「常識的に考えろ」と王太子は言った。

埴輪庭(はにわば)

ある一幕

 ◆ 


 黄昏が翼を広げ、ホラズム王国を包み込む。


 この日、ホラズム王立学園の広いホールには常に見られない賑わいがあった。


 ホラズム王立学園は貴族の子弟と平民の子らが共に学び成長する学び舎で、この日は卒業パーティーの日だ。


 ちなみに王立学園では身分差を超えた教育が施され、すべての生徒が平等に扱われるとされているが、それは建て前に過ぎない。


 両者は生態が違いすぎるからだ。


 貴族と平民、この両者は究極的には相互理解し得ない。


 しかし国としてはそれでは困る。


 恐怖や憎悪、嫌悪、こういった感情は大体が無理解と未知から発されるものである以上、国はこの火種を少しでも消すか、小さくせねばならない。


 国家の屋根が貴族だとするならば土台は平民だ。両者分かたれれば国が崩れる。


 両者の和合、叶わぬならば最低でも協調。


 王立学園が創設された理由はそういう意図も多分に含まれていた。


 そして大人達が苦心した甲斐あってか、現在ではある程度貴族と平民の相互理解のようなものは交わされており、時として交友関係のようなものも結ばれる事さえあった。


 とはいえ、こういった場では極々自然に貴族、平民と分かれてしまうのは仕方がない事だろう。


 この夜のパーティーの様子も学園の理念とは異なる光景が繰り広げられていた。


 会場の一角では光り輝く装飾が施されたドレスを身に纏った貴族の子らが自然と集まり、歓談している。彼らの間には家柄や血筋による連帯感があり、その輪の中に入ることは容易ではない。


 一方でもう一角では平民の子どもたちが集まり、彼らなりの賑やかさでこの特別な夜を楽しんでいた。


 彼らの服装は貴族の子らのそれに比べれば質素で飾り気は少ないが、その中には自由で温かな雰囲気が流れていた。


 完全な意味で両者が和合する事はない、しかしだからといってぶつかり合ったりする事もなく、行ってしまえばバランスがとれていたのだが……


 この完全とは言わないまでも、悪しともいえない調和を壊す存在が現れた。


 男爵令嬢のアデライードである。彼女はユージンがその場を離れるのを見計らい、エリザベスに近づいていった。


 エリザベスは近づいてくるアデライードを見て、少なくとも良い話ではなさそうだなと内心辟易とまではいかないまでも、浮かない思いであった。


 アデライードの表情には勝者特有の傲然さ、口元には挑発的な笑みが浮かんでおり、エリザベスの厭気を嫌が応にも高めていく。


「エリザベス様、少し貴女とお話したいことがあるのです。よろしくて?」


 アデライードの無礼な言い様に、エリザベスは冷たい視線を向けるだけだった。


 その視線の冷たさは、いっそ敵意と呼んでもよかったがしかしアデライードはその冷たさすらも心地よく感じている。


 アデライードは続けていった。


「王太子殿下が本当に愛している相手をご存じですか。もし分からなければ教えて差し上げますわよ」


 エリザベスはなおも答えない。


 ただ、この時の沈黙は最初の様にアデライードの無礼さが原因というよりは、彼女自身が答えたくなかった為である。


 ──王太子殿下が私を愛してる筈などない。今更言わなくとも分かっている事でしょうに


 彼女はこれまでユージンに厳しく接してきた。だらしのない彼に忸怩たる思いを感じ、何かと厳しい言葉をかけてきたのだ。とはいえその厳しさは悪意ではなく、彼女の生真面目な一面が出てしまっただけではある。


 彼女はユージンが他の貴族たちから軽視されることに心を痛めており、彼女なりにユージンの事を想って時には叱咤し、時にはより強く叱咤し、あるときには更に強く叱咤してきた


 それは国を想っての事であるし、ユージンの今後を想っての事であった。


 だが、エリザベスは思うのだ。


 ──嫌われて当然かも知れませんね


 と。


 でも、とエリザベスは思う。


 ユージンはエリザベスを邪険にはしていなかった。


 注意されれば面倒そうな様子を見せながらもそれを受け入れ、時にはユージンの方から会話を振ってくる事もあった。


 二人の間に愛があったかどうかは疑問だが、前向きな交流があった事は間違いない。


 しかし、ある日を境に二人の関係は大きく変わってしまった……とエリザべスは思っている。


 ──アデライード・セレ・チェスター


 このチェスター男爵家の令嬢の、ユージンへの猛烈なアプローチは留まる所を知らなかった。


 女としての武器をチラつかせてまでユージンに迫る姿は貴族らしくないといえばそうだが、そんな彼女がエリザベスの目から見ても新鮮に映るのは事実であった。もちろん不快感が先立つものだったが。


