前夜
王宮に入った翌日からは、メレスに王宮全体を大まかに案内され、その後にタニイから王家が関わる政治の概要、そして婚儀の日程とその儀式の数々を教え込まれた。
王宮内のことも、政治のことも、婚儀のことも、知らないことを教えてもらえている事実にわくわくした。婚儀に関してそう思えるのはまだ他人事のように感じているからかもしれない。
話を聞いていて気がかりに感じたのは、ファラオが病に伏せてそろそろ一年になるということだった。
今や寝所から出ることもままならないファラオの代わりに、政務の大部分を王子が一手に引き受け、王宮に仕える皆がこの国の栄華を極めた王の命が終わろうとしているのを察し、王子を次の王とする準備が着々と進められていることを知った。
父イウヤがあれだけ慕い、敬愛していたファラオの死期が近いことがなんとも信じがたい事実だった。
婚儀は話を聞いている分には興味深いが、朝から夕暮れまでやることなすことが多く、自分が当事者なのだと思うと目が回るようだった。こればかりはやってみないと分からない部分だ。熟してみたら案外平気なのかも知れない。
日中、王宮や王家に関することを頭に叩き込む時間に充てたため、庭に出る時間こそ無かったが、寝る準備が整った就寝前だけ、自分の部屋に用意されたパピルスを寝不足にならない程度に好きなだけ読んで過ごしていた。
今日も机の上の燭台に小さな火を灯してもらって、気になった書物をひとつだけ棚から取り出し、椅子に腰掛けて慎重に開いて目を通す。夜の闇の中で、橙の光のもとで文字たちは揺れるように私の前に現れた。
ひとたびそれに魅入ってしまえば、時間の感覚がなくなり、文章が頭の中へ流れ込んでくる。この感覚が好きでたまらなかった。
今まで書物を読むたびに叱られ、必要ないと取り上げられながらも隠れて読んでいた分、こんなにも堂々と読めることが、今でも信じられないくらいだ。読むほどにもっと、もっとと欲が溢れて止まらなくなる。
「お嬢様、いつまで読んでらっしゃるんです?」
聞き慣れた声に意識が引き戻され、パピルスから顔を上げると、目の前に私の手元を覗くラジヤがいた。読み始めてから大分時間が経っているようで、彼女の顔は半ば呆れ気味だ。
「あと少しだけ」
「明日婚儀なんですよ?寝ないと障りますよう」
そうだった、と顔をあげて再びラジヤを見た。
「忘れてたんですか!呆れた!」
目の前の彼女は大袈裟に頭を抱えて天を仰ぐ。その様子がおかしくて笑ってしまった。
「笑い事じゃないです!何でそんな脳天気なんですか!自分の婚儀なのに!」
「ほら、だってね、全然実感が湧かないのよ」
王宮に入って半月が経ったが、外にも出ていない分、住む場所が変わっただけのように感じていた。
「私はいよいよって感じです。お嬢様のお衣装、婚儀中にちょいちょい変えなくちゃいけないから、間違えないか不安で不安で!でも初めて見るものもいっぱいだから楽しみではあるんですけど!」
第一の侍女としての役割が沢山あるのだと彼女は嘆くものの、明日を心待ちにしているようだった。
「私もこれだけ読んだら休むから、先に休んでて大丈夫よ」
ラジヤに自室へ戻るよう促すと、彼女は眉を八の字にしてこちらを見つめてくる。
「ちゃんと休んで下さいね。メレス殿も心配されてるんですよ。お嬢様が毎夜毎夜全然寝ようとしないから」
「明日に障らないようにちゃんと休むわ。メレスにも大丈夫だと伝えておいて」
この王宮に入ってからラジヤはメレスを大層慕っていて、半月経った今では師匠と呼び、良好な関係を築けているようだった。
「風邪だけは引かないように気を付けて下さいね」
ラジヤがそう言って、寝間着姿の私の肩に上着を掛けた。
「ありがとう」
「じゃあ、私は隣で休んでおりますので、何かあったら呼んで下さい。メレス殿にも伝えておきます」
「ええ。お休みなさい」
ラジヤが踊るような足取りで去って行く姿を見送って、また手元に視線を戻した。
明日が婚儀という実感が全く湧かないのは、夫になる相手に半月近く会っていないのが原因のひとつだろう。
