トゥインクル・スター

さかたいった

過去へ

 部屋の中に甘く香ばしい匂いが漂っている。

 こんがりと焼けたホットケーキが、あかりの目の前のテーブルにあった。星はホットケーキに溶け切らないほどたっぷりのバターを塗りたくり、さらにはちみつをこれでもかというほど注いでいった。溢れたはちみつがホットケーキの端から皿に垂れていく。

 星は両手にフォークとナイフを構えた。この二刀流は、ホットケーキを食べる時だけに許された装備だ。普段の食事は箸、またはスプーンかフォークの一刀流だ。たまに夕食で出てくるステーキだって、あらかじめ切った状態で星の前に出される。ナイフを使う機会はこのホットケーキを食べる時だけなのだ。星にとって特別な瞬間。

 台所のほうからエプロンをつけた母が歩いてきて、星の向かいに座った。頬杖をついて、楽しそうな表情で星を眺めている。

 星はナイフとフォークを駆使してはちみつたっぷりのホットケーキを一口サイズに切り、口に運んだ。

「美味しい!」

 星のシンプルな感想を聞いて、母は優しく微笑んだ。

「そのホットケーキ、お父さんも好きだったんだよ」

「お父さん?」

「そう」

 小学三年生の星は、一度も自分の父親に会ったことがない。父は星がまだ母のお腹の中にいた時に、事故で亡くなったのだ。そう聞いている。

 母が顔に微笑みを浮かべながら視線を逸らした。星がその視線を辿っていくと、棚の上に置かれた写真に行き着いた。父と母のツーショット写真だ。星にとって父はその写真の中にいるだけの存在。

「子供みたいでしょ。ホットケーキが好きなんて」

「お父さんもはちみついっぱいかけるの?」

「そうだよ。星に負けないぐらいたっぷり」

 星は会ったことのない父に親近感を抱いた。

 星はすぐにホットケーキを食べ終えてしまった。ナイフについたはちみつを舐めようとすると、母に怒られた。

 母は台所で洗い物を始める。

 星は棚の上にある両親の写真の前に立った。

 写真の中の父は、黒縁の眼鏡をかけている。優しくて物知りそうな顔。我が父ながらイケメンだと思う。もちろん母だって美人だ。お似合いの二人。

 星は急に父に会ってみたい気持ちが湧いてきた。これまでそんなことを考えたこともなかったのに。父は教科書に出てくる歴史上の人物のように自分とは関係のない過去の人だと思っていた。

 星は写真を見つめながら、右手をかざした。これは母にも話したことがないが、星には特別な能力があった。物心ついたころには備わっていた力。普段はちょっとしたことでしか使わない。授業中に落としてしまった消しゴムを拾うのが面倒くさい時とか。先生に当てられて答えたものが違って恥ずかしかった時とか。

 時間にしても、ほんの数秒から数十秒だ。

 だから星自身期待はしていなかった。ちょっとした気まぐれのつもりだった。

 星は両親の写真を見据えながら力を使った。空間が歪み、星は渦の中へ巻き込まれていった。



   ◇



「ねえ、この子の名前どうする?」

「どうしようか?」

「女の子だから、可愛い名前がいいよね」

「そうだね。じゃあ権蔵ごんぞうなんてどう?」

「ちょっとふざけないでよ」

「ごめんごめん」

 二人の人間が喋っている声が聞こえる。一人は母のものだ。いつもと少し声の調子が違っているが、間違いない。もう一人は大人の男の人の声だ。

 星は辺りを観察する。星の記憶とは少し家具の配置が違うが、自宅のリビングだ。星は台所に立っていた。

 星は陰から少しだけ顔を出し、声のしたほうを覗いた。

 ドクッ、と心臓が跳ね上がった。

 ソファに二人が座っている。今より少し若い時の母と、写真の中にいた眼鏡をかけた父だ。

 星は初めて自分の父親の姿を実際に目にした。スタイルも良く、やっぱりイケメンだ。

 母が服の上からでもわかる膨らんだ自分のお腹をさすっている。そのお腹の中にいるのは、きっと私だ! さっき二人で話していたのは私の名前のことだろう。父のせいで危うく権蔵と名づけられるところだった。女の子なのに。