 更に言えばアデライードは非常に美しい。


 服装、化粧、立ち居振る舞い。これらが "美しくなる" という目的意識の下に統御され、アデライードの整った顔立ちをさらに映えさせていた。


 更に、そこに色も加わる。


 色とは言ってしまえば女体による生臭い美だ。


 男を誘引し、虜にする魔性の芳香である。


 あの色で攻め立てられればユージンもあるいは、という思いが無視できない。


 エリザベスは瞳の奥で嫉妬の火種が燻っているのを自覚しながら、挑発的に微笑むアデライードを見つめた。


 その洗練された美しさたるや、エリザベスの目から見ても見事なものだった。


 長い金髪は、室内の灯りに照らされてまるで太陽の光をそのまま纏っているかのように輝き、波打つ。


 瞳には見つめられる者を容易にその深淵へと引き込む魅力があった。


 肌は雪のように白く、まるで触れただけで溶けてしまいそうなほど繊細に見える。


 身に纏うドレスは身体のラインを美しく見せ、繊細なレースや光を反射する小さな宝石がちりばめられている。


 エリザベスはそんなアデライードに対して、女としての敗北感を覚え、そんな自分にウンザリもしてしまった。


 彼女の気質を表す出来事として、この様な出来事がある。


 エリザベスとユージンの婚約が決まる以前の話だ。


 ・

 ・

 ・


 宮廷の壮麗な夜会中で、エリザベス・セレ・ガーデンベルクはとある伯爵家の嫡男と口論になった。


 彼はエリザベスの気質を嫌ってはいたが、その外見には男のとしての下心を向けていた。


 この時はまだエリザベスには婚約の話は出ておらず、故に彼も "あるいは" と思ったのであろう。


 伯爵家の嫡男は堂々とした態度でエリザベスに近づき、彼女に論戦ともつかない論難を吹っ掛けた。


 なぜ下心を向ける相手に論難を吹っ掛けるのかという向きもあるが、これは彼が些か考え足らずであったからとしか言いようがない。


 この嫡男はあろうことか、自身の知的な部分をエリザベスに見せつければ彼女が靡くと考えていたのだ。


 彼は "知的" とは何か、吹っ掛ける前に一度考えてみるべきだったが、残念ながらそういった慎重さには欠けていた。



 伯爵家嫡男はエリザベスの男性を立てない態度を非難した。


「エリザベス様、あなたのような自己主張が強すぎる女性はホラズム王国でははしたないとされています。女性としての謙虚さを忘れてはなりませんよ」


 と彼は言い放った。


 これはこれで間違ってはいない。


 少なくともホラズム王国ではその様な気風がある。


 だが、彼は言っている事は間違っていなくとも、言う相手と言う場所を間違えていた。


 エリザベスは反論する。


 この時、エリザベスの視線には氷の冷たさとナイフの鋭さが同居しており、伯爵家嫡男は思わず息を呑んだ。


 軽蔑というのは不可視なれど、極度に強められれば生身の肉体を裂く事もできる……思わずそう考えてしまうほどに彼女の目は冷たく、鋭い。


「私はホラズム王国の女性が皆、男性に従順であるべきだという時代遅れの考えに賛同できません。ただそれを誰かに押し付けているつもりもありません。私の考えはあくまで私の中だけで完結しております。私には幾人もの親しい友人がおりますが、彼ら、彼女らに私の考えに同調してくれとも協調してくれとも言った覚えはありませんわ」


 伯爵家嫡男は苛立ちを隠さずに反論した。


「しかし、そのような態度は公爵家の長女としてふさわしくありません。貴女はもっと控えめであるべきです」


 エリザベスは再び口を開く。


「私は自分の立場を理解しています。しかし、それを以て私が自分の意見を述べることを禁じられているわけではありません。私は自由に思考し、自由に発言する権利があります。ところで一つお尋ねしたいのですが、なぜ貴方は私が友人と歓談を楽しんでいる所へ突然訪れ、いきなりその様な事を言って来たのです?」