自分の夫になるはずの王子は、私が王宮へ入った日を最後に、この部屋を訪れることのないまま現在に至っている。タニイとメレスによると、相当忙しいらしく、日中は公務に追われ、夜遅くにようやく自室に戻り、死んだように眠っているらしい。
話したいことも、言ってやりたい文句もあったが、王子という身分を思えば仕方ないことだと諦めていた。
王宮に入って、彼が用意してくれた離れで自由に過ごしている以上、結婚する以外に道はない。
婚儀を挙げることも、その日程もすでに決まっていることで、私がどうこうするものではないから、流れに身を任せるしかない。
これだけ相手に会わない時間が長いと、本当に明日婚儀が行なわれるのかすら疑わしく思えてくるが、一人の時間が特に苦ではないのと、気の許せるラジヤやタニイ、メレスをはじめとした離れの侍女たちのおかげで、故郷を離れた寂しさを然程感じないでいられるのは救いだった。
明日、正式に私は王子の妃になる。
妃になった私は、これから一体どうなるのだろう。
そんな重要な立場を、私はきちんと熟せるだろうか──。
ここまで考えて、ふうと息を吐く。
目の前の文章を読み切ったら休もうと、前に垂れてくる長い髪を両手で後ろに払って前のめりになった時、背後に気配を感じた。
誰かがこちらへ歩み寄ってくる。先に休んでいて良いと言ったのに、ラジヤかメレスが心配して来たのだろうかと振り返ると。
「まだ起きていたのか」
掛けられた声音が予想からかなり外れていて驚き、反射的に椅子から立ち上がった。
女性しかいないこの離れで耳にすることがない、男性の声だった。
燭台を手に取って声の主がいる方向に向けると、一つの影が浮かび上がる。
「アトラー……?」
呆気にとられながらも、咄嗟に名を呼んだ。
私の手にある灯りに照らされた相手は、驚く私を見て悪戯をした子供のように笑んでいた。
「あなた、どこから……」
突然一人で現れるとは想像もしていなかった。たとえ王子でも、来訪の際には侍女たちから「殿下がいらっしゃる」と前もって知らされるのが普通だ。
おそらくメレスもラジヤも、王子の来訪を知らないだろう。
「庭からだ。離れの入口を使うと、メレスに見られて、こんな夜更けなのにと叱られてしまう」
どうやら寝所を抜け出してここまで来たようだ。改めて見てみれば、彼は寝間着と思われる簡易な衣に身を包んでいた。
庭に入れればそこに繋がるこの部屋に入るのは容易だろうが、誰にも見つからず来られるものなのか──と考えて、皆の視線を盗みつつ私を連れて王家の書庫まで入った彼の一面を考えれば、十分にあり得ることだと納得した。
「夜更けにすまぬ。会いたくなったのだ」
困ったように相手は笑う。表情やら仕草やらが今までと同じで、安堵で全身から力が抜けるようだった。
「忙しいと聞いたわ。休まなくて大丈夫なの?」
自分も寝間着姿だと思い至って、ラジヤが掛けてくれた上着を胸元に寄せながら尋ねた。
「さすがに婚儀前に一度は会っておきたいだろう。ティイは私に聞きたいことで溢れているはずだ。それを抱えたままではせっかくの婚儀も身が入るまい」
それはそうだけれど、と言い淀む。
彼はゆったりと私の前に歩み寄って、私の手から燭台を取ると庭の方を指差した。
「月でも眺めながら話そう」
私の返答の前に彼は歩き出す。出会った頃と同じように、私は彼の後ろをついて歩いた。
なんとも嬉しそうに前を行く相手の背中を見ていて、自分は明日この人と結婚するのかと不思議な気持ちになる。
「むしろここまで放っておいてすまなかった」
「それは全然……」
部屋に響く二人の足音だけを何となしに聞いていたら、庭へ開けたところからこちらへ月光が白く降り注いでいるのが見えた。彼の手元にも灯りがあるのに、月明かりがあるだけで大分相手が見えるようになる。
「ねえ」
庭への縁に立ったとき相手を呼ぶと、彼は穏やかに私を振り返った。
「どうして、自分が王子だと言ってくれなかったの?」
この人は私に王子だと勘づかれないよう、わざわざ衣服も簡素なものにして、自分の情報を与えようとしなかった。王子だと言ってくれていたら、と何度思ったことか。
彼が静かに目を伏せると、月影を浴びた目元に睫毛の影が落ちた。
「言ったら、ありのままのティイで接してくれなくなると思った。私を王子だと知らないティイに会うのは、何よりの楽しみだったのだ」