「よし、じゃあ買い物行ってくるね」

 母が気合いを入れてソファから立ち上がった。

「僕も行くよ」

 父もつられて立ち上がる。

「大丈夫。まだ仕事残ってるんでしょう?」

「でも」

「金魚のフンじゃあるまいし」

「せめてコバンザメみたいと言ってほしいな」

「何か食べたいものは?」

「カレー。甘口で」

「じゃあ行ってきます」

「無理するなよ」

「はいはーい」

 母が玄関から出ていった。

 父はしばらくその場でぼんやりしていたが、やがてリビングを出て他の部屋に入った。

 星は台所から出て、人のいなくなったリビングに立つ。

 本当に過去へ来たのだ。父がまだ生きている時に。しかもただ時間が巻き戻っただけじゃない。星がまだ生まれていない時代に、未来の意識と実体を伴って。

 星は父と会話をしてみたかった。しかし一体何を話せばいいのだろう? 自分は未来から来た娘だと言っても信じるはずがない。父の姿を見ることができただけで、もう充分だろうか。

 星がこれからどうすべきか迷っていると、勢いよくドアが開いた。さっき父が入っていった部屋のドアだ。ドタドタと慌ただしい足音が鳴り響く。星が廊下を覗くと、焦りながら玄関から出ていく父の姿が見えた。普通の様子ではない。星は父のあとを追うことにした。まだこの時代には星の靴がないので、星にはまだ大きい母のサンダルを履いた。玄関から出ると、通りを走り去っていく父が見えた。

 嫌な予感がした。今ならまだ引き返せる。しかし、星の足は父が進んでいったほうへ向かった。

 見なければよかった。

 人だかりの中で泣き叫んでいる母がいた。近くには電信柱にぶつかってへこんでいる車が停まっている。

 母の腕の中に、動かなくなった父がいた。顔の半分が血に染まっている。眼鏡はどこかへ飛んでしまった。

 遠くから救急車のサイレンの音が響いてきた。

 星は無意識のうちに右手をかざし、力を使った。



   ◇



「ねえ、この子の名前どうする?」

「どうしようか?」

「女の子だから、可愛い名前がいいよね」

「そうだね。じゃあ権蔵ごんぞうなんてどう?」

「ちょっとふざけないでよ」

「ごめんごめん」

 星は、ハア、ハア、と自宅の台所で荒い呼吸を繰り返していた。

 先ほど、父が死んだ場面に遭遇した。

 星は力を使い、時間を巻き戻した。そしてまたこの両親が娘の名前を考える場面に戻ってきた。

 星が未来からやってきたのは、父が亡くなることになる当日だった。このまま時が進めば、先ほどと同じように父は血を流して死ぬことになってしまう。

「よし、じゃあ買い物行ってくるね」

 母が気合いを入れてソファから立ち上がった。

「僕も行くよ」

 父もつられて立ち上がる。

「大丈夫。まだ仕事残ってるんでしょう?」

「でも」

「金魚のフンじゃあるまいし」

「せめてコバンザメみたいと言ってほしいな」

「何か食べたいものは?」

「カレー。甘口で」

「じゃあ行ってきます」

「無理するなよ」

「はいはーい」

 母が玄関から出ていった。

 父はしばらくその場でぼんやりしていたが、やがてリビングを出て他の部屋に入った。

 父を止めなければならない。父を行かせてしまえば、同じ運命が待っている。

 星は父が入っていった部屋の前に立った。星が知っているその部屋は、本がたくさんありちょっとした物置としても使われている。星はあまり入ることのない部屋だ。この時代では父の部屋になっているのかもしれない。

 星がドアノブに手をかけようとすると、部屋の内側に向かってドアが開いた。

「えっ?」

 戸惑った顔の父が立っていた。目を見開きながら星を眺めている。

「きみは誰? どうしてここに?」

「お父さ……行っちゃだめ」

「えっ?」

「行ったら、死んじゃう」

 脈絡のない言葉だったが、父は何か思い当たる節があるような顔をした。

「死ぬ?」

「そうだよ。だから」

「もしかして、僕が?」

 星は苦痛に顔を歪ませながら頷いた。

「そうか」

「だから行かないで」

「いや、それならなおさら行かないと」

「お父さん?」

「ごめん、時間がないんだ」

 父は星の横を通り、走って玄関から出ていった。もう星には止めようがない。

 星は力を使った。



   ◇



「えっ?」

 父が部屋から出てきた。部屋の外にいた星を見て驚いている。先ほどと同じ場面。

 星は父に力強く抱きついた。初めて味わう父の温もりだ。

「行かないで」

 星の目尻から涙が流れた。

 悲しいけれど、父の体は温かい。氷を解かされたように涙が出る。

 父が星の背中にそっと手を添えた。星は包み込まれている感覚を味わった。

「ごめん。でも行かないと、死んじゃうんだ」

「うん、だから」

「違う。僕の奥さんが、死んでしまう。事故に遭って。お腹の中にいる子供と一緒に」

 星は驚いて顔を上げた。

「この目で見たんだ。だから、僕は時間を巻き戻した」

「えっ?」

「二人を助けるために」

 時間を巻き戻した? 父が?

