春の色はうつりけりな

斑鳩陽菜

第1話  春の色うつりけりな

 庭をはらりと薄紅の花弁かべんが舞い散る。

 寝殿造りのやしきを美しく彩った桜は今や葉桜となりかけ、枝にとどまっていた花もすっかり色褪いろあせている。その花が、名残惜しげに舞っている。


 ――未練がましいのは、わたしと一緒ね……。


 檜扇ひおうぎを口に当て、彼女は自嘲的じちょうてきわらう。

 濃緋のうひの長袴と白絹の小袖にまとうちぎは、花躑躅はなつつじかさね梅花ばいかかおりをきしめたころもは今でも春の香りを彼女に届けてくるが、花の命はなんとはかないことか。

 この身はいまだ、男を知らぬ。

 恋をしなかったわけではない。この身を求めてくる公達きんだちもいた。

 正妻である北の方になるにしろ、しょうになるにしろ、その気になれば愛されるよろこびを得られたであろう。

 だが彼女は、彼らの求婚に応じることはなかった。

 彼らはわたしを、薄情な女と思うだろうか。

 小野小町おののこまち――、人は彼女を絶世の美女と讃える。

 一度、帝から求婚されたこともあったが、小町は帝さえ振った。


 ――東宮さまを産めば、国母こくぼとなれるものを……。


 呆れるような声がして、白い影が小町の前に立った。

「また、お越しに? お祖父様じいさま

 小野篁おののたかむら――、その姿は若く、垂纓冠すいえいかんを被り黒染めの狩衣を纏っている。

 既に故人ではあったが、生前から昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府めいふにおいて閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという祖父は、暇を見つけては現れる。

 小町はそんな祖父の影響か、彼女にだけ彼が視えた。

 

「花をでにね。冥府むこうには、桜は咲かぬゆえ」

 蝙蝠扇かわほりおうぎをぱらりと開き、篁はくすっと笑う。

「そうふらふらおいでになると、御役おやくが解かれましてよ? それに残念ながら、桜はもう見頃は過ぎましたわ。お祖父さま」

「いいや、わたしの花は今も美しい」

 孫を賛美する篁に、小町は嘆息した。

「お祖父さまにいわれても、嬉しくはありませんわ」

「彼もそう言っているのだよ」

「彼……?」

深草少将ふかくさしょうしょうだよ」

 

 深草少将――、かつて小町に熱心に和歌を送ってきた公達。

 小町は彼に「私の元へ百日間通い続けたら結婚してもいい」と言った。

 深草少将は小町にいわれた通り通ってきて、かやの実を置いて帰っていく。

 そして、もうすぐ九十九日という冬の日。


 ――少将は今宵も来るのだろうか……?


 もし深草少将が百日通ってきたら――。

 そこで否といえば、己は殿方から男を弄ぶ女と罵られるだろうか。

 だが、夜になっても深草少将はやって来ることはなかった。

 諦めたかと思ったが、少将はこの世の人ではなくなっていた。

 篁は冥府で、彼に会ったという。

 思いを遂げることは叶わなかったが、小町への愛は今でも変わらないという。


 こんなにも、自分を愛してくれた男がいる。

 桜の花弁が、また一つ散る。

 なにかにしがみついているわけではないが、小町は妻になることより女でいたいのかも知れぬ。

 多くの恋をし、和歌うたを詠み、噂話に心を躍らせる。

 なれど、この身も花と一緒。

 老いとともに美しさは色褪せ、もはや誰にも見向きされぬ。

 


 ――花の色は 移りにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに。

 


 古今集に綴られている、小町の和歌である。

 

 花の色は、すっかり色あせてしまった。春の長雨が降って、私がむなしく世の中や恋のことについて物思いにふけっている間に。


 小町は小箱を取り出すと、ふたを開けた。

 中には深町少将が置いていった、九十九個の榧の実がある。

 もう彼は来てはくれぬ。

 こんな想いをするのなら、意地を張るのではなかった。

 桜は来年になれば、また美しい花を咲かせる。

 だが人は一年毎に歳を取り、美しさも色褪せる。

 

 眼の前でまたひとつ、花が散る。

 小野小町という花は、あとどれくらい咲き続けるのだろう。

 最期は何色になって、散るのか。

 小町は檜扇越しに、ふっとため息をついた。

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春の色はうつりけりな 斑鳩陽菜 @ikaruga2019

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