この人が言うとおり、王子だと分かっていたら、今頃私はこんな風に接していなかった。
ありのままで接してほしいという気持ちは、自分も同じように身分を隠して遊んだことがあったから分からないでもないが、王子という身分では訳が違う。
「あの夜は本当に混乱して大変だったのよ。あなたが倒れてから、皆があなたを王子、王子って。どれだけ驚いたか……お父様は今までに無いくらい激怒しているし、私を叱ったことがないアネン兄様ですら怖かったわ。私の身にもなって」
会えた喜びよりも、何度も会っていながら全く正体を教えてくれなかった相手への腹立たしさがじわじわと出てくる。これこそ、私が一番この人に言いたかった文句だった。
「王子を殴って失神させたなんて、もう、私は死刑になるんだとどれだけ……」
「すまぬ。もっと打ち解けてから正体を明かそうと考えていたのだが、ラモーゼがティイに要らぬ縁談を持ちかけたと聞いてああなってしまった」
彼は月を背中にして私に向かって立っている。夜風が彼の方から私へ吹き流れていった。
「あなたが王子だと知った今ですら、まだ信じられなくて普通の友達みたいな感覚で話してしまうわ」
実際王子だと分かっても、こうやって文句を堂々と言えるくらいには恭しく接することができないでいる。それを聞くなり、彼は軽く笑った。
「それで良い。これから夫婦となるのだから」
さらりと言われた言葉に、どう返したらいいか分からなくなって言いよどむ。
「ティイ、ここへ」
庭に繋がる縁に相手が腰を下ろし、自分の隣をとんと軽く叩いた。
促されるままに座って、自分の膝を抱く。足元に置かれた燭台の火が揺れていた。
「……私を正妃にしたいだなんて、おかしなことを言うんだもの。あなたが分からないわ」
返す言葉が見つからないまま、嫌味のように呟いてしまう。
「おかしなことではない。正妃にしたいと心から思ったから、イウヤに申し出たのだ」
当然と言わんばかりだ。
「私の噂は耳に入っていたはずよ。嫁の貰い手がいない残念なじゃじゃ馬娘だと。そんな私を可哀想な女だとでも思ったの?」
もやもやしていた正体はこれだ。この人は私の噂を知っていたはずなのに、わざわざ妃に迎えようとしている。決して良い噂ではない。哀れみで妻として迎えられるのは惨めだと、つい語彙が強くなる。
「そう怒るな。そなたの縁談が決まったと聞いて慌ててイウヤに話を持ち掛けた私の身にもなってほしい」
何も言い返せず唇を噛んだ。
きっと大変だっただろう。色々と根回しをして、もともとあった私の縁談を白紙にして、私の父に要請し、一般人を正妃にするという異例の話を進めたのだから。反対もあったに違いない。そこまでして私は妃に値する人間なのか分からなくなる。
「それに噂など、本人を目の前にしたらどうでもよくなるものだ。そもそもティイも噂に流されぬ人間だろう。私のことを、『会ってみないと分からない』と言い、私の悪態をつくウセルハトを見て『王子は良い人なのだろう』と言った」
王子の噂の話をこの人としたことがあった。本人であるこの人に、私は王子のことを噂だけで判断するなと言ったのだ。自分の発言をそっくりそのまま返されては、ぐうの音も出ない。
「そなたの家は由緒ある名門一族だ。その一族から娘が王家に入ることは以前にもあっただろう。そなたが正妃になることに何の問題がある」
「それはそうだけれど……」
宮廷に迎え入れることはあっても側室としてで、正妃にするなど異例中の異例だ。私が正妃になることが問題なのだ。
「……私を妃にとあなたが申し入れた時、父は喜んでいたでしょう」
何故王家が正妃を王家の女性たちにしてきたかと言えば、権力の分散を防ぐためだ。私が正妃になることで生じる問題が出てくる。
「ああ、即答だったぞ。目の色を変えて喜んでいた」
その父の顔は想像に難くない。私が王子の正妃となれば、王子は父にとって義理の息子になり、もし子供が生まれてその子が王位を継いだならば、その子にとって父は祖父になる。私の家にとって、これほど権威を守れる機会はない。王家の親族になることで、永久的な身分を手にするだろう。
