第10話 宮仕え その3 凄辰の大祭(せいしんのたいさい)
ついに『凄辰の大祭』を明日に控えた。
今夜は前夜祭とも言える神事が執り行われる。これは護霊の帝のほか神官、上流貴族しか参加が許されていない。娃瑙たちには関係ないことである。
だが、この神事には森雅羅姫も参加することになっていた。異例のことであった。
「今頃、森雅羅姫さまは護霊の帝と同じ空間にいらっしゃるのよね。厳かな神事とは言え、同じ空気、同じ時間を過ごすことは距離を縮めるには大事なことです。お互いを意識するきっかけになってくだされば良いのですが」
薊式部はあくまで森雅羅姫と護霊帝の間を気にしていた。二人を婚姻させるというむーむーの思惑を通してやりたいのだ。
だが、そううまくいくだろうか。
娃瑙にはそこがいまいち、疑問である。
たとえ政略結婚とは言え、こういうことはお互いの気持ちが大事なのでは?
それに、作戦通り森雅羅姫を入内させたとして、そのあとはどうするつもりだろう。むーむー……望月宗像は本気で権力の座を奪い返すことができると思っているのだろうか。
今の護霊帝が在位している限り、政敵の美峰家の地位は揺るがない。無理に入内話を差し込んでも、いたずらに政情を不安定にするだけではないのか。
そして悲しいことに、娃瑙もほかの四人も、さらには森雅羅姫さえも、それに加担していると思われているのだ。
娃瑙は先だっての夜のことを考えた。
あの夜に聞いたことは、自分たちに関係しているに違いない。誰かに相談しようかとも思ったが、かなり危険な匂いがぷんぷんしたため親友の羞天にもまだ言えていなかった。
あのとき密談をしていた女のほう、その声が、薊式部に似ていた気がしたからだ。羞天はいい子だがちょっと口が軽い。
そんな薊はしかし、娃瑙の不安とは裏腹に森雅羅姫の女房頭として忠実に仕えている。
薊式部はもともと、凜々子(りりこ)という名の女御(御霊の帝の側室)に仕えていた。そこから望月家に引き抜かれて(ヘッドハンティング)きたらしい。
この凜々子という女御は美峰家の一派の出身である。術士ではないが、体内にいくつもの霊石を持って産まれ、それゆえに護霊帝の女御として選出されたという経緯がある。
薊式部がなぜ政治的に敵対する側に来たのかというと、術士としての技量を買われたからとか、こっちのほうがお給金が高いとか色々あったようだが、一番の理由は前の職場に反りが合わない人間がいたからのようだ。
その人物は今、凜々子に仕える女房衆のまとめ役になっている。
「いいですか! 明日の祭で行われる神事でなんとしても我々の存在感を示すのです! 宗像さまにもご協力頂いて色々と根回ししておきましたが、実際の現場では何が起こるか分かりません。油断は禁物ですっ!!」
薊は執念を燃やしていた。
聞いてるこっちが引くほどに。
存在感を示すことがつまりそのまま、森雅羅姫の派閥の力を示すことになり、それが姫の入内を大きく後押しするだろうとの目論見なのだ。
そんなことが関係あるのかなぁ、と娃瑙はよく分からない気分だ。
「禹内家は欲がないので問題ありません。しかし美峰家、つまり凜々子さまお付きの女房衆とは何らかの形で必ず争いが起きるでしょう。あちらには夜禮黎明殿と比肩すると言われる玻璃磨の法師がついていますが、しかし恐れることはありません。あなた方は私が責任を持って鍛え上げました。って言うか、負けることは許しませんからねぇ。ええ、そうですよ! 色ボケの美砂三位(みまさのさんみ)なんぞに負けてたまるもんですかぁっ!!」
なみなみならぬ、意気込みである。
しかもその口ぶりからは、彼女にはどうやら忠誠心以外にも負けられない個人的理由がありそうだ。
あのとき聞こえた声が似ていたというのは、自分の勘違いだったのかも、と思う娃瑙である。
――その夜、局に戻ると、折り紙の蛙がこっそり忍び込んできた。
師匠の夜禮黎明から送られてきた識神だった。それは娃瑙の目の前でぱらっと広がり、一枚の手紙となった。
げ……まじで……?
