第9話 宮仕え その2 森雅羅姫(しんがらひめ)

 不二の都の一行がすべて滞りなく到着し、鬼姫は護霊の帝と謁見するために内裏の奥へと入っていった。

 不二から付いてきた侍女たちがそれに続き、本当ならその最後尾に娃瑙たちもついて行く手はずになっていた。

 だが、止められた。

 娃瑙たちはまだ鬼姫一行には含まれないという意見である。

 阻んだのは美峰(よしみね)家の手の者だった。美峰家は三高家の一つであり、その当主は現在の関白太政大臣である。

 むーむーとその者との間に押し問答があったが、結局同行は許されなかった。

 娃瑙は戦慄した。

 すでに、自分たちは望月家側の人間だと思われている。

 望まない政治闘争に、もうとっくに巻き込まれてしまっていたのだ。

 ほんとうに、ほんっっっっっとうに、来なければよかった。

 後悔しても時すでに遅しである。



 天爛の都、ひいてはこの倭を霊的に護っているのは護霊の帝である。

 護霊の帝は、代々、三高家のなかから霊力が高い者が選ばれることになっている。

 かつて、三高家の元となる一つの家系が権力を独占したため、それを三つ――望月・美峰・禹内(もちづき・よしみね・うない)の三家に分家して、権力が集中しないようにした。

 護霊の帝も、続けて同じ家から輩出しない決まりになった。

 だが三高家の始まりから約百年、そんな決まり事は形骸化してしまっていた。

 一旦、護霊の帝を出した家は、一族で高い官位を独占するようになった。

 そして同じ派閥の家から霊力の高い女性を選んで入内させ、そうして生まれた子にまた護霊の帝を相続させた。

 これを延々繰り返すことにより、いつまでもいつまでも権力の中枢に居座ったのだった。

 だが栄枯盛衰、いつか必ず政変は起こり、権力者は交代する。

 望月家は長い間、権力を握って離さなかったが、数年前に些細な理由で失職した。

 それはほんの些細な理由ではあったのだが、望月家を失墜させる最初のきっかけとなった。

 望月家出身であった護霊の帝は退位を迫られ、次代は新たに美峰家から選出されたのだ。

 それが現在の護霊の帝である。

 美峰家は自分たちの派閥の家から霊力のある女性を選んで入内させ、跡継ぎとなる子を産ませて中宮(正室)の位に就けるつもりである。

 かつての望月家とまったく同じ事をしようとしていた。

 一方の望月家、その当主の宗像(むーむー)は捲土重来を狙っていた。

 その方法とは、自分の息のかかった女性を新たに入内させることである。

 霊力の高い女性を入内させて、美峰家が権力の基盤を固める前に横やりを入れてやるのだ。

 だがしかし、望月家には霊力の高い女性はいなかった。

 むーむーだけでなく、親戚筋や望月派の貴族たちにもいなかった。

 途方に暮れたむーむーが思いついた、ウルトラE級の秘策。

 それが、不二の都との橋渡しだったのである。

 持ちかけたのは、誰あろう都一の陰陽師、夜禮黎明だった。

 半異界とは言っても、同じ倭に住む民には変わりない。それに大昔にはお互いの王家貴族に婚姻関係が結ばれている。前例のないことではない。

 むーむー自身が率先して不二の都と渡りをつけ、高貴な身分の姫を天爛の都へ招待し、そのまま入内へと持ち込む。

 当然、その後見人はむーむーである。

 うまくすれば子を産んでくれるやもしれぬ。

 もしその子が優れた霊力を持っていれば、次の護霊の帝を選ぶ際に無視できないはずだ。

 ひょっとすると、美峰家から実権を取り戻すことができるかも知れない。むーむーはそう考えたのだ。

 当然、入内には美峰家の妨害が予想される。

 しかしそんな妨害など、実はまったく意味を成さないのである。

 理由はちゃんとある。

 その理由を、実はむーむーですらまだ知らない。

 知っているのは……、

 今は夜禮黎明のみである。



 護霊の帝と不二の鬼姫との謁見は、あっけないほど短時間で終了した。

 娃瑙は羞天たち四名および薊式部とともに、内裏にある番花殿(ばんかでん)という建物で鬼姫の帰りを待っていた。

 この建物で、鬼姫は都での数ヶ月間を過ごすことになる。

 それほど長くは待たなかった。

 不二の鬼姫は、侍女たちと供に静々と番花殿内に入り、座り込んだ。遠目だが鬼姫は心持ち気分が落ちているように見える。

 娃瑙はその瞳が、少しだけ赤いのに気付いた。充血しているようだ。


 ――泣いて、らっしゃる?


