第31話 恋人
僕は老婆の傍まで這うようにして行くと、乱れたベールをそっと上げた。そこにはシワに刻まれた青白い肌、薄い唇の老婆が、穏やかな表情で目を閉じていた。
「動いちゃいけないわ」
老婆は目を開けた。
「聞いてたんですか」
「ええ。初めは剣にまで変わってまで為そうとする夫の野心を封じ込めていたけど、ときどき解放することにしたの。そうしないとわたしが潰れそうになるから。そのときの彼はいいこと話してたでしょ?」
「絵を描いていたときですね」
「あの人が穏やかなときを見つけては好きなことさせてあげた」
「なぜあなたは彼の面倒を見続けたんですか。あなたの夫はすでに狂っている。何をしていたのかしているのかわかっていない」
「でもね、好きな人なのよ。いいときだけを見て悪いときだからと捨てられないわ。自己満足ね」
レイが僕を支えなおした。彼女は女王様の顔を見つめていた。僕はそんなレイの顔を見つめていた。
「ごめんなさいね。わざと嫌なことをして。お嬢さんも傷つけたわよね。それでもわたしはあの人については何も言わない」
「わかりました」
僕はレイと目を合わせた。
「あなたたちはやさしいわね」
レイは僕を抱えてくれた。いなければ老婆の隣で仰向けにならなければならないところだ。
レイの涙が頬に落ちた。
「三つ目のお嬢さん、わたしのために泣いてくれるの?」
僕はレイのぬくもりに甘えているところがある。
老婆に話した。
「ある呪術使いがこの世界を支配しようとした。そして魂の力に気づいた。還るべきはずの魂を集めた」
「でも信じてあげてね。本当にひどい時代だったわ。この世界を支配していた精霊が消し去られた後、人も含めて何もかもが自分たちの好きにしようとした。どこにも寄るべくもない人々は生きるか死ぬかしか選べなかった。わたしたちはそれぞれの魂を繋ぎ止めることで生きながらえるようにしようとしたの。いい方法ではないことよ」
老絵師は惚けた顔を上げて、自分が描いた絵を眺めていた。もう話すこともできない顔をしていた。
女王が見て、
「これでもうおしまい。あなたが終わらせてくれたわ」
「すべて女王様の予定でしたね」
「まさか。買いかぶらないでちょうだい。あなたはわたしの気持ちに触れたの。あのトンネルで。わたしもあなたの近くにいたのね。お互い惹かれたのかしら」
「僕はどうなるんですか」
「生きるわよ」
「死んでいるのかと思いました」
「白亜の塔を行き来できたのはわたしが術をかけていたから。記憶が消えていないのも同じ」
「リングじゃないんですか」
「そんなものに生者と死者の世界を行き来する力があるものですか。でもあんなこと言うべきことじゃなかった。あなたがね、堪えてくれて救われたわ。ごめんなさいね」
「レイに会えました」
「わたしもうれしいわ」
女王様はくすくす笑った。
「わたしはね、偉そうに聞こえたらごめんね、どんな記憶でも忘れてはいけないと思うの。あの人について、もちろんたくさん忘れたいことがあるわ。でもどうでもいいような小さい、ひどいと思えるようなものでも、すべての積み重ねが思い出になる。死ねときに気づくのね」
ゆっくりと瞬きをした。
「三つ目のお嬢さん、これをあなたにあげるわ。あなたのもの。物置を探したの。ずいぶん古いものだから探すのに苦労したわ。途中わたしの思い違いかもしれないと諦めかけたけど、ようやく見つけられた」
女王様はレイに握らせた。細かなギョーシェに金と銀で彫刻を施した額飾りだった。レイは僕を支える手と反対の手で受け取った。
「結構探したのよ。もう少しうやうやしくしなさいな」
「躾が至らずすみません」
「まじめな子ね。魂はこの世界へ押し寄せてはこない。わたしが管理していたから。塔の琥珀が魂をそれぞれのところに導いてくれるわ。魂の軍を率いて、世界を征服する。あの人は望んだけど、もうそんなこともおしまい。早くお逃げなさい」