そこに書かれた『頼み事』に、思わず息を飲む。
そして、得体の知れない緊張感に包まれたまま、娃瑙は祭の当日の朝を迎えた。
番花殿にはすでに、薊式部をはじめ、妖女五歌仙の面子も揃っていた。
森雅羅姫も、三つ子の鬼女もいる。娃瑙は急いで挨拶を済ませ、ほかの女房たちと出発の支度に取りかかった。
さあ、これから天爛の都一の大きな催し(イベント)、『凄辰の大祭』が始まる。
牛車には萩や桔梗などの秋の七草がふんだんに飾り付けられていた。秋の七草は春の七草が無病息災を祈るのに対し、純粋に花の美しさを愛でるものである。
萩、桔梗、葛(くず)、撫子(なでしこ)、尾花(おばな:ススキ)、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)。
牛車の天井から垂らすようにして萩や藤袴を取り付ける。
横には桔梗、尾花、女郎花など。そしてそれを引く牛には『あめ牛』と呼ばれる力強い牛を選び、白や赤の葛で作った花輪を角にかける。
乗り込む自分たちも、撫子の薄紫色の糸を広げたような可憐な花を胸に挿す。
これから森雅羅姫たち一行は、大祭での最も大きな行事、『斎王の道中』を観に行く。
「きれいな花じゃな、胸が高鳴る」
森雅羅姫は口元を手で隠して牙を見せないように、うふふっと笑った。
「姫さま、なんか嬉しそう」
「ふふ。いいことが、あったのでな」
切れ長の目を細めて、頬を赤らめた。気のせいか、うなじも上気して見える。
あら、照れていらっしゃる?
姫は昨夜、前夜祭の神事に参加した。そこで何かあったのだろうか。
「では、行こうか。さ、納言よ、そなたはこちら」
森雅羅姫は娃瑙の手を取って牛車に乗り込んだ。
牛車には今回、二人ずつ乗る。本来なら女房の代表格である薊式部が、森雅羅姫と一緒に乗ることになっていた。
「ひ、姫さま?」
「すまないの。納言とちょっと話がしたくてな」
花を分けて、自ら扉を開け、姫は娃瑙を招き入れた。
仕方ないといった感じで、薊は羞天と一緒の牛車に乗ることになった。ほかには燕角たちと森雅羅姫お付きの三つ子の鬼女が三台に分けて乗りこむ。
一行の牛車はぎぃこぎぃこと輪を軋ませて、都の街を進んでいく。
「昔を思い出すのう。こうやってまた天爛の都で祭が見られるとは嬉しいかぎりじゃ」
「ああ、そう言えば近濃海でお会いしたとき、そんなことおっしゃっていましたね」
「うむ。ここだけの話じゃがな、妾が住んでいた社の奥に、秘密の扉があったのじゃよ。こどもの頃、知らずにその扉を開けたらこの地に繋がっておった。たぶんあれは、現との境を開く扉だったのじゃな」
二つの都をつなぐ扉があったとは。驚きだ。
「そこを通ってこちらへいらしたのですか」
「うむ、周囲には内緒で何度も行き来した。こっちで知り合った仲のいい男の子がおってな、よくその子と外へ出て一緒に遊んだもんじゃ。凄辰の大祭もそのときに一度見た。こどもの頃は気づかなんだが、あれは明らかに高貴な出自の子じゃったな」
森雅羅姫の一行が向かったのは、都の中心部から少し離れた場所、香裳川に挟まれたのどかな田園地帯だった。
この秋の田園の道を、斎王の行列が通る。
その煌びやかさを見るために、多くの貴族の牛車が並んでいた。ときには場所の取り合いで揉め事も起こるほどの人気だ。
「ああ、それは知っておる。車争いというものだな。あの有名な物語にあったな」
「はい、私も読みました。でも大丈夫ですよ、ちゃんと私たちの場所は用意されてありますから……って、ありゃ?」
森雅羅姫たちが牛車を停めるはずの場所に、別の一団が占めていた。
全部で四台。どれもこれも凝った彫細工と派手な色合いの、顕示欲丸出しの牛車だった。
「あなたたちっ! ここは望月家が取り付けた場所ですよ! おどきなさい!」
うしろの牛車から薊式部のキンキン声が響いてきた。
すると停まっていた一台の金ぴか牛車が、ぐるっと反転して向き直った。
驚くべきことに、御者は法衣を着た老僧だった。老僧の背後、牛車の御簾から女の声が返ってくる。
「あらぁ、そうでしたかしらん。行列の見やすいところが、ちょ~ど空いていたもので。本来、ここは天下の往来。誰の所有物でもないですわ。早いもの勝ちなのですわぁ」
艶やかな声だった。
それを聞いて、薊は激昂した。
「あんた、美砂三位! この色ボケが何をしゃあしゃあと!」
顔は見えないが、どうやらこの色っぽい声の持ち主が薊式部のライバル、美砂三位らしい。
凜々子さま付きの女房を辞めた本当の理由は、この女性と険悪になったからだとか。
この美砂三位という女性、人妻でありながら、多彩な恋愛遍歴の持ち主。うそかほんとか、むーむーや先代の護霊帝の御子とも付き合っていたとか。
色ボケ呼ばわりも当然の素行だが、当人はそういった危ない恋を勲章の一つにしか思っていないと聞く。
