本能

犀川 よう

本能

 都会に清らかに澄んだ黒い空はない。いかがわしい照明に彩られた虚飾と忙しい騒めきに支配された世界が反射された、無様な灰色の夜空が浮かんでいるのみだ。人の欲望を受け止めるだけの空間が地上だけでは足りないせいかもしれない。美しい星も月も浮かぶことのできない淀んだ空が、ビルの排気口から出るベタついた空気でさらに汚されていき、人の罪を嘆きながら広がっている。


 そんな夜空の下に生えるビルという林の谷間にある細い道を俺は歩いている。お目当ては小さなバー。

 地下に向かう階段の手前まで来ると白熱燈に照らされた紫煙が僅かにこちらへと向かってきた。俺は軽く舌打ちする。刺さるように匂ってきたのは南米産の品のないシガー。このバーには似つかわしくないものだと思いながら、木製の重いドアを開け中へと進む。薄暗い中から沸き上がってきたのはカウンターに座る一人の女性。シミの心配をする必要などないと自慢するかのような黒のバックドレスを着た女。

 

 披露宴の二次会帰りだろうか。いや、それにしては派手過ぎる。羨望と悪意に満ち溢れた視線を背負って生きているような女の背中に祝い事は似合わない。俺は一つ開けた隣の椅子に座り、バーテンダーにいつも最初に飲んでいるウイスキーを目で注文すると、バーテンダーはバックバーにある酒瓶をスムーズな手つきで取り出す。


「趣味の悪いものを飲むのね」


 オーダーを済ませ店のヒュミドールに手を伸ばそうとしている俺に女は言う。その声はとても落ち着ているがどこか愉快さを滲ませていた。


「安物のアイリッシュにセンスを求められてもね」


 俺は軽く肩を竦める。女の左手には半分ほどになった件のシガー。


「そちらのシガー良い趣味をしているな」

「わかる? これ、前の男が愛用していたの」

「君の趣味でなくて良かったよ」

「あなたが?」

「――別にどちらでもいいさ」


 ヒュミドールからキューバ産のロブストサイズを二本取り出してバーテンダーに渡す。


「このシガーは奢り。この空間に南米産のシガーはいただけない。だから礼はいらない。――いや、趣味の良いキューバンラムでも一杯いただければ」

「口数の多い人ね」


 女は悪びれることもなく南米の煙をまき散らしてから、バーテンダーの持っているシガーを指さし「それ、パンチカットで」とカット方法を指定する。少しだけ仰け反って女の背中を見るとラメがのっている個所が照明で煌めいていた。派手過ぎずささかやでもない金色の星々が女の自信を映し出していた。


 俺はシガーを贈り、女は年代物のラムで返す。シガーは大きめの二人用アッシュトレイに寄り添うように置かれている。パンチカットは俺には大きく、女のものはやや小さく。ラムは互いの胸元におかれる。悪くない甘い香りと茶色の魅惑的な液体がアルマニャック用の細身のグラスに漂っている。

 

「互いの趣味の悪さに」


 そう言って女は軽くグラスをあげる。俺も小さくあげて乾杯する。何を祝っているのかはわからないが、都会の空のようなどんよりとした空気に漂う欲望とは無縁で無垢な乾杯だ。

 そこからは無言をつまみにしてただ、シガーとラムに身を任せた。会話はない。俺も女も互いに興味はない。ただ良質なシガーとラムに溶け込みたい気持ちで時間を過ごしてく。口説きたい気持ちはゼロではない。女もそうだろう。シガーの灰を落としてどこかにと思えばおそらくできると思う。だけど、俺は女の身体に拘るよりも、このバーに転がっていた僅か一回しか存在しない時間に染み込むことを選んだ。


 シガーが半分程に痩せた頃、女は南米産のシガーについているバンドリングを左手の薬指につけた。


「ほんと、リングまで趣味の悪いシガーよね」

「そうでもないさ。前の男ではなく、俺が君につけるならね」

「やっぱり趣味悪いじゃない」

「君のセンスが?」

「あなたの慰め方が、よ」


 フッと笑う女。青白い顔を見せつけながら。


「これを吸い終わったら、もう、さよならよ」

「そうだな。朝になりそうだし」

「こんないい女を前に、諦めはいいのね」

「太陽の似合う女が好みなんだ」

「――そこだけは、いい趣味をしていると思うわ」


 最後にラムで作ったニコラシカをバーテンダーと三人で煽ってお開きにすることにした。女とバーテンダーは楽しそうに砂糖とレモンを互いの口に入れて、俺は黙って全てを口へと放り込み、それぞれの旅立ちの儀式を済ませる。


「じゃあね」

「ああ。おやすみ」


 地上に出て別れを告げると、俺は細い路地を去っていく女をしばらく見ていた。煌めく背中が朝日に強く抱かれていく中、女は一度だけ振り返りあの青白い顔を見せた。眩しいくらいの白い光と燃えるような赤の空に包まれた黒衣の女は、聖なる微笑みを浮かべながら、本能を抑えきれない涙を俺に見せびらかしているようであった。

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