婚礼の日


 夜明けとともに起床すると、そこからすべてが婚儀に向けて一斉に動き出した。

 まるで私が起きるのを今か今かと待っていたようにメレスとラジヤが部屋に入ってきて、寝起きでぼうっとしたままの私を湯浴みの部屋へ連れ出した。

 今日は目が回るほどの儀式の数々が待っている。神々を目の前に結婚の報告をするために、身体を清めるのは大切なことだと説明を受けながら、寝間着をはぎ取られ、されるがまま清めの水につけられた私は眠気を振り払おうと自分の頬を何度か叩いた。


「もう!お嬢様ったら、ぼうっとして!寝不足にならないようにあれだけ早く寝るように言ったのに!」


 清めの儀を終えた私の身体を拭きながら、ラジヤがぷりぷり怒っている。昨夜王子の来訪があったとは言えず、彼女の小言に耳を傾けつつ、その様子が何だか可愛くて笑ってしまった。


「皆すごく元気なのね」

 

 自分の口からそんな呑気な台詞が出てきてしまう。

 先程のラジヤやメレスはどれだけ早く起きていたのだろう。自分の起床が一番遅かったのだと分かるほど、侍女たちはてきぱき動いていた。


「何を仰ってるんです。今日はめでたき日ですよ。皆とても楽しみにしてるんです。勿論私も。王族の婚儀なんて、何度も見られるものではありませんもの」


 ラジヤはぷりぷりしながらも、ほとんどはしゃいでいるようだ。

 香油を全身に塗られながら回りを眺めて、侍女の皆が張り切っているのが伝わってくる。


「これを着たら、次はお化粧です」


 頭から白く薄い肌着を被せられたと思うと、侍女二人がその裾を足元に丁寧に引っぱり、胸下を赤い留め紐できゅっと結んだ。

 そのままラジヤに背中を押されて椅子に腰掛ければ、すぐさまメレスがもう一人の侍女とやってきてざっと化粧用具を広げた。


「ティイ様、失礼致します。お鏡をどうぞ」


 侍女が掲げ持つ手鏡に映る自分を見つめる。自分の顔に化粧が施されていくのを眺めていると、今度は鏡越しにタニイが現れた。いつもは軽装の彼女も今日はすでに美しく着飾っている。


「ティイ、おはよう。後ろから今日の段取りを読み上げるから、それなりに頭に入れておくんだよ」


 タニイが今日の段取りを背後で説明する中、私はメレスを目の前に化粧をされているといった状態だ。すでにいろんなことが大渋滞している。

 メレスが化粧を進めていきながら、今度はその横で他の侍女が様々な装飾品を持ってきては私を飾り立て始めた。

 王家の守護神ウアジェトの目を表した緑を目元に塗り、唇には赤い紅を引かれる。

 目元の緑は光に当たってきらきらと星のように瞬いていて、これはなかなか目にすることのない高級品だろうと何となしに考えた。

 赤と緑と青の色が添えられている首飾り、ハヤブサの見事な黄金の冠。先に赤が塗られた煌めく羽が頭部を覆うように象られ、耳元まで覆う冠は私の聴覚を鈍らせる。

 そのまま肌着の上に何枚か衣を重ね、ほぼ完成に近づいた私をラジヤや侍女たちが見て、嬉しそうに顔を紅潮させた。


「お似合いです!」

「早く殿下にご覧頂かなければ!」

「きっと惚れ惚れとされるはずです」

「この日をずっと待ち侘びてらっしゃいましたもの」


 口々に褒められるものだから、椅子に腰掛けたままはにかんで見せたら、タニイが笑った。


「とっても綺麗だよ。王子がどんな顔をするか楽しみだね」


 お礼を言いつつ、もう一度手鏡で自分の姿を確認する。

 今までこれほどまでに着飾ったことはない。鏡の中の自分が自分ではないような、まるで話に聞いた王族の姿が鏡の向こうにいるような感覚に陥る。

 前代未聞の民間から選ばれた妃として、今日この国の皆が私を認識するのだと改めて実感して、背筋を伸ばして唇を引き結んだ。


「さあ、殿下のもとへ参りましょう」


 メレスに言われ、鏡を机に置いて椅子から立ち上がった私に、周りの侍女たちは皆一斉に深々と頭を下げた。



 兵が守る離れを出て、タニイとメレスを筆頭として侍女たちに囲まれて白い回廊を歩いた。両端には兵士が槍を上に立ててずらりと並んでおり、一歩進むたびに朝から微かに聞こえていた声の大きさが増していく。王族たちを待つ民の声だ。王宮の外はお祭り騒ぎだと聞いている。あたりを取り巻く空気だけで、いつもの朝とはまるで違うのが分かった。