 しかし気高き不二の姫はきりりと前を向き直り、凜とした声を発した。それは内なる悲しみを押し隠さんとする行為に思えた。


「妾の名は、森雅羅(しんがら)。不二の王の第五皇女である。こちらで妾の相手を勤めてくれるというおなごたちとは、そなたらか? よろしく頼むぞよ」

「は、はいっ!」


 娃瑙はほかの者たちがびっくりするほど元気よく答えた。落ち込んだ気配のある森雅羅姫を見たら、そのほうがいいと思ったのだ。

 薊式部がすごい顔つきで睨んでいる。

 たしかに、ちょっと場違いだったかもしれない。


「ふふっ、元気がよいな」


 森雅羅姫は、親しげな微笑みを娃瑙に向けた。それは明らかに含みのある笑みだった。

 ちら、と娃瑙は森雅羅姫の目を覗きこんだ。姫の笑みが深くなった。


 あ、や、やっぱり……! この人、あのときの……。


「そなた、名はなんと?」

「あ、は、はいっ。娃瑙って言います。仲のいい子は納言って呼ぶので、よろしければ姫さまも『納言』って呼んで下さい」


 緊張し過ぎて、かえってちょっとくだけた口の利き方になってしまった。

 きい~っと、薊式部が扇子の先を歯で噛んだ。怒りをまさに噛み殺している。

 かまわず娃瑙は、このままの態度でいくことにした。

 これまでの特訓は水の泡である。


「そなた、その体に巻き付いた蛇はいったいなんじゃ。おもしろいの」


 夕顔のことは、この前出会ったときに一度見たはずだった。しかしほかの人の手前か、初対面の素振りで聞いてくる。


「その蛇、へび……、へびでよいのか。手足があるのう。どこで見つけてきたのじゃ。名前はあるのか? 妾にも触らせてくれぬか」


 娃瑙は沙羅の「ながい、とかげです」という皮肉の幻聴を聞いた。

 森雅羅姫は膝立ちでしゅっしゅっと娃瑙のほうへと近づいて来た。


「姫さまっ」


 とがめるように、森雅羅姫お付きの本来の侍女たちが袖をつかんで止まらせる。

 姫は何人かの侍女を連れてきていたが、どうもそのなかでも引き留めた三人は特に信頼厚いものたちのようだ。

 額に一本、短い角が反って生えているのを除けば、普通の女と変わらない。よく見れば全員そっくり同じ顔をしている。三つ子だろうか。


「気にするでない。これから同じ部屋で長い刻を過ごす者たちじゃ。危険と思うならそもそも西の都まで来たりせぬわ」


 森雅羅姫は、娃瑙のすぐ前まで来て座った。

 彼女のほうが少し背は高い。見上げる形になる。彼女は娃瑙がこれまで見たどの姫君たちとも違っていた。

 大体が、角の生えた姫というのは想像もしていなかった。後頭部から髪を分けるようにして生えた角は、ねじり、曲がりながら、首筋に沿って下向きに生えている。

 耳は両耳ともに、耳殻が幾重にも重なっている。その先端は菖蒲の葉のように尖っており、ここだけ見ても天爛の都の人間とは異なることが分かる。

 髪型もまた驚きだ。烏の濡れ羽色と称される艶やかな黒髪。だが長ければ長いほど美しいという天爛の都の美の定義とは違い、肩にかかるかどうかの短く切り揃えた短髪(ショートカット)。こちらでは直毛(ストレート)が基本であるとされているのに、鬼姫の髪はまとまっておらず、その髪の乱れは意図的にも思える。

 また肌は抜けるように白く、染み・くすみなど一切見当たらない。羞天の色の白さとは違う、澄んだ白色である。

 頬にはうっすらと頬紅。唇にはこれも薄めの紅。勢いよく払うような眉。長い睫毛にかたどられた切れ長の瞳。

 どれをとっても、新しい驚きを伴う。そんな美だ。


「娃瑙とやら、この蛇は、うむ。気品があるのう。よしよし、いい子じゃ。おお、妾の手を握ってくれるか。はは。おもしろい。ん? なに? 名は夕顔じゃと。知っておるぞ、あの有名な絵巻物に出てくる美女の名であるな」


 そしてこの親しげな態度。

 不二の都の皇女というやんごとなき方だが、あまり身分の隔たりは気にしない質なのか。夕顔の頭を撫でて微笑む姿は、無邪気でさえある。

 そのほころぶ口元に、きらりと光る牙が見える。媚子のような八重歯でなはく、正真正銘の牙が上の前歯から生えている。

 娃瑙がそれに気付いて、しかし気付かない振りをすると、目敏く勘づいて森雅羅姫は扇子で顔の下半分を覆い隠した。

 扇の上に乗る瞳が三日月のようにきゅっと閉じ、その様子から照れがうかがえる。鬼姫にとって牙を見せるのは少々恥ずかしいことのようだ。

 娃瑙は森雅羅姫に対して、以前にも感じた奇妙な親近感(シンパシー)を覚えた。

 それがどこからくるのか分からなかったが、何か自分と姫には意外な共通点があるのかも知れない。

 それから今度は、順番が逆になったが薊式部が女房とりまとめ役として自己紹介をした。

 彼女は琴の腕前が自慢であり、ご所望とあらばいつでも姫のためにお弾きいたしますと語った。森雅羅姫は彼女がかけている鼈甲縁の眼鏡にいたく興味がおありのご様子だったが、残念ながら耳殻が何枚もあっては試しに掛けてみることもできず残念がっていた。

 続けて羞天が自己紹介する。


「羞天と言います。よろしく、お願い申し上げます。宮仕えは初めてですが、精一杯お仕えさせて頂きます。何かお気に召さない点がございましたら、遠慮無くおっしゃってくださいませ」