「私は王家の娘ではないわ。王家の正妃は王家から出されることが今までの常識だった。なのに、古くから続く家柄というだけの、王家でもない私を自分の正妃にする意味を、あなたは分かっているの?私の一族にあなたは利用されるかも知れない。私の一族の権威への執着をあなたは知らないのよ」
父やアイの上へ伸し上がろうと言う執着は恐ろしいほどに強い。アネンもそうだ。穏やかであるが、一族が有利になるよう動く人間だ。
この人に害があるようなことがあれば父や兄たちとも縁を切る覚悟で王宮に入ったが、私の抵抗でどこまで父たちを抑えられるかは分からない。
「私はのんびり屋ではあるが、そこまで落ちぶれてはおらぬよ」
月を眺めていた美しい黒の瞳が私をゆっくりと捉える。その眼差しに説得力を感じるのは王子として生まれたものがあるからだろうか。
「今回の婚儀でイウヤは権威を保つことができ、そなたは己の生まれ来た道を全うできる。私は愛しいそなたと共にいられる。良いことばかりだ。これからのことなどいくらでも考えられる」
ぐっと背伸びをしながら彼は言った。
「そなたが嫁入り先の決定権が自分にないというから、私が決めたのだ。私の発言力は凄いのだぞ」
だからといって慣例を跳ね除けて、私を正妃にするなど。
「私も考えることは考えている。問題は無い。とにかく私はティイが傍に欲しかったのだ。これは揺るぎない事実だ」
こちらがどきりとすることをさらりと言われ、頬が火照るのを感じて相手から目を反らした。
「我儘なのね」
「生まれた環境がこれだからな。大概のことは思い通りだ」
この人が王子でなければ聞くこともない言葉だろうと唖然とする私の髪を、そっと伸びた相手の手が触れた。
「ティイが他の男のものになるなど嫌だった。ましてやありのままのそなたではなくなるなど、もっと嫌だ」
触れられた髪さえも体温を持っているような感覚になる。
「……もしや、先に決まっていた男のもとに嫁ぎたかったのか?」
何も返事ができずにいたためか、彼は少し心配そうに声を潜めて尋ねてきた。
慌てて「そんなことはない」と首を横に振る。
「知らない人より知っている人の方がずっといい」
彼はひどく安堵した様子で胸を撫で下ろした。
「ならば良かった」
ほとんど知らない相手に嫁がされる話は良く聞いていた。実際母もそうだったという。見知った相手に、それも自分が好意を抱いた相手に嫁ぐことが出来るのは、相当幸運なことのはずだ。
「そなたとなら、うまくやっていけそうな気がしたのだ。これは本当だ」
「……あなたがそう思ってくれるのは嬉しいわ。でも本当に私が王家の人間になって大丈夫なのか心配になるの」
彼は何を言うのだと言わんばかりに、目を丸くする。
「己の意思をしっかりと持ち、慣例に捕われぬ自由な思想があり、流れる噂を鵜呑みにせず、己で考え、自らの意見を相手に的確に伝えられる。ティイのような人間は稀有だ。だから惚れたのだ。妃にするならばティイの他にいない」
それほどまでに褒められると、どこに視線をやったらいいか分からなくなる。
「あなたの正妃になって、また何かしでかしてしまうかもしれない。今までだって不本意で引き起こされたことも多かったわ。それで変な噂が立って、噂が大きくなって、今まで何度も両親に心配をかけてきた」
民間から妃になった身で、妙な噂に尾ひれがついて広まれば、それこそ「前代未聞のことをしたからだ」と私を妃とした彼が責められてしまうのではないか。
「あなたや王家に迷惑がかからないか……それが心配なの」
私は自分に自信がない。この人に妃として選ばれたことすら、未だに信じられないでいるくらいに。
両親やタニイにすら言えなかった妃になることへの不安を初めて告げたが、彼はそんなことは意に介していないと首を振った。
「ティイはティイらしくいれば良いと言っただろう」
あの夜も彼はそう言った。その言葉に救われた。
「ティイは人の上に立つ者として相応しい価値観を持っている。現に、押しかけてきたヘルネイトに対して侍女たちへの謝罪を求めた。主としてあるべき姿だ。だから侍女たちは皆、ティイを慕っているのだ。そもそもティイが妃に相応しくなければ、私はここに呼んでいない」
