいますか! 姫さまこそ」
伊周が感嘆の声を上げた。決してお世辞ではない。
「これは、森雅羅姫さまがおやりになったのですか? これだけの刺客を。ざっと見ても数十人いるのに」
「いや、妾はほとんど何もしておらぬ。この者たち、不二から連れてきた者たちが、妾の危機を感じ取って現を割って駆けつけてくれたのだ。……だが、みな妾のために死んでしまった。この三人も」
見れば姫の膝元には、三つ子の鬼女たちが血の海のなか、息絶えていた。
森雅羅姫はそっと三人の髪を梳いた。
「妾の微妙な立場を理解して、それでも慕ってついてきてくれたのに。妾はこちらの都に早く馴染もうと、あえて遠ざけておった。今さら悔やんでも詮無きことだが、不憫なことをした」
場違いに大きく、息を吐く者がいた。薊式部だった。
「あーあ。まさか刺客をこれだけ送っても駄目なんて。こっちの宮中はとっても綺麗で、私もここで働くの気に入っていたのに……。しょうがないわあ、こうなったら何がなんでも森雅羅姫さまには死んでいただかないとねえ」
言い終わるや、薊は体の一番小さな燕角に体当たりをしかけた。そのまま落ちている刀を拾い、森雅羅姫に向かって放り投げる。
伊周がこれを防いだが、娃瑙は薊式部の手が再び袖に入るのを見た。
まさか、さっき取り上げたもの以外にも何か隠していたの?
薊が袖から取り出した品に、娃瑙は見覚えがあった。
不可思議な文字の刻まれた、短刀ほどの木の棒。片方は削られて細く尖っている。
「それはっ、その杭は!!」
『近濃海』で異界の扉を開いていた、あの杭と同じもの!
それは庭に向かって勢いよく投げられ、襖も格子もすり抜けて、庭の中心部分の何も無い空間に刺さった。
びぎいぃっ!!
水晶の玉を地面に叩きつけたようなひびが、空間にびしっと入った。
「無理に閉じ込めておいたから、かなり凶暴になってるわよ。あははっ、もういっそ内裏ごと全部なくなってしまえばいい。姫も、帝も、あんたたちも、みんな消えちまえっ!」
半狂乱の薊を、伊周が刀の柄を腹に当てて失神させた。
「ま、まずい、現を割って、何か出てくる……」
ばぎいいっ、べきびきっ。がしゃあああああああん……。
恐怖を煽る破砕音を立てて、現が大きく割れた。
とてつもない大きさの隙間が覗く。
まず出てきたのは、紫色の細い枝のような角だった。
伸びる途中でいくつも短く枝分かれし、何色もの淡い光を灯火のようにまとっている。
がんっ、がんっ。
次いで見えたのは大きな馬の蹄だった。それは次から次へと全部で八本も。
枝分かれした角が、一気に天まで振り上げられた。
馬に似た巨大な魔物の頭部がはっきりとする。馬面なのに鮫を思わせる細かく鋭い歯。獰猛な目。逆立って尖った耳。
とてつもなく、巨大な魔物だった。内裏の建物と同じくらいの大きさだ。
「あ、あれは、『翌桧の方』が言っていた……たしか『蓬莱の一角獣』だわ!!」
『蓬莱の一角獣』は、海の彼方にある蓬莱島に生息する馬に似た巨大な怪物である。
その名の通り長い角を持ち、ここに霊力を蓄える。
年月を経るごとに枝分かれを繰り返し、花や実をつけるように光を灯す。この角は究極の宝であり、万能の素材となる。
ひぎゃあああああああああああっ!!