 薊式部がほっと安心を浮かべた。

 これは前もって決めておいた挨拶の口上である。


「あたし、もともと異界に住む方たちと気が合うみたいなのです。あと、見た目はこんななりですが」


 こんななりですが、と言うときに、波立った金髪を両手でふわさあっと広げ、その動きのままくるっと碧い両目を指差した。


「こんななりですが、お気になさらないでくださいませ」


 予定と違う口上が付け加えられ、薊式部があたふたし始めた。


「では一発芸、します」


 さすがの娃瑙もぎょっとして半立ちになった。

 格子の外からむーむーの苦笑が聞こえる。

 薊式部は顔面蒼白で、ともすれば飛びついてでもやめさせようと機会をうかがっていた。

 一方で肝心の鬼姫は、「ほほう」とわくわくさせている様子だ。


「いきます! 透明人間っ!」


 しゅびっと両の手を横に伸ばし、少し腰を落とした。

 羞天の姿が、ぱっと衆目の眼前で完全に消える。鬼姫の侍女三人衆が、即座に森雅羅姫のそばに駆け寄って護衛の体勢に入る。

 森雅羅姫は手のひらだけで侍女たちを元の位置に戻らせた。その顔は穏やかだ。

 何が起こるか固唾をのんでいると、意外や薊式部が「きゃ」と悲鳴を上げた。外見的特徴(トレードマーク)の鼈甲縁の眼鏡が顔にない。


「じゃーん」


 とすっ、と羞天が娃瑙の肩に着地した。


「むぎゅっ」


 突然生じた重みに耐えられず、つぶれた蛙みたいな声を上げて、娃瑙は前屈みに突っ伏した。

 見上げると、羞天の顔には薊の眼鏡がかけられている。

 薊式部はまなじりをぴくぴくさせて、口を半開きにさせていた。怒鳴りたいのを抑えているのだろうか。


「羞天ちゃんっ、あなた阿呆なの? 突然何やらかすのっ?」

「えー、だってー、空気かたいし」

「いくらなんでも、私だってそんなことしないわよ」

「納言ちゃんも何かやったら? あたしなんかよりよっぽど面白いことできるじゃん。ほらあれ、この前あたしに見せてくれたやつ」

「あ、あんたたちっ! いい加減になさい!! 姫さまの御前よ、御前!」


 薊式部がとうとう我慢仕切れず叫んだ。


 くすっ。


 森雅羅姫が、笑っていた。袖で口元を覆い隠し、瞳を薄めて笑っている。


 お? これは、いける?


 娃瑙は羞天の言葉に乗ることに決めた。


「よ、ようし。二番、娃瑙。一人無言劇(パントマイム)、やります!」


 夕顔に顎を外させ、大きく開口させた。

 そのまま待機させて、自分は足からそろりと夕顔の口腔内へ入っていく。そして完全に顔まで埋め、両手で牙を持って口を閉じさせた。

 ごくり。主人を完全に飲み下す夕顔。

 人ひとり飲み込んで、腹の鱗が内側からびろ~んと伸びて広がった。

 そこに、ぬっと。

 ひとの顔が浮き出てきた。

 そのまま顔は『の』の字を書くように動く。左右には手のひらも浮いて見えた。

 娃瑙が自分の顔と手を、腹の中から押しつけているのだ。

 その状態でなにやら一人芝居をし始めたようだ。だがそれはかろうじて輪郭が分かる程度だったので、彼女が何を伝えたいのかさっぱりである。

 どたどたと誰かが足音を立てて走ってきた。


「なあーに、やってんでちゅかあーっ!!」


 助走をつけて夕顔の腹へ跳び蹴り。

 げぱっと吐き出され、娃瑙は床に頭から落ちた。


「ぐぴゃあっ! あ、あんた燕角! 痛いでしょ、何すんのよお」

「だらけてきたから、オチをつけてやったんでちゅ! 感謝してほちいくらいやわね!」

「こんのぉ……」


 二人が言い争いをしようとしたそのとき、少し離れた場所に座っていた摩利が立ち上がった。


「僭越ながら。三番、摩利。私も芸をします。お目汚しを」


 体の大きい彼女が立ち上がると、周りの空気も一緒に持ち上がるかのようだ。事実、少し上昇気流が生じた。あわせて、大きすぎる胸がたぷんっと上下する。


「摩利さん、あなたまで!?」


 薊式部の言葉には反応せず、摩利は言葉を続けた。


「特技は角力です。まずは鉄砲」


 摩利が宙に向かって鋭く張り手を繰り出すと、向かいの壁に手形がめり込んだ。

 娃瑙が「う、うそ」と慄く。


「お次は四股を踏みます」


 摩利は蹲踞の姿勢から、左足を大きく上げ、床を踏みしめた。

 どんっ、と地鳴りのような音が立つ。その衝撃で番花殿全体がぐらぐら揺れた。

 揺れがおさまると、今度は燕角がぴょこんっと小さく飛び上がって立った。


「あたちも負けてられまちぇん。四番、燕角、踊りまちゅ! 孔雀明王護法術! 護法の七、のうもぼたや、のうもたらまや、のうもそうきゃ、さんまんていのう、なしやそにしやそ!!」


