慈雪観音

瑞崎はる

慈雪観音(ユキオンナ)

 ここで見たことを誰にも話してはいけない。

 もしも話したなら、お前を殺します。


 ―――――はなさないで。


 それは、十歳頃だろうか。思い出しても辛いだけの日々。その頃、俺には生傷が絶えず、いつも腹を空かせていた。


 俺はヤクザ者の男と生活していた。おそらく母親の愛人だったのだと思う。虎のようにしなやかな筋肉を纏い、凶暴な笑みを浮かべていた。


 俺の母親は十代半ばで俺を生み、当時、いわゆる水商売で生計を立てていた。俺は父親の顔も祖父母の顔も知らない。ある日、母親の住むアパートにやって来た二番目の男は最初の男を追い出し、母親をいいように扱い、身の回りの世話をさせ、働かせ、金を毟り取った。俺の母親は綺麗な女だったが気が弱く、頭の悪い女だった。


 その男は龍に乗った女の刺青を背中一面に入れていた。儚げな…それでいて酷く煽情的な半裸の若い女。それは【騎龍観音】を模したものらしい。騎龍観音は沸き立つ雲に囲まれ、龍の上に在し、恵みの雨を降らせるという。


 …男の顔は覚えていないのに、その刺青の女の顔は、はっきりと覚えている。


連二れんじ、見たいか?」


「うん」


 男は着ていた服を脱ぎ捨て、隆起した筋肉を見せつけるように剥き出し、自慢げに背中の刺青を露わにした。


「お前も脱げ」


 男はニヤニヤしながら言った。

 その後、何があったかはよく覚えていない。

 おそらく、男の機嫌を損ねるようなことがあった。


 極寒の冬の夜。


 シャワーで冷水を浴びせられて全身びしょ濡れの俺は手足を縛られ、何も身に着けないまま、アパートの狭いベランダに閉め出された。


 ―――――そして、俺はあの女に会った。


 雪のように白い肌。

 汚れなき白い装束。

 幸薄そうな白い女…


 シンと凍てつくような冬の夜。いつの間にか現れた見るからに妖しい女は、裸でぶるぶる震える俺の隣に立っていた。


「お前、名は何というのです?」


 粉雪の舞う中、女が問う。


「連二」


「レン、ジ?」


「連続の連。連なるが二つ」


 連という漢字は最近習ったばかりだ。俺の通う小学校では習っていない漢字は使わないという妙な決まり事がある。連という字を習ってから、俺はこれまで書いていた『冬月れん二』から、『冬月連二』へ、名前の全てを漢字で書くようになった。


「つら、つら」


 何がおかしいのか、女は白い息を吐きながらホホ…と微笑わらった。


連連つららは眷属。助けてあげましょう」


 着物の裾を吹きすさぶ風にはためかせ、夜目にも鮮やかな白い腿を晒した女は、ベランダの閉じられた窓に手をあてる。窓はたちまち白く凍りつき、カシンカシンと音を立てて砕け散った。


「何だ?連二、貴様…」


 部屋の中にいた騎龍観音の男が、ベランダに近寄って来るのが白い女の肩越しに見えた。


 …危ない。逃げないと殴られる…


 俺の心配をよそに、女は自ら男にすり寄っていく。男に口付けるように顔を近づけ、ふっと息を吹きかけた。


「アッ」


 その途端、興奮して赤らんでいた男の顔が見る間に真っ白になった。凍りついた丸太のように体が硬直し、ゴトリとうつ伏せて動かなくなる。


「し、死んだの…?」


 女は俺を振り向き、静かな声で告げた。


「ここで見たことを誰にも話してはいけない。もしも話したなら、お前を殺します」


 俺が頷くと、女は「はなさないで」と耳元で囁いて、消えた。


 ――――その晩は百年に一度の大吹雪となった。


 騎龍観音の男は飲酒していたこともあり、その晩に多発した屋内での低体温症による凍死の一つとして処理された。



 ※※※


 ―――――十年以上の月日が流れた。


「パパは雪女を見たことがあるんだよ。いや、あれは観音様だったのかもしれない」


 俺は読み聞かせていた絵本『雪女』を閉じ、眠ってしまった女の子を撫でながら、あの雪の晩を思い出し、独り語る。


 …そう言えば、あの白い女の面差しは刺青の観音様によく似ていた。


 艶めかしく、妖しく、美しい女。

 あのヤクザ男の背中の騎龍観音がするりと抜け出し、具現化したように思えた。


 …もう一度、会ってみたかった。


 恐ろしいけれど、ずっと忘れられなかった。あれが俺の初恋だったのかもしれない。バツイチ子持ちだった深雪に目をつけたのも、身寄りがなく、何でも言うことを聞き、愚かで、死ねば高額の死亡保険金が手に入るからという理由だけではない。色白でほっそりした容姿があの女に似ていたからだ。


 …でも、深雪より娘の方が…


 妻の連れ子の雪那ゆきなは母親よりも顔立ちが整っていた。おとなしく儚げな印象なのに妙な色気のある子供だった。もう少し大きくなれば、あの女ように美しく育つのだろうか。その想像は胸を熱くする。そうなればいいのに。


 ――――その時。


「はなさないで、といったのに」


 あどけない声が沈黙を破った。


「え?」


 眠っているとばかり思っていた女の子が目を開けて、じっと俺を見据えていた。身を起こし、顔を寄せ、ふっと白い息を吹きかけてくる。


「さよなら。つら、つら」


 すうっと体が冷たくなる。

 全身の血が凍りついた、気配がした。


 …ああ、そうか。


 薄れゆく意識の中で、俺はあの女の言葉を思い出す。


 ―――――はなさないで。


 最後に脳裏に浮かんだのは、妻でも連れ子の雪那でも白い着物の女でもなく、男のたくましい背中に彫られた観音様のたおやかな御姿だった。

 俺の観音様が降らせるのは雨ではない。もっと冷たく、もっと美しく、もっと儚い…


 …嗚呼、降り積もる。恵みの雪が。俺に。



【完】

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慈雪観音 瑞崎はる @zuizui5963

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