精神にくる叫び声を上げ、蓬莱の一角獣はいきり立って襲いかかってきた。
「姫さまっ、これをお借りいたします!」
「うむ、使っておくれ」
伊周が宝剣、金地螺荒咬剣を借り受け、一角獣の突進を真正面から受けた。
剣と角がぶつかり合い、眩い光が散る。
はあっと気合いの声とともに伊周が跳ね、角の根元近くを切り込んだ。だが三本の前足に蹴り飛ばされて、建物の柱に激突する。
宝剣は、一角獣の角の根元に半分めり込んだ状態で残ってしまった。
「くそっ、情けねえ」
伊周が呻く。
そんなことないと娃瑙は思う。真っ先に向かって行ったのは紛れもなく勇気だ。
今度は自分たちの戦う番である。
「みんな手を貸して。あれを退治するわ。妖女五歌仙揃えば、向かうところ敵なしよ!」
摩利が一角獣の動きを止めるべく、足に組み付いた。
力はあっても大きさと重量が段違いなので、足一本の動きを止めるのがやっとだ。
燕角は巻き込まれないように距離をとってから術をしかける。護法術の障壁(バリア)で摩利を守り、同時並行して封印陣を作る。
宮須は生霊が外から触れないことを利用して、燕角の封印陣を手伝った。紙垂(しで)のついた小刀を、陣の形に正確に地面へ刺していく。宙をふわりふわりと浮いて一角獣を翻弄し、うまいこと囮役にもなっていた。
蓬莱の一角獣の弱点は、翌檜の君から事前に聞いていた。
その弱点とは、ずばり角である。角を折れば力の大半を失う。
娃瑙は羞天と協力し、姿を消して一角獣の背に乗ろうとした。背中側からなら安全に角へ近づけるだろうと考えたからだ。
大蛇の夕顔に乗って建物の屋根によじ登り、娃瑙と羞天の二人は一角獣の背中に向かってせーので息を合わせて飛び降りた。
そのとき一角獣は予想外の動きをした。
角を地面に突き立てて、それを軸に体を半回転させたのである。
ずざざあっと土が霧のように舞った。
足に組み付く摩利の怪力をものともしない動きだった。
建物の屋根からまさに飛び降りた直後の二人は、そのまま地面に落ちるよりなかった。
落下の衝撃は夕顔が地面との緩衝になって和らげてくれて、二人とも無事にすんだ。
しかし危機は去っていなかった。
娃瑙たちは一角獣の知能を軽んじていたのだ。
反回転したのは姿を消した娃瑙たちに気づいて、正面から見据えるためであった。
一角獣は八本の足で地面に体をしっかりと固定し、頭を下げ、枝分かれした紫の角を向けた。
淡く灯っていた色とりどりの光が、数を増やしていく。
周囲の光が吸い取られているのか、角を中心に大気が暗くなっていった。
びりびりと奇妙な音がして、それとともに大気を振るわせる振動が伝わってくる。
宮須が慌てて最後の小刀を地面に刺したが、そのとき偶然、娃瑙たちと一直線上になった。
娃瑙は直感的に命の危険を予感した。
燕角がその光の正体に気づいたようだ。急に童女のままの甲高い声で男言葉を発した。
「やばいっ、あれは『みかづち』だっ!! 逃げろっ、宮須っ! あれはどんな存在も例外なく吹き飛ばす! 生霊だって例外じゃないっ!」
耳をつんざくような音が走り、彩り鮮やかな稲妻が飛んできた。
摩利が、急いで宮須の生霊の前に立って盾となる。
伊周と、沙羅が、娃瑙と羞天の手前に走った。
そして娃瑙は見た。
摩利が稲妻の直撃を受けるのを。
受けきれなかった余波を、伊周と沙羅が浴びるのを。
伊周の持っていた剣が、沙羅の二刀が、砕けるのを。
宮須の生霊が霧散するのを。
宮須が、人とは思えない絶叫を上げる。無意識のうちに、娃瑙は親友をかばった。体全体で覆って、羞天の身は少しも外に出ないように包み込んだ。
正面から、凄まじい衝撃が飛んできた。
気を失っていたのは、ほんの数秒程度だったようだ。
焦げ臭い臭いが辺りに立ち籠めている。
娃瑙は自分の身が思ったほど傷ついていないことに気づいた。羞天にいたってはほとんど無傷である。
恐る恐る、後ろを振り返る。娃瑙は、自分が助かった理由を悟った。
「ゆ、ゆうがお……」
夕顔は、引き裂かれ、その体は幾つもぶつ切りになって、地面に転がっていた。
夕顔が硬い鱗で守ってくれたのだ。
首だけが持ち上がって、娃瑙の目を見る。さすが蛇の生命力である。首だけでもまだ生きていた。だが、それでも命が尽きるのは時間の問題であった。
い、いやだあ。こんなの……。
ぼた。涙がこぼれた。ぼたっ、たっ、たっ。
「夕顔おぉ。そんな、そんなあ……」
ひぎゃあああっ!
