うなぎのあぶら

長尾たぐい

うなぎのあぶら

 パートの時給、一時間千二百円。特選ひつまぶし、一膳四千八百九十二円。私が四時間働いても、ここの看板メニューを注文するにはまだ足りない。絶滅危惧種の血を抜き、腹を割き、臓物を取り除いて、職人が汗水垂らして――今だって真冬だというのに首筋に汗が流れているのが見える――炭火で火を通したものに、出汁と薬味を添えたもの。文化砂漠、何もない名古屋の数少ない名物、ひつまぶし。

 洗い場の水道から出てくる水は、鰻の脂をしっかり洗い流すために常に四十度に設定されていて、還暦間近の私の手から容赦なく油分を奪っていく。今洗っているものが今日これで何個目のおひつなのか分からない。本日、私たちはこれだけの不当な虐殺を行いました。だんっ。だんっ。そんな所感は馬鹿げていると断じるように、鰻の首が落とされる音が厨房に響く。


 鰻屋で働いているけれど、鰻料理は嫌いだ。病気のせいで職を辞し、やっとの思いで復調した私にとって、一番適した職場がここであっただけ。家から徒歩三分、このあたりで一番高い時給。他に選択肢はない。消極的に勤め先を選んだ代償として、鬱憤が私の中で地層を形成した。苛立ちと不満でできた軟弱な地面は、大雨が一度降れば土砂崩れが起きてしまうに違いなかった。

 つまり、時間の問題だったのだ。

 洗い場のタオル交換頻度について、若い支配人からくどくどと理不尽に説教を受けたことが引き金だった。カッとなった私は、店の裏の生け簀から鰻を一匹盗んだ。ぼろアパートの一室、自分の部屋の玄関で、同じく店からくすねてきた空の焼酎ボトルの中でぬるりと身体を折り曲げている鰻を見て、馬鹿なことをやった時の特有の爽快感と、パートをクビになるのではという恐れの両方に私は身を震わせた。

 けれど、誰も私の蛮行に気づかなかった。そのせいで、鰻は私の部屋に置かれた大きな水槽の中でひそりと暮らすことになった。強奪しておきながら、鰻をそのまま死なせるのはどうしてだか忍びなく、老眼を酷使しながらスマートフォンで「ウナギの飼い方」を必死に調べた。私は鰻がコポリと呼吸する部屋を出て、死して灼かれた鰻から流れ出た脂を漆塗りの櫃から擦り落とし、鰻が糞をする部屋に帰る生活を送るようになった。

 けれどそれが永遠に続くことはなかった。鰻はある時から食欲をだんだんと無くし、動きが鈍くなった。死が近づいているようだった。私は鰻を愛しても憎んでもいなかった。ただ、緩慢に死んでいく姿を見たくはなかった。


 鰻の血を抜き、腹を割き、臓物を取り除く。よく研いだ包丁であっても、鰻の身はガタガタになったし、家庭用コンロの火力で鰻を炙るのは骨が折れた。串打ち三年、裂き八年、焼き一生、と職人の世界で言うだけはあると思った。鰻を盗んでも大丈夫だったのだから、と厨房からジップロックに詰めて持ち出した秘伝のタレをスプーンを使って鰻に塗る。ぼたぼたとタレがコンロの上に垂れた。もともと汚れていたから気にならない。

 私は陶器のどんぶりに盛ったひつまぶしを口に運ぶ。薬味を、出汁をかける。美味しくなかった。涙が出た。それでも私は鰻を完食した。これから食べ終わったどんぶりを洗う。漆塗りのおひつと違って、きっと簡単に洗えるに違いない。


〈了〉

 

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