メツブシ・ナイトメア

鍵崎佐吉

 それを見つけたのはこの部屋で過ごす最初の日、俺が眠りにつこうとベッドに横たわったその時だった。見上げた視線の先、まだ見慣れない真っ白な天井に何か黒い物がついている。最初は虫か何かかと思ったが、よく見てみればそれは人間の眼だった。


 ここがいわゆる事故物件だというのは事前に知っていたし、それを承知の上で俺はここに住むことに決めた。心霊現象なんかに興味はなかったが、何より立地の良さと家賃の低さに惹かれたのだ。しかしまさか入居初日に、しかもこんな形で怪異に出迎えられるとは思っていなかった。とはいえその天井の眼は何をするわけでもなく特に実害も無さそうだったので、とりあえずは放置してそのまま眠ることにした。


 翌朝目覚めてみると依然として眼はそこにあった。右眼か左眼かはわからないが時折瞬きをするし視線も動いている。試しにスマホのライトをかざしてみると眩しそうに眼を細めた。まるで生きているみたいだ。しかし俺にも仕事があるのでいつまでもこいつにかまっているわけにはいかない。支度を済ませて家を出ようとしたその時、玄関の壁にもう一つ眼ができているのを見つけた。もしかしてこれ、日を追うごとに増えていくんだろうか。危害を加えられる感じはしないので特に恐怖はないが、壁一面が眼で覆いつくされた光景を想像するとさすがに気持ち悪いと思う。そんなことを考えながら家を出た。


 仕事から帰って玄関を開けると例の眼が俺を一瞥する。「ああ、帰ったのか」とでも言いたげな様子で、まるでこの部屋の主は自分だと主張しているかのようだ。その態度がどうも気に食わなかったので、玄関の眼をガムテープで塞いでやった。眼は特に抵抗を示すわけでもなく、これといった異変も感じられない。天井の方の眼もまだそこにあるが、こっちを塞ぐのは少し骨が折れるので見送ることにした。

 そして案の定次の日にはまた新しい眼が増えていた。なるほど確かにこれではまともな感性の人間が住めるはずもない。しかしまた一から物件探しと引っ越し作業をするのも面倒だし、何よりそれだとこの眼に負けたような気がして癪なので、この際俺はとことんこの部屋に居座り続けてやることにした。

 そうして俺と眼のいたちごっこが始まったのだった。


 朝起きてまず俺は部屋の壁を一通り確認するのが日課になった。そして眼を見つけてそこにガムテープを張ってから出勤する。眼はだいたいはすぐに見つかる場所にいるのだが、日によっては棚の裏とか押し入れの中とかに隠れていて、何度かはその日のうちに見つけられないこともあった。ただ最初に現れた天井の眼だけはなんとなく放置しており、俺が眠りにつこうとすると一瞥をくれたりくれなかったりする。

 あの眼の正体が以前ここに住んでいた住人なのか、それとも前からここに居座っていた怪異なのかはわからないが、その視線は時折意味ありげに俺を見つめてくるだけで、特に敵意や憎悪は感じない。俺がテレビや動画を見ている時は眼もそれを眺めているような気がするし、逆にアダルトコンテンツを鑑賞している時は視線を逸らして素知らぬ風を装っている。そんな異様な同居生活が三か月ほど続いたある日のことだった。


 その日家に帰ったのはすでに日付が変わってからのことだった。仕事でちょっとしたミスをしてしまい、そのリカバリーというよりは懲罰的な意味合いでの残業に追われていたのだ。とはいえこんなことはうちの会社ではそう珍しいことでもない。上司は常に威圧的で、俺含む部下たちは団結してそれをやり過ごすというよりは、群れの中から生贄を差し出して全体への被害を減らすという消極的防衛策を取り続けていた。今回は俺にその役が回されたというだけだ。

