エピローグ オッドアイのマーリン「やめてよ、その呼び方」

オッドアイのマーリン①

 ――鞠那シティ・パドル――


 地区全体から漂う、鼻を突くような臭気にも慣れてしまった。

 バラックのような長屋が並び、時折二階建ての家があるかと思えば、大抵は平行四辺形に崩れている。

 住民たちも貧しく、犯罪を恐れて極力外には出ないようにしている。

 そうして構成された不衛生な迷路の中を、少年は一心不乱に駆けていた。

 〝未知の力〟を持つ人間から逃げるために……。

「――あっ」

 いつの間にか袋小路に入ってしまったようで、少年はすかさず足を止めた。

 比較的綺麗なシャツとズボンは、少年の汗でぐっしょり濡れている。

 シティの果ての方まで逃げてきた。

 ここまで来れば大丈夫なはず。

 少年は自分に言い聞かせて、元来た道を振り返った。

 ……追手はいない。

 そう思い、安堵の息を吐こうとしたときだった。

「ぶひゃひゃひゃひゃ。諦めろよ」

 自分の背後、つまり行き止まりの壁の方から、男の汚い笑い声がする。

 するとそこには、自分の二倍はある大きさの、くたびれた服装の男が立っていた。

 男は少年の首を鷲掴みにして、軽々と体を持ち上げた。

「……なんでっ?」

「なんでぇ? 【透過】の脳力を持ったオレから逃げられると思ってんのかぁ? ぶひゃひゃひゃひゃ!」

 薄汚れた顔面を皺くちゃにして、男は愉快そうに言った。

「聞いたぜ。オメーの親父、元は中心地の人間なんだろ? ちったぁオレみてーな下層民に恵んでくれよ。んなぁ、どうよ?」

「ごめんなさい……。妹が病気で……」

「聞いてねぇんだよ! んなこたぁよぉ!」

 男は少年を物のように放り投げる。

 そして、大事そうに持っていたナイフを構えると。

「だったら八つ裂きにするだけだぁああ!」

 それを、風を切る勢いで突き立てた。

 その直後――刃先が少年に刺さる前に、男の目の前に拳が現れる。

 意識が一瞬で弾け飛ぶ。

 男は何者かのアッパーカットを食らい、地面に倒れ伏していた。

「…………あ? あぁ? いてーな! 誰だよ、お前!?」

 暗緑色の制服姿の、高校生が自分を見下ろしている。

 左眼には緑色のアンリミッターを嵌めていた。


「懲りないよな、お前らも……」

 無様な面を晒す異端脳力者を前にして、加神は呆れてため息を吐いた。

 後ろから、相棒の間宮が前に出てくる。

「まったくもう……。パドルにも異端脳力者がまだ居るなんてね。あいつらが居なくなってから、無法地帯らしいじゃん」

「あいつら……? 何の話をしてやがる?」

「なに、知らないの? 【氷結】と【生成】の二人組だよ。ちなみに私は【斬撃】って言うんだけどね」

「……なんだぁ? オメーらCIPの人間か! 邪魔すんなよ! ぶっ殺すぞ!」

 男は地面に落ちていたナイフを手繰り寄せると、切っ先を二人の方に向けた。

 その様を見て、間宮は不敵な笑みを浮かべる。

「殺すねぇ……。殺すってこういうこと?」

 そしてそのまま、脳力で加神の頭部を吹き飛ばしてみせた。

 血が飛び散った男の顔面は、瞬く間に恐怖へと変わり、ナイフを持つ手は震えだす。

「……どうなの? あんたのやり方を見せてよ」

 じりじりと男の元へと歩を進めていく。

 それに合わせて震えは大きくなり、とうとう男はナイフを取り落してしまった。

 間宮は紅い左眼で、汗を垂らす男を覗き込んだ。

「……できないなら、また私の番になるけど?」

「や、止めてくれ……!」

 間宮はナイフを奪い取ると、それを男の顔面目掛けて振り下ろした。

「やめろぉおおおおお!」

 ナイフは――こめかみのスレスレを通り過ぎ、地面に突き刺さっていた。

「気絶してるぜ、そいつ」

 頭部の再生を済ませた加神が、小馬鹿にするように言った。

 ちょっとした二人のコントのつもりが、思った以上に相手にトラウマを植え付けてしまったようだ。

「本部に届けるか」

「そうだね」

 加神は慣れた手つきで端末機を取り出した。

『――G17に処理班を寄こしてくれ。急ぎで頼む。んじゃ』

 これでまた異端脳力者の確保に貢献できたことになる。

 エージェントとしての成長を噛みしめる加神。

 そのとなりで、間宮は、呆然としている少年に対応していた。

「……あ、あの。ありがとうございます」

「うん、どういたしまして」


 ――スカイランドタワー――


 轟は、白いスーツを風に靡かせ、屋上から鞠那シティを見渡していた。

 自分が世に生み出したマクスヴェル。

 それによって発展したシティは、今日もいつもと変わらない時を刻んでいる。

 ……間宮に殺された後に、自身の【死者蘇生】の脳力で復活を果たす。

 ここまでが、彼のシナリオだった。

「良かったじゃない。全部あなたの思い通りになったわよ」

 同様に蘇生していた加神の母親は、同僚への労いを込めて言った。

「君の【未来予知】のおかげだよ。だが、道のりはまだ長い。世界の終焉を回避するには、〝彼ら〟の力が必要不可欠だ」

「……そうね。そのためにもこれから頑張らないとね」

「無論だな」

 加神の母親は轟のとなりに並ぶと、堪えきれずに失笑した。

「……どうした?」

「いや、なんて言うか、本当のことを言えばいいのになって思ってね。そうすればあの子、きっと喜ぶと思うわよ」

「僕には〝間宮〟の念いを果たす責任がある。親子の再会は、それからでも構わんだろう」

「そう……。私、彩人君のそういう素直なところ、結構好きよ」

「うるさいぞ……マーリン」

 同僚のペースに飲まれてしまい、昔のあだ名で呼んでしまう。

「んもう。やめてよ、その呼び方」


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