第61話 離さない

 腰から背中の感覚がなく、右足ががしびれていた。軽く息を止めて手探りでレイの額に触れると、そのまま重い手が芝に落ちた。僕の体が持ち上げられるように感じた。ぼんやりとした光とともに舞い上がる。濁っているが温かい空気が取り巻いていた。今僕も還るべきところへと還るのだ。お別れだ。レイは抱いている体が抜け殻になろうとしていることに気づいているのかな。僕は肉体を離れ、地上と離れるほど、意識が薄れていく。さよならだ。レイは僕の体を抱き締めて、涙を隠すように顔を伏せていた。僕はレイとの記憶を失い、魂の流れへと還る。誰もに定められたことだ。思えば自由に生きた数ヶ月だった。もちろん不自由はあったし、たくさんの腹の立つこともあった。理不尽な目にも遭わされた。でもレイとともに濃い時を過ごせた。今この鮮やかな時は終わろうとしているんだ。

 どこに逝くんだろうか。

 地上を見ると、僕の体を抱いたレイが空を見上げていた。どうしても諦めきれずにいたが、彼女は僕の体をそっと地面に置いて、空を見上げて消えていく僕を見つめていた。

 そして、

「逃さないぞ!」

 と叫んだ。

「わたしには見えてるからな」

 手の甲で涙を拭っていた。

 僕は苦笑した。

 レイはいつでもレイだな。

 全身に激しい衝撃がした。

 急にジェットコースターが止まったようなものにも似た、何だか不安と恐怖が混在する谷に落ちた。

 レイの手に淡く光る鎖が握られていた。目でたどると、空に浮かぶ僕のところまで続いていた。まさかとは思うが、僕は首に手を添えた。

 マジか。

 彼女は鎖を片手で巻きつけては引き寄せ、また巻き寄せてを繰り返した。しばらくして右手から鞭がしなるのが見えた。僕の背後で誰かが戻すまいと抱き留めていた。夜空がひび割れ、僕は力任せに戻されようとしている。僕が肩越しに逃すまいとする姿を見ようとしたとき、地上からレイが放った鞭がまわり込んで影を吹き飛ばした。

 気づいたとき、レイに抱き締められていた。彼女が息をするたびに僕の肺が押し潰されそうで苦しい。

「おまえはわたしのものだ。世界の掟なんてくそ食らえだ」


 僕たちは壮大な瓦礫の中に腰を掛けていた。すでに夜深くなろうとしていたが、まだ空は琥珀に煌めいていた。もちろん僕はあの群れにいない。見上げている側だ。あの石ころのせいで僕に何かあるなら、トトの命を救おうとしたとき、とっくに天へ召されていたはずだと思った。

「召されたかったのか」

「いや」

 美月が僕を救おうとしていたような気がしたが、レイの鞭が影を引き裂いたので、結局のところ何とも言えない。帰れたのか死んだのかすらわからない。ただこうして今レイと同じ世界で生きている。

「でもおまえはどこかに召されかけていたんだ。わたしには見えた。おまえを連れて行こうとする影がな」

「どんな影だよ」

「おまえは浮気性だ。女だ。気に入らないのか」

「救われて光栄です」

「そうだろう」

 僕は瓦礫の中から木片をつまみ上げた。まだ腰から背中にかけてズキズキしていたが、しばらくしたら治るだろうという気配がしていた。

「ばあさんの術か」

 僕は何となく歩いて、何となく瓦礫を退かしてみて、何となく二振りの剣を掘り起こしてしまった。

「……」どうしようか。

「シン、聞いていいか?」

「フィリとのことだろ」

 レイはむすっとした。

「白亜の塔を壊さなくても済んだんじゃないかだ」

「白亜の塔を潰すのは彼女が望んだことなんだ。精霊が滅んだ後の混沌の世界を終わらせようとした」

「わからん。ただただ疲れた。風呂に入りたい。シンは好きにしろ」

「好きにしていいのか」

「おまえの命だ」

「好きなところに行くぞ」

「ああ構わない。わたしも一緒に行くだけだ。その間にゆっくりと聞きたいこともあるからな」

「特に話すことなんてあるかな」

「おまえが決めることじゃない」

「そ、そうですね」

 レイは女王から渡された額飾りを付けてみた。なぜこんな高そうなものを渡してくれたのだろうか。

「似合ってるね」

「うるさい」と照れた。

「この剣はどうしようか」

「いらない」

「売れるかもしれない」

「持っていこう」

 僕たちは塔を後にした。

       おわり

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世界のカケラ〜白亜の塔編 henopon @henopon

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