シングルオリジン

@harukareno

第3話

窓際のカウンターの端は、彼女の定位置だ。毎朝きまって、開店時間午前七時半を過ぎた頃に、彼女は来店する。

「いらっしゃいませ。おはようございます」

僕は、彼女が店のドアを開けると飼い主の帰りを待っていた犬のように見えない尻尾をふって喜ぶ。彼女はこの店のコーヒーで朝を迎えて、僕は彼女の微笑みでスタートをきる。

 彼女のお決まりのコーヒーは、コスタリカだ。中煎りのハイロースト、淹れ方はネルドリップだ。彼女は、コートを脱いで椅子に腰掛けた。

「いつもので」

「はい。かしこまりました」

彼女はにこっと機嫌よく笑って、トートバッグから本を取り出す。難しそうな本だ。おそらく教育関連の本…彼女の仕事は教師なのだろうか?


 毎朝、彼女はコーヒーを飲みながら本を読み出社するようだ。彼女は、容姿端麗という言葉が似合う。けれど、ただキレイな女性というわけではない。毎朝のルーティンを知っているからという、それだけだが、彼女には彼女なりの自分への気にかけ方や暮らしを丁寧にしたいという心構えがうかがえる。

 コーヒーの選び方もそうだ。コスタリカコーヒーは、豆をブレンドしない。

 ハニープロセスという独自の精製方法を取り入れている、こだわりの生豆で質が良い。単一の産地で収穫されたコーヒーのことをシングルオリジンというのだが、まさにコスタリカコーヒーもそう。コーヒーの個性まで知っているのであったら、彼女は一体何者なのだろう。


「お待たせいたしました」

 僕は、彼女の前にコーヒーをそっと置く。

「ありがとうございます。私、こちらに通って今日で一年が経ちました。ここのコーヒーを飲まないと一日が始まりません」

「嬉しいお言葉、ありがとうございます」

 今日の彼女は、きっと昨日良いことがあったのだろう。いや、もしかしたら今日の予定に何か楽しみがあるのかもしれない。とにかく上機嫌だ。彼女のくりっとした瞳がまぶしい。まるで朝陽のようだ。

 彼女は、カップを持って深呼吸をするようにコーヒーの香りを楽しんでいる。カップを持つ指先もきれいなのは、ネイルをしているからかもしれない。一年か。僕は彼女と知り合って、コスタリカコーヒーが好きなのと、オシャレが好きなことしか知らない。

「ごちそうさまでした。また明日」

「はい!ありがとうございました」

 彼女も僕もお辞儀をする。たまにこれが、朝の儀式のようにも思えてくる。

「マスター!ごちそうさまでした。今日もありがとうございました。私ここのコーヒーを飲んでから、缶コーヒーが飲めなくなりました」

「おや、本当に?嬉しいねぇ。ありがとうございます」

 それじゃ、とにこっと笑って彼女は扉を閉めた。今日も彼女にとって良い一日でありますように。僕は、しばらく彼女の後ろ姿を目で追った。

 次の日、今日はバレンタインだ。サービスでチョコレートをお客様に提供するのがこの店の慣例だ。マスターの奥様が作る生チョコは本当に美味しい。奥様の足が不自由になってから店の手伝いには来なくなってしまったが、毎年バレンタインには生チョコを作って持ってきてくれる。こんな夫婦、きっと誰もが憧れると思っている。結婚っていいな。バレンタインか。僕は、今年も親が郵送してくれるチョコレートだけだろう。寂しいが、慣れている。海外では男性がメッセージカードや花束を贈るという。だから僕は、今日マスターに無理を言って彼女の定位置の席の近くに赤いバラとかすみそうを生けた。

「店が華やかになるな。ありがとう」

 マスターがバラの香りを嗅ぎながら、嬉しそうだ。ありがたい。


チリン。


 店のドアが開いた。僕は彼女が来たと思い、胸が高まる。しかし、入店されたお客は彼女ではなかった。そのお客は、50代くらいの夫婦だった。キャリーケースを持っている。旅行に行くのだろうか。僕は、お客に近づきキャリーケースを預かった。