「きみが誰なのかはわからないけど。もしかして、見たのかな?」

「うん。お父さ、おじちゃんが死んじゃう」

「そう」

 父は自分が死ぬと言われても、動じなかった。

「もしかすると、僕の力はこの時のために授かったものなのかも」

「えっ?」

「きみは?」

「わたし?」

「もしかしてきみは」

 父が星の顔をじっと見つめる。

「あの人の面影があるね」

「……お父さん」

「やっぱり」

 星は再び父に抱きつき、父の胸に顔を埋めた。

「わたし、お父さんに会いにきたの。ずっと未来から」

 星の声は震えている。

「だけど、この後、お父さんは死んじゃう」

 星は出てくる涙を父の服になすりつけた。

「だからわたし」

「構わないよ」

 父の優しい声が響き、星は顔を上げた。

「きみとお母さんのことを救えるならね」

 父は微笑んでいた。

 どうして笑っているのか? 死ぬことが怖くないのか?

「なら、お父さんも救ってよ。みんなで一緒に暮らそうよ。もっと前まで巻き戻せば」

「この世界はね。そんなに欲張りできるようにはできていないんだ。誰かの死を帳消しにするようなことはできない。世界の秩序を捻じ曲げてはいけない。自分勝手な真似は許されない」

 父は星を諭すようにして話す。

「だけど僕は、きみと、きみのお母さんが犠牲になる運命だけは、耐えられない。その代わりとして僕が死ぬのなら、それは真っ当な交換条件というやつさ」

「嫌だよ!」

「きみも、力を使えるの?」

「えっ?」

「時間を巻き戻す力を」

「……うん」

「僕から受け継がれてしまったのかもしれないね」

 父はそれが良いこととは思っていない表情をしていた。

「だけど、そのきみの力のおかげで、僕はきみに会うことができた。自分の娘に会うことができた」

 父が星の肩に両手を置いた。

「ずっと楽しみにしていたんだ。きみに会うことを」

 星は眼鏡の奥に見える父の瞳の輝きを見つめた。

「最後に、きみの名前を教えてほしい」

「星。ほしって書いて、あかり」

「そう。権蔵じゃなかったんだ」

「そうだよ。あたりまえでしょ」

「良い名前だ」

「うん」

「星。生まれてきてくれてありがとう」

 星は自分の体の中が温まっていくのを感じた。

「きみは僕たちの希望だ」

 もう涙は出なかった。

「自分のやりたいことを見つけて、存分にこの世界を楽しんで」

 星は父の言葉を胸に刻む。

「生きるんだ」

 父が右手をかざした。星は父のその手に自分の手を合わせた。



   ◇



 父が部屋から出てきた。

 父が星の姿を認めると、力強く抱きしめてきた。父は既に星のことを知っている様子だった。

 星にはわかった。これが父といられる最後の瞬間であると。

 父が抱擁を解き、名残惜しそうに星を見つめ、そして歯を食いしばり歩き出した。

 玄関から出ていく。

 星と母を救うために。

 空間が歪んだ。



   ◇



 母が台所で洗いものをしている音が聴こえる。

 星は現在に戻ってきた。

 星は棚の上にある両親の写真を眺めた。

 この二人のおかげで、星は生まれてくることができた。

 自分の時間を巻き戻す力は、きっと父と会うためにあったんだと星は思った。神様が父に会わせてくれたんだ、と。言葉を交わさせてくれたんだと。

 母のもとに向かう。

「お母さん」

 母が食器のすすぎを終えてタオルで手を拭い、星のほうを向いた。

 星は母に抱きついた。

「えっ、どうしたの急に?」

「お母さん」

「なあに?」

 星は満面に笑みを浮かべて言った。

「わたしを産んでくれてありがとう」



 トゥインクル・トゥインクル。

 夜空に輝く小さな星。

 健気に、謙虚に、

 瞬いている。

 命の煌めき。

 見上げれば、いつだって星空はそこにある。

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トゥインクル・スター さかたいった @chocoblack

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