第2話 あえ

 単語ごとに綴りと発音をそれぞれ覚えなければいけない。

 この、外国語を習うたびに杏樹あんじゅを苦しめてきた問題がスルーできる言語があり、それがラテン語だという。

 しかし。

 杏樹はまだ半信半疑なので、仁子じんこにきく。

 「ラテン語には、そういう、文字とずれた発音はないの? 絶対に?」

 「いや」

 お。

 いずみ仁子がとまどっている。

 「絶対、っていうのは、ないけどね」

 やっぱり。

 仁子のような子にとっては「楽」でも、杏樹にとってはそうではない。

 そういうことだろう。

 「たとえば」

と仁子は続けた。

 「「ae」って綴りは、「アエ」って読むことになってるし、カタカナ表記でも「アエ」になってることが多いけど、ほんとうの発音は「アイ」に近かったらしいし、時代が経つとそれが「エー」って発音に変化しちゃったし」

 「えー?」

 べつに発音を変化させたつもりはなかったけど。

 「どうして、アイ、が、アエ、になって、エー、になるの?」

 「じゃあ、杏樹、長く「アエ」って言ってみて」

 無感動そうな仁子の要求。

 「うん」

とうなずいて、杏樹は

「あえーーーーっ!」

と叫ぶ。

 校舎の中心で「あえ」を叫ぶ。

 いや、ここは中心じゃないか。

 何にしても、「あえー」とか叫んでいると、大失敗をしたときみたいで、恥ずかしい。

 「じゃあ」

と、やっぱり無感動な仁子が言う。

 「次に「エー」って言ってみて」

 「うん。えーーーーっ!」

 ここで。

 「学校の廊下で、あえー、とか、えーっ、とか、何をバカなことを叫んでるの?」

とツッコむ仁子!

 ……という展開になればおもしろいのだけど。

 「どっちのほうが言いやすかった?」

 そういう展開にはならなかった。

 仁子だからね。

 すなおに言う。

 「「あえ」より「えー」のほうが言いやすかったと思うけど」

 それに「あえ」を叫んでいるときのような恥ずかしさは「えーっ!」にはない。

 「音韻おんいん変化ってそういうものだね」

 なに変化だって……?

 ……なんて、仁子にきき返す、なんてことはしない。

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