「おはようございます。お荷物はこちらに置かせていただきますね」

「ありがとうございます」

 男性と目が合った。はっとした。その人は、先日若い女性と来店していて泣いていたお客だった。あの時、女性が先に帰られたあとマスターが自分からの奢りだといって2杯目のコーヒーをお持ちしていた。

「おや!また来てくださって、ありがとうございます」

 マスターが、嬉しそうに話しかけている。

「先日は、ありがとうございました。妻の快気祝いでこれから旅行にと思い、お邪魔しています。コーヒー、とても美味しかったので」

 男性が頭を下げている。

「ゆっくりしてってください」

 マスターも一緒に微笑んでいる。マスターは本当に人が良い。「チョコレートを一つ多く皿にのせて。快気祝いだ」と、耳打ちしてきた。


そろそろ彼女がくる時間のはずだった。けれど彼女は来店しなかった。その次の日も次の日も、彼女は来ない。事故にでもあったのではないだろうか。来るもこないも、お客様の自由気まま、勝手だろうに余計なことを考えてしまう。

 一週間が経った。もう彼女はこの店には来ない。枯れ始めた花も処分した。朝陽は登っているというのに、暗くて寒い夜が続いているような気がした。


「おはようございます」

 ドアのベルと共に、彼女の声がした。


 僕は、ついに幻聴でも聴こえたのかと思うほど、ハッとして顔をあげた。

「おや!久しぶりだねぇ!おはよう、おかえり」

マスターも彼女に会えて嬉しそうだ。

「おはようございます」

 僕は、彼女と目が合うなり顔が熱くなるのを感じた。しかし、彼女はうつむきがちで、あまり笑顔がない。いつもの注文をして、本を出す。ルーティンは変わっていないようだ。僕は、いつもよりもっと大事に淹れたコーヒーを彼女のテーブルに置いて、戻ろうとした。すると、

「ここに来ると、私に戻れます。ありがとうございます」

 彼女は、また少し苦しそうな笑顔だった。やはり何かあったとしか思えない。

「ここのコーヒーって優しく寄り添ってくれる気がします。楽しい時もそうじゃない時も」

彼女は、コーヒーの香りを嗅いでから、僕の顔を見て微笑んでいたが、今にも泣き出しそうだった。カップを持つ指先には、ネイルはしていなかった。何があったのかなんて、立ち入ったことを聞くような間柄じゃない。誰にも言えないことかもしれない。でも、僕も彼女のそばにいたい。コーヒーと共に。

「僕はタバコは吸いませんが、自分にとってコーヒーは大人が吸うタバコと一緒で小さい頃からカッコイイなとか、憧れっていうんですかね。大人だけの楽しみだなと思う節があります。未だに大人になりきれていないんでしょうね」

「ふふ。憧れ、わかる気がします。失礼ですが、おいくつなんですか?」

「三十です。童顔だから、そうは見えないってよく言われます」

「あ、確かにですね!うらやましいです。同い年とは思わなかった。あの、ご出身は関西ですか?」

「はい。京都です。敬語でもなまりは抜けません」

「私もですよ。京都です」

「え!ご出身、京都なんですか?全く方言がでないですね!」

「そうどすか?」

彼女はわざと方言を使って笑った。彼女の照れた笑顔を見ると、ホッと安心したと同時に、僕たちはまるでシングルオリジンだと有頂天になった。 

 次の朝、彼女はすっかり元気を取り戻したように笑顔で来店した。いつものコーヒーを置きながら、彼女の横顔を見る。

「お客様、京都のご出身ならイシダコーヒーは、行かれたことはございますか?」

「もちろん!京都の朝は……」

「イシダから始まり始まり!」

二人同時に合言葉を唱えて、クスクス笑った。

「よかったらなんですが、今度一緒に、その…京都に帰って、イシダコーヒーのエジプトの秘宝を飲みませんか?」

「はい!ぜひ!」

僕は、小指を立てて約束のポーズをしてみせると、彼女も右手の小指を立てた。

 グレージュカラーのネイルが、きらりと光った。

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