とりあえずビールで
キタハラ
とりあえずビールで
日本には「とりあえず」というビールがあるらしい。一番人気で、誰もが店で注文する。
そんなジョークを以前聞いたことがあった。
たしかに、僕も居酒屋に入ったら、「とりあえず、ビール」と注文してしまう。店員はさっさと注文をしろって感じだし、タブレットでするときも、代表して操作している人(タブレットの側の席に座ってしまったことを後悔しているに違いない)に迷惑をかけたくないので。
いっそのこと、どこかのメーカーが「とりあえず」という名のビールを作っちまえばいいのだ。いや、もうすでにそういう商品はあって、結局人気がなくって消えてしまったのかもしれない。
棟方さんに、飲みに行かないかと誘われた。正直面倒だった。同じ部署で働いているけれど、仲がいいわけでもない。年も二十五離れている。自分が生まれたときに、この人はすでにこの会社の社員だったのだ。おそろしい。棟方さんはとくに役職についてもいない。
べつに嫌な人でもないけど、だからといって仕事終わりに一緒に食事をするなんて気にはならない。
「なにかあったんですか?」
とりあえずビールで乾杯して、切り出した。べつに世間話をしてから、なんて礼儀もないだろう。
とりあえず会社の悪口とか、
とりあえず大谷翔平の活躍とか、
とりあえず天気とか、あつい、さむいとか。
そういう話をしてどうなるというのだ。
「いやあ、とくにないんだけどね」
とくになにかありそうな話ぶりだった。新しく入ってきた大学生バイトの態度の悪さとか、はたまた自分がなにかミスをしてしまったのか。棟方さんの表情からはどれをいわれてもおかしくないように思えた。
「月曜日からビールを飲むのもいいもんだな」
棟方さんはいった。
「そうですね。でも家で『月曜から夜更かし』を観ながら、飲んだりしちゃうけど、店でってのはあんまないかもですね」
入った居酒屋はそこそこ混んでいた。学生が多かった。大学生の頃は、週のあたまから飲み会があったとしても、べつに気になんかしなかった。
「テレビなんてまったく観ないな」
「そうですか? なんかスマホの小さい画面を観ているのも首が凝るから、結局はテレビが一番いいですよ」
「スマホもな、面倒で」
あれ。もしかしてこの人、鬱とかノイローゼにでもなっているのか? でもそういうふうになったら、人を飲みになんて誘わないか。
ぼくは料理の注文をした。
そして、何度か「とりあえず」ビールを注文した。
「『とりあえず』の語源は、狩をしていたどこかの殿様が、鳥に会えなくって、『とりあえず』鹿を仕留めたことにあるらしいね」
「え、ほんとうですか?」
「いや、いま適当に思いついただけだ。そんなわけないだろう」
「まあ、そうですよね。でも棟方さんがあまりに真面目くさっているからマジかなって」
「ぼくはねえ、人を騙すことなんてどうってこともないし、良心も痛まないんですよ」
棟方さんが笑った。なるほど、こんなに気持ちが悪い笑いかたをするのか。だから笑わないようにしているのかな。感情に嘘をついて、蓋をして、なんて思った。
結局、棟方さんがなにをいいたかったのかわからなかった。「とりあえず」の会話をそのまま二時間ほどして、お開きになった。
「とりあえず、どこかに行くとしたらどこがいいかな」
棟方さんは店を出たときにいった。
「そうですねえ、なんか来年あたり日本が大変なことになるってオカルト系ユーチューバーがいってたから、いまのうちに国内旅行をしたいですねえ」
「へえ、きみそんなの観るんだ」
「まあ、嗜む程度に」
そうか、たしかにどこにもいったことがないな、と棟方さんはいった。
「実は俺は修学旅行に行けなくってさ」
「それは残念ですね」
「沖縄だったんだけど、ちょうど身体を壊して」
「だったら沖縄にリベンジですねえ」
「そうだなあ。沖縄にまったく興味なんてなかったけど、行くはずだったのに行けなかたのは悔いが残るなあ」
このおじさんにも高校生って時代があったと思うと不思議だ。
翌日会社にいくと棟方さんが出勤していなかった。そして昼過ぎに、大騒ぎになった。棟方さんが横領だとか妻子を残して失踪だとか、そういう情報が、僕の耳にも届いた。
「きみは、棟方くんとは仲が良かったの?」
同じ部署の者は呼び出され、警察と上司に質問を受けた。
「いや、とくに」
「昨日の夜にきみたち、一緒に食事をしたらしいけど、なにか変わったことなかった?」
本物の刑事ってのはわりとマイルドだなあ、とか横にいる部長と課長のほうが隠し事をしているみたいな顔をしているなあ、とか、ぼーっと思った。
「はい、誘われて」
「なにかいっていなかった? 変わったこととかなかったですか?」
「とりあえず、ビールを飲みました」
沖縄の話はしなかったけれど、「トリあえず」のことを告げても、部屋にいた全員、まじめくさって無反応だった。
棟方さんからは連絡はなかった。会社にもないし、自首もしない。ぼくに秘密の連絡もなかった。
たぶんぼくは、ちょうどよかったのだ。とりあえず、誘ったんだと思う。
家に帰り、床に座りこんだ。部屋にあるものはぜんぶ「とりあえず」買ったものばかりだった。
カラスの鳴き声が聞こえた。ぼくはドアをあけた。カラスがどこにいるのか、夜にまぎれて、見つけることができなかった。
トリあえず。
途中で缶ビールを買っておけばよかった、と思った。
とりあえずビールで キタハラ @kitahararara
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