ep.2 節酒ですけど何か? 

 人は何ゆえ、お酒という魔法の水に引き寄せられるのだろう?


 …いや、この場合「人は」などとよそ様を巻き込んで一般論にしてはいけない。アルコールが苦手な人もいるワケだし、お酒の魔力に取り憑かれてしまったのは僕自身なのだ。ということで訂正します。


 何ゆえ、お酒という魔法の水に引き寄せられるのだろう?


 それはつまり、そこにお酒があるからである。いや、この答えは正確ではない。なぜならもしもそこにあるのが例えばポカリスエットだとしても、やっぱり僕はお酒を求めて彷徨さまよってしまうからだ。

 それはつまり、遺伝だからである。いや、この答えも正確ではない。実際僕の両親は大酒飲みで、僕は幼い頃から晩酌でへべれけになる親の姿を見て育ったいわゆる「アダルトチルドレン」ではあるが、2学年上の兄は僕のようなアルコール依存症ではないのだ。決して遺伝で片づけてはいけない。

 それはつまり、現実世界がしんどいからである。世の中しんどいことが多過ぎて、つい現実逃避したくなるのだ。これは間違いではないが、やはりベストな答えとは呼べないだろう。この理屈がまかり通るなら地球上の人間ほとんどすべてが酒浸りになってしまうが、アルコール依存症患者というのはまだまだマイノリティな存在に過ぎない。

 それはつまり、自分に自信がないからである。なるほど、これはだいぶ正解に近づいた気がする。人間誰しもひとつやふたつはコンプレックスというものがあろうが、僕はその塊のような男だ。運転免許を持っていないこと、正社員として働いた経験がないこと、大学を中退していること、運動神経が鈍いこと、年々メタボになっていること…。コンプレックスで塗り固められた僕は人とコミュニケーションをはかる際、己に自信をもたらすアイテムが欲しかった。劣等感をやわらげる道具が欲しかった。そこですがったのがお酒なのである。

 酔ってさえいれば、僕は饒舌じょうぜつになり無敵の境地になれるというものだ。ポジティブな思考を手に入れたような気がする。そうやってお酒という道具がコンプレックスを補うのに最適だと錯覚し、昼夜問わずに飲み続けた。その結果、僕の「お酒を飲む」という行為は嗜好しこうの枠を大きく外れ、僕はお酒がないと何もできないただの病人になってしまった。


 というワケで、僕は「アルコール依存症」である。言うまでもなくこれはアル中、即ちいわゆるアルコール中毒のことだが、「中毒」の「中」は「毒にあたる」という意味だ。依存症は食中毒のように物理的に毒成分を摂取して機能障害を引き起こしている状態ではないので、アルコール中毒と呼ぶのは正しくない。けれども僕ら依存症者はあえて分かりやすく、または説明するのが面倒なため、自らを卑下するニュアンスを込めて「アル中」と呼んでいる今日この頃だ。

 そのアル中の僕には都合3度の入院歴がある。いずれも依存症の回復治療のための入院だったのだが、退院した現在に至っても完全断酒というストイックな生活をしているワケではない。以前ほどではなくなったとはいえ、夜な夜な自宅で酎ハイを飲みあさったり、ごくまれに近所の居酒屋で焼き鳥なんぞをつまみに地酒をたしなんだりと、世俗にまみれた暮らしをしている。

「何だ、結局治ってないんじゃないの?」

 その指摘は甘んじて受け入れねばなるまい。はじめのうちこそアルコールとたもとを分かつことを目指した僕だったが、案の定そんな生活は長く続かなかった。できないと思ったことは素直に諦める僕は目標を下方修正し、今度は「節酒」を心がけるようにした。そう、まるで別れた彼女へ未練を残すように、僕はお酒との「適度な関係」を築くべくあれこれ画策しているのである。


 節酒。それは文字通り「節度ある適度な飲酒」である。さて、その量たるはいかがなものか。

 厚生労働省が推進する国民健康づくり運動『健康日本21』によると、1日平均純アルコールで約 20g程度がその値なのだそうだが、これはアルコール度数5%のビールだと500㎖のロング缶1本、7%の酎ハイだと350㎖缶1本とな。

 ううむ。果たしてこの量で納得するアル中がいるだろうか?