 エリザベスの瞳に烈気がたぎる。


 伯爵家嫡男は彼女の背後に無数の凍刃が並び、その切っ先が自身へ向けられているのを幻視した。


「私とて他人の意見に耳を傾けることはありますが、それは尊重の精神からです。しかし貴方のように、一方的な価値観を押し付けようとする者に対しては私は一歩も引きません。私がどのように振る舞うかは私自身が決めることです。下がりなさい、無礼者」


 伯爵家の嫡男は顔色はおろか指先まで蒼褪め、立ち尽くし、やがてよろけるような足取りでその場を立ち去っていった。


 この口論は夜会に居合わせた貴族たちの間で大きな話題となる。


 エリザベスの毅然とした態度に好感を持つ者は少なくなかったがしかし、その自己主張の強さは保守的な価値観を持つ者たちからは批判の対象となった。


 ・

 ・

 ・


 貴族として、人として、女として自分はどうあるべきなのか。


 "立派" に生きる事は結構な事だ。


 しかし、"立派" に生きた所で結局何になるのか? 


 現に、こうして婚約相手を奪われようとしている。


 自身がユージンを愛しているわけではないが、仮にも婚約をした間柄である事を考えれば、これは屈辱の極みであった。


 それになにより、婚約という "契約" を尊重すべきだという理屈……そんな蓋の下で何かが蠢いているのを感じている。


 それは嫉妬に極めて近い何かだ。


 あんな女よりも、という思いがエリザベスの精神の底で這いまわっている。


 私の方が王太子の婚約者として相応しい筈だ、だのに何故あのような、という俗なであった。


 そしてエリザベスはそれに敢えて気付かないふりをしている。


 ──勿論王家が決めた婚姻ですからユージン様も軽々には考えないでしょうが……


 と考えた所で、その考えを自ら打ち消す。


 結局の所、ユージンがアデライードを拒否していない事に気付いたからだ。


 アデライードが馴れ馴れしく、声に色を滲ませながらユージンに近づいても、彼はそれを掣肘しようとはしなかったではないか。


 ──もう少し私は、自分の気持ちに正直になるべきだったのかしら


 あのアデライードの様に、と思ってしまった事を否定できないエリザベスは、より一層の敗北感に打ちのめされた。


 消沈するエリザベスを見て気勢をあげたか、アデライードは口元に笑みを浮かべる。


 そして「ユージン様!」と甲高い声で呼ばわる。


 エリザベスが声の方へ視線を向ければ、けだるそうな様子でユージンがこちらへ向かってくるのが見えた。


「うふふ、ユージン様。ちょっと聞いて欲しい事があるの。よろしくて?」


 アデライードは馴れ馴れしくユージンの腕に自身の腕を絡ませ、しなだれかかる。


 これは酷く不躾な行いだというのは言うまでもない。


 周囲の生徒たちも不快そうに二人を見るが、アデライードは堪えた様子もない。


 ユージンも婚約者であるエリザベスの前だというのに振り払う事もせず、しかし周囲をちらと見回して軽くため息をついた。


 ──何をため息なんてついて


 そんな思いがエリザベスにはあるが、二人は白い目を向けられて当然の事をしているのだから仕方がない事だった。


「ユージン様、もう我慢しなくていいんですのよ? エリザベス様との婚姻がユージン様の本意ではない事……わたくしは知っておりました。そして、このホラズム王国では "真実の愛" がもっとも尊ばれる事も。ユージン様……もし貴方がわたくしを選んでくださるというのなら、私は身を尽くして貴方に愛を捧げますわ」