 このままではまずいと思いながらも、転職を検討する労力も時間もない。かといって仕事をやめて暮らしていけるほどの経済的余裕もない。そういった事柄に比べればあの眼は些細な問題でしかない。そんな状態だからこんな部屋で暮らし続けているのだ。夕食をとる気力もなかったのでシャワーだけ浴びて眠ろうと思い、服を脱いで浴室に入った。そして浴室鏡に映し出された俺の裸体の、そのちょうど顔の部分に眼が生えていた。日が変わったからまた新しいのが現れたのだろう。眼は無遠慮に俺の体を眺めまわして、まっすぐ視線を合わせてくる。その光景になぜだか無性に腹が立ち、気づいた時には俺は鏡に向かって思い切り拳を叩きつけていた。

 ゴンという鈍い音と共に拳に痛みを感じる。幸い鏡は割れなかったようだ。ゆっくりと手をどけるとそこには潰れて真っ赤になった眼があった。怪異にも物理攻撃は効くのだという驚きと、子どもの頃校庭の蟻を踏み潰したときのような爽快感が全身を駆け巡る。何か反撃でもしてくるかと思ったが、眼はしばらく血の涙を流してから跡形もなく消えてしまった。


 それからは新しい眼を見つけるたびに俺はそれを潰していくことにした。最初は殴ったり突いたりするだけだったが段々楽しくなってきて、ホームセンターでドリルやハンマーを買ってきてなるべく残酷なやり方で潰してやった。眼はいたって無防備で叫んだり暴れたりすることもなく、俺の一方的な暴力をただ受け止め続けた。相手が人間だったら俺もどこかで躊躇してしまったかもしれないが、こいつはまごうことなき化物でおまけに意思の疎通もほとんどできない。どんどん行為はエスカレートしていき、一月も経つ頃には硫酸で眼がドロドロになるまで痛めつけ、俺はまともな人生では到底味わうことのできないどす黒い愉悦に満たされていた。

 しかしこれだけのことをやっても眼は毎日こりずに部屋のどこかに現れる。怪異が考えることなんて俺にはわからないが、こいつはどんな形であれ自分にかまってもらえるのが嬉しいのかもしれない。だがなんにせよこの「眼潰し」はもはや俺の生きがいになっていたし、そうやってストレスを発散させることで俺は心の平穏を保っていられた。


 その日は上司の機嫌が最悪で手当たり次第に部下に当たり散らしたあげく、俺の作った書類に小さな不備を見つけてそれをネチネチといびり続けていた。同僚たちは皆我関せずといった様子で嵐が過ぎ去るのをじっと息を潜めて待っている。もうかれこれ三十分近くはこんな状況が続いているだろうか。何度謝罪しても上司は同じ話を蒸し返し、その度に馬鹿だの低能だのと俺に罵詈雑言を浴びせかける。

 脳の裏でじりじりと何かが焦げ付くような感じがして、俺は必死に意識を他のものに逸らそうとする。明日はどんな風に眼を痛めつけてやろうか。どうすればもっと悲惨で残酷なやり方ができるだろうか。目の前の現実から逃避して、ただそのことだけを考える。


「おい、ちゃんと聞いてんのか」


「……はい、すみません」


「いい加減にしろよ。耳も眼も使えねえのか、役立たずが」


 上司の眼が俺をまっすぐに睨みつけている。その濁って血走った眼が、あの日鏡に映ったあの眼と重なる。その瞬間俺の中で何かが弾けて、頭の中を真っ赤に塗りつぶす。ただ、目障りだな、と思った。

 ポケットからボールペンを出して、その先端を思い切り上司の眼に突き刺した。


「があああああっ!」


 上司は叫び声をあげて椅子から転げ落ち、部屋にいた全員がこちらを注視する。一度では刺さりきらなかったので、俺は上司に馬乗りになって再びボールペンを突き立てる。あの眼とは違って上司は腕で必死に顔面をかばおうとするが、それを力づくで引きはがして、俺は苦痛と恐怖の滲むその眼を深々と突き刺した。

 再び響いた上司の絶叫に促されるように、同僚たちが駆け寄ってきて俺と上司を引き離す。悲鳴とどよめきの混ざり合った部屋の中で、俺は仰向けに床に引き倒された。

 その時、ふと天井に黒いシミのようなものがあるのが目についた。


「なんだ、見てたのか」


 それは俺を慈しむような視線を残して、やがて薄れて消えていった。

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メツブシ・ナイトメア 鍵崎佐吉 @gizagiza

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