一角獣が雄叫びを上げた。
凶悪な角を振りかざし、建物を破壊している。
娃瑙は首だけになった夕顔を抱きしめた。
涙目で周りを見る。
伊周が、沙羅が地に伏している。折れた武器が散乱している。
摩利はどこに飛んでいったのか分からない。
宮須はどうなっただろうか。
一角獣が再び娃瑙のほうへ向いた。角に色とりどりの灯が宿る。二撃目を撃つ姿勢だ。
角の光が強さを増したその瞬間、地面に刺さった小刀から淡い光の柱が立った。
「よち! 封印陣、完成でちゅっ!! 護法の十! のうまくはたなん、さんまんていのう、ばらしやとにば、のうもそうきゃ、そわか!」
燕角が高らかに声を上げた。右手の人差し指を振り上げ、それに合わせて一角獣の足元に光の陣が走る。
これで異界の獣は陣に捕縛されるはずであった。
そのとき、娃瑙は信じられないものを見た。
一角獣の巨体が八本の足で真上へと跳ね上がり、空中で一回転したのだ。
角に宿る光が円環状の軌跡を描く。
枝分かれした角が、固い地面を不規則に引き裂いた。
地面ごと封印陣は断ち切られ、紙垂の付いた小刀は全てバネのようにして飛び抜けた。
「なっ、あっ、あいつ! なんてやつだ!」
燕角もまた、かの獣の知能を軽く見ていたのだ。
歪な角を刀のように振りかざし、獣は娃瑙とは別のほうへ注意を向けた。それは視界からは遠いところにいるはずの燕角のいる方角だった。
ああ、まずい。燕角までやられる……。
娃瑙は倒れる仲間たちを見る。遠くから心配げに見つめる森雅羅姫を見る。
今こそ、『虫繰り』の奥義を使うべきだと思った。それは人間の道を捨てることでもある。だが迷っている時間などなかった。
首だけになった夕顔が、二叉の舌でちろっと手を舐めた。
娃瑙は、心を決めた。
「羞天ちゃん、これあげる。逃げるときに使って」
「え、だ、だってこれ……。なんで今、これをくれるの? 納言ちゃん……なにする気?」
えへへ、と娃瑙は親友に屈託のない笑顔を向けた。
「びっくりしないでね。どんなに姿が変わっても、私は羞天ちゃんの友達だよ」
「ゆうがお……。わたしと、ひとつに……」
小さく、しかしはっきりと珠詞を唱える。
娃瑙の体から妖しげな雲が湧いた。
それは庭をほぼ包み込み、小さな嵐のように巻く。
そのなかから、山のような大蛇が姿を現した。内裏全体を囲めるほどで、一角獣と比べても遜色ない大きさである。
薄紅色の鱗を纏い、短い手足を持った巨大な蛇。
それは、娃瑙が夕顔の姿へと変化したものであった。主人と眷属は、命をひとつに合わせたのである。
眷属と命を同化する。それこそが妖術『虫繰り』の最終階層であった。
丸太よりも遙かに太い体躯が空に向かって立ち、獲物に狙いを定めた。
一角獣が異変を感知して構えようとしても、それより速く大蛇は長い体でしゅるりと回り込み、首に噛みついた。
深々と、毒牙を立てて毒を注入する。
そのまま太く長い体を一角獣に巻き付けていく。首から順番に、胸、腹、後足と。
どうっと、一角獣は横倒しになった。
地面に体をこすりつけて蛇を引き剥がそうとするが、完全に巻き付いていて離れない。
「あ、娃瑙……、あいつ、あいつっ、蛇になっちまった……なんてことだ」
伊周が立ち上がり、二体の巨大な魔物の戦いを見た。その狩衣は破れ、火傷と出血で赤黒く染まっている。
「おい、沙羅! お前、まだ動けるだろう。加勢するぞっ!」
「……はい」
沙羅もまた着物が破れ、褐色の肌を剥き出しにしていた。流れる血が痛々しい。布を破り、普段の民族衣装と同じような格好になっていた。
森雅羅姫を襲った刺客たちの刀や薙刀を持てるだけ持ち、二人は一角獣へ突進する。
遠くではひとり無事だった燕角が、めげずにまた術を仕掛ける。
その燕角のいるところへ、這うようにして摩利が歩いてきた。