 アデライードはユージンに更に身を寄せて言った。


 まるで耳元に囁きかけるような態勢だ。


 押し付けられた胸がユージンの腕に潰され、形を変えている。


 周囲の生徒たちの視線はさらに厳しくなるが、しかしエリザベスは奇妙な事に気付いた。


 ユージンの表情が全く変わっていない。


 胸を押し付けられても鼻の下を伸ばすこともなく、ただ疲れたような、面倒くさそうな表情を浮かべたままだった。


 そんなユージンの視線がエリザベスに向けられると、なぜか──……


 ──君がやれよ


 とユージンが言っている様な奇妙な感覚を覚えた。


 だがユージンが何を言いたいのか、やはりエリザベスにはわからない。


 そんな彼女を見たユージンは一つ大きくため息をついて、片腕にアデライードを張り付かせたままズンズンとエリザベスの元へと歩み寄ってきた。


 "婚約破棄" の文字がエリザベスの脳裏をよぎるがしかし。


「世話になった者達に挨拶をしてきたのだが……随分と面倒な状況だな。言っておくが私はアデライードを正妃になど考えてはいないし、エリザベスを裏切るつもりもない」


 気だるそうで、面倒くさそうで。


 そんな様子を全面に出しながらも、ユージンは断言した。


 ◆


「世話になった者達に挨拶をしてきたのだが……随分と面倒な状況だな。言っておくが私はアデライードを正妃になど考えてはいないし、エリザベスを裏切るつもりもない。金に兵にと世話になっているガーデンベルク公爵家を敵に回したなどとあっては私が廃嫡されてしまうし、そもそもアデライード男爵令嬢は王妃教育も受けていないではないか。え? 私がアデライード男爵令嬢を拒絶しなかった? そういうのは私が判断する事ではないだろう」


「常識的に考えろ」とユージンは言って、グラスに注がれた酒を呷った。


「正式に婚約が決まっている私に近づくなど、そんな考え無しの貴族はまずいない、と私は考えている。それでも近づいてきたなら、私の預かり知らぬ所で与り知らぬ思惑が進んでいるからだろう。王家が関わっている可能性が濃厚と私は見ていた」


 そうかも、とエリザベスは思った。


「なぜならアデライードに問題があれば "王家の影" が彼女を排除するだろう。だがそんな動きはない。だから私は静観していた。しかしアデライードは必要以上に私との距離を詰めてくる。エリザベスの機嫌は悪化し、私もこのままでは良くないと思いはじめたが、しかし影は動かない。だから思ったのだ。影が監視しているのはアデライード嬢ではなく、私なのではないかと」


 なるほど、とエリザベス&周囲の者達。


 そこにアデライードの声が響く。


「で、でも! 殿下はエリザベス様を愛してはいないって! 私が尋ねた時そのように仰っていたではありませんか!」


「うむ。愛していない! そしてエリザベスも私を愛してはいないだろう。我々は愛し合ってはいない。知り合って何年も経っていないのだ。当たり前の話ではないか」


 そこまで言うとユージンは再びグラスを呷る。


 喋り続けて喉が乾いたようだった。


 エリザベスはと言えば、ユージンの言葉を最もだと思うものの、なんだか納得したくないようなそんな胸の疼きを覚えていた。「そこまではっきり言う?」と問いただしたい気分である。

 

 周囲の視線がザクザクと突き刺さるが、ユージンは全く意に介した様子もない。


「だが愛など後付けだろう。共に暮らしていく内に芽生えてくるのではないか? 芽生えてこなければそれはそれで仕方ない。王族や貴族はそういうものだ。この辺り割り切れないならとっとと家を出たほうが良いだろうよ。私は割り切った。なぜならば高貴な暮らしに慣れ切っているこの身では、いまさら市井で暮らせやしないからだ」


 なんだか随分枯れてるのね、などと思ってしまうエリザベス。


「そういえばアデライード、君は私にエリザベスの私への当たりが厳しいからどうこうなどと言っていたな。エリザベスは確かに私に厳しいが、必要な厳しさではないのか? 自分でいうのもなんだが、私は余り能がない。王の器ではないが、しかしそれでも継承権一位ではある。王家に生まれた義務を果たせというのならば出来る範囲で果たすつもりだ。最低限の能力は必要だろうし、エリザベスとしてもそこは分かった上で私をたすけてくれようとしているのだろう。面倒とはいえ、私が拒否する謂われはないな。むしろ助かっている」


 ちょっと嬉しいかも、と思うエリザベス。


「聞きたい事ははそれだけか? とはいえ能のない私が何ができるかといえば疑問もある。ただ、とりあえずは……」


 ──とりあえずは? 


