普段静かな私の夫は夜になると豹変する【KAC20245】

睡蓮

遠い昔からの記憶

「おかーさん、おてて、はなさないで」


 小さい頃の私はお母さんが大好きで、いつも手を握っていた。否、握っていたかった。

 母の手は若い頃から野良仕事をしていたせいで父と同じくらい指や関節が太かった。

 逞しい掌は私をガッチリ包み込む安心感をもたらしてくれた。 


 仕事に家事、私を含めた三人の育児に忙しく、握っていた手はすぐに離され、私は頬を膨らませていた。

 小さい頃の写真にそんな顔をしたものが何枚かある。



富子とみこ、お願い、離れないで」


 小学校に入るか入らないかの頃、東京に連れて行ってもらったことがある。

 母の妹が東京で働いていて、結婚することになり、披露宴に呼ばれたのだ。


 私はもちろん母にとっても東京は初めてで、右も左も分からずにウロウロしていた。そんな私を母は何度も離れないように注意していた。


 そもそも東京駅のような大きな駅なぞ見たこともないから、興味がどうのこうのよりも建物の広さと人の多さに驚いて足が動かなくなっていた。

 今後、あの言いようのない不安感を味わうことは宇宙へでも行かない限り味わえないだろう。



真史しんじ、離さないから」


 高校生になって、私は初めて異性と交際をした。

 告白は彼からだったけど、その人柄と優しさにあっという間に虜になってしまった。


 初デートは近所の河川敷という何とも味気ないものだった。それでも彼にメロメロだった私はずっと腕を組み、体を寄せて歩いていた。


 話題に乏しい田舎だからあっという間に両親へ私達の交際は伝わり、二人から学生のうちはをしないようにと厳命された。


 をする場所もないから、清い関係のまま私は卒業後就職した。



「あと一回だけ……離れちゃいや」


 あれ程好きだった真史は東京の大学に進学したらパタリと連絡が途絶えた。

 スマホも携帯電話もない時代だったから、気軽に連絡は取れなかった。


 初恋が自然消滅した後、二十歳前に親戚から見合い話があり、両親が大いに乗り気で顔を合わせる前から結婚が決まっていたような感じだった。


 夫となった人物は真面目だけが取り柄の物静かな人だったが、ベッドに入ると豹変した。

 初めての日からカラダ中が蕩けるような感覚に陥り、連日連夜お互い求め続け、半年後には妊娠が判明、同級生の誰よりも早く母になった。


 同窓会で真史に会った時、私とは一言も話してくれなかった。



麻里まり友里ゆり、離れてはだめよ」


 双子の母となった私は仕事を辞め、子育てと家事に専念する生活になった。

 時折、専業農家である実家の手伝いに子連れで行くと、田んぼや藪にマムシでもいたら大変なことになるのでいつも眼を離さないようにしていた。


 特に麻里は活発で、一卵性双生児とは思えない程、落ち着いている友里との差がハッキリしていた。運動の麻里と勉学の友里。


 長じて、麻里は海外でスポーツトレーナーとなり、友里は東京でOLとなった。



「あなた……離してはだめ」


 私の手を握る夫の力が徐々に弱くなる。

 もう先は長くない、いや、いつ事切れてもおかしくない。


 子供達が自宅を離れた数年後、夫が病に倒れた。

 まだまだ若いと思って無理をしたのだろう。一時はそれなりに良くなったと思っていたのだが、再発してしまった。


 病院のベッドで私ができるのは今の思いを伝えることだけ……

 夫の人生が振り出しに戻ったことを教えてくれたのは冷たくなった手だった。



「離してくれませんか」


 夫の死後、私は生活の糧を得るため食品工場で働いた。

 週に四日は工場勤務、残る三日は実家の農作業という生活が何年も続いた。


 そんな時に納品先の男性から交際を申し込まれた。

 私が愛する男性は夫一人と決めている。そもそも普通の女性が一生掛けて経験する回数の数倍は肉体的満足を味わった。夫とは新婚当初から変わらぬペースで愛し合っていたのだ。


 私の手を取って良いのは夫だけ。

 服の裾を掴む手を振りほどいて走って逃げ出した。


 私の会社の社長はとても大切にしてくれて、納品先とは縁を切り、結果、私は体が許す限りここで働かせてもらえた。



「離してごめんね」


 真史の訃報を聞いたのは私が家で草むしりをしている午後だった。

 その前年に高校の同窓会をした時、彼が病に伏せっていると聞いた。


 何十年も話していないとは言え、初恋の人だ。

 見舞いに行った時には既に回復の見込みはなく、彼の妹が病床に寄り添っていた。


 生涯独身だったと言い、初恋を拗らせたからそうなったと言われた私は思わず彼に謝ってしまった。


 妹さんから恋愛は早い者勝ちだから気にしないで欲しいと言われ、真史と結婚していたらどんな生活をしていたのだろうと思うと複雑な気持ちになった。


 妹さんの厚意で拾った彼の骨は随分細く感じた。



「離れていたけどまた会えるね」


 私の周りには二人の子供夫婦と孫、玄孫、合わせて十七人がいる。

 代わる代わる手や足を擦ってくれているけど、感じているのは懐かしい声だ。


 幻聴? いや、紛れもなく夫が私の耳元にいる。

 今日まで毎日聞いていたかのようにすんなり心に入ってくる。


 寂しかっただろう、辛かっただろうと語ってくるけど、彼の声を聞いたらそんなものは全て飛んで行ってしまった。


 もう二度と貴男と離れないから。余計なことは話さないで、これから話す時間は沢山あるから。



「子供達と離れちゃったね」


 夫と二人で麻里や友里が泣いている姿を見ている。

 いつかは誰もがそうなるのだから悲しむことなんてないのに。

 離ればなれになっても心は繋がっているのだから。


 これから二人だけの新しい生活が始まると思うと悲しみよりもワクワクする。

 末永く愛して頂戴ね。


 貴男のために何十年も大事に操を守ってきたの。

 貴男がいなかった分、利息を付けて愛して貰いますからね。

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