 朝の涼やかな風を胸一杯に吸い込みながら、回廊から見える景色を歩きながらぼんやりと眺める。緊張はしていない。不思議と心は穏やかだ。


 メレスに案内されて王宮の奥にある一つの扉の前までやってきた。まだ一度も入ったことのない場所だ。

 扉を守る兵が私たちの姿を認め、礼をしてその扉を開けると、そこから一人がぬっと顔を出した。


「お待ちしておりました!」


 顔を出したのは王子の側近ウセルハトだ。彼もまた王宮に仕える者として立派に着飾り、今にもとろけそうな満面の笑みを浮かべている。


「うわあ、なんて綺麗!素敵です!」


 私を見るなり、ウセルハトの声が弾けた。そうだろうと言わんばかりに私の侍女たちが胸を張る。


「さ、どうぞどうぞ。殿下も今か今かと首を長くしてお待ちだったんですよ」


 部屋に入ると、メレスと侍女たちが部屋の壁に沿って並び、私だけがその場の中央に残された。

 広く、豪勢な部屋だ。レリーフがそこかしこに描かれ、重厚な柱が八本ほど高い天井を支えて荘厳としている。柱の間から漏れる陽光が白い床を更に輝かせる。ここは明らかに王族のための場所だった。宴のための空間ではい。祭礼だろうか。それとも外交等の謁見のための場所か。


「ティイ」


 呼ばれてはっと我に返った。

 部屋の奥、数段の階段を伴った高いところに椅子があり、そこに座っていた人物が立ち上がって私の方へ歩いてくるのが見えた。

 メネスを被ったその額にはネクベト神を表す禿鷹とアウジェト神を表すコブラが黄金に輝き、目元はいつもよりずっと鮮やかな緑色で囲われて、その瞳の色を綺麗に引き立たせている。

 誰であるか分かって、自然と顔が綻ぶ。顔を見られるだけで嬉しさが増した。


「アトラー」


 こちらへ来る彼のもとへ私も咄嗟に歩み寄った。

 目の前までやってきて着飾った私を見た彼は、子供のように目を輝かせた。


「思った通りだ。ティイは王家の衣装がよく似合う」


 声を張っている訳ではないのに、彼の声はこの部屋に良く響いた。


「……ありがとう」


 自分の頬が赤らむのを感じて、小さくお礼を告げた。

 この誇り高い王家の、私にはもったいないくらいの衣装が似合うなんて、嬉しいような恥ずかしいような。

 相手の手が肩に流れる私の髪に触れ、そのまま頬に伝っていく。指が触れる場所に、熱と潤いが灯ってくすぐったさが生まれた。


「あなたも、そういう格好をしていると本当に王子みたい。とても似合うのね」


 こんな冗談を言ってしまうくらいには、いかにも王家らしい姿のこの人を見るのが初めてだった。


「何を隠そう生まれながらの王子だからな」


 彼は冗談気味に胸を張った。そうして私の肩に手を添えると、彼の後ろに侍っていた人物たちを示した。


「紹介しよう」


 自分たちの他に四人の男性がいたことに気付いて、姿勢を正して改めて彼らに目を向けた。


「もう知っているだろうが、宰相のラモーゼ。タニイの父だ。幼い頃から私の傍で色々と教えてくれた教師のような存在でもある。何でも知っている博識だ」


 髭を蓄えた初老の男性がこちらに深々と礼をする。

 父とも親交のある、この国の宰相ラモーゼ。いつも王や王子の傍にいる印象で、決して声を荒げたりすることはなく、常に冷静に王家に助言をするという。私の父とはまた違った考えの持ち主で、女性が読み書きをすることに難色を示さない。タニイが伸び伸びと育てられた背景が宰相を見ているとよく分かる。