 甲高い声で一息に叫ぶと、懐から大量に紙札を取り出して紙吹雪のようにまき散らした。

 それらが一斉に美しい花や鳥に変わり、殿内に宙を巡る階(きざはし)をかける。その上に燕角が足をかけてパパンがパンと踊り始めた。

 踊り舞いながら進んでいく後ろから、どこからともなく笛と鼓を鳴らすタヌキやウサギの一団が現れて行列を成す。

 もちろん現実の光景ではない。幻を見せる護法術の応用である。

 これに調子に乗った羞天が加わり、続けて娃瑙も夕顔に乗っかって行列に入った。そして摩利も少し遅れて遠慮気味に踊りの輪に入る。

 パパンがパン、あ、そーれ、パパパンパン。

 さながらおばかな祭の光景だった。


「ちょ、やめなさい、やめなさいったら、あんたたちっ」


 こうなっては収拾がつかない。

 ざわめく女官、困惑する不二の使い、怒鳴る薊式部。


「あは。あはは、あっはっは」


 森雅羅姫は声に出して笑った。急に部屋のなかが静かになる。薊式部もほかの女たちもぽかんとしている。


「あ、あはは。あー、おもしろい。こんなおもしろい者たちが妾のそばにいてくれるのか。これは、西の都での生活も楽しくなりそうじゃ。あははははっ」


 気付けば三つ子の鬼女もくすくす笑っている。格子の向こうからは、むーむーの大きな笑い声も聞こえてくる。拍手と笑い声が、部屋の空気を満たしていた。

 薊式部は魂が抜けたようにうなだれていた。

 扇子を額に当てたまま、首をかくんと垂れている。もうどうとでもなれ、といった感じである。

 そこにすうっと、白い手が上がった。

 皆が注目すると、陰気な女が立つ。

 その顔を見て、娃瑙はぞわわっと肌が粟立った。


「五番、宮須。幽体離脱します」

「だめえぇっ、宮須さんはやめてえぇえぇっ!」



 局に戻る途中、娃瑙をはじめ妖女五人は空いた部屋に連れ込まれた。薊式部が青筋立てて怒っている。


「あ、あなたたち、好き勝手やってくれましたわねっ! 森雅羅姫さまがお心の広いお方だったからいいものを! もう、本当にもおおっ!」

「す、すいません……」


 さすがに調子に乗りすぎた。羞天に乗せられてとっておきの隠し芸を披露してしまった。いささか後悔してはいるが、でも結果的に鬼姫さまには笑っていただけたので満足だ。


「あなたたち、宗像さまがお話になったこと、聞いていたのでしょう?」

「……ひょっとして、入内の件ですか」


 薊は右手の指で眼鏡をくいと上げた。


「そうです。これからおよそ三ヶ月、森雅羅姫さまはこちらに滞在されます。その間には『凄辰の大祭』に、『秋花の節句』と行事が目白押しです。そこが狙い目です。是非とも護霊の帝が森雅羅姫さまにご興味をひくよう、私たちが手助けするのです。もし上手くいけば、あなたたちの家も大きな恩恵を得られるでしょう」


 しかし薊は「ただし」と付け加えた。


「ただし、上手くいかなかった場合、最悪あなたたちの父上は地方へ左遷、いえ、ひょっとするとありもしない罪を着せられて島流しに遭うかもしれないですねぇ。きちんと、十分に、慎重に、お仕えして頂戴。よろしいわね?」


 以前もらった文のような脅しを受けたのだった。



 この日より、正式に森雅羅姫のお付きの女房として娃瑙たちの生活が始まった。

 不思議なことに、森雅羅姫は不二から連れてきた侍女たちよりも娃瑙たちとともに過ごすことが多かった。

 それどころか、わざと侍女たちを避けているような節があった。それは同行してきたほかの異界人たちについても同様であった。

 もしかすると、西の都の人間や生活に早く慣れようとしていたのかも知れない。



 ところで高貴な方のお付きの『女房』とはいかなる仕事をするのか。

 一応、文の受け渡しや重要な用件の伝言、相談役などはする。

 秘書と雑務係と世話係を合わせたような感じ。

 ただしそれだけではない重要な意味合いがほかにある。

 教養ある女性が集まって、一種の社交場、サロンを作り出すのだ。

 知性と教養に彩られたサロンで、仕えるお方の価値を高めるのである。そしてそれは最先端の文化の発信地ともなる。

 と、これは普通の女房たちの話。

 娃瑙たちはまだ若く、教養はほかの女房衆の足元にも及ばない。なかには男性が学ぶ漢籍に詳しい女性までいる。和歌が少しだけ得意な娃瑙もここではまだまだ未熟者であった。

 そもそも娃瑙たち五人に期待されているのは、これとはまったく別件だ。つまりずばり、妖術関連のことだったのだ。

 そもそも森雅羅姫自身が相当の妖術師である。

 術を通じて姫と親交を深め、ときには刺激し合い、ときには教え合って、言わば妖術師のサロンを創り出す。その妖しの空気に誘われて、物見高い男性貴族たちがやって来るだろう。