この女性がいるということは、つまりこの一団は凜々子さまの――美峰家のものということか。凜々子さまはおそらく、美砂三位と同じ牛車にいらっしゃる。
「そっちにはそっちの場所があるでしょう! いいからさっさと、そこをあけなさい!」
「凜々子さまのお場所は、もうほかの方にお譲りいたしましたわぁ。それに、行列を見物するにはここが一番良いものでして」
「そんなの、そっちの勝手でしょうがぁ。こんなド低脳な嫌がらせをして、ただですむと思ってんの? なんなら力尽くでもどかせるわよっ!」
「あらあらぁ。そ~んなことおっしゃったら……あたくしたちも黙ってないですわぁ」
途端に、美峰家の一行が殺気立った。
美砂三位が乗る牛車のそばに、弓と刀で武装した女が歩み出てきた。
鍛えられて引き締まった体には無数の傷がある。女の武官だろうか。敵意と害意を眼光にたたえており、見るだに恐ろしい女だった。
老僧は牛の上で結跏趺坐を組み、両手で印を組んでなにやらボソボソと唱え始めた。
同時に、美砂三位のいる牛車からなにやら不気味な旋律の笛の音も聞こえてきた。
一触即発の、緊張感が走る。集まっていた民衆がざわめき始めた。
……が、いきなり羞天が気の抜けた声を出すものだから、一気に緊張感はしぼんでしまった。
「あ~っ、おさるさんだぁ」
今度は奇妙な沈黙が場を満ちた。
羞天の声はなおも続く。
「ねえねえ、ほら、あたしだよぉ」
法衣の老僧が目をぱちっと開き、困ったように頭をかりかりと掻いた。
羞天と同乗していた薊式部が感心したような声を出す。
「まあ、よく猿の変化だと見抜きましたね。気づくのはてっきり娃瑙さんか燕角さんと思っていましたが。ええ、そう、あれこそが玻璃磨の法師、人に化けた狒々です。それで、ええっと……羞天さん、あれとお知り合いなの?」
娃瑙は思わず声を上げそうになった。
あれは、あの老僧は、『観蕾』のなかで腹の立つ説教をかました猿坊主じゃないのか? そのときのことが思い出されて、こめかみの血管がぴくぴくした。
あいつが、師匠の夜禮黎明と肩を並べると言われる、玻璃磨の法師?
あんな下世話なやつが?
って言うか、猿の変化って、なんでそんなのが平然と宮中に出入りしているのよ。
「うん、おともだち。ねえ、おさるさーん。ぎすぎすしたのやだから、なんとかしてよー」
老僧は妙に憎めない顔で、口をすぼめてわずかに首を横に振った。
どうやら羞天の頼みでも聞けないようである。
「よい。妾たちが別の場所に移ればそれですむこと。薊よ、ここは妾にまかせよ」
森雅羅姫が声を張って呼びかけた。
そよ風が吹き、姫の言葉を辺りに滲ませる。
息を飲む気配が、薊式部、そして美砂三位の双方から感じられた。
娃瑙が横で見守るなか、森雅羅姫は指で紐を結ぶような仕草を何度も繰り返した。
衆目のざわめきが、一際大きくなった。
娃瑙たち一行を乗せた牛車から、にょきにょきと色とりどりの花が不自然な動きで伸びていく。挿してあった秋の七草が、茎を伸ばし、葉を広げ、花を次々と咲かせているのだ。
さすがの美峰家の一党も、牛車を下がらせ距離を取る。
そしてそれらはやがて意思あるもののように森雅羅姫の一行を牛車ごと包み込み、香裳川の河川敷まで運んでいった。
がくん、と少しの揺れのあと、気づけば一行は、紫や青、黄、薄桃の草花によって編まれた美しい橋の上にいた。
「ここなら見晴らしも良いし、誰の邪魔にもならぬであろう?」
娃瑙は溜息しか出てこない。
うっそお、すごい妖術。川岸の上に見物場所を作っちゃった。
森雅羅姫はどうやら風や草木といった自然界のものを扱うすべに長けているようだ。
美砂三位を始めとする美峰家の者たちが、遠目にも呆気にとられているのが分かる。おそらく、これ以上の手出しはしてこないだろう。嫌がらせに留めるならここで引くはずだ。
娃瑙はあらためて森雅羅姫の性格を知った。平和的に、しかし大胆に相手から一本取ったのだ。
「さあ、そろそろ行列が来る頃ではないかな。ゆるりと見物しようぞ」
ほどなく斎王の行列がやって来た。
馬に乗った衛士から始まり、さらに神官、巫女たち、女官の一団と続く。
続いて秋の花で飾り立てた山車のような牛車が、そして風流傘と呼ばれる大きな番傘が運ばれる。
行列は数十メートルに渡って静々と行進し、その風雅さを振りまいていた。
この行列は宮中から出発し、都を出て各地の道を約半日かけて練り歩く。最終到達地点は香裳神社である。
娃瑙と森雅羅姫のふたりは、しばらく黙ったままそれを見ていた。
牛車の中には行列の進む音だけしかない。
森雅羅姫は両手を口元で合わせて見入っていた。そのさまは、さながら少女のようだ。
娃瑙の視線に気づき、姫は目を細めて微笑んだ。
「納言は、好きな男はおるのか」
それは唐突な質問だった。娃瑙は答えに詰まり、おろおろした。
「わ、私には、そんな」
いない、と言うと嘘になる……のだろうか。どうだろうか。
「妾にはおる」
えっ?