「これは側近のウセルハト。私の乳兄弟でもある。ティイはもう会ったことがあるな。よく私に悪態をつく」


 年が近いウセルハトは一歩前に出て、満面の笑みで私に挨拶してから、口を尖らせて主人を見た。


「王子、人聞きの悪いこと言わないで下さいよ。印象悪くなっちゃうじゃないですか」


 初めてウセルハトを見たのは、夜の宴で彼と共に中庭へ行った時だった。

 にこにこしていて印象の良い人だが、おそらく王子に振り回されて大変なことも多いのだろう。彼と親しいのは乳兄弟だったからかと納得する。


「これも側近だ。名をニアンという。堅物だが、根は優しい。私の護衛も勤めている。よく剣の相手をしてくれるのだ。一度手合わせしてみるのも良い」


 屈強な身体の持ち主で、大男と言っても過言ではない身長で驚く。

 年は三十半ばほどだろうか。口をへの字に結んだまま、私の前に膝をついて礼を示した。

 雰囲気だけで手練れというのが分かるが、テーベの街で見掛けた彼の武術の腕はこの人によるものだろうか。時間が出来たら是非指南してもらいたいものだ。


「あとは側近のナルメルだ。もともと書記官として王宮に仕えていたのだが、賢い子で今年側近として傍に仕えて貰うことにした。齢は次のナイルの氾濫で十三になる」


 十三、と聞いて目を丸くした。少年のような顔立ちだと思ったが、まさか本当に少年だとは。

 ひょろりとした体つきをしていて、十三にしてはかなり背が高く、私よりも頭一つ分高そうだ。いかにも賢そうな清々しい微笑みを湛えて、私に丁寧に頭を下げた。


「最後に、私の書記官兼相談役の──」


 四人だと思っていたがまだいるらしい。驚いて彼が示した方を見やると、そこに見知った顔があって、あっと声を上げてしまった。


「アネン兄様!」


 一番上の兄が穏やかな顔をこちらに向けていた。どうやら皆よりも数歩下がって私を眺めていたらしい。どうりで気付かなかったわけだ。


「紹介は不要だな。そなたの兄にはよく世話になっている。軍事にも神事にも政にも精通していて人当たりも良い。稀な人材だ。頼りにしている」


 彼の紹介を聞いて嬉しくなる。

 長兄は頭脳明晰でありながら物腰も柔らかくて様々なところから引く手数多だと聞いていた。父の手伝いもしながら、政治にも活躍の場を広げているとの話だったが、王子の傍に仕えているとは初耳だった。

 会えたことが嬉しくて、その気持ちのまま兄の前に行くと、兄は私の頭をそっと撫でた。


「本当に殿下の妃になるんだね。少し前まであんなに小さかったのに」

「アネン兄様、お母様と同じこと言ってるわ」


 笑って指摘すると兄は肩を揺らした。口元に笑みを浮かべた顔が母に似ていて懐かしくなる。


「今日はとても忙しくなると聞いていたから、会えないと思っていたの。会えて嬉しい」


 家族に会えてほっとしている自分に気付く。知らず知らずのうちに気を張っていたのかも知れない。


「お父様とアイ兄様は?」


 この部屋に二人の姿はない。あくまでここは王子直属に仕えるものたちだけが集まっているようだ。


「アイは婚儀の儀式で役があって忙しそうだった。父上はすでに王宮に到着して皆と談笑しているよ」


 婚儀中に二人の顔を見ることはできそうだ。


「私はこのあと父上と一緒にお前を見ているからね。母上にも今日の様子をしっかり伝えるよ」


 王子の傍を離れて、親族として婚儀に参列するのだと言う。


「お母様によろしくお伝えしてね」

「勿論だよ」


 婚儀が終わったらきっと父たちはムノに戻って母に会うに違いない。それがとても羨ましかった。


「ティイ、幸せにおなり」


 兄は遠い記憶を懐かしむような表情を湛えていた。兄の目には、まだ幼かった頃の私が見えているのだろうか。


「ありがとう、兄様」


 嬉しいような、どことなく寂しいような。

 もうムノで過ごしたような日々には戻れないのだ。


「王子が待っておられる」


 微笑む兄に背中を押され、待っていてくれた彼の隣に戻った。

 兄に会えて少しはしゃいでしまったと恥ずかしくなって苦笑すると、彼は私の髪を撫でて耳元に口を寄せた。


「兄に会いたくば私に言え。離れに遣わそう」


 私が望むことは何でもすると言わんばかりの人に、微笑んで返した。

 自分の夫の近くに兄がいるのであれば、何かあったときに相談できる。母に伝えたいことが出来たときも気兼ねなく頼むこともできるだろう。思った以上に兄が近くにいてくれることに安堵した。


