第3話 ず

 「それに」

仁子じんこは続けて言う。

 「ラテン語をしゃべってたローマ人っていうのは、なぜか「ズ」って音が嫌いで、とくに母音にはさまれた「ズ」の音は「ル」に変化させちゃったりしてるんだよね」

 「はあ」

 ここで「ふうん」と流してしまうと、仁子は悲しむ。

 たぶん、そうだろうと思う。

 だから、杏樹あんじゅは乗ってみる。

 「でも、「ズ」と「ル」ってぜんぜん別の発音だよね」

 「じゃあ」

と仁子はとても無感動に言う。

 「「ズ」の音を、「ズ」って言ったまま、ずっと長く伸ばして」

 「うん」

 軽くうなずいて、

「ずーーーーーーーーー」

と伸ばす。

 伸ばしている途中に、無感動な仁子が指図さしずする。

 「じゃあ、そのまま、いま伸ばしてる舌の前を上に巻き上げて」

 「うん」とか言ってると「ず」の音が止まってしまうので。

 そのまま巻き上げる。

 すると、たしかに。

「るーーーーーーーーー」

のような音になった。

 「る」がちょっと濁ったような音?

 「る」はもういいだろうと思って

「あ、ほんとだ」

と言う。

 「もっとも、こっちは、ラテン語を書くときには普通はrを使うから、綴りと発音のずれは起こらないけどね」

 ああ。

 そういえば、ラテン語の話をしてた。

 というか、仁子にラテン語の話をしてもらってた、というか、仁子にラテン語の話をさせてたのだった。

 「じゃあ、ラテン語って、かんたんなの?」

 「まあ」

と、仁子は言う。

 平板な言いかたなので、かんたんだというほうに話が行くのか、意外と難しいというほうに話が行くのか、まだわからない。

 「身につけないといけないことはいろいろあるよ。わたしが愛する、と、あなたが愛する、と、ほかのだれかが愛する、とで、動詞の形が違うし」

 「はあ」

 よく……。

 ……わからないのだが。

 それより、なぜたとえが「愛する」なの?

 「でも、それのおかげで、たとえば動詞一つ出せばだれが愛してるかわかるから、ことばの順番が自由に変えられる。そんなところは日本語に近いけど、日本語はまだ動詞とか形容詞とか助動詞とかを最後に置かないといけないでしょ? ラテン語はその縛りもないから、いちばん強調したいことばを最初に持って来たり、文の最後に印象的なことばを持ってきたりとかもできて、すごく表現の幅が広いんだ」

 「ふうん」

 それは凄い。

 ラテン語が凄いと言うより、印象が薄い子なのにこれだけ熱くラテン語についていっぱい語れる仁子が凄い。

 そこで、杏樹は言う。

 「ラテン語ひとつ知ってるだけで、いろんなところに広がっていくんだね!」

 何が広がっていくのかよくわからないけども。

 少なくとも仁子が好きという気もちは、広がっていく。

 仁子が言いたかったのは、この気もちを、「仁子、愛してるぜ!」と言っても「愛してるぜ、仁子!」と言ってもいいということなのだろう。

 森戸もりと杏樹にとって、どっちがいいかというと。

 ……何を考えているのだろう?

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