 その場の者達は皆ユージンの次の言葉を待った。


「とりあえずは、エリザベス。後は君に任せた」


 え? と硬直するエリザベスに、ユージンは些事といった風情でこんな事を言った。


「そこの狐に似た顔の男、そしてあそこの冬の熾火のような見事な赤毛の女。あれらは生徒ではなく王家の影だ。恐らく間違いないだろう。おい! そうだな!? ……よし、ほら間違いなかった。肯定はしなかったが、あのぎくりとした表情は私の問いに対して雄弁に是と答えている。あの二人をつかって事後処理をしてくれ。私は能がないから上手い塩梅で処理できん。ヘタをすればアデライード嬢には消えてもらう事になる。王家と公爵家の関係を破綻させようとした……と見る事もできるのだからな。それだと禍根が残る。君が上手くやってくれ」


 そんなユージンの言葉を聞いて、エリザベスがアデライードを見つめると、くだんの男爵令嬢は生まれたての小鹿の様に震えていた。


「今後も私を支えてくれ、私もできる範囲で努力するから。とはいえ出来ない事の方が多いだろう。その時は君がどうにかしてくれ。それと、アデライードを処刑なりする時は、男爵家に話を通さねばならないから事前に……影あたりにでも言っておいてくれよ。後……私は私なりにエリザベスを愛せる様に努力をするから、君もそうしてくれ。それじゃあ私は人を待たせているから失礼する。臣下の挨拶を受けるのも次期王としての役目だからな」


 ユージンはいうなり、手を振って去って行ってしまった。


 余りにも無責任すぎる……とは思わなかった。


 エリザベスとしては、ユージンから求められている事がはっきりした事もあってむしろ意気軒昂ですらあった。


「ユージン様はご自身の事を王の器にないと仰っているけれど、私はそうは思わないわ。周囲に与力を恃むというのは、むしろ王らしいと言えるのではないかしら。貴女はどう思う?」


 エリザベスはぽつりと独白めいた事を漏らし、アデライードへ視線を向けて言った。


「私は貴女が大嫌い。ユージン様は決して渡さないし、私の前からも消えてもらいたいの」


 貴族としての建て前や女としての矜持、そういうものではなくてすっぴんの私情を相手に叩きつける……これは貴族の子女としてははしたない事だが、エリザベスは不思議とスカッとしていた。


 視線は凍てつく冬の荒らしの様に冷たく、アデライードの精神を凍り付かせる。


 ・

 ・

 ・


 結局アデライードはエリザベスから散々に脅され、公爵家からも直々に男爵家へと苦情を出した。


 更に、理由をつけてアデライードを期限付きで修道院へと送らせた。


 なぜそれをもっと早くやらなかったかといえば、もしユージンが本当にアデライードの事を好いていたならば、という思いがあったからである。


 この仕置きが甘いのか、それとも厳しいのか。


 エリザベス自身にも判然としないが、殺してしまうというのは少しやりすぎに思えた。


 その辺りがはっきりしないのは、それは彼女の高位貴族としての経験の無さ故なのだろうが──……


 ──何事も経験ね、今後も頑張らないと


 しかし、とエリザベスは思う。


 ──このままユージン様が王になって私が王妃になったら、面倒な事は全て私に投げられてしまいそうだわ。私はそれでもいいけれど、それじゃあユージン様ご自身が困る事も出てくるはず。もう少し目を光らせていないと駄目かしら


 と、ようやく調子が出てきたエリザベスであった。


 ・

 ・

 ・


 ◆◆◆


 時は少し遡る。


 広い部屋に二人の男がいた。


 一人はこの国の王、そしてもう一人は宰相である。


 ここは国王の書斎だ。


 部屋の中央には大きな樫の木で作られた重厚な机があり、机の上には国王の紋章が刻まれた厚手の羊皮紙が広げられ、アルドリックが国の政務を行う際の重要な書類が乱雑に積み重なっていた。


 書斎には大きな窓もあり、窓の外には庭園が広がっている。庭園には王妃エレノアが好む "水の薔薇" 咲き誇り、その壮麗な景観は政務で疲弊したアルドリックの精神を幾度も慰撫してくれていた。