「森雅羅姫さまには、お好きな方がいらっしゃるんですか。ど、どなたなんです? やっぱり不二の都の高貴な方ですか」
「それは、今はまだ秘密じゃ。だが、ちょっと相談に乗って欲しくてな。それでそなたを同じ牛車に招いたのじゃ」
「そういうことなら、私より羞天とか宮須さんのほうがよっぽど頼りになりますよ」
「そうかもしれんが、少し違う気がする。秘めたる想いを持った者同士でなくては」
確かに羞天は開けっぴろげだ。さらに言えば、ぐいぐい押せ押せのタイプ。宮須は少し執着が強すぎる。摩利は……よく分からん。
いや、待って。今、森雅羅姫はなんとおっしゃった?
「私が、秘めたる想いを? そ、そそそ、そんなわけ」
「ふふっ、妾には、わかるぞよ」
切れ長の目を糸のように細めて断定した。弁解は受け付けない、といったふうだ。
「相手に、振り向いてもらうにはどうしたらよいのかのう?」
「ええーっと」
風流傘が通る。しゃん、しゃんと音が鳴る。
どうしよう。そんな相談されても。
「はっきり、気持ちを伝えてしまうのが一番……だと思いますけど」
当たり前だが、振り向いてもらえるかどうかは保証できない。
と言うか、それは自分にこそ言うべきセリフ……。
しかし森雅羅姫は、娃瑙の言葉に満足げにうなずいた。
斎王の行列は大分進んでいた。
遠く、行列の最後尾に斎王の乗る御輿が見える。
それを牛車の御簾から透かして見て、森雅羅姫は一瞬だけ嬉しそうな顔をしたあと、それが斎王の乗るものと知って顔色を曇らせた。
「話には聞いていたが、こちらの都にも『斎王制度』はあるのじゃな」
「こちらにも?」
斎王とは、神に仕えるために選ばれた女性のことである。
この『凄辰の大祭』の神事は、歴代の斎王によって執り行われる。斎王に選ばれるのは三高家に連なる一族の女性で、幼少の頃からそのために育てられる。基本的に、一生独身を貫くものとされた。
それ故に、斎王を巡る悲恋は多い。歌にも物語にもよく取り上げられていた。
「不二にも斎王はいらっしゃるんですか」
「元々、それぞれの都を開いた王は同じ血統であったと言う。そのせいか、似たような風習や制度はたくさんある」
「へえ~」
娃瑙は、遠く東にある不二の都に思いを馳せた。
倭で最も険しい山の麓、広大な樹海に囲まれた半異界の都。
いったい、どんな所なんだろう。
一度、行ってみたいな、と思ってみたり。
「ん、あれ」
観客たちから行列を警護している検非違使たちのなかに、知っている顔を見つけた。
途端にむらむらといたずら心が生じて、娃瑙はそわそわし始めた。
師匠の『頼み事』もあることだし、ちょうどいいわ。
「あの、森雅羅姫さま」
「なんじゃ?」
「ここで見るより、もっと近くで見てみません?」
「ほほう。と言うと?」
森雅羅姫は娃瑙の意図を見抜いていた。重なった耳殻が心のうちを表してぴくぴく動く。
「こそっと、内緒で外に出てみませんか」
牛飼いに金品を握らせ、そっとほかの牛車から見えないように二人で抜け出た。
表着を頭から被って顔を隠す。
草花の編まれた桟橋を踏み渡って、川岸から沿道へと入った。
そのまま娃瑙は早足で行列のそばを駆け、一人の男の肩をぽんと叩いた。
男は驚いて振り向き、顔を見てもう一度驚いた。
「娃瑙! お前、なんでここにいるんだよ」
「そばで行列が見たかったの。それより、ちょっとあんた、なんで私のところに遊びに来ないのよ。宮仕えしてるの知ってんでしょっ」
伊周は困ったように後頭部に手を回した。
「いや、だってよ。仕事の邪魔しちゃ悪いと思ったし」
「夜中とか、非番の日とかあるんだけどね」
「わ、わかったわかった。俺も今は仕事だ。今度必ず行くよ。だから早く牛車に……」
伊周の目は娃瑙の背中の向こうに焦点が合っている。
そこには一人の女性。
「なあ、そこのひと、お前の知り合いか? 女房仲間?」
「んにゃ」
「え、何、だって、……お前っ! な、な、なんてことしてんだ! その方!」
伊周の反応を見て、即座に森雅羅姫が人差し指を唇の前に立てた。
静かに、と仕草だけで伝える。
「大きな声を出してもらってはこまる。ここに妾がいることがばれてしまう」
「あ、いや、それはその、そうなんですが」
ほとほと困り果てた顔をしたあとで、今度は娃瑙を睨んだ。
囁き声で怒ってくる。
「娃瑙、お前なあ、なんで鬼姫さまを外に連れ出してんだよ?」