刃物で傷つかない体が、裂けた皮膚から流れた血で真っ赤だった。
右手と右足がどうやら折れているようだ。美しい顔も苦痛で歪んでいる。額と右頬には青黒いあざができていた。
それでも『みかづち』の直撃を受けてこれだけと言うのはさすがであった。
しかもなんと、その背には宮須の体まで乗っけている。
「な、なんとか、燕角殿の術で、あの魔物の動きを止められませんか」
「やってうよ! さっきかや、ずっと! でも、ほとんど効かないの! あいつ、正真正銘の化け物だよ!」
ひぎゃああああおん。
またしても一角獣は角に光を集め始めた。再び周囲の大気が暗転する。
「なんて化け物でちゅか。毒牙で噛まれ、体を締め上げられ、それでもまだこの抵抗の激しさ。やっぱり、あの角を折らないことには」
角の光が集まっては散り、また集まっては散っていく。どうも集中が続かないようだ。それでも光は徐々に規模を増していく。
再度、『みかづち』を発するのは時間の問題だ。
「摩利、あんた、あの角に刺さったままになってる宝剣で、角を切り落とせないでちゅか?」
「すいません……。さすがに、体にもう力が入りません。痛みも激しくて……」
摩利は意識を失う寸前に見えた。それ程までにダメージを受けていた。
仲間を守るためその身を盾として攻撃をまともに喰らったのだ。死なないのが不思議なくらいだった。
宮須がむくりと起き上がった。顔には精気がないが、なんとか一命を取り留めたようだ。
「摩利さん。あたくしを信じて、あなたの体を預けて頂けますか」
「え、……はい。わかりました、おまかせします。この体が役に立てるのならどうぞ」
宮須はよろける足をなんとか動かし、「では失礼します」と摩利の胸元に飛び込み、肩に手をかけて唇を合わせた。
「う、ふぐうっ!?」
ごぽっ、ごぼりっ。ぐばあああっ。
宮須の口から大量の白いゼラチン状物質が、摩利の口腔内へと飛び込んでいった。
口だけではない。互いの瞳を通しても同様に白い物質が摩利の体内へと移動していく。
ぱたり、と宮須の体が力を失った。それを抱えながら、摩利は言った。
「これであたくしが摩利さんの体を憑依して奪いました。霊的な力なら、強引にでも体は動かせます。傷はそのままなので、あとが大変ですけど……。燕角さん、あたくしの体に護法の術をかけて守ってください。そのまま剣を目指します」
「おおっ、やるではないでしゅか。ぢゃが正面突破はまずい。なんとか隙を作るんでちゅ」
「あ、あたしに案があるの。聞いてくれる?」
いつの間にか、羞天がそばにやって来ていた。
「これ、使ってみる」
「なんでちゅか、その宝石。……あっ、妖術の火打ち石かっ」
ついさっき娃瑙から受け取った、瑠璃と琥珀の宝玉だった。
「これ、強力なんだよね? あいつがいくら強くても、目眩ましくらいにはなるでしょ?」
「ちょっとは効くと思うでち。でも、うまく目の前で光らすことができゆのか?」
一角獣は大蛇に巻かれながらも体をくねらせ、足を振り回し、頭を上下に揺すって抵抗していた。
土埃と、地響きと、角が大気を裂く音とが混ざり合う。
これでは狙いが定まらない。角まで最短で辿り着けるかどうか。
そのとき一角獣の動きが少し鈍ったように見えた。鳴き声に悲鳴のようなものが混じる。
伊周と沙羅が、接近して攻撃してはすぐ離れ(ヒットアンドアウェイで)、手にした武器を次々と体に刺しているのだ。
「よ、よちっ。あれならいけゆ! あたちらも頑張らなきゃだね」
宮須は摩利の顔で大きくうなずいた。
羞天が雲居の力で、姿を空気に溶け込ませる。
「よちっ、最後の作戦よっ!」
摩利を乗っ取った宮須が、建物の屋根までひとっ飛びで駆け上がり、さらに屋根よりも高い樹のてっぺんへ飛び乗った。
その体を護法の霊気が覆う。