安心させるようにこちらを伺う相手の表情に、自分の心が凪ぐ。
「ティイ」
彼は私に顔を近づけて、真剣な眼差しをこちらに向けていた。
「自由でいるそなたの方が私は好きだ。凛々しく風に立つ誇り高いそなたの姿が好きだ。自分に自信を持て。そなたは美しく、強い意思があり、賢い。それでいて傍にいて私はとても楽しい」
そこまで言われて、「もうやめて」と相手を手で制した。
あの夜の続きを言われているようで、どうしたらいいか分からなくなる。まるであの時の緊張がそっくりそのまま甦ってくるかのようだ。
「褒められるのは慣れてないの」
ほとんど否定され続けてきたのだから。
「ティイのことならばいくらでも褒められるぞ」
彼は穏やかに笑った。
そうして、私の頬にすっと伸ばして触れる手がある。暖かさを孕んだ相手の手は、夜風に少し冷えた頬に心地良かった。
「それにティイの目」
「私の目?」
彼の瞳に私が映っている。それに魅入る。
「王家に相応しい神の色だ」
頬を指で撫でながら、彼は告げた。
「……どういう意味?」
「そなたの瞳はラーの色、黄金に見える。美しい色だ」
相手が私の瞳をもっと覗こうとするかのように、顔を近づけた。
「あの決闘で相対したとき、好感を持った。なんと凛々しい瞳を持った男だろうかと。結局は女だったわけだが」
兄たちも受け継がなかったこの瞳の色を、神と王家の色に例えられるとは想像もしてなくて言葉を失う。
むしろ、船上の令嬢たちにこの国の人間の色ではないと蔑ろにされたくらいなのに。
「ティイは太陽を抱いているのだな」
息を吐くように出てくる言葉に、私は戸惑うことしか出来ない。
「そんな風に言われたのは初めてだわ……ありがとう」
この人は今まで誰も褒めなかったところを褒めてくれる。居場所をくれる。そして認めて受け入れてくれる。
彼は、漠然とお礼を告げる私を穏やかに眺めていた。
「それに噂ひとつで傾くような王家ではない。何も案ずることはない。何かがあれば私が全力でティイを守ろう。それが夫の務めだ」
相手の声に、自分の中の不安が不思議と薄らいでいく。私から手を離して月を仰ぐ相手を見ていたら、ずっと引っかかっていたことが思い浮かんだ。
「……あなたにひとつ、聞きたいことがあったの」
何でも、と彼は頷く。
「あの、私の元縁談の相手だった神官の親子を王宮から追い出して、身分を剥奪したのはもしかして……」
彼はにっと笑った。
「当然の報いだろう。ティイはあれらのせいで苦しんだのだ。それに、そのような者たちは王宮に要らぬ」
「やっぱり……」
話を聞いてくれたのもこの人だった。タニイが身分剥奪の理由が分からないと言っていたが、この人だったのならば、すべてが繋がる。
いつだって飄々している相手を目の前にして、また目頭が熱を持った。見る見るうちに視界の相手がぼやけて目から零れていくものがあった。
そんな私を見て、彼が驚いて慌て出した。
「どうした、それでは足りなかったか?もっと……」
「違うの。そうじゃないの」
慌て様がおかしくて、涙を拭いながら咄嗟に笑ってしまった。
「誰にも話せなかったことをあなたが聞いてくれて、あの時は本当に救われたの。翌日にタニイからあの人たちの身分剥奪のことを聞いて、私ね、とても……とてもほっとしたの」
目の前にある相手の顔がこちらを案じているのだと伝わってくる。
「全部あなただったのね。あなたが私のためにしてくれたことだったのね」
この人がいなかったら、きっと私はまだあの時のことを引きずっていただろう。
この人は、私の恩人だ。
「ありがとう」
精一杯笑って見せた。
思えばいつも彼は笑顔を見せてくれていたのに、私は彼に対して不意に微笑むことはあっても、笑顔という笑顔を向けたことがなかった。正体が分からない分、僅かに警戒していたのだと今では思う。
でももう、その警戒も必要ない。明日、私はこの人の妻になるのだから。
相手が少し驚いた顔で、言葉を飲み込んでこちらを見つめていた。何か変なことでも言ってしまったかと心配し始めたとき。
「ティイ」
名を呼ばれたと同時に腕が引かれ、前のめりに倒れそうになった身体を、彼が受け止めた。