「だーかーらー、行列をそばで見たかったんだってば」
驚いたり困ったり怒ったり。忙しいやつ。
伊周は周囲を目だけで確認して、肩を落とした。
「仕方ありません。じゃあ行列が過ぎたらすぐに牛車に戻ってください」
「うむ」
そうこうしているうちに斎王の乗る御輿が近づいてきた。
御輿の上の斎王は、上半身が御簾で隠れて顔は見えない。白を基調とした清廉な装束は、煌びやかに飾られた御輿とは対照的だ。
「あの斎王も、誰とも添い遂げられんのか。大きな使命を担っているとは言え不憫よのう」
誰に言うともなく呟いた森雅羅姫に、伊周が答えた。
「そうでもないですよ。たしかに昔はそういう決まりだったようですが、今では役目を終えて斎王を辞したあとは結婚も許されるようです」
「そ、そうなのか。……それはよかった」
自分のことのようにほっとしていた。
そのまま無言で行列が過ぎゆくのを眺める。ゆったりとした時間だった。
ふと、娃瑙の頭に一匹の蝶が止まった。
「ん、これ、師匠の」
蝶の形をした識神であった。作り物の蝶は娃瑙の頭を離れると、宙を上下に行きつ戻りつ、森雅羅姫の周りをひらひらと舞い、そのあとあぜ道の横の林へと向かっていった。
着いてこいってこと? 森雅羅姫を連れて?
「じゃ、私たちはもう戻るわね、警備の仕事がんばって」
と伊周に別れを言いつつ、そのまま森雅羅姫の手を取って蝶を追った。
「合図があったのじゃな」
「はい。姫さま、こちらへ」
昨夜の師匠からの手紙には、『祭の途中、隙を見て森雅羅姫を外へ連れ出せ』とあった。
なんとそれは森雅羅姫自身の意向でもあるらしい。了承済みだと言うのだ。
しかし、連れ出してどうするかまでは手紙に書かれていなかった。
恩ある師匠の頼みとは言え、さすがに娃瑙は悩んだ。
森雅羅姫の考えがどうあれ、そんなことをしたらタダではすまない。それくらいの思慮はある。
だからほんのついさっきまで、娃瑙は師匠の言葉を無視するつもりでいたのだ。
だが、今しがたの会話で心を決めた。
彼女の想い人は、まず間違いなくこの天爛の都の人間だろう。たぶんそれは、幼い頃出会ったという、仲の良かった男の子だ。きっと初恋の子なのだ。
そう考えるとすんなりと理解できた。遠く不二の都から来た姫君は、想い人と再会するためにこの天爛の都までやって来たのだ。
そしてその相手が誰かは知らないが、師匠の黎明は、姫とその相手を逢わせようとしている。
そうと知れば、姫のために一肌脱ごうかと思う娃瑙である。かなりヤバイ道だが、政略結婚に荷担するよりも、純粋な恋路のお手伝いのほうがよっぽどいい。
蝶はひらひら舞って、ブナの林へと入っていった。
娃瑙たちも連れ添ってこれを追う。
林に入った途端に、おかしな感覚に陥った。瞬間にこれは師匠の幻術だと気づいた。延々と続く林をぐるぐるとループするように進む。
意識を集中させると、奥のほうに師匠の気配を感じる。ほかにも誰か知らない人間が何人かいるようだ。
急に、森雅羅姫の足が止まった。
両耳に手を添えて、何か言葉を聞いているようだ。しきりに何度もうなずいている。しかし娃瑙の耳には何も聞こえてこない。
「納言、ここから先は妾ひとりでゆく」
「え」
「すまないの、納言。そなたには事情を教えても良いと思うのじゃが、黎明殿が絶対に言うなと申すのでな。なに、どうせすぐに分かることじゃ」
「あ、ああ、いえいえ。おかまいなく」
「心配するな、『神馬の儀』には間に合うようにする。すぐに用をすませて、一足先に香裳神社で待っておる。みなにもそう伝えてくれ」
言うや森雅羅姫は大きく跳躍した。鹿のようにしなやかに、驚異的なジャンプ力を見せて幻の林の奥へと消えていく。
いやぁ、あはは。やっぱり、教えてくれないかあ……。
相手が誰か気になって気になって仕方がなかったので、残念な気分な娃瑙である。
いや、口止めしてるのは師匠だ。それに森雅羅姫はすぐ分かることと言っていた。
そうっと近づいて、ちょっとだけ、のぞいてみよう。
娃瑙は森雅羅姫が飛び去った方向へ足音を忍ばせて歩いていった。途中、幻のなかに先程まではなかったはずの坂道を見つけてこれを登る。
すると、坂の上に数人の人影が見えた。これ以上近づくのは無理そうだ。
あれは、武官? それも上流貴族付きの軍司たちだ。どうしてこんなところに?