燕角のかけたバリアだ。二重、三重にバリアは張られる。
準備が出来たところで羞天が大蛇に話しかけた。
「納言ちゃん! 摩利さんが角を折るからあっ、そいつの頭を下げさせてえっ!!」
果たして、蛇に化身した娃瑙に声は届いたのか。
大蛇は首に食らいついたまま、一角獣の頭を地に押しつけた。
本能的に危機を察して、一角獣が暴れ回る。足をばたつかせ、必死で振りほどこうと藻掻いた。角からも七色の光が迸る。
「お馬さん、こっち見て!」
いきなり羞天が一角獣の正面に姿を現した。ぎりぎり足や角の届かない間合いではあるが、危険を顧みない行為である。彼女も役に立とうと必死だった。
「ええいっ!」
羞天は二個の宝石を力いっぱい打ち付けた。
手元で宝石が割れる。割れ目から光が湧いてくる。熱も感じる。羞天はそれらを一角獣の目前に放り投げてかがみ込んだ。
途端、火の花が咲いた。意識まで漂白する大量の光が溢れかえる。
わずかに、一角獣の動きが止まった。
だんっ、と摩利の体が跳躍した。樹の上から手を伸ばして逆さまに飛び降りる。
そのまま勢いに乗って凄まじい速さで落下する。
角から溢れる光に触れてもお構いなしに突っ込み、角の付け根に刺さったままの金地螺鈿荒咬剣を見事掴んだ。
その体勢のまま、彼女は両腕に力を込めた。腕の筋肉がぐもっと盛り上がる。
「はあっ!!」
全体重を剣に乗せて、楔のように切れ目へ押し込んだ。
ばぎいぃいいいいいいぃーんっ!!
星が散って、紫の長い角が折れた。
空気を裂いて縦に回転しつつ、転がっていく。
一角獣は力の源泉を失い、急速に抵抗が衰えた。角が折れたおかげで、ようやく毒が効き始めたのかもしれない。
めきっ、べきっべきっ!
骨の軋む嫌な音が、一角獣の胴から断続的に続いた。大蛇が締め上げたせいで、肋骨や、背骨が折れているのだ。
ひ、ひ、ぎいいっ。
弱々しい声が獣の口から流れてくる。べきべきと骨の砕ける音が続く。
そして、とうとう。
体の形が変わるまで捻られ、毒も回って、一角獣はその動きを止めた。
蓬莱の一角獣の最期であった。
それを見届けて、大蛇が大きく鎌首を宙にもたげた。ばかっと大きな顎を外し、一角獣の頭にかぶりつく。
そのまま吸うようにしてずるりずるりと呑んでいく。一角獣の体格はかなりの巨体だというのに、何の苦もなしに呑み下していく。
ごくり。ごくり。呑んでいく。
あとには腹を極限まで膨らませた、小山のような大蛇だけが残った。
大蛇は七日七晩、昏々と眠り続けた。
呑み込んだ獲物のあまりの巨大さに、始めは蛇の腹の皮も伸びきってうっすらと胃の中にその姿を認めることができた。
三日経って、一回りだけ腹は小さくなり、胃の中身は肉が溶けて骨格と一部の内臓を残すのみとなった。
五日後には大分腹は小さくなって、もう胃の中は透けて見ることはできなかった。
七日後、大蛇の腹はほぼ元通りの大きさになった。
それでもまだ、大蛇は眠ったまま起きる気配がなかった。
沙羅と伊周は、内裏の庭で眠っている巨大な蛇の前に立っていた。
伊周が蛇の顎にそっと触れた。
「娃瑙……。おまえ、こんなんなっちまって。蛇が好きだからって、自分が蛇になってどうすんだよ」
そばに立つ夜禮黎明に不安げに聞いた。
「なあ、あんたが教えた術なんだろ? これって、元に戻るのか? ちゃんと人間の姿に戻れるのか?」
「ふむ、まあ戻れんわけではないが……」
「どうすればいい、何か方法があるんだろ? 勿体つけないで教えてくれ」
「眠る姫を救う方法は、古来より『口づけ』と決まっておる。むふっ」
黎明は袖に手を入れたまま、にやにや笑っていた。
沙羅が音もなく伊周の後ろに立つ。
「伊周さま、ご無礼をお許しください」
「ん? ぶっ!?」
沙羅は伊周の頭を持つと、大蛇の唇へ顔を押しつけた。