「殿下、ファラオの御前へ」


 このまま儀式が始まるのかと思いきや、ラモーゼが王子に更に奥の部屋へ向かうよう示した。『ファラオ』と言われた気がして、身体に力が入る。


「ファラオの御前……?」

「父上に挨拶に向かうのだ」


 尋ねた私の肩を抱いて歩き始める彼がそう言った。


 彼の父はトトメス四世。敵国ヒッタイトに対抗するため、ミタンニをはじめとする諸国との間に同盟を締結し、諸外国との情勢を安定させた勇猛果敢な王。

 一度姿を拝見したのは、初めて王宮に招かれた時だったが、あれ以来皆の前に姿を現していないという。あの時はすでに病に伏していた時期のはずだ。

 タニイの話では、すでに公務は王子に一任し、寝台から立つこともままならないと聞いていた。


 案内されて進んでいく内に、今まで皆の紹介を受けた広間も部屋だと思っていたが、実際は最奥の部屋のための通路であったことを知った。

 いかにも王の寝室であろう大きな扉を目の前に立つ。

 侍女たちが厳かにそれを開けると、広く寂しげな空間が現れた。

 部屋の中央に天幕が置かれ、その中にぽつりと寝台が見える。まだ朝だというのに、そこはまるで夕暮れのように薄暗い。

 私の背に手を回す彼と共に部屋に足を踏み入れる。後ろにいたラモーゼたちは入口に控え、私たちだけが中へ進んでいく。彼の黄金のサンダルの音だけが響いていた。

 近づいた天幕の中には、寝台の隣に一人の男性が王に侍っていた。


「侍医、少しばかり席を外せるか」


 侍医とは、王家専属の医師だ。王子に命ぜられた侍医は、一礼をして席を離れた。


「もう大分前から受け答えができなくなっている。起きているのかも定かではないのだ」


 寝台には、宴の席で一度だけ見たこの国の王が眠っていた。ひどく痩せ細り、閉じた目元が落ちくぼんでいる。腹の前に置かれた両手はまるで木づくりのようだ。顔色も悪く、細々とした呼吸はいつ絶えてもおかしくはない状態だと素人目でも分かる。勇猛果敢と謳われた面影はないに等しい。

 病人特有の匂いだろうか、死期が近いとこちらに知らしめるものがあった。

 神にも等しい存在を目の前に、私は床に膝をついて祈るように目を伏せた。


「父上、妃を連れて参りました」


 彼が静かに語りかける。


「ムノの一族、軍事司令官イウヤの娘ティイです。私が選びました」


 顔を見せてやってほしいと言われ、私は立ち上がって寝台の王を覗いた。


「ファラオ、お初にお目にかかります……イウヤの娘ティイと申します」


 声が震えた。本来であれば声を掛けることすら恐れ多いことだ。

 一言二言、彼が父親に語りかけたが、王が目を開けることも声を返すこともないまま、その部屋を後にした。

 この国の王の死期が近い。それを実感するのにはこの短い時間で十分だった。今の王の在位は歴代の王たちと比べると短いが、自分は今の王以外の治世を知らない。これからどうなっていくのかと漠然とした不安のようなものが立ちこめた。