たしかにここには、誰かが来ている。しかもおそらく、相手はかなり身分の高い人物だ。
森雅羅姫は、今まさに愛の逢瀬をしているのだろう。幼少からの想い人にやっと出会えたのだ。
結局、相手が誰か確認するのは諦めることにした。それはあまりに無粋なこと。
娃瑙の推測では、三高家に連なる貴族の誰かだとは思うのだが……いやぁ無粋、無粋。
そこまで考えて、ふと娃瑙は立ち竦んだ。
歩を止め、今さらながら愕然とした。
森雅羅姫さまには、想い人がいる。
えーっと。じゃあ、入内の話はどうなるの……?
幻の林から戻ったあと、娃瑙は一応、薊式部のところへ報告に行った。
話を聞き終わる前にはすでに、薊は怒りで興奮状態(ヒステリック)になっていた。
「あ、あなた、あ・な・た・ねえっ! なんてこと、なんてことしてくれたのですか! こ、こここれで姫さまに何かあればどうするつもりなの!」
襟首を掴まれて、牛車の壁にがんがんと責められる。娃瑙の首がかっくんかっくん前後に揺れる。
「薊式部、心配いらぬよ。どうやら森雅羅姫さまはとっくに香裳神社にいらっしゃるみたいでちゅよ」
「そ、そう、そうですっ、姫さまは先に行ってるって仰ってましたっ」
「燕角さん、どうして分かるのです?」
「護法術の一つで遠くのものを視……」
「だったら、ぼさっとしてないで、さっさと行くのですよっ!」
香裳川の河川敷、そこに渡った七草の美しい橋から、薊たちの乗る牛車の一団が慌ただしく走り去ったのだった。
『神馬の儀』とは、斎王の行列の到着先である香裳神社に神馬を奉納する儀式である。
神馬は大切に育てられた最高級の美しい馬のこと。
神馬は全部で十頭、鞍は乗せず、装飾の施された馬用の鎧や兜などを身につけている。それを境内で順番に引き回して、集まった貴族たちにお披露目するのだ。
その光景を目の前にしながら、娃瑙は心ここにあらずであった。
斜め前には森雅羅姫が何事もなかったかのように座っている。
神馬の引き回しを前に、こちらもぽーっとして心ここにない様子だった。
魂がどっかに飛んでいってしまったように見える。その姿は、恋する乙女そのものだった。
異界の都からやって来た鬼姫さまは、恋の熱に浮かれているのだ。
想い人には会えたみたいだけど、どうしよう? これでは入内なんて無理じゃないの。
師匠の頼みとは言え、私は立場上まずいことをしてしまった。
いやいや、今日のことは森雅羅姫の本意なのだ。仕える身として当然のことをしたまで。それに同じ悩みを抱えているからこそ、私を頼ってくれたのではないか。
じゃあ、これから姫はどうなる? 無理矢理、政略結婚させられるのか。
それはいやだ。
あーん、もう。どうすればいい? こんなこと、誰に相談しよう?