「ふぐううっ……。おいっ、貴様っ」
伊周が沙羅の手を振り払った。
文句を言おうと沙羅のほうへ向くと、その顔には喜色が浮かんでいた。
「お、あ……、姫さま……」
蛇が、眠たそうに瞼を上げた。
「娃瑙っ!」
「姫さまっ!」
二人の呼びかけに答えるかにして、大蛇の体から雲が生じて辺りの視界を奪った。
雲が晴れたとき、単衣姿の娃瑙と夕顔が、元の姿で倒れていた。
「戻った……、娃瑙……」
「姫さまあっ、よ、よかった……」
「ほほう、蛇も無事か。ばらばらになったと聞いたが、さすが蛇というところだな」
娃瑙はゆっくりと起き上がり、寝ぼけたように袖で眼をこすりこすり呟いた。
「う~ん。むにゃむにゃ。もう食べられないよお……」
森雅羅姫はこの事態を受け、自ら入内を辞した。
むーむーは引き留めたが、多くの犠牲を出したこの事件の発端が自分にあると考えたからだ。
そして森雅羅姫は、予定を早めて不二の都へ帰ることになった。
本来なら正月も一緒に祝うことになっていたのだが、それもこんな状況では難しい。
ちなみに、むーむーの政敵である美峰家当主は今回の事件に関わった証拠がなく、糾弾もされなかった。当然、太政大臣も続けている。
薊式部はその美峰家の庇護があり、『邪悪な異界の術士』に操られていたとされて無罪奉免となった。凜々子は事情を知らないものとされ追求もされず、美砂三位はくわえ込んだ宮中の男どもの助けもあってこれもお咎めなしとなった。
一人全責任を負わされた『邪悪な異界の術士』こと玻璃磨の法師は、いい面の皮である。
事件から十日後の、丞月の二十日。
来たときと同じ満月の夜、森雅羅姫は帰郷することとなった。
「おまえたちには世話になった。納言、特にそなたにはな」
「もったいないお言葉です」
姫は怪我もまだ癒えないままであるのに、そんな素振りは一切見せず、凜としていた。
「本当なら、私たち、不二の都までお伴したかったのですが」
森雅羅姫と一緒に天爛の都へ来た異界の者は、すべて殺されてしまった。姫はたった一人で帰らなければいけないのだ。
娃瑙は本気で不二の都まで同行するつもりだったが、両親や伊周たちに止められてしまい、どうしても無理だった。
「いや、大丈夫じゃ。妾ひとりでも帰れる。それにここにほれ、ちゃんと供はおる」
姫は胸元に吊した巾着袋の口を開いて見せた。
中には折れた角や尾など、お伴の異界人たちの体の一部が形見代わりに入っていた。
「姫、さま……」
申し訳ない気持ちで胸が一杯だった。彼らを殺したのは自分と同じ天爛の都の者なのだ。
「気に病むでない。こやつらも、向こうの風に当てれば何人かは蘇るじゃろうて」
「えっ、そ、そうなんですか」
本当のようにも聞こえるが、安心させるための嘘かもしれない。
月夜にかかった雲が、道を譲るようにして左右に分かれていった。
「では、おまえたち。達者で。縁があればまた会おうぞ」
娃瑙は切ない。森雅羅姫は幼なじみの男性への恋心を諦めて、無念の帰途につくのだ。
森雅羅姫が何もない空間に足をかけた。
階段をゆっくりと上がるようにして、一歩、また一歩と天へと進む。
踏みしめるその足元には、砕けた氷の如きひびが入る。現を踏み割り、鬼姫が月夜を駆け上がる。
たった一人、供も連れずに歩く異界の姫君の背には哀愁が漂っていた。
月にかかるところまで昇ったところで、名残惜しそうに一度振り返る。その顔は涙をこらえているように娃瑙には見えた。
不意に、夜空に何か白いものが飛んだ。それは折り鶴であった。
飛んできたほうを見ると、番花殿の庭先に娃瑙の師である夜禮黎明と、もう一人身なり卑しからぬ男性が立っている。
折り鶴はどうやら黎明の識神のようであった。
それは真っ直ぐに森雅羅姫のもとへ向かい、彼女の目の前でほどけて一枚の紙に戻った。
あれは、手紙?
