転生したらペンでした

隠井 迅

変身

 ある夜、榑林治虫(くればやし・おさむ)が午睡から目覚めた時、自分が変化しているのに気が付いた。彼は頭も手足さえも少しも動かす事ができなかった。

 ところで、何故に変わってしまっている事が分かったかというと、鏡に映っている自分の細長い姿が見えたからである。

 治虫は、たしかに、〈ヒョロガリ・黒眼鏡〉ではあったものの、色白で肌黒ではない。

 しかしながら、真っ直ぐに鏡に向かっていた治虫の視線が捉えていた、普段の肌色とは全く異なる漆黒の身体は、自分の目の前で部屋の照明を反射して輝きを放っていたのである。


「僕は一体どうしたのだろう?」

 そんな風に彼は思った。どうやら夢ではないらしい。


 治虫は、一本の黒い万年筆になっていたのである。


 彼は、こうなる前の記憶を思い出さんとした。


 治虫は、大学の合格祝いとして家族から贈ってもらった「MONBLANC」の万年筆を片手に、ノートの上にミミズがのたくったような文字を幾つも書き続けていた。

 治虫の将来の夢は漫画家になる事なのだが、デビューした暁には、この万年筆でサインをしようと企み、カッコいいサインの考案にひたすら励んでいたのである。


 ようやく納得のゆくデザインが出来た時、階下から自分を呼ぶ母の声が聞こえてきた。

 姉が仕事帰りに、デパ地下でケーキを買ってきてくれたらしい。


 治虫は、天辺に大きな栗が載っている、大好物のショートケーキを持って自室に戻ると、描きかけのネームの続きに取り掛かった。


 目下、治虫が描いているのは、フランスとイタリアの国境に聳え立つ、万年雪に覆われた「白い山」に挑戦する若き登山家のバディものであった。物語は、二人組の一人が足を滑らし、もう一人が仲間の手を掴んだ所で、治虫は、吹き出しにこう書いた。


「俺の手を離さないで」


 だが、この先、どう展開させるかで、治虫は悩んでしまった。

 

 煮詰まった治虫は、ちょっと気分を変えようと思って、一冊のお気に入りの本をベットの下から取り出すと、大きな栗を頬張りながらズボンを膝下まで下ろした。

 

 その時である。

「ねえ、オサム、ちょっといい……」

 ノックもせずに、姉が、突然、部屋に入ってきたのだ。


「ん、あぐぐ」

 慌てた治虫は、足を滑らせ、盛大にひっくり返ってしまった。それから、下半身丸出しのまま、背中から床に落ちると、その拍子に飲み込んでしまった大きな栗で喉を詰まらせてしまったのである。


 薄れゆく意識の中で、治虫はこう思った。


 姉さん、お願いだから、誰にも話さないで、と。

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転生したらペンでした 隠井 迅 @kraijean

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