真っ先に相談すべきは当然、上司に当たる薊式部であるはずだった。だが、あの女性にはどうも気が許せない。
そんな娃瑙の苦悩を晴らしたのは、意外やその薊式部当人であった。
神馬の儀が滞りなく終わり、一旦神社に用意された座敷に戻る途中、薊式部に袖を引っ張られて廊下の分かれ道に引き込まれた。
「納言さん、やったわ」
声を抑えてはいたが、薊式部は明らかに興奮していた。
頬が赤く、顔中に喜びが溢れている。
「やったわよ。黎明さまもひとが悪いわ。あなたもご存じだったんでしょ」
「な、なんのことですか?」
「森雅羅姫さまをこっそり外へお連れしたからこそ、邪魔立てする美峰家の連中を出し抜けたのよ。正直、あのときは随分焦りましたけど。でもおかげでおふたりは無事、出会うことができたのです。本当にありがとう、あたくしからもお礼を言わせて」
娃瑙はわけが分からない。
薊は、森雅羅姫が想い人と逢瀬をすることをなぜ喜ぶのか。
森雅羅姫の気持ちは想い人に向いて、入内どころではなくなるではないか。
「ああ、これで、これでむーむ……あ、失礼。宗像さまも本望でしょう。天爛と不二、二つの都の橋渡しを勤めることができたのですから」
「あ、あの……。あれ?」
脳に電撃が走った。
「ま、まさかっ、鬼姫さまの想い人って、今の護霊の帝だったの!?」
「ば、ばかっ、声が大きい。……その通り、ご明察です、娃瑙さん。先程、おふたりは短い時間でしたが、気持ちをお互いに確かめ合ったそうです。護霊の帝も森雅羅姫さまのことを覚えておいでで、姫さまの想いを受け止めてくださったのです」
気持ちを受け止めた。それは、それはつまり……。
夜になり、篝火が焚かれ、ご馳走が運ばれた。多くの人たちが舞台を囲んで座っている。
これから『凄辰の大祭』最後の大トリ、『奉納舞い』が始まる。
娃瑙がお手洗いから戻る途中、後ろから肩をぽんと叩かれた。むーむーこと、望月宗像だった。
「やあ、ずいぶんと頑張ってくれたようだね」
もちろん、今日の件についてを言っている。
「いやあ、でも、私はなんていうか、何も知らずに適当にふるまっただけというか」
「いいんだよ。それでうまくいったんだから」
むーむーは上機嫌だった。すでに酒が入っているようだ。
「うまく、いったんですか」
「ああ、万事。そうそう、きみはあの夜禮黎明のお弟子さんなんだってね。彼にも世話になった。さすがは都一番の陰陽師だ」
「私には今日のこと、ほとんど教えてくれませんでしたけどね……」
こうやって望月家の実力者と肩を並べて話すなど、数ヶ月前には想像もしていなかった。
娃瑙はこの際、むーむーに聞いてみたいことがあった。
「宗像さま、あの、仮に森雅羅姫さまが入内して御子を産んだとして、それで宗像さまはまた太政大臣になれるのでしょうか」
宗像は目を丸くした。
「おお、これはまた、直裁な質問だな。うん、まあ常識的に考えて無理だろう。美峰家の奴らもいるしな。だがそのための布石にはなる」
布石、とは。まるで碁か将棋のような思考をする。
「それにな、ここだけの話、両者の婚姻にはもうひとつ重要な意味合いがあるのだ」
ほろ酔いながらも、声を低くして凄味を持たせようとしてきた。
「ふたつの都はもともとひとつから別れて出来た。それもあって昔は頻繁に婚姻が結ばれていたのだ。特に、我ら三高家と呼ばれる一族の祖先とはな。異界の者の霊力は強い。三高家に霊力の高い者が産まれやすいのは、異界の血が入っているおかげなのだ」
娃瑙は驚いた。その話は初耳だった。
「それがどうしてか数百年前を境にぱったりと交流が途絶えてしまった。おかげで血は薄くなり、代を重ねるごとに力の強い者が産まれにくくなった。それにつれて護霊の帝の力も小さくなってきておる。そこへ異界の姫君が新たな生命の息吹を吹き込むのだ。産まれる御子は三高家、いやほかのどの家系よりも強い霊力を持つだろう。たとえその子が次代になれなくても、なあに、長生きすれば……機会はいずれ巡ってくる」
なんて気の長い話だろう。
たとえその機会が来ても、そのときあなたはもうこの世にいないかも知れないではないか。娃瑙は心の中だけでつっこんだ。
いや、ちがう。
この男は、自分の子や孫のことまで考えているのだ。
自分が果たせなかった夢を、復讐を、子孫が果たせるように今から手を回しているのだ。
権力への執着に、娃瑙は内心舌を巻いた。常におおらかな雰囲気を絶やさないこの男のことを、今は少しだけ恐く思った。
「さ、もう舞いが始まる。お行きなさい。君のお仕えする方がお待ちだよ」
もう間もなく、奉納舞いが始まろうとしていた。
娃瑙たち五人は森雅羅姫を守るようにして座っている。薊式部は自分の楽団とともに、舞いを盛り上げる演奏を担う。
舞台に、踊り子が上がった。異形の三人の女だ。
