五円玉

高黄森哉

五円玉


 五円玉を飲み込みたい気分だ。今、猛烈に硬貨を飲み込んでしまいたい気分だった。試しに、五円玉を咥えると冷たい味がした。


 あたりはすべて晴れている。とても、寒い午前中だ。それなのに赤色がかっていた。風景ではなく、温度感でもなく、真っ赤な背景が僕の後ろにそびえている。とても、一様に真っ赤な壁である。


 五円玉は真っ赤な唇を冷たくした。口から離すと、半円の感覚が皮膚に残り続けた。僕は間接キスを思い出した。そうだ、間接キスといえば、この硬貨は様々な人につままれている。だから実質、僕の舌先は、幾千の人間により、間接的に触れられたようなものだ。


 カーっと熱い思いがこみ上げた。自分は世界とつながっているんだ。人と密着しているんだ。この孤独が、ようやく解消されそうな気がした。だが考えてみれば、これが社会と接触する唯一な方法の時点で、こっちは孤立しているといえよう。


 頭蓋の内側から音がした。それは均一な高音だった。なにも語らず、しかし示唆に富んでいる。それは救難信号のなれの果てかもしれず、そして、それは、誰かの心電図かもしれなかった。僕は、その赤色の叫びを無視することは出来なかった。


 頭蓋の中にある宇宙を走査して、一つの星で骨を見つける。人ではないなにかの全体骨格。頭部は哺乳類というよりかは爬虫類に似ている。宇宙服からヤギのような角が突き出ており、角に刻まれたバロック式の図案を解読すると、彼の半生が現れた。


 彼は、この星で生まれ育った。彼は、宇宙飛行士ではなかった。なのになぜ、宇宙服を着ているかというと、それは宇宙旅行の憧れだった。彼は、この小さな星から出ることはないと知っていたが、かといって宇宙服は決して偽物ではない。真空状態や高音低温に耐えうる性能がある。それなのになぜ、この生き物は、外へ出なかったのだろう。


 生前は学者だった。博士号などは持っていないが、学者と呼んで差し支えないほどの知的さを具えていた。だから、彼が外へ出なかったのは決して知能の問題ではない。身体面も健康で、虫歯もなく、目もよく、耳も綺麗で、声だってよく透った。


 ひとえに資源の問題だった。計算上、この星にある材料では、どうあがいたって、船を建造することは不可能である。そのために、彼は宇宙旅行を諦めなければならなかったのだ。


 彼は目が良かった。焚火の前で夜空を見上げると、様々な交流が視認できた。宇宙ステーションの中での交流や、太陽の向こうの星で開かれるパーティが、視界できらきらと輝いていた。


 彼は耳が良かった。月の裏側にいる恋人の甘いささやきや、蚊の鳴くような声で助けを求める少年と助けに来た男の会話を、耳にすることが出来た。それらは、宇宙の真空を飛び越えて鼓膜をくすぐった。


 彼は、もう一つ、生まれ育った星から脱出する案があった。それは救難信号を送ることだ。この広大な宇宙では信号は様々な雑音にかき消されてしまう。だが、ひょんなことから届く、というのもあり得る。実際、そうやって信号を拾われた宇宙飛行士の話を、彼は耳にした。


 信号機を竣工させてから、長い年月が過ぎた。機械は間断なく、信号を発し続けていた。その長い年月で、多くの同志たちが救われていった。彼は心から祝った。それでもその言葉は届かない。彼のように、耳の良い種族は、この宇宙には残っていないのだ。


 絶望。それは、星から出られない絶望。それは、寿命が近づくにつれて、この宇宙から出られない絶望へと移っていった。死ぬことはなんの解決にもならない。それに、彼は耳を塞いで、心だけで同志を見つけ、またしても暗い気分に押しつぶされた。


 目の前にある一輪の花をつぶした。この花はずっと一輪でいた。その花は、なんの罪も犯したことのない無垢な植物だった。その命はたった今、永遠に救われることなく、散ってしまった。真っ赤な花びらが、風にさらわれて、地平線を目指す。しかし、惑星の表面から逃れることは出来ないだろう。


 これだけで彼にとって十分だった。つまり、救われない理不尽な人生を観測することで、この世界には、慈悲などないのだと証明した。その日、万物の持つ意味はすべて無に帰した。


 すなわち、人生という名前に騙されていたことを知った。人生というのは言葉だけで、本当は、ある存在が人生と呼び自由勝手に区切った時間が、空々漠々と流れているに過ぎないのである。川の流れに意味がないように、時間は無意味に花びらを運んだ。


 五円玉を飲み込んでしまいたい気分だった。人との繋がりの輪っかを、確かな実在として体内に宿したい気分だった。そうすることで、一枚隔ててでも繋がり合える運命を保障したい。


 隕石が降ってきて、小骨を蹴散らした。五円玉だった。塵は宇宙まで舞い上がり、軌道上に停滞した。一部は、重力圏を脱して、宇宙への航行を始めた。その粒子のひとかけらは、ある生物のひとかけらでもあった。だが彼は死んでいるから、もうすでに意味はない。五円玉がもたらす繋がりは、所詮、それだけの効果である。


 五円玉は、食道にて、唐突に途中で横に向きを変えて、喉につかえた。なぜ、今日がこんなに赤く感じるのかというと、血の日だからかもしれない。だが、苦しいながらも決して、円盤が気道を塞いでしまうということはない。真ん中にある小さな穴が、酸素や二酸化炭素、窒素の通り抜けを許した。


 僕は、こんなにも苦しいのに、死ぬことも出来ない。また、外見でわかることもない。おそらく、どんな医者でも、この円環構造が首を人間の内側から締め付けていることを発見しえない。それを取り除くことの出来るのは、宇宙飛行士のみだ。しかし、宇宙飛行士は来ない。信号を拾うかどうかは、まったくの偶然でしかないのだから。

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五円玉 高黄森哉 @kamikawa2001

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