陸に棲む者、海に棲む者、空に棲む者が旅立った。圧巻は竜が羽ばたいたところだ。瓦礫から首を突き出し、重い体を持ち上げるようにすると、翼が熱風を巻き起こして空へ消えた。
僕はレイに、
「逃げてくれ」
と告げた。するとレイは力任せに僕の体を抱き上げた。
「マジか」
「マジ」
つづいて琥珀色に染まった空へ魂が解き放たれる。音もなく、まるで粉雪のようだった。久々の自由は戸惑うかもしれないが、苦しみも含めて受け入れてくれればいいけど。
降り注ぐがれきの中、レイは一歩一歩、僕を運んだ。女王様の指がかすかに動いた気がした。
頭上に結界の道ができた。
僕たちは難を逃れた。
僕は聞こえたんだ。
「ただね、わたしは少しうれしかったの。夫が一緒にいられるように剣に封じ込めてくれたんだって言ってくれたから。バカよね、わたしも」
二人で塔が崩れるのを眺めた。押し寄せる埃が、まるで台風のときのような風雨だった。次々それらはいびつに倒れていった。
「でもここだけの話。夫の力で剣になったんじゃないのよ。もう力がなかったの。これはわたしが自分の力で変化したの。あの人よりも大きくしてやるって決めてたから」
僕はレイの膝枕で眺めた。
遠くで火の手も上がるが、こちらまてまは来ないだろう。まるでサイレント映画を観ているようだ。
「痛む?」
「大丈夫だよ。レイは治すこともできるんだな」
「琥珀のおかげ。シンの傷に琥珀がくっついてるもん」
「そうか」
僕の瞼は重い。
「シン、死なないで、お願い」
「死なない。少し眠るだけだよ」
腰から背中の感覚がなく、右足ががしびれていた。手探りでレイの髪に触れると、そのまま手が芝に落ちた。浅く息を吸い込んで止めた。
やがて僕の体が持ち上げられるように感じた。ぼんやりとした光とともに舞い上がる。濁っているが温かい空気が取り巻いていた。今僕も還るべきところへと還るのだ。
お別れだ。
レイは抱いている体が抜け殻になろうとしていることに気づいているのかな。僕は肉体を離れ、地上と離れるほど、意識が薄れていく。
さよなら。
レイは僕の体を抱き締めて、涙を隠すように顔を伏せていた。僕と同じくらい悲しいのだろうか。僕以上に悲しいのだろうか。
「おまえには礼を言わねばなるまい」
うっとうしい。
威厳を見せたまま、絵師の魂も導かれた。もういいって。寄り添うように一つの光が揺れていた。
あれは女王様か。
光は老いた絵師の肩を抱いていたわるように見えた。国ノ王が気づこうが気づくまいが、もう済んだことだが、もっと二人に別の出会いがなかったのだろうかと考えた。
「世界に歪みが生じておる。わしの代わりに、その遺した剣で鎮めてくれ。これからがおまえらの旅だ」
老絵師は命じた。
どこまでも情けないな。逃れるために英雄を気取ることしかできなかったのか。あるときは栄国の王、あるときは憂国の志士。自分を欺くために僕を欺いた。僕を欺くために自分を欺いた。彼女とともに自分自身に立ち向かわなかった。彼女の準備はできていたのに。
僕も消えるんだよ。
勝手に言ってろ。善良なふりをした絵師に頼まれたとしても、約束なんてできない。消えてしまうんだからね。死ぬんだよ。てか、もう死んでるんだ。ひょっとして棺に僕の姿があったのかもしれない。こんなことなら探しておけばよかった。
そんなのはいい。
ただ決まっていることがある。
レイとの記憶も失われてしまうんだろうな。思えば自由に生きた数ヶ月だったよ。そりゃ不自由はあったし、腹の立つこともあった。理不尽な目にも遭った。でもレイとともに濃い時を過ごせた。今この鮮やかな時は終わろうとしているんだ。
どこに逝くんだ。
地上を見ると、レイが僕を抱き締めていた。どうしても諦めきれずにいたが、やがて僕の体をそっと地面に置くのが見えた。空を見上げて消えていく僕の姿を見つめていた。
