とりあえずビール
緋雪
隠れ家
飲み屋街を一本入った、ちょっとわかりづらいところに、その居酒屋はあった。
「あそこなぁ、意外と人気店なんだけど、敷居が高いっていうか、まず、取材NGなんだよなあ」
タウン誌を主に扱っている出版社の田辺が言う。
たまにはどうだ? と誘われた、ランチ。大きな天窓のある、明るい店内は、俺の居心地をかえって悪くする。なんで野郎二人でパスタ店でランチなんだよ。
「ここ、この前、取材させてもらったばっかりの店なんだよ。お礼だよ、お礼」
田辺はそう言いながら、店のオススメの「なんとかのクリーム煮パスタなんとか風」を頬張った。
「それで?」
「その居酒屋に行ってきて欲しいんだよな」
「取材に? 俺、そんなのやったことないぞ?」
俺は、ミートソースの脂っこい口の中を、ブラッドオレンジジュースとかいう真っ赤なオレンジジュースで整えながら言う。
「いや、取材はいいんだ。ただ、お客として行ってみて欲しいんだ」
「取材お断りのところに、勝手に潜入取材するのか?」
「それは、こっちでなんとかするし、大丈夫だからさ。『隠れ家的な店とは?』みたいな企画でさ、一本仕上げるんだよ、今回」
「ふ〜ん、大変だな。そういうところ全部に偵察機飛ばしてんの?」
「今回は飽くまでも、行ったことある人にインタビューって感じにするつもりだからな」
「なんか、やり方が、賛同できかねるけどなあ」
「頼む。この通り」
田辺は、頭を下げた。
「わかったよ。行くだけだぞ。何も期待すんなよ」
田辺の頭が、クリームソースにつかないうちに、とりあえず引き受けた。
初めて入る居酒屋は、俺にだって大抵敷居が高い。
「お一人様ですか〜?」
意外にも、明るい声で若い女の子が接客してくる。これのどこが
一人だと告げると、カウンター席でもいいかと尋ねられた。カウンター席なら、店主と話すチャンスもあるかもしれない。
「ご注文、決まりましたら、声かけて下さいね〜」
そう言って、女の子は俺にメニューを渡し、後ろの小上がりのテーブル席を片付け始めた。中は、本当に至って普通の居酒屋。まあ、店主が頑固そうな感じもするが、どうだろうな。
さて、どうする?
ここは、様子見に、とりあえずビールか。そこから……
なんだこれ?……メニューの最後の方に、
「とりあえず 3,300円」
と書かれてある。
「えっ?」
思わず声が出てしまった。
「お客さん、どうします?『とりあえず、ビール』ですか?」
女の子が笑いながら問いかけてくる。
「いや……あの」
メニューを指さしながら、
「これは……何?」
女の子に恐る恐る聞いてみた。
「当店のお勧めメニューです」
「何が出てくるの?」
「日替わりなんで。でも、今日はいいブリが入ってるんですよ」
「へえ、いいね。でも、『とりあえずビール』って感じじゃないよね?」
「気がついたお客さんにだけ教えてあげてます」
女の子は、笑って言った。
「こら、真由美、くっちゃべってねえで、ちゃんと注文いただきな」
「はいはい。ね? うるさい親父なのよ」
「じゃあ、その、『とりあえず』と、ビール……かな」
「ビールは何にします?」
「え? 種類選べるの?」
「じいちゃんちが酒屋なの。いろんなのあるよ」
そう言って、真由美と呼ばれた子は、別のメニュー表を持ってきた。
「えっ? 最初からは見せてくれないんだ、それ?」
「そうそう。『とりあえず』を、ちゃんと頼んでくれた人だけね。ビールとお酒のメニューが出てくるというシステムです」
「あははは。いいの?」
「はい、どうぞ」
渡されたメニューには、ビールや酒、焼酎などの名前が並ぶ。正直、ビールは店で適当に出されたやつを飲んでたし、日本酒もよくわからない。困ったな、と思ったが、ここは正直に申し出ることにした。
