【KAC20246】堕ちない彼女
鐘古こよみ
お題「トリあえず」
『不知火@siranuisaribi・1時間
まこさマ、トリあえず2123で待ってる』
パソコン画面に表示された大手SNSのタイムラインを見て、私は眉間に深い皺を刻んだ。
この投稿を発見して報告してきた部下が、文章の一箇所を指差す。
「ここ、ちょっと怪しいと思って、
「ああ、うん」
なかなかいい勘をしている。内心で感心しながら、今は褒めている余裕がなくて、私は部下の代わりにパソコンのマウスを握った。
不知火@siranuisaribiというアカウント名をクリックし、ユーザーのホーム画面に飛ぶ。アカウント作成日時は昨日だ。
同じ文章ばかり、昨日から二、三時間おきに投稿している。こういうSNSを監視して怪しい文章を見つけ出すのも、私たちの重要な仕事だ。
「着手しますか」
「いや、いい。これ多分、私の知り合いだから」
美容院に行く機会を失ったまま、すっかり長くなってしまった髪をかき上げて言うと、部下が興味を隠さない目つきで見上げてきた。
「エスですか」
「違う。昔の同級生」
それ以上質問されないうちに場を離れ、私は頭の中で今日のスケジュールを確認した。差し迫った仕事はないから、指定された時間と場所に行けるはず。
仕事を終えて都内の高層ビルへ向かった。エレベーターで三十六階へ上がる。
‶海鮮Bar ISARI-BI〟は、夜景とお酒と新鮮な海鮮料理が楽しめる高級居酒屋だ。店内に足を踏み入れた途端、夜闇を背景に人工灯が星々のように瞬く長大な窓に目を奪われた。
バーカウンターの端に、かつての同級生が座っているのを見つけた。
黒いスーツに身を包み、青色のカクテルを前に置いている。
私は足早に歩み寄り、断りもなく隣に座って、バーテンダーに同じものを頼んだ。
元同級生の
「まこちゃん、来てくれたんだ」
「変な方法で呼び出すのやめてくれる。まこちゃんっていうのも」
「だって連絡先教えてくれないし。
「……用件は」
「まずは乾杯。再会を祝して」
私の前にカクテルが置かれたのを見て、彼がグラスをちょっと持ち上げる。
薄いガラスの縁に塩がまぶされた、スノースタイルのブルー・マルガリータだ。
仕立ての良いスーツ。高級すぎない腕時計。隙のない笑みを浮かべる美男子。
どれも苦手だった。
「用件を言って」
「つれないなあ。わかったよ。君が追っている案件の重要な情報を手に入れたから、教えてあげようと思ってさ。売人たちが拠点にしてる場所、聞く?」
私は加苅を見て、しぶしぶ頷いた。
少し首を傾けて、彼が顔を近づけてくる。
唇が触れそうなほど耳元で、その場所を囁いた。
私はカクテルをぐいと飲み干し、席を立った。
「わかった。協力ありがとう」
「待って待って。今のはほんの冗談。美味しい焼き鳥屋がよく屋台出す場所」
「はあ?」
「もう一杯付き合ってくれたら、教えてあげる」
私は仕方なく座り直し、バーテンダーに違うカクテルを注文する。
隣の男は頬杖をついて嬉しそうだ。
「カクテル言葉って知ってる?」
「いいから、早く拠点を教えてよ」
「さっき、すぐに信じたね。まこちゃん、俺のこと信用してるんだね」
私は溜息を漏らし、周囲に聞こえないよう小声で、ややぞんざいな口調で言った。
「出世コースを
そう、彼はキャリア警察官なのだ。
対して私は、厚生労働省の麻薬取締部に勤務する麻薬取締官。いわゆるマトリ。
各省庁や警察の協力を得て、おとり捜査や拳銃の所持を許されるなど、多くの権限を与えられて職務に当たっている。エスと呼ばれる情報提供者と個人的に繋がり、組織の内部情報などを教えてもらうこともある。
隣に座るやたら顔のいい元同級生は、別に私のエスではない。
でも、独自のツテを使って得た情報を、時折こうして流してくるのだ。
部下が見つけたSNS投稿。あれは私に向けた暗号だった。
部下は‶まこさマ、トリあえず2123で待ってる〟という不自然な日本語の、‶マ、トリ〟という部分を指差していた。
これは「マトリのまこ」、つまり私に宛てたメッセージだということを示している。他に私をまこと呼ぶ人はいない。
2123は、21時から23時まで待っているという時間を表すものだ。
加苅とは中高一貫校から大学までの腐れ縁で、ずっと苦手だった。
大手企業の社長の御曹司で、顔も人当りも良く、頭もいい。
どんな女子も一度は彼に優しくされた経験があり、そのまま恋い慕うようになってしまうという、今思えば麻薬のような男子生徒だった。
彼と私は同じ科学実験クラブに所属していた。
私の他にも女子が何人かいたけれど、その子たちに馴染めなくて、私は大抵一人で黙々と活動をしていた。そんな私に加苅はなぜか、積極的に話しかけてきた。
誰もが恋に落ちると噂の彼の優しさが、これか。
苦手だった。話しかけられても浮かれないように気を付けて、実験に没頭した。
けれども周囲からは、よく会話する仲良しの二人に見えていたらしい。
ある時、私をよく思わない女子のグループに囲まれて、加苅君目当てで科学実験クラブに入っているんでしょ、と詰め寄られた。
私は激怒した。
お前たちと一緒にするな、大学の薬学部に入って将来は麻薬取締官になりたいから、今からいろいろ学んでいるんだと言い返した。
麻薬取締官は、私が小さい頃に病気で亡くなった父が誇りにしていた仕事だ。
それを加苅はどこかで聞いていたらしい。
――まこちゃん、俺なんかには見向きもせず、科学実験に夢中なわけだ。
――そういう一生懸命なところ、かっこよくて可愛いし、話してると楽しい。
――結婚してくれない?
高校生でいきなり結婚を持ち出された。
私はうろたえ、やはりこの人は苦手だと自覚し、以来、避け続けてきたのだけれど、加苅は何事もなかったような顔で、私が行く先々に現れるのだ。
情報提供は正直助かるのだが、個人的に連絡を取りたがるのが困りものだった。
警察とは協力関係にあるのだから、捜査情報は職場を通じて報せてくれたらいい。前にそう言ってみたところ、「いいよ」と微笑まれた。
「結婚してくれたら、職場を通じて連絡してあげる」
「頭沸いてんの?」
さすがに二杯目のカクテルは一気飲みできなかった。
加苅が隣で面白い話をしている。薬と精神医学と
酔いが回ってきたようだ。私もつい受け答えに熱が入った。
大麻の合法化と未成年の
苦手だけれど、別に嫌いじゃなかった。
クラブ中に喋ったり、協力して実験をしたりすることは苦ではなかった。むしろ楽しかった。
麻薬みたいな男子生徒。
勘違いしちゃいけない。彼は誰にでもやさしい。
誰もが手を出して自滅していく。
私は彼に見向きもしない、科学実験に夢中で一生懸命な、かっこいい女の子。
「結婚する気になった?」
「ならないって言ってるでしょ」
私は我に返り、カクテルの最後の一滴を飲み干した。
「早く情報を教えて」
かっこいいなあ、と呟いて、加苅が再び耳元に唇を寄せてくる。
首を
私はマトリ。麻薬に依存する怖さは存分に知っている。
だから、堕ちるわけにはいかない。
<了>
【KAC20246】堕ちない彼女 鐘古こよみ @kanekoyomi
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