森雅羅姫は宙に立ったまま、その手紙に目を通し、顔を上げて微笑んだ。月の光が、頬に流れる涙を照らす。
師と男性の姿はもうなかった。だが、娃瑙にはおよその見当がついた。
あの方……、ひょっとして……。
手紙の内容は何だったのであろうか。きっとそれは喜ばしい内容、例えば再会の約束とか、そういったものではないだろうか。
森雅羅姫が再び歩き出す。
氷を割った跡に似たひびを天空に入れながら、ぴきり、ぱきりと軽やかに歩む。
満月に大きく亀裂が入ったかと思うと、音を立てて四散した。その向こう、現との狭間を越えた先にある異界へと、森雅羅姫は進んで行く。
しゃなり。しゃなり。
その後ろ姿が完全に隙間に消えたとき、現の欠片は寄せ集まり、あとには元通りの満月が残った。
娃瑙は森雅羅姫が消えても、しばらく月を眺めていた。
いつか、いつか不二の都へ行こう。
また森雅羅姫にお会いしに。
そのときは、今度は自分がふたつの都の橋渡しになりたい。そう、思った。
森雅羅姫が不二の都へ帰ったあと、娃瑙は宮仕えを辞めて実家へ戻った。
羞天や摩利も同様で、また燕角は修行のため山籠もりに入り、宮須は再び内侍に返り咲くことができた。
沙羅も主殿司を辞めて、再び娃瑙のそば仕えに戻ることになった。
すべて、元通りであった。
娃瑙の父、桜井夏野は別になんの問題無く職を続けている。
ひょっとすると美峰家から何かあるのではと警戒していたが、望月・美峰両家の力関係が微妙なバランスを保っており、今のところは問題なさそうだ。
伊周はと言うと、相変わらず度々妻の媚子を連れて遊びに来る。
娃瑙は、森雅羅姫のことを思い出す。
斎王という地位を捨てて、幼い思い出だけを頼りに故郷を出てやって来た、異界の鬼姫。その本質は、痛々しいほど純粋な乙女だった。
あの方の想いは、もう実ることはないのだろうか。
娃瑙は、事情を詳しく知っている黎明に相談してみた。
「今はまだ。だが恋というものは、隔てる壁が大きければ大きいほどに燃え上がる。別れは必然であったろうが、再会する日がいつか来るだろう。いつか、きっと、な」
「いつか、きっと」
娃瑙は師の言葉を声に出して繰り返した。
果たして自分は彼女と同じことができるだろうか。
似たような想いを秘めながら、しかし自分には少なくとも距離も壁もない。
それでも想いひとつで相手に飛び込んでいけるだろうか。
森雅羅姫のことを、少しでも見習わなければいけないかもしれない。
こんど、あいつと、ちゃんと話してみようかしら……。
どうなるか分からないが、少なくとも行動しなければ何も変わらない。
落ち着いたら、伊周に気持ちを伝えてみようかと娃瑙は考えるのだった。
へびつかい あのう姫! るかじま・いらみ @LUKAZIMAIRAMI
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