 護霊の帝の側で仕える貴族が、森雅羅姫の噂を耳に入れることもあるかも知れない。興味を持てば、姫と二人きりで会うことを望まれるかも知れない。

 会って気持ちが通じあえば、そこは男と女、何がどうなるか分からない。美峰家の妨害など関係ないだろう。

 それが望月宗像の、薊式部の狙いであったのである。娃瑙たち尋常ならざる女性、妖女五歌仙を女房として雇ったのはそういう理由からだった。

 ところで薊式部であるが、この女性も術士としてはかなりの腕前だそうだ。

 どこで修行したのかは不明だが、そこら辺の祈祷師や陰陽師より強力な霊力を持つらしい。

 気になるのは、燕角が「あんな女は知らない」と言っていたことだ。

 数十年前からの記憶を保持したままの彼女が言うなら、ちょっと心に留めておかねばならない。



 はじめは初日のような失礼がないように気を付けながらお仕えしていたが、そのうち娃瑙は女房生活に慣れてきた。

 そしてそれとともに、森雅羅姫の性格がなんとなくだが分かってきた。

 無邪気で、純情で、恐い物知らず。

 驚くほどに、浮き世離れしているのである。

 角が生え、耳が何枚もあり、牙が口から覗く。そんな恐ろしい容貌の女性が、汚れを知らない少女のような性格だとは誰も予想だにしなかった。


 先日、こんなことがあった。

 宮中は多くのひとが働く場所であるが、意外と幼い童(乳児を含む)もいる。

 子連れの女官が結構いるのである。

 こどもなりにわきまえているとは言っても、そこはまだこども。やんちゃであるし、好奇心旺盛である。知りたいことがあると、自分から向かって行く。

 朝、娃瑙が局から出仕すると、森雅羅姫の部屋から年端もいかない童の笑い声が聞こえてきた。

 声をかけて格子を開け、几帳をくぐると、三、四才くらいの童たちが何人も姫にくっついて遊んでいた。


「あ、ねえ、ぼくたち……?」


 この子たちは分かっているのだろうか。相手が不二の都の皇女であることを。

 天爛の都の大事な客人であることを。

 ……異界の住人であることを。

 しかし森雅羅姫は娃瑙に向かって手で制し、注意しようとするのを止めた。

 彼女は顔をほころばせ、牙を隠しもせず幸せそうに童と遊んでいる。

 童のひとりは姫の首に後ろからぶら下がって左右に体を振っている。またもうひとりは胸元にうずくまっている。さらにもうひとりは膝に寄りかかって草子を読んでいる。残りは姫を中心にして右へ周り、左へ周りして鬼ごっこをしている。

 そうこうしているうちに、童たちは疲れて眠ってしまった。

 胸にうずくまったまま眠った子は、安心しきった顔をしていた。その頭を優しく撫でながら、森雅羅姫は何か歌を口ずさんでいた。

 聞いたこともない旋律だったが、どこか懐かしさを感じさせる。不二の都の子守歌だろうか。


「ちいさい子たちは、ほんとう。かわいいこと」

「お好きなんですか。こども」


 聞くと森雅羅姫は、梨の花のように慎ましやかな美を湛えて微笑んだ。


「ええ、妾もいつか母になりたいと願っておる」



 またこんなこともあった。

 奇妙な色合いの鳥が、内裏の庭に植えてある桔梗の花を片っ端からついばんでいた。

 異界から流れて現に居着いた大きな猛禽だった。

 食べられるものならなんでも食べ、花や葉、木の実、虫や魚などはもちろん、獣はおろか人すら食べる貪欲な鳥として恐れられていた。

 女官たちが気付いて武官を呼ぼうとすると、森雅羅姫は「ひとつの味にこだわっているときはかえって安心だ」と言って庭先に下り立った。

 あわてる女官たちを横目に、姫は術で黒風(つむじかぜ)を起こすと、庭にある桔梗の花をすべて巻き上げて空の彼方へと投げた。

 鳥は青紫の塊となって飛んでいく桔梗の花を追って、内裏の庭から空へと去っていった。

 話を聞きつけ急いで駆けつけた娃瑙が、なぜそんな危ないことをしたのか問うと、


「あの鳥はただ食べていただけ。むやみに傷づけるのは忍びない。それに美しいものを食べてしまいたいという気持ち、分からないでもない」


と笑って答えた。



 こんなこともあった。

 望月家から重数巻にも及ぶ大作物語を譲られ、森雅羅姫は夜中もずっと燭台を灯して読み続けた。

 あまりにも深夜まで起きているので、一旦就寝のために局に下がった娃瑙がもう一度赴くと、森雅羅姫は感動のあまり涙をこぼして泣いていた。

 娃瑙の顔を見ると、ぐずりながら赤い目を袖でこすった。燭台の光で陰影ができ、なんとも艶めかしい泣き顔であった。

 その物語は娃瑙も以前読んだことがある。たしかに感動はしたが、ここまで感情も露わに泣くというのは驚きだった。



 こういったことを薊式部に話すと、


「それは当然でしょう。森雅羅姫さまは、ある事情であまり外の世界のことを知ることなしに育てられたのです。いっそ作られた、と言ってもよいでしょう」

「作られた?」

「あっとこれは失言でした。そう意図して育てられたということです。とにかく、そのために希有なほど平和な方なのです。怒ることも、嫌うことも、疑うこともなく、純真無垢なのです」