「俺、ビールの味の違い、そんなにわからないんで、料理に合うビールで、お任せしていいかな?」
「うふふ。お客さん、『
「通?」
「『とりあえず』一丁、『お任せビール』一丁!」
真由美は、元気よく、店主に向かって注文を告げた。
「はいよ」
店主がニッと笑った気がした。
暫くするとビールが出てきた。
「うまい!」
やっぱり仕事終わりのビールは旨いに決まっている。でも、これって、いつものと、そんなに違うのかな? 正直、ビールだけだとよくわからない。
「はい、ブリのお造りになりま〜す」
これは新鮮でいいブリだ。見ただけでもわかる。釣り好きの友人が
「ん。うまい!」
間違いない味。ゆっくり、しっかり味わう。そしてビール。
「ホントだ。凄く合う。美味しいです!」
カウンターの中で店主が笑う。
「そうかい。そりゃよかった」
「はい、ブリの塩焼きです」
あれ? 2品? ああ、まあ、一品で3,300円は高いか、流石に。
「あ〜、いいな、これも。好きな味だな〜」
適度に脂が落ちた感じがいい。塩加減も。そして、それを堪能した後で、特別なビールを、しっかり味わいながら飲む。
「ほんっとうまい!」
「ブリ大根で〜す」
え? まだ来るの? サービス良すぎじゃない?
その後、ブリの鮨まで出た。
ブリの味は最高だったし、選んでもらったビールは、とてもそのブリに合っていた。
「美味しかったです。どれも。勿論、ビールも」
店主にそう言うと、
「そうかい、それはよかった」
と笑った。
「『とりあえずビール』しか頼んでないけど、もういいの?」
真由美がいたずらっぽく笑う。
「ああ。残念ながら、今日はもう腹いっぱいだ。次に来た時頼むことにするよ」
ふと、気づいて、店主に聞いてみた。
「あのビールは何ていうビールなんですか? 今後の参考までに教えてもらってもいいですか?」
俺がそう言うと、店主は、真由美と顔を見合わせ笑う。そして、俺の目の前に、トンと瓶を置いた。
「えっ?」
それは、俺等がいつも宴会の席で使う安いビールだった。
「えっ?!」
店主の顔を見る。
「それだけ、皆、味わって飲んでないってことだな」
店主は、またニッと笑った。
安いビール代と、コースくらいの量食べたとは思えないほど安い料理代を払う。
「お客さん、次からは、本気でいいビールや酒、お勧めさせてもらいますよ」
店主が満面の笑みを見せた。
「ご馳走様でした。ホントに。うまかったです。また来ます」
そう言って店を出た。
とてもいい酒を飲んだ。そう思った。
「何も聞ける雰囲気じゃなかったんだよ、仕方ないだろ?」
優雅なクラシックが邪魔にならない程度に流れるアンティークなカフェ(勿論ここも田辺の取材先だ)で、コーヒーを飲みながら、「結果」を話す。
「じゃあ、ちょっとの情報もないのかよ〜」
田辺は溜め息をつく。
「大体、何やったら、いきなり機嫌が悪くなるんだよ?」
「じゃあお前が行ってみろよ。『とりあえずビール』って言っただけで不機嫌になるから。」
「意味わかんねえな。なんでそんなとこが、『隠れ家』なんて言われるんだろうなあ?」
「さあなあ」
「まあいいや。他んとこである程度情報は集められたからな」
「すまんな」
約束通り報酬は支払うと言った田辺の心遣いを断り、コーヒーだけご馳走になって、小洒落たカフェを後にした。
「あんな、うまくて面白い『隠れ家』、簡単に教えてなるものか。なあ」
道端でひなたぼっこしていた猫に話しかける。
猫は「にゃおん」と笑った。
とりあえずビール 緋雪 @hiyuki0714
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