 思わず頭を抱えたくなるが、とにかくそういうことらしい。これならいっそのこと断酒したほうがいいような気もする。いずれにしても僕にはまだまだ遠すぎて手が届かない目標なので、やはり己の器に見合ったレベルを考えてみる。

 というワケで、とりあえず焼酎をやめてみた。

 30代の頃はほぼ毎日、焼酎を飲んでいた。自宅では麦焼酎、居酒屋などでは芋焼酎をそれぞれロックで飲み分け、いつも酩酊していた。人によってはよく「焼酎は酔わないし、翌日も残らない」と言うが、少なくとも僕の場合はべろべろに酔っ払い、ふらふらの二日酔いになったものである。

 僕がアル中だと言うと、よく「じゃあお酒強いんですね?」と訊かれることがある。けれども自慢じゃないが、僕はお酒にひどく弱い体質ですぐに泥酔してしまう。そして気分が良くなり悦に入り、あとはもうひとりひたすら夢の中を浮遊する時間が続く、といった具合である。凶暴になることこそないものの、酔っ払っているのだからそりゃもう支離滅裂だ。僕の気分が良くても周りの人の気分はさぞかし良くないだろう。そしてあるとき突然、まるで気絶するように眠ってしまうそうなのだ。

「そうなのだ」というのはこれがまさしく伝聞だからで、僕にはお酒を飲んで酔っ払っているときの記憶がまったくない。いわゆる「ブラックアウト」。僕はもう、睡眠時間も合わせて人生の半分くらいは記憶がないんじゃないかと思うほどだ。粗相したことも、人の顔も、お金をいくら使ったかも、まるで覚えていない。重症である。このろくでもない酔いかたは、節酒している現在でもままあることなので、引き続き注意が必要だ。


 そんなこんなで僕なりの節酒にいそしんでいるワケで、最近はアル中あるあるである「離脱」に悩むこともなくなった。これはいわゆるひとつの禁断症状だと思っていただいて間違いはないのだが、適切でないとかその他オトナの事情で現在医学的にその呼び方は使われておらず「離脱症状」というのが一般的なのだそうだ。

 まあ普通、禁断症状とかいえば手が震えるアル中を連想する方が多いと思うものだが、実際震えるのは手どころの騒ぎではない。末梢神経がやられているので足の指先などに、震えを通り越して痛みを覚える患者も少なくないのだ。とてもジェンガなんぞで遊んでいる場合ではない。

 ただ少なくとも僕に関しては、若干左手に痺れを感じるときがあった程度だが、現在ではそれもなくなった。それよりも猛烈に悩まされたのは、吐き気だ。

「それ、ただの二日酔いでは?」

 二日酔いと離脱症状の定義の違いを説明するのは容易ではないのだが、とにかくこの吐き気、深酒をした翌日午後から夕方になると突如現れて僕に襲いかかる。そしてお酒など二度と飲むまいという気分にさせてくれるのだ。

 それともうひとつ、強烈な脱水症状。これはもうほとんど砂漠の迷子といっても過言ではない。2ℓでも3ℓでも水だのお茶だのコーラだのを飲む。そんなに飲めばそりゃお腹はたぽんたぽんになるし、当然下す。何を飲んでも吐き気は治まるどころか激しくなり、吐く。上からも下からもエラいことになる仕組みだ。

 ただ唯一、この惨状を回復させてくれるものがある。アルコールだ。

 何を飲んでも気分の悪さを増幅させるだけだった喉の渇きが、ビールや酎ハイを飲むとすっと消え去ってしまう。吐き気の波がさっと引いてしまう。そうやって負の連鎖が続いていくのだ。


 節酒を心がけて以来、こういった離脱に苦しむことはないものの、相変わらず僕はお酒を飲んでいる。お酒を飲んでいないときの僕は、依然として自分に自信が持てない。くさむらに隠れた手負いの小動物のように、周囲の様子をうかがっているのだ。この不確実感はすべて自分の貧弱なココロにあるに違いない。失敗を恐れ、石橋を叩いても渡らず、問題を常に先送りする僕のココロは、確実に飢えている。


 僕は何ゆえ、お酒という魔法の水に引き寄せられるのだろう?

 それはつまり、僕が弱い人間だからである。

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ポンコツ日和 ~アル中舞台役者、社会復帰を目指す~ 酔いどれ天使 @YOIDORETENSHI

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