 そのように滔々と説明してくれた。



 娃瑙たちが森雅羅姫のお付きの女房として働き出し、およそ一週ほど過ぎると、少し気持ちに余裕が出てきた。

 そうなると宮中で働くほかの人々についてもようやく目が向くようになった。

 もっぱら彼女たちの興味対象は男性貴族である。

 娃瑙たちの住む局は殿上人たちが通る道のすぐそばにある。夜中でも宿直(とのい:夜間の当直)の仕事で、ひっきりなしに人が行き交う。

 妖女と言われる女房たちに好奇心を抱き、貴族の男が話しかけてくることもあった。

 彼らは若くとも少納言以上で、位としては娃瑙の父と同じかそれ以上の上流貴族である。

 御簾越しに話すのさえ柄にもになく緊張していたが、ほかの古参(ベテラン)女房が大納言相手にも物怖じせず軽口を叩き、冗談を言い合うのを見て心底驚いた。

 貴族の男は優雅さと美を愛でる者が多く、女性に対して地位や身分を振りかざす者はほとんどいなかった。そのような者は無粋とされた。



 ある夜、食事を済ませて帰る途中、自分の局のそばに男が座っているのを見つけた。どうやら隣の局の羞天と話し込んでいるようである。恰幅のいい、温和そうな男だった。


「これはこれは、こんばんわ。あなたが桜少納言だね」


 娃瑙はばっちし、顔を見られてしまった。急いで扇子で顔を隠すが間に合わない。

 一応、娃瑙もここでは顔を男に見せないようにふるまっていた。もっとも数多くのひとが行き来する宮中で、女が男に顔を見られるのはある程度避けようがない。

 御簾の向こう側から、親友の甘いハスキーボイスが聞こえてきた。


「あ、納言ちゃん? この方がね、公任さまだよ。ほら、あたしよく話してたじゃない?」


 ああそうかと合点がいく。彼女はお目当ての男性と会えたのだ。

 しかし、もう少し面食いだと思っていたが。公任さまはこれといって特徴のないお顔だ。それに小太りである。

 羞天の趣味とは違うのではと疑問を感じた。


「あ~、なにか失礼なこと考えてるでしょお。公任さまはね、太ってても格好いいんだよ。それに笙も太ってるからこそ、上手く吹けるんだから」

「いやあ、そんなに太ってると言われると恥ずかしいなあ」


 なんだか、いい雰囲気である。

 邪魔しちゃ悪いと思ってとっとと自分の局に入ろうとすると、後ろから男が話しかけてきた。


「はぁい。こんばんわ、子猫ちゃん」


 男の猫撫で声は、想像以上に気持ち悪かった。鳥肌が立って振り返ると、そこには茶髪でくせっ毛の若い男が立っている。

 溶けて落ちそうな目尻と、長い下睫毛。二枚目だがいかにも軽薄そうな色男ふうである。

 よっと、二本指を目元にびしっと当てて軽妙に挨拶してきた。


「ぼかぁ、桐原業平。よーろしくぅ。きみはあれだね、『へびとかげの君』の娃瑙さんだね。いやぁ、お目にかかって光栄だよ。どうだい、ちょっとそこでお茶しないかぃ?」


 娃瑙は、ぽかん、である。なんとまあ。気障ったらしい男であろうか。

 この男が、桐原業平? たしか宮須内侍の想い人の名前だ。

 以前、屋敷に眷属を侵入させて一騒動あった。

 しかしこの男、若くして権中納言(相当偉い)。こんな男で大丈夫か?


「どぉしたんだぁい、子猫ちゃん。あ、いや、気にするこたぁないよ。普通にしててくれ給えよぉ。そうだ、さっき美味しい干菓子を頂いたんだぁ。一緒にどうだろぉ」


 お菓子?

 ぴくっと反応してしまう自分は現金だ。だけど甘いものには、不可抗力。

 行きますっと、まさにそう返事しようと思った。そのときだった。


「なりひらさま……」


 うっとりするような女の声が、業平の後ろから聞こえた。

 途端に業平の顔色が白くなる。気取った笑みも消えた。

 見えない力で強引にぐぎぎっと首を曲げられるようにして、業平は自らの背中側に立つ女を見た。

 娃瑙も少し横にずれて覗いた。予想通りの人物がそこにいた。


「い、いやぁ、宮須。お久しぶりだぁね」

「お久しぶりでございます。業平さま」


 声は媚びる色なのに、目はきつく咎めるように睨んでいる。


「業平さま、どうして、どうしてたった一日しか通ってきてくださらないのです。あたくし、ずっとお待ち申し上げておりましたの。ずっと、ずっとずっとずっとです」


 宮須は業平の胸元に、取り縋るように組み付いた。

 聞くまでもない。一日しか通わずそれっきりと言うことは……つまりそういう事だ。


「いやぁ、子猫ちゃん。行こう行こうとは思っていたんだけどぉね。宮中のお仕事も、色々大変でねぇ……」


 見ているだけで、業平の体温が下がっていくのが分かるようだ。腰を引かせ、すぐにでも離れようとしている。

 それを見て、宮須は彼の気持ちが離れているのを感じ取ったようだ。一旦業平の胸から身を離す。


「そう、ですか。わかりました。でも、あたくしはいつでもお待ちしております。業平さまのこと、お待ちしております。そ、……それ、まで、は、独り寝の寂しさに耐えております。でも信じております。いつか、あたくしのもとに戻ってくださることを」


