ラテン語をめぐる対話

清瀬 六朗

第1話 トリ

 「ねえねえ。フランス語ではt、r、o、i、sって書いてトロワって読むんだよ」

 この前、水族館に行って、海の生物とふれあえるコーナーでナマコをつかもうとして、一〇分経ってもつかむ勇気がどうしても出ずに帰って来た、という話をして笑われてしまったので。

 「ワなんて音の字がひとつも入ってないのに、変わった発音、するよね」

 少し学問的な話をして、森戸もりと杏樹あんじゅも遊んでばかりじゃないところを見せようと思った。

 しかし、相手が悪かった。

 「それは、昔は「トロィス」みたいな発音だったのが、「トロァス」って「イ」の音が弱い発音になって、最後の「ス」を読まなくなって、「トロワ」になったんだね」

 あ……。

 第二外国語がフランス語の杏樹。

 ちなみに、フランス語で「アンジュ」とは天使のことらしいけど。

 その天使の杏樹に向かって、いずみ仁子じんこが言う。

 「ラテン語ではトレースかトリアだよね。フランス語ってラテン語の子孫言語だから。トロィスになるときに、どうして「オィ」って音が入ったかは、わたしにはよくわからないけど」

 というか。

 それ以上のことをよくわかってくれると困ります!

 なんで、関東の古墳文化が研究対象なのに、ラテン語とかフランス語とかにそんなに詳しいかな?

 日本史研究室で、まぎれもなく同じ学年の泉仁子。

 きっと、一年とか二年とかで、杏樹が遊んでるあいだに、脇目も振らずに勉強を、いや、「学問」というのを、やってたんだろうな。

 印象がとても薄いのがとても強く印象に残る泉仁子。

 「古典ギリシャ語でも「トレイス」だったと思うし、英語でも「スリー」で、最初のthはもともとtに近い発音だから、「トリー」に近いかな。ヨーロッパのことばでは「3」は「トレ」か「トリ」が基本だね。エスペラントでも「3」は「トリ」だし」

 「トリ?」

 杏樹はまばたきする。

 エスペラント、って、何だっけ?

 いや、その前に思いついた。

 「あ」

 ちょっと学問的なことを。

 「「トリ」が「3」だから、三本足のからすとかの話があるの?」

 泉仁子がとても無感動に言い返す。

 「それは日本の神話のがらすでしょ? 中国にも太陽には三本足のからすが住んでるっていうし伝説があるけど。それで、日本語では「3」は「み」だし、中国語でも「さん」なんだから、「3」の「トリ」と三本足のからすはあんまり関係ないと思うけど?」

 うう。

 フランス語方面から行けばラテン語でブロックされるし、日本神話は古墳文化に近いのでやっぱりブロックされる。

 印象が薄いくせにどうやっても攻略できない泉仁子!

 「仁子って」

 恨み言。

 「どうして古墳時代が研究対象なのにラテン語なんかやってるのよ?」

 「杏樹もやればいいのに。ラテン語」

 恨み言が恨み言として通じなかった!

 「英語やフランス語と違って、基本、書いてある字のとおりに読んでいけば読めるから、楽だよ」

 はいっ?

 「だから、t、h、r、e、eなのに「ト、フ、レ、エ」じゃなくて「スリー」だったり、t、r、o、i、sなのに「トロワ」だったり、っていう、綴りと発音のずれ、みたいなのが、ラテン語にはないわけ」

 「それ……」

 杏樹の目は輝いていた……。

 ……だろうと思う。

 綴りと発音は一致しないので、一単語ごとに綴りと発音を覚えなければいけない。

 英語を習い始めて以来、杏樹を苦しめてきた問題がない外国語があるなんて!

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