そして、
「逃さないぞ!」
と叫んだ。
「わたしには見えてるからな」
手の甲で涙を拭っていた。
僕は苦笑した。それでもレイはいつでもレイだな。もし前の世界に戻るんなら、彼女との記憶も。いっそ忘れてしまえる方がいいのか。
それは卑怯だろ。片方だけが覚えているなんて、つらすぎる。どうしてやればいいんだろうか。
全身に激しい衝撃がした。
急にジェットコースターが止まったようなものにも似た、何だか不安と恐怖が混在する一瞬だった。
レイの手に淡く光る鎖が握られていた。目でたどると、空の僕のところまで続いていた。まさかとは思うが、僕は首に手を添えた。
マジか。
彼女は鎖を片手で巻きつけては引き寄せ、また巻き寄せてを繰り返した。僕も抵抗した。右手から鞭がしなるのが見えた。僕の背後で誰かが戻すまいと抱き留めていた。目の前の空間が蜘蛛の巣のようにひび割れ、僕は力任せに戻された。寝転んだ僕の上に細かな破片が輝きながら降り注いだ。右手は誰かにつかまれていたが、僕が肩越しに見ようとしたとき、レイが放った鞭がまわり込むような形で影を吹き飛ばした。
僕は僕の体にいた。レイに抱き締められ、彼女が息をするたびに僕の肺が押し潰されそうに苦しい。
「おまえはわたしのものだ。世界の掟なんてくそ食らえだ」
「死ぬから放して」
僕たちは壮大な瓦礫の中に腰を掛けていた。すでに夜深くなろうとしていたが、まだ空は琥珀に煌めいていた。もちろん僕はあの群れにいない。見上げている側だ。あの石ころのせいで僕に何かあるなら、トトの命を救おうとしたとき、とっくに天へ召されていたはずなんだ。
「召されたいのか」
「そうじゃないけどさ」
美月さんが僕を救おうとしていたような気がしたが、レイの鞭が影を引き裂いたので、結局のところ何とも言えない。帰れたのか。ただレイを恨もうとは思わないけど。
「でもおまえは召されかけていたんだ。わたしには見えた。おまえを連れて行こうとする影がな」
「どんな影?」
「女だ。気に入らないのか」
「救われて光栄です」
「嫌味にしか聞こえん」
僕は瓦礫の中から木片をつまみ上げた。まだ腰から背中にかけてズキズキしていたが、しばらくしたら治るだろうという気配がしていた。
「あの爺さん、死ぬまで自分がしでかしたことにしなかったな」
とレイが言った。
「死ぬまでか。たぶん死んでも認めてないだろ。ある意味幸せなんじゃないか。周りは迷惑だけど」
「意外に女王様も幸せなのかもしれないな。わたしならどうかな」
「ぶち殺してるんじゃないか」
僕は何となく歩いて、何となく瓦礫を退かしてみて、何となく二振りの剣を掘り起こしてしまった。
「……」どうしようか。
「シン、聞いていいか?」
「フィリとのことだろ」
レイはむすっとした。
「白亜の塔を壊さなくても済んだんじゃないかだ」
自爆した。
「とにかくわたしは疲れた。お風呂に入りたい。おまえは好きにしろ」
「好きにしていいのか」
「おまえの命だ」
「好きなところに行くぞ」
「ああ構わない。わたしも一緒に行くだけだ。その間にゆっくりと聞きたいこともあるからな」
「特に話すことなんてあるかな」
「おまえが決めることじゃない」
「そうですか」
レイは王女から渡された額飾りを付けてみた。なぜこんな高そうなものを渡してくれたのだろうか。
「似合ってるね」
「うるさい」
「この剣はどうしようか」
「いらない」
「何かじいさんが話してたよな」
「知るない。わたしは世界のことなんてどうでもいい」
「売れるかもしれない」
「持っていこう」
僕たちは塔を後にした。
おわり
世界のカケラ はじまり henopon @henopon
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