 そう言って、宮須は顔を横に向け、少しだけ間を置いた。翳りのある流し目をし、唇を動かそうとする。

 娃瑙は宮須が笑おうとしているのに気付いた。

 笑顔で男を引き留めようとしているのだ。しかし彼女の笑顔は、正直言って相当恐い。これは失敗する、と予感した。

 宮須は口元にほんのりと笑みを浮かべ、悲しそうな目で業平を見た。

 凄みのある顔立ちのなかに、様々な感情の乱れを一瞬の笑みに乗せた。

 星明かりと遠くの篝火に照らされて、凄艶であった。


 うわ……っ。


 娃瑙は感心した。

 これは完全に計算尽くの笑みだ。

 男の心を動揺させ、くすぐる笑みだ。

 事実、業平はあたふたしているわりにはさっきまでの逃げる様子は消えている。


「お……おーけぇ、こ、子猫ちゃん。ぼくのこと、そんなに想ってくれるなんてうれしぃよ。近いうち、時間を作って必ず会いにくる。約束するよぉ」

「ほんと……ですか。業平さま」

「ああ、ほんとぉだ。でも今夜のところは帰るとするよぉ。あでぃおす」


 業平は宮須の華奢な体をぎゅっと抱擁すると、放心した彼女を残して帰ろうとした。

 そして娃瑙の横をすれ違うとき、わずかに背をかがめて宮須からは見えない位置で娃瑙にバチコーンと秋波(ウインク)をかましてきた。下睫毛がばさっとゆらめく。

 まったく、なんて男だろう。宮須も宮須なら、業平氏も業平氏だ。

 男が通ってきたことはおろか、恋文の一通ももらったことがない娃瑙にはまったく未知の領域だった(羞天の恋バナで耳年増ではあるのだけど)。



 宮中には女官たちも多く働いている。

 娃瑙たち女房と一番多く接点があるのは、主殿司(とものづかさ)という職種の女官たちだった。おもに燭台の点検や、建物内の清掃を担当する。

 主殿司は下流貴族の娘でもなれるとあって、宮中の女官のなかでも人気の職だった。

 娃瑙たちが住む局の清掃も、彼女たちの仕事である。

 久しぶりに休みをもらい、昼近くまでぐーたら寝ていると、局の格子を叩く音がした。


「ふわぁい。どうぞお」


 清掃に来た主殿司だろう。寝ぼけ眼をこすりこすり、招き入れた。

 今日は新人のようである。銀色の髪が珍しい。顔や首、手などから肌は褐色をしているのが分かる。


「ではお掃除を始めさせていただきます」

「……あの、なにやってんの。沙羅ちゃん」

「なにって、掃除ですが」


 入ってきた主殿司は、紛れもなく沙羅だった。

 沙羅とは宮仕えに来たっきり、会っていない。装束姿で箒を持った姿は新鮮だった。いつもは露出度の高い民族衣装なのに。


「どうしてここにいるの?」

「姫さまのお父上が、養女ということにしてくださって、ここへ推薦してもらえたのです。実は三日前から働いているのですよ」

「そ、そうなんだ」


 もちろん、父が本来縁もゆかりもない異国の少女にそんな破格の扱いをしたのは、娘の護衛として送り込むためだろう。

 それを証明するように、沙羅は上着を少しめくって二本の愛刀をちらりと見せた。

 こ、この子、殿上に刃物を! よく通れたわね……。

 呆れてしまう。

 沙羅は黙々と掃除を続けている。夕顔が懐かしそうに見上げていた。


「ご安心ください、姫さま。屋敷に残してきた蛇や亀やとかげは、母上さまが大切にお世話しておりますよ。だいぶ気味悪がられていますが」

「ああ、そう。よかった」


 久しぶりに顔を会わす主従。ちょっと気まずい。箒を掃きながら、沙羅はぼそりと話しかけてきた。


「姫さま、殿方からお誘いはありましたか」

「へ? えーっと、どうなんだろ」

「せっかくの宮仕えではありませんか。素敵な恋人、見つけるいい機会では」

「余計な、お世話」


 そのまま返事をせず、沙羅は箒をつっかえ棒にして寄りかかったまま、目をつむって考え込んでいた。


「伊周さまには、ここでお会いしましたか」

「え、いや会ってない」


 そう言えば同じ宮中で働いているのに、何故来てくれないのだろう。もう宮仕えをして二月以上経っていると言うのに。


「お好きなんでしょう?」


 反射的に娃瑙の目がきりりとつり上がり、沙羅を威嚇した。


「……沙羅。余計な、お世話」

「媚子さまに遠慮されているのですか」

「なにそれ」

「この国の貴族は、一人の夫が多くの妻を持つのが普通なのでしょう? 媚子さまも承知されているはず。夫にほかの女性ができても、それは常識の範囲内。だったら姫さま、強引に言い寄れば良いのです。あわよくば、正室の座を奪えるかも」