間を置かず身体を起こそうとすると、ぐっと背に回る腕に力が込められ、私は相手の腕の中にすっぽり収まる。さっきまで聞こえていた風の音が止み、相手の鼓動ばかりが鼓膜を打つ。
初めて異性に抱き締められていると気付いて、耳まで血流が昇るのを感じた。動転して慌てて顔を上げると、あまりに優しい表情を浮かべた相手の顔があった。
そうだ。
この人は、何もかもが優しい。
私への接し方も、私への触れ方も、話し方も。聞き方も。
私のありのままを受け入れてくれる。
そしてその人に見惚れている自分に気付いて、身体からふっと力が抜けた。
固そうな焦げ茶の髪も、形の良い眉も、すっと通った鼻筋も、黒い瞳を宿す、流れるような目元も、薄い唇も、何もかもに見惚れてしまう。好きだと思う。ずっと隣で見ていたい。
この人となら、共に手を取り合って生きていけるのかも知れないと、希望ばかりが溢れて止まらなくなる。
この人のために、与えられた妃という身分に精一杯応えて生きていきたい。
今まで知らなかった自分の一面を垣間見たようで、不思議な気持ちになった。
近づいた相手の顎に不意に手を伸ばすと、彼はその手を取って唇を寄せた。以前、私が勢いに任せて力の限り殴ったところを見る度に、あの時を思い出して苦笑してしまう。
「……顎、大丈夫だった?」
それを聞くなり、彼は肩を揺らして私を更に抱き込んだ。視界がその人でいっぱいになる。自分を害するすべてのものから守ってくれるかのような、強くて優しい抱擁だった。
「痛かったが平気だ。さすがは男を打ち負かしただけの腕力を持っている。そのような細い腕からよくあれほどの力が出るものだ」
「……良かった。心配していたの」
相手の胸元に頬を寄せ、腕を相手の背に回した。
身体に触れてじんわりと広がる暖かさが何より心地良く、今までに無い幸福感に満たされることを知った。
相手が私の頬に触れてゆっくり顔を上げるよう促し、そうしてかち合う視線にすら恍惚としたものがあった。自分に向けられる眼差しに吸い込まれそうな感覚に襲われる。
彼の指が形を辿るように私の唇に触れ、その仕草が自分の鼓動を一層高鳴らせた。
「口付けても良いだろうか」
尋ねられて、思わず笑ってしまう。
「どうしてそんなことを聞くの?」
ここで拒む理由はもう私にはないというのに。
互いの鼻先がつきそうな空間を残して、彼もまた破顔した。
「また殴られては困ってしまう」
吐息すら掛かる距離の相手に返事をするのが気恥ずかしくて、私は小さく頷くだけをした。
相手が愛おしげに私に触れて近づく気配に、僅かに震える瞼を伏せる。
そうして唇に触れるものがあった。
しっとりとした暖かさ。優しくて、穏やかで、なんて甘いものだろうとうっとりとした。
触れあうだけの甘ったるいものの中に喜びさえ感じる。好きな相手に触れるというのは、これほどまでに幸せなことなのだ。
ずっとこのままでいられたらとさえ思う中で、唇が緩やかに離されて徐に瞼を開いた。まだ相手のぬくもりが残る自分の唇から、熱い吐息が漏れた。
「ティイの唇はハスの花だ」
すぐ前に、嬉しそうに笑む相手がいる。
最上位の褒め言葉だと分かって、顔に血が上るのを感じた。私は今どんな顔をしているだろう。
「名残惜しいが、そろそろ休まなければ。さすがに主役二人が寝不足はまずいだろう」
彼は私を支えながら立ち上がり、奥の寝室で休むように告げた。
「このまま寝室に戻ると良い。私も戻る」
「……また、今夜みたいに話せる?」
唐突に不安になって、自分の両手を取る相手に尋ねた。
夜の中にこの人が消えたら、またしばらく会えなくなるのではないかと、馬鹿らしいことまで考えてしまう。前までは次会うまで一月も待っていたのに、今は離れるのすら惜しく、寂しさばかりが募った。
「何を言う」
そんな私に顔を寄せ、彼は私を安心させるように柔らかな声音で、口元に笑みを浮かべて告げる。
「明日婚儀を挙げたら毎日ここへ来るつもりだ。ティイは私のただ一人の正妃なのだから」
相手を見上げて、私は笑みを返した。
もう、宴の夜にしか会えないということはないのだ。
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