色は匂えど
斑鳩陽菜
第1話 色は匂えど
明治二年五月――
薄墨色の空の下――、まるでこれまでの戦いにおける
慶応四年から始まった戊辰戦争により、徳川幕府は事実上の崩壊。旧幕府軍は巻き返しを行うべく東北を転戦し、この遥か
もともと五稜郭は、徳川幕府が蝦夷防衛のために築いたものだったという。
大政奉還の後、新政府により
慶応四年――旧幕軍は海から鷲ノ
この戦いに、土方歳三率いる新選組も旧幕府軍として参戦していた。
鉄之助は慶応三年、故郷・
ゆえに他の隊士のように巡察に出たり、刀を振るうことはなく、
その新選組は旧幕府軍とともに、明治新政府と最終決戦に臨もうとしている。
もはや守るべき幕府も将軍もなく、戦地を渡り歩いてきた誠の隊旗は擦り切れ、朱色に白く『誠』と勇ましく染め描かれた文字も、
それでも風が吹けば、はるばるこの地まで転戦してきた隊士たちを鼓舞するがごとく、強くはためくのだろう。
季節は五月、既に初夏といわれる時季だが、蝦夷地の春は本州より遅れてやって来る。
ゆえにそろそろ桜が咲いてもいい頃なのだが、この幕軍と新政府軍の戦いに恐れ慄いているのか、桜は一向に開花しない。
鉄之助は官舎にある小さな台所でカップに湯を注ぎ、盆に乗せてその男の部屋へ向かった。直属の上司である、土方の部屋だ。
新選組内で鬼副長と恐れられる彼の存在は、鉄之助とて怖い存在である。
それが他の隊士より最も土方近くの、
失敗しなければ怒鳴られることはないが、やはり怖いものは怖い。
部屋の扉をノックすると「入れ」という声が返ってくる。
「――失礼します」
鉄之助が部屋に入ると、新選組副長・土方歳三は机に向かっていた。
肩まで届く髪を軽く撫でつけ、精悍な横顔が鉄之助の視界に入る。
「――なんだ?」
土方は机に向かったまま、問うてくる。
「あの……、
「珈琲……?」
鋭い視線が飛んできて、鉄之助はいますぐ退散したい気分になった。
この一時間前、珈琲を持って来いと言った男はすっかりそのことを忘れていたようだ。
京にいるときは渋めの玉露が彼の好みだったが、最近は珈琲の味も覚えたようで、豆にもうるさい。
土方に睨まれること数秒――、ようやく珈琲を頼んだことを思い出した土方の視線から開放され、鉄之助は盆を手に持つと天井に向けて嘆息した。
焦げ茶色の液体からは苦そうな香りが漂い、鉄之助はよくこんなものが飲めるなぁと感心しつつ、土方の傍らにコーヒーカップを置いた。
「桜……、見られますでしょうか?」
不謹慎だと思ったが既に言ってしまったあとで、土方がコーヒーカップをピタリと口元で止めた。
これは間違いなく「馬鹿野郎!!」という声が飛んでくると思ったが、土方は静かだった。
「さぁな」
予想外の反応に、鉄之助は首を傾げた。
土方の旧幕府軍での役職は陸軍奉行並だが、彼は現在でも新選組副長である。
既に局長・近藤はこの世の人ではなかったが、土方が局長を名乗ることはなかった。
果たして、この戦いはどうなるのだろう。
旧幕府軍を率いる
桜など、見ている余裕などないのに――。
「色は
不意に、土方が呟いた。
「え……」
「いろは歌だ」
「はぁ……」
いろは歌は、鉄之助も知っている。
手習いの基本として、寺子屋では必ず習うからだ。
いろはにほへとちりぬるを――。
漢字が交じると、色は匂えど散りぬるを――となるらしい。
色は匂へど散りぬるを
我が
浅き夢見し
「もはや俺達に、新政府と戦う大義名分はねぇ。幕府は滅び、新政府の奴らにとって俺達は朝敵だ。
物事には始まりがあれば、終わりもあるという。
大政奉還後も存続し続けた徳川幕府は、戊辰戦争開始によってまさに散った。
戊辰戦争開始となる鳥羽・伏見の戦いにて、まだ新政府軍となるまえの倒幕軍は、帝の倒幕許可となる錦の
これにより幕府側は朝敵、倒幕軍は官軍となったらしい。
色は匂へど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日こえて
浅き夢見し酔ひもせず
その意味は『匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。いま現世を超越し、儚い夢をみたり、酔いに耽ったりすまい』、だという。
「副長……」
鉄之助は、不安になった。
土方が、死を覚悟している気がしたのだ。
「榎本は蝦夷共和国を夢見ているが」
土方は、そう言って
慶応四年八月――、海軍副総裁・榎本武揚は開陽丸を旗艦とする軍艦四隻と運送船四隻の八隻の艦隊を率いて、この蝦夷地の箱館に向かったという。
新選組がこの船に乗ったのは、会津での敗戦後である。
旧幕府軍が箱館を占領した後、榎本を総裁とする仮政府の樹立を宣言した。
これが、蝦夷共和国の始まりである。
だが土方は蝦夷共和国は、儚い夢と思っているらしい。
「だからといって俺は、この首を奴らにやるわけにはいかねぇ。新選組はなぁ、罪人で終わるわけにはいかねぇのさ」
土方の言葉は、徹底抗戦を意味しているのだろう。
新政府軍に捕らえられれば、新選組隊士はどのような処罰が下るかわからないという。
局長・近藤は死罪となったが、切腹ではなく斬首だったらしい。
土方は、副長という幹部である。
捕らえられれば自身がどうなるか、わかっているような口ぶりであった。
「俺も戦います」
市村鉄之助、このとき弱冠十五歳。
新選組隊士としては歳月は短いが、ようやく戦いの場が出来た。
人の命も物事も、繁栄の花を咲かせるときがあってもやがては散る。
ならば、最期は悔いなく散ろう。
鉄之助も、覚悟を決めた。
その色は桜のように美しくないかも知れないが、いつかは誰かが認めてくれる。
新選組も、国のために戦ったということを。
しばらくして大砲の音が聞こえてきた。
おそらく、新政府軍の砲撃だろう。
「――始まったな……」
土方の呟きと重なるように、扉が開く。
「副長!」
「島田、これから弁天台場か」
新選組隊士・
しかも、鉄之助と同じ大垣出身。
その島田が赴くという弁天台場は、もともと箱館奉行所が箱館湾に外国船が来襲するのに備えて建造した砲撃用の陣地である。
「なぁに、新政府軍など蹴散らしてやりますよ」
そういって
「どうした? 島田」
「この戦いが終わったら、花見をしましょうや」
「――ああ」
扉が閉まり、へやには鉄之助と土方だけになった。
「お前はとにかく、島田まで花が気になるとはな……」
「きっと……、綺麗な色です」
それは土壌に咲く花の色ではなく、彼らが最期に咲かす花の色だ。
土方が鉄之助の言葉の真意をわかったかわからないが、鉄之助の頭の上にぽんと置かれた土方の手は温かく、鉄之助はこのとき彼に就いてきて良かったと思った。
色は匂えど 斑鳩陽菜 @ikaruga2019
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