 娃瑙は手元の枕を手にとって、沙羅の背にぶつけた。

 枕は木でできた硬い台である。沙羅は避けられるはずのそれを、避けようともしなかった。

 ばすっと当たって跳ね、ごろりと床に転がる。


「本当に余計なことを言いました。すみません、姫さま」

「沙羅ちゃん、あたし泣くよ?」


 ふふっと笑って、沙羅はその後一言も喋らず、掃除の仕事に没頭した。



 月日が進んだ。『凄辰の大祭』が間近に迫っていた。

 天爛の都で祭と言えば、『凄辰の大祭』を指す。

 それだけ重要で、派手な祭だった。わざわざこの時期に合わせて森雅羅姫がやって来たのは言うまでもない。

 祭の準備は忙しいらしく、宮中の多くの人が駆り出されていた。娃瑙たちも手の空いた時間に、小物の作成や縫い物などを手伝った。

 深夜になってやっと局に戻ったが、何故かその夜は目が冴えてしまい眠れなかった。隣の局の親友へ壁越しに小声で話しかけてみる。


「……ねえ、羞天ちゃん。まだ起きてる?」


 返事はなかった。寝ているのだろうと思って諦めて布団に戻ろうとすると、わずかに衣擦れの音が聞こえた。

 はっとして壁に耳を当てると、「……あ……」とか「やだもう……」とか聞こえてくる。

 羞天ちゃん、一人じゃないんだ……。

 逃げるように反対側の壁に布団を寄せると、今度は隣の宮須の局からも声が聞こえてきた。聞こうとしなくても、娃瑙はすでに全身これ耳となってしまっている。


「……り……らさま」

「……んだい……ねこ……ゃん」


 んぎゃあああっ。みんな、やることやってるのね。


 娃瑙は、膝からぱたっと落ちた。何が悲しくて、睦み合いの挟み撃ちをされなければいけないのか。

 何だか自分だけひとりぼっちな気がしてきた。

 所在なげに局をうろうろしていたが、眠れもしないし、一旦聞こえた声はどういうことかいくら耳を塞いでも聞こえてくるようだった。

 娃瑙は仕方なく、夕顔を体に巻き付けて藤壺を抱き、音を立てないようにそろっとまた外へ出た。

 どうしようか。摩利か燕角のところにでも避難しようか。

 でももし、万が一、彼女たちのところにもほかの誰かが来ていたらと思うと、どうしても足が向かなかった。

 内裏の庭を夕顔たちと深夜のお散歩。それもまたおつである。秋風が気持ち良かった。

 局からだいぶ離れ、夕顔にとぐろを巻かせて、その上に腰掛ける。

 抱き枕のように藤壺を両手でぎゅっとした。そのまま自然を模した庭薗のなかで一人、ぼおっとして星空を見上げた。秋の虫たちがりーりーと鳴いている。

 このまま朝までいようかな。

 そんなふうに考えていると、遠くにひとの気配を感じ取った。かなり遠くにいる。直感ではなく、妖術師としてのアンテナだった。

 娃瑙は翠とかげの藤壺の額に手を置き、珠詞を唱えた。何となく、誰がいるのか気になったのだ。

 藤壺をゆっくりと草葉の間を進ませ、気配のする方へと近づけていく。

 感覚を共有している娃瑙には、遠くにいながらにして話し声が聞こえた。

 声は、男女のようだ。恋人同士の逢瀬ではなさそうである。一人は聞き覚えがあった。


「まったく、なにを考えているんだ」

「しょうがないです。これも信用を得るため、作戦のうちですわ」

「だからと言ってだな。伝統ある祭の神事にあんな連中を参加させるなど」

「あの女の周りが手薄になる機会を待つのです。それまでは我慢のときです」


 なんの話だろう。

 話の途中からだし、単語からはいまいち会話の内容が分からない。

 しかし娃瑙はこの男女の会話に不穏なものを感じ取っていた。

 もっと近寄って顔を見たいが……それは危険かもしれない。とは言え、このままスルーするのはまずい気がする。

 そう思って藤壺をさらに進ませた。


「っ!! だれっ!!」

「どうしたんだ、急に。大声を出して」

「いま、何者かの気配を感じました。話を聞いていたのかもしれません」

「なんじゃと!」


 しまった……!

 何者か知らないが、術を通した気配に気づくなど只者ではない。

 逃げるか、隠れるか、悩んだ末に娃瑙は藤壺をそのままの位置で待機させた。そのまま息を殺して成り行きを見守った。


「何者だ、いったい」

「わかりません。くそっ。どこにいるのかしら」

「まさか、集めた女のうち誰かか?」

「ああ、その可能性は高いですね。だとしたらまずいわ。みんな殺すしかない」

「待て待て、早まるな。我慢のときと言ったのはおぬしではないか」


 娃瑙の首筋に冷たいものが流れた。背まで垂れて、じっとりと濡れる。

 二人の男女はしばらく探し回っていたが、長い時間をかけるのもよくないと思ったのだろう。ほどなく引き上げていった。

 娃瑙は藤壺をそのまま庭に残るように命じ、自分は夕顔に乗って急いで局に帰った。

 不安ではあったが、その夜は別段これと言って何も事件は起きなかった。

 だが、やはり何かが秘密裏に進行していることだけははっきり認識できた。

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