毎年踊る演目は決まっているが、今年だけは特例で別の演目が催されることが事前に周知されていた。それでも観ている者たちからは驚きの声が上がった。
三人の女は、天女のような白い衣を羽織り、つま先だけで立ってくるくると回る。そして琴や笛の音に合わせて時折軽やかに跳躍した。
重力を感じさせず、空に浮くかの如く。そのまま浮いて降りてこないのではと思わせるほどの滞空だった。
その舞いは娃瑙が、その場にいるほとんどの者が、これまで観たことのないものだった。
片足で反るように立ち、そのまま滑るようにして前へ進む。跳ねる際に、足と足がほぼ直線になるまで開く。ひとりがもうひとりの体を支え、驚異的な高さまで放る。
白い布がふわりと肩まで落ちた。踊り子の顔が露わになる。その額には小さな角がある。
森雅羅姫の侍女である、三つ子の鬼女たちであった。
ざわめきと、拍手が飛び交うなか、娃瑙は森雅羅姫の表情を眺めていた。
この世の春といった、嬉しそうな笑顔。本懐を遂げられた満足さが見えた。
「何も話さず、すまなんだ。納言」
不意に謝られて、娃瑙はどきっとした。
「妾は、不二の都の『斎王』であったのだ」
ああ……やっぱり。
斎王の行列を見る目、あれは同情の目だった。
自分の身と重ねていたのだろう。
やけに浮き世離れしているのも説明がつく。斎王は世俗から隔離されて育てられる。
「本来は神に仕え、生涯独身であるはずであった。じゃが、妾はどうしても幼き日の約束を忘れられなかったのだ。ともに遊び、戯れに将来を約束した男の子を忘れられなかった。扉の行き来が見つかって禁止されてからもずっと覚えておった。自分が一生、誰とも添い遂げらんと考えれば考えるほど、想いは募った」
森雅羅姫から聞いた幼少時の話、それに出てきた仲のいい男の子。
それこそが、まだ幼いころの護霊の帝だったのだ。
そう言えば師匠の夜禮黎明は、護霊の帝から恋愛相談を受けていると言っていた。それはこのことだったのだ。どうして気づかなかったんだろう。
いつの間にか、ほかの五歌仙も側に寄って話を聞いている。
「意を決して、王である父に自分の意志を伝えた。ふふ。だいぶ、お怒りであったな。どうしてもと言うなら斎王の地位を捨て、西の都へ勝手に行ってこい。気持ちの整理がつくまで帰ってくるな。そう言われた。望月宗像殿の誘いは、まさに渡りに舟であったのだ」
知らず、娃瑙の瞳が涙で潤んできた。
「お会いできたのですね。それで、それで、うまくいったのですね」
「到着して初めて会ったときは冷たく応対された。今思えば美峰家の当主もその場にいたことだし、仕方なかったのじゃろう。そのときは、妾のことなどもう覚えていらっしゃらないのだと悲しくなって、すぐにでも帰りたくなってしもうた。おぬしらがふざけて場を明るくしてくれなければ、本当に帰っていたかもしれん」
羞天が恥ずかしそうに「えへへ」と笑った。
それを森雅羅姫は優しげに見つめながら話を続けた。
「だが、それは妾の勘違いであった。昨夜、前夜祭の神儀が終わったあとに少しだけ話すことができた。あのお方はちゃんと覚えていてくださった。そして祭の当日に、お忍びでお会いしてくださると約束してくれた。それがかなりの困難を伴うのは分かっていた。実現できたのは、黎明殿と納言、そなたらが手伝ってくれたおかげだ」
「あ、いや、私は言われたとおりやったまででして」
師匠はおそらく護霊の帝から直接、依頼されたのだろう。
ただ、どこで情報が漏れるか分からないので、むーむーや薊式部、娃瑙にさえ詳しい話は内緒だったのだ。
「ふたりきりでお会いして、やはり気後れした。じゃがこれが妾にとって、最初で最後の機会になるかもしれん。だから思い切って想いを口にしたのじゃ。周りに何人かほかの者たちもおったが、かまわんかった」
幼馴染みの男の子と将来の約束をし、それを今でも覚えていて、忘れられない。恋心は時が過ぎれば過ぎるほど、強く心に募っていく。
どこかで聞いたような話だった。
娃瑙は森雅羅姫に対して当初から感じていた共感の正体を知った。
ぐずりながら目を拭った。
そんな娃瑙を見て、森雅羅姫は言うのだった。
「想いを言葉に出来たのは、納言の言葉によるものが大きい。そなたが妾の背中を押してくれたのだ。そうでなかったら妾は気後れしたまま、想いを伝えることはできなかったじゃろう。……ありがとう」
うえぇ~ん。とうとう娃瑙は声を出して泣いてしまった。涙がたらたらとこぼれて落ちて、童女みたいに泣きじゃくった。
そっと誰かが肩に、手の平に、手を置いてくれる。涙で歪んで見えないが、きっと仲間の四人だろう。そして背中に手を回してぐっと抱き寄せてくれるのは森雅羅姫だ。
娃瑙は自分のことのように森雅羅姫の幸せを喜んだ。
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