第4話 とりあえず

 ぜんぶ、聞いてしまった。

 明珠めいしゅ女学館じょがっかん大学文化コミュニケーション学部教授の小野寺おのでら美々みみは、あの大藤おおふじ千菜美ちなみの教え子であるらしい二人の学生の立ち話を聞いてしまった。

 美々が出席している「将来構想委員会」という委員会が休憩に入ったところだった。

 休憩に入る直前にどこかの企業の経営者のオッサンが長広舌をふるっていた。

 もっと実学をやれ、これからはグローバル化の時代だから、もっと学生に実践的な英語を叩き込め、英語で授業をしろ、ラテン語とか古典ギリシャ語とか漢文とか、役に立たない授業はぜんぶやめて、社会で即戦力として評価される人材を送り出せ。そうでないとこんな大学はひとたまりもなくつぶれてしまうぞ、という内容だった。

 ふだんは学校に来ず、学校のことなんか何も知らないのに、やたらと偉そうだ。

 美々は英語でのコミュニケーションを専門に研究しているから、わかる。

 いまさらそんな教育に特化しても、すでに英語教育に特化している大学にこの明珠女学館が追いつくことはできない。英語で自在にコミュニケーションをとれる人材を育てることも、英語での授業で授業内容をきちんと伝えることも、思いつきでやって、ひとがすでにやっていることをまねして、すぐに成功するほどにたやすいことではないのだ。

 それに、明珠女学館は、いまどき第三外国語まで必修にして、世界の多様さに気づくきっかけを用意している。本気か、言ってるだけかはよくわからないけど、多様性が重要になってくるという世界の流れに、オッサンの言うことは逆行している。

 ラテン語や古典ギリシャ語が話されていた古代の地中海や、古典漢語で書かれた古代東アジアについての教養は、英語を話す世界の教養人との会話にも必要だ。だいたい、近代イギリス帝国を帝国に押し上げたのは、工業力とか軍隊の力とかいろいろあるけれど、それと並んで古代ローマ帝国に対するコンプレックスだった。

 それに、いまの産業との関係で言えば、古代ギリシャや古代ローマや古典時代の中国の神話や故事を知っていたほうが、マンガとかファンタジー小説とかアニメとかゲームとかを制作するうえでのバックグラウンドが広がるというところでも有利だ。

 そんな反論を思いついたのだが、まとまらない。

 しかも、もともと第三外国語まで必修という制度に不満を持っている日本文学部選出の委員が、それに乗ってしまいそうな雰囲気だった。

 「実学」だグローバルだというなら、日本文学研究だって危ういはずなのに、「明珠女学館の伝統を担う日本文学部には何者も手をつけるはずがない」という根拠のない自信を持っているから、始末が悪い。

 そこで、日本史の教授の大藤千菜美をつかまえて、その話をし、ついでに

「そんなこと言ってるぐらいだから、日本史の研究なんかやめてしまえ、って言われるわよ。日本史研究室だってつぶされてしまうわよ、絶対に!」

とか絡みつけば、何かいい知恵を出してくれるに違いない。

 そう思って、この古ぼけた校舎のここの研究室まで来てみたのだが。

 「学部学生だって、ラテン語からいろいろなところに知が広がっていく、っていうのを実感してる、そういう実感を感じる機会がいまのこの大学には豊かなのに、それをわざわざ切り捨てていい大学教育ができると思うのか、って線で行ってみるか、とりあえず」

 そういう主張で、大学の看板に「実学」とか「グローバル化」とか掲げておけば大学は生き残れると考えている人たちをたやすく撃退できるとは思わない。

 でも、とりあえずのきっかけには、なるだろう。

 ふだんは学校に来ない「外部の」委員のなかにだって、ただ英語ができるというだけの卒業生がどれだけ「即戦力」として役に立つかについて、違う考えをもっている人だっているに違いない。また、ただ「偉そうなことを言うやつは虫が好かん」と、その企業経営者のオッサンに刃向かってみたい委員もいるだろう。

 それに、いまの若い理事長は、創業家のお嬢さんだけど、昔は天文観測をやっていたとかで、「実利」とか「実学」とか連呼されるのを嫌っていたはずだ。日本文学部の委員だって、たんに外国語必修を減らしたいだけで、どこまでもオッサン委員について行くつもりはないだろう。

 そういう要素を組み合わせて、なんとかがんばれば。

 そうすれば、ほんとうのここの大学の良さを守り抜くことができるかも知れない。

 だいたいの大学教員からは、美々こそが「古き良き明珠女の伝統」を壊している裏切り者だと思われている。まだ「准教授」ではない「助教授」だった時代に大学組織改革委員会というのの委員にされ、右も左もまんなかもわからない状態でがむしゃらに奮闘し、それ以来、カリキュラム改革とか将来構想とか、ほかの先生たちが嫌う仕事をいくつも担当してきた結果だけど。

 でも、そんな美々でも、この大学の「良さ」を守り抜きたいという気骨くらいは持っているつもりだ。

 たぶん、いや、確実に、あの日本史の教授の大藤千菜美もそうだ。美々に近づかれるのを露骨に避けているけれど、それでも、話せば、通り一遍ではない答えを返してくれる。

 でも、美々は、今日は、その千菜美の「薫陶くんとう」というのを受けたらしい学生たちの会話の立ち聞きだけで満足だ。だから、その千菜美には会わないまま、日本史研究室のある古ぼけた校舎の階段を下りていった。


 (終)

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ラテン語をめぐる対話 清瀬 六朗 @r_kiyose

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