第5話  生牡蠣ワッショイ

 目指すは都営新宿線某駅近くの居酒屋!

 浅草からだと23区の地図的に正反対の場所だ。ぶっちゃけ、「原宿から直行したい」と思っていたが、荷物を持ったまま行くのはちょっと怖い狭さの店なのである。


 そして第一関門。


 地下鉄浅草駅の入り口があちこちにあるのはいいけど、どれが都営浅草線のなのかが分からなくて迷子になりかけた……。

 言い訳のようだが、私は神奈川生まれ神奈川育ち、神奈川と東京と埼玉にしか住んだことの無い生粋の首都圏民だ。

 大学4年の時には卒業制作のために、東武の浅草駅から福島県に通ったこともある。

 東京の地下鉄がややこしすぎるんだよ!!(新卒時代、都営新宿線浜町に通っていた人間の叫び)


 普段は歩かない距離を歩いたため、都営新宿線に乗って椅子に座った途端、娘は私の肩に頭を預けて寝てしまった。

 あれ? さっき「満員電車気持ち悪くて無理」とか言ってた気がしますがね……?


 駅に着き、予約の時間にはまだ早いがお店に行ってみると、大丈夫ですよということで席に案内された。


 この店の印象は「二段ベッド」である。行ったことがある人なら頷いてくれるだろう。

 限られたスペースにできるだけ席を作るために、「す、すげえな……」と思わず呟いてしまいそうな構造になっているのだ。


 娘がお刺身を食べたいと言ったので3種盛りを頼もうとしたが、「おまかせ盛りにしていただければ人数分の牡蠣フライをお付けしますよ」と提案され、悩んだ末に「牡蠣フライはどうせ頼むつもりだったし」とお高いおまかせ盛りを注文。

 他には焼き牡蠣やポテトサラダ、チャンジャにご飯などを注文。娘はマグロの刺身と生牡蠣以外は眼中にないらしい。


 そして、娘念願の「吸い放題」の生牡蠣がお通しとして出された(現在このお店では「過剰摂取による体調不良と近年の原材料高騰の為」このサービスは終了している)。

 殻の上の生牡蠣にレモンを搾り、ちゅるん……あれ、前に食べた時より美味しくないな、と私は首を傾げた。前はいくらでも食べられるぜー! という美味しさだったけど、今日はちょっと生臭みを感じた。

 首を傾げつつも、「あったーらしい、カキが来た♪」という調子で娘とちゅるんちゅるん牡蠣を吸いまくる。

 レモン汁やわさび、ポン酢などトッピングを変えつつ、6個くらい入っているお皿を6回ほどお替わりしただろうか。

 覚えておいて欲しい。ここは大事な伏線である。


 お刺身は魚を得意とする店だけあって美味しく、マグロ好きの娘は1切れ食べて口を押さえて絶句していた。マグロが好きではない私ですら「美味しい」と思ったほどだ。

 ただ、まあ居酒屋にありがちだけど、1人前はお刺身1切れなんだね……。2人前だから2切れずつ乗ってるけど、5種でこの値段かあー、というお値段だった。美味しかったのは間違いないので、ギリギリ許容するけども。


 そして、私の注文したツブ貝のチャンジャが出てきた。キムチは食べられないけど、チャンジャは食べられる。白いご飯を食べながらチャンジャを食べつつ、「夫がこれ好きなんだよなあ。前にも私は友達と来たけど、一緒に来られれば良かったのに」と思った。


 本末転倒にもほどがあるでしょ……。


 夫から離れるために一泊してるのに、夫の好物を見て「食べさせてあげたい」と思ってしまう。


 滅多に飲まない日本酒を飲みながら、私はここでストンと胸の中のつかえが落ちた。


 結局、何度も何度もこじれたり恋人時代のような恋愛感情を持たなくなったりしても、夫の存在は私にとって「いて当たり前の人」なのだ。

 好物があれば食べさせてあげたいと思うし、どこへ行っても思い出ばかり。


 夫の存在は、私から切り離せるものじゃない。

 そう思ったら、今まで張っていた意地がすうっと消えた。


 牧野先生、凄いです。

 たった数日で何が変わるかと思ったけど、たった1日で私の認識は根底から覆りました。


 心の中で牧野麻也先生に御礼を言いつつ、家に帰ったらここ最近の態度を夫に謝ろうと素直に思えた。



 そして、娘の食べたいものと自分の食べたい物を好き勝手に注文した結果、小学生と大人ひとりで9990円というお会計が出てきて、ぶっ飛びそうになった……。



 乗り換えを間違えたりしつつも、なんとか浅草のホテルに戻る。

 あれだけ生牡蠣を楽しみにしていて、お替わりしまくったくせに、娘の感想は「いまいち」だった。しかも焼き牡蠣は「私これダメ……」で、牡蠣フライは食べようともしなかった。

 うそーん、と心の中で悲鳴を上げながらそれらを私が食べたのだが、まあこういうものは食べてみないと好きか嫌いか分からないしなあと納得しつつ、ホテルに帰り着いてしばらくしてから悲劇が訪れた。


 私と娘、ふたり揃って腹痛を起こしたのだ……。

 娘は軽かったが、私は牡蠣を食べて2時間が経った頃トイレの住人になっていた。


「これヤバい。旅行先で救急搬送とか嫌だ!」とバッグの中を必死で捜索した結果、持ち歩いている常備薬の中にブスコパンがちゃんと入っていることで天を仰ぎたいほど感謝した。神様ではなくて、それを入れておいた過去の自分にではあるが。


 ブスコパンは早い話が内臓の痙攣止めである。急性腸炎での救急搬送歴が2桁に近い私が、かかりつけの病院から錠剤で処方して貰って、なんとかそれ以来(腸炎では)救急搬送を免れている。

 救急搬送されてCTを撮ったりしても異常が見られず、生理食塩水とブスコパン点滴で治って、4時間くらいで帰宅するのがいつものパターンなので。


「ノロだったら効かないかもしれないけど、効いてくれ!」と祈りつつ、ブスコパンを服用。幸い、それからしばらくして腹痛は治まった。


 生牡蠣といったら怖いのがやはりノロウイルスで、我が家はかつて夫以外がノロで全滅したことがあるのでその恐怖は身に染みている。

 調べたらノロの潜伏期間は24時間から48時間で、2時間ほどで起こったこの腹痛と激しい下痢はノロウイルスではないと思った。

 しかし、この腹痛はノロではないけれど、ノロに感染していない保証はどこにもない。


 そして、夫のことがスッキリしたのは良かったが、ノロウイルスに怯えながら1日目は終わったのだった。

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母と娘の家出旅 加藤伊織 @rokushou

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