この世が地獄

黒いたち

この世が地獄

「レナード、ぜったいにわたくしの手をはなさないで」


 ヒメル様の小さな手が、俺の左手をぎゅっと握る。


「もちろんです、ヒメル様」


 俺はやさしく握り返し、ヒメル様のために、にっこりと微笑む。


 王宮の庭、北のはしは日当たりが悪い。

 そこにある林は、昼間でも薄暗く、八歳になったばかりのヒメル様の目には、おそろしく映るようだ。


 しずかな林をふたりで歩く。

 こもれびが緑のこけを転々と照らす。

 ヒヨドリの声は遠く、高い空に消える。


「あった! あれよ、レナード!」


 ヒメル様は俺の手を離し、倒木へと駆けよる。

 苔むした枯れ木に、白い花弁のような平キノコが発生している。


 この林に自生する、ユキヒラタケだ。

 霊薬れいやくの材料になるそれを、ヒメル様はどうしてもご自分の手で収穫したかったらしい。


 霊薬を組みあわせると、魔術が発動する――ヒメル様は、術姫じゅっきと呼ばれるほど、魔術が好きだ。


 いまも頬を上気させながら 、うきうきとユキヒラタケを麻袋に詰めている。


 ヒメル様の護衛ごえい兼おもり。

 それが俺の立ち位置であり、命をすべき任務だ。


「帰りましょう、レナード」


 ヒメル様は、小さな手をさしだす。

 土で汚れた手を、俺はやさしく握り返す。

 帰り道、ヒメル様の透き通った歌声は、しずかな林にうつくしく響いた。

 


 

 そんなことを思い出したのは、あの時と変わらない透き通った歌声が聞こえたからだ。


 とても懐かしい。

 耳をすませ、思いをはせる。


「……俺が戦死してから、もう二年か」

「レナード! 我が騎士!」

「ヒメル様!? ――ひどい煙が」


 咳きこみ、きづく。

 天国にいたはずが、なぜか石壁の部屋にいる。

 目線をさげると、巨大鍋。緑の液体が沸騰し、俺はその上に浮いていた。


降霊術こうれいじゅつの成功よ! きいて、レナード。貴方が守ってくれたおかげで、無事に成人を迎えられた。本当にありがとう」


 二年前に起こったクーデター。

 反王制派に命を狙われたヒメル様を、協力者の元へと逃がし、最後の追っ手を始末したところまでは憶えている。

 受けた腹の傷が深く、あっけなく死んでしまったが、どうやら最期までヒメル様をお守りできたらしい。

 

「……まさか、それを伝えるために?」


 目頭が熱くなる。

 ヒメル様は、麗しく成長された。


「ああ、レナード。現世に未練みれんがおありでしょう」

「いいえ。今は天国で、穏やかに過ごしています」

「まあ。どのように?」

夢羊ゆめひつじを飼い、読書をし、たまに昼寝など」


 夢羊はカラフルだ。

 雨上がり、いっせいに放牧した群れは、下界から見ると虹になる。


「現世で生きた年数だけ、天国で過ごせます。一日ずつ若返り、赤ん坊に戻れば転生です」

「……よみがえる方法があっても、貴方は断るのでしょうね」


 俺は晴れやかに笑う。自分のため――そして、ヒメル様のために。

 微笑むヒメル様の、輪郭がぼやけた。別れが近い。


「レナード、これを!」

 

 ヒメル様が何かを投げる。とっさに手を伸ばすが、きっとさわれない。しかし手ごたえを感じて、驚きに目をみはる。


「これは……黒猫の死骸?」


 閃光が弾けた。

 俺は黒猫になった。


「は!?」

「貴方が強情だから、使い魔契約を結んだわ。今日から私も死霊術士ネクロマンサー……」

「――自己中のクソガキのままじゃねーか! やっとおまえから解放されて、天国でごろごろしてたのに!」

「レナードが死んで、悟ったの。欲しければ、自ら行動すべきだと」

「生前に告白は断っただろ! もう一回死んで、天国に帰る」

「あら。術士の命令無く、使い魔は自殺できないわよ」

「ならば命じさせてみせる。どんな手を使ってでも」

「私は二度と貴方をはなさない。ほら、マタタビよ」

「ふざけ……にゃあ~ん♪」

 

 無防備な腹をなでられる。

 なけなしの理性で爪を立てるが、あいつは楽しそうに頬を緩めただけだった。

 

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この世が地獄 黒いたち @kuro_itati

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