「おそらく父の治世は間もなく終わる」


 隣を行く彼が静かに呟いた。その表情はあまり見えない。


「だが、生きている内にティイに会わせられて良かった」


 物悲しさの中に安堵がある、そんな声音。


「さあ、これから目が回るくらいの儀式が待っている。行かなければ」


 私に一瞬視線を向けた彼はラモーゼたちの方へ足を進める。

 ファラオの崩御となれば、否応なしに王として持ち上げられるのはこの人だ。

 王家がどんなところなのか、私にはまだ分からない。それでもこれから、私はこの人と共にあらねばならない。国の繁栄のため、民のためにあらねばならない。

 私は、ラモーゼに導かれて神殿へ向かうその人の背を眩しく眺めた。




 彼と共に踏み入れた神殿には、四隅に大きく燃える灯りと共に巨大なアメンラーの神像が聳えるように立っていた。思わず平伏したくなるほどの畏怖の念を抱かせる像の姿に、圧倒されて言葉を失う。


 最高神官が神に「王子が妃を娶った」という旨を伝えることから儀式は始まった。

厳かに進められていく中で、私たちを囲うように神殿の端に並ぶ列の先頭に父の姿を見つけた。アネンも隣に並んでいる。父は鼻高々といった様子で、アネンは穏やかに微笑んでこちらを眺めていた。

 最高神官の傍に侍るアイは澄ました顔をしていた。家族の顔ぶれが揃うのは嬉しかったが、そこに母の姿がないことは分かっていた事ながら少し寂しかった。


 儀式をいくつか行い、衣装を着替え、さらに儀式を重ねて、タニイとメレスに言われるままに儀式の所作を熟していく。

 神々を前にするというのは初めてことで、今までにない種類の緊張感が、まるで永遠に続くようだった。


 一通り儀式が終わったのは夕暮れ時だった。

 彼と共に従者たちを引き連れて、神殿の暗がりからようやく抜け出し、開けた外へ出た時の、涼やかな夕暮れの風が頬を掠め、神殿から出た私は思わずほうっと息を吐いた。


「民に顔を出したら終わりだ。頑張れ」


 自分の顔に疲れが出ていたのか、彼は眉を下げて笑いながら私を励ました。

 あと少しだと自分を叱咤して背筋を伸ばす。

 未だに平然とした顔をしている彼はこの儀式だらけの一日に慣れているようだった。さすがは王子といったところか。


 神殿から出て、皆を背後に連れながら、彼に手を引かれて回廊を行くと、兵士や女官がずらりと並ぶ、広く開いた空間に出た。

 まだ見えぬ民の気配がありありと向こうから感じられると同時に、清々しい空気がその柱の間から吹き抜け、私の髪を後ろに緩やかに靡かせ、耳の飾りを大きく揺らした。

 一歩踏み出せば、橙に飲み込まれていく空が現れる。今か今かと言っているような声の束が、天井を支える柱の向こう、そのずっと下から、私の耳まで飛んできた。


「殿下」


 ラモーゼに声を掛けられ、私の手を離して陽が満ちる方へと踏み出した。

 黄金のサンダルが奏でる鈴に似た音色を響かせ、青と黄色の頭巾をナイルから巻き上がる風に乗せながら。

 そして、世界は民の声で満ちた。

 胸が震えた。すべての感覚を麻痺させる。声が風となって私の傍を吹き抜けていく。

 竜巻のごとく吹き荒れる歓声とは裏腹に、声を忘れた私は両の手を体の前に組み、夕暮れのナイルの風を全身に浴びる王子の背中を見つめていた。

 宰相や側近たち、私の侍女たちや多くの大臣たちも、民に姿を現す主人の姿に皆頭を下げて敬意を示していく。

 やがて、声を何一つ出すことなく、彼は右腕を高々と天に掲げた。その指先が夕陽の燃えるような光と一体となる。


 これが王家なのだ。

 たったひとつ所作だけで、誰もが神と湛える威風を生む。

 それを自然と知ってさらりとやってのけるこの人は、強大な国を治める、生まれながらの王族なのだろう。


「ティイ」


 笑みを湛えた彼が振り返り、私に向かって手を伸ばした。

 夜の宴で差し出された手と同じ手。この手を掴んだあの時は、まさか自分が妃としてまたこの手を握るとは想像もしていなかった。

 伸ばされた彼の手に、自らの手を伸ばして触れると、その手がぐっと握られて相手の熱が伝わってきた。

 引かれて、前へ出る。

 私はこの国の王子の妃として、民の声を一身に浴びながら、地に沈もうとする太陽の眩しさに目を細めた。


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太陽を抱く君へ 雛子 @hinako0424

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