 水の薔薇はその名の通り水面に浮かぶように咲く幻想的な美しさを持つ薔薇だ。


 この薔薇の花弁は薄いブルーから深い藍色にかけてのグラデーションを見せ、花弁には透明感があり、光を受けると宝石のように輝く。


 これはホラズム王国の国花でもあった。


 花言葉は "真実の愛"。


 ・

 ・

 ・

 ホラズム国王アルドリックは彼の信頼する宰相レオナルドに対し、王太子ユージンの婚約者について相談を持ちかけた。


「近頃のユージンの行状はどうなっておるのだ」


 アルドリックが話し始めた。口ぶりはやや重い。


 レオナルドは慎重に言葉を選びながら答えた。


「"影"からの報告ですな? ……王太子殿下は、決して考えなしというお方ではないと思うのですが……」


 これはかなり婉曲した言い方だが、王もレオナルドの言わんとしている事の表と裏を十全に理解していた。


「それはそうだろうが……しかし報告ではどこぞの男爵令嬢との交友に現を抜かしているという話ではないか」


 アルドリックは顎に手をやる。


 レオナルドは困り切った表情を浮かべるが、言葉が出ない。


 その報告は全くの事実であったからだ。


「エリザベス嬢も不興を貯め込んでいるという。こうなれば、力づくで排除するか?」


「お待ちください陛下。それでは禍根が残ります」


「ではどうしろというのだ」


 結論は出ず、夜が深まっていく。


 ・

 ・

 ・


 その夜、寝室でアルドリックは王妃エレノアに相談をすることを決めた。


 アルドリックは寝室でベッドに腰を下ろし、妻エレノア王妃に向かって苦笑いを浮かべた。


 いつものことながら重要な決断の時に彼女の意見を求めてしまう自分に、彼は軽く自嘲の思いを抱いている。


「またお前に頼ることになってしまうな」


 と彼は軽く言いながら、エレノアの方に目をやった。


 視線の先にはエレノアの穏やかな微笑み。


 アルドリックはかつて自分が王としての素質を疑問視されていたことを思い出した。


 彼は控えめで、目立たず、そして凡庸であったのだ。


 素直で真面目な気質ではあったが、それは王として必要不可欠な資質かというと疑問であった。


 そんな彼に王国の未来を背負わせる事を危惧したか、時の国王……つまりアルドリックの父は、アルドリックと当時才女として知られていたエレノアの婚約を進めたのである。


 アルドリックに無駄なプライドがない事が幸いしたか、彼はエレノアを初め周囲の優秀な者達を佳く使い、結句、ホラズム王国は大国としての土台を更に硬いものとしたのだが……


 アルドリックは息子ユージンは悪い部分だけは自分に似て、良いとされていた部分は似なかったようだとため息をついた。


 エレノアは静かに聞き、こんな事を言う。


「そうかしら。ユージンはよくも悪くも陛下に似ていますよ。王家の血の濃さの為せる業でしょうね。そして、陛下に似たのならば安心です。もう少しだけユージンを信じてやってくださいな」


 アルドリックは一瞬きょとんとした表情を浮かべ、「だがまあエレノアが言うならば恐らくそうなんだろうな」と内心で思う。


 ──エレノアの見立てが間違っていた事は無かった。唯一彼女の判断に疑問を抱いたのは、伴侶が儂で本当によかったのか、という事だけだ。しかし今はもうそんな下らぬ疑念はない


 アルドリックは若かりし時の頃を思い出した。


 自分に自信を持てなかったあの頃。


 周囲の厳しい視線からは、彼に次期王としての資質の欠如を多分に感じていた。


 そんなアルドリックを励まし、叱咤し、癒してきたのはエレノアである。


 エレノアにはアルドリックの弟という選択肢があったにもかかわらず、彼を選んだのだ。


 結句、アルドリックはエレノアの想い、期待に応えようと一層の努力を積み重ね……まあ残念ながらそれでも凡庸の括りを抜け出す事はできなかったものの、腐らずにやってこれた。


「……まだ何か?」


 エレノアがアルドリックに尋ねる。


 アルドリックが急に黙ってしまった事に疑問を覚えたのだろう、アルドリックはエレノアを見やり、口を開こうとするが……


 ──くっ……


 何を言っていいのか不意に分からなくなってしまった。


 これまでの感謝を伝えるのか? 


 いままで抱いてきた、そしてこれからも抱き続ける愛の不変を宣言するのか? 


 む、だの、ヌ、だの口ごもったアルドリックの様子にエレノアは何かを察したようで、苦笑を浮かべながら身を寄せ、アルドリックの頭を撫でた。


 ──ユージンは儂似か。するとエリザベス嬢はさぞ苦労するじゃろうな


 そんな事を思いながら、アルドリックもエレノアの体に腕をまわす。


 夜が、ふけていく。

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「常識的に